聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/28 第一サムエル記3~8章「サムエル」こども聖書㊲

2021-11-27 12:56:59 | こども聖書
2021/11/28 第一サムエル記3~8章「サムエル」こども聖書㊲

 前回は、ハンナという女の人のことをお話ししました。そのハンナが、神に祈った末に与えられたのがサムエルでした。そして、ハンナは約束通り、サムエルを祭司エリの家に連れて行き、サムエルを捧げました。今日はこのサムエルのその後をお話しします。

 サムエルは、神を礼拝するための場所で寝ていました。エリはもう年を取って、目が見えなくなっていました。その夜、主なる神様がサムエルを初めて呼ばれたのです。
Ⅰサムエル三4主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、・・・

 しかし、サムエルは自分を呼んだのが、主だとは思わず、エリだと思ったので、
 5エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。…



 エリは眠っていましたが、サムエルも寝惚けたのだろうと思ったのでしょうか。
…それでサムエルは戻って寝た。

6主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」。



 サムエルはまた勘違い、エリもまた眠ったところを起こされて、サムエルは寝ていた場所に戻ります。
 まるでコントですね。

 主も、笑っていらしたのかも知れません。

7サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。
 これはサムエルが主の言葉を聞いた初めての体験でした。そこで、三度目です。
8彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられることを悟った。



 エリはようやく、サムエルが寝惚けているのではなく、主が少年を呼んでいることを悟りました。エリは祭司でしたが、神様はエリではなく、まだ少年のサムエルに語りかけていたのです。エリは、神がもうサムエルを、新しい指導者として選ばれたことを悟ったのかもしれませんね。そこで、エリはサムエルにとても大事なことを伝えます。

「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。サムエルは行って、自分のところで寝た。
10主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 お話しください、しもべは聞いております。
 これがサムエルの祈った最初の祈りです。
この時、サムエルに告げられたのは、決して、うれしいことやすばらしいお知らせではありませんでした。むしろ、祭司エリが、二人の息子のわがままを、放っておいていることへの厳しい裁きでした。ですから、サムエルはその後、朝になっても、主の告げた言葉をエリに伝えることを恐れました。けれども、エリは覚悟が出来ていたようです。

16…「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。

 この時は、本当にサムエルを呼んだのはエリで、サムエルがエリに「ここにおります」と言ったのは、ふさわしかったのです。こうして、サムエルはエリに、主の言葉を告げました。この時からサムエルは、人々に主の言葉を取り次ぐ働きを始めたのです。

19サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。20全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。

 こうしてサムエルは、主の言葉を取り継ぐ指導者となりました。敵との戦いに奮い立たせ、イスラエルの人々の信仰を回復させ、大切な働きをしました。

※ 北にダン、南にベエル・シェバ。中央が、ミツパ、ギルガル、ベテルの辺り。

七15サムエルは、一生の間、イスラエルを裁いた。16彼は年ごとに、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらすべての聖所でイスラエルを裁き、17ラマに帰った。そこに自分の家があり、そこでイスラエルをさばいていたからである。

 こうしてサムエルは一生を過ごしました。それは、不安定で、苦労の多い生涯でした。外国との戦いもあり、イスラエルの人々はすぐに信仰から離れてしまいます。そして、子どもたちも、真っ直ぐに育ってくれず、父親としても無力を味わっていました。

八1サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。…3…この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。4イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、5彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 これは年老いたサムエルにとって、とてもガッカリする言葉だったでしょう。他のすべての国が誰を王にしていようと、イスラエルには神である主が王であるのです。そのことを忘れて「他の国のように王を」と言われて、サムエルは自分の全生涯が否定された気になったでしょう。そこで、サムエルは主に祈りました。すると、

7主はサムエルに言われた。「…彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。…」

 こうしてサムエルの晩年は、立てた王の尻拭いに奔走して終わります。サムエルの生涯はとても苦労の多い、悔しさや悲しみの多いものでした。だからこそサムエルは主に聴き続けたのです。「主よお話しください。しもべは聞いております」と祈ったのです。

 私たちの生涯もイエス様を信じたら楽な人生になるわけではなく、周りにも教会にも家庭にも、色々あるのです。私たちが信じるイエス様ご自身、そうでした。敵の中傷や憎しみ、群衆の病気や罪、弟子も鈍感で、思うようにはならず、最後は十字架に殺されました。だからこそ、イエスは人の言葉に振り回される事なく、父なる神様の声に聴き続けました。



 私たちも、痛みや涙の中、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と短く祈ればいいのです。この祈りによって、私たちの唯一の王、イエスに立ち戻るのです。十字架を担った主が、どんな時にも私たちの主でいてくださるのです。



「主よ、お話しください。しもべは聞いております。今日はこのサムエルの祈りを感謝します。私たちも、心騒ぐことの多い中でこの祈りに立ち戻り、あなたに耳を傾けさせてください。他の人のように、ではなく、誰よりも素晴らしいあなたが私たちの神でいてくださる幸いに立たせてください。あなたが王でいてくださり、有り難うございます」


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2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」

2021-11-27 12:50:07 | 一書説教
2021/11/28 ミカ書7章18~20節「小さい町から王が出て 一書説教 ミカ書」[1]

 今日からアドベントです。交読しましたマタイの福音書には、キリストの誕生の場所が、
「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
と答えられた事が書かれています。この言葉は旧約のミカ書5章2節の言葉です。今日は、このミカ書から一書説教をして、ここから預言されているキリストの誕生の恵みを覚えます。

1章1節「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」

は紀元前八世紀です[2]。当時、イスラエルは北と南に分裂していました。どちらも経済的に絶頂期を迎えた頃でした。豊かになった分、格差が生じ、富裕層の搾取が横行していました。また近隣諸国も力をつけ[3]、新旧交代をし、新興のアッシリア帝国は北イスラエル王国を滅ぼしてしまう。波乱の時代です。ミカ書は、イスラエルの民の罪、とりわけ権力者たちの横暴を責めて[4]、アッシリアやバビロンの侵略を警告します[5]。王や富裕層の我が物顔の時代はまもなく終わることが告げられるのです[6]。
 ミカ書は「聞け[7]」の繰り返しを目印に、大きく三つの部分に分けられます[8]。それぞれに指導者たちの罪が責められます。しかし、その後には回復の希望が必ず語られるのです。崩壊の先には、神が無条件に回復を備えている、虐げられていた人々が集められる喜び神の国があるのです[9]。それも、第一部は2章12~13節[10]、第二部は4章1~7節[11]、そのあとに4章8節~5章14節の大きな将来像の幻があり、最後第三部も、7章8~20節が確かな救いと希望を語ります。段々、回復の約束が長くなるのです。人間が神を差し置いて支配者となっている時代は必ず終わる。その先には神が本当の支配者として来られ、平和の国をお建てになる。その中で、
5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」[12]
という言葉が語られるのです。それは、当時の有力者たちが自分の権力に胡座をかいている中、失墜が告げられて、足元のベツレヘム、あまりにも小さいと言われる町から、治める者(王)が登場するという、大変皮肉な言葉でした。それが、マタイの福音書で引用されます。その時も残酷なヘロデ大王がエルサレムに君臨して、自分の王座を暴力的に守っていて、権力の座のためには、生まれるキリストも殺そう、ベツレヘムの幼児も皆殺しにしよう、としました。そうした社会のあり方そのものが、ミカ書の非難したことであり、そして、その人間の支配をひっくり返す、神の支配が来ることをミカ書が預言していて、この言葉があるわけです。

 また、預言者ミカはとても強い言葉で指導者たちの罪を責めますが、最後の7章では彼の悲しみが吐露されます。また、彼自身、自分の罪をも深く自覚しています。

7:9 私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。[13]

 ミカ自身、自分の罪を認めています。しかし、その罪を正しく裁いてくださる主に望みを置いています。ですから、このミカ書の最後は、独特な深みを持った慰めで閉じられるのです。

7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。
あなたは咎を除き、
ご自分のゆずりである残りの者のために、
背きを見過ごしてくださる神。
いつまでも怒り続けることはありません。
神は、恵みを喜ばれるからです。
19 もう一度、私たちをあわれみ、
私たちの咎を踏みつけて、
すべての罪を海の深みに投げ込んでください。[20節略]

 海は最も深くて1万メートル、平均しても富士山より深い4千メートル以上です[14]。しかし、聖書の時代は、海は死者を呑み込む底知れない場所だと恐れられていました。その海の奥底に、私たちの罪をあなたは投げ入れて下さる。もう引き戻したり、思い出したり出来ないほど、手の届かない所に投げ打って下さる。そういう神への告白がミカ書の結びなのですね。[15]

 神は、人の不正を悲しみ、人が神を差し置いて世界を守ることなど出来ないことを知って、警告と希望を語られます。そして神は、人の世界では最も小さい町から王を出したり、罪に嘆く者の罪を海の底に投げ込み、絶望の先に回復があることを語る王です。そして、その約束がやがて本当に事実となり、キリストがこの世に来られました。小さな町ベツレヘムにお生まれになり、罪人の友となり、権力者に立ち向かいました。私たちの罪を海の深みに投げ込む所か、ご自身が天からこの世界に飛び込んで来られ、よみの深みにまで飛び降りてくださいました。この方こそ、永遠の昔から定められていた、私たちを本当に治めてくださる不思議な王です。

 「あなたのような神がほかにあるでしょうか」とミカは言いました。「ミカ」という名前自体が「誰が主のようであるか(=他にいない)」という意味なのです[16]。主のような神は他にいない。咎を除き、怒り続けず、恵みを喜ばれる神。私たちの罪を海の深みに投げ込まれる神。そして、クリスマスでお祝いするように、この世界の最も小さい町に生まれて、十字架にまで、よみにまで降ってくださった。こんな主は他にいない。この方が私たちの神であられるのです。
ミカの時代、イエスの時代、そして、今の私たちの時代も、これは私たちの告白です。主が神でいてくださる。今も最も小さい場所から、主は働いてくださる。私たち人間の失敗や絶望を超えて、主が私たちの真ん中でも、私たちの側にも、回復を備えておられる。こんな神は他にいるでしょうか。そう思えばこそ、私たちは、自分が神になろうとする思いを手放して、公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、私たちの神とともに歩むことができるのです。[17]
「主よ。あなたが神であり、世界を導き、小さなベツレヘムに来られた王であることを賛美します。今、私たちの置かれているこの時、罪や無力さに向き合いつつ、あなたが王であり、回復の希望を語ってくださることを感謝します。あなたご自身が最も低い所に来られて、御業をなさるお方です。私たちのただ中に、また私たちの心の奥深くに、おいでください。このアドベントが、本当に今ここで、あなたを待ち望む時、あなたにお会いする時でありますように」



脚注

[2] 1:1「ユダの王ヨタム[前750-732]、アハズ[743-716]、ヒゼキヤ[729-687]の時代に、サマリアとエルサレムについて見た幻」南ユダから、サマリアとユダとの問題を預言して責めた。

[3] このペリシテとの境界にあったのが、ミカの出身地モレシェテでした。「モレシェテ ペリシテと国教を接するシェフェーラーと呼ばれる低地にある…エルサレムの南西30-40kmほどの所にある。(『バイブルnavi』947頁)」

[4] ミカ書に上げられる罪状は、詐欺(2:2)、盗み(2:8)、貪り(2:9)、放蕩(2:11)、圧政(3:3)、偽善(3:4)、異端(3:5)、不正(3:9)、恐喝や嘘(6:12)、殺人(7:2)など。

[5] アッシリアについては、5:5「平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。6彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。」、また、7:12「その日、アッシリアとエジプトの町々から、エジプトから大河まで、海から海まで、山から山まで、あなたのところに人々がやって来る。」。バビロンについては、4:10「娘シオンよ。子を産む女のように、身もだえして、もがき回れ。今、あなたは町を出て野に宿り、バビロンまで行く。そこで、あなたは助け出される。そこで、主があなたを敵の手から贖い出される。」

[6] 一〇〇年後のエレミヤ書では、ミカの名前が遡って言及されます。エレミヤ書26:18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の主はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」

[7] ヘブル語「シムウー」。1:2(すべての民族よ、聞け。地とそこに満ちているものたちよ、耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となられる。)、3:1(私は言った。「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を知っているはずではないか。)、3:9(これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。)、6:1(さあ、主の言われることを聞け。立ち上がれ。山々に訴えよ。もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。2山々よ、聞け。主の訴えを。変わることのない地の基よ。主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。)、6:9(主の御声が都に向かって叫ぶ。──あなたの御名を恐れることは英知だ──「聞け、杖のことを。だれがその都を指定したのか。)

[8] アウトライン:

1~2章 サマリアの荒廃とエルサレムへの警告 2:12~13 回復の希望

3~4章 エルサレムに対する神のさばき 4:1~7 シオンの回復

4:8-5:14 アッシリア、バビロン捕囚、回復

6-7章 不正な経済システム 7:8-20 確かな救いの希望と懇願

[9] 4:6 「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」

[10] 2:12「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。13打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、主が彼らの先頭を進む。」

[11] 4:1-7「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。2多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。3主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。4彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の主の御口が告げる。5まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。6「その日──主のことば──わたしは足を引きずる者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める。7わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。」 この1~3節は、イザヤ書2章3~4節と酷似しています。同時代ゆえ、影響があったと思われます。どちらが先か、は諸議論あり断定できません。

[12] この言葉は、更に続く7節まででも「彼は」と繋がって、具体化されています。5:3「それゆえ、彼らはそのままにしておかれる。産婦が子を産む時まで。そのとき、彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰る。4彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼う。そして彼は安らかに住まう。今や彼の威力が、地の果ての果てにまで及ぶからだ。5平和は次のようにして来る。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対抗して七人の牧者、八人の指導者を立てる。」 また、ミカ書がここまで語ってきた、とこしえの王の約束ともつながっています。4:7(わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。8あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」)、

5:6 彼らはアッシリアの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリアが私たちの国に来て、私たちの領土に踏み込んで来るとき、彼は、私たちをアッシリアから救い出す。

[13] 7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。8私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。9私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る。10私の敵はこれを見て恥におおわれる。彼らは、私に向かって「あなたの神、主は、どこにいるのか」と言った者たちだ。私の目は、確かに見る。今に、敵は道の泥のように踏みつけられる。

[15] 英語聖書は、主なものはどれも、「深みに投げ込んでください」と祈願ではなく、「投げ込んでくださいます」と終止形で訳しています。聖書協会共同訳も「主は私たちを再び憐れみ/私たちの過ちを不問にされる。/あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる。」と終止形です。

[16] ミカ 誰が(ミー)あなたのよう(キー)主よ(ヤハ) 7:18

[17] ミカ書6章6~8節「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼ささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。7主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。8主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」 この言葉自体が、過去の「こうすべき」だった規準ではなく、現在も、将来も、変わらず求められている生き方であることに注意。散々、神の正義に反して生きている民に告げられた言葉である。彼らにはもう希望がないのではないこと、そして、彼らの「救い」とは滅びからの救い以上に、御心に生きることそのものである。

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2021/11/21 マタイ伝26章26~30節「パンとぶどうの約束」

2021-11-20 12:33:35 | マタイの福音書講解
2021/11/21 マタイ伝26章26~30節「パンとぶどうの約束」

 主イエスが十字架の前夜、「最後の晩餐」の席で、パンと杯を与えた言葉が書かれています。このパンと杯の記念として、教会は「聖餐式(主の聖晩餐)」を、二千年、形は違っても、毎月や毎週、毎日、繰り返しています。それだけに、到底語りきれない、豊かな内容の箇所です。三つのことから、この主の招きに集まり続ける教会、私たちの原点に立ち戻る恵みを戴きます。

 まず、ここにはイエスご自身の強い思いがあります。特にマタイは、弟子たちが食べたり飲んだりしたかどうかは記さずに、ここで主イエスの振る舞いと言葉に絞っています[1]。

26…イエスはパンを取り、…言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

 これは過越祭の食事で、種なしパンや苦菜や四回の杯を回し、合間にこの過越の由来を語る決まりの席でした[2]。そこで、種なしパンを取って、裂いて、ここまでは普通でしたが、突然

「取れ、食べよ、これはわたしのからだです」

とイエスが仰います。これは
「取れ、食べよ」
という非常に珍しく強い言い回しです[3]。常ならない熱い口調です。弟子たちは面食らったでしょうか。彼らはまだイエスがまもなく捕らえられることも、その意味も分かっていません。それでもイエスはその弟子たちに、強い言葉で、裂いたパンに託して、ご自分を与えて、取って食べなさい、これはわたしの体だと仰るのです。

 「これはわたしのからだ」とはどういうことか、本当に聖餐のパンは主の体になり、恭しくなるとか、いやこれは象徴的に過ぎないとか、諸説あります[4]。しかし何より大事なのは、このパンに託して、主イエスが私たちにご自分を与えられた、強い思いで今もご自分を与えてくださっている、ということです。私たちがその意味が分かっていなくても、今は聖餐を行うことが出来ないとしても、それでもイエスが私たちに強い思いでご自分を与えてくださり、本当に親しい交わりの中に入れてくださる。この熱い、一方的な恵みが聖餐には込められています。

 その主が下さる親しい交わりとは、どんなものか。それはここで「契約」と言われます。

27…「みな、この杯から飲みなさい。28これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」[5]

 イエスはここで、杯に託して、ご自分の血が流されることを予告しています。この過越祭は、かつてイスラエルの民がエジプトから救い出される時、小羊を屠って、その血を家の門に塗ったことを記念する祭りでした。門に小羊の血を塗った家は、死を免れて、救い出されたのです。イエスは、その過越に重ねて、多くの人に罪の赦しを与えるために血を流される、本当の過越の小羊です[6]。
 それとともに、もう一つ、出エジプト記24章8節の言葉をもじっています。

8モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

 これは過越から五〇日の旅をして[7]、主がイスラエルの民に契約を与え、新しい生き方を下さった時、契約締結の際の言葉です。指導者モーセは、献身を表す「全焼の生け贄」と、神との平和の交わりを表す「交わりの生け贄」を献げて、その血の半分を民に振りかけました[8]。それは、主なる神とあなたがたの「契約」、つまり、主があなたがたの神であり、あなたがたは神の民としての新しくされた生き方を生きる、という関係の宣言でした[9]。
 イエスはここで、あのモーセの言葉を下敷きにして、杯の宣言をしています。つまり、イエスの十字架は、過越の小羊(罪の赦し)の生け贄と、五〇日後の「契約の血」も両方含めた、一つの生け贄です[10]。罪の赦しに基づいて、神からの契約の民として新しく歩ませる「血」なのです。聖餐は、主の血が、あらゆる負債の赦しと、神の民とされた新しい生を与えたことの確証なのです。

 最後に、

29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで[11]、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。[12]

 将来、御国で私たちがともに祝う日を宣言しています。これも弟子たちにはピンと来なかったでしょう。この時、主自ら裂いて与えられたパンと杯を受け取っても、弟子たちは生まれ変わったように強くされはしませんでした。彼らは主の心に鈍感で、まもなくイエスが逮捕されると、散り散りバラバラになります。
 今も、教会が聖餐を執り行い、私たちがパンと杯をいただいても、自動的に強い信者になるわけではありません。パンやぶどうそのものや、儀式自体に機械的な・魔術的な力はないのです。あるのは、主イエスの人格的な、恵みの力なのですね。躓く弟子たち、迷ってしまう弟子たち、まだ罪も弱さもある私たちを主イエスはご存じです。ご存じの上で、だからこそご自分の命を十字架に与えられました。私たちのために、ご自分を裂かれました。それは、私たちと神との関係だけでなく、私たちお互いをも一つの主にあって、一つのパンを分け合い[13]、一つの杯からともに飲む、一つ主の民として結び合わせます。
 今はまだ弱さを見せて、離れたり躓いたりしながら、何度も何度も主の赦しに立ち帰りながら、歩みを続ける。そして、やがて父の御国でともに主と新しく祝う時に迎え入れられる-そういう約束に、聖餐を通して立ち戻るのが教会なのです。この招きに立ち戻り、この主の尊い約束を今ここでも思い起こして慰められ、希望を持たされ、互いに励まし合い、支え合うのです。

 イエスが「取れ、食べよ」と強く言われる、私たちに対する熱い思いがパンと杯に込められています。このご自身を与えてくださる主の熱心に私たちは信頼するのです[14]。
 また聖餐は、神と私たちの関係が、罪の赦しに基づく新しい生き方になったことを表れです。この弟子以来、二千年してまだ続いて、世界の各地で聖餐を守り続けている大勢の人と結ばれた、一つ神の民が教会です。
 最後に、主は既に「父の御国であなたがたと新しく飲むその日」を約束されています。そこまで万事順調ではなく、悲しみも喜びもあります。聖餐の度に、希望に立ち帰り、慰められながら、祈り合っていくのです。この途上にある教会形成を願って、精一杯の最善を図りながら、主の民としての旅を続けるのです。

「私たちの主よ、あなたが聖餐を通して弟子たちに迫られた出来事を、今日も思い起こし、計り知れない深い恵みに感謝します。どうぞ私たちを、主の食卓を囲む群れとして、強めてください。特に今、食卓を囲めない喪失があり、長く顔を見ていない多くの兄弟姉妹への痛みがあります。私たちを導き、主の招きの尊い恵みと、ともに招かれた交わりの喜びを取り戻させてください。そうして、ここが、罪の赦しと、主の御国とを真実に表す場となりますように」



[1] マルコには「彼らはみなその杯から飲んだ」(14:23)があるが、マタイはイエスにフォーカス。

[2] 「当時の過越の食事が、どのような内容と順序で行われたか、正確な資料はありませんが、のちのユダヤ教文献などから推して、いろいろな儀式があったようです。 初めに、第一の杯が、祝福の言葉を伴って回されました。次に、エジプトの苦役の思い出として、苦菜がくばられました。第三に、種入れぬパン(マッツォート)とれんが色のスープ(カソーレト)と、焼いた過越の小羊と、他のいけにえの肉(カギーガー)が出されます。第四に、家長が祝福して苦菜をスープに浸して食べ、一同も食べます。第五に、第二の杯が注がれ、子供または最年少者が、この儀式の由来を質問し、家長が過越祭の意義を教えます(出エジプト記12章26~27節、13章8、14~15節)。第六に、「小ハレル」と呼ばれる詩篇一一三~一一四篇が詠唱され、賛美と祈祷ののち、第二の杯が飲み干されます。第七に、家長が手を洗い、パンをとって裂き、祝福して食べます。第八に、一同が食事を始め、第九に、家長が最後の小羊の肉切れを食べ終わると、第三の杯が回されます。そうして最後に、「大ハレル」すなわち詩篇一一五~一一八篇が詠唱され、第四の杯が回されてから、「ハレルの結び」である詩篇一二〇~一三七篇が詠唱されます。明らかに、聖餐式制定のみ言葉が語られたのは、「一同が食事をしているとき」、第八の部に属するわけです。」榊原康夫『マタイによる福音書講解 下巻』226~227ページ

[3] 私の神学校時代、卒業式の前に、当時の学長丸山忠孝がここから、「取れ、食え」と非常な強い言い方で、イエスが弟子たちにパン(に託してご自分)を与えられたこと、そこから「万軍の主の熱心がこれをする」につなげて語られた説教が忘れられません。それ以来この箇所では、イエスの熱い思いを想起するのです。

[4] 宗教改革において論じられたのも大きく聖餐論がありました。当時のカトリック教会の「化体説(けたいせつ)」は、パンとぶどう酒が、実体変化して、キリストの肉と血になる、としました。(そのため、パンはこぼさないよう、司祭が信徒の国に放り込み、ぶどう酒はもっとこぼしやすいため、信徒には与えず、司祭が一人で飲む、という実践になりました。)これを異教的と反対したプロテスタントも、ルターは「臨在説」(実体が変化するのではないが、キリストがパンの中に上にともにおられる)を唱え、ツヴィングリやアナバプテストは「象徴説」(聖餐は、キリストの記念・象徴に過ぎない)を唱えました。私たち改革派神学では、カルヴァンが唱えた「聖霊による臨在説」(パンが実体変化するのではなく、聖霊によって聖餐に主が臨在してくださる)の立場を取ります。

[5] 「契約」マタイでここのみ。

[6] マタイにおける「血」は、ここ以外は「呪い・責任」という意味が多い。23:30(こう言う。『もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。』)、23:35(それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。)、26:28、27:4(「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」)、27:6 (祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」)、27:8(このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。)、27:24(ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」、25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」) しかし、イエスの血は、加害者である人間への呪い・責任追及とは逆に、人の罪を赦して、覆い、神の国に着かせる、「契約の血」となるのです。「血」に、報復の断罪を予期したら、イエスの血は、報復を凌駕する赦しとなるのです。神の「報復」すなわち、御国の完成、さいわいの成就、永遠の祝福をもたらすのです。

[7] 出エジプト記19章1節「エジプトの地を出たイスラエルの子らは、第三の新月の日にシナイの荒野に入った。」第一の月の15日に「過越」があってから、一月半です。その後、三日の聖別期間を経て、律法が与えられました。足かけ、五〇日しての律法付与は「五旬節(ペンテコステ)」の祝いとなります。

[8] この血は直前に指導者モーセが献げた「交わりの生け贄」の雄牛の血です。「全焼の生け贄」は「私たちのすべては神のものです」という献身の表れ、交わりの生け贄は神との平和、深い交わりを表します。

[9] 出エジプト記24章7節「…そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」。」 この「契約の書」は、直前の二〇~二三章で命じられた律法を書き記したものでしょう。24章4節「モーセは主のすべてのことばを書き記した。」

[10] ルカには「新しい契約」という語が明言され、エレミヤ書31章31節との関連が明らかですが、マタイは「新しい契約」という言葉は使っていません。しかし、ユダヤ人読者へ書かれたと考えられるマタイの福音書は、当然、エレミヤの「新しい契約」も踏まえているでしょう。そして、エレミヤの「新しい契約」においても、「罪の赦し」は言及されています。31:34「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

[11] 「じつは過越の食事の席上、家長が第一の杯を祝福するとき、「ヤハウェ、われらの神、ぶどうの実を造りたもうなんじは、ほむべきかな」と唱えるからです。つまり、「ぶどうの実・産物」でぶどう酒を表すのは、過越祭の儀式的術語でありました。ですからマタイは、「このぶどうの産物」とはっきり限定しているのです。それは、ルカに言わせれば「この過越の食事」のことです。 ですからイエスは、“ぶどう酒を飲むいとまもなく死ぬ”と言われたのでなく、“来年からは過越の食事をしない”と言われたのです。」榊原、232ページ

[12] 29節の原文通りの語順はこうです。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。その日まで、あなたがたと新しく飲む時、わたしの父の御国で」

[13] 「これを裂き、弟子たちに与えて」 イエスのからだが裂かれること、弟子たちに与えられること、一人一人に違う形で、しかし一つのものの一部分として、与えられていること。私たちの形、大きさ、個性、痛みは違うが、一つ主のからだの一員であること。

[14] 「聖餐はごくごうふつうの、そして最も思い浮かべやすい神聖なふるまいです。それは、イエスについての真理です。あまりに人間的で、あまりに聖なるもの、あまりに慣れていながら、あまりに謎めいているものです。とても身近でありながら、とても意味深い。しかしこれこそ、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・6~8参照)であったイエスの物語が示すものです。 それは、私たちに近づきたいと願われた神の物語です。すなわち、私たちの目で見えるほど、耳で聞くことができるほど、手で触れることができるほど、私たちと分離も、分裂も、距離もないほどに近づきたいと願われた神の物語です。 イエスは、私たちのための神、私たちと共におられる神、私たちの内におられる神です。イエスは、ご自身を完全に与える神、私たちのためならためらうことなく、ご自身を注ぎ尽くされる神です。イエスは、ご自分の持ち物を出し渋ったり、執着なさったりしません。持っているものすべてを与えてしまわれます。「食べなさい、飲みなさい、これはわたしの体である。これはわたしの血……これこそ、あなたがたのためのわたしである」。 このように、食卓において自分を与えたいという願いは、誰もが持ったことがあるでしょう。「食べて、飲んでください。あなたのために作ったのですから。もっといかがですか? これは、あなたに楽しんでもらうためです。これで元気になってください。そうです、どんなに私があなたを愛しているか感じるために」。私たちが願っているのは、単に食べ物を差し出すことでなく、自分自身を与えることです。「ご遠慮なくどうぞ」と私たちは言います。自分の食卓から取って食べるように友人に勧めながら、伝えたいことはこうです。「私の友でいてください。人生の道連れでいてください。私の大切な人でいてください-私の命の一部であってください-あなたに私を差し上げたい」。 聖餐において、イエスはすべてを与えます。パンは、単に私たちの食べ物になりたいという願望のしるしではありません。杯は、単に私たちの飲み物でありたい覚悟をしるすものではありません。パンとぶどう酒は、与えるときにイエスの体となり血となります。パンとはまさに、私たちに与えられたイエスの体です。ぶどう酒とは、私たちのために注がれたイエスの血です。神がイエスの内に完全に現存してくださるのと同じく、イエスは聖餐でのパンとぶどう酒のうちに完全に現存してくださいます。神は、はるか昔の遠いかなたで肉体をとっただけではないのです。聖餐を祝う今、この瞬間、私たちが一緒にテーブルを囲んでいるそのただ中でも、神は私たちの食べ物となり、飲み物となってくださいます。 神は出し惜しみなさいません。すべてを与えてくださいます。これこそが受肉の奥義です。これこそ聖餐の奥義でもあります。受肉と聖餐は、ご自身を差し出すという、計り知れない神の愛を示す二つの表現です。…」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』109~110ページ。

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2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

2021-11-20 12:33:00 | こども聖書
2021/11/21 第一サムエル記1章「ハンナのいのり」こども聖書㊱

 今日から「サムエル記」に入ります。第一と第二、二部に分かれて、全部で54章。実は続きの「列王記」の第一と第二も、元々はサムエル記とセットだったので、全部で101章、245頁にもなる、壮大なイスラエルの歴史が描かれます。時代にして、七百年にもわたる歴史には、実に様々なことが起こります。でもその最初に出て来るのは、今日のハンナという女性。夫はいても子どもがいませんでした。子どもがいないことは今よりもずっと辛く、跡取りを産めない、社会的に肩身の狭いことでした。

10ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 せっかく子どもを授かっても、その子を主にお返ししてしまうなら元も子もないじゃないでしょうか。ハンナにとって、子を授かれない以上に、神が自分の苦しみをご覧になっているだろうか、私を心に留めて、忘れずにいるんだろうか、という深い疑いがあったのでしょうか。ハンナは泣きながら祈っていました。泣くほど辛い。でも何を祈っているかは恥ずかしくて、誰にも聞かれたくなかった。唇だけが動いて、声は出さない祈りでした。それを見た祭司エリは、酔っ払った女だと思ってしまいます。

14エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 祈りは、普通、声に出すものだったようです。声に出さない黙祷というのは、聖書ではこのハンナの祈りだけです。皆さんは、声に出して祈っていますか。祈りを声に出すのと、どうしても人に聴かれたくない時は別にして、普段は声に出して「神さま」と祈るのとでは、大きく違います。そして、声に出す方が祈りの幸いを体感できます。それが聖書の祈り方なのです。でも、この時のハンナはそれさえ出来ませんでした。

15ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、心を注ぎ出していたのです。16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
17エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

 この言葉を聴いて、ハンナは帰って行きます。主の前で祈ったからか、祭司の言葉で元気をもらったか、不思議にハンナの顔は変わり、涙がなくなっていました。

20年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

 本当に嬉しかったでしょうね。サムエルとは神(エル)と「聴く(シュマー)」を合わせた名前です。私の願いを、神が聴いてくださった、という喜びが込められています。そして、サムエルが乳離れをするまで、一緒に過ごして大切に大切に育てました。一年か二年でしょうか、そうしてサムエルが乳離れしたら、ハンナは遂に約束通り、まだ幼いサムエルを、たくさんの捧げ物と一緒にあの祭司のいた場所に連れて行きました。

26ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。27この子のことも、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。28それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」
こうして彼らはそこで主を礼拝した。

 こうして、主がハンナの祈りに答えてくださった印として、サムエルが祭司の家に仕え、大きくなっていきます。お母さんハンナはとてもさびしかったと思いますが、決してサムエルと別れたのではありません。その後も、毎年サムエルを訪ねています。

2:19彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。

 そして、祭司エリも神さまも、ハンナたちを祝福して送り出したのです。



 今の私たちには、幼い子どもと別れるようなことをお母さんがするというのは、よく分からない感覚です。でも、この時のハンナはそれをしました。あの泣いて、声も出せずに祈って、酔っ払っているとたしなめられたハンナが、主に授けられ、また主に献げられた子どもサムエル。そこからサムエル記が始まります。サムエルはやがてイスラエルを導く指導者になります。神さまのなさることは、いつも不思議で、人間の常識や予想を超えています。そして、それこそサムエル記の、そして、サムエル記だけでなく、聖書全体の大事なメッセージです。サムエル記2章には、ハンナの長い祈りが記されています。

2:1ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。…4勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。5満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

 ここまでのイサクやヤコブ、サムソンも、神の憐れみで誕生した人々でした。人が無力と蔑む所に神は働いて、人の思い上がりを砕かれます。
 何より、このハンナの歌をなぞった歌が、クリスマスの「マリアの賛歌」です。ルカの福音書1章46~55節。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をたたえます。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。
主はその御腕で力強いわざを行い、
心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、 
低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせずに追い返されました。
主はあわれみを忘れずに、
そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
私たちの父祖たちに語られたとおり、 
アブラハムとその子孫に対する あわれみを いつまでも忘れずに。

 救い主が乙女マリアの胎に宿ったこと、貧しい田舎者となり、罪人や卑しい人の友となったこと、最低の殺され方、十字架の死が、私たちの救いの希望となったこと。本当に神は、低い者を引き上げ、小さな者を通して尊いことをなさるお方です。
 子宝とか、能力や力があるとか、すべては神からの贈り物です。それがない人も神の前には貴いことに変わりありません。それを忘れやすい人間は、神が低い人と強い人を逆転される業を通して、自分たちが神ではなく、神が私たちを、すべての人を生かし、愛しておられることに気づかされるのです。
 だからハンナが、神を褒め称えて子を献げたように、私たちも神の恵みの力を信頼しましょう。

「主よ、ハンナに応えられたあなたが、今も世界を治めて導いておられます。小さな人、出来ない人、弱い人が蔑まれ、惨めな思いをさせられる社会で、あなたはその涙の祈りを聞いておられます。どうぞ、私たちにもあなたへの祈りを授けてください。あなたが聴いてくださる神であることを、私たちにも体験させ、あなたを賛美させてください」
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2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

2021-11-13 12:59:37 | こども聖書
2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

 今日は聖書の「ルツ記」のお話しです。聖書の最初の方では、たった四章しかないルツ記は、珍しく、目に留められないような書です。でも、逆に、神である主が、私たちの世界の、本当に小さな出来事に目を留めてくださることを、ルツ記は教えてくれます。

1:1さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。2その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、…

 この妻がナオミ、そして、二人の息子の兄がモアブで出会ったモアブ人の女性が、ルツでした。ですから「国際結婚」ですね。それも、イスラエル人とモアブ人とは、あまり良い仲ではありません。飢饉になったため、仕方なくモアブに移り住んだのでしょう。息子がモアブ人の女性と結婚するのは、嬉しいばかりではなかったのかもしれません。

 その上、夫のエリメレクも死に、二人の息子たちも死んで、残ったのは女性ばかり。飢饉を逃れてきたはずが、ナオミは外国人の嫁と取り残されてしまいました。出て来たベツレヘムは、飢饉が終わったと聞いたのでナオミは帰ることにしました。そして、ルツたちには、ここでお別れしましょうと告げたのです。ところが、

1:16ルツは言った。
「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。
お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。
もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、
主が幾重にも私を罰してくださいますように。」

 いつのまにか、ルツはナオミや夫の信じる神、主を、自分の神とするような思いになっていたのです。とても不思議なことです。こうして、ナオミとルツ、血の繋がらない異邦人同士の二人は、ベツレヘムに旅をしました。モアブのどこであったか分からないので、100kmぐらいの旅でしょうか。



 ルツにとっては、自分の故郷との別れでした。帰って来たナオミも、嬉しいばかりではありません。ホッとしたからでしょうか、

1:20ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。21私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」

というのです。当時は、今以上に、女性だけで生きることは大変なことでした。夫に死なれ、子どもも孫もいないナオミは、もう細々と生きるしかないとして思えません。一緒にいるルツも、いないも同然のように、ナオミは期待していません。なにしろ、外国人、モアブ人ですから、ルツと結婚してくれる人なんて現れないでしょう。
 さて、二人が帰ってきたのはちょうど「大麦の刈り入れが始まったころ」でした。



 刈り入れの間に落ちた麦は、貧しい人が拾ってもよい、というのが神からの律法になっていたのです。これを「落ち穂拾い」と言います。そこでルツは、麦畑に行かせてくださいと願います。ナオミはルツを送り出しますが、たいした落ち穂は拾えないだろう、それどころか、ルツが外国人だから虐められるんじゃないか、と心配するばかりでした。

 ところが、ルツが落ち穂拾いにたまたま入った畑はボアズという人の畑でした。ボアズはなんとナオミの夫エリメレクの親戚でした。彼も、ナオミの事もルツのことも知りませんでしたが、畑で落ち穂を拾っている、見慣れないルツに親切にします。ルツは、

2:10彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」



11ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが、姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。12主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」



 こうしてルツは安心して、たくさんの落ち穂を拾いました。やがて、ナオミはルツとボアズが結婚するように考えて、ルツをボアズの所に贈って、こう言わせます。

3:9…「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

 この「買い戻し」は、主がイスラエルの中で、財産を失ったり自分を身売りしたりしなければならない人を、親族が代わりに買い戻してあげることを定めた制度です。それは神ご自身が、私たち人間の罪や失敗を、神様の犠牲によって支払って、買い戻してくださることを表しています。そして、このルツをも、主が翼をもって覆ってくださるし、ボアズも買い戻しの権利を果たして、ルツを妻にして、エリメレクの財産も買い戻してくれるのです。ナオミは、全てを失ったと思いましたが、不思議な事に主は、ルツとボアズを出会わせて、ナオミに家族を与えて、将来を回復してくださったのです。

13ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。…17近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその子をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

 そうです、このルツは将来のダビデ王の曾おばあさんになるのです。そして、ダビデの子孫の末に、イエス・キリストが生まれます。新約聖書の一頁には、ルツの名前が出て来ます。モアブ人の未亡人ルツは、救い主イエスの誕生がどんなものかをよく表しています。飢饉や死別、残念な結婚や貧しさ、そうした事の中でも神は働いておられます。今も私たちを買い戻して、不幸な人も外国人も差別なく、一緒に祝福に与るよう、働いておられるのです。そのご計画を信じるから、私たちも誠実を尽くすことが出来ます。

「主よ、ルツ記を有り難うございます。あなたが隠れて働いておられ、今も私たちに、不思議なご計画をお持ちであることを感謝します。ナオミのような悲しみが今も世界にも私たちの周りにもあります。どうぞ、あなたの慰めを表してください。また、私たちの心から差別や心ない冷たさを取り除いて、イエス様の系譜に私たちも加えてください」
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