2021/8/22 マタイ伝23章1~12節「見かけより大事なもの」
このマタイ23章は一つの長い説教です。来週お話しする24章も、25章まで続く長い説教で23~25章がイエスの説教だと言えます。マタイ5~7章には、三つの章に亘る最初の長い説教、「山上の説教」でしたが、これも三章に亘る説教で、十字架の前、最後の長い説教です[1]。
そして「山上の説教」が七つの「幸い」で始まったように、23章には七つの「わざわいだ」が出て来ます。しかし「山上の説教」とこれまた同様、語りかけられているのは「群衆と弟子たち」です。「わざわいだ」と言われるのは、律法学者やパリサイ人、当時の指導者たちです[2]。
2「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。4また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
こういう、教えるけれども、他者を助けようとしない当時の指導者たちに対しての痛烈な批判をイエスは仰います[3]。だからといって、群衆や弟子は言葉と行いが一致しなくてもいい、ではありません。誰もが自分が本気で信じてもいない、生きてもいない事を人に押しつける偽善を犯しがちです[4]。けれども、その矛盾している庶民の苦しみに、更に塩をすり込んでいたのが、当時の指導者だというのです[5]。その指導者の責任は、一層重いのだと、イエスは批判されます。
もし皆さんが、この箇所からの説教で、説教者が自分たちの罪を指摘して、罪意識を与えて、ぐうの音も出なくなる、それが説教だと思うとしたら、イエスは、そういう構造を徹底的に厳しく批判しておられる。そのやり方に倣うな、なのです。
とはいえ、律法学者やパリサイ人の行いが全部悪で、何一つ真似せず、反対をしろ、ということでもないでしょう。
5彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。6宴会では上座を、会堂では上席を好み、7広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。
人に見せたいのですから、信仰深そうに、聖書の言葉をいつも身につけ[6]、人から立派だと思われるような行動を取っているのです。その行動に、真似する価値がないのは、その行動自体より、動機が人に見せること、人から尊敬されて上座を与えられたり先生と呼ばれたりしたいから。そういう心の向き、人の上に立ちたいという価値観が問われているのです。そこで、
8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。9あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
これも、私たちが「先生」「父」「師」と呼び合わないことが目的ではありません[7]。イエスが気づかせているのは
「あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だから」
「あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけ」
という事実です。「人からどう見られるか、見かけを取り繕ってでも尊敬されたい、上に見られたい」と気にする――そういう生き方から、ただ一人の教師、イエスを見上げること。私たちは皆兄弟であって、「先生」と呼ばれる上下関係などない。天には神が私たちの「父」としておられる。その事実こそイエスは見せてくださいました。だから見かけで信仰深そうにして「先生」と呼ばれたいなど、可笑しいのです[8]。
そして私たちの「師」キリストは、見かけを信仰深そうにしたり、人の上に立とうとしたりする方ではありません。負いきれない荷を人の肩に載せて何もしない方ではなく、重荷に疲れた者を呼んで休ませ[9]、私たちの代わりに十字架を担い、私たち自身を担って、運んでくださるお方です。蔑まれたり否定されたりする道をイエスは選んで、私たちに仕えてくださいました[10]。それが、ただ一人の師であるキリストの道です。だから、こう適用されます。
11あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい[11]。12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。[12]
「低く見せる」というより、師であるキリストが仕える者、低く謙られたから、私たちも謙るのです[13]。人目が気になる自分にも正直になりつつも、神が父として私たちのすべてを見てくださっているから、仕えることを選ぶのです。そして、自分や自分のしたことの価値を無駄に卑しめるのではなく、自分を低くする者は高くされる。私たちが謙ってなす務めは、大いに価値がある。尊い祝福にしてくださる。そのことにも大胆に確信をもって生きていくのです。
この後繰り返される「わざわい」は、呪いというより嘆きです[14]。呻きや叫びの悲嘆です。神が下さる幸いがあるのに、神よりも人に見せること、見かけで人から誉められることを好む、それが幸いだと思って人を教えている。「先生」「クリスチャン」という仮面をつけて、自分とは違う人を演じる[15]。「わざわいだ、偽善の律法学者」と繰り返される「偽善」という言葉は[16]、この仮面をつけて演技をする役者を指す言葉でした[17]。イエスはそういう伝道は「わざわい」だと、強く嘆かれました。主の深い幸いよりも、見かけを求める空っぽの、仮面をつけた生き方を、深く激しく嘆かれました。イエスは、そんな「先生」とは全く違うキリストです。重荷を増やす教師ではなく、私たちの罪も弱さも疲れも素のままで知った上で、「幸い」を語り、私たちの心の向きや願いを深く新しくしたいのです。ここに一人一人が生かされること、生かされている恵みを見せて戴くことで、教会は育てられ、私たちは互いに教えられていくのです。
「主よ。あなたが私たちを見ておられます。偽善を嘆き、虚栄を悲しみつつ、この私を慈しみ、天の父としてともにおられます。あなたを見上げて、重荷も仮面も外れますように。偽らざる私たちを取り戻すため、御子イエスが来て下さり、重荷に疲れた人を休ませ、私たちを兄弟として結び合わせてくださいます。その御業のため、どうか私たちもこのままに用いてください。良いクリスチャンという仮面や重荷から解放して、あなたの恵みを運ぶ土の器としてください」
[1] マタイの福音書は、「イエスの説教集」とも言われ、「山上の説教」(5~7章)、「弟子たちへの派遣説教」(10章)、「神の国の説教」(13章)、「教会に関する説教」(18章)、そして、「終末の説教」(23~25章)が「五大説教」と言われています。いずれも、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」(7章28節)、「イエスは十二弟子に対する指示を終えると」(11章1節)、「イエスはこれらのたとえを話し終えると」(13章53節)、「イエスはこれらの話を終えると」(19章1節)、「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」(26章1節)と似たフレーズで締めくくられます。
[2] この批判は、群衆や弟子よりも、イエスに対抗する指導者たちである。「先生」案内者、インストラクターへの言葉。庶民を抑えつける言葉では無く、庶民に「救い」を提示する教師たちへの批判である。庶民の救いを提示する教師が、根本的にどのようなあり方をしているか、イエスのあり方と、大祭司のあり方との違い。これは、私たちに対する断罪というよりも、イエスがどんなお方か、を指している。それゆえに、私たちにも、どのような形でキリスト教を伝えるか、親が子に信仰を伝えること、キリスト者が非キリスト者に伝道すること、牧師が信徒を教え育てること、等々をどのようにしていくか、のモデルとなる。それは、自らが模範となり、自分自身が教えられてそのように生きること。この意味で「人を見ないで、神を見なさい」という言い方を「逃げ口上」としてきた教会のあり方は深く見直されるべき。まず、自分がどのように生きるかを自分自身に教えること。上座とか尊敬とか名誉などを求める自分の考えを崩されて、神の前に「正義とあわれみと誠実」を求めるべき。そんな教師に聞き従う必要は無い。そんな教師が語る「救い」など求めなくてよい。
[3] 繰り返されているのは、内と外の矛盾。「3彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いはまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」「15おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」「23おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。…24ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。」「25おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。」「27おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。28同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。」
[4] マタイ7章1~5節「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。2あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。3あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、
[5] そして、この場合、構造的な暴力が起きるのは、上にいる者は、その立場や経験、知識で優位な分、下にいる者よりも「安全」であって、その安全な座から、下にいる者の欠点(実践、知識、理解力)を論い、その上下関係で安住しやすく、下位の者を、神の言葉を盾に、罪悪感で束縛することが出来るからです。しかし、安全な場にいる教師には、格別厳しい裁きがある、とヤコブ書は言います。「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ書3章1節)
[6] 今で言えば、聖書のアクセサリーやみことばのTシャツを着て、車や家の飾りをクリスチャングッズで飾っているようなものです
[7] ある教派は、ここから牧師を「先生」と呼ぶことをしませんし、私も最初に牧師になる20代に「先生と呼ばないでください」とお願いした時代があります。今でも「牧師先生」という言い方には非常に抵抗がありますし、「牧師は○○先生と呼ばなければ」という発想には抵抗しています。「○○さん」づけやニックネームでも良い、欧米のキリスト教文化が、アジアに入った時に「先生」と呼ぶようにすり替わった経緯を、客観的に理解することは非常に大事な気づきになります。しかし、この箇所から「父」と呼ぶことをしない人がいないように(パウロ書簡でも「あなたがたの父」という言い方が多様に用いられるように)、「先生」と呼ばないことが命じられているのではありません。
[8] これは6章1節でも「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」と警告されていたことです。「山上の説教」でのこの言葉が、マタイ最後の説教のここでも、強く警告されるのです。
[9] マタイの福音書11章28~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
[10] マタイの福音書20章28節「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
[11] 11節「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。」マタイ20:26
[12] これは、18章4節でも言われたことであり、マタイの根底にある主題の一つです。しかし、個々人への道徳という以上に、当時の宗教システムへの挑戦でしょう。とりわけ、一人一人が指導・長上としての立場にある人の間違いに気づいても、黙従するのでもなければ、見下したり批判したりするのでもなく、模範となること、自分自身の問題を棚上げせずに取り扱っていただくことが、真の「兄弟姉妹」の関係作りとなることを示唆する。
[13] 日本のような「謙遜文化」では「低く見せる」自体が美徳だとされますとなってしまいますが、そうした「謙遜」と、聖書が示す「謙虚」とは大きく異なります。
[14] 「わざわいだ」ウーアイ 嘆きの呻き。呪いより深い悲嘆・慟哭。
[15] 人から見られることを愛する私たち。人からの賞賛を求め、一喜一憂する。伝道もまた、来会者の数や教勢上の統計で、成功だ失敗だと批判しやすい。それは、神が私たちを愛し、どう見ておられるか、決して変わらない価値を下さっていることを忘れているからだ。その意味では、「人を見ず、神を見なさい」だ。人を見ないや、結果を一切考慮しないことが目的なのでは無く、まず神ご自身からの恵みをたっぷり味わい、神との交わりにおいて養われることが大事。
[16] 16節だけは「わざわいだ、目の見えない案内人たち」です(24節でも繰り返されます)。「偽善」と「目の見えない案内人」は、別のことを言っているのでは無く、偽善性を「目の見えない案内人」と言い換えているのです。
[17] 「偽善者」ヒュポクリテース 仮面をかぶった役者。悪意とか、善人ぶる、という悪質なことではありません。自分では真剣であり、正しいと思っているが、それが上辺を装うこと、敬虔に生きるふりをすること、私たちで言えば、「クリスチャンらしく」生きることとしか思っておらず、神の道とは正反対の生き方になっているのです。それが、ここでイエスから非難されている「偽善」です。主観的な「偽善」というより、「客観的な偽善」だとも解説されます(加藤)。人に「クリスチャンらしく」見せることではなく、心をご覧になる神に、自分の心を扱って戴く。私たちの王になっていただくことだ。
聖書協会共同訳
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。
4彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。
5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くしたりする。
6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。