2017/1/22 「礼拝⑩ 天にいます私たちの父」マタイ3章13-17節
今日も「主の祈り」を祈りました。ウィークディの集会でも最後に「主の祈り」を祈ります。イエスは私たちに祈りの手本として主の祈りを下さいましたので、私たちはいつでもこれを手本に祈れば良いのです。今日から改めてこの祈りの素晴らしさに教えられたいと思います。
1.福音のエッセンスのエッセンス
ある方は「主の祈り」を
「福音のエッセンス(凝縮)」
だと言い、更にその冒頭の
「天にいます私たちの父よ」
という呼びかけを
「福音のエッセンスの中のエッセンス」
と言ったのだそうです[1]。私たちが神に向かって、
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかける、その事がまさに「福音」の本質をギュッと詰め込んだことだ、というこの言葉は、私にとっては忘れがたいものとなっています。
「天にいます私たちの父」
神をそうお呼びできるとは何と幸せな事でしょうか。特に日本人として、それが本当に恐れ多いことを忘れずにいたいと思うのです。
日本人や多くの文化では、神を自分たちと同じような、世界の中にある存在として考えます。ですから、神を父と呼ぶことにあまり違和感も有り難みも持ちません。同時に、その関係そのものも曖昧で、そのうち何かあればまた親子の縁を切られて、終わってしまうかもしれない。そういうものとして受け止めるのではないでしょうか。これとは反対に、聖書の示す神は自分たちとは絶対的に違う、世界の創造主であり、永遠で、正しく聖なる存在なのです。その絶対的な違いを弁えずに神に軽々しく近づこうとしたり、神を引き下ろして卑しめたりすることは大変な冒涜なのです。聖書の回りの世界では、神や王を「父」と呼ぶことは普通になされていました。しかし、聖書の前半、旧約聖書の時代には、大いなる神を父と呼ぶことは慎まれています。聖なる聖なる聖なる神を、親しく「父」と呼ぶなんて、滅相もないことだったのです。
この事にはもう一つの面があります。聖書の周囲の世界で神を「父」と呼んだ背景には、父という権威が、暴力的で、恩着せがましいものだった事があります。多くの家庭で父親が、自分の罪や不安の問題を解決できないまま、権威を振るう現実は当時からありました。宗教が神を「父」と呼び、王が自ら国民の「父」を名乗り、押しつけがましく権威を振るうのも、そういう「家父長制」の延長です。聖書は、神が自らを「父」として、民に押しつけることはしませんでした。皆さんにも「父」との問題で苦しんだ方はおられるでしょう。神を「天の父」と呼ぶことが「福音のエッセンス」どころか、そう聴いただけで嫌悪感を覚える方もおられるかも知れません。神は、そのような人間的な歪んだ、暴力的で怒らせると怖い、あるいは家庭を養う責任を放棄する「父」とは違うお方です。その事を踏まえた上でおいでになったイエスは、驚くべき事に神を
「天にいます私たちの父」
と呼ばれました。人間的な父親とは全く違う、
「天にいます私たちの父」
としてくださったのです。[2]
2.「あなたはわたしの愛する子」
「主の祈り」の前後の「山上の説教」で、イエスは
「天にいますあなたがたの父」
という呼びかけを唐突に与えられました。これは本当に聖書の世界では、冒涜とも取られかねない、驚くべき大胆な宣言でした。イエスの回りに集まった、まだ自分の罪も福音も何も分かっていない人々に、神を
「天にいますあなたがたの父」
と呼ばれ、その子どもとしてのあり方を示してくださったのです。イエスの教えは、神の家の「家訓」です。でもそれを守れば神が天の父となってくださる、という「条件」でもありませんし、それを守らなければ神の家から追い出されて、私たちに神を父と呼ぶ資格は剥奪される、というのでもないのですね[3]。なぜなら、そのような条件や資格に縛られた限界ある関係は、本当の「親子関係」ではないからです。
マタイの福音書では、イエスが神を「天にいますあなたがたの父」と呼ばれる以前に、イエス御自身が神の子、神との親子関係におられたことが確認されています。今日読みました、三章の洗礼、イエスがメシヤとしての公の働きにデビューされる最初の場面でも、イエスは、
三17…天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
神が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とイエスを宣言されました。しかし、次の四章の「荒野の誘惑」ではサタンが
「もしあなたが神の子なら」
とその事実に揺さぶりをかけて来ます[4]。十字架の上でも、イエスは道行く人々に
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ」
と嘲られました[5]。こういう誘惑や挑発に流されることなく、イエスは最初の
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
との言葉から離れませんでした。天の父が自分を喜び、愛しておられる事実は変わることがないと信じ続けました。神が自分を我が子として愛し、喜んでいてくださる。そういう確信をイエスは持たれました。そして、神の深く揺るがないそういう父の愛を信じるイエスが、集まった群衆たちにも、
「天にいますあなたがたの父」
と仰り、
「天にいます私たちの父よ」
と祈るよう仰ったのです。イエスと神との関係が土台となって、私たちもその深く揺るがなく、人間の親子関係よりも遙かに素晴らしい神との親子関係を戴いたのです。今、私たちも、
「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
と言われています。人が「もし神の子なら…」と疑い証明を求めても、ひるむ必要はないのです。[6]
3.「神の子」だけが残る
神が私たちの天の父となってくださった事は、そういう確かで永遠の約束です。
エペソ一5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
神のご計画は、私たちをイエス・キリストによってご自分の子としてくださることでした。神は私たちの父として、私たちを養って、教え、模範を示し、成長させてくださるのです。私たちが祈るのは、神の子どもとされる御心のゆえに
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかける祈りですし、そう呼びかけることを通して、私たちは神を
「天にいます私たちの父」
として知らされていくのです。だから、私たちが
「天にいます私たちの父よ」
と呼びかけなければいけないとか、調子に乗って馴れ馴れしすぎると逆鱗に触れるとかいうことではないのです。
主イエスは、小さな子どもだけが使う
「アバ」(父ちゃん、パパ)
という特別親しい言い方で、天の父に呼びかけられました[7]。使徒パウロは私たちも御霊によって「アバ、父」と呼びかけるのだと言いました[8]。幼子のような親しさと、全幅の信頼を込めて、私たちは「天の父」と呼びかけるのです。時代劇なら「有り難きお言葉、勿体のう御座います」とますます平身低頭する話でしょう。額面通りに自分は将軍の家族だなんて図に乗ったら、首をはねられますが、クリスチャンは額面通り、神を私たちの父と呼ぶのです。神こそは本当の私たちの父だと全面的に信頼するのです。なぜなら、神のひとり子イエス・キリストがその関係の中に私たちを招いてくださったのだからです。私たちが、神の子どもとなり、神に似た者として成長していくことこそ、神の永遠からのご計画なのです。確かに私たちには、今、神の子らしからぬ罪や問題があります。でもそのような私たちの生き方のせいで、神が私たちの父であることを嫌がったり距離を置いたりはなさらないのです。神が私たちをご自分の子にしようと定められたのだからです。不完全な父親の問題も、天の父に解決して戴くのです。やがて罪や問題はすべて取り扱われて、私たちが神の子どもである、という事実だけが永遠に残る時が来るのです[9]。
イエスは私たちに「天にいます私たちの父」と呼びかける恵みを下さいました。礼拝や祈りでそう呼ぶことで、私たちは自分が今この父と御子、そして聖霊の交わりにもう入れられている恵みを噛みしめ、それを喜び、御名を崇めるのです。「主の祈り」は本当に私たちの祈りなのです。毎日、主の祈りを祈りましょう。神を父と呼ぶ幸いを、戴いていきましょう。
「天のお父様。そう親しく呼べる幸いを御子イエスが届けてくださいました。その恵みさえ小さく貧しく歪めて考えてしまう私たちですが、その貧しさよりも遙かに大きな、あなた様の交わりの中に入れられた恵みを感謝します。天にいます私たちの父、としつこい程にお呼びして、神の子どもとしての誇りに心を高く上げ、あなたの子として生きる使命を全うさせてください」
[1] 確か、宗教改革の口火を切ったマルチン・ルターの言葉として紹介されたと記憶していますが、今回、確認が出来ませんでした。ルターは、主の祈りについても多くの注解と名言を残しています。“All teachers of Scripture conclude that the essence of prayer is simply the lifting up of the heart to God. But if this is so, it follows that everything else that doesn’t lift up the heart to God is not prayer. Therefore, singing, talking, and whistling without this lifting up of your heart to God are as much like prayer as scarecrows in the garden are like people. The name and appearance might be there, but the essence is missing.” ― Martin Luther, Faith Alone: A Daily Devotional
[2] 詳しくは、ジェームズ・フーストン『神との友情』の「第八章 父と子の友情を深める」を参照。「父親不在の社会における父なる神」と題して展開される記述は圧巻です。178ページ以下。
[3] しかし、私たちの中にはそういう限界を思い込んでいるところがないでしょうか。ルカ15章の「放蕩息子」の例えで、弟息子が「もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと考えたと同じような、父の愛を限定的に考え、かえって、父の愛を冒涜するような、人間的な発想が、私たちの中にもないでしょうか。
[4] 四3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」、6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
[5] 二七40-44「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
[6] マタイ十一27には「父のほかには子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」とも言われています。
[7] マルコの福音書十四36「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」
[8] ローマ八15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
[9] 「「完成された栄光の神の国」においては、もはや罪も汚れもない。何が残るのであろうか。御子の姿に似たものとされた「神の子たち」が残るのである。」牧田吉和『改革派教義学5 救済論』(一麦出版社、2016年)、173ページ。同書では、第十章で「子とすること」の教理を扱いますが、その最初に「子とすること」の教理が「義認」や「聖化」と比べて貧弱な取り扱いを受けてきた面についても論じています。そして同章を、「ここに究極的目的の実現がある。この意味において「神の子性」は神の救済計画の中核をなしている。したがって、キリスト教神学は「子とすることの教理」にこれまで以上に大きな位置を与えるべきであると考える。」(174ページ)と結んでいます。