聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答72、75 エペソ1章15~23節「王であるイエス」

2019-01-27 14:36:49 | はじめての教理問答

2019/1/27 エペソ1章15~23節「王であるイエス」はじめての教理問答72、75

 夕拝ではここしばらく、

「キリスト」

とは

「油を注がれた者」

という意味であることと、その働きは「預言者・祭司・王」という三つの務めを手がかりに理解できることをお話ししています。今日はその最後の「王」、イエスが王であるというテーマです。

問72 キリストがあなたにとって王であるとは、どういうことですか?

答 キリストはわたしや、この世界、そして悪魔をも支配し、わたしを守ってくれます。

問75 どうして、あなたには王なるキリストが必要ですか?

答 わたしは、弱く無力なものだからです。

 キリストは、私にとっても、この世界にとっても、王です。そして、悪の力に対しても王です。キリストこそ、すべての上におられて、全ての者を治めておられる王です。私たちは、イエスの最高の権威、権力、支配、偉大さを信じます。

 そう言いながら、私たちは、イエスよりも自分の心の王座に自分がデーンと座ってしまう者でもあります。イエスを自分の願いを叶える王、取り引き出来る相手として、事実上、イエスは自分の王座から追い落とします。イエスが力強い王だということさえ、そのイエスの力を後ろ盾にして、自分を高めよう、自分が強くなろうという誇大妄想に結びつけてしまいます。そんな無理は、不安や不満を膨らませる結果を招くだけです。

 だからこそ私にとっては

「イエスが王である」

という告白は

「私は王ではない。私が神や強い人になろうとするのではない」

という気づきに結びつきます。また、自分の願うようにならないで、惨めで無力な思いをするときにも、それでもいいのだ。大事なのは、イエスが私の王でいてくださることだ、という安心感につながります。

 もう一つ、ここでキリストが

「悪魔をも支配し」

と言われていることに触れておきましょう。キリストは悪魔に対しても王です。決して、キリストも神も、サタンと対等な関係にはありません。確かに聖書には、悪魔(サタン)と呼ばれる存在が出て来ます。神が造られた霊のひとりなのでしょうが、なぜか邪悪で、神に逆らったり、人間を神から引き離そうとしたりする存在で、最後には、神の裁きによって罰せられる存在です。そういう悪い霊、邪悪で強い働きをする存在は確かにいるようです。しかし、それは神と対等な存在ではありません。神に敵対してはいますが、神の敵やライバルではありません。神はサタンに手こずらされることはありません。サタンは、神の手を焼かせて、困らせたり、神に隠れて何かをしたり、神を少しでも出し抜いたりすることは全くありません。神はサタンも含めた、全てのものを完全に治めておられる王なのです。

 サタンと戦っているのは神の側の御使いです。悪魔は神に直接刃向かうことは出来ませんし、御使いたちは、悪魔を討ち滅ぼし、やがて完全にサタンを打ち負かすのです。そして、そのような闘いが、神の支配の中で進んでいるのです。神は悪魔と戦っておられるのではなく、神の支配の中で、悪魔の悪巧みや悪足掻きが打ち負かされていく途中なのです。ですから、悪魔の企みに注意しつつ、悪魔を恐れすぎることはしないようにしましょう。■岬希君が好きなドラゴンボール。この中にも、悪者や良い者が出て来ますね。お話しの中に「かみさま」も登場します。では、聖書で言う「神様」に一番近いのは、誰だと思いますか。一番強いキャラクターでしょうか。聖書を考えていくときに、神様は聖書の中に出て来るのではなく、聖書を書いたお方です。ですから、この物語では、登場人物の誰かよりも、作者、原作を書いて著作権を持っているのが最も神様に近いのです。

 エペソ書は、読者の「心の目がハッキリ見えるように」と、こう祈っています。

エペソ一18…神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

 神の大能の力、すぐれた偉大な力が、キリストを通して私たちに働いている。神はキリストを死者の中からよみがえらせ、神の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権、今の世にも、やがて来る世にも、すべての名の上にキリストを置かれています。神は、イエスを、すべてのものを治める王とされています。力の偉大さを、私たちが味わい知ることが出来るよう、私たちの心の目がハッキリ見えることを祈っています。

 しかしキリストの御支配は、決して上からの、力尽くの支配ではありませんでした。キリストは王位を捨てて、人間の所に降りてこられ、人に仕えました。金の冠で偉そうにするよりも、茨の冠を被され、本当に人の痛みを思いやる王でした。人の心の恐れや悩み、疲れ、罪に届くために、ご自身が悲しみや弱さ、死をも味わわれました。イエスの偉大さ、神の大能の力は、そのような憐れみ、惜しみない愛にこそ現れています。

 『そのままのきみがすき』という絵本があります。王様が来られる時、人々は

「王様は偉い方なんだから、いいところを見せなきゃ、お城ってのは素晴らしい才能のある人だけが住めるんだから」

と考えます。そこにやってきた本当の王様は、誰も気がつかない普通の格好でした。そしてこう言うのです。

「もし王様だと気づかれたら、お願い事を言われたり、チヤホヤされたり、文句を言われたりするだけで、淋しい。王様はみんなとただ話したい、一緒に過ごして、一緒に笑ったり泣いたりしたいんだ。どうすればわたしによく思われるだろうと考えたりせず、わたしがありのままを愛していることを知って欲しいんだ」。

 キリストも大能の力を持つ王でありながら、世界の最も低い場所に来られ、貧しい一生を過ごし、十字架で裸にされて死にました。それはこの世界の王とは真逆の歩みです。しかしそれこそが全ての王の王なるキリストの権威です。このイエスこそ私たちの王で、私たちも世界をも治め、悪魔からも守ってくださいます。そのイエスは、私たちも偉ぶったり競争したりせず、互いにそのままで喜び合い、生かし合うように私たちを治めてくださいます。私たちを神の御国の中で育ててくださいます。

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はじめての教理問答71、74 ヘブル7章24~8章6節「祭司キリスト」

2019-01-27 14:27:39 | はじめての教理問答

2019/1/20 ヘブル7章24~8章6節「祭司キリスト」はじめての教理問答71、74

 

 「キリスト」とは「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書には、香油を頭に注いで、神様がその人を、神の国のために特別な立場に着かせることを表した儀式が何度か出て来ます。それは、預言者と祭司と王の三つの働きでした。「キリスト」のお働きもその三つを手がかりに出来ます。今日は二つ目の「祭司」です。

問71 キリストがあなたにとって祭司であるとは、どういうことですか?

答 キリストはわたしの罪のために死に、わたしのために祈りつづけてくれます。

問74 どうして、あなたには祭司なるキリストが必要ですか?

答 わたしは、神の律法を犯し、罪あるものだからです。

 ここでは、キリストは私の/あなたの祭司だと言われています。私たち自身は、神の律法を犯して、罪があるものです。神の前に立つには相応しくない、心の罪や、嘘や憎しみや思い上がりがあります。ですからその私たちのために、キリストがいてくださって、私たちのために神様との繋がりを造って下さっているのです。よいですか、私たちにはキリストがいてくださいます。私たちが、どんなに大きな悪いことをしたり、心の奥にどんなに深い闇があったり、ボロボロであって、とても自分は無理だろうと思ったとして、イエスが私たちの祭司となってくださって、私たちと神とを結びつける役割をしてくださいます。だから、私たちはどんな時も希望を失わないのです。

 今日のヘブル書は、この書全体が、キリストが私たちの大祭司だと教えている手紙だと言えます。パウロの手紙には「祭司」という言葉は一回しか出て来ませんが、このヘブル書には、祭司・大祭司あわせて30回も出て来ます。そして、イエスが大祭司であることを詳しく豊かに教えてくれます。すばらしい言葉がたくさんありますが、今日は、

七24イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

 イエスは永遠に存在される祭司。いつも生きていて、私たちのために執り成しをしておられる! そう言われています。私たちはお祈りの時に「イエスのお名前によって」と言います。それはここにある「ご自分によって神に近づく」ことです。イエスのお名前を通して神に近づく。私たちの願いや祈りを、イエスが祭司として届けてくださることを信じて、安心して、確信をもって祈ることが出来るのです。

 イエスと他の大祭司、イエスの前にいた祭司達と比べると、イエスがどれほど優れた、完全な祭司であるかが分かるともここでは言われています。イエス以前の祭司たちも神が油を注いで選ばれた祭司ではありましたが、イエスほど完全ではありませんでした。彼らは人間で、まず自分の罪のために生贄を捧げなければなりませんでした。弱さを持っている人たちで、悩んだり、間違いをしたりしていました。不完全な祭司でした。

 簡単な表にしてみると、こんな比較がここで言われています。

 大祭司イエスは

「敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離されて、天よりも高く上げられた」

大祭司でした。裏を返せば、イエス以前の祭司たちは、敬虔さも不十分で、悪も汚れもあり、罪人の仲間でした。ですから、他の祭司たちは、まず自分の罪のために生贄を献げなければ、人々の罪のための執り成しをすることは出来ませんでした。イエスは自分のいのちを献げました。イエスご自身が、神と私たちとの間の架け橋となったのです。しかし、他の祭司たちは、動物、羊や牛や穀物を捧げました。それは、イエスの十字架の死と比べたら、ままごとみたいなものです。また、イエスは一度だけ自分を捧げたら、完全に生贄は成し遂げられました。それまでの祭司たちは、毎日、生贄を捧げ続け、年に一度の特別なお祭りさえ、毎年繰り返さなければなりませんでした。イエスはその生贄によって、

「永遠に完全なものとされた」

と言われますが、それまでの祭司たちは弱さを持ち、最後には死んで、次の祭司と交代し続けました。そして、イエスは

「人間によってではなく、主によって設けられたまことの幕屋、聖所でつかえておられます」

と言われますが、他の祭司たちはそうではなく、

「天にあるものの写しと影に仕えて」

いただけでした。

 この「天」というと、どうしても空の上、宇宙の彼方のように思ってしまうのではないでしょうか。もし「天」が私たちから遠くなったのだとすると、イエスが大祭司であることの有り難みも薄れてしまいます。ここでは

「よりすぐれた契約の仲介者」「はるかにすぐれた奉仕を得ておられます」

と書かれています。イエスが天にある聖所で仕えていることは、私たちに遠くなったのではなく、地上の聖所が表していた本体、天にいます神に仕えてくださっていることです。それは、以前の祭司たちが示してきたメッセージの完成です。イエスは、本当に私たちと天の神とを結び合わせてくださるのです。

ヘブル四14さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 イエスは私たちの大祭司として、私たちと同じ人間になり、弱さや試みを自分の事として知っておられます。私たちの罪や恥も十分に知った上で、私たちと神との間に立って執り成してくださる大祭司です。そして、私たちを神に結びつけることで、私たちを強めて、助けて、大胆さをも与えてくださいます。イエスは、私たちの罪の弁護や情状酌量を神に求めるだけではありません。イエスは、私たちの心を清くして、私たちが罪に振り回される生き方ではなく、神への信頼をもって生きるように変えてくださる大祭司です。私たちはまだ神の律法に違反して、罪がある者です。その私たちの大祭司となってくださったイエスは、イエスご自身のいのちによって、私たちと神とを結びつけてくださいました。今、私たちの礼拝も、皆さんの毎日の祈りも、心の奥のうめきさえも、イエスは神のもとに届けて下さり、いつまでも神の民として歩ませてくださるのです。

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出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

2019-01-27 14:21:52 | 一書説教

2019/1/27 出エジプト記19章3-9節「わたしの宝とする 出エジプト記」

 今月の一書説教は「出エジプト記」です。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエル人を、神が力強い奇跡で救い出して、神の民としての新しい歩みを下さった。何度も映画化される、ドラマチックな内容です。イスラエルの民は、このエジプト脱出を記念する「過越」を毎年春にお祝いし続けて、自分たちの原点としています。そしてイエス・キリストは「過越の祭り」において十字架に架かり、私たちに新しい歩み、神の民として解放を与えてくださいました。出エジプトの過越と、海が割れた奇跡、そして五十日目のシナイ山での律法付与は、イエスの十字架の死と三日目の復活、そして五十日目に聖霊が注がれたペンテコステと平行関係にあります。キリスト教的には、出エジプト記自体が、やがてのキリストの御業の予告なのです[1]

 大変内容の濃い中で、今日の19章3~4節の言葉を、中心聖句の一つとしてご紹介します。

出エジプト十九3モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』…」

 「鷲の翼に乗せて」とは文字通りではなく、力強くという詩的な表現ですね。そんな言い方に相応しく、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出してくださいました。でもそれがゴールではありませんでした。これから自覚的に主の声に聞き従う。主の言葉に生かされていく。その歩みに踏み出して、あらゆる民族にとって、主の「宝」となる[2]。祭司とは神と人間との間に立つ橋わたし、繋ぎ目となる存在です。イスラエルの国が「祭司の王国」だとは、自分たちだけが特別な神の民で他の民族は滅びる、というのではなく、全世界と主とを繫ぐ存在、蝶(ちょう)番(つがい)となる、ということです。それも、イスラエルの民が主の声に聞き従い、主の契約を守ること、言わば、主との関係を豊かに育てて行くことが不可欠だったのです。

 確かにイスラエル人はエジプトから力強く連れ出されました。しかし「救い出されて万々歳」ではなく、その後すぐに露わになるのは、民の文句や傲慢、頑固さでした。海の奇跡の後は、

十五21ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

と言いますが、その直後には、水がない、パンがない、文句を言い、喧嘩を始める姿です。

十六3…「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」

 こんな事を言い出す姿です。奴隷生活からは救い出されたけれど、その心には奴隷根性やお客様意識や無責任な生き方がすっかり染みついています。そして32章では、神がモーセと語っているシナイ山の麓でとんでもない事件が起きます。

「金の子牛」

を造って、それを礼拝してお祭り騒ぎを始める。奴隷生活から救い出された民が、まだ神ならぬものに心を奪われている。まだシッカリ歪みが染みついている。救って下さった神を怒らせて滅びを招くような反逆をしてしまう。そういう民を、神は忍耐し、時には厳しく向き合いながら、神の言葉によって教え、育て、変えようとしておられる。そうやって神の民が、本当に謙虚にされて、成長していくことを通して、周囲にとっても「神の宝」となる。神と全ての人を結びつける「祭司の王国」としての役目を果たしていく。この出エジプトが指し示す私たちキリスト教会の歩みも同じです。キリストの十字架と復活によって神の民とされました。それでも私たちは不完全で、頑固で、罪や歪みがあります。感謝を知らず、不平や不信仰があります。「信じたら救われる」だけではなく、信じて神の民とされても、問題があるのです。「それでもいい」でも「それではダメ」でもなく、その問題に気づかされて、御言葉によって、主の恵みや赦しを体験し続けながら、変えられて行く。主の恵みに心から新しくされて、思い上がりや思い込みを砕かれ、謙虚になり、そういう私たちを永遠に愛される主の恵みを味わい知っていく。そういう歩みが、周囲の人にとっても、祭司となる。神がどんな方かを知らせる存在となるのです。

Ⅰペテロ二9しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。[3]

 出エジプト記と言えば、エジプト脱出のドラマを思い出すと同時に、後半の律法や十戒を思い出す方も多いでしょう。中には、イエスの来られる以前は、あの律法に従わなければ救われなかったのだ、怖い時代だったと思う方もいるかもしれません。しかし、順番はまず一方的な救いがあり、その上で律法が与えられるのです。それは救われるための掟ではなく、神の民としての生き方です。人を束縛したり、上下を付けたりする生き方から救い出すための光なのです。そして、その途上でしくじり続ける私たちとも、神は変わらずともにおられるのです。

 出エジプト記のメッセージを、後半に詳しく繰り返されている「幕屋」を手がかりに覚えてください。

 幕屋とエジプトのシンボルであるピラミッドを比べましょう[4]。ピラミッドは、ファラオや一部の支配階級が上から全体を支配している社会、下に多くの人が犠牲にされ、人間扱いされずに抑圧されている社会です[5]。ある人たちが頂点に立って、他の人を踏みつけて成り立つシステムです[6]

 これに対して幕屋は平面です。上下とか抑圧はありません。幕屋は主の臨在を表し、その周りには十二部族が集められています。役割の違いはあっても、格差や順位はなく、多様で伸び伸びとした姿です。外国人の寄留者さえ酷使は禁じられました[7]。主を中心に、上下関係のない、フラットな集まりがここに始まりました。また、ピラミッドは動かせませんが、幕屋は折りたたんで動かせました。実際、民の歩みは旅だったのです。その旅を主がいつもともにあって導いてくださって、約束の地へと連れてくださっている。

 でも旅をしていれば、途中ではいざこざが付き物です。その時こそ幕屋に行くのです。主は罪のための生贄や和解のための決まりを定められました。それは罪を責めたり人を非難するためではなく、民の罪が丁寧に解決されて、問題を丁寧に乗り越えるためでした。ピラミッド社会ではトップの罪がもみ消されたり、スキャンダルとして下に蹴落とされる汚点になったりするでしょう。主が建てられた幕屋は、その中心に人間の罪の赦しがありました。祭司や指導者も正直に非を告白するし、庶民もそれぞれに自分の罪を告白して、和解するよう求める招きがありました。何より、出エジプト記の筋書きが示す通り、人は奴隷生活から救われても、散々不平を言い、金の子牛を造ったりして、主を怒らせたのです。それでも主が赦し、忍耐して、今私たちの真ん中にいてくださる。主の臨在が幕屋の真ん中にある。幕屋の祭壇で捧げられる生贄の煙とともに立ち上っている。

 出エジプト記の最後は、幕屋を建てて、まだ全部の儀式が済んでいないうちに、待ちきれないかのように、もう幕屋を主の栄光の雲が満たしてしまう、という光景です。主は私たちのすべてを全部知った上で、私たちとともにいたいと願って止まない。その事を深く覚えて、謙虚にされ、ともに旅を続けていく。ピラミッド型でなく幕屋型。主を中心とした、フラットで自由で、回復のある在り方。

※「ピラミッド」vs「幕屋」
上からの支配   フラットな関係(焚き火的!)
奴隷による重労働 神の民の献身
絶対服従     赦しと和解が中心
カースト的    すべての人が招かれている
恐怖による支配  贖いの想起による一致
重厚       軽量・コンパクト
不動       旅を進める
王の墓      生ける神の臨在

 そういう神の民の姿、教会の背伸びしない歩みが、この世界にあって主と人とをつなぐ「祭司の王国」の歩みなんだ。そうされていく旅路が、神の民の歩みなのだ。そういう出エジプト記全体のメッセージなのです[8]

「主よ、私たちを、奴隷の家から神の家族へと招き入れてくださり感謝します。どうぞ私たちの生き方、考え、言葉をあなたの恵みで新しくしてください。私たちの心の頑固なピラミッドを崩してくださって、聖霊によって、あなたの恵みに生きる者と変えてください。まだまだ旅の途上にある私たちとも、あなたがいてくださり、私たちを主の恵みの器としてください」



[1] フランシスコ会訳聖書では、出エジプト記の概説においてこのように紹介しています。「旧約聖書全体の基礎をなす書であるとともに、イスラエルの人々が神の民とされた始まりについて記すものである。」

[2] イスラエルの民を「宝」と呼ぶのは、この他に、申命記七6、十四2、二六18、詩一三五4、マラキ三17

[3] この言葉は、明らかに出エジプト記19章3~6節の言葉を下敷きにしています。同時に、そのオウム返しではなく、当時の読者に合わせたアレンジをしています。現代においても、聖書の字面通りのオウム返しに終わらず、現代人がどのような言葉・メタストーリーを持っているかを理解して、それにアプローチする宣教の創造が望まれているのでしょう。

[4] エジプトと言えばピラミッドやスフィンクス。紀元前千八百年頃は既に全て揃っていましたから、イスラエル人がピラミッドを建てたわけではありません。しかし、主がエジプトを「奴隷の家」と呼ばれた事は、このピラミッドのイメージがピッタリでしょう。

[5] 主は、そのような社会の底辺で苦しんでいたイスラエル人の叫びを聞かれました。またそこで神のように振る舞っているファラオやエジプト人に、自分たちが神ではないことを力強く示されました。そして主は、ピラミッドのような「奴隷の家」、格差社会、人を奴隷のように扱う生き方とは違う在り方を造られます。

[6] これは特にレビ記で強調されています。十一45「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」、十八3「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。」ここから始まるレビ記十八~二十章は「神聖法典」と呼ばれ、主の民として「聖である」ことが求められますが、その「聖」の対極にある在り方が「エジプト」の習わしとして例証されるのです。

[7] 律法では、外国人排斥ではなく、寄留の外国人を大事にしなさい、あなたがたも寄留者で苦しい思いをしたことを知っているのだから、と繰り返されています。出エジプト記二二21「寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。」、二三9、レビ記十九34、申命記十19なども。

[8] しかも、ピラミッド的な社会構造を引っ繰り返すのは、クーデターや革命ではなく、フラットなコミュニティ形成によってであることが示されています。対決的なアプローチではなく、創造的な生き方そのもの、価値観そのものが引っ繰り返され、自由になり、文句や抑圧や反応的な生き方ではない、神の民としての破れ口に立つ生き方が、何より有効な変化の力なのです。

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聖書の物語の全体像06 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神」

2019-01-20 17:38:41 | 聖書の物語の全体像

2019/1/20 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神 聖書の物語の全体像06」

 今日のヘブル書8章は、旧約聖書のエレミヤ書31章の言葉を引用して語っています。そこに

「新しい契約」

という言葉が出て来ました。これが聖書を「旧約聖書」「新約聖書」に分ける元になっています。イエスは「新しい契約」を下さいました。聖書の前半、イエスがおいでになるまでは「古い契約」で「旧約聖書」、イエスが来られた後の後半は「新しい契約」が書かれた「新約聖書」です。とはいえ、7節にはこう書かれている事に注意しましょう。

八7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。神は人々の欠けを責めて、こう言われました。

 旧約の契約、特にモーセに与えられた契約は欠けがありました。神の契約が欠陥品だったという意味ではなく

「人々の欠け」

人間の欠陥、罪、限界を覆うには不十分だったのです。古い契約は、人間の欠点を覆うには不完全であることは最初から分かっていたのです。主は「新しい契約」を実現なさいます。決して「古い契約」が失敗したための対策としての「新しい契約」ではありません。「古い契約」は最初から「新しい契約」の準備として与えられた暫定的な役割の契約、言わば「仮契約」「養育係」[1]でした。人々はその契約を守りませんでしたが、神はそれで失望したり腹を立てたりしたでしょうか。いいえ、むしろ神が自ら「新しい契約」の実現を約束されています。「人が良い行いをしたから、古い契約に忠実な生き方をやり直そうとしているから、少しでも反省の色を見せるなら」と言う条件は一切ありません。ただ神の側からの一方的な宣言として、「新しい契約」を与えるとエレミヤ書で約束されたのです。

 その契約の中身は、こうです。

「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 以前の契約は、神の律法、神の道を、文字で人に教えました。外から与える教えでした。しかしそれは人々には不十分でした。人は欠けがあり、外からの契約では間に合わないからです。「新しい契約」はそうではありません。神が人の思いの中に律法を置く。人の心に律法を書き記す。外から神の道を、いくら口を酸っぱくして教えられても、人には守れません。それは神もご承知でした。神が用意されていたのは、神ご自身が人の心に働いて、神の思いを書き記してくださる、という最終的な契約です。それも「あれをしなさい、これをしてはならない」という掟ではありません。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」

という関係が心に書き記されるのです。「わたしは彼らの神、彼らはわたしの民」そういう堅く、強いを神は私たちとの間に持ってくださることがハッキリ分かる。そういう契約です。それが分かるのは、11節、

11彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

 この「知る」は頭で知識を知る以上に、もっと深く人格的な意味での「知る」です。「知り合いになる」に近いし、「主について」ではなく「主を知る」という人格的な出会いです。新しい契約では、神が人の心に働いて、神との出会いを与えてくれます。誰かが教えてくれるのではなく、その人その人が、自分の事として神を知ります。なぜなら、

12わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 新しい契約を実現するイエス・キリストは、私たちの不義を蔑まず裁かず、あわれんでくださいます。私たちが自分の罪で後悔し、自己嫌悪し、恐れや恥に苛まれるとしても、キリストは私たちのために十字架に架かることで、完全な赦しを成し遂げてくれました。神は私たちの罪を怒るよりも、神の子イエスが身代わりに罪となる事で、私たちに憐れみと赦しを与えてくださいました。その事を通して、私たちは主を知るのです。その事を通して、神が私たちの心に働いて、神の道が刻み込まれるのです。神は私たちの神となってくださった、私たちは神の民となった、そういう関係が始まるのです。これが、イエス・キリストの新しい契約です。

 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」

の言葉は、新しい契約によってハッキリと届けられる関係です。しかしこの文言は、古い契約でも度々繰り返されていました。新約では4回ですが、旧約では40回以上も出て来ます[2]。神が

「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」

と仰る。これは、神が聖書の最初から語っておられた、メッセージです。また、最初の創世記に繰り返されているのは、

「主がアブラハムと(イサクと、ヤコブと、ヨセフと)ともにいてくださった」

という言葉です。最後の黙示録でも、

二一3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。…」

と描かれるのです。これが聖書の示す最終的な将来の特徴です。創造された世界は、人間の背信によって大きく揺さぶられましたが、イエス・キリストがその世界の真ん中に来て、十字架の死によって神のあわれみ、赦しを示して人に神を知らせてくれました。神が人の心に働いて、神との関係を回復してくださいました。それが、キリストの成就した最終的な契約でした。新しい、決して古びることのない、最終的な契約によって、私たちは神の民となるのです。古い契約の時代を重ねて、最後にはキリストが完成してくださった契約の中心は、この関係です。

 出エジプト記の3章で、主がモーセに初めて出会ってくださる記事があります。その時、モーセが「神の名は何かと答えられたら、何と答えたら良いでしょうか」と質問したとき、

出エジプト三14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」

また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。

15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」[3]

 この「わたしは「わたしはある」という者」が神の名前であることは、神が永遠に存在しておられる、厳粛な意味もあることは疑いませんが、同時にここではそのお方が「あなたがたの父祖の神、主」と名乗られる流れも大事です。「わたしはあるI AM」と言われるお方が「あなたがたの父祖の神 I am God of your fathers」と言われ、あなたがたを苦しみから解放すると約束なさるのです。つまり、神は私たちの神となる神。永遠に有るという絶対的な区別に留まらず、私たちの神となり、私たちとの親しく永遠の関係を持つ神になってくださるのです。

 一昨年「聖書新改訳2017」が出されたのに次いで昨年「聖書協会共同訳聖書」が出されました。その中でこの「わたしはある」が

「わたしはいる」

と訳されています。ヘブル語や英語ではBE動詞なのも、日本語は「ある」「いる」と分けるのが特徴ですが、12節では「いる」と訳している事を踏まえて、神も「わたしはいる」と名乗られた、という説明は衝撃でした[4]。神は「わたしはいる」と名乗られる神。あなたがたの神となる神であり、私たちを神の民としてくださる神。イエスがおいでになる時、御使いは生まれる幼子の名を「インマヌエル」(神は私たちとともにいます)と言いました。神は私たちとともにおられます。

 キリスト教の神様ってどんな神様?と聴かれれば、「わたしはいる」と言われる神だと言えます。
 聖書って何が書いてあるの?と質問されたら、「神が何としてでも私たちの神になってくださるって物語だよ」という答え方も出来るでしょう。
 キリスト教の救いって何?と言えば、「神が私たちの神になって、私たちは神の民、神の家族にしてもらえる」という救いなのです。

「私たちの神よ、あなたはこの大きな世界の、小さな小さな私たちの神となり、私たちをあなたの民としてくださいました。私たちの心にあなたを知らせ、あなたの掟を教えてください。主の恵みにただただ感謝し、信頼し、そしてその豊かな関係を育て、分かち合い、励まさせてください。恵みならざるもの、主への信頼を疑わせるような一切のものから解放してください」



[1] ガラテヤ書三24「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。25しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」

[2] 「わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」は、いくつかのバリエーションも含めて、以下の箇所に明言されています。創世記十七7、8、出六7、二〇2、二九45、レビ十一45、二二33、二五38、二六12、45、民数記十五41、申四20、七6、二九13、Ⅱサムエル七23、24、詩篇五〇7、八一10、イザヤ四一10、13、四三3、エレミヤ七23、十一4、二四7、三〇22、三一1、33、三二38、エゼキエル書十一20、十四11、二〇5、7、19、20、三四24、31、三六28、三七23、ホセア十二9、十三4、ヨエル二27、三17、ゼカリヤ八8、一〇6、Ⅱコリント六16、ヘブル八10、Ⅰペテロ二9、黙示二一3、7。

[3] 少し前後も引証して、その中心にある「わたしはある」を考えると、一層意味が深まります。出エジプト記三10以下、「さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」13モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。16行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」

[4] 『舟の右側』2019年1月号、巻頭言とインタビュー記事。

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はじめての教理問答70、73 使徒の働き3章17~26節「預言者イエス」

2019-01-15 16:37:13 | はじめての教理問答

2019/1/13 使徒の働き3章17~26節「預言者イエス」」はじめての教理問答70、73

 「キリスト」とは「油注がれた者」という意味の言葉です。油を頭に注ぐのは、神様がその人を、神の国のために特別な立場に着かせることを表しました。いわば、神様の任命式、就職式が「油を注ぐ」という式だったのです。キリストとは「油を注がれた人」という意味のギリシャ語で、ヘブル語では「メシア」です。聖書では、油を注いで任職されたのが、預言者と祭司と王の三つの働きでした。そこで「キリスト」もその三つを手がかりに考えることが出来ます。今日はその最初の「預言者」です。

問70 キリストがあなたにとって預言者であるとは、どういうことですか?

答 キリストはわたしに、神の意志を教えてくれます。

問73 どうして、あなたには預言者なるキリストが必要ですか?

答 わたしは生まれたままでは無知なものだからです。

 預言者は「予言者」ではありません。「予言」は「予めの言葉」、未来の予告です。聖書の預言は、言葉を預かる、即ち、神の言葉を預かって語る事です。その内容に未来の話が入ることもありますが、大事なのは神が何と仰っているかを人に伝えることです。預言者は未来を知っているわけではなく、神が教えてくださる言葉を預かって、届けるのが預言者です。そこでここにも、

「キリストはわたしに、神の意志を教えてくれます」

と書かれています。キリストが私にとって預言者であるとは、私に未来の出来事を教えてくださる、ということではなく、神の意志を教えてくださる、ということなのです。そしてそれが私たちに必要なのは、

「わたしは産まれたままでは無知なものだから」

です。神の言葉を語ってくれる預言者が、どうしても必要なのです。

 今日の「使徒の働き」三章の最初にも「無知」という言葉が出て来ました。

使徒の働き三17さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています。18しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。20そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。21このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。22モーセはこう言いました。『あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。』

 これは、ユダヤ人がイエスを十字架につけて殺したことを指しています。神の子キリスト・イエスを人々が十字架につけて殺したのは「無知」のせいでした。「無知」であるということは時に大変な暴力を引き起こします。イエスを殺したり、人を踏みつけ、間違って取り返しのつかない悲惨な出来事を引き起こしたりしかねません。私たちは、大事なことを教えてくれる教師を必要としています。そして、ここに書かれているように、神は昔からたくさんの預言者を立てていました。旧約聖書には、二十名以上の「預言者」が登場します。彼らは神の意志を人々に伝えました。神は、多くの人に油を注いで預言者として、民衆や王たち、時には外国人に、神の言葉を語ったり、病気を癒やしたり天から火を降らせたりする奇跡を起こして、神の意志をハッキリと示しました。神は預言者たちを通して、神の意志は何かを分かるように示してくださったのです。

 そして、同時に

「あらかじめキリストとして定められていたイエス」

「神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時」

ともありました。預言者たちは、やがて回復の時が来る。キリストが遣わされる、それは万物が改まる時、全てのものが良くされる時。そういう時がやがて来ると預言していたのです。モーセが

「私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる」

と言っていた。その預言者が、イエスだと言われています。イエスは、旧約時代の預言者の続きで現れた預言者という以上に、その預言者たちがずっと語っていた、偉大な約束の預言者です。イエスこそは「あの預言者」と言われるキリストなのです。

 かつての預言者も、ただ言葉を伝えるだけではありませんでした。奇跡を行ったり、時にはボロボロの着物を着たり、変わった行動を取ったりして、その生き方そのものを通して、神様を示しました。預言者自身が、神の言葉に聴く人でした。偉そうに神のお告げを語るのではなく、神の言葉を聴いてたじろいだり、抵抗したり、反論したりして、神と取っ組み合った人たちです。旧約聖書には、そういう預言者たちの生き方がたくさん出て来ますから、ぜひ注目して読んでみてください。預言者たちの生涯そのものが、ドラマであり、神と人間との関係、そして、私たちに対する神の意思を教えています。

 同時に、聖書には「偽預言者」に対する警告も沢山書かれています。神が遣わされたのではないのに、神から遣わされたと自称して、間違った教えを語る人。あるいは、上手に神の言葉を教えながら、本当の話にちょっと嘘を混ぜて、間違った教えに引き込もうとする人。そういう「偽預言者」に騙されないように注意しなさい、と警告する言葉も聖書にはたくさん出て来ます。偽牧師、偽キリスト、偽預言者に注意しましょう。預言者や神の代弁者を自称して人を引きつける人はまず疑いましょう。私たち自身、聖書を知っている自分は他の人よりも偉いのだ、物知りなのだ、と思うとしたら、偽預言者に近くなるのであって、イエスを預言者とする告白からは遠くなってしまう事です。

 実は、イエスも偽預言者と言われました。人々を騙して先導する危険人物だという罪状で殺されたのです。けれども、イエスは聞こえのいい言葉で人々を騙して自分の方に引き寄せる偽者ではありません。イエスは、その言葉通りに生き抜かれました。イエスは言葉だけでなく、力や行い、その人となり、すべてにおいて神の意志を表したお方です。イエスを見るとき、私たちは神を見ます。イエスは神の言葉そのものです。口先で丸め込むのではなく、黙って、ご自身を十字架の苦しみの死に任せました。神が私たちをどれほど大事に思ってくださっているかをイエスはハッキリと証しされました。

 私たちは、イエスを必要としています。偽預言者にコロッと騙されかねないような、危うい私たちです。神様が遣わしたイエスを信頼しきれば良いのに、つけ込まれる隙があります。だから、イエスの前で静まって、イエスの教えを聴くことがどうしても必要なのです。

 聖書のエピソードを一つ思い出します。イエスがある姉妹の家を訪ねたとき、妹のマリアはイエスの足元で、イエスのお話しをじっと聴いていました。もてなしに忙しくしていた姉のマルタが、ただ聴いている妹を非難したとき、イエスは

「必要なことは一つだけ」

で、マリアの「聴く」姿勢こそがそれだと仰いました。奉仕や働きも大事です。けれども何より必要なのは、イエスに聴くことです。まずイエスの言葉に聴く。静まって、聖書の声、語られている神の御声に心を傾けることが、私たちには必要なのです。イエスが私たちに語ってくださり、真理を届けてくださっています。

 キリストが「預言者」であるのは、私たちがイエスに教えられること、イエスを通して神の御心を知る必要がある、私はイエスの弟子だ、生徒だ、という謙虚な姿勢と表裏一体です。

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