ひとつの節目として、Wordpressに説教原稿の投稿先を移すことにしました。
(どうやら、Wordから、脚注なども含めての投稿が、やりやすそう・・・という理由もあります。勉強中です)
2017/4/14 マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教
イエスが十字架に死なれたこと、そして、三日目によみがえられたことは、キリスト教会にとっての最も大切な信仰告白です。Ⅰコリント15章3節以下にこう書かれています。
Ⅰコリント十五3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
この「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」、これが最も大切なことであり、福音(良い知らせ)です。そして、それこそが聖書の示しているメッセージだ、と言われています。
キリスト者でさえ、聖書に何が書いてあるのか、つい誤解しがちです。敵を愛しなさい、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい、そんな高尚な道徳が書かれているように思いがちです。聖書を実際に読んでも、そこにある失敗や人間ドラマを読んで、教訓を引き出そうとして終わることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目によみがえられ、弟子たちに現れたという福音を中心に書かれています。そして、私たちはそれを信じています。でも「信じれば救われる」に勝って、信じる相手の神が、私たちの罪のためにご自分をお与えになった方、本当にいのちを捨てられて、三日目によみがえり、弟子達に現れた、そういう驚くべきお方である事に驚きたいのです。
これは本当に驚くべきことです。余りに意外すぎて、誰も理解できませんでした。今読みましたマタイ27章の記事でも、イエスは十字架につけられた後、たったひと言
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と大声で叫ばれたのと、最後の最後にもう一度大声でお叫びになった以外は何もなさいません。ただ十字架の上で苦しまれて、死んだだけです。そういう全く無力な死に方をなさったのです。余りに弱々しくて、惨めであるため、周りにいる人々は、イエスを嘲笑い続けたのですね。そうです。むしろ、ここでは道行く人々や祭司長や律法学者、長老たち、両脇の強盗たちがイエスを罵り嘲る姿の方が、詳しく長々と記されています。
「もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」
そう言って囃し立てて馬鹿にする人の姿のことしか書いていません。それぐらい、十字架に苦しんでいるイエスは、惨めでした。そこには神々しさとか、英雄らしさなどは一切ありませんでした。感動するような犠牲的な愛も感じられませんでした。イエスが叫ばれた、ここで記録されている唯一のお言葉、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
でさえ、
47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。…
49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。
と見当違いな誤解をして、無神経な言葉を吐くだけでした。そういう人々の無神経さ、鈍感さ、無理解、そして冷たく嘲笑い、罵り、中傷することをマタイは記録しています。しかしその向こうに見えてくるのは、そのように誤解され、嘲られながら、黙ってご自分をそのままに差し出されたイエスのお姿です。イエスは、十字架という残酷な痛みに、私たちの想像を絶する苦しみを味わって何時間も過ごされました。手足を釘で打たれたまま、裸で日差しに晒されて、死ぬまで放って置かれるのです。多くの人は気が狂い、この時も隣の強盗も自分の反省は棚に上げてイエスを罵っていたのに、イエスは違いました。反論もせず怒ったりお説教したりもなさいませんでした。
「もし神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」
と罵倒されても、イエスは言い換えされませんでした。私なら「お前達の救いのために、死んでやるんだぞ」と言い返したでしょう。イエスはそんな反論を一切されず、ご自分の正しさを証明しようとされたりもせずに、十字架の苦しみも、人々からの罵声も、神から捨てられるという想像できない苦しみにも、最後まで留まって、死なれたのです。
この冬に、「沈黙」という映画が日本でも上映されました。切支丹ご禁制の時代を舞台にした、とても重い映画です。そこでも拷問や苦しみが扱われていました。そこでのシチュエーションに、踏み絵を踏んで信仰を捨てるか、自分や誰かの命を犠牲にするか、という選択が何度もありました。主人公の司祭はそこで苦しむのですね。神を裏切るような真似はしたくないが、信徒を見殺しにするのも苦しすぎる。簡単な答は言えませんが、その事をイエスの状況と重ねてハッとさせられました。
イエスは、ここで人間の命を選ばれました。ご自分が誤解され、神を冒涜している、偽メシヤだ、嘘つきだと笑われて、十字架に苦しめられても、その濡れ衣を晴らそうとは思われませんでした。十字架にかけられたままでも、せめて自分が神の御心を行っていることは分かって欲しいとも弁解されませんでした。自分を捨て、自分が神に対する最大の罪を犯したという汚名をもすすごうとされず、ご自分をお与えになったのです。それも、その苦しみを与える相手、ご自分を嘲笑い、否定する人々の罪が赦されるために、でした。これは、真面目な人なら全く思いつきもしないような行動です。しかもそれこそが、聖書が証ししているキリストの行動でした。
イエスはこれをずっと予告しておられました。一番弟子のペテロはイエスを愛すればこそ、そんな滅多なことは言われるもんではありませんと窘めた事がありました。しかしイエスは、ペテロを
「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
と仰り、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
と言われたのです[1]。人の道は、楽や名誉や賞賛を求めます。しかし、神の道は、自分を捨てる道、自分を与える道です。それは、イエスの死と復活において最大に表されました。聖書がキリストの死と復活を示している、というのは、ただイエスが死んで復活する出来事を予め記していた、というだけのことではありません。神御自身が、本当に愛のお方であり、ご自分を与えるお方であり、そういうお方として私たちに現れてくださった、ということです。
旧約聖書にはこのような言葉もありました。
イザヤ五三11彼[キリスト]は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
イエスは本当に激しい苦しみを受けられました。それは、イエスが神の子であるにも関わらず、例外的に「一度だけなら我慢しよう」というような自己犠牲ではありませんでした。キリストも神も、そういうお方なのです。私たちの誤解や非難、どうしようもない罪に顔を背けず、苦しみ、命を与えることを選び、満足されます。その深い人間理解をもって私たちの罪を赦して義としてくださいます。私たちの咎を、嫌がることなく担ってくださるのです。そうやって、私たちが神から離れた生き方から、この神を喜び、神に従う生き方へと立ち戻らせてくださるのです。
ここに私たちの救いがあります。キリストが私たちのために御自身を与えて死に、よみがえって、現れてくださった。人間の考える「宗教」や「神」の理解の枠には到底収まらない神です。正しいことをせよ、と命じるよりも、聖書の物語は神御自身がどんな方かを示します。それは、私たちの罪も問題も深くご承知の上で、ご自分が傷つき、その顔に泥を塗られることも厭わず、私たちの所に来て、正しい生き方へと導いてくださる神です。このイエスを十分私たち自身が味わい、驚き、これほど深い救いに与っていることを覚えましょう。苦しみや孤独や罪の重荷も、誤解も過ちもすべて知って、受け止めてくださるイエスを仰ぎましょう。
「主よ。受難日に思う十字架の苦しみも、私たちに耐えられるのはほんの僅かな断片に過ぎません。それでもあなたは、御自身の犠牲の重さより、私どもに対する愛と喜びこそ知らせたいお方であることを感謝します。主の愛の大きさをなお深く思い巡らし、一切の恐れや汚れから解放され、恵みに感謝するとともに、その主に似た心で生きる幸いへまでお導きください」
2017/1/1 詩篇一二一篇「助けはどこから来る」
今日の詩篇一二一篇は、一二〇篇から一三四篇まで、一五の詩篇が
「都上りの歌」
とタイトルがつけられている中の一つです。「都上り」とは、ユダヤの人々がエルサレムの都まで礼拝のために上っていく、巡礼の旅の事です。今のように近くの教会に車で行くのとは訳が違います。年に数回、歩いてエルサレムまで行くのが「都上り」でした。それは、実に貴重で、また大変な旅でした。一番北のガリラヤからなら、三日ほどはかかったでしょう。往復で一週間ほどかけての旅です。その間、色々なことを考えたことでしょう。数時間だけ教会に行くのでさえ、大変なことがありますが、まして一週間家を空けるのです。家族のこと、仕事のこと、親のこと、そして戦争や侵略がしょっちゅうあった昔ですから、そういう社会や民族的な心配も考えずにはおれなかったでしょう。
ここに出てくる「山」は巡礼の旅の途中で見た、山々だったのでしょうか。あるいは、都エルサレムがある山々の連なりが目に見えたのかもしれません。ここで「山」を見た時、恐らく詩人の心に浮かんだのは、美しい自然というよりも、山の険しさ、自分たちの道に立ちふさがる問題を象徴するような恐れだったのでしょう。山は綺麗だなぁ、と憧れて山を見ているのではなく、山に登っていく巡礼の道を覚えながら、
1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
と思わずもらしたのでしょう。それは、ただ山を登るのが大変だ、上り坂だから嫌だなぁという事ではないのです。私の助け、と彼は言います。自分の生活の助け、巡礼に行って帰ってくればいいだけではない現実の自分の生活全般を思いながら、心に浮かんでくる問題を、見上げる山に重ねながら、
「私の助けはどこから来るのだろうか」
と言ったのです。この礼拝に来ている私たちもどうでしょうか。礼拝に来ながらも、心に引っかかっている心配があるでしょう。教会の上がりかまちを見てため息をつく方は、普段もあちこちでため息をついているはずです。今ここにいる私たちそれぞれの心にはどんな山があるのでしょう。もし私たちが礼拝のため、ここではなく、三日も旅をしなければならない都だとしたらどうでしょうか。とても、そこまで行く気力はない、と思わないでしょうか。詩篇作者の生活も、決して悩みや苦労が何もないから、都に上って行けたのではないはずです。その途中、山を見上げてはため息が出、助けて欲しいと叫びたくなるような自分の心に気づくのです。しかし、彼は続けて言います。
2私の助けは、天地を造られた主から来る。
私の助けは、天と地を造られた神、主から来るのだ。今から向かっている都で崇めているのは、エルサレムだけにいる神ではありません。礼拝だけを要求し、私の生活のことは知らんぷり、という神ではありません。私を助けてくださる方です。しかも、この神は天地を造られた神です。この山を越えた向こう側のエルサレムにおられる神ではないのです。山も空も、大地も、後ろの故郷も、その向こうの異国の地も、すべてをお造りになった神なのです。その主から、私の助けは来る。そう彼は自分に言い聞かせます。
3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
「まどろむこともない」と二回繰り返して、主の守りの確かなこと、信頼するに価することを自分に思い起こさせますね。今日、私たちもこの言葉を言いましょう。
「私の助けは、天地を造られた主から来る」。
私たちの教会にとって大きな影響を与えたジャン・カルヴァンはジュネーブの教会の礼拝の最初に、召詞として毎回この詩篇一二一篇2節を読み上げて始めました。神を礼拝するに当たり、その神を
「天地を造られた主」
として覚え、同時にその方から
「私の助けが来る」
と励まされる。そこを確認した上での礼拝としたのです。これは、今も大切な確認です。この礼拝と、私たちの生活は、別々のことではありません。私たちは、今自分の心に引っかかっている様々な問題の助けも、この方から来ると信じて、天地を造られた主を礼拝するのです。
5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
6昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
詩篇作者はこう言い切っています。この短い詩篇の中で、「守る」という言葉が何度も繰り返されているのに気づきます。全部で六回も、
「守る方…守る方…守る方…あなたを守る…あなたのいのちを守られる…今よりとこしえまでも守られる」
と繰り返すのですね。裏を返せば、主の守りを繰り返して確認することが必要なほど、禍もあるし、助けが必要なのが人生の旅路だ、ということです。主は私たちを禍から守ってくださいます。けれども、禍に遭わせずぬくぬくと過ごさせてくださる訳ではありません。私たちが一年の初めに、主に禍からの守りを祈り、主の確かな守りを確信するのも、決して、この一年、不幸や苦しみがない、という事ではありません。病気や死や悲しみがない人生を期待せよ、というのではありません。そういう禍があって、実際、大変な思いをしたり、取り返しの付かない曲がり角を経なければならないのも、私たちの人生です。しかし、そうした中でも、私たちは、神が私たちを守り、禍をも益に変え、祝福にしてくださると信じるのです。主は私たちの「右の手」を守り、なすべきことを果たさせてくださいます。私たちの「いのち」を守って、死においても、恐れることなく、魂を主に委ねさせてくださいます。主はすべての禍よりも強いお方です。
ヘブル十一6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
私たちは神がおられる事実だけでなく、この方が御自身を求める者には報いてくださる方であることをも信じます。それが主が私たちに与えてくださる信仰です。天地を造られた主から、私の助けが来る。何と大胆な信仰でしょう。主イエス・キリストが示して下さり、御霊が私たちに育んで下さるのは、この信仰です。どんな歩みがこの先にあるのか、私たちは1年後も、明日さえも分かりません。でも、どんな禍が起きようとも、その事さえ主は助け、私たちを守り、神の民として支えてくださると約束されています。
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