2019/8/25 イザヤ書40章1~11節「新しい希望 一書説教イザヤ書」[1]
聖書通読表では9月から休み休み12月までかけてイザヤ書を読む予定です。なにしろイザヤ書は66章。詩篇に続く章数です。エレミヤ書が52章でも量は多いのですが、イザヤ書の章数六六は聖書の数と同じ。しかも旧約三九巻、新約二七巻(三九(サンク)、二七(ニジュウシチ))で六六巻になるように、イザヤ書も三九章までと四〇章からの27章で大きく分けられます。四〇章は、
1「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」
こう力強く語り出していくのです。確かにこの四〇章以降は、力強い言葉やイメージがたくさん連ねられて、私たちを慰めてくれます[2]。勿論、一章から三九章にも、イエスのクリスマスの預言や、回復を力強く語る言葉は沢山あります。新約聖書にはイザヤ書からの引用が一番多く、イザヤ書が「イザヤによる福音書」と言われるほどの福音的なメッセージが満ちているのです。有名な言葉は上げていくと切りがありませんが、いくつか見てみましょう。
30:15…「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
42:3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく…。
43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。[3]
こうした言葉がちりばめられていることだけでも、イザヤ書全体が慰めに満ちて、力強い希望を語っていることは一目瞭然です。旧約の時点で、神は十分すぎる程の恵みを現しています。
しかしイザヤの語ったその言葉は、当時の人々に歓迎されたわけではありません。一章一節には
「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」
とありますが、これが紀元前七三九年から六八六年までです。この頃はちょうど国際的にアッシリア帝国が台頭して、北から勢力を広げていた時期でした。ウジヤとヒゼキヤは比較的信仰的な王ですが、その国際情勢の舵取りでは妥協的でした。アハズ王は主なる神に背を向けた悪王です。しかしどの時代も、礼拝儀式は形通り行われていても、王や貴族、富裕層が自分たちの安全や繁栄を第一として、貧困層、寡婦や孤児、在留外国人たち弱者への公正な扱いは後回しにされたのです。イザヤが語ったのは、ただ「主に立ち帰って、神を第一とせよ」という宗教的な回心ではありません。既に大きな神殿はあり、祭司たちは、神もその礼拝に
「飽きた」
と言われる程の生贄を捧げていたのです[4]。礼拝の方法が形式的だったというよりも、彼らが求めていたのが自分たちだけの幸せ、自分たちだけの繁栄、自分たちだけの安定で、周囲の弱者、他人の嘆きは放置され、家族や隣人に対する虐待、ネグレクトで、神が求めるような社会を造ろうとしていない事をイザヤは責めます[5]。アッシリアを過剰に恐れて外交的に立ち回るより、
「主を信頼して正義を行え」
と語ります。急に台頭してきたアッシリアはまもなく頼りにならなくなり、アッシリアとともにユダヤも滅ぼされることになる、と警告します。時には3年間、腰帯をせずに裸を晒しながら歩き回って「このままいけばこのように外国に裸で連れて行かれることになる」と警告するのです。
一方イザヤのメッセージは、罪を責める以上に希望です。天地の主が信頼に足るお方であり、平和、将来の回復がある、という希望です。人々が社会の荒廃や外国の脅威に怯えて絶望する中、「これは自分たちが主に背いた天罰だ、報いだ」と自暴自棄になる中、希望を語ります。
1:18たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
35:10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。
こう希望を語り続けるのです。人々が抱く「自分さえ良ければ」という歪んだ救い、社会の不正を放置した自分勝手な幻は、容赦なく責めます。しかし、それを責めるだけではありません。神が抱いている夢は、あなたがたの夢よりも遥かに豊かだ。そこにあなたがたも、あなたがたが目に掛けない外国人や貧困層も含まれて、ともに主の慰めを十分に戴き、喜び歌い踊る日が来る。天地を造られた大いなる神は、この世界に新しい天と新しい地をお造りになる。そうイザヤは語り続けています。この、神が天地を造り今も治めておられる大いなる神である、という信仰と、それに根差した神への信頼、神が語る希望の確かさと神が求める正しい生き方への信頼とが言葉を換えて繰り返されるのもイザヤ書の特徴です。
もう一つ、イザヤ書には「主のしもべ」が四回登場します[6]。主のしもべと言われる存在が立てられて、世界を新しくするのだ、というのです。これをイエスはルカの四章で朗読し、
21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
と宣言しましたし、使徒の働き八章ではエチオピアの宦官が、イザヤ書五三章の「主の苦難のしもべ」の箇所を朗読して、そこからピリポがイエスの福音を彼に伝えたのです。「主のしもべ」が現れるということでもイザヤ書は、イエスの訪れを予告している書です。
またこの書には今まで「聖書の物語の全体像」というテーマでお話しして来た契約が踏まえられています。天地創造、その回復のためのノアの天地の保持の契約[7]、アブラハムの選びの契約[8]、モーセの新しい生き方の契約[9]、そしてダビデの末から王が出る[10]という契約すべてが踏まえられて、それを果たす「主のしもべ」が来て贖いの契約を完成し、やがて新しい天と地が創造される、という大きな物語をイザヤは語ったのです。そして、今も私たちはイザヤを通して、主の慰めを聞きます。主が求める正しい生き方、更には主が思い描いている大きな夢、すべての人が集められて、主の慰めに与って喜び賛美する世界を知らされます。でも、それを拒む人もいるし、受け入れるまでにも長い時間はかかるのだという現実も、思い出すのです。
イザヤは預言書の第一人者であり、イザヤ書は「福音書」とも言われますが、決して当時の人々から歓迎されて成功した人気の説教者ではありませんでした。むしろ最初から、主はイザヤの言葉は悟られず、聞かれないと覚悟を求めていました[11]。彼は希望を語りましたが、それは絶望や諦めが蔓延している社会の中ででした。イザヤは「主のしもべ」が来て苦難を受け、自分を捧げると語りましたが、イザヤ自身が仕えるしもべとなって生きていました。伝説では、イザヤはヒゼキヤの子マナセ王の時代に鋸で斬り殺されて殉教したとされていますが真偽の程は定かではありません。ハッキリしているのはイザヤには妻がいて、こどもが二人はいた事です。子どもたちの名前でもイザヤは主の預言を語ります。一人は
「シェアル・ヤシュブ」(残りの者が帰ってくる)
で、今時の「キラキラネーム」も真っ青なメッセージネームでした[12]。イザヤの妻は「女預言者」と言われますが[13]、妻も預言者であった、というよりも、妻は預言者である夫を支え、子どもたちの存在を通して、厳しい現実と確かな希望とを語った、その事自体から「女預言者」と言われるのでしょう。人を教えたり導いたり、大きなことが出来たかどうかでなく、その生き方、夫と子どもたちとともに、主の回復の希望に聴きながら生きた女性。
現代も、皆さん一人一人が主のメッセージです。イエスに愛されて、希望を約束されている者として、神の物語の大きな夢を与えられている者として、私たちはここに生かされています。イザヤの語った将来の幻、すべての国民が集められて、すべての不正が終わり、この世界の特権や贅沢が終わって、すべての罪が心から悔い改められて、すべての関係が心から和解して、本当に回復する世界が始まる。そのために、神の子イエスが来られて、苦難のしもべとなってくださった。だから私たちもここで、本気でその神の夢を信じて生きるのです。
「聖なる神よ。イザヤ書に証しされた、世界への主の真剣な嘆きと朽ちない慰めを感謝します。その約束の通り主イエスが来て、贖いを果たし、すべての民に福音が宣べられています。どうぞその幻に照らしてこの社会を導いてください。私たちを贅沢からも絶望からも救い出し、ともに主を礼拝する交わりを、すべての教会やあなたの愛する民を通して、始めていてください」
[2] この語調の変化に、イザヤ書は一人が書いたのではなく、四〇章からは後の時代の別人が書いた、と言われるようになりました。この「第二イザヤ」、更には「第三イザヤ」という説は、主流なイザヤ書論とさえなっています。私はそのような結論を出す必要はないと思っています。四〇章だけで二分したら良いわけではない、もう少し細かな展開があるのは、週報にも書いた通りです。「三九二七」はあくまでも覚えやすさです。イザヤ書全体で一つの書と見ない理由はありません。しかし、紀元前7世紀と、捕囚期の6世紀、そして捕囚帰還後の5世紀それぞれに、イザヤ書は違うリアリティをもって聞かれたことは十分に想像できますし、胸が熱くなる思いをします。
[3] 他にも、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。(11:6-9)」「しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。(32:15)」「主は言われた。「まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。(63:8-9)」「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに」(55:6-11)、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(56:7)、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」(57:15)、「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、」(61:1)、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。」(63:9)、「狼と小羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。」(11:6-9、65:25)などなどなど。
[4] イザヤ書一章11~12節「「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。」
[5] イザヤ書五八章5~8節「わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる」。他。
[6] 「主のしもべ」は、イザヤ書四二章1~4節、四九章1~6節、五〇章4~9節、五二章13~五三章12節の四箇所に登場します。
[7] イザヤ書五四章8~10節「怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」
[8] イザヤ書二九章22~24節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。心迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る。」」、四一章8~10節「8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」、三三章25~26節「主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」
[9] イザヤ書六三章11~15節「そのとき、主の民はいにしえのモーセの日を思い出した。彼らを、ご自分の群れの牧者たちとともに海から導き上った方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置いた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。荒野の中を行く馬のように、彼らはつまずくことはなかった。谷に下る家畜のように、主の御霊が彼らを憩わせた。このようにして、あなたはご自分の民を導き、ご自分のために輝かしい名を成されました。どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。」
[10] イザヤ書九章7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」、一六章5節「一つの王座が恵みによって堅く立てられる。ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、さばきをし、公正を求め、速やかに義を行う者。」、三七章35節「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」、五五章3節「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」など。
[11] イザヤ書六章9~10節「すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
[12] イザヤ書七章3節。もう一人の子は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕り物はすばやく、獲物はさっと(持ち去られる)の意)でした。八章1~4節。