聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

2021-12-18 12:55:59 | クリスマス
2021/12/19 ルカ伝1章26~38節「神に不可能はありません」

 クリスマス、イエス・キリストの誕生の出来事は、聖書の四つの福音書が全て記している訳ではありません。マルコとヨハネの福音書ではキリストの誕生は端折っています。ルカは1章と2章、七頁にも亘って詳しく、母マリアに御使いが現れた受胎告知やベツレヘムの羊飼いの事などを伝えています。いくつもの歌がこのルカの記事から造られて、今も歌われています。
 この舞台となるのは「ガリラヤのナザレ」という町。都エルサレムから遠く離れた、北の田舎の目立たない村でした。その村の娘の一人がマリア[1]。そのマリアの所に御使いが来て、

28…「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 勿論、御使いの登場そのものにも驚いたでしょうし、「恵まれた方。主があなたとともにおられます」との言葉にも戸惑ったろうと想像するのです。すると、御使いは彼女に言います。

30…恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 これは聖書の中の長い歴史で、ずっと悲願とされてきた方です。待ちに待っていた、よい王がいよいよ来る。それは当時、マリアも含めて多くの人が、待ち望んでいた約束の出来事です。しかし、マリアはその約束の王の到来はともかく、自分がその母になることには躊躇(ためら)います。

34…「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 母になると言われても、許嫁の状態でまだ同衾していないし、それで子を宿す話など聞いたことがありません。それだけでなく他にも沢山の疑問や戸惑いがあったでしょう。これに、御使いは、半年前のエリサベツの奇蹟的な懐妊の出来事を思い起こさせて応えます[2]。勿論、高齢の夫婦が子を宿すのと、処女のマリアが子を宿すことは全然違うことでもあります。でも御使いは、エリサベツの懐妊が
「神にとって不可能なことは何もありません」
という証だと言います。そして、この御使いの言葉に、マリアは十分として応えるのです。

38…「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 新改訳2017の欄外注には、37節の「不可能なこと」は

「「語られたことば」あるいは「語られた事柄」の意」

とあって、38節の「あなたのおことばどおり」とある同じ語です[3]。ですから、神が仰る言葉に何も不可能はない、という事で、私たち人間が神に要求するどんなことでも神には不可能では無い、ということではありません[4]。しかも、その神の仰った言葉とは、どんな事でしょうか。もし私やあなたが不可能のない力を与えられたらどんな使い方をするでしょう。いや、現に今も、世界の国々や支配者は、自分の願望を達成しようと競争しています。その足元で、貧しい国や追いやられた人々との格差が開くばかりです。しかし、本当に不可能はない神は、その力をご自分が最も低くなるために使われました。そして、都に住む美しく敬虔な女性ではなく、田舎娘で自分自身の肩書きを持たない少女マリアを選ばれて、その胎に宿ったのです。
 そして、生まれた時、居場所はなく、飼葉桶。最初にその誕生を知らされたのは、統計の数にも入らない羊飼いたちでした。それが、クリスマスが示すメッセージです。生まれたイエスは王であると共に、どんな王であるか、私たちの考えをひっくり返すメッセージです。その後の生涯でもイエスは、罪人や後ろ暗い過去ある女性、放蕩息子、嫌われ者の金持ち、裏切る弟子たちの側に立たれました。最後の十字架でも、処刑に終わる人生を送った強盗の友となり、死なれました。
 その三日目、イエスはよみがえって天に昇り、今も天の御座で、永久に私たちを治めておられます。地の低い一人一人を「恵まれた者」としてくださるのです。[5]

 それでも、世界には問題が溢れています。世界を左右しているのは、富豪や政治家、あるいはウイルスや偶然のようにも思いたくなります。ルカや福音書の記事でも、キリストの誕生後、周囲が大きく変化してはいません。一時的に驚き、熱狂しても、直ぐに冷めてしまう。でもそんな世界の中で、誰にも気づかれない密かな所で、小さくイエスの支配は始まっていました。田舎の少女の部屋で、その幼い胎の中で、ベツレヘムの馬小屋で、遠い東の国の博士たちの研究室で。闇の中に点ったような希望の光が、小さくて、闇を吹き飛ばしはしなくても、闇に消されることも決してなく、喜びと希望を点し続けて、確かにそれは広がっていきました。そして、そのキリストの光が、私たちにも届けられています。神の子キリストが私のためにお生まれになり、その不思議な支配を初め、私の中にもそれを始めていてくださる。[6]

 インドで死にゆく貧しい人々を助けたマザー・テレサは「あなたがしていることは大海の一滴に過ぎないのではないか」と質問されて「その一滴を止めたら、海から一滴分、水が減ってしまうのです」と応えたと聞いたことがあります[7]。クリスマスは、まさに、神が一人一人の王となってくださった出来事です。そのためにご自身が小さくなり、最後は十字架にいたる生涯をも厭わなかったのです。その言葉を、私たちはマリアとともに、私たちへの言葉として聞くのです。
「おめでとう、恵まれた方」
という言葉も、
「神にとって不可能なことは何もありません」
も、私たちを代表したマリアへの言葉です。この方の謙りに、私たちの生き方、願いをひっくり返されます。この方の言葉を、今この時、私たちへの言葉として聞くのです。そして、私たちも

「私は主のものです。お言葉通り、この身になりますように」

と言うのです。

「大いなる主よ、あなたの言葉には不可能はありません。あなたの御支配も世界の回復も、私たちの救いと新しいいのちも。あなたご自身が私たちへの捧げ物となってくださったからです。今あなたの飼葉桶と十字架を想って謙り、あなたを褒め称えます。「おめでとう、恵まれた者」との言葉を戴きます。この周囲でどんなに嵐が吹いても、力を競う声が誇り叫んでいても、あなたが私たちとともにいます。その喜びに支えられる幸いを、私たちの力としてください」


脚注:

[1] 「ダビデの家系のヨセフという人の許嫁」とあり、当時の結婚年齢が12歳ぐらいで、マリアもその年頃だったのでしょう。

[2] 35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。36見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。37神にとって不可能なことは何もありません。」

[3] ギリシャ語「レーマ」。

[4] 確かに、この大きく、不思議な世界を創造された神には不可能はないでしょう。でも、その何でも出来る神が、そこに生きる小さな星の人間、それもご自分に背いた人間に対するにも、いくらでも他に方法はあったかも知れません。そもそもご自分に背かないような世界を創ることだって出来たでしょう。背いた人間など放っておいて、もっといい世界を始めることだって出来る。せめて、その支配者として人間が望むような王を送ることも出来る。しかし、神はそんな自分の手を汚さず、痛みも少ない方法を採るよりも、違う形で「いと高き方の力」を現すことを選ばれました。神の子イエスご自身が、この星の人間となり、聖霊によって一人の女性の胎に宿るという方法を選ばれました。他にいくらでも方法はあるだろう、不可能はない方が、ご自身がマリアの胎に宿るという形でこの世界に来られました。

[5] この世界の、人間の計算とか思惑とか、もし力があればとんでもない事に使うことを思いつきかねないこの世界の大きな流れの中で、神のよい御支配を信頼する人々、この私たちのために自ら謙ってともに宿り、私たちをも神のこどもとし、神の業を生み出す者としてくださると仰る言葉を受け入れる人々がいます。私たちも、その一人です。

[6] 「そこでルカは、驚くべきことを告げます。神はその宝物を、その時代のあらゆる場所の中で最も弱く、最も小さく思われる場所――女性の子宮――にお預けになった、と。…きっとルカは、わたしたちに知らせたかったのです。福音という宝物は、いつの日か、みずからの力によってこの地を満たすものではあるが、最初は弱くて無力な場所にいる者たちの中に、その宝物を最も待ち焦がれ、その宝物に最も深く飢え渇き、それゆえ、それを最も信じて大切にすることの出来る者たちの中に植え付けられなければならない、ということを。…神が今ここにいてくださる、という驚くべき出来事が突然起こる場所は、わたしたちの人生やこの世界の弱い場所であることがとても多いのです。そして、まさにそのようなところこそ神が宝物を置く場所である、ということそれ自体が、福音の一部でもあります。」、トマス・G・ロング『何かが起ころうとしている アドヴェント・クリスマス説教集』、(平野克己、笠原信一訳、教文館、2010年)、84~87頁。

[7] 「私たちのしていることは、大海の一滴にしか過ぎないかもしれません。しかしもし私たちの誰かがこの活動を辞めてしまったなら、大海の水は確実に一滴減ってしまうのです。私たちは弱気になってはならないのです。勇気を失ったり、不幸になってもいけないのです。もちろん、イエスのために活動しているわけですから、そのようになることなどありえません。全世界に向けて、私たちは活動していきたいのです。全世界・・・・・。なんて壮大で力強い響きでしょう。貧しい人々は無数に存在します。しかし私たちはそれぞれ、一度に一人のことしか考えることができません。一度に一人の人には奉仕できるのです。その一人とは・・・そう、それはイエスです。貧しい人に食べ物を与えてあげれば、その人はきっとこういうでしょう。「私はとてもおなかが空いていたのです。あなたは私を元気づけてくれました」と。それはイエスの言葉でもあるのです。イエスはたった一人です。私は貧しい人々の言葉をイエスの言葉として受け止めてきました。「あなたは私のために・・・・をしてくれましたね」という言葉を・・・・。一度に一人の人を救うことはできるのです。そして、一度に一人の人を愛することもできるのです。」『マザー・テレサの愛という仕事』80頁より。

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2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

2020-12-19 12:00:12 | クリスマス
2020/12/20 ヨハネ伝1章9~14節「すべての人を照らす光」

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝うお祭りです。キリストの誕生日がいつかは分かりませんが、キリストの誕生という尊い出来事をお祝いするのです。特に12月25日は元々冬至のお祭りでした。一年で一番昼が短く、これからは夜明けが早くなっていく、言わば「太陽の誕生日」という異教のお祭りでした。この「太陽の誕生日」に教会は「キリストこそ私たちの太陽だ」と、キリスト誕生をお祝いする光のお祭り、クリスマスを始めたのです。[1]
9すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 その光は私たちをどう照らすのでしょうか。キリストが来られたことで、闇や夜がなくなったわけではありません。文字通りの意味でも勿論、私たちの生活や心の中の闇や痛みが影を落とします。悲しみや悩みで心が真っ暗になるとか、先行き見通せず暗中模索するような不安がなくなってくれたら安心ですが、そうではありません。ここでも、
5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
とあります。光は闇の中に輝いているのであって、闇がなくなったのではないのです。[2]
 ここで「すべての人を照らすそのまことの光」と言われているのは、イエスご自身です。イエスが電球やライトを持ってきてくれるというより、イエスご自身が光だと言われています。
イエスは…人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」[3] 
 イエスが世の光。イエスが来て下さって、私たちに先だって歩んでくださることが、周りが明るく変わるにも増して、私たちにいのちの光をもたらすのです。闇の中を進むような思いをすることは沢山あるのですが、それでもどんな時もイエスがともにいてくださる。必要なら私たちの手を握り、一緒に休んでもくださるし、いつのまにか背負ってもくださる。私たちから決して離れずに、歩んでくださる。イエスこそ、すべての人を照らすまことの光です。また、私たちの心の底まですべてをご存じで、罪からいのちへと方向転換させてくださるのです。
 だからこそ、そんなに照らされることを嫌がって、受け入れない人のことも11節に出て来ます。明るい人生さえあればいい。自分の心には踏み込まないでほしい。そういう拒絶もする。けれども、外側の明るさや確かさだけを追い求めるなら、内側の暗さをますます暗くしてしまうでしょう。神はそれを放っておいて、諦めて見捨てたのではありませんでした。そういう人間の心に信じる心を与え、神の子イエスが近づいて来て、心を開いて下さったのです。
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 「人」に星印があり、欄外に「直訳「肉」」とあります。ぎこちないですが、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた」が元々です。これを「人」と訳すとしたら、特に人間の肉体・身体性・物質的な面を言っているのです。私たちのこの体、食べたり排泄したり、痛がったり傷が残ったり、汗をかいたり老いたりする、そう私たちの持っているのと同じこの体に、言葉がなって、私たちの間に住まわれた、それがイエス・キリストの誕生であり、生涯でした。
 神がこの世界を作り、私たちを愛し、私たちを照らしていのちを下さる。神の栄光は、恵みとまことに満ちている。「そう言われても分からない、世界の闇や自分の闇の方が強い気がする、恵みだと愛だの、綺麗事にしか聞こえない」。そんな人間のところに、キリストが来て、私たちと同じ肉体を持つ人間となってくださいました。
 神であるキリストが、肉体を持つ人間になる。それは私だったら、きっと断固として拒みたいような決断です。誰が小さな虫やバクテリアを救うため、自分もその一匹になろうとするでしょう。神にとって、人間になるのも微生物になるのも、たいした差はないでしょう。キリストは、それをしてくださったのです。クリスマスは、神の言葉が肉となった、ぎこちない、大それた、神の有言実行でした。
 キリストは人となって何をなさったのでしょうか。
 貧しい結婚式の欠乏を満たしてやり[4]、悩む老人のお忍びの相談に向き合いました[5]。
 異国の身持ちの悪い女性と屈託なく会話し[6]、ご自分の身が危うい時に、弟の死に慟哭する姉妹のためその死者を生き返らせました[7]。
 そして、弟子たちの汚れた足、誰もお互いに洗いたがらなかった泥だらけの足を、盥に水を汲んで一本一本洗ってくださいました[8]。
 その洗ってもらった一人でもあるヨハネが
「この方は恵みとまことに満ちておられた」
と言わずにおれなかった。それは、イエスが肉となってくださったからこそ、見ることが出来た事実でした。そしてイエスを見ることで、神がどんなお方かをまざまざと見たのです。まことに神は愛だ、この方がいのちを下さるのだと知ったのです。
 キリストがお生まれになったのは、人を愛し、私たちを照らすいのちの光となるためでした。そのため、肉となる道を厭わなかった神の御子は、この体で生き、うめいている私たちにも近づいて恵みを見せて下さいます。今年、いつもと違う、予想外のクリスマスを迎えています。この闇の中だからこそ、こういう世界の中にキリストが来て下さって、神の愛を私たちに届けてくださった。光となってくださった。「わたしが世の光だ、わたしがあなたがたのためにいのちを与える、わたし自身を与える。だから、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と[9]、いのちの道を示し、先を歩んでくださる光が見えるのです。

「闇にそっと生まれた主よ。主イエスを通して、私たちは神を見、天地の主が私たちを愛し、私たちを通して栄光を現してくださることに驚きます。そして、あなたの言葉は必ず肉となり、この世界の中に成し遂げられるのです。どうぞ、このクリスマスに、すべての人を照らす光として、キリストの誕生と御生涯が届けられますように。主イエスが、ここにいる私たちの光として心の闇も照らしてくださり、私たちの歩みを、いのちの光を持つ者として導いてください」

脚注:

[1] そして、神が私たちにイエス・キリストを贈り、罪の赦しと永遠のいのちをプレゼントしてくださったように、私たちも贈り物を贈り合い、人を招いて食事をする、キリストの誕生を歌うカロルが造られてきました。今や世界でお祝いされるようになったクリスマスになったのです。

[2]  1章1~5節でヨハネは、思いっきり遡って、世界の初めのその前のことから語り出します。「1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2この方は、初めに神とともにおられた。3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

[3] ヨハネの福音書8章12節。また、ヨハネの黙示録21章23節「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」、22章5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。」も参照。

[4] ヨハネの福音書2章1~11節。

[5] ヨハネの福音書3章。

[6] ヨハネの福音書4章。

[7] ヨハネの福音書11章。

[8] ヨハネの福音書13章。

[9] ヨハネの福音書13章34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」。

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2019/12/24 マタイ1章18-25節「神が私たちとともに」クリスマス燭火礼拝

2019-12-25 09:51:13 | クリスマス
イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

メッセージ 「神がわたしたちとともに」 古川牧師
 「神が私たちとともに」という今日のテーマは、今読みました聖書の言葉の中から取りました。イエス・キリストの誕生の前に、生まれてくる子どもは
「インマヌエル」「神が私たちとともにおられる」
と呼ばれる、と言われました。イエス・キリストは、神のひとり子ですが、私たちと同じ人間になり、人としての生涯を歩んでくれました。イエスの誕生は、神が私たちとともにおられることを、最大級に現した出来事でした。
 これは、クリスマスだけの出来事ではありません。「インマヌエル」という言葉を告げていたのは、旧約聖書の「イザヤ書」という書物。イエスの時代の600年前に書かれていた本です。もっと前の聖書の中にも、神がともにいてくださる、という言い方は要所要所で出て来ます。神は、わたしがあなた方とともにいる、わたしがあなたがたの隠れ家、住まい、家となる、そのように仰るお方です。神は、ご自分を名乗って
「わたしがいる」
という名前を告げました。「わたしはいる」と神は自己紹介されたのです。
 今月、アフガニスタンで働き続けた医師、中村哲さんが、一緒にいた現地の方5名共々銃撃されて亡くなりました。中村さんはキリスト者で、アフガニスタンでの働きをまとめた本を『天、共に在り』という題で書いています。『天、共に在り』とは、このインマヌエル「神は私たちとともにいます」を中村さん流に言った言葉です。中村さんは
「これが聖書の語る神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する」
と書いています[i]。また、そこからアフガニスタンでの活動や、大変な闘いの中でもハンセン病の治療や井戸掘り、用水路の大工事などに奔走したことも、そうした努力だけではなし得なかった、沙漠が緑になって何十万の人の生活を変えたのも、すべてを貫いているのが「天、共に在り」だというのです[ii]。
 もしどなたかに「キリスト教の神ってどんな神?」と聞かれたなら、私は「私たちと一緒にいてくださる神だよ」と答えます。また、聖書の最後の「黙示録」という本には「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」と書かれています[iii]。天国ってどんな所?と聞かれたら、「神様と一緒にいる所だよ」とお答えしたいなぁと思っています。
 でも、神がともにいる、と言われて、嬉しいと思う方もいるでしょうが、ちょっと居心地の悪い思いをする方も多いかもしれません。神と人間とじゃ、あまりにも違いますから。いいえ、人間同士でも、一緒にいるのは嬉しいばかりではありません。家族でも、一緒にいたくないと思う時があります。安心して一緒にいられたらいいなぁと思っているのに、なかなか難しいのです。聖書にも、人間が一緒にいるように造られたのに、その関係を壊してしまう、「罪」のことが書かれています。神から約束や祝福をもらいながら、神に背き、人間同士も傷つけ合い、争い、裏切り、女性たちや弱い者を貶めてきた歴史でした。聖書には、立派な人ばかりが出て来るかと思ったら大間違いで、人間の罪や失敗の繰り返しです。しかし、そうした人間にも神がともにいて、立ち上がらせてくださった、という出来事が聖書には満載です。そしてその末に、神のひとり子イエスが、人間となって来て下さった、というのが聖書の中心にある出来事なのです。

 その時もイエスの父親役を仰せつかったヨセフはたじろぎました。自分が、救い主の父親を果たすだなんて、無理だと思ったのです。自分に流れている血は、先祖たちの罪、人殺しや姦淫や裏切りの血だ。自分には、神に選ばれる資格はないと思ったのです。でも、神はヨセフの夢に天使を遣わして、
「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」
と仰いました。神は、人間の罪とか恥とか、人間同士でも一緒にいるのが難しい現実を十分ご存じです。そして、だからこそ、私たちとともにいるために来て下さった。それも、神々しいお姿ではなく、私たちが一番安心できる、生まれたばかりの赤ん坊にまで小さくなってくれました。そこまでしてでも、私たちとともにいることを選んでくださいました。それは、神が私たちとともにいて、私たちにどんな罪や恐れや闇や失敗があろうとも、神は私たちと一緒にいる、一緒にいたいと願い、一緒にいると約束してくださっている、という証しでもあったのです。

 ヨセフは、マリアを娶って、イエスの誕生を迎えました。聖書には、生まれたイエスに後光が差していたとか、まばゆく輝く笑顔だったとか、天使のように可愛かったとか、何も書いていません。周りでは驚く出来事が起きても、イエスご自身は書くべき特徴もない、普通の、本当に普通の、小さな赤ん坊だったのでしょう。イエスは神々しささえ捨てて、マリアとヨセフの所にいてくださった。暗い宿屋の飼葉桶にそっと静かにいてくださる。闇を真昼のように明るくはしませんでしたが、そのイエスがおられることがヨセフの心をどんな光よりも明るくしたでしょう。

 「天、共に在り」と知って生きた中村哲さんの人生は大変な生涯でした。神が共にいるなら、どうしてあんなことが、とも思えます。でも、中村さんは「天、共に在り」と信じるからこそ
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
と言いました[iv]。
「私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです」
と確信していました[v]。アフガニスタンでも日本でも、人は愛するに足り、世界は美しく、人生は生きるに値する。どんなことがあっても、そこでも、ともにいてくださる神がおられるとは、そんな光をくれます。小さな、しかし十分な光です。

「主よ。あなたは私たちに独り子イエスを贈ってくださり、今も私たちとともにおられます。あなたがともにいる事実が、喜びにはあなたへの感謝となり、困難でも生きる力を与え、互いにともにいることを祝い、罪の赦しと恵みによって結ばれる幸いをもたらしてくださいますように。今からのコンサートでもあなたが心の奥深くに触れて下さい」

[i] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;background:white;'>[ii] 「「天、共に在り」本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。これが、三十年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。」前掲書、246頁、本文結びの言葉。

[iii] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:9.0pt;text-indent:-9.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;background:white;'>[iv] 澤地 久枝、中村哲共著『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る――アフガンとの約束』岩波書店、2010年。

[v] 中村『天、共に在り』、5頁。

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2019/12/22 マタイ2章1~12節「王が生まれた」鳴門キリスト教会 クリスマス夕拝

2019-12-22 17:08:37 | クリスマス
2019/12/22 マタイ2章1~12節「王が生まれた」鳴門キリスト教会 クリスマス夕拝

 今週水曜日は25日、クリスマスです。クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするお祭りです。ですから、今日の夕拝は、特別に、イエスの誕生についてお話しをして、クリスマスを祝い喜ぶ夕拝にします。
 イエスが生まれた時、東の方から博士たちがやって来ました。そしてこう言いました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
 イエスが「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方と言われています。この博士たちは、東の方からやってきた人。つまりユダヤ人ではありませんでした。しかし、東の方に行ったユダヤ人たちがこう言っていたのです。「やがて、私たちの王がお生まれになる。その方が、世界を平和に治めるようになる。聖書には、その王のお生まれが約束されている」。そのユダヤ人の王のお生まれを聞いていた人たちが、東の方で不思議な星を見た時に、これはあのユダヤ人の王の星に違いない、と思ったのです。そして、そのお方を礼拝しよう、と旅支度をして出発し、何ヶ月もかかって、とうとうエルサレムにやってきたのでした。
 この「ユダヤ人の王」は、ユダヤ人だけの王ではないのです。ユダヤ人の王は、東の国の博士たちも、世界中の国の人も治めて、平和にしてくれる王です。だから、博士たちが遠い東の国からやってきたのでしょう。とても沢山の時間やお金がかかったでしょう。旅の途中は、今よりずっと危険で、簡単には帰れません。それでも博士たちがやってきました。その事から、お生まれになった王がどれほど偉大なお方かが分かります。
 しかし、この時すでにユダヤには王がいました。「ヘロデ王」です。ヘロデ王は、とても頭が良く、沢山の業績を残した人です。王になりたくて、当時のローマ帝国の皇帝に取り入って、王になり、人々にも王と呼ばせていました。しかし、ヘロデ王にとっては博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」という言葉は、ビックリでしたし、不安にさせるものでした。ヘロデ王は、自分が手に入れた王座を奪われることを恐れたのです。確かに、博士たちが言うように、本当のユダヤ人の王であり、ユダヤ人だけでなく、世界の全ての人の王となるようなお方が来るなら、ヘロデが王である事も終わります。その事実に、ヘロデはいてもたってもいられなくなりました。
 そこで、ヘロデは
「民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした」。
 彼らは王に言いました。
「…「ユダヤのベツレヘムです。預言者たちによってこう書かれています。
『ユダの地、ベツレヘムよ。あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
 この言葉は聖書の「ミカ書」という所にある言葉です。この言葉から、キリストの誕生はベツレヘムだ、と祭司長やヘロデは結論しました。でも、この言葉が言っているのは、ただベツレヘムの事だけではなく、神は「一番小さい」と見えるような所から、神の御業を始める-エルサレムやヘロデのような大きな所からではなく、小さな所から、神様は新しいことを始める、ということは目も留められませんでした。そして、ヘロデは博士たちをベツレヘムに送り出したのです。
 イエスが「ユダヤ人の王」であるのは、このミカ書の言葉の通り、一番小さいような所に来られたことに現されています。ヘロデとは違い、イエスは世界の全ての王であり、自分の立場を守るよりも、人を思い、私たちを愛し、最も小さい者を大事になさいます。ユダヤ人だけでなく、東の国の人も、日本人も、インドネシア人も、韓国人も、また国籍のない人も、世界中の人々を、支配してくださる本当の王です。「支配」というと嫌なイメージがあるかもしれません。

 でも、漢字をよく見て下さい。支配とは、えて慮すると書きます。王は、国や民を支えて、必要なものを配ってあげることが、支配なのです。イエスの支配は、私たちを支えて、必要な配慮をしてくれる支配です。それは怖いことではありません。けれども、いつしか支配とは恐ろしく、上から押さえつけるような、民に王を支えさせ、配慮させるような意味になってしまいました。王という言葉も尊敬や感謝を抱くよりも、我が儘で、贅沢で、下々の苦労は知らないイメージになりました。ヘロデもそのような「支配者」、悪い「王」になってしまったのです。
 イエスは、ヘロデや悪い王、政治を終わらせる王です。本当に民を支え、生かしてくれる王です。他の国々とも争うことを終わらせて、本当の平和な関係を広げてくださるのでしょう。イエスこそ、本当の王、本当の、支え、配慮する支配者です。約束されていた、世界の王、その方のお生まれを喜ぶなら、遠くまで旅をしても惜しくないような素晴らしい王、それがイエスでした。ヘロデはその誕生を恐れて、その王を亡き者にしようとしましたが、その企みも博士たちを助けて、ベツレヘムに彼らは行きました。すると、再び、あの星が現れて、博士たちを導いて、イエスのいる家に導いたのです。こうして博士たちは、イエスに出会い、その家に入って、幼子を礼拝しました。博士たちが星を見てから、2年ぐらい経っていたようです。もうイエスは飼葉桶の幼子ではなく、家で母マリアとともにいる二歳ぐらいの男の子だったのかもしれません。それでも、貧しく小さな幼子です。博士たちに何をしてくれるでもなく、その願い事を叶えてくれる神童でもありません。その幼子に、博士たちがひれ伏し、宝の箱を開けて、贈り物をしました。黄金、乳香、没薬。この三つの宝物も、博士たちの礼拝も、イエスが王である事を現しています。イエスはやがて神が王である「神の国」を伝えて回るのです。

 今年も様々な出来事がありました。その今年の呼び方、元号が変わり、平成から令和になったのも今年の大行事でした。新しい天皇の即位では沢山のお金を掛けて、式典やパレードや晩餐会などがありました。しかし、もっと偉大な本当の王、イエスがおいでになった時、豪華な食事も大がかりな行列もありませんでした。それは、イエスがどんな王であるかを現しています。自分のためにお祝いをさせるよりも、一番貧しい人を支え、配慮する王。自分の王位を守るより、幼子となってくださる王。私たちにクリスマスのような喜びの日、嬉しいお祝いをもたらしてくださったイエス。そのイエスこそ本当の王だ、この方が王として来られて、新しい時代が始まったのがクリスマスです。イエスは私たちに、幼子のような心で安心して歩める神の国をもたらしてくださるのです。

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2019/12/22 ルカ伝2章25~38節「イエスという光」 クリスマス礼拝説教

2019-12-22 17:00:01 | クリスマス
2019/12/22 ルカ伝2章25~38節「イエスという光」
 キリストの誕生をお祝いするクリスマスに今日読みましたのは、ルカ福音書のクリスマス記事を締めくくる箇所です。ここではシメオンとアンナという二人の老人が、イエスを祝います。羊飼いや博士の派手さはありませんが、クリスマス記事の締め括りに、二人の老人の登場は、実に美しく、相応しい出来事です。特に29節から32節の歌は本当に美しい歌です。

主よ。今こそあなたは、
おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光を。」[1]。

 シメオンは26節で
「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」
ので、イエスを見た時、
「今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださる」
と言います。しかしそれだけではなく、イエスを見たことを、
「あなたの御救い…
あなたが万民の前に備えられた救い…
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」
を見たとまで歌うのですね。これを聞いて両親は
「驚いた」
とあります。両親は最初からイエスがキリストだと知っていました。その事実が、エリサベツや羊飼いたちの口から告げられる体験もしていました。両親が驚いたのは、
「万民の前」「異邦人を照らす啓示の光」
とある言葉でしょう。ルカの福音書でも、イエスが
「民の救い」、「ヤコブの家を治める」
とは言われていましたが、
「万民…異邦人」
まで照らす救いと明言したのは、シメオンの歌が初めてなのです。
 勿論、ルカでは初めてということで、旧約では最初から、全人類の救いが視野に入れられていました。アブラハムが選ばれたのは、彼の子孫、イスラエル民族を通して、万民が神の民として回復されるためでした。旧約でキリスト(メシア)の誕生と働きをハッキリ語るイザヤ書でも、万民を照らす働きが述べられています。
「わたし、主は、義をもってあなた[主のしもべ]を召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする」
「主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」[2]。
 こうした言葉を踏まえてシメオンは歌っているわけです。しかし、ヨセフ、マリアだけでなく、イスラエル民族は自分たちの選民意識、「神の民だ」という特権意識にどっぷり浸かっていましたので、異邦人にまで救いが及ぶことは論外で、強硬な抵抗をする人も出ます。それがこのルカの福音書ではずっと語られていきますし、ルカが続きとして書いた「使徒の働き」では更に具体的に、イスラエル人を中心とした教会が、異邦人のキリスト者が増えていく現実に驚いたり、戸惑ったり、民族主義からの反対にあう歩みが、綴られていくのです。その事が、次の34節以下に書かれているわけです。
34シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。35あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
 重い言葉ですね。祝福、とは裏腹に、物騒な言葉が並びます。イエスが来たことで倒れる人もいれば、立ち上がる人もいる。人々の反対、神に対する強い反抗心が露わになるのです。35節後半の
「それは多くの人の心のうちの思いが、露わになるためです」
は34節に繋がる目的節で、前半、マリアに対する言葉は挿入文です。イエスに躓いて倒れたり、力を戴いて立ち上がったり、反対を受けるのは、人の心のうちの思いが露わになるため。実際、イエスが病人に「あなたの罪は赦された」と言われた時、律法学者やパリサイ人たちは心のうちで呟きます。
ルカ5:22イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。[3]
 イエスは異邦人をも照らす光だからこそ、人の心のうちの思いを露わにする。人の心にある冷たい考え、神の恵みとは違う本心、隠れた闇をも明らかになさる。それは、人にとっては躓きでもあれば、神との出会いともなるわけです。異邦人は異邦人で、自分たちの宗教や神理解、自分の思い描いていた神、宗教で聞かされる神仏よりも、遥かに大きく、遥かに人格的な神こそ神であることをイエスと出会って知らされます。私たちも異邦人として、イエスを通して初めて、神を知るのです。神の子でありながら、人となり、十字架に至る生涯を生きて、死んでよみがえって、今も私たちとともにいると約束された、そういう神である事を知りました。それは、私たちの人生や心のうちを照らして、絶望や諦めから救い出してくれる光でもあります。

 シメオンの言葉は、お祝いのクリスマスには相応しくない、不吉な予言とも言えます。けれども、人が生きる以上、苦難とか反対とか、倒れたり立ち上がったりは付き物でしょう。マリアに向けられた35節の言葉も、
「刺し貫く」
は「行き巡る」というありきたりの言葉で、何を指しているのか断定しづらいのです。イエスの十字架を見て、母マリアも深く心を抉られたのは間違いありませんが、その事を指しているとは言い切れない。むしろ、イエスがこれから光としての役割を果たす時に、人が躓いたり立ち上がったり反抗心をむき出しにする時に、母マリアも魂の中を剣が行き巡るような、心配や痛みや傷を覚えることになる、ということでしょう。どの母親もわが子の成長を見守りながら、ハラハラしたり心で泣いたり血がにじむような思いをします。そのわが子がイエスだったとしても、親の心労は避けられないのです。マリアはイエスの悲しみや反対を見ましたし、我が事のように辛い思いをする。その覚悟でした。
 シメオンはキリストを見るまでは死なないと告げられていました。どれ程の長生きだったのか。28節の
「幼子を腕に抱き」
は「曲げた二つの腕の中にみどりごを受け取った」という表現だそうです[4]。自分から赤ちゃんをもらうと危ないので、腕に置いてもらう。それほど高齢でした。「イエスを見たから、聖霊のお告げは果たされた。でももう少し生きていたい」とは言わない。
「安らかに去らせてくださる」
と満足しています。沢山の事があった人生だったでしょう。
 もう一人のアンナは結婚して七年で夫を亡くして、八四年。八十四歳とも訳せますし、八四年間、寡婦暮らしをしてきた、十才で結婚したとしても、百歳を超えていたのかもしれません。いずれにせよ、わざわざ彼女の経歴を書いたのは、ひと言では言えないその八十四年を思い巡らさせるためかもしれません。彼女も魂を剣が行き巡る思いをして生きてきたのでしょうか・・・。
 そのアンナやシメオンが、長い生涯の終わりに、イエスを囲んでいます。イエスを見たことを喜んでよしとしています。主を待ち望んでいる人々を励まし、異邦人も照らすイエスの将来を望み見ています。この二人自身、心刺されるような長い生涯を重ねてきて、マリアにこれから待つ生涯の厳しさを予感した上で、それでもイエスが来て下さったことを喜び、祝福し、イエスが異邦人をも照らす将来を待ち望んで、満ち足りています。どんな生涯でも、主に出会うことは人生をよしとさせてもらえます。「主を待ち望んで良かった」と思わせてもらえます。次の世代にも、「異邦人を照らす啓示の光」であるイエスを指差して人生を終える。終えたいものです。
 今年も鳴門教会に、沢山の方が立ち寄ってくれました。外国からも韓国、インドネシア、パプアニューギニア…。思い描いてください。そうしたゲストはたまたまの訪問者なのではなく、多様な人々が一緒に礼拝を捧げ、ともに神の家族となることこそ、イエスという光が始めた業です。私たちは差別や偏見を持っていたり、何か苦しみや痛みがあれば天罰だとか親の育て方だとか邪推をしたり、心の中で神を小さく考えている。そこにイエスが来られました。小さな私たちのために、小さな赤ん坊として生まれ、人として歩み、人の心の本心と向き合って生きて下さいました。私の心の反抗心も待ち望む思いも何一つ隠しようがなく知り尽くしている方が、私のために生まれてくださり、待ち望まずにはおれない将来のしるしとなってくださいました。私という異邦人の光となり、同じように、多くの国々の光となり、やがて私たちは一つの救いに与る。今既に、私たちも、その前味を祝うような出会いを、しばしば味わわせていただいているのです。「イエスとの出会いで、生涯の労苦も痛みも報われた」とは言えなくても、最期には安らかに去れる。クリスマスは、私たちも心からそう言わせてくれる出来事です。

「ひとり子イエスを与えられた主よ。小さな幼子イエスを包む、二人の老人の姿を通して、私たちの心を照らしてください。私たちの、貧しく小さな心をもあなたは蔑まず、照らし出してくださいます。ご自身の限りない謙りと、十字架に至る道を引き受けて、その先の復活を果たしてくださり、私たちにいのちを下さったことを感謝します。クリスマスが新しい始まりであったこと、イエスとの出会いから始まった新しい希望を、改めて味わい、御名を崇めます」


[1] ルカ2章29~32節

[2] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[3] その他、6章7~11節「律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。8イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。9イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」10そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。11彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。」、9章46~48節「さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、48彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」

[4] 榊原康夫『ルカ福音書講解1』、395頁。

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