聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-26 15:55:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

 今日のタイトルは「成長させてくださる神」としました。「成長」。これはキリスト教会の考える救いをよく表した言葉でしょう。教会に限らず、多くの宗教でも「救い」を歌います。しかし、同じ「救い」という言葉でも意味は様々です。キリスト教会でいう救いとは、どういう事でしょうか。今日読んだペテロの手紙第一はこう言います。
…選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、…ますます豊かに与えられますように。

 「イエス・キリストに従うように」。
 これが、神が私たちに考えておられる「救い」です。ここに、前回も「使徒信条」で確認した「三位一体」が出て来ます。父なる神の予知、ご計画のままに、御霊(聖霊)による聖別、お働きによって、イエス・キリストに従うことが私たちに始まる。この父と御霊とイエスの三位一体のチームワークで、私たちに与えられる救いがあるのです。私たち人間は、それぞれに自分なりの「救い」を考えて、神さまに期待します。イエス・キリストがそれを叶えてくださることを期待します。その私たちの理想よりも、神は遥かに大きく、私たちの救いを考えています。それが、私たちがイエス・キリストに従って歩む、という私たちの変化・成長なのです。
第三十二問 義認と聖化とはどういう意味ですか?
答 義認とは私たちが神の御前に義と宣言されることで、私たちのためのキリストの死と復活によって可能となりました。聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで、私たちの内に働く御霊によって可能となりました。
 「義認」と「聖化」。この二つの言葉が、いきなり出て来ます。それは、この二つの言葉が、キリスト教の救いを分かりやすく教えてくれるからです。まず、私たちは、キリストの身代わりの死と復活によって、自分の罪の罰を受けることなく、義とされます。私たちは、イエスの死のゆえに、もう「罪人」とか「滅びの子」という肩書きではなく、「神の子ども」「キリスト者」という立場を戴けるのです。誰も、それを否定できる人はいません。神ご自身が、私たちの罪を赦しを願い、御子イエスが罰を受けてくださったので、誰もそのことに文句を言う筋合いはありません。

 それは私たちの親子関係にも似ています。親が子どもを産んで、出生届を出せば、もうその子どもは正式な親子関係を持ったのです。まだその子は、そんなこと知らないかもしれません。どんなお父さんで、自分がその子どもであることがどういうことか、赤ちゃんには分からないでしょう。それでも、もう事実、その家の子どもなのです。赤ちゃんがまだしわくちゃでも、何か病気や障害があっても、泣いたりおしっこをもらしたりしていても、誰かが何と言おうと、その子はまぎれもなく、親にとっての子どもです。
 「義認」とはそういうことです。神が私たちを、義と認め、神の子どもとして受け入れてくださったのです。神の御子イエスが、私たちのために人となってくださって、私たちの罪も引き受けてくださったので、私たち人間が、神の子どもという立場をもらいました。まだ私たちは、それがピンと来ないかもしれません。神さまがよく分からず、びくびくしてしまうかもしれません。他の人が、「お前が神さまの子どもになるなんて、信じられないよ」とか「そのうち見捨てられちゃうよ」とか、勝手なことをいうかも知れません。でも、人がどんなことを言おうと、イエス・キリストが私たちの救い主だということは、もう神が私たちの裁きではなく、義を宣言してくださった。神の家族の立場をいただいたのです。これが「義認」という、救いの一面です。

 でもそれで終わりではありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんでいたら勿体ないです。段々成長します。自分で歩くようになり、考えるようになり、社会のことを学んでいきます。そして、本当にその家の子どもらしく、言葉や仕草や考え方を身につけていきます。身分がその家の子どもだ、というだけでなく、心も人格も、頼もしい少年、青年、大人に成長していくでしょう。心も生き方も本当にその家の子どもになるのです。
…聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで…。
 神が下さった「義」(神との正しい関係)は、私たちの中で徐々に成長していきます。それは
「私たちの内に働く御霊によって可能と」
なった、神の子どもとしての成長です。神の子イエスが、父なる神様に信頼して、父に従ったように、私たちも神に信頼して、神に従っていきます。イエスが、私たちを愛して、私たちを受け入れてくださったように、私たちも、自分も他の人も心から愛して、受け入れるようになります。まだ罪や悩みはあります。完璧になるのでも、完璧なイエスの真似をするのでもありません。イエスは、真似とか見せかけなんて、全く気にしなかったのです。そして、イエスは、私たちを、罪も弱さも問題がどんなにあろうとも、私たちを愛し、喜んでくださり、神の子どもに受け入れてくださいました。
 そして、聖霊は私たちが成長するよう働き続けてくださっています。だから、私たちも、そのイエスのように、聖霊のように、不完全な自分を愛します。成長途上の隣人や他の人を愛し、その長い成長を助け合います。それも、一生掛けて、愛するように、素直に生きるように、心から与えるように、神さまの愛を受け取れるように、少しずつ少しずつ、成長させていただくのです。

 C・S・ルイスという人がこんな事を言っています。
「神は私たちを幸せにしたいのではない。私たちを成長させたいのだ」。
 そうです。神は私たちを成長させてくださる方です。それが、聖書を通して語られている救いです。イエス・キリストが下さったのは「罪の赦し」(義認)から始まって、「義に成長する」(聖化)の旅という大きな救いです。そして、神は私たち一人一人を違うように作られたのですから、一人一人に違う旅を用意しています。誰もが、特別なその人生を歩みながら、神の子どもとして成長して行きます。そして、お互いのその歩みを通して、励まされたり助け合ったり、一緒に神の御業を崇めていくのです。「義認」と「聖化」。立場と成長。神が下さる救いは、本当に豊かなものです。その救いの旅を、一緒に歩んで行きましょう。

「私たちの救い主、主よ、あなたは義認の御業を完全に成し遂げ、今、聖化の御業を始めてくださっています。私たちが完成に辿り着く最後まで、あなたがその旅路を守り導いてくださることを信じます。どうか日々私たちを主の似姿へと造り変え、あなたの道にふさわしいものとしてください。アーメン」
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2020/7/26 マタイ伝8章28~34節「目を背けない」

2020-07-25 09:40:44 | マタイの福音書講解
2020/7/26 マタイ伝8章28~34節「目を背けない」
 ここに三回「すると見よ」と繰り返されます。マタイの福音書はこの言葉をよく使いますが、短い箇所でこれほど繰り返すのは、限られた回数だけです[1]。そう考えると、マタイは一体私たちに何を見よといっているのだろう、何に目を向けさせようとしているのでしょうか。まず、
29すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
 イエスを見るなりこう言うのです。勿論、28節で
「悪霊に憑かれた人」
というホラー映画の世界のような始まりも、墓場から出てきた、ひどく凶暴だった、という文章も目を引きます。しかし、それ以上にその人がイエスを見て、
「私たちを苦しめに来たのですか」
と言った。多くの人がイエスに会いに来たり、弟子になろうとしたり、その力で病気を癒やしてもらおうとしていた時に、この人はイエスに対して
「私を苦しめに来たのか」
と言うのです。
 次に「すると、見よ」が出てくるのは、悪霊どもが、豚の群れに送ってくれと懇願した時、
32イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
 豚の群れが雪崩打って湖に入り込む。凄まじい狂気です。以前から
「ひどく凶暴で」
と言われていましたが、実はここまでの凶暴な力に取り憑かれていた。どれほど苦しかったでしょう。他人には想像もできない、苦しみや孤独や絶望の闇。いつも湖に飛び込んでしまうかわからないような、そんな崖っぷちの思いだったのかもしれません。それなのに、イエスを見て「ああ助けていただける」と思うよりも
「私たちを苦しめに来たのですか」
と叫んだのです。イエスを見ても、苦しめに来たのかと言う。悪霊を信じられないという人でも、こういう心境は理解できるかもしれません。長年の病気とか障害とか依存症とか、様々な問題で苦しみつつも、その解決は拒む。悲しすぎる諦めが、ここで、目を背けずに「見よ」と言われています。
 イエスはそんな彼らにも寄り添ってくださってくださいます。拒まれても、諦められても、イエスは諦めずに、彼らに寄り添って、解放してくださったのです。でも、その様子を見たほかの人たちの反応はどうだったでしょう。ここに、三つ目の「すると、見よ」が出てきます。
34すると、見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。
 どうでしょう、町中の人がイエスを歓迎するのでなく、お引き取りを願う。これでは、最初のあの二人と同じ態度です。そして、あの二人が、あれほどの苦しみから救い出されて、良かったなぁ、今まで辛かったろう、とは言いません。あの二人を見もしていない。むしろ、失った豚の群れの損を考えたのかもしれません。このままイエスを迎えたら、人を救うために、どんな代償を払わされることになるのかと考えたのかもしれません。それなら、今のままでいい。苦しむ人や困った問題もあるけれど、それは放っておいてほしい。寝た子を起こすようなことはしないでほしい。自分たちは大丈夫だ、問題は目をつぶって、臭いものには蓋をしておこう。今でも、いじめを隠蔽したり、家族の中で虐待を黙認したり、病人や障害者を閉じ込めたり、大企業がリコール隠しをし、国家が基地問題とか少数意見を封じ込めてもみ消す[2]。そこにイエスが王として来られても、迎えようとしない。そのイエスを拒む問題が、悪霊がいるかどうかに関係なく、この世界や、私たちの中にある問題として目を背けるなと言われるのです[3]。
 こんな失礼な態度にどうしたでしょう。拒絶したり呪ったりしたでしょうか。いいえ、この拒絶を見据え、この町だけでなく故郷の人、周囲の人、そして私たちの中にもある、イエスに対する壁を取り払って、王となってくださいます。でもそれを無理矢理になさろうとはしない。むしろこの後、ご自身を与えて、十字架に命を捧げてくださいました。そして、この二人に出会うためだけにガリラヤ湖を渡ることも惜しまなかったように[4]、イエスは一人一人に(十把一絡げでなく、私たち一人一人に)じっくり、惜しまず、関わってくださいます。心に壁を気づかずにおれないほど、深く染みついた恐れも受け止めてくださいます。私たちの深い叫びを聞いて、私たちの問題を一緒に受け止めて、諦めていた辛さも、癒やされる。それがイエスの方法でした。イエスの、一人一人への関わりが、神の国を下から作り出していくのです[5]。
 日本も同調圧力の強い社会です。そこで私たちが今イエスに出会って、私の問題も叫びも諦めも壁も全部知った上で、この私を愛し、私のためにご自身の死という犠牲も惜しまなかった、と知らされて生きることが、イエスの方法です。マタイの福音書は
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
という言葉で閉じられます[6]。主はこの世界で、隠れたところで、意外な形で今も働き続けています。問題からも目を逸らさず、でもそれ以上に力強く、そこにも働いておられる主からも目を逸らさず、
「主よ、来てください、私たちを新しくし、癒やしてください。私たちをあなたの器として用いてください」
と祈りましょう。

「主よ。主が私たちの心を癒やして、新しくしてくださらなければ、私たちの心は冷たく頑ななままです。あなたが来られて何かをなさる時、私たちにとってそれが苦しみや痛みであることは少なくありません。どうぞ小さな私たちを憐れみ、厳しさに勝る恵みを注いで、支えてください。死の力よりも遙かに強い、命の力で満たして、私たちを互いに結び合わせてください」

脚注:

[1] 「すると見よ」イドゥ。マタイで60回。これほどまとまっては、24:23-26、26:46-51、28:2-20ぐらい。1:20「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」、23「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」、2:1「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」、9「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。」、13「彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」、19「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。」、3:16「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」、4:11「すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。」、7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」、8:2「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。」、24「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。」、29「すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」、32「イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。」、34「すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。」、9:2「すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。」、10「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」、18「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。」、20「すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。」、32「その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。」、11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。」、10「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」、19「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」、12:2「するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」、10「すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。」、18「「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。」、41「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。42南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」、46「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。47ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。」、49「それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」、13:3「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」、15:22「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。」、17:3「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」、5「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」、19:16「すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」、27「そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」、20:18「「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、」、30「すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。」、21:5「「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」、22:11「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」、23:34「だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。」、38「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」、24:23「そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。」、25「いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。26 ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」、26:45「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。46立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」47イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。」、51「すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」、27:51「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、」、28:2「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」、6「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」、9「すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」、20「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
[2] この問題は、多様な形で出て来ています。沖縄の基地問題、難民問題、かつての「座敷牢」のような場所…。今週は、こんな詩を読みました。
「貧しい発想」
管をつけてまで
寝たきりになってまで

そこまでして生きていても
しかたがないだろ?

という貧しい発想を押しつけるのは

やめてくれないか

管をつけると
寝たきりになると

生きているのがすまないような
世の中こそが
重い病に罹っている
#岩崎航 詩集『点滴ポール』より
[3] 「悪霊の働き」にまゆを潜める人もいるだろう。この人ほど、破壊的な力を宿してはいない。しかし、この町の人も、同じように、この人を見捨てるのだ。「悪霊に憑かれた人」を切り捨て、保身に走るのだ。私たちも、「あの人は救いようがない」「お前は狂っている」と言い捨てることで、言葉や差別によって、人を殺すのだ。そのような破壊力によって、戦争を起こし、虐待・自殺・迫害を容認し、人の心を殺し、多くの命が奪われるのを許しているのだ。コロナ禍でも、誰かを一括りに悪者扱い、邪魔者扱い、「あいつらのせいで」とする事で、排除しようとする。将に、ここに扱われていることだ。
[4] この出来事だけで、またイエスたちは舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、元の町に戻ってくる。この出来事のためだけに、あの死にそうな嵐を通ったようなものでした。その意味でも、ここで何が起きたのか、注意して見ていきたいのです。
[5] そこから救い出されるためには、集団では人は扱えないのかもしれない。イエスは、ここで群衆ではなく、この1人を扱われた。私たちが自分を主に扱って戴き、どの群衆も一括りにせず、その一人一人に、主が近づいてくださるなら、変わるのだと信じる事ではないか。「あの人達はダメだ」ではなく、主が私に良くしてくださったことを語り、その方があなた方にも良くしてくださることを思い描かせることではないか。
[6] マタイ28章20節。
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2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-11 15:05:22 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

 「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたら、皆さんは何と応えるでしょう?前回、私たちは「信仰」とは「信頼」だと学びました。聖書を通して、キリストを信頼できる方として知り、私たちに救いを下さる方として信頼し、またその方の言葉に信頼して従っていくことです。今日は、もう少し具体的に、私たちに差し出されている信仰の内容について見ていきましょう。そうすると、「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたときに、どのように応えれば良いかが分かるようになります。
第三十一問 真の信仰によって私たちは何を信じるのですか?
答 福音で私たちに教えられた全てのことです。「使徒信条」は私たちが何を信じているかを次のような言葉で表しています。
 私たちは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。また、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、処女マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。主はそこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。私たちは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

 週報に印刷されている「使徒信条」、朝の礼拝で毎週告白している「使徒信条」は、キリスト教会の最も古い信仰告白です。使徒が作ったのではありませんが、まだ使徒たちが生きていた時代に近い、紀元2世紀に教会の中で作られました。洗礼を受けたい人はこの「使徒信条」を学び、これを告白することを求められました。それから二千年近く、今でも世界中の教会で告白されている、共通の信仰を表しているものです。
 ここには、父、子、聖霊の三つの信仰告白があります。私たちの信じるのは、父、子、聖霊の、三つであって一つである、三位一体の神です。私たちの理解を超えた大いなる神が、父、子、聖霊のチームワークで、私たちを治めておられます。
 そして、ここには、天地創造、イエス・キリストの受胎、歴史的な誕生と苦しみ、十字架の死と復活と着座、将来の裁き、聖霊の働きである教会、私たちの交わり、罪の赦し、永遠のいのち、大事なことが十分に盛り込まれています。
 そして、この使徒信条を告白している人たちが世界中に何億といます。これまでの二千年、これからの何年(何十年か、何千年か、何万年か分かりませんが)、文字通り、主イエスが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」その日まで、この信条を告白し続ける、何十億という人たちとともに、私たちもこの信仰を告白していくのです。ワクワクすることです。

 使徒信条は、私たちが何を信じているのか、福音とはどんなことか、要点をまとめています。ですから、どうぞこの言葉を使って、私たちが何を信じているかを、人に伝えるのに利用してください。
 また、自分自身に対しても、この使徒信条を教えて上げましょう。私たちは、福音を伝えるように命じられていますが、誰よりも福音を伝えるべき相手は、自分自身です。使徒信条や聖書の知識、また「神学」というキリスト教の学問は人を教えたり説得したりするためのものではありません。まず、私たちが自分自身の心の奥深くに、父、子、聖霊への信頼を深めるためのものです。こんな素晴らしく、力強い神を信頼しながら生きられるのです。私たちが、不安になったり、孤独を感じたり、自分を守れない弱さを覚えたりする時に、聖書の言葉で武装するのではありません。福音を、自分自身にゆっくり、静かに、語り、主への信頼をいただくのです。自分に対してゆっくり、力強く「私は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我は、そのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…」そのように言い聞かせてください。その積み重ねは、私たちの中に神への信頼を育てます。神への信頼を持つ心を育てられます。それは、私たちの生き方、心持ちを大きく変えずにはおれない強みです。

 今日はユダ書3節を読みました。ユダの手紙は、あのイエスを裏切った「イスカリオテのユダ」とは別のユダが書いた手紙です。とても短いですが、こう言われていました。
1:3 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
 新約聖書の時代にも、「ひとたび伝えられた信仰のために戦う」必要が生じる、危機がありました。それは、教会の中に、福音を歪めて解説して、何をしてもいいんだ、自分たちの欲のままに生きてもいいんだ、という人たちが入り込んでいたようです。その状況を憂えたユダが、手紙を書いたのです。私たちの伝えられている信仰は、頭の中や口先の言葉だけのものではありません。何を信じているかをよくよく考える時、私たちの生き方、考え方、行動も変わってきます。完璧な聖人になるわけではありませんが、しかし、人を操作しよう、欲しいままに生きよう、関係を壊しても構うもんか、というような生き方は出来なくなっていくのです。このユダ書から選んだ「派遣の言葉」は、
20愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠の命に導く、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
と言います。「自分たちの最も聖なる信仰」とは「あなたの最大限精一杯聖い信仰」ではなく、神が私たちに下さった信仰、使徒信条に要約された信仰は「最も聖なる信仰」だ、ということです。私たちが戴いた信仰は、最高に聖く、私たちをも聖める力を持っています。この信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊の助けをいただきながら、祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。永遠のいのちに導く私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。そこまで言わせるほどのキリスト教信仰なのだと、それを私も信じているのだと、使徒信条は思い出させてくれるのです。

「天地の造り主よ、私達の信仰を告白する実に素晴らしい信条に命を吹き込んで下さい。どうか私たちが、時空を超えて実現しているあなたの救いの歴史を、神学的真理と切り離してしまう事がありませんように。どうか私達が不信仰のまま揺れ動くのでなく、私達を死からよみがえらせてくださる神の真理の上にしっかり立つことが出来ますように」
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2020/7/12 マタイ伝8章23~26節「大荒れの中で」

2020-07-11 14:54:51 | マタイの福音書講解
2020/7/12 マタイ伝8章23~26節「大荒れの中で」

 ウイルス禍や予想もしていなかった出来事に見舞われてきた中、先週は大雨や氾濫の豪雨を目の当たりにしました。今日の、イエスと弟子たちが乗った舟が、大嵐になって、舟が大波を被った、という箇所は、主が今の私たちに語りかけてくださっている御言葉です。
 ここに繰り返されるのは、
「弟子」
「ついていく・従う」
という言葉です。これは私たちとイエスとの関係を教えるキーワードです[1]。そして、従った矢先、早速嵐が襲った事実は、イエスに従う道の一面をよく表しているでしょう。教会はこの出来事を深く心に留め、自分たち教会を舟に譬えてきました。実際に舟の形に会堂を建てたり、中の作りを舟に準えたり、舟のシンボルを掲げてきました[2]。それは、教会が嵐も鎮めるという事ではない。いつ嵐が襲うとも分からないこの世界を、主イエスは教会という舟に私たちを乗せて導かれるのだ。嵐に襲われて、大波を被ることもある。その時にイエスが眠っておられるのにやきもきして
「助けてください、死んでしまいます」
と不安に駆られた祈りをすることもある。そんな出来事を何度も潜(くぐ)り抜けながら、教会は船旅を続ける、という告白です。何より大事なのは、嵐が来ようと、どんなに舟が揺れ、私たちが失態を晒そうと、イエスがここにともにおられるということです。
 24節の
「大荒れ」
とは
「地震」
という言葉です[3]。湖で地震とはおかしいですが、嵐の舟は、確かに足元が揺れます。立っていられません。舟の中にいた弟子たちの地が震えたのです[4]。何も頼りにならず、何も出来ず、右往左往したり酔ったり、信仰も吹き飛んでしまう。
「死んでしまいます」
と叫ぶ。それも信仰の歩みの一面です。19節で一人の律法学者が言いました。
「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
 それに対するイエスの答は「どこでも」と言いながら、枕する所もないとは思っているか、と突きつけたのでしょう。そして、すぐに湖にこぎ出した舟を嵐が襲う[5]。私たちが信仰のスタートに、いや、結婚や恋愛や、出産や大切なスタートにあって、「何があっても一緒に生きていくぞ」。そう決心しても、予想外の事は起きます。波や嵐、山も谷も、喜びも悲しみもあります。足元が崩れ落ちる思いをし、「こんなはずじゃなかった」と思うかもしれません[6]。そして神に訴えたり、お互いに責めて「何をやってるんだ」「お前こそ漁師だろう」「そもそもお前がグズグズしてたから」などと、ますます傷を深めるような事を言ったりしてしまうのです。
 嵐や痛みは、避けたいことではありますが、罰とか不幸ではありません。私たちが生きる世界、神が作られた世界が、私たちが貧しい想像力で精一杯思い描き、計画するよりも遥かに大きくて、豊かで、予想外だからです。世界は海で、私たちは小さい舟。有り難いのは、そんな私たちとともにイエスがいてくださることです[7]。その世界を造り、治めておられる神が、私たちとともにいてくださることです。
26イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」。それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
 「信仰の薄い(小さい)者」は、イエスが弟子に何度も言われます[8]。あなたがたの信仰は小さい、わたしはあなたがたが考えるよりもっと大きい。だから、あなたがたの信仰が、芥子粒のように小さくても、山が動くと仰いました[9]。イエスは、人の小さな信仰を大きくはみ出すほどのことをしてくださるお方です。この時も大荒れの湖がすっかり凪になりました[10]。
27…「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
風や海を治めているのは神なのに、それを従わせるとは、イエスは本当に天の神の側にいる方なのか[11]。弟子たちは驚かずにおれません。弟子たちの信仰よりも遥かにイエスが大きかった。私たちの理解や予想よりも、神がなさることは遥かに大きく、豊かで、常に新しい。私たちは自分の予想を超えた嵐や大波に怖じ惑い、信仰の小ささを晒(さら)け出し、しかし、その嵐をも治めて凪に変えられる神に驚かされる。そこで弟子たちは一致するのです。一致できるのです。
 もう一つ。ここでイエスは
「眠っておられた」。
 それは先の17節まで多くの人々をケアして、疲労困憊していたからです。イエスは疲れを知らぬ超人や仙人ではなく、私たちと同じ、疲れ、眠る人、人の痛みをケアして心を痛める方でもありました。それがイエスというお方です。
 20節の
「人の子」
とは、マタイで初めて出て来て、この後も度々イエスが使う言い方です[12]。これは神が遣わす王、メシアを表す言葉です[13]。でも
「人の子には枕するところもありません」
というのです。人を救うために来た王が、枕する場所、眠れる場所もない道を選ばれました。安定や保証を求めず、居場所のない人、弱い人、信仰の小さな者、病気の人、悲しむ人とともにいる旅を、疲れては休みながら続けました[14]。それが、イエスという救い主なのです。
 そのイエスに従う私たちも、嵐もあり地震も来る世界の船旅をしています。オロオロしたり、嘆いたり、凪になっては喜び、主の御業に素直に驚く、そんな私たちと主はともにいてくださいます。
 だから私たちも、互いに罵ったり責めたりすることを止めて、互いに助け合っていけるのです。時にじれったく祈り、絶望したりしながら、主イエスがともにおられる事は変わらない、この幸いに立って進んでいけるのです。

「主よ。この世界の見えるものが大きく崩れ、立つ瀬のない思いをする時も、あなたは私たちとともにいてくださいます。あなたが私の信仰よりも遥かに大きいことを感謝します。私たちの目には損失や破綻と思えることも、私たちの思いを超えた、深く、真実で価値ある大きな世界への扉です。何より、私たちがますますあなたを信頼し、互いに愛し合い、仕え合わせてください。今、嵐に翻弄されている私たちを憐れみ、あなたの心を与え、助け合わせてください」

脚注

[1] 特に、ここで、イエスが教えを語り、癒やしをなさった後、周りに群衆がいるのを見ながらも、そこを去って、向こう岸に渡るように命じられた。イエスが離れて行こうとするときに、それでもイエスについていくか、従おうとするか、という事は、決断を迫られた節目だったろうと想像することは出来ます。ただし、群衆にも皆、ついてくることが求められたわけではないのは言うまでもありません。実際に「出家」するかどうか、ではなく、今までとは関係性が変わるけれども、それでもなお、弟子であるか、ということです。
[2] WEBを検索すると、そのような例はいくつも見られます。Old Ship ChurchやArk Churchなど、見ていて楽しくなります。
[3] セイスモス。マタイ24:7「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」、27:54「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」、28:2「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」
[4] 7章でイエスは、御言葉に生きる人は、「岩の上に家を建てた」倒れない将来を譬えましたが、ここにあるのは足元がぐらぐらに揺れる地震です。7:24~27「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
[5] これを見て、この律法学者は「ああ、一緒に行かなくて良かった」と思ったかもしれません。
[6] 「どこに行かれても、私はついて行きます」という言葉が、「枕する所もない」所(いわば、「どこ」でさえない!)にいくとは思っていなかった。いや、私たちも、信仰のスタートを振り返ると、今が「こんなはずではなかった」という強い「騙され感」や、「こうなるとは思っていなかった」という気づきもあるだろう。こうなると最初から言われていたら、あの時点で信じていたかどうか、とはいえる。それでも、イエスはともにいてくださった。決して見捨てることなく、離れることなく、ともにいてくださった。
[7] ここでも弟子が立派な信仰の言葉を言っていたら、私たちは絶望しないか。馬脚を現し、失態を晒して、それでもイエスが嵐を静めてくださったからこそ、私たちには慰めと驚きがある。
[8] 6:30「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。14:31「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」16:8「イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」17:20「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」」
[9] 問題は、私たちの信仰の小ささではありません。イエスは、弟子たちの信仰が小さいと叱るのではなく、その弟子たちのために風と湖を叱りつけました。風や湖にしたら、自然現象であって、叱られるなんてとばっちりではないかと思いますが。
[10] 私たちが、イエスにほめてもらうほどの信仰が自分にあると思ったら大間違い。私たちの信仰は小さい。しかし、その信仰より大きなイエスが私を捕らえ、私とともにいてくださる。ここに、希望がある。
[11] 今は波や嵐を「自然現象」として、信仰や宗教と切り離して考えますが、当時は自然を治めているのは神だという宗教的な世界観が染みついていました。旧約の信仰は、神が自然界を治めておられる、という確信です(詩篇148、ヨブ37、38など)。それゆえ、この弟子たちの驚きは、「イエスが自然法則さえ破った」ではなく、「イエスが、自然を治めておられる神、摂理の神ご自身ではないか」という驚きです。天地を治める神が、私たちのいのちをも配慮しておられる、というおどろきです。「山上の説教」で天にいます父を紹介して、空の鳥、野の花を見なさい、そこに天の父の配慮が見事に分かると仰ったイエスは、本当に今、神と私たちとを結び合わせてくださろうとしているのか、と驚かずにはおれなかったのです。
[12] マタイに36回。今日の箇所の他に、9:6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」、10:23「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。」、11:19「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」」、12:8「人の子は安息日の主です。」、12:32「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」、12:40「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」、13:37「イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。」、13:41「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、」、16:13「さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。」、16:27「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」、17:9「彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」」、17:12「しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」」、17:22「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。」、19:28「そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」、20:18「「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、19異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」、20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」」、24:27「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」、24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。31人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」、24:33「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」、24:37「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」、24:39「洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」、24:44「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」、25:31「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。32そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、」、26:2「「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」」、26:24「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」」、26:45「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。」、26:64「イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
[13] ダニエル書7:13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」 この言葉から、「人の子」というメシア称号が生まれました。メシアの人間性を意味するという字義的な理解より、こちらの歴史的背景を踏まえた意味があったと考えられます。
[14] そのイエスに従うことは、ただその途中、枕もない生活とか、嵐や試練を与えられると覚悟する、という事ではなくて、そもそも自分の安定とか将来の保証を求める、という目的から、イエスが歩んだように、苦しみや病気、嵐や禍に翻弄されて怖じ惑う人と一緒に怖じ惑い、自分たちの信仰の小ささを弁えながら、それ以上に大きな主のご計画、人の思いを超えた導きを信頼して、主イエスとともに生きることです。
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2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

2020-07-04 13:07:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

 「受け入れ、信頼できる」。これは、今日のニュー・シティ・カテキズム30に出て来る言葉です。イエス・キリストへの信仰を言い表しています。イエス・キリストを信じるってどういうことでしょう? 遭ったこともない人をどうしたら信じられるのでしょうか? イエスを信じますって、分からなくても言えばいいのでしょうか? そういう質問に対する答の中に、「受け入れ、信頼し、依り頼む」という言葉があるのです。

問20 イエス・キリストへの信仰とは何ですか?
答 イエス・キリストへの信仰とは、神がみことばによって示されたすべての真理を受け入れること、キリストを信頼すること、そして、救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです。

 まず、神はみことば、聖書を私たちに下さっています。それは、私たちが神を信じるために必要なすべての真理を十分に示すためです。私たちは聖書を通して、神が私たちに何を呼びかけているかを知ることが出来ます。イエスご自身が、こう仰いました。
ヨハネ5章39節あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 この他にも、聖書にはわたしのことが書いてあると言いました。他にも、聖書はイエスについて証ししています。

ヨハネ5:46モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
ルカ24:27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
使徒3:18-19しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

 聖書が書かれたのは、私たちがイエスを信じるためだと、あちこちに書かれています。聖書のことばを通して、イエスを信じることが出来ます。聖書を読んだことはなくても、イエスについて聞いたり読んだりすることもあるでしょう。それならば尚更、聖書にはイエス・キリストがどんなお方か、どんなお話しをして、どんなことをなさったのか、私たちにとってどんなお方なのかが、詳しく書かれています。イエスに出会った人たちが変えられて行った事も書かれています。それを読まないなんて勿体ないです。聖書を通して知るイエスは、思い描いていたイメージとは違います。もっと自由で、もっと優しかったり、意外にそっけなかったりします。私が考えるイエスではなく、聖書でを通して語られている、遥かに豊かなイエス様との出会いが聖書にはあります。聖書を読むことは、私たちの信仰を育てるのです。
 今日のガラテヤ書を書いたパウロも、イエスに会ったことはありませんでした。もうイエスは十字架と復活の後、天に上っていなくなってから、パウロはキリスト教に触れたのです。それでも主はパウロに、出会ってくださいました。それはとても奇蹟的な出会いでしたが、そのパウロは聖書をよく読み、人々にも聖書にイエスの事が書いてあると繰り返して語っています。聖書を通してイエスは出会ってくださるのです。聖書を通して真理を受け入れたら、イエスに信頼することも始まります。だから、パウロはここで、ただ信じるだけでなく、もっとすごいことを言っています。
ガラテヤ2:19、20…私はキリストとともに十字架につけられました。20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 聖書に書かれている「信じる」という言葉は、ただイエスの言葉に同意します、本当だと賛成します、というだけではありません。その中に飛び込んでいく、という言葉です。それは信頼する人の手の中に飛び込むのと同じです。飛び込んでも大丈夫と信じるといっても、水が怖いと思うなら、本当に信じているとは言えないですね。イエスを信じる、とは、本当にイエスが私を救ってくださる。イエスを私の救い主、私の神、私が信頼していいお方なんだ、ということです。イエスは、信頼できるお方です。

 「信仰」の反対は何でしょうか。それは「疑い」とか「不信仰」よりも「恐れ」です。信頼の反対は、信頼できるものがない、恐れや不安ですね。イエスは何度も「恐れるな」と仰いました。こわがらなくてもよい、大丈夫だ、安心しなさい、わたしがともにいる、と仰いました。イエスを信頼することは、イエスがいるのだから、恐れなくて良い、安心してイエスに従っていけば良い、ということです。
 時々、この事を勘違いして、イエスを信じて欲しい余りに、「信じなければならない」「恐れるなんて不信仰だからダメだ」と言ってしまうことがあります。でも、そんな風に強く言われたら、かえって怖くなってしまいますね。「信じなければならない」って言われるより、「信頼していい」と言われた方がホッと出来ます。イエスは、信じなければならないと命じる以上に、恐れなくて良い、わたしがともにいる、わたしを信頼しなさい、と仰るのです。

 最後の「救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです」は、長くて分かりにくいですね。ここで大事なのは、キリストが私たちを救ってくださる、ということです。「福音」とは「良い知らせ」という意味ですね。いい知らせです。それは、イエスが私たちを救ってくださる王だ。どんな人よりも、また私自身よりも、世界の王様や権力者や悪魔なんかよりも、遥かに強く、イエスが私たちを必ず救ってくださる、という知らせです。
 だから、私たちはイエスを信頼して良いのです。ただ、その教えが立派だとか、すばらしい愛のお方だという以上に、私自身が救いを必要としていて、その救いの良い知らせ(福音)が差し出しているのが、イエス・キリストという唯一の救い主なのです。私たちは自分を救えません。努力とか、宗教とか、お金とか仕事とか、色んなもので救ってもらえるような錯覚を持ちますが、どれも不完全で、到底不十分です。ただ、イエスだけが、私たちが受け入れるに値する救い主なのです。私たちは、聖書を通して、イエスに信頼し、イエスに飛び込むようにして、自分の人生をお任せするのです。どうぞ一人一人祈ってください。

「イエス様。御言葉を通してあなたが分かってきました。まだまだ分からない事だらけで、これからも迷うとしても、あなたが神の子で、私たちの救い主で、世界の王であることを信頼したいのです。どうぞ、私たちの心と人生の中心に来てください。あなたを信頼して、私をお任せします。御言葉の通り、私の罪を赦し、神の子どもとして、歩ませてください」

 このような祈りを今日、そして毎日捧げてよい。こんな信頼をしてよいお方なのです。



信仰の創始者である主よ、あなたは、あなたがご自分を現される通りのお方であると信じます。あなたのみことばは真実で、あなたが私たちを救う唯一の希望であることを信じます。私たちは見えるものに頼らず、あなたの約束を信じて信仰に歩みます。アーメン
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