聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

2018-05-27 17:57:54 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/27 ハ信仰問答124「天の喜びを地に」ルカ15章1-10節

 主の祈りの第三の願いは

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

です。天の父の意志が行われますように。この地において、天でのように、という力強い祈り。私たちが思い込んでいるのは、「祈る」のは自分の願いを叶えてもらうため、という考え方でしょう。自分の願いが叶ってほしいから、祈りにも縋るし、願いが叶わなければ祈る事などなく、願いが叶ったとしても感謝もそこそこに次の願いを祈り始めるのです。そういう私たちに、イエスは「私の願い」のために祈るよりも、天の父の

「御心が行われますように」

という祈りを教えてくださいました。自分の願いを叶えてもらうために祈り始めた私たちは、自分の名誉も支配も願いも差し置いて、まず天の父の御名、御国、御心のために祈るよう教えられるのです。すっかり私たちは襟を正させられます。それでこそ、私たちは自分の思いに凝り固まって、神を忘れて熱くなっていた思いをすっかりクールダウンさせられて、神の前に静まらせてもらえるのです。ここにも、この「主の祈り」の革命的な斬新さ、深さ、大胆さがあります。

問124 第三の願いは何ですか。

答 「御心が天で行われるように、地でも行われますように」です。すなわち、わたしやすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあなたの善きみこころにのみ、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。

 最初に「私や全ての人々が自分自身の思いを捨て去り」とあるのは、思考停止とか主体性をなくすという意味にも取られかねません。また、神の「善き御心にのみ何一つ言い逆らうことなく聞き従えるように」というのも、ちょっと間違えると、マインドコントロールのような、宗教の教えをすべて鵜呑みにして、おかしな命令にも服従するような恐ろしい事にもなりかねません。そうした誤解、誤用はよくよく注意する必要があります。ここには「あなたの善き御心にのみ」とハッキリ書かれています。神の善き御心。それは、聖書に啓示されています。聖書全体を通して見えてくる、素晴らしい御心です。決して、聖書の一部だけを抜き出したり、聖書で繰り返されている神の恵みを踏みつけたりするような教えのことではないのです。

 この事はルカの福音書15章から気づかされます。7節と10節にこうあります。

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。…10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 この事を教えるために、イエスは迷子の羊の譬えと、無くした銀貨の譬えをお話になりました。またこの後には、最も有名な「放蕩息子の譬え」が語られるのです。

 天の御心は一人の罪人が悔い改めること。神から離れて生きている人が、神の元に帰ってくること。そして、そのためには、羊飼いが羊を真剣に捜して見つけるまで探し歩くように、銀貨を無くした女性が、灯りをつけ家を大掃除してでも、見つけるまで注意深く捜すように、労を惜しまない。それが天の御心です。また、一人の罪人が悔い改めたなら、大喜びで宴会を開いて、一緒に喜ぶよう招かずにはおれない。その大きな喜びが、天の特徴なのだと仰ったのです。だとすると、私たちもそのような喜びを喜びとして、その喜びに押し出されて、今ここでも人と関わり、この喜びを惜しまずに分かち合うことこそ、

「御心が天で行われるように、地で行われる」

ことに他なりません。

 ルカの福音書15章のきっかけとなったのは、イエスが取税人や罪人たち、当時は神から遠く離れた生き方をしていると見られていた人たちと食事をしていた事でした。正確には、そういうイエスを見て、パリサイ人や律法学者たちが文句を言ったことでした。パリサイ人や律法学者たちは聖書に忠実に生きよう、まさに神の御心に生きようとして、禁欲的に、真面目に、規則正しく生きようとしていました。そうする事で神を喜ばせようと思っていたのでしょう。しかし彼らの考えからすると、神の御心に生きようとしていない世俗的な人、勝手な人生を送っている人は一緒に食事をする価値もない、呪われた人々だ、ということになったのでしょうか。それなのに、イエスは自分たちを差し置いて不真面目な人々と一緒に食事をしている、と文句を言ったのです。しかしそれこそ、天の父の愛に言い逆らって、自分の思いを押し通そうとする生き方でした。

 私たちもそんな狭い心、冷たい考えになりやすいのです。だから、そうした自分の思いを捨て去り、神の善き御心に言い逆らうことなく従えるように願うのです。それも心を殺して従順なロボットのように聞き従うのではなく、一緒に喜びなさい、と言われる御心です。そして、その神の愛の御心を喜び願うからこそ、イエスがして下さったように、忍耐をして、労を惜しまずに、人の魂を大切にし、尊び、喜び迎え、イエスを伝えたいと願うのです。

「そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」

 神は、御自身の御心を確実に完全に果たされます。神のご計画を妨げることが出来るものは何もありません。同時にそれは、神から羊のようにさ迷い離れ出た人をもう一度、神との交わりに入れてくださるという御心です。聖書は、そのような回復の物語を繰り返しています。また、私たちもお互いにそのような御心を学び、受け入れ、そのような喜びを持つようになって、そのために自分の務めや責任を果たしていくようになる。そういう御心なのです。なんと回りくどいことでしょうか。

 そのために神はどれほど忍耐し、犠牲を払わなければならないことでしょうか。それでも神は、それを無駄だとは思われず、むしろ、そのような回り諄い手間暇を掛けてでも、私たちを取り戻し、私たちと心を一つにしたい。互いに受け入れるようにしたいのです。世界が問題や過去の失敗や対立で深く傷ついているからこそ、神の大きな愛に私たちを招いてくださるのです。やがて私たちはそのような神の大宴会が始まることを約束されています。それは今私たちには想像も出来ないような、大勢の人々が神の家族として一つとされる姿です。今は考えたくもない信じがたい喜びに包まれるのです。私の考えや意志よりも遥かに大きな神の御心がある。その神のご計画が今ここでも行われるように、私たちもその心を心として喜んで果たせるよう祈りましょう。

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ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

2018-05-20 18:22:57 | 一書説教

2018/5/20 ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

1.どん底からの再建

 ネヘミヤ記は旧約聖書の「歴史書」の最終文書の一つです。イスラエルの民がバビロニア帝国に滅ぼされて70年経って再建が始まりました[1]。この前のエズラ記ではエルサレムに戻ってきたユダヤの民が、神殿を再建したことが記されていました。それは感動的な、重大な再建でした。ユダヤの民が、神への礼拝を蔑ろにしてきた歩みを悔い改めて、まず祭壇を築き直し、小さくとも神殿を再建した事は大きな一歩でした。紀元前515年のことです。

 しかし、神殿が完成しただけでは生活は成り立ちません。今日のネヘミヤ記は神殿再建から60年ほど後のことですが、遠くペルシャの首都スサで王に仕える要職にあったネヘミヤは、ユダから帰って来た友人たちからエルサレムが散々な状況であることを知らされるのですね。

 3彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

 城壁は崩され門は焼き払われたまま、生活もままならない。それでも神殿はあったのですが、だからといって幸せで感謝していた…わけがなく、民の生活は貧しく、不安定で、惨めでした。

このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。

 以下、ネヘミヤはもう一度自分たちの歴史的な罪を悔い改めて、憐れみを求めて祈りました。主が約束された契約の言葉を8-9節で引き合いに出して、主の回復に縋ります[2]。こうして二章以下、ネヘミヤは

「王の献酌官」

という高位を捨てて、ユダヤの総督として任命してもらいます。スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮して、ユダヤの民の復興を助けます。城壁の再建だけでなく、民の中の貧富の格差が広がって、貧しい農民が借金で苦しんで、子どもを奴隷に売ったり、神殿の下級祭司が給料の遅配で逃げていたり、様々な問題が出て来ます。モグラたたきのようですがネヘミヤはその一つ一つに取り組み続けて、ユダヤの復興のリーダーとなったのです。

2.対照的なネヘミヤとエズラ

 今申し上げたように、ネヘミヤはペルシャ王の援助を取り付けて、ユダヤの総督としてエルサレムに行きました。使える手段は出来るだけ利用して、民の再建に取り組みました。これとは対照的なのが、ネヘミヤ記の前のエズラ記に出て来るエズラです。エズラはネヘミヤ記の八章にも登場する、同時代の人です。エズラは祭司の家系で律法(聖書)の専門家で、旧約の文書の幾つかをまとめたほどの人です。彼もペルシャの王からユダヤに派遣されたのですが、それは不思議な神の御配剤でした[3]。ネヘミヤは主に祈りつつ自分から王にユダヤへの派遣を願いました。また、エルサレムまでの道中の援護を求めることも恥じて、断食して祈って旅をしましたが[4]、ネヘミヤは王の援助を求め、道中の無事のために王の保証付きだという手紙を書いてくれるよう求めました。実に対照的な二人です。そして、エズラは生粋の祭司の家系でしたが、ネヘミヤは王の杯にぶどう酒を注ぐ献酌官です。そういう高位の役人は去勢された宦官だったと言われます。そして聖書の律法によれば、去勢は禁じられていました。この点でも、ネヘミヤは純血種のエズラとは違う、異例で規格外のリーダーです。同時代に実に対照的な二人のリーダーが、果たして仲良く出来たんだろうか、と思うくらいです。しかし裏を返せば、この両者が居る所にこそ、神のなさる御業らしさがあるのでしょう。エズラの真っ直ぐさも大事だし、現実主義のネヘミヤも大切です。人に頼らず神を信じる、だけではないし、神に祈りつつ堂々と助けを求めるネヘミヤも聖書には出て来るのです。

 抑も、このネヘミヤ記の柱となる城壁の再建がそれを語っています。神殿だけではなく、城壁も必要でした。城壁の再建は52日という驚異的な早さで完成しますが、そこには妨害工作が入って、武器を片手に工事をしたともあります[5]。神殿や信仰さえ守ればいいと、安全や生活が蔑ろにされるなら、結局は信仰も礼拝も立ちゆきません。

 私たちの礼拝も、礼拝だけではなく、会堂のメンテナンスも大事です。スロープやバリアフリーも考えるのが今の小会の課題です。先日、私たちは避難訓練をしましたし、私は「防火管理者研修」を受講して来ました。そうした全生活の整備を現実的にしていくことを、ネヘミヤ書はありありと描いています。

3.ネヘミヤだけでなく

 聖書を読む時、つい登場人物を理想化したり模範を読んだりしそうになります。ネヘミヤは非常に苦労して、問題が山積みの状況で必死に民を導いたのですが、そこで悩んだり怒ったりする人間臭い人です。彼が自己主張したり[6]

「私を覚えてください」

と何度も祈ったりする姿には引いてしまう人もいるでしょう。それもまた本当に人間らしい姿です。実際、協力しない人もいました。協力者に見せかけて、裏では貧しい人たちから搾取していた貴族たちもいて、激高するような場面もありました。失望させられる事が多くありました。でも、その人たちに横やりを入れられながらも、多くの民が立ち上がりました。同胞たちがともに働いて、城壁を完成させました。たのです。ネヘミヤという「信仰の偉人」を求めるより、自分と同じように欠けも癖もあるネヘミヤを通して、ユダヤの民が立ち上がり、不完全ながらも力を合わせて城壁を再建し、奮い立っていく姿を見るのです。借金の方に子どもを売らなければ生きていけないとか、政治的な結託とか、次々に起こってくる問題に、何とか取り組んで、本当に神を礼拝する民であろう、金持ちや賢い人間が私腹を肥やすような社会ではなく、貧しい者も子どもたちも安心して生きていける社会、本当に神を心から礼拝する社会として歩もうとする姿です。

 ネヘミヤが城壁を造った時も、敵は

「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」

と馬鹿にしたそうです[7]。ユダヤ人たちはそんな柔な城壁ではなく、しっかりした城壁を、敵がたじろぐような頑丈な城壁を完成させたのです。それがあったからこそ、礼拝の民として生きる事も安心して出来たのです。更に、民の中に貧富の差が持ち込まれたり、子どもたちが苦しめられたり、礼拝を形式的なものにする動きとも、取り組みました。引っ切りなしに問題が起きることは避けられませんが、そうしたものにも現実的に対応する全生活の支えの中で信仰生活を歩む事が出来るのです。連休に瀬戸大橋を見てきました。大きさに圧倒されてすっかり「橋マニア」になってしまいました。記念館で、橋の建設の裏にあった技術や工夫や歴史や、人の情熱などを見たのも圧巻でした。四国と本州を安全で頑丈に繫ぐために、本当に莫大なものが注ぎ込まれているのだなぁと感動しました。

 主イエスは私たちと神との間に、よく考えて造られた、頑丈で安全で、渡り甲斐のある橋を渡してくださいました。この橋は何かあれば崩れる頼りないものではなく、イエスの十字架と復活により、そして聖霊が私たちの心に働いて確かにされている道です。主は、礼拝を命じるだけでなく、全生活に光を当て、私たちを慰め、励ましてくださいます。目に入るあらゆるもの、家族の関係、経済的な心配も、主の御手の中に受け止め、祈って最善を尽くし、助け合っていくよう、聖霊によって支えてくださいます。聖霊を体験するとか感じるとかではなく、聖霊が働いて私たちは歩んでいるのです。そして神の子どもとしてゆっくり成長していくのです。ネヘミヤは問題に悩みつつ、祈りつつ取り組みました。そして随所で主の御手が助けて下さったと証ししています。私たちもそういう招きに与って、礼拝を中心としつつ、生活の全て、心配事や課題に取り組んでいきます。私たちの全ての営みを通して主を礼拝していくのです。[8]

「私たちの全生活の主なる神様。ネヘミヤ記を有難うございます。それぞれの心に今ある心配、悩み、崩れて再建が必要な、でももうあきらめて投げやりになっている事に、主よ、聖霊によって望みを与えて、立ち上がらせてください。私たちの全生活に及ぶあなたの恵みを戴きつつ、私たちもあなたの橋わたしの御業の一端を担い、主の豊かな栄光をともに頂かせてください」



[1] 主な年表は以下の通りです:

586年 エルサレム陥落

538年 第一次帰還

515年 神殿完成

458年 エズラ、エルサレムに到着

445年 ネヘミヤ、エルサレムに到着。52日後、城壁完成。

433年 ネヘミヤ、バビロンに戻る。

432年 ネヘミヤ、エルサレムに戻る

[2] ネヘミヤ記一8-9「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」

[3] エズラ七章、特に27-28節。

[4] エズラ八21-23。

[5] 四章13節以下。

[6] ネヘミヤ記五章14節~19節では、彼が総督としての手当を受けず、一切私腹を肥やそうとしなかった自分の献身ぶりを訴えています。その他、最終章の一三章も参考に。

[7] 四章3節。

[8] 「新改訳2017」での大きな変更箇所としては、九章の悔い改めの祈りが詩文体で表記されていることです。これに加えて、九章10節の「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(従来の新改訳では「あなたがたの力を主が喜ばれるからである」でした)も嬉しい改訂です。この言葉をパラフレーズしたものとして、サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブル・ストーリー』170頁以下では、ネヘミヤ記のメッセージが感動的に語られています。ぜひご一読ください。

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問123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

2018-05-20 15:54:53 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/20 ハ信仰問答123「義と平和と喜びの神の国が来る」ローマ14章13-19節

 

 主の祈りの第二の願いは

「御国が来ますように」

です。この御国とは「あなたの国」という意味で、

 「国」とはKingdom、王国

という言葉です。これは神が王として治めておられる国や、神の御支配そのもののことです。神が王様となって治めてくださる。もし「御国」を死んだ人がいく「天国」のようなものとして考えていると、

 「御国は早く来ませんように」

となるでしょう。ですから、安心してください。ここでの祈りは、神が王として治めてくださるという、もっと大胆で力強い願いです。そして、イエス・キリストの御生涯は、この「神の国」の教えで始まって、「神の国」の譬えや教えを繰り返し、弟子たちも「神の国の福音」を伝え続けたと聖書は記しています。では、神の国が来ますようにとは、ハイデルベルグ信仰問答はどうまとめてくれているでしょう。

問123 第二の願いは何ですか。 

答 「御国が来ますように」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできるようにあなたの御言葉と聖霊とによって私たちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください、ということです。

 この最初にはまず

「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成」

とあります。神が王としてすべてとなられる「完成」。これも大事なことです。先にも「神の国」とは「死んだ人が行く天国」とは違うと言いました。聖書は、この世界と死んだ人の天国という二階建ての考えではなく、あえて図にするなら、このような流れを考えているようです。

つまり、今の世界はやがて終わって、その後に「永遠の神の国」が始まるのです。それが始まるのは、この世界が終わってからです。それまでも死ぬ人はいますが、先に「永遠の神の国」に行くわけではありません。しかし勿論それまでに死んだ人に「パラダイス」という言い方で語られている過ごし方をするようです。詳しい事は分かりませんが、一つ確かなのは、主とともにいる、ということです。そして、最後にはこの人たちも全員がよみがえって、そこから一緒に神の国に迎え入れられます。こういう大きな流れがあります。二階建てではなくて、むしろ、世界は川の流れのようです。最後には海に流れ込むように、永遠の世界に向かっているのです。そしてだからこそ、そこに向かって、今も、神の国に生きるように、神を王とする生き方を始めさせてほしい。それがこの祈りの解説の第一で言われていたことです。

「私たちがいよいよあなたにお従い出来るように、あなたの御言葉と聖霊とによって、私たちを治めてください」。

 正直言って、私が願うのは

「神の国」

よりも

「私の国」

です。自分が王様のように威張っていたいのです。自分の考えや願いを通すような「神の国」であってほしいのです。聖書は、人間が神から離れて、神よりも自分が王になろうとして、神の元に帰ろうとしない人間の物語です。自分が永遠になろうとしては砕かれる人間たちが登場する物語です。人間は皆、裸の王様みたいなおかしな生き方をしてしまって懲りないのです。第一祈りと同様、第二の祈りでも

「私の国ではなく、あなたの国が来ますように。王は私ではなく、あなたなのです」

と祈るのです。もし、自分が王でいたい、自分の思い通りがいいという願いを握りしめたままなら、神の国はその人にとって決して幸せな場所とは思えないでしょう。永遠の御国なんて真っ平御免です。それが神から離れてしまった人間の罪の現実です。

 

 ですから、私たちは自分に都合の良い神の国が来ると思い込んだりせず、今ここで、御言葉と聖霊とによって治めていただくことを求めます。私たちの心も考えも、生き方も、聖書の御言葉を教えられながら、新しくされ、変えられていくことを求めるのです。また、見えない聖霊のお働きによって、私たちが御言葉を受け入れ、従えるよう、働いて下さることを切に願うのです。

 第二に

「あなたの教会を保ち、進展させてください」。

 教会は神の国の現れです。決してイコールではありません。神の国の完全な支配に比べると、教会は実に不完全で、未完成の集まりです。そしてその弱さや不完全さを通して、神の御支配が本当に恵み深く、あわれみによる御支配であることを現すのです。土の器を通して、謙虚に、神様の慰めを指差すのです。それを忘れて、私たちが神様の支配を振り翳し、暴君になってしまうことがあります。或いは、神を伝えることをすっかり忘れた形ばかりの教会になり、内輪だけの世界を造ってしまうこともよくあります。だから、私たちは祈るのです。

「神の国は…聖霊による義と平和と喜び」

 将来の天国ではなくて、この神の国の現れとして保たれ進展することを祈るのです。神の御支配を祈り、教会が教会として前進していくように、御言葉と御霊によって、教会を通して、神の恵みの御支配が現されていくようにと祈るのです。その教会が祈る事、祈る姿そのものが、神の国の証しです。

 最後に

「あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください」

がありました。この祈りが何と大胆で、驚くほどの内容でしょうか。確かにこの世界には、神の国に逆らう力が様々に働いています。日本の国の政治や経済は大きく揺れ動いています。また、世界にはアメリカのような大国があります。沢山の国々が拮抗しています。そうした世界の中で、私たちは

「神の国が来ますように」。

 天の父よ、あなたの国が来ますように、と祈ります。日本やアメリカ、イスラエルなどの国々を越えた神の国の到来を待ち望みます。国家や民族が争ったり、国境で排除したり、力で競い合ったりする中で、どの国も永遠に続く事は出来ない。ただ、神の国だけが永遠の国になる、と信じます。そして、その国の王は、恵みに満ちたイエス・キリストです。偉そうにする王ではなく、ご自分を献げてくださり、私たち小さな者を顧み、祝福してくださる王です。また、民族や生まれや文化の違いを超えて、どんな人をも受け入れ、一つの国として下さる王です。その国の到来を信じて、待ち望むのです。そして、今の私の生活、また私たちの交わりがそのような国を現すよう祈りなさいとイエスは教えてくださいました。イエスがそう仰った以上、王は今ここでの私たちの中に神の国をもたらしたいと願っておられるのです。信じて、祈りましょう。争ったり裁いたりせず、自分の支配やこの世の力よりも強く素晴らしい神の国を待ち望みましょう。その神の国が、やがて永遠の完成をするのです。

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問122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

2018-05-13 16:21:42 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/13 ハ信仰問答122「第一の願いは何だろう」詩篇115篇

 

 主イエスが「主の祈り」を教えられていなければ、私たちはどんなことを一番に願うでしょうか。何が私たちの願いでしょうか。ともあれイエスは私たちに「主の祈り」を教えてくださいました。そこで第一に何を願うよう教えられたのでしょうか。

問122 第一の願いは何ですか。

答 「御名が聖とされますように」です。すなわち、第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すそのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、賛美するようにさせてください、ということ、第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなくかえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです。

 去年から「新改訳2017」を用いるようになって、ここが変わりました。

「御名が崇められますように」

だったのが

「御名が聖とされますように」

となりました。確かに原文では「崇める」よりも「聖とされる」という意味です。

 神は聖なるお方です。全く汚れや利己心とか下心、邪心などのない、寄せ付けるもののない憐れみのお方です。聖という字は「きよい」とも読みますが、「きよらか」というと白を思い浮かべるかもしれません。しかし、その白さには黒いシミをつけることが出来ます。人間が考える清さは、汚す事が出来る白さです。けれども、神の聖さ、聖は汚す事が出来ません。むしろ、汚そうとするものまで聖く変えてしまいます。真っ白い布のような白さというよりも、眩く輝く光のような白さが、神の聖です。不純物を取り除いてしまう火のような強い聖さです。光より強い闇がないように、神の聖は火のように強いのです。神は永遠に、汚れや罪や打算とは無縁で、憐れみ深く、恵みに満ち、惜しみなく与える愛のお方です。

 そして、その神の聖なることが最もよく現れているのは、神の御名です。特に「主の祈り」では、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と呼びます。神が私たちの天の父となって下さったことは、神が私たちに御自身の聖なることを最もよく分かるように表してくださった恵みですね。それは限りない恵みです。尊い約束です。その事を思う時に、私たちは神を

「天にいます私たちの父」

と心からの賛美と信頼をもって呼びかけるはずです。しかし、神がそのように私たちに御自身の聖なる憐れみを示してくださったのに、それがまだまだ分からないのも現実です。それは勿体ない事です。

「御名が聖とされますように」

とは、ですからまず、神が私たちの天の父となってくださった素晴らしさを、私たちが正しく知り、あなたの全能、知恵、善、慈愛、真理を照らし出すすべての御業において、あなたを聖なる方として、崇め、賛美するようにさせてください、という祈りだとされるのです。ただ私たちが口先で神様をほめ称える、というだけではないのです。神を本当に聖なる方として知るように、そして、神の御名が聖とされるようにしてください、という願いなのです。詩篇115篇は、こう始まりました。

私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
 ただあなたの御名に 栄光を帰してください。

あなたの恵みとまことのゆえに。

 その後の言葉を辿っていくと、他の神々を信じる人から、「お前の神は目に見えないぞ。一体お前の神はどこにいるんだ」と馬鹿にされていたらしい。それに対して、目に見える神、人間が考え出せる神は、どうあっても限界がある。けれども、私たちは天地を造られた神を信頼します。この神は私たちを助けて下さる方、私たちを祝福してくださる方。大いなる者も、小さな者も。そんな神は、人間が作ることも考え出す事も出来ない大いなるお方。その方を私たちは信頼します。だから、私たちが求めるのも、自分の栄誉とか、自分の面目が保たれることとか、自分が高くなることではなくて、主よ、ただあなたの御名に栄光を帰してくださることを願います。そして、それは

「あなたの恵みとまことのゆえに」。

 あなたが恵み深く真実だから、言い換えれば、あなたが聖なるお方であるから、まずあなたの御名に栄光が帰されますように、と祈るのですね。

 私たちは、天地を造り、私たちに命や幸いや助けを惜しみなくくださる神を信じています。滝のように恵みを注ぎ、私たちを生かし、祝福を与えてくださっているお方を礼拝しています。私たちの天の父となって下さった方を信じている…はずです。それなのに、私たちはその方のことを差し置いて、自分の名誉や自分の面子、自分の思い通りになることを考えてしまうことが少なくありません。神様に向かってまず栄光を帰して、神の聖なることをほめ称えるよりも、聖とは反対の自己中心、利己的な願いを恥ずかしげもなく神に訴えてしまうということをしてしまいがちです。惜しみない恵みの神に、自分の思い通りにならないことで権利を主張している、考えてみれば、赤面ものの願いにどうしても陥りやすいものです。だからこそ、私たちが「主の祈り」で、最初に何を差し置いても、

「天にいます私たちの父よ。あなたの御名が聖とされますように」

と祈る時、私たちの優先順位に気づかされるのです。「あなたを忘れて自分に、自分が、自分の、と祈っていたけれど、そうじゃない、私にじゃない。まず栄光を受けるのは、私ではなくて、聖なる神だ。私は神ではない」。そう気づかされるのですね。私が神よりも出しゃばろうとしていたことに気づいて、自分は神ではない。自分が崇められなくてもいい。そして、自分がまず神を聖とさせてくださいますように、と祈るのです。

 そうです。

「御名が聖とされますように」

が神へのお世辞や社交辞令であれば、それ自体、御名を聖としない冒涜です。まず私が御名を聖とさせてくださいと祈るのです。私たちの生活の全て、思いと言葉と行いを正していただき、私たちが御名を汚す事なく、かえって私たちを通して御名が崇められ賛美されるようにしてください、という祈りになります。それは、私たちが立派な事や称賛を得ることによってではありません。神が聖であるとは、神が100%憐れみ深い方、惜しみない憐れみのお方であることです。ですから私たちが、自分の弱さや罪に正直になり、この神の聖なる憐れみをたっぷり戴いて、喜んで真っ直ぐに生きること。間違いを犯した時には正直に認めて、そこから回復をいただくこと。また、他の人が間違った時にはそれを見下したり裁いたりせずに、真っ直ぐに向き合い、その回復のために祈り、サポートしていく事。そういう私たちの交わり、祈り、愛し合う、謙った生き方を通して、神が聖とされるように、と願うのです。

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問121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

2018-05-06 20:24:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/5/6 ハ信仰問答121「遠くて近い天の父」Ⅱ歴代誌6章12~21節

 今日も「主の祈り」を祈りましたが、その最初に「天にいます私たちの父よ」と呼びかけました。その「天にいます」とはどういう事なのでしょうか。

問121 なぜ「天にいます」と付け加えられているのですか。

答 わたしたちが、神の天上の威厳については地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては肉体と魂に必要なことすべてを期待するためです。

 二つのことが言われています。第一に神の威厳(厳かさ、重々しさ)について、第二に神の御性質について、です。第一の神の威厳は、天上のものですよ、この地上の世界の威厳とは違いますよ。文字通り、雲泥の差、天と地ほども違うのが神の威厳なのですと思うためだ、と言います。人間の世界にも、神のように崇められるものもあります。古代の王国の話や宝物や軍隊の話を聴くと、信じられないような話も沢山あります。でもそうした人間の凄さにどんなに圧倒されても、やがてはそれは失われます。違う人に追い抜かれたり、朽ちていきます。また多くの人間の威厳には、嘘があったり、暴力があったりします。聖書の時代にも、見えない神を信じることを忘れさせるような建物や財力が沢山あったようです。しかし、それは今殆ど残っていません。もう住む事も出来ない廃墟が残っているぐらいです。教会でさえそうです。聖書の時代から今に至るまで、大きな教会も何百年で交代しています。父なる神様の威厳は、そのような地上の権威とは違います。神の権威は決して朽ちることがありません。また、ごまかしや暴君のような所もありません。神の威厳は天上の威厳であって、人間の威厳のようなものではない。そう念を押すために

「天にいます私たちの父よ」

と言うのです。これが第一です。

 第二に、天の父の御性質が天のものであるとは、私たちにとって遠い、ということではありません。神は私たちの父となってくださったのですから、私たちに関わり、私たちを養ってくださるのです。それも、神は天の父という測り知れない大いなるお方なのですから、私たちの必要なこと全てを期待して良いのです。天の父への信頼をも、完全な信頼へと広げてくれる。それが、「天にいます」と付け加えるもう一つの恵みです。

 先ほど第二歴代誌の言葉を読みました。ソロモン王が神殿を建てた時の祈りです。2年も掛けて、立派な神殿を建てたのです。その最初に、ソロモンが台の上に載って、主に祈った、長い祈りが記されています。ここでソロモンはこう祈っていました。

Ⅱ歴代誌六13…そしてイスラエルの全会衆の前でひざまずき、天に向かって両手を伸べ広げて、14こう言った。「イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です。

 天に向かって祈っていますね。そこで天にも地にも、あなたのような神は他にありません。私たちが精一杯あなたの前で、あなたに仕えながら生きようとする者に、契約と恵みとを守られる。神の約束してくださった契約を決して破棄されません。また、恵みもいつまでも守ってくださる。そんな神はあなたの他にいない、と言ったのでした。

 けれども、この後にソロモンが言った言葉でもう一つ、忘れがたい言葉があります。

18それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。

 この建てたばかりの立派な神殿を自慢するのではありません。いや、神は地の上に住む方ではないし、天だって十分ではありません。天の上に天があるとしても、そこにもあなたをお入れする事は出来ません。まして、この神殿など尚更あなたをお入れする事は出来ません、というのですね。とても大胆で、謙虚な言葉です。

 確かに神は天よりも大きな方です。聖書は神が天と地をお造りになった、と教えていますし、私たちはそう信じています。神は天と地をお造りになった方で、天と地よりも大きなお方です。私たちから観ると、天は途方もなく大きく、広い、手の届かない世界です。けれども神から観ると、地球だけでなく、宇宙全体が小さなものなのでもないでしょうか。

 宇宙は神の手の中にあるもの。神が愛おしんで造られたとは言え、その天に神が入る事は出来ないはずです。天の天も神の家には小さすぎます。しかし、その宇宙の中のほんのちっぽけな私たち人間を、神は愛おしみ、その私たちを子どもとしてくださり、私たちから「父よ・お父ちゃん」と呼ばれる事を神は喜んで選んでくださいました。それと同じように、神はこの世界の中の天に下りて来られて、私たちの

「天の父」

として御自身を現してくださったのです。天の天も神には小さいのですが、それで終わっては、私たちは全く神をイメージすることが出来ませんね。神が天にいますと呼べることで、私たちは神を

「天にいます父」

と思えるのです。ですから神が

「天にいます」

ということは、私たちにとっての遠さ、距離感ではありません。その反対です。神が近くなって下さった、ということです。天が入れる事が出来ないはずの偉大な神が、私たちに神の威厳の偉大さを思えるように、そして、神が私たちに必要なすべてのものを下さるとハッキリ確信できるようにと、天にまで降りて、近づいて来て下さったのです。

 ですから、私たちは

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかける時、神が遠い天におられる方ではなく、天にまで近づいて私たちをご覧になり、支え、励ましてくださる神に、ますます信頼を寄せるのです。更に、天に留まらず、神の子イエスはこの地上にまで降りてこられ、私たち人間と同じになることを厭われませんでした。私たちを神の子どもとするために、父なる神と子なる神が惜しみないチームプレーで近づいてくださいました。その御業を思って、私たちは今、天を観ながら生きていけます。

伝道者の5章2節「神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」

 神は天におられ、あなたは地にいる…。それは距離の遠さではありません。天よりも偉大な神が、天に来られて、私たちの「天の父」としてご自分を示してくださっています。心からその偉大さを崇めて、大きく信頼を寄せるのです。天の父の偉大さを忘れて、人間の小さな考えや焦ってしゃべっていることがよくあります。この方に祈るのは、たくさんの言葉を並べ立てるより、少ない言葉でゆっくり、信頼を育む時間なのです。

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