2018/2/18 ハ信仰問答113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節
十誡の最後、十番目の戒めをお話しします。
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない
です。とても具体的ですね。ここでは「欲しくなって盗ったらいけない」と言っているのではありません。盗ったらいけないのは勿論です。けれども、盗らなくても、欲しがるだけでいけない、といいます。心の中で、人のものを欲しがる、自分のものになればいいのに、と考える。あの人にあって、自分にないことで、怒っている。そういう思いを、神様は厳しく窘められています。ただ、何も欲しがってはいけないのではありません。人が格好を見て、自分の身なりに気を遣うとしたら、自分にとっても良い場合が多いでしょう。この「欲しがる」という言葉はとても強い言葉です。心を何かにくっつける、その事ばかり考える。隣人のものを見て、あれが自分のものならいいのに、と願う強い欲望です。ご近所や友だちや回りを見て、自分にはあれがないとすごく損をしている気になる。今の時代は、奴隷や牛やろばでなく、「お隣の家はいいな。お隣の家族はいいな。あの車かっこいいな」、そういう妬みや欲は尽きませんね。そんなことを考えていたら、いつまで経っても決して幸せにはなれません。だから神様は、そういう妄想を禁じます。たとえ心の中で考えているだけでも、禁じられるのです。
問113 第十誡では何が求められていますか。
答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんのささいな欲望も思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ、かえって、わたしたちが、あらゆる罪に心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
この戒めは、神が私たちの心を見ておられるお方だとハッキリ教えています。聖書以外の宗教や国家にも戒めや法律はあります。とても厳しい罰を決めている法律はたくさんあります。けれども、こんなふうに、心の思いにまで踏み込んだ法律は、聖書以外にないそうです。それは、聖書の神が私たちの心まで見ておられ、心の聖さこそを求めておられるお方だと、この戒めからハッキリ教えられます。また、今まで
「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない」
とあった戒めも、そうした間違った行動の根っこには、心の中の間違った欲望が原因だ、ということでもあります。心の中にある
「欲しがる」
思い、自分のものにしたいと強く思い込む間違った願い、それが、殺人や姦淫や盗みやウソになるのです。
今日読んだローマ人への手紙で、パウロは律法が「人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょうと言っています。欲しがってはならない、という十戒の戒めがなければ、パウロはとても真面目な人でした。見た目では、聖く立派な生活を送っていると自他共に認めていたのです。私は盗んでもいない、騙してもいない、ちゃんと生きている、と言えたのです。けれども「欲しがってはならない」と言われて、自分の中を覗いた時に、欲しがったり自分のものにしようとしたりする思いがありました。心の中にある冷たく強い欲望を否定することが出来ませんでした。しかも、それを言われて自分の心を静めようとしても、一向に拭うことの出来ない、拭いがたい強い思いがあることで、自分の罪を認めざるを得なかったのです。
けれどもパウロはその後で、このようにも言っています。
15私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。
自分がしたいと願うことはせず、自分が憎んでいることを行っている。本当は、律法が言うように生きたい。人のものを見ては欲しがったりせずに生きたいんだ。人のものを妬んで欲しがって、生きても決してそれで自分の心は満たされない。私たちが本当に慕い求める正しい生き方は、人のものを全部持てる暮らしではないのです。人のものを欲しがったりしない生き方、心に損や文句を持ったりしないで、心から喜んで、自分の生き方を賢く作ったり、人と分け合う生き方こそ、人の本当の願いなのです。だから神様は、欲しがってはならないと言って下さいました。欲しがってもそれは私たちの本当の願いを叶えてはくれないと思い出させてくださいました。本当に本当に心が願っている聖い生き方、心と行動が一致した生き方へと、私たちを変えてくださるのです。
あるクリスチャンが言っています。
「共感の欠如が、搾取を生む」。
誰かと心と心でつながっていることがないから、人のものが欲しくなる、と言い換えられるでしょうか。妬ましくなるのは、本当は寂しい心の穴を埋めたいからなのかもしれません。もし十分幸せと思えたら、余所の家のものを欲しいとは思わないでしょう。幸せは、私たちが人と比べることを止める時に始まります。私たちの心は、神様と繋がり、人と心で繋がることを一番必要としています。それがなくて、いくらものがあっても、誰よりも沢山のものがあっても、誰よりも幸せな人ではなく、誰よりも淋しい人になるだけです。
イエスは言われました。
マタイ六33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
この「求めなさい」は強い言葉です。人のものを羨むのでなく、でも無欲になるのでもなく、神の国と神の義を強く求めなさい。強く強く、素晴らしい事を、人との繋がりを、神の御心を貪るように求めなさい。比較に囚われない神の国の生き方を強く願いなさい。神の恵みに感謝して、赦し合い、助け合い、分かち合う生き方を慕い求めなさい。イエスからこの心を戴いて喜んで生きなさい。
何かが欲しくなる時、それは本当に自分に必要なんだろうか、自分が本当に本当に欲しいものは何だろうか、考えてみましょう。私たちを本当に幸せにしてくれるのは、比べたり妬んだりする友達ではなく、私たちをあるがままに愛してくれる神様です。そして、お互いの違うままを大事にし合う人、心と心で繫がれる仲間です。そんな関係のほうがみんな幸せです。
人は人、私は私。イエス様が下さるそんな豊かな心こそ、みんなで慕い求めたい宝です。