聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問20「すばらしい救い」ヨハネ3章16-21節

2016-06-26 15:59:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/26 ハイデルベルグ信仰問答20「すばらしい救い」ヨハネ3章16-21節

 

 今まで、イエス・キリストはどのようなお方なのか、というお話しをしてきました。イエスは、私たちを神と結びつけるために、神と私たち人間との間に立って下さったお方です。その架け橋(仲保者、仲介者)となるために、完全な神であり、同時に完全な神になってくださった、だから、私たちに完全な救いを下さるのです。この私たちを神と再び結び合わせてくださる、ということをマルチン・ルターは「イエス・キリストといっしょに一つのケーキを作る」と言い表したそうです。(加藤常昭氏、『ハイデルベルグ信仰問答講解 上』)

私たちがイエスに結び合わせられるとは、これから、イエスと一緒に共同作業をする。美味しいもの、素晴らしいものを、作るのですね。勿論、これはたとえですから、本当にケーキを作るのではないですけれど、イエスがお造りになっている世界を、一緒に作るわざに参加する。それが、キリストと結ばれる姿なのだ、というのは良い表現だなぁと思うのです。そして、今日の問20も、こう考えると分かりやすいのではないでしょうか。

問20 それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。

 すべての人がキリストを通して救われるのですか。キリスト以外に救い主はいないことを今まで確認してきました。ですから、ここでは、キリストを通さなくても救われる人はいますか、と聞いているのではありません。キリストがおられるのだから、救われない人なんていないのではないですか、という意味で、全ての人が、キリストを通して必ず救われるんですか、という質問です。これを「万人救済論」といいます。みんな救われる。救われない人などいない、という考え方です。でもこれに、答は、

答 いいえ。まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。

 イエスと結び合わされる。それは、先に、ルターが言いましたように、イエスと一緒にひとつのケーキを作るような生活です。神と共に生き、神の創造の御業に、私たちも加えられるのです。それは楽しいことです。完成が楽しみです。なかなか上手く出来なくても、ちゃんと先生が手取り足取り教えてくれたり、失敗しながら段々上手になっていくような楽しさがあります。そして、そのようにイエスに結び合わされ、イエスのお造りになる世界に、私たちも参加すること。それこそが、キリスト教が言う、「救い」の一面だということでもあります。

 しかし、そうしたくない人も大勢います。「イエスと一緒に何かを作りたくなんかない。自分は自分のやりたいようにやらせてほしい。神のなさることに自分も参加するだなんて、真っ平ゴメンだ」。そう言い切る人も多いのです。イエスとともにいたくない、イエスの恵みなんか戴かなくても、自分は平気だ。そういう人は、要するに「救われたくない」ということになるでしょう。勿論、イエスとはどんなお方か、その恵みがどれほど素晴らしいかが分からなければ、願いようもありません。ですが、イエスについて大事な事実が分かっても、なお、自分は自分でやっていきたい、その救いなんか要らない、と拒むことは決して少なくないのです。

ヨハネ三19そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

20悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 イエスは世を照らす光としておいでになりました。それは、人々を救うためでした。けれども、多くの人は、その光を憎みました。なぜなら、自分の生き方に問題があると分かっていて、でもその問題を変えられたくなかったからです。

 泥棒が夜のうちに盗みたいように、フクロウやハイエナなど夜行性の動物が夜を待ち構えているように、トロルや吸血鬼が朝日を浴びると死んでしまうように、光を恐れて、憎んでいる人は、救われたいとさえ思っていないのです。そのような人も「キリストによって、救われる」とは言わないのです。そして、自分の殻に閉じこもって、闇の中に生きる事自体が、「さばき」だと言っていますね。決して、神の裁きとは、救われたい人間をも不信仰だから、あれが足りないから、と地獄に突き落とすような、そんなものではありません。人の罪を暴き立てて、門前払いを食らわすような、そんな神ではありません。神は、私たちとともに世界を作りたくて、私たちのために犠牲を払ってくださいました。ひとり子イエス・キリストがこの世に来られて、十字架の苦しみを引き受け、死んで、よみがえってくださいました。私たちと神との間の、唯一完全な架け橋となってくださいました。その救いをも、人間は拒むのです。

 いいえ、私たちは生まれつき誰一人、救いを望もうとせず、神を押しのけようとするものだったのです。神と一緒にケーキを作るよりも、自分だけでいいやと思うようなものでした。厳しい神が御自身の家から、人間を締め出すというよりも、ひねくれた人間が神の家から飛び出してしまい、帰って来たがらない、という所に滅びの問題があるのです。

 そういう私たちが、「救われたい」「神とともにありたい」「神の恵みを戴きたい」と思うのだとしたら、それ自体が、神の救いの御業に他なりません。そして、私たちが神との関係を修復するのに、自分の努力や善い行いと積み上げる必要もありません。キリストが救ってくださるのです。しかしそれは、私たちに「まことの信仰」を与え「そのすべての恵みを受け入れる」ようにと働いてくださることを通してです。

 この「まことの信仰」とは何か、ということは次の問21で取り上げられます。そこでまた、私たちが頂いている信仰について教えられ、味わって行きましょう。また、神の恵みを戴く事にも熱心になりましょう。救われるためにそうするんではないですよ。救いは、イエス・キリストがくださるのです。それは本当はすべての人にとって喜ばしい、願ってもいないほどの素晴らしい救いなのです。救いを得るために頑張るのではありません。救いの中にある喜びをますます感謝するために、喜びに生きるために、信仰を学び、恵みを戴き続けるのです。神の測り知れない愛を知り、心を受け取り、私たちも心を込めて神に感謝するのです。そういう信仰のやり取り、心と心の恵みのキャッチボールですね。救われるとは、イエス・キリストと一緒にキャッチボールを楽しむ人生とも言えます。

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創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

2016-06-26 15:51:17 | 創世記

2016/06/29 創世記五〇章19-21節「善き物を造りたもう神」

 月に一度、聖書66巻を一つずつお話しして、皆さんが聖書を読む足がかりにしたいと思います。ほんのさわりしかお話しは出来ませんが、それでも助けになるような紹介をします。

1.最初の書、創世記 神の民の原点

 聖書の最初に神が与えてくださったのが、創世記です。全部で五〇章あり、その中には天地創造やエデンの園、大洪水と箱舟、バベルの塔や族長たちの物語、様々な話が出て来ます。登場人物もアダムとエバ、ノア、アブラハム、イスラエルと大勢ですし、テーマも契約や礼拝など多岐にわたり、何日あっても話しきれません。皆さんが読む上での、さわりを紹介します[1]

 創世記は全部で五〇章ありますが、大事な節目は、十二章なのです。一章から一一章までは、天地と人間の創造、神に対する背信と追放などが書かれています。せっかく神が作られた世界で神に背いた人間が、殺し合い、暴君となり、神抜きの世界を築き上げてしまうのですね。そこで、大洪水が起こされて、ノアの家族だけが生き残ります。しかし、それによっても人の心が変わったわけではないので、残された人はまた増え始めるとバベルの塔を建てて、自分たちの王国を作り、世界に名を挙げようと、神を忘れたあり方をするのです[2]。それでは、人間は悪くなっていく一方ですから、神は人々の言葉が通じないようにして、全地に散らされる。これが、一章から一一章に書かれている物語です。人間は神からどんどん離れていき、自分勝手に歩むのか、世界はもう一度滅ぼされるしかないのか、神の創造のご計画は失敗だったのか。神はどうするおつもりなのか。そういう散々な状況が十一章まで綴られていくのです[3]

 神は、十二章で一人の人アブラハムを選ばれる。それも、子どものいない後期高齢者で、妻の尻に敷かれる男、枯れていた人でした。神は彼を選ばれて、彼の子孫を通して、世界を祝福すると約束なさいます。ただアブラハムが選ばれて、彼の子孫が繁栄するというのではなく、アブラハムの一族を通して、壊れかけた世界が祝福される、という約束ですね。そして、その後、アブラハムの子どもイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに十二人の子どもたちが与えられる。その十二人の子どもがエジプトで和解をしてともに住む姿が、この五〇章なのです。ただし、そこでも「めでたしめでたし」と終わるのでなく、神がこの先に、エジプトから再び故郷に帰る日をやがて下さるから、という開かれた結び方をしています。それは、創世記そのものが、完結した教えとか物語ではないからです。神が造られた世界に、祝福を取り戻すご計画が神にはある。それが、創世記であり、創世記から始まる聖書の物語なのです。

2.神は善い物を創造される

 今日読んで戴いたのは、創世記の最後の五〇章19節以下ですが20節にこうありました。

創世記五〇20あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 この「良い」というのは

[喜ばしい、すばらしい、富んでいる、大切な、美しい]

など豊かな意味を持っている言葉です。そして、これこそ創世記のキーワードの一つだと思います。創世記の一章で、神が世界を創造されたとき、たびたび「神はそれを見て良しとされた」とあります。七度も繰り返されるのです。神は世界を良いものとして創造された。この世界は神が造られた良い世界、素晴らしい世界、美しい世界だ。これが聖書の世界理解の出発点なのですね。他の多くの宗教や神話では、世界は何となく出来たとか、神が創造している間に邪魔が入って失敗してしまったとか、そういう展開なのだそうです。そうした中で、聖書は世界が、神の造られた尊い作品であり、そこには秩序と目的があると宣言するのですね。失敗作ではないし、この世界に置かれた人生には意味がある。仕事をし、社会を造り、家族を造っていくことは、良いこと、美しいこと、大切なことなのだ、と言い切るのです。

 先にお話ししたように、この創造された世界は、人間が神に背くことで暗礁に乗り上げてしまいます。そういう中で、神はなお世界を滅ぼされないのですね。そして、そこでアブラハムを選ばれて、彼らに世界の祝福となる使命と約束を与えられます。しかし、アブラハムは決して立派な人ではありませんでした。神を信頼しきった人でもないし、夫婦関係でもいくつもの間違いを犯した人です[4]。その影響は当然、その子どものイサクにも影を落としますし、孫のヤコブはもっと掴み所のない、いつも問題から逃げてばかりいる未熟な人でした。ヤコブの十二人の息子は、父親に依怙贔屓(えこひいき)され、溺愛されたヨセフを嫉妬し、憎んで、兄たちがヨセフを奴隷として売り飛ばす、という酷い展開になるのです。その二〇年後、不思議な神の計らいによって、ヨセフと兄たちはエジプトで再会し、和解を果たしました。本当に不思議な、神の御摂理でした。今日の五〇章の20節ではそのことをもう一度確認するのです。兄たちはヨセフに悪を計りました。しかし、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。兄たちがヨセフを憎み捕らえ売り飛ばしたのは確かに悪です。しかし、その悪をさえ、神は良い事になるようにしてくださいました。世界を良い物、美しいもの、素晴らしい世界としてお造りになった神は、その世界に悪が入り、人間が滅茶滅茶にしてしまったような中にも、人知を超えて働きかけてくださり、善いことへと変えることが出来るお方。神は世界の創造主であり、今も善いことを創造しておられる。それが、聖書を貫く信仰です[5]

3.予測不可能な世界に生きる

 創世記はその最初と最後で「良い」という言葉が共鳴していますが、途中にあるのは決して良いことばかりではありません。今日のテーマは、私たちに「素晴らしい人生」「神が問題を解決して奇跡を起こしてくださる」ドラマチックにハッピーエンドを約束はしていません。この五十章の言葉も、最初のヨセフの拉致事件から40年近くかかりました[6]。憎しみや裏切り、父を悲しませた罪の意識は、ある意味では最後まで癒やされません。

 もっと言えば、アブラハムが選ばれてからずっと、そこには家族の問題がいつもありましたけれども、家族が向き合い、自分の非を認めて和解するというのは、ここまで一度もないのですね。アブラハムもイサクもヤコブも、三世代は、問題があるのに黙ったり逃げたり間違った反応をしたりし続けたのです。決して創世記や聖書のエピソードの一つ一つが、問題が起きたけれど信仰持って祈ったら神様が最善に変えて下さった、なんていうドラマではないのです[7]。そういう表面的なハッピーなど約束しません。むしろ、神は人間の心に深く関わられます。時間を掛けて、じっくりと、何十年もかけて、深く歩みを導かれます[8]。自分を見つめさせられ、悲しみをも通らされます[9]。人生には、予測の付かないような出来事が次々と翻弄されて、思いもしなかった展開をしていくのであって、人間の思うまま、期待通りにはならない、と語るのが創世記なのです[10]

 神は最善をしてくださいます。善いことを創造しておられます。でも、それは神であって、私たちが思いやすい自分中心の善でもないし、もっと大きな善、神の愛です[11]。ここでヨセフが言うのも、自分たちの幸せではなく、多くの人々を生かしておくための仕事に自分が当たらせてもらったことを言っています。言わば、世界を祝福する使命を果たすために、ヨセフはそれまでのヌクヌクとした人生を一旦捨てた。それを神の善い計らいと呼んでいるのですね[12]

 こういう創世記を土台として聖書は展開していきます。天地万物の造り主であり、ただおひとり本当の神であられる主が、私たちを善い者となさるのです。やがてイエス・キリストがおいでになります。キリストの十字架と復活は、まさに人が計らった悪を善い事へと変えられた証しでした。そして神は今も善いことを創造なさっています。それは何よりも、私たち自身が、心から神に従い、神を喜び、神の祝福を人に分け与えるように造り変えられていくことです。

「世界の造り主なる神様。創世記を通して、あなたが世界を創造されたばかりか、今も御力をもって善をなさり、やがて素晴らしいご計画を完成なさると教えられ、感謝します。私たちはそのあなたの民です。どうぞ私たちがいつもあなたの最善を信じ、あなたを喜び、世界の罪と美しさとを見つめながら、あなたの祝福を運ぶよう、創世記の約束の通りに導いてください」



[1] 契約関係が与えられることも大事。救いの約束、人間の応答。こうしたことを無視した、漠然とした善なる神への信仰ではない。エデンの背信や、アブラハムの応答は神への応答を示している。しかし、ヤコブやヨセフにはその面は薄い。倫理的な正しさよりも、良き神への信頼に根差して生きることそのものである。「正しく生きれば祝福する」ではなく、「祝福の神への信頼をもって、それに応える生き方をする」。ここでも、始めに神、なのだ。

[2] ただし、創世記は、悪の起源についての説明はしていません。他にも途中で起きたこと一つ一つに、善し悪しを判断することは難しいし、出来ないのです。

[3] エルマー・マーティンズは、創世記1-2章に記されている「創造神学」を次のポイントでまとめています。「神を意味するエロヒーム(Elohim)という言葉は、多神教への挑戦となっている。」「7日という枠組みは、礼拝に由来している。」「体系的な記述は、秩序を表現している。」「創造物語には、理解不能な雰囲気がある。」「創造の頂点として人類が重要視されている一方で、創造物語は無生物にも生物にも注意を払っている。」『神のデザイン 旧約聖書神学の試み』(南野浩則訳、いのちのことば社、2015年)、352頁。

[4] そもそもアブラハムが選ばれたのが、彼が七十五歳の時。妻との間には子どもがなく、老い先も短い、枯れたような人でした。神の選びは、全く思いがけない人材を好みます。これもまた、聖書を一貫する視点です。

[5] 「神は世界を創造されたけれど、人間がそれを壊してしまい、ノアの洪水でわずかな人を残して、世界を滅ぼされた。その子孫も堕落して、世界はもう一度神の怒りで滅ぼされる」というネガティブでホラーな物語、だと思い込んでいないか。そうではない、ここにあるのは、世界を「よし」と見直し、この世界に生きる人間の傷、家族の問題、悲惨、理不尽などをすべて知り尽くした上での、「神はよいことの計らいとなさる」と確信する物語なのです。

[6] 再会までは20年もかかりました。その後更に17年経って、この言葉をもう一度ヨセフは兄にかけるのです。

[7] それは人間が好むような成功物語、英雄物語ではありません。そんな物語に隠した人間の万能感、支配欲、憎しみや破綻をも曝かれます。その典型が「バベルの塔の建設」の行き詰まりです。そういう心の襞、人間の繊細さも、創世記も聖書も十分に描いています。そういう人間の心の奥深くに、何十年もかけて、何世代もかけて、関わり、導き、「善いことの計らいとしてくださる」神を指し示すのが創世記です。

[8] 創造は(一瞬でも出来るのに)時間的なものでした。世界は時間的な世界です。神は時間をかけて作られた世界に、神の再生のご計画も時間がかかります。私たちは今をそのような目で見ることが出来ます。

[9] 創世記には多くの味わい深い達観が出て来ます。「事の善悪を論じないように気をつけよ」(神の台詞。三一24、29)、「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださったからです。」(ヤコブが自分が裏切った兄との和解を果たしたときに)、「私も失うときには、失うのだ」(四三14)、「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」(四五28)、「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」(四七9)などです。創世記は、人間の喪失の物語であり、人間が人間であって神ではなく、限界を弁えなければならないことを語り続けます。しかし、そうして人間が神の前に心砕かれるときに、神がともにおられることに気づくのです。わが子を失うまいと握りしめ、その喪失を嘆き続けていたヤコブが、「私も失うときには失うのだ」と自分の物語を手放したとき、彼は失ったはずのヨセフをさえ取り戻します。

[10] 「一つの物語であれ、一つの節であれ、全体から切り離された部分は、そのもともとあった大きな物語の中で占めていた位置よりも高めて強調してはいけません。聖書におけるよい大きな物語、すなわち最も中核となる物語とは、無償で与えられる一方的な恵みの物語であり、人間の罪深さをもってしても妨害されることのない愛をお持ちの神の物語であり、罪人のためにいのちを捧げられたキリストの物語です(ローマ5・8)。それ以外の小さな物語は、どちらの意味にも取れる〔二つ以上の解釈の可能性がある〕、あらゆる物語の一部にすぎないのです。」ジェームズ・ブライアン・スミス『エクササイズ』126頁。

[11] 世界は、善き物である。しかし、人間は「自分の願い」を基準に考え、それ以外のものには目を留めることが出来ない未熟さがある。素晴らしいプレゼントを次から次に開けているのに、自分が欲しい小さなプレゼントがないために、いつまでも満たされない子どものよう。私たちの願いよりも大きな神の「最善・最高」を信じる。そのためには、善い物を数えてみる訓練、祝福に目を留める訓練が必要。

[12] 最後は、ヤコブが目に入れても痛くないと可愛がって甘やかしていたヨセフが、失われた先で外国での奴隷生活、冤罪での投獄、無謀な大臣という責任を経て、しもべとなり、赦し、成長していた姿です。私たちも、自分の手に握りしめているものを失いつつも、すべてを握っておられる神が、私たち以上に善くしてくださると約束されているのです。

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問19「救いの魅力」ローマ8章1-4節

2016-06-19 16:24:47 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/19 ハイデルベルグ信仰問答19「救いの魅力」ローマ8章1-4節

 

 今読んだ聖書の箇所を思い出してください。イエスは、ご自分の育ったナザレの町で会堂に行かれ、聖書を渡されました。この「聖書」は、イエスが十字架と復活の御業をなさって、新約聖書が書き始められる前ですから、「旧約聖書」ですね。その旧約聖書を読んで、イザヤ書の言葉を朗読された後、説教をするために、お座りになりました。そして、その時に、なんと仰いましたか?

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」

と仰ったのですね。これを聞いて、そこに居た人々は途端にザワザワ騒ぎ出しましたのですけれど、それはさておき。やっぱり、みんながざわめき立つような爆弾発言を、イエスはなさったのですね。聖書に書かれている、

ルカ四18「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

19主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 この言葉が今日実現しました。つまり、イエスがお出でになったことにおいて、イザヤ書に書かれてある言葉が成就しました、と仰ったのです。他でもイエスは、旧約聖書の事は、すべてご自分を指して言っていたのだと言われるのですね。そして、教会とはそれを信じているキリスト者たちの集まりなのです。

問19 あなたはこのことを何によって知るのですか。

答 聖なる福音によってです。それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し、御自身の愛する御子を通してついに成就なさいました。

 この事とは、前回問18で、学んだことですね。

問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。

答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。

 この、「私たちの主イエス・キリストこそ、神であり人間である、完全な仲保者であり、私たちに完全な救いと義とを下さる方です」という事は、どうやって分かるのでしょうか。それはただ夕拝で牧師がそう言っているからでしょうか。お父さんやお母さんがそう言っているから、そういう事にしておけばいいのでしょうか。信じておくしかない、賭(ギャンブル)みたいなものなのでしょうか。いいえ、聖なる福音によって分かるのです。それは、エデンの楽園でも言われました。アダムとエバが、神との約束を破った直後に、既に神は蛇に向かって、こう言われたのです。

「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 そして、

「その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し、御自身の愛する御子を通してついに成就なさいました。」

というのです。ここで、この事をまとめてくれた動画を見つけましたので、これを見てみましょう。

 聖書は驚くべき本です。様々な物語がすべてイエスを指さしています。聖書の始まりは、神が完全な世界と完璧な夫婦を置かれたことです。しかし彼らは、神に従わずに罪を犯し、死を持ち込んでしまいます。神は、大洪水で全地を裁かれますが、ノアに箱舟を造らせ、動物たちとノアの家族が生かされました。ノアの子孫の一人が、アブラハムで、神は彼の子孫を空の星のように増やし、世界の祝福のために用いられると約束なさいました。その地に飢饉が広がったとき、神はヨセフを起こし、イスラエル人をエジプトにやりますが、そこで奴隷とされてしまいました。新たな指導者、モーセは、民を救い出し、約束の地に導きました。神は奇蹟と律法を授けられます。「幕屋」を建て、罪のために生け贄をささげさせました。しかし、約束の地でも、イスラエル人は反抗的で、偶像を礼拝し、高ぶりました。王の一人が、ゴリアテを倒したダビデで、その息子ソロモンが大きな神殿を建てました。しかし国は分裂し、苦しみます。その時、預言者たちが人々に「メシヤ」について語りました。メシヤが来て、私たちを治めてくださる。イスラエルの国が滅びてもそう語ったのです。やがて神は彼らを国に帰らせ、神殿が再建されました。メシヤがまもなく来ると告げられました。その後、沈黙の四百年が続き、飼葉桶の赤ん坊が現れました。そのイエスメシヤです。生涯罪を犯さず、奇蹟を現され、神に立ち帰る道を示されました。イエスを信じた人はわずかで、捕らえられ、十字架に磔にされ、その後、イエスは生き返られたのです。死を征服し、罪を打ち破られたのです。(間)最初に言ったように、聖書のすべてはイエスを指さしています。その最初の瞬間から、そうです。ノアの箱舟は、イエスの救いの約束でした。アブラハムの子孫であるイエスが、世界を祝福されるのです。いけにえは、イエスの十字架を指さしていました。聖書の全ページは、私たちにイエスを指し示している物語です。それだけではありません。弟子たちは、イエスを地の果てまで伝え、あらゆる所で福音を分かち合ったのです。あなたと私も同じ招きをもらっています。イエスが戻って来られるまで、イエスの福音を分かち合うのです。聖書の物語は、すべてイエスについての物語なのです。

 聖書はイエスの完全な救いと義を語っています。イエスが、私たちを救い、私たちの人生を正しく導いてくださることをずっと語っているのです。そういう福音が、聖書の初めからずっと語られているのですね。聖書を読むのは、この福音に気づくためです。

 もし聖書がなかったとしたら、私たちの信仰はとても怪しいものでしかありません。でも、福音とは何よりも確かなものです。神は、聖なる福音を最初から様々な方法で人類に告げ知らせておられました。それは聖書が私たちに確信させてくれることです。

 聖書にある沢山のドラマや出来事は、私たちを励まし、慰め、喜ばせ、謙虚にしてくれ、イエスの救いにあずからせてくれます。聖書を読んで、福音をいつもいただきましょう。

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申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

2016-06-19 16:22:14 | 申命記

2016/06/19 申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

1.聖書で二番目に長い章

 最近一番ホッとした出来事の一つは、北海道で八歳の子どもが六日ぶりに見つかったことでした。本当に胸を撫で下ろしました。あの事から「しつけ」や「罰」についての悩みがあちこちで議論されました。どこまでがよいのか、どうやっても言うことを聞かない子に、厳しい躾はどうなのか。そんな事への答として、

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

と現実に気づくことも大事だと言われています。どなったり、罰したりしそうになった時は

「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか」

と考えることが呼びかけられていました。[1]

 今日の申命記二八章は、申命記で今まで語られてきた、神の民としての契約を結ぶ部分です。全部で68節もある長い章です。これは、聖書でも二番目の長さです[2]。今読んで戴いた14節までには、主の言葉に従った場合の祝福が記されていました。この後、15節から68節までは、反対に主の契約に背いた場合の呪いが書かれているのです。祝福の四倍もの長さで、延々と、契約違反の結果がどれほど悲惨なものとなるのかが書き連ねられていくのです。病気や不作だけでなく、敵国に攻められて包囲されて、極限の飢餓状態になるとか、敵の捕虜として連れて行かれて、心が病んでしまうとか、徹底的な荒廃がこれでもかとばかりに描かれるのです。

 ただし、これは聖書の書き方の問題ではなくて、古代オリエント社会での契約文書は、祝福と呪いとを並べて最後に取り交わす、というのが形式を取ったのだそうです。そして、呪いの方が長いのも普通です。現代でも、契約違反の条文はやはり詳しく書かれますね。契約の祝福は、契約そのものに含まれているので長々と述べる必要はありませんが、契約を踏みにじるような場合は覚悟しておけ、と釘を刺すのは一般的な事です。

 しかも、ここに至るまでの話を思い出してください。イスラエルの民は、主の力強い御業によって、エジプトから救い出された解放を体験していました。本当に神があわれみ深く、何度も赦してくださるお方であることを知っていました。だから、これからも主に従い、主の命じる生き方を棄ててはならないことは当然だと弁えることが出来たはずなのです。こんな呪いは恐ろしいからと、恐怖で従うのではなくて、主が真実で恵み深い神である以上、従うのは当然で、のろいを言われなくても従うし、従わなければ呪われるのも自業自得だ、と思うのが本当だった筈です。そこを誤解すると、恐怖政治のように思えてしまうのです。

2.しかし、罰では人は変わらない

 あえて言うならば、先の

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

はここでも当てはまりました。こう言われたからと言って、民が神である主に対する忠誠を貫いたわけではありませんでした。この二八章そのものは、当時の契約文書の書き方を踏襲したものです。しかし、これだけ詳しく、主の言葉から離れてはいけないと具体的に長々と確認しても、それは民の心を直すことはなかったのですね。「御言葉に従わなければならないなんてしらなかった」とは言えませんし、「するなと言われたら却ってやりたくなる」なんて屁理屈も通用しません。民は、神である主、生ける唯一の創造主の力と恵みを知った上で、その神が命じる礼拝の民としての歩みを捨てました。互いに親切にし、偏見や格差のない社会を造ることを辞めて、利を貪り、虚栄を求めるようになりました。知らなかったからではなくて、悪いと十分教えられた上で、背いたのです。

 これは聖書の物語の大きな要因(プロット)の一つです。人間は、神と共に正しく喜んで生きることを望まなくなってしまった。いくら幸いをもらっても、いくら罰を与えられても、警告を受けていても、それでも神に背いたり、こっそり悪を行ったりしてしまう。それが人間の姿です。聖書はそれを分かっています。だからここでも、呪いや罰を恐ろしく描き出して、「神に従わないと悲惨が待っているぞ」と脅しつけ、無理遣り従わせようとするとは思わないで下さい。恐怖が動機で、恨みを秘めた信仰など信仰でさえないのです。罰や厳しさだけで人間は育ちません。勿論、刑罰が不要だとか、罰は無い方がいいということではありません。聖書は、神を恐れ、他の何物も神とせず、人をぞんざいに扱わず、正直であることを命じます。具体的な、本当に具体的な生き方を手取り足取り教えてくれています。私たちにとって必要だからです。

 でも律法で人が正しく歩めるとは聖書は期待しません。人間には、神から離れようとする罪がある。その心は、外からの強制や脅しや何かによっては変わり得ません。だからこそ、神はイスラエルの民が背いても、すぐにここに書いてあるのろいを全て下されたりはしませんでした。自分のした結果を刈り取らせましたし、不正や暴力を持ち込んだ社会はどんどん荒廃していきましたけれども、そうした中で神は民に語り掛け、悔い改めて立ち帰ることを呼びかけ続けました。いいえ、この申命記でも三〇章ではもう、悔い改めと回復がハッキリ約束されているのです。神は人間を脅さず、自分の悪に気づき、神に従わなかった間違いに気づくのを待たれます。そうして、心から神に戻って来るよう、決して見捨てずに、ともにおられたのです。

3.高く挙げてくださる方

 人間の言いたがる屁理屈に「神がいるなら見せてみろ」「願いを叶えるとか奇跡を見せてくれたら信じられるのに」という詭弁があります。今日の二八章はそういう言いがかりへも答えていますね。奇跡やのろいを見たところで、人は変わりません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で懲りないのです。それは、人の心に、神を小さく考え、自分の方が神よりも上であるかのように思いたがう性質が染みついているからです。神もまたそれを十分ご承知ですから、私たちにただの意志の力で生き方を正しくし、根性で心を変えることなんて期待してはおられません。それでは無理だと示すのが、イスラエルの民の歴史なのです。そして、イスラエルの民が失敗を繰り返してどんどん破綻していっても、なお神はそこでともにおられました。時に怒ったり、嘆いたり、苦しまれつつ、ただ人間に表面的な従順を求めるのでは無く、神ご自身を心から信頼する深い関係へと招き続けられたのです。その末に、国が滅びる寸前のイスラエルに、神のひとり子イエス・キリストがおいでくださって、御自身を十字架に捧げてくださいました。そのイエスのいのちの犠牲によって、私たちのいのちも新しくされ、神に従う民が造られていく。そういう物語の中で、初期の躾の一部として、今日の二八章も意味を持っているのです。

 私たちは、戒めやその結果、自分が受ける祝福や呪いにもまして、それを下さった神ご自身を仰ぎましょう。侮ってはなりませんが、「良い子」でないと怒り狂う神でもないのです。

二八1もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

と仰る神です。私たちを高く挙げなさる神。高く挙げたいと思ってくださる神[3]。神は私たちを卑しめ踏みつけたいどころか、喜んで御自身のそばに引き上げたくて溜まらない神です。そのためにも、神よりも自分の方が高いと思うことを止め、神を崇め、自分を低めるのは当然です。私たちよりも高く大いなる神の言葉の前に謙虚になりましょう。キリスト御自身が限りなく低くなられたように、本当の高さとは、低くなることにしかないのです。高くなろうと背伸びを止め、自分の問題や恐れや貧しさを認めましょう。神を大いなるお方として崇めましょう。そうして生活の中で人と付き合いながら、謙って歩む道は、呪いではなく恵みに他なりません。

 

「主よ。人が子育てに悩むように、あなた様も、呪いさえ警告し、忍耐をもって私たちを育て導いておられます。その限りない御配慮を感謝します。私たちの貧しさを悉く知り給う主が、私共をどうにかして命に生かそうと、卑しくなりたもうゆえに御名を崇めます。どうぞ私たちの心を、ただあなたの聖なる憐れみによって押し出し、謙って仕える歩みへと高めてください」



 
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[1] 「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しく、親の自己嫌悪につながる。積み重なれば、子どもの自己肯定感が低下することもある」。どなったり、罰したりしそうになった時は「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか、少し考えてみては。10回のうち1回でも冷静になれればそれでいい。子どもに伝える経験を積み重ねて、親も自信を持ってほしい」(「虐待としつけ、境目は? ママたち、日常を振り返る」『朝日新聞デジタル』2016年6月15日)より。

[2] 聖書で最も長いのは、詩篇一一九篇、三番目が民数記七章です。

[3] これは、13節でも「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と言われて繰り返されています。また、二六19でも「主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべtねお国々の上に高くあげる。」と言われていました。

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問18「救いの魅力」ローマ8章1-4節

2016-06-12 18:43:10 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/12 ハイデルベルグ信仰問答18「救いの魅力」ローマ8章1-4節

 

 今から二千年ほど前、イスラエルの国に、ナザレのイエスがおられました。イエスは神の国を説いて周り、当時の社会では落ちこぼれと見られていた多くの人にも、神の国は等しく与えられることを教えてくださいました。大勢の群衆がイエスの周りに集まり、その中から一二人のお弟子が選ばれました。彼らはみんな、イエスが大好きだったに違いありません。一緒にご飯を食べ、旅をし、そして、当時の社会の色々な問題も、このイエスが解決して下さるはずだと期待していたのです。でも、彼らはそんなに側にいて、イエスを慕っていたのに、イエスがどなたであるのかには気づいていませんでした。イエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたとき、そこからようやく、イエスが神の子である事、世界の王である事、私たちのために世界に来られた驚くべきお方であることに、やっと気づいていったのですね。

 彼らはイエスを愛していました。でも、理解できないことも沢山あって、あまり突拍子もないことを言うので脇にお連れして注意した弟子もいたのですね。陰では、「大好きだけど、ちょっと変わっているよなぁ」「いや、ちょっとじゃなくてだいぶさ」なんて、軽口を叩いていたんじゃないでしょうか。でも、そのイエスが、実は世界をお造りになって治めておられる神そのお方であった。そう気づいた時にどんなに吃驚したか、想像してみたいと思うのです。

 今日のハイデルベルグ信仰問答の問18も、それに近いものがあります。

問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。

答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。

 「ハイデルベルグ信仰問答」では最初に、私たちの唯一の慰めとは何ですか、それは、私たちが主イエスのものであることです、と言っていました。そこから、その慰めに生きるためには、まず私たちがどれほど悲惨かを知らなければなりません、ということで、今まで、回り回って、私たちの悲惨な状態を見てきたのです。私たちがどれほど心が曲がっているか、それは正しく解決して償ってもらう以外にないか、その償いが出来るのは、自分でもなく、他の人や何かでもない。神と人との間に立てる、本当の神であり、本当の人間でもある方ですよ。そういう話を積み重ねてきて、やっと話が元に戻って、今日の言葉になるのですね。ひとしきり、自分たちの悲惨や罪について見てきたけれど、でもその解決は、イエス・キリストなのですよ。それも、

…この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。

 もう与えられているんだ、もう私たちはこの方のものなのだ。そういうのですね。私も皆さんも、小さい頃から聖書の話を聴いたり、長い間教会に来たりして、イエスについて聞いてきたでしょう。それでも、あの弟子たちのようにイエスが本当はどんなお方かは分かっていないかも知れないけれど、実は、イエスは、完全な救いと義とを私たちに与えて下さる方なのですね。どうしたら私たちは救われるんだろうか、自分では無理だ、他の誰かでもダメだ、神と人間の間に立って下さるなら神でもあって人間でもある方でないと、といったら、それは、もうずっと私たちのそばにおられたイエスこそそのお方ですよというのです。犯人捜しのドラマで、誰が犯人かとずっと追いかけていたら、最初からずっとお話しの中心にいた一人が真犯人だった、というオチがあります。犯人ではなくて、救い主が誰かいるんだろうか、とずっと探していたら、実は目の前にずっといたイエスだった、ということなのですね。

 イエスがおられた時、そういうコミカルな場面は沢山あります。金持ちの青年が来て、どうしたら神の国に入れるでしょう、と聴きました。偉いパリサイ人のニコデモや、外国人の女が、イエスと直接話しながら、神の国はどうしたら見られるか、議論をふっかけるのです。でも真相は、目の前にいるイエスこそ、神の国の王だったのですね。実は私たちも、どうしたら救われるだろうか、自分も本当に救ってもらえるんだろうか、もっと頑張らなきゃいけないだろうか、などとあれこれ考えてしまうものですけれど、私たちのそばにイエスがおられて、私たちの「完全な救いと義」を持っておられることに気づいていない、ということがよくあるのです。ですから、自分の中でクヨクヨ悩んで不安になりそうだったら、イエスはもう私たちとともにおられて、私たちの手を握って、完全な救いを与えてくださることを思い出したいと思うのです。そして、ますますイエスが完全な救い主である事を知って、感謝し、親しく祈って、お従いしたいのです。

 イエスの救いが見えないまま、私たちは自分が本当に救われるんだろうか、罪を赦されるんだろうか、とボンヤリ考えがちです。けれども、イエスは「完全な救いと義」を持っておられます。私たちがイエスから戴くのは完全な救いです。ハズレ券になるかもしれない救いのチャンスでもないし、罪が赦されるだけの取消状でもありません。私たちが、罪から神に立ち帰って、本来の人間としての生き方を取り戻して、神との本来の素晴らしい関係に生きるようにしてくださるのです。悪や罪を赦す以上に、義を与えて下さって、私たちが正しく生きるようにしてくださるのですね。胡麻菓子や言い訳や、嘘のない生き方を私たちに教えてくださるのですね。本当に私たちが人間としてのあり方を取り戻して、喜んで生きるようにしてくださる。それが、イエス・キリストの下さる「完全な救いと義」です。

 今日の午後にはチャペルコンサートがありました。いつも沢山のステキな歌を聴かせてもらいます。音楽は、神が世界に下さった最高の贈り物の一つでしょう。心に響く言葉や、魂まで届くような音色、そういう音楽を生み出させてくださったり、歌ったり、神が私たちに下さったのは、決して詰まらないものではなくて、本当に魅力に溢れた世界であり、人生です。そして、多くの素晴らしい歌が、悲しみや苦しみの中で生み出されて、沢山の人を慰めているように、神の下さる救いも、思うままにならない人生の中でますます輝く救いです。

 祈りが叶わなくても、思いがけない大変なことがあっても、それは神がおられないとか信仰に意味がないということではありません。どんな時にもイエスは私たちとともにおられます。禍さえ歌にするほどの魅力が、救いにはあります。

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