聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記三四章「主が閉じてくださる」

2016-09-04 14:18:51 | 申命記

2016/09/04 申命記三四章「主が閉じてくださる」

 私は若い頃から涙もろい方で、好きな映画も最後にほろっとさせられたり、「そうきたか!」と号泣させられたりする話が多いです。現実の世界ではなかなかそういかないので、せめて人が紡ぎ出す物語に憧れるのかもしれません。今日は、ずっと開いてきた申命記の最後です。モーセの死が語られます。これはハッピーエンドとは違います。申命記だけではなく、聖書のエピソードは殆どが映画のような大団円ではありません。私たちの現実とは違う、憧れの、あちら側の世界ではなく、こちら側の、私たちの現実に近い出来事が淡々と綴られます。しかし、この私たちの現実の世界に、神は働いておられる。そういう希望が語られるのです。

1.モーセの死

 まずここで、モーセがどのように死んだかを見ていきましょう。1から3節でモーセは

「ネボ山…ピスガの頂に登った」

、そして、北のギルアデ、西のエフライムとマナセ[1]、から南のネゲブを見て、すぐ対岸のエリコまでを眺めるのです[2]。これは、非常にざっくり言って、淡路島の先端まで行きながらそこから先へは進めず、高台の展望台から、はるか遠くの琵琶湖から兵庫、岡山までを眺めて、対岸の神戸に目をやる。そんな感覚が近いかもしれません[3]

http://biblestory.jugem.jp/より

モーセはしばらく佇(たたず)んだのでしょう[4]。この三四章のモーセは寡黙です。何も言いません。ただ主の言葉だけが静かに響きます。一望の景色は、主がアブラハム、イサク、ヤコブに、その子孫に与えると誓った地です。イスラエルの民はまさにその約束の地に入ろうとしています。モーセはここまで彼らを導いて来ながら、そこに入ることが出来ない、と主は4節で言われます。モーセは切なかったことでしょうか。悔しかったことでしょうか。でもそれだけではありません。既に三一章三二章で明言していた通り、イスラエルの民が約束の地に入っていったら、直ぐにでも主に背いて、偶像を拝んだり、社会を不正や差別や利潤追求で歪めたりすることは目に見えていたのです。決して「バラ色の未来があって、そこにモーセが入れない」という単純な話ではありませんでした。折角の約束の地に入っても民はそこで神の恵みを踏みにじる歩みをする。眼下に広がる広い地方で、どんな悪や残酷で身勝手な歴史を積み重ねようとしているか。そう思って、モーセは苦しくもあったのではないでしょうか。しかしもう四〇年、モーセは民を導いて来ました。ほとほと指導者の大変さに疲れていました。民の根深い頑なさはこれからも続きます。でも、それはもうモーセの手を離れるのです。モーセの肩からは、指導者という重荷は下ろされたのです。これからの歴史についてはもう責任を負わなくて良い。モーセはこの地に立ちこめる暗雲を感じつつも、解放感もあったかもしれません。

2.私たちに必要なもの

 モーセの最期は一言では言い切れません。達成感も後悔も、満足も心配もあったでしょう。まだまだ気力や体力はあったのですからやり残した思いもあったでしょう[5]。後継者のヨシュアはモーセに続く指導者としての務めを果たしますが、10節ではモーセのような指導者は起こらなかったとあります[6]。ヨシュアはモーセとは違ったのです。彼だから出来たことはまだまだあったはずです。しかし、主はそのモーセの歩みを今ここで閉じられたのです[7]

 創世記から申命記までの五つの本は「モーセ五書」とか「律法(トーラー)」と呼ばれます。旧約聖書の中でも最も重要な部分をされます。しかし「律法」とは言っても、規則や命令よりも、モーセやアブラハムやヤコブの生涯のほうが多いのですね。そして、この申命記の最後三四章も、申命記だけでなく「律法」の最後でもあるわけですが、ここには規則や命令よりも、モーセの死と生涯の総括が述べられます。それこそが、律法の結びです。まとまったハッピーエンドというよりも、私たちに対する語りかけ、問いかけでもって、律法は結ばれるのです。[8]

 私たちは人生が最後は幸せに囲まれて終わるドラマに憧れています。現実には無理だと思っていても、もしもっと自分に力があれば、お金や恵まれた環境や、清く正しい心があれば、立派な信仰があれば、そういう人生になるだろうと考えやすいものです。あるいは、キリスト教や宗教、信仰を持つことによって、少しでもそんなスッキリした人生になることを期待していることもあるでしょう。モーセほどの信仰者なら、きっと後悔も傷もない、平安な最期を迎えて、神様に「よくやった。よい忠実なしもべだ」と言われるんじゃないかと思い込んでいたりします。しかし、そういう幻想はここで砕かれます。人間が理想通りにドラマのような人生を紡げるわけではありません。神の力を借りて自分が神になろうとするのは間違いです。むしろ、私たちは、神の大きなドラマの中で、自分の与えられた役割を果たす者に他ならないのです。

 この後、讃美歌310番を歌います。三番は

「静けき祈りの時はいと楽し。聳ゆるピスガの山の高嶺より故郷眺めて上りゆく日まで慰めを与え、喜びを満たす」

です。ピスガの山から約束の地を眺めたモーセのように、私たちもやがて神様の大きなご計画の全体像を見るのかもしれません。そして、そこに生きる自分も含めた人間がみんな、過ちを犯し、限界があります。いろいろな戦いや苦しみ、孤独や恐れを抱えます。そういう私たちが、自分たちが人間に過ぎないことを神の前に認めて、静かに祈る中で、慰めを与えられ、喜びを満たされる。そうして祈りながら、やがてピスガの高嶺よりも先、神ご自身のもとに召されるまで旅をするのです。

3.モーセにまさる主の導き

 ここにはモーセのような預言者は再び起こらなかった、とあります。同時に、申命記の一八章には、モーセのような預言者を与えるという約束があります[9]。「使徒の働き」では、イエスこそこの

「モーセのような預言者」

だと宣言しています[10]。イエスはモーセ以上の完全な預言者であり、完全な指導者として、約束の地に私たちを導き入れてくださいます。でもそれだけなら、私たちはこの時モーセが見通していたように、神が下さった祝福の中で神に背いたり、恵みを乱用したり、人を自分のために傷つけ、裁き、利用しようとします。神の律法に従う代わりに、自分の理想や自分の欲望に従おうとするのが罪の姿なのです。イエスはその意味でも完全な預言者です。イエスはご自分が

「律法を廃棄するためではなく、律法を成就するために来た」

と言われました[11]。私たちの基準から神の律法に生きるために、イエスは来られたのです。イエスを信じれば神の律法を守らなくても良い、ではないし、ただ形式や強制で無理矢理にでも神の律法を行わせる、という意味でも決してありません。イエスが「わたしは律法を成就するために来た」と仰った山上の説教では、天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい、ということこそが律法の極意として語られます。天の父なる神が憐れみ深いことを私たちが深く味わい知ることこそ、律法が成就していく唯一の秘訣です。

 ここでもそうではないでしょうか。申命記の最後に示されるのは、モーセと主との静かで深い時間です。モーセの失敗も働きも丸ごと引き受けつつ、その生涯を閉じられる主です。11節12節にまとめられるモーセの働きも、モーセが、ではなく、主がモーセを通してエジプトに対してもイスラエル人に対しても権威をお示しになるためだった、と言われます[12]。そして、主がモーセの生涯を今ここで閉じられるのです。

 ここで、モーセその人以上に、モーセを通してここまで働き、今その生涯を終えた主が中心です。そしてモーセは死んでも、主は今も変わらず生きておられ、欠けや様々な思いのある私たちに語りかけ、導かれます。主イエスはモーセにまさる預言者として、私たちを教え、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。

 モーセにまさる主イエスが、私たちを導き、確かに約束を果たしてくださることを、この申命記の結びに確信しましょう。その主が私たちに下さっている聖書に聞き従う大切さと喜ばしさを、もう一度心に刻みましょう。その主の大きな神の国を眺める日が私たちにも来ると信じます。

「主よ。私たちのいのちはあなたのものです。私たちの願う物語よりも、もっと大きなご計画の中に、あなたは私たちを導き、ともにいてくださいます。失敗や悲しみや、訳の分からない展開になろうとも、主よ、あなた様の真実を仰がせてください。今もともにおられ、最後まで導いてくださる主に信頼して、この旅路を整え、心を聖なる恵みによって清めてください」



[1] 「西の海」とは、地中海のことです。

[2] ピスガの標高は700メートルほどと考えられています。

[3] あるいは、距離感だけで言えば、高知から鳴門、岡山、愛媛まで、四国から瀬戸内海までを見渡すぐらいの感じです。

[4] モーセは約束の地に入れませんでしたが、最初にこれを見る特権を与えられました。いいえ、それ以上に、こうして約束の地全体を見回すことはモーセだけが許されたことでした。さらに、主イエスの「山上の変貌」において、モーセがエリヤとともにイエスの前に現れます。しかし、そのモーセは、自分がカナンの地を踏んでいる事以上に、主イエスの苦しみを話題としていました。地上で果たせなかった願望を果たすよりも大きなこと、永遠の御国へと踏み入れるために、神ご自身が担って下さった苦しみ、戦い、寂しさ、に心打たれているのです。ルカ九28-36。

[5] 「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」が、自分では「出入りが出来ない」(三一2)と言っています。人がよく言うように、「仕事があるからまだ生かされている」とは言いがたいのです。死は、神が納得されたから訪れるのではない。人間が自分のいのちは自分のものではないことを痛み知る出来事である。

[6] 民数機二七15-23に、モーセがヨシュアの上に手を置いて任命した記事があったことを、ここでは前提としています。それとて、その儀式に力があったのでも、モーセに権威を授ける能力があったのでもありません。神が、その任命をも用いて、働いてくださったのです。さらに、この時点で、すでにヨシュアは「神の霊の宿っている人」と呼ばれていました(民二七18)。

[7] McConvilleは「主の怒りの理由は、少なくとも申命記においては十分な説明がない。これは、次のような印象を強める。すなわち、モーセの罰は何かしら身代わりの死だった、と思わせるのだ。」(p.478)と説明しています。さらに、イザヤ書の「主のしもべの歌」にも、しもべが苦難を負い、イスラエルだけでなく諸国の民のためにいのちを捧げると歌われていることにも通じることを指摘しています。

[8] Mannは、ヨシュア記でカナン入植を終えた時点ではなく、このカナンの手前でトーラーが閉じられることを重視しています。自己満足より自己吟味、ハッピーエンドよりもチャレンジが聖書の民の立つべき模範なのです。(Westminster Bible Commentary, p.147)

[9] 申命記十八18-20。

[10] 使徒の働き三20以下「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。21このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで天にとどまっていなければなりません。22モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』24また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について述べました。」、また七37「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。」

[11] マタイ五17以下。

[12] Craigieは、最後の3節がモーセの墓碑銘のようだ、と。預言者であったが、墓碑銘が記すのは、彼がどれほど神を知っていたか、ではなく、神がモーセを知っておられた、という記述(NICOT, p.406)。

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申命記三三章(26-29節)「家なる神」

2016-08-14 20:10:16 | 申命記

2016/08/14 申命記三三章(26-29節)「家なる神」

 申命記もあと一章です。そのクライマックスとなるのが今読んで戴いた26節以下ですが[1]、改めて、この申命記が語っていたのも、私たちの「しあわせ」だったことを教えられます。

1.モーセの祝福

 前回の三二章は「モーセの歌」でした。歌の形式で、イスラエルの民に主を思い起こさせる言葉が連ねられていました。それに続くこの三三章は

「モーセの祝福」

と呼ばれています。モーセはこの申命記を語った後、自分が死のうとしていることを知っていましたが、最後の最後に、約束の地に入って行くイスラエルの民のために、それぞれの部族に向けての祝福を語っていくのですね。そして、部族毎に「祝福」を語った後、この26節以下では民全体に対しての祝福が語られます。とはいっても、祝福を与えるとか、神に祝福を祈り求めるのではありませんね。もう既にあなたがたは祝福されている、神は本当に大いなる方であり、その神を自分たちの神とするあなたがたはどれほど幸いか、を宣言し、銘記させる「祝福」です。

26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。
神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。

27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。…[2]

29しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。
主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。…」

 こんな言葉が出るとは誰が思っていたでしょうか。神が民の「住む家」となってくださり、永遠の腕を下に伸ばして、民は「安らかに住まい」(28節)、他にはないしあわせを味わわせてくださる、というのですね。説教題を「家なる神」としました。神を表現したり持ち上げたりするには色々な言い方があるでしょうが、「私たちの住む家」と呼ぶだなんて、思いつかない言葉です。しかし、神は私たちの「住む家」となってくださる。神との関係は、私たちが我が家に帰ってきたように、そしてずっとそこに住み、生活するような、そのような関係なのです。実際この地球は、人間や動植物が生長するのに、絶妙な環境です。太陽との距離や地軸の傾き、科学的には最高のバランスなのだそうです。それは、神ご自身が私たちを迎え入れ、養い、安心させて、いつまでも住まわせたいと思われているお心の表れでしょう。神は、私たちを喜んで御自身のうちに迎え入れ、永遠の腕で支え続けてくださるお方です。[3]

2.平等ではないが

 しかし、その前にある6節から25節までの十二部族への言葉は随分とアンバランスです。祝福の良い言葉ばかりではありません。最初の6節のルベンや、22節のダンへの言葉は祝福なのか、どういう意味かさえ良く分からない、短い言葉です。それより「シメオン部族」は名前さえ出て来ないのですね。一方で、モーセの属するレビ部族や、13節以下のヨセフにはこれでもかとばかりに祝福や勝利の言葉が十九行も並べられます。後の七部族は、言葉も短いですし、よく意味の取れない文章が多いのです。バラツキが著しい。決して平等ではありません。

 この部族の順番は大雑把に言って、それぞれの部族毎に与えられる土地を、南から北に上って行くような並びで挙げられていきます。そうすると、その部族毎の土地の気候も広さも地の利も、バラツキが出て来ざるを得ないわけです。農業の祝福もここでは言及されていますが、産物もそのしやすさも違ってくるのですね。一律でも、公平でもないのです。

 しかし、そういう扱いの差は激しくあった上で、最初に申しましたように、26節以下で、神が住む家となり、あなたがたは他の誰よりも幸せだ、と言われているということですね。これは大事なことです。十二部族はそれぞれの部族の特徴や歴史、伝統がありました。人は誰も過去を変えることは出来ません。部族ごとの背負っているものは違うし、それを放り出すことは出来ないのです。それでも、それぞれの部族毎に違いがあっても、決して平等ではなくても、神はどの部族をも祝福してくださるし、一人一人に幸せを下さるということです。比較したり妬んだりせず、「どうせ自分は出だしが不利なんだし」といじけたら分からなくなる「幸せ」です。ハンディもあり、経済的な差や、文化や気質の違い、色々な差があっても、その「変えることの出来ない」ことを「不幸」だと被害者意識を持っていては見えなくなる祝福です。

 ここで祝福の言葉を見てみてもどうでしょうか。ヨセフには13節から十行以上、賜物、最上のもの、恵みが畳みかけられますが、21節ではガド部族に

「最良の地」

とあり、23節ではナフタリに

「主の祝福に満たされている」。

 そして24節ではアシェルが

「子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ」

と言われています。さて誰が一番祝福されているのでしょう-なんて質問は野暮で、無意味ですね。それぞれが「自分は祝福されている、最良の地、祝福に満たされた者、最も祝福されている」と思えるのが幸せなのです。比べだした時点で、求めているのは祝福ではなくて、プライドや競争心でしかなくなります。それぞれが、酸いも甘いもある、労苦の絶えない生活で、神が自分の神、自分の家となり、救いと幸せを今ここで注いでくださり、私にとっての最高の祝福をくださっているのだと受け止めていける。それこそ本当の幸せな人生です。幸せを戴いた人です。

3.神は、我が家

 申命記では、ここまで様々な命令や条文がありました。あの全部が、やはり面倒臭い決まり事に見えて、実は、主が民を幸せにしたいから、幸せな社会を作らせたくて授けられた指針なのです。そして、その条文が想定していたのは、様々な民事事件や揉め事、人間関係の衝突でした。主が約束されていたのは、人生の揉め事がない「祝福」ではありませんでした。自分たちにとって居心地の良い「幸せ」ではありませんでした。むしろ、社会に付き物の問題がある中で、その中で少しでも公平に、正しく、冷静に、そして恵み深い心で対処していこう、というあり方でした。生活や経済や対人関係が円滑でなくても、隣の芝生が青く見えても、文句を言うのではなく、出来る正義をしていく。それが申命記の律法の意味だったのです。そして、その根底には、生ける本当の大いなる唯一の神が、私たちの神となり、私の人生をかけがえのないものとして、見えない手で下から支えてくださっている。そういう信仰があるのです。

 繰り返しますが、私たちが何もしようとも神は幸せを下さる、という事ではありません。申命記は、主の言葉に背いて、神ならぬものを神として生きる時にどんなに荒廃や呪いを呼び寄せてしまうかを強調していました。この三三章の祝福もこのまま成就はしませんでした[4]。思い上がって道を外れて[5]、早々と自滅していった部族もあるのです[6]。私たちの応答や選択は決して小さな事ではありません。自分勝手に生きれば、その刈り取りは必ずすることになるのです。でも、そのような責任を語ってきた申命記の最後に、モーセが歌うのは祝福です。大いなる神にある幸せです。その神に信頼して、今ここで感謝をもって生きる。他の生き方に憧れたり、他の何かを神のように縋り求めたりせず、自分の人生を受け止めさせていただくのです。

 イエス・キリストは人としてこの世においでになりました。最も貧しく、母子家庭で、長男として弟や妹を養い、ナザレの田舎っぺとして、見栄えのないお方でした。不利な境遇で育ち、最後は十字架に死なれました。しかし、不遇の辛さを身を以て味わい知りながら、イエスが聞いていたのは、天の父が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と仰った言葉でした。そのイエスが聞かれた、主の声を聞き、主の幸いを戴きたいと思います。主が私たちの心を導き、変えてくださって、妬みや不平から自由にされ、自分は最も祝福されている、世界一の幸せ者だと思える心を、そういう人生を下さるよう、願い求めようではありませんか。

「主よ、ここにいる私たちもそれぞれに違います。個性も課題も何もかも、決して平等ではありません。それでも自分にもお互いにも、かけがえのない主の愛と最高の幸いが注がれているのだと信じ合うことが出来ますように。壊れるべきものが壊れて悲しみ苦しむとしても、下には永遠の腕があると揺るぎなく告白しながら、あなた様に栄光を帰させてくださいますように」



徳島は阿波踊りのシーズン真っ盛りです~
 
[1] 最後の一章となる三四章はエピローグのようなものですから、今日の三三章が実質総まとめのクライマックスだと言って良いでしょう。

[2] 省略しましたが、ここには「あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた」とありますし、他にもこの三三章には戦闘用語が多数あります。現代の感覚とは大きく異なる、価値観の差があります。ですからこれをこのまま、現代に適用して、戦争の正当化や勝利主義の根拠としてはなりません。むしろ、この時から三五〇〇年の歴史の数々の反省をすべき責任が、今の私たちにはあります。この敗戦の8月に、平和を唱えるだけでなく、「ねたみ」や「むさぼり」が他国への戦いへと安易に引き込もうとする、その誘惑をも意識しなければなりません。申命記の時代と同様、この社会での歩みは、決して楽天的には済まないのです。

[3] 3節には「国々の民を愛する方」とあります。驚くべき事に、イスラエルだけでなく、「国々の民」を愛する、といわれるのです。それゆえ、私たちは、イスラエルだけが神の民ではなく、イスラエルが証しとなって、諸国の民に、神の偉大で憐れみに満ちた恵みが告げ知らされ、招かれていると、ここに既に約束を聞くことが出来ます。

[4] 創世記四九章の「ヤコブの祝福」との比較も面白いでしょう。ヤコブの言葉では呪いであった部族が、モーセの言葉では祝福に転じたり、祝福された部族があっさりと流されていたり、という違いは、「モーセ五書」が示している、歴史による変遷と人間の応答の及ぼす結果のダイナミズムを表していると思えます。神は人間を応答的な存在としてお造りになりましたから、人間の応答によって、歴史の展開は変わるのです。言い換えれば、神の摂理とは決して「運命論や決定論」ではない、ということです。

[5] その端的な例は、エフライム部族です。ここでは最も長く祝福されていますが、彼らはそこに優越感を抱き、後にはダビデ王朝に対抗し、北イスラエル王国を築いていきます。そして、王朝乱立の末、南ユダ王国より一〇〇年も早く滅亡するのです。その後に北イスラエルに誕生した「サマリヤ教団」は、この申命記までの五書のみを「サマリヤ五書」として正典にした教義を作ります。ヨセフ部族への祝福、優位性に執着してしまいます。勿論、そのような偏った聖書引用は、聖書全体で見ても受け入れられません。

[6] 困難な状況ほど、神を慕い求める契機となる。逆に、祝福にこそ、人は思い上がりやすいことも言われていた。それでも、主は祝福することを止めない。おしみなく、祝福を語り、示されるのである。

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申命記三二章(36-42節)「立ち上がってくださる神」

2016-08-07 16:11:11 | 申命記

2016/08/07 申命記三二章(36-42節)「立ち上がってくださる神」

1.いのちの歌(47節)

 申命記三二章には「モーセの歌」と呼ばれる、長い歌が書かれています。前回、三一章でお話ししましたように、これは今から約束の地に入ろうとしているイスラエルの民のために主が教えられた歌です。主は、民がこれからの生活ですぐさま神から離れて行き、自分たちの身を持ち崩すことを見抜いておられました。そこで、神の言葉に背いた末に滅茶滅茶な社会になってしまった時、思い出せるようにと、記憶に残りやすい歌の形でこの歌が与えられたのです。

 三二章をざっと見ましょう。最初は「天」と「地」を呼び寄せての歌い出しです。5節には、主を忘れる民の非が厳しく責めらながら、主がどんなお方かを思い出させていきます[1]

10主は荒野で、獣のほえる荒れ地で彼を見つけ、

 これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

 そして14節まで、主の彼らに対する愛と守りが、野の産物や蜜やミルクや羊や小麦やワインなどとして豊かに与えられたことが思い出させられます。しかし、その祝福のただ中で、

15エシュルン[2]は肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。

 自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。[3]

 そして他の神々(神ではない、人間が考え出した宗教)に生け贄をささげ出す。神は怒られ、厳しい罰や荒れ廃れる報いを口にされます。26節までそう言いつつ、しかし、27節では思い直されるのです。それを見て人間が勘違いしないよう、神の栄光が最も表され、人間が誤解しようなく神と出会うために、と言われるのが、読んで戴いた、36節以下の部分ですね。

36主は御民をかばい[4]、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。…

39今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。…[5]

43諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、
ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。

 こういう最大級の力強い宣言です。だれも思いもしない結末に至る歌なのですね。

2.ご自分の民の地の贖いをされるから

 ここで最後には

「地の贖い」

とありますね。「贖い」とはこの場合「覆って回復する」ということです[6]。ただ民との関係を回復するだけではないのです。地そのものを覆われるのです。人間が神から離れて、思い上がり、暴力や不正で滅茶滅茶にしてしまった世界を、神が癒やし、包み、覆ってくださる。そういう豊かな約束で、この歌は閉じられるのです。しかも、その前には

「諸国の民よ。御民のために喜び歌え」

とあります。主が、しくじり尽くした民にも憐れみを表し、地をも癒やしてくださることは、諸国の民にとっても喜びになるんですね。いいえ、この言葉は直訳すれば「御民を誉め歌え」という文です。「御民を誉め歌え」。民の失敗や愚かさ、恩知らずと邪で始まったはずの歌が、最後は、民が賛美の対象となって終わるのです。

 以前の二八章は、神に見放された悲惨が延々と描きました。不作、貧乏、病気、戦争と敗北、借金と差別、難民や恐怖です。食べる物がないので親が子どもを食らい、朝には「夕方ならいいのに」と言い、夕には「朝ならいいのに」と呟く、虚しい姿でした。現代も、テロや犯罪があります。貧困や家庭の問題が本当に深刻です。七一年前の広島、長崎も忘れてはいけません。人の命など吹けば飛ぶくらい軽く扱われ、そう思わずにおれない荒廃です。貧困は更に「勉強が出来ない、将来に希望がもてない」、極めてネガティブな心を作ります。そして、すぐにキレたり暴力に訴えたり、快楽で身を持ち崩し、「どうせ人生そんなものだ」と短絡的になるのです。こういう世界に神が来られて、「罪を悔い改めなさい」とお説教したりしても、将来の希望を約束されても、心がすり切れた人は「やっぱり神も五月蠅いなぁ」と思うだけでしょう。

 例えば私が、馬鹿な生き方をした挙げ句、悪い仲間とつるんで、仕舞いにはその仲間にボコボコにされたとしたとき、そこに神が現れたら何と言われるでしょう。「今までの間違いを認めたら救ってやろう」とか「わたしが言った通りじゃないか」と予想するでしょう。そんな事を言われたら、ますます惨めになり、死んでしまいたくなるでしょう。でも、そうではない。41節以下を見ると、まるで、謝罪や反省などひと言も求めることなく、「お前をこんな目に遭わせた奴らに挨拶してくる」と、息子を打ちたたいた悪い仲間を全員叩きのめしに出かけるようですね。それが言い過ぎなら、打ちのめされて動けなくなっているわが子に説教なんかせず、近づかれる。反省の弁や手を差し出すことを求めたりせず、わが子を抱きかかえて、ボロボロのまま担ぎ上げて、家や病院に連れて行って下さるような、そんな神です。

 人間が地を好き放題に破壊した末に、反省や謝罪を求める言葉はここにありません。神が来られて、地を贖う、という宣言なのです[7]。神を捨てて、他のものを神の様にして慕い、犠牲を捧げ続け、結局自分も人を傷つけ、取り返しのつかないことまでしてしまった―そういう人の所にさえ来られて、癒やし、生かし、更に地を回復すると言われるのです。将来など捨て鉢になっている人に、信仰や悔い改めを条件に将来の希望を語るのではなくて、今ここで回復や癒やしを始めてくださり、「それゆえ、わたしを神と認めよ、あなたが慕っている他のものはあなたの神にはなれない」事実を示されるのです。

3.非常識な神

 神はこの三二章の歌で―自業自得の極みで思い出すようにと教えられた歌で―何を命じておられますか。何をせよ、と言われていますか。7節の

「思い出し、思え」

と39節の

「今、見よ」

ぐらいです。ここで登場する神は、民に悔い改めを迫ったり、回心を要求する神でさえありません。ただ、神ご自身をお示しになるのです。繰り返されているのは、他の神々との雲泥の差ですね。並べるのも烏滸がましい、主なる神の力、リアリティ、唯一の栄光が何度も何度も繰り返して念を押されています。そしてその主なる神は、ただ圧倒的で、絶対的で、自分以外のものを礼拝するなんてけしからんと憤慨して滅ぼす神でもありません。人に愛想を尽かして見捨てることは決してなさらない神です。終始一貫、主はあなたがたの神であり、あなたがたを産み育て、養う神。人間が思い描く、どんな神々の常識にも当てはまらないお方です。

 これが私たちの神です。そして私たちはこの神に捕らえて戴いて、神の民とされて、今ここにあるのです。キリスト者として生きることは、この神を神として、神の前に深い平安と、信頼と、従順をもって生きることです。具体的に何をするかも大事ですけれど、その何かをすることに囚われて、神を自分の常識や小さな理解に閉じ込めて考え続け、平安もなく心が渇いて疲れたまま、どこかで苦々しさや妄想を握りしめながらの信仰なら、完全に本末転倒です[8]

 主は言われます。

「今、見よ。わたしこそそれなのだ。」

 私たちが何かをする、というより、神を神として認めよ。その神の偉大さ、その憐れみと愛の計り知れなさを見よ。あなたの持っているちっぽけな神理解、他の宗教や世間の人気や一時的な興奮や何かと遜色ないぐらいにしか考えていない浅い神理解を捨てて、私たちのために立ち上がって下さる神の愛に向きなさい。その愛の中に静かに深く憩いなさい。健気な悔い改めの文句もいらないし、犠牲や奉仕が欲しいのでもなく、まずあなたが、そのような神の偉大さに気づき、癒やされ、信頼に強められる。その時、その事を通して、世界の諸国があなたのことで喜び歌う様になる。そういう歌です[9]

「主よ。あなたこそすべてのすべてでいますのに、私たちが今から遣わされる生活は、あなたはボンヤリとして思えます。今ここでさえ、私たちの心を占め、生活の基盤としているものはあなたならぬものかもしれません。しかし、その全てがいつか崩れ、神ではないと知ることと、あなただけが神であり、あなたこそ私たちの永遠の神であられることを覚えさせてください。あなたに信頼して生きる幸いを、日々、静まりつつ、立ち止まり味わいつつ歩ませてください」



[1] 5節「主の子らではない」は、修辞的な否定で、主の子らであることを否定しているのではありません。続く6節で「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか」と言われている通りです。このような修辞的否定は、ホセア一9、イザヤ一2-4などにも見られます。

[2] 「エシュルン」直立した者の意です。後半にも出て来ますが、彼らの奢った態度を現すとともに、「イスラエル」をもじった音のアイロニーにもなっています。

[3] 18節の、「生んだbegot神」は父性、「産みの苦しみをしたbore神」は母性、をそれぞれ現しています。神が「父・男性」であるだけでなく、「母・女性」でもあり、堕落の結果の呪いに自ら服される様な、弱さを身にまとっておられる言い方をも厭われないのです。

[4] 36節「かばう」(ディーン)は、さばく(創世記十五14)、弁護する(詩五四1)、争う(伝道者六10)、治める(ゼカリヤ三7)などと訳し分けられます。神が「かばう」のは、罪や問題を見て見ぬふりをなさるのではなく、正しく取り扱いつつ、白日の下にさらすからこそ、法的に問題なく解決するような「弁護」であり、正しく「かばう」ことなのです。

[5] これだけを読むと、主の裁きで自分たちも殺されそうに思うかもしれません。しかし、よく読めば、「36主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」「38今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。」「43諸国の民よ。御民のために喜び歌え。」など、希望と慰めに満ちたメッセージなのです。これは(今回私も気づいたのですが)、殺したり生かしたり、傷つけたり癒やしたりする、というよりも「わたしは殺しもするが、そこから生かす神である、傷つけもするが、その傷を癒やすことが出来るし、癒やすのがわたしだ。なぜなら、わたしは神だからだ」-そういう響きですね。人間が侮ることは出来ませんが、かといってただ恐れて諦めているのも間違いで、神は人間にとっては非常識なほど、人間に関わり、神の民を生かしてくださるのです。私たちがもうダメだろう、と思っている時にも、神はそんな人間の浅はかさを吹き飛ばすような不快ご計画を表してくださるのです。私たちが、みことばから離れて人生を台無しにしたとしても、そこに神は現れてくださるのです。死にかけた私たちを背負って救い出されるのです。

[6] ヘブル語「キッペル」の贖うです。他にも「ガーアル」なども「贖い」と訳されますが、この場合は「覆う」です。

[7] これも驚くべき事に、「地」は全地のことであって、特定の地名は、エジプトもシナイも、カナンもこの三二章には出て来ません。申命記という歴史的・地理的な状況にありながら、カナンや出エジプトの先にあるものを見据えています。それは、神との関係と全宇宙的な被造物の回復です。

[8] 42節からの黙想。みことばに従うことは、それ自体が祝福であり、いのち。神を礼拝することも、人を愛し、正しく生きることも。現代、みんな怒りっぽく、イライラして、自分の好き勝手に生きること、楽しむことが自由だと考えている。反対に、キリスト者は、好きなことを我慢して、真面目にあることが神に誉められると思っているきらいがある。どちらも間違いである。みことばに喜んで従うことが、私たちにいのちをもたらす。

[9] これは、申命記だけではありません。ヨブ記の結びがそうでした。すべてを失って絶望の中にいたヨブに対して、神が沈黙を破って語られたのは、ヨブや私たちが求めがちな答ではなく、神ご自身でした。聖書における神との出会いには、このような面があります。何より、主イエス・キリストがそうです。人となり十字架に掛かり、よみがえられたイエスが神の子である。もうこの出会いだけで私たちの人生はひっくり返されるのです。

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申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

2016-07-24 17:49:11 | 申命記

2016/07/24 申命記三一章(1-13節)「歌なら忘れない」

1.大きな変化の中で

 申命記は、荒野での四〇年の放浪から、カナンの地に入って行こうとしている時に語られたモーセの遺言説教です。遊牧の生活から定住の農耕生活になる、大変化です。加えて、モーセからヨシュアに指導者が替わります。そういう変化の中で、人間は誘惑に弱くなります。道を見失い、神から離れがちです。この三一章は、そうした変化を感じさせますが、それだけに私たちにもとても身近な章です。私たちも変化の中で不安になります。時代の流れや生活が変わる中で、孤独や焦りを覚えることがあります。逆に、「昔は良かった」と過去を美化して懐かしむ事に逃げ込むかもしれません。モーセの言葉はそういう後ろ向きな所がありません。

 6強くあれ。雄々しくあれ。…恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれる…。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 特に、ここでは、若い指導者ヨシュアに向けて励ます目的で語られています。新体制を意識した言葉です。そこでも、主がともにいてくださるのだから、強く、雄々しく、恐れず、自分の責任を果たしなさい、と言われますね。また、9節以下では、レビ人や長老たちに、これからも七年ごとに、この申命記の言葉を繰り返して朗読し続けるよう命じられます。それは、その規則を形式的に守り行わせるためではありません。12節13節で繰り返されるように、

「あなたがたの神、主を恐れ」

て生きるためです。その根拠は、主がともにおられることなのです。

2.三一章のテーマは「主がともにおられる」(3、6、8、17、23節)

 環境は変わり、生活も一変しても主はともにおられます。新しい指導者ヨシュアが、モーセのようなカリスマ性や経験や資質がなくても、モーセを懐かしんだり比較したりせず、主を恐れて新しい体制を受け止めるのです[1]。なぜなら、主以外のものは、生活も人間も環境も時代もすべては変わっていくからです。でも、そこでも主がともにいてくださるのです。この三一章の9節には

「契約の箱」

が出て来ます。神の臨在のしるしであり、律法の板が納められたあの聖なる箱ですね。14節には

「会見の天幕」

が出て来ます。これも、神がモーセと語られた、特別な幕屋のことです。でも、

「契約の箱」

「会見の天幕」

も、申命記ではここだけしか出て来ないのですね。14節で主がモーセに語り掛けられますが、主が直接語られるのも、申命記では初めてです。今まではずっと、モーセが説教をしてきたのです。モーセの引用ではなくて、主が直接語られるのは、申命記では初めてのことです。そして、15節で主は雲の柱のうちにモーセとヨシュアに語り掛けられます。つまり、この三一章は、契約の箱、会見の天幕、雲の柱のうちから主ご自身が語られる、主の臨在が強調されるのです。

 でも、一方で、その主が16節以下で語られるのはどんなことでしょうか。主の民がカナンの地に入ったら、ほどなく偶像の神々に浮気をして、主との契約を破るつもりでいる、と見抜いておられる予告なのですね。それじゃダメだ、なんとしてでも御言葉を守れ、といきり立つのではなく、もう今彼らの中に、主に逆らう悪意が芽を出している、というシビアな言葉なのです。モーセもこの言葉を受けて、最後の26節以下でイスラエル人に直接、言っていますね。

29私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行い、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。

 けれども、その時のために、と主が語っておられたり、三二章の「歌」を授けたりするのは、何のためでしょうか。予防線を張るためでも、後悔させるためでもないのです。

17その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか』というであろう。

 いいや、そうではない、神がおられないからではない、神はおられる、そして、人間が神に逆らい、祝福を慢心に変えて、神に背を向けることも知っておられて、罰を下された。そして、その罰の末に、彼らが自分たちの間違いに気づいて、神に立ち戻るため、歌を授ける、というのです。神がおられない、ではなく、神こそ私たちとともにおられ、この神以外に自分たちとともにいます神はいない、と思い出す。私たちが恐れたり疑ったりして、主から離れて、勝手な道を歩んで、その報いを我が身に招いたとしても、そこでも主は私たちとともにおられ、私たちを待っておられる。そのことを思い出すために、三二章の歌が伝えられるのです[2]

3.歌なら忘れられない(19-21節)

 三二章の歌、どうぞ皆さん次までに読んでみてください。三千五百年も前の歌と、現代の演歌やJポップとは簡単に比較は出来ませんが、たぶん私たちがそれぞれに忘れがたい思い出の歌を持っているように、この歌も記憶に刻まれるには最適な方法だったのでしょう。そして、そのようにしてまでも主が思い出させたかったのは、主が私たちの中におられる、という現実でした。御言葉を守らなかったために罰が下った、という非難や自嘲ではないのです。もう主は私たちとともにおられない、と突き放すためではないのです。主がおられるとは到底思えないどん底でも、主はともにおられると思い出させたい。そのために、歌なら忘れられないからと、この歌まで用意してくださったのです。そうして、主がともにおられることを思い出して、心から主に立ち返って、心から主の言葉に従わせたい。どんな時も、主は私たちを見捨てず見放さないと悟ってほしい。強く雄々しくあってほしい。恐れずおののかず、先立ってゆかれる主に従って欲しい。それは、私たちの日常においても変わらない、主の願いなのです。

 先週から、青年会と中高科で「あしあと」という歌を歌っています[3]。マーガレット・パワーズというアメリカの長老教会の方が書かれた、有名な詩です。

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
1つはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには1つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 イエス・キリストの生涯は「神は我らと共にいます」のメッセージでした。私たちの所に来て、ともにおられる愛を生涯掛けて、いのちも捨てて、示してくださいました。私たちが一番辛い時、孤独な時。その時こそ、主が私たちを背負ってくださいます。だから、私たちは、恐れないでよいのです。人や環境が変わろうと、死が近づこうと、主は私たちとともにおられます。違いに直面しても、今までのやり方や伝統や常識を握りしめ、押しつけ、拘るのでなく、柔軟に変わることが出来ます。主は私たちに変化や違いを楽しみ、喜ばせてくださるのです。

「主は私たちとともにおられ、道を示し、勇気を、歌を授けてくださいます。どんな環境の変化も、願いに反する現実にも、あなたはともにおられます。自分自身の失敗や、体が衰え死を迎える時、そこにもあなたはおられ、私たちを導かれるのです。朽ちる物の中で生きる私共を、どうぞ、変わらないあなたの御臨在を、共にいます愛を証しする存在とならせてください」

 

今日は、夏期学校でした。14名の子どもたちといっしょに、「空の鳥を見よ」のメッセージ、モビール工作、そして「鳴門教会スペシャルホットサンド」を食べました!

[1] モーセに代わる指導者ですが、しかし、モーセと同じだけのリーダーシップはヨシュアにはありません。モーセと同じような預言者が将来現れることは、一八章18節以下で約束されていましたが、それは少なくともヨシュアではないのです。

[2] ヨシュアに対して語られるのも「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」(23節)、これを聞かせることが、主がヨシュアを呼んだ理由でした。この先に多くの心配もあり、民が背信していくこともハッキリ分かっているのに、これだけが、主のヨシュアに対する言葉でした。ヨシュアは、民の背信を止めることは出来ません。そのように努力する必要もありませんし、その努力を後押しするために、「強く、雄々しくある」のでもありません。ヨシュアもまた、困難な中で、主がともにおられるゆえに、どんな状況でも、強く、雄々しくあることだけを求められたのです。これは、ヨシュア記のテーマにそのまま通じていきます。

 

 

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申命記三〇章(11-20節)「あなたのごく身近に」

2016-07-17 20:22:41 | 申命記

2016/07/17 申命記三〇章(11-20節)「あなたのごく身近に」

 20年前に、依存症の問題に関わり、アルコールやギャンブル、摂食障害などで苦しむ方々と出会いました。ある方がこんな言葉を紹介してくださいました。「回復とは元に戻ることではない。それは変化を言う」。忘れがたい言葉で、その後も、折々に私を支えてくれました。

1.立ち返り、元通りにし、連れ戻す(1-10節)

 今日の三〇章の前半には「回復」が予告されています。立ち返る、元通りにし、連れ戻す、再びあなたを栄えさせる、などなどの言葉は、元は同じヘブル語で、七回もこの「回復する」という言葉が使われるのです[1]。二八章には、主に逆らって、主に従わなければ、その契約違反にはどれほどの呪いがあるかと延々と述べる言葉が連ねられていました。前回の二九章でも、主に従おうとしない末は荒廃と異邦人の笑いものになることが書かれていました。しかし、そうした面もありつつも、この三〇章は、その裁きや荒廃の先にさえ、回復があることが語られています。神に背き通して、怒りを招いて、遠い国に追い散らされた、というのが1節です。そこで主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、

 3あなたの神、主は、あなたの繁栄を元通りにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。

 4たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

 主に逆らったから、罰せられて、異国の地で野垂れ死んでいくだけ、ではないのです。そこで、主に立ち返り、主の声に聞き従うことをもう一度始めるならば、それが主の回復の始まりとなるのです。どんなに遠くでも、主はそこから連れ戻す、というのです[2]。何とありがたく、尊い約束でしょうか。遠くの流刑地に追っ払って、あとは知らない、ではない。そこで人が立ち返り、生き方を改めるのを、じっと待っているかのようですね。遠くにやったのも自分の間違いに心底気づいて、立ち返るためであったようですね[3]。この主でなければ、彼らは滅んで、異国に骨を散らすしかなかった。そう思うと、この異国での回復自体が、人間が心を入れ替えるという以前に、主が彼らを導いて、回復させてくださったからに他なりません。

 6あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

 こう言われるように、主が、心を包むものを切り捨ててくださるのです。心を尽くし、精神を尽くし、主を愛するようにしてくださるのです。主の恵みが先行しての立ち返りなのです。

2.みことばはあなたのごく身近にある(11-14節)

 こういう回復の約束をした上で、11-14節には、主の命令が難しすぎないし、遠くに掛け離れてもいないし、天の果てや海の彼方にあるのではない。

14まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

と言われます[4]。でも、「行うことが出来る」と言っても、さっきは行えなくて呪いを招くことが言われたのです。そして、そこから回復され、今度こそ主を愛し、主に心から従うようになる、と言ったばかりですね。ですから、ここで「御言葉は、難しすぎず、遠く掛け離れた所にあるのでもない。あなたはこれを行うことが出来る。」というのも、他の聖書の言葉と同様、聖書の規則は頑張れば誰でも守れる、というような意味ではないはずですね。そういう表面的な規則遵守を神は求めておられるのではないのです[5]。むしろ、そういう形式的なことだけを考えて、本当に神を愛し、心から神に従うという関係が抜け落ちていた民が、神の怒りを受けて違法の地に追いやられ、そこで自分の深い間違いに気づいて、神を慕い求めるようになる。いいえ、主が民のうちに働いてそうさせてくださる、のです[6]

 主は私たちに、ただ規則を求められ、「やれば出来る筈だ」と仰って、出来なければ最後には怒って滅ぼす、という方ではありません。そういう方ではないことが最もハッキリするのが、この申命記三一章です。主は、私たちが主を愛し、心を尽くして主に従うようにさせる。その動機にあるのは、主への心からの信頼ですね。「呪われたくないから従おう」とか「怒られない程度に従っておこう」。そんなふうに、神を卑しく、詰まらなく考えていた考え自体をひっくり返すのが、神の裁きと赦しです。キリストの十字架と復活です。神ご自身が、私たちの心の中にある、御言葉に従えない限界をご存じです。頑なな罪から、忘れっぽさまで、また過去に受けてきた傷やどうしようもなくネガティブに神を考えてしまう考えまで、神はご存じです。しかし、その私たちを全て知り尽くした上で、神は私たちとともにおられます[7]。私たちの身近におられます。キリストは、私たちのそばに来てくださったのです。

 その事に気づく時に、私たちの生活そのものが深い所から違うものになっていくのです。恐れや孤独や、思い上がりや人を排除する生き方が変えられていくのです。御心に従わなければならない、そうしなければ神に怒られる、という事でさえありません。神が私たちを愛され、私たちの人生に深く働いて、失敗や痛みを通りながらでも、神への信頼に立った生き方をさせてくださる。そうしてここで、家族や他者との関わりも新しくされる[8]。そういう「身近」さです[9]

3.あなたはいのちを選びなさい(19節)[10]

 諄いですが、この

「いのちを選ぶ」

とは私たちが主の命令に頑張って従うことではなく、

16…あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るよう…

と言われる通り、根っこにあるのは主の愛です。誤解を恐れずに言えば、たとえ主の命令に私が背き通して、勝手な生き方をし、欲に目が眩んで人を裏切ったり騙したりした挙げ句、その報いが全部自分に返ってきて、人生が滅茶滅茶になったとしても、それでもそこでこそ、主は、自分の愚かさに気づかせ、再び主に従うよう立ち上がらせてくださり、喜びと祝福を惜しみなく与えて下さるお方だ。だからこそ、今ここで、私にとって最も身近な助けであり、唯一のいのちの道として、主の言葉を守る。そういう選択なのですね。

 しかし、こう言われても、聖書の民は主から離れて、御言葉に背いて止みませんでした。ひと言で言えば、こう

「いのちを選びなさい」

と単純に割り切れるものではないのが人生だからです。初めから、「いのちよりも死を選ぼう。祝福よりも呪いの方が良い」と御心に背く人などまずいないでしょう。正直であるよりも嘘を言った方が苦しまないで済みそうだとか、人から笑われたくないから悪いとは分かっているけど同じ事をするとか。そういう時は、私たちは、神への信頼ではなく、恐れに囚われています。失うことを恐れて、守りに入って、選択を誤るのです。でも、それはますます私たちの心をカサカサにしてしまいます。信仰は、決して人生を単純にはしません。人生が単純ではなく、複雑だからこそ、あえて

「あなたはいのちを選びなさい」

と言われるのですね。主が私たちの身近にいることを見失って、その時の愚かな判断をするのでもないし、主を冷血漢や暴君のように恐れ怯えて、表面的な正しい行いをするのでもないのです。天地を造り、私たちを愛し、私たちのいのちと祝福を願い、私たちがボロボロになってもなおそこから、心を神に向けて立ち返らせ、共に歩んでくださる神。その神への信頼をもって、御言葉に聴きながら、いのちの道を歩ませて戴くのです。この私たちと、主イエスはともにいてくださいます。主の言葉は、私たちにとって、本当に身近なものです。私たちの生活を、恐れや守りから、嘘や打算から守ってくれます。人の声を気にしたり期待に応えなきゃと背伸びをすることから自由にしてくれます。毎日にいのちを、喜びを吹き込みます。[11]

「主よ、あなたの恵みによって、私たちの心を取り戻してください。あなたとともに過ごす時間を持ち、感謝と信頼をもって、御言葉に従わせてください。私たちが祈る以上に、あなたが私たちに祝福を願っておられます。ともにおられ、語り掛けておられます。その声に安らいで、主の愛をいただいた者として出て行きます。私たちの人生を通し、御栄えを現してください」

 

今日は「徳島宣教協力会」の定期集会、「ゲーム&フェローシップ」が、鳴門キリスト教会を会場に行われました。

かき氷タイム、ゲーム、メッセージ、よいひとときでした~
写真は、賛美のリハーサルです。 



[1] 「戻って来る」がキーワード(Thomas W. Mann, Deuteronomy, (WBC.) p.50) 七回:1(心に留め)、2(立ち帰り)、3(元通りにし)、8(再び…する)、9(同)、10節(立ち帰る)。

[2] 現代の「イスラエル共和国」がこの成就だとみるひとも少なくないが、悔い改めや従順ではなく、単なる民族主義・政治的な建国でしかないと思う。

[3] なぜ悔い改めるのでしょうか? 自分たちの非を認め、心から主を慕い求めるから、でしょう。ただ「災いが恐ろしいから、怒りを避けたいから」ではないはずです。しかし、もし私たちの悔い改めも「あのやり方はまずかった。失敗した」というレベルでの「悔い改め」(後悔、反省)であれば、それは聖書が示す「悔い改め」とは全く違います。そうではなく、「本当に自分が悪かった」と生き方を大転換するものである。最初に戻り、やり直すではなく、全く新しい心持ちで主を慕い、従うようになる。そのためには、私たちは、痛みや挫折、行き詰まりが必要な事が多い。それは、神の意地悪や裁きである以上に、恵みであり、必要なステップなのだ。

[4] 「ごく身近にある」のは、神の愛の証しです(四6-8、詩篇十九7-11、一一九篇)。

[5] それが「あなたの口にある」のは、ただ口先で唱えられるだけではなく、「蜜のように甘い」(詩篇十九篇)であり、「あなたの心にあって」も、ただ知識としてあるだけでなく、心を燃やす(ルカ二四章)言葉としてあるのである。

[6] この部分は、ローマ書十6-8でパウロが引用しています。「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ここでは、「御言葉が近くにある」が「キリスト(ロゴス)が私たちの近くにまで来てくださった」ことに直結して展開されています。神が遠くにおられるように考える事は、キリストが私たちの近くにまで来てくださって今も共におられることを否定することになる…と。

[7] 人間にどれほど愛を注いでおられ、私たちの心の罪を悲しんでおられ、そのために御自身の究極の犠牲をも惜しまないほど、私たちの心と生き方が変わり、神を愛し、また互いに愛し合うように導かれるか、に気づくのです。

[8] 「いのちを選びなさい」 自分のいのちを殺さないような選択、ということもあるが、聖書からすると「いのち」は愛。憎む者、殺す者にいのちはない、とⅠヨハネが繰り返す。「いのちを選びなさい」も、自分にとってだけでなく、他者とともにあるいのち、共同体的ないのちの回復、自分の豊かさや好みを時には捨ててでもいのちを生かす道を選び、建て上げていく、ということでもないか? 決して個人主義的に理解しないこと。

[9] 8節「主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。」は、<行うから祝福される>ではなく、聞き従い行うことそのものが祝福であり、神のわざである、という文章になっています。

[10] 15-20の中心テーマは「いのち」です。(いのち:四回、生きる:二回)

[11] 神への慕わしさと信頼、心からの従順へと導かれ、それが隣人関係・共同体形成に繋がっていく。それこそが、神のご計画である。

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