聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答130~132 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」

2019-08-31 21:56:13 | はじめての教理問答

2019/8/18 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」はじめての教理問答130~132

 

 先回から「聖礼典」についてお話ししています。私たちの教会では、二つの儀式をイエス・キリストが定めて下さった「聖礼典」として行っています。それは、洗礼式と聖餐式(主の聖晩餐)です。この二つが、イエスが定め、聖書で守られている聖礼典です。今週と来週は、洗礼がどんなもので、どんなに喜ばしいものかを教えられます。

問130 洗礼式ではどのようなしるしが用いられますか?

答 水によって洗うというしるしが用いられます。

問131 この水によって洗うというしるしは、なにを表しますか? 

答 わたしたちがキリストとひとつにされ、その血によって罪からきよめられることを表します。

問132 だれの名前によって、わたしたちは洗礼を受けますか?

答 父と子と、聖霊の名前によって、洗礼を受けます。

 洗礼式(バプテスマ)は水によって洗うという印の礼典です。水を使って洗われます。それは

「私たちがキリストと一つにされ、キリストの血によって罪から清められること」

を表しています。勿論、洗礼式を受けたらキリストと一つにされ、罪から清められるのではありませんし、洗礼を受けなかったら、キリストに結ばれないのではありません。洗礼式そのものに魔力やパワーがあるのではありません。これはよくある誤解で、長い間教会には洗礼式の水を「聖水」と呼んで、悪魔を祓う力があるとか、きよめの儀式に使うことがありました。私たち、長老教会ではそのような考えをしません。洗礼の水や儀式そのものに特別な力はありません。ただ、イエス・キリストが、私たちをご自身に結びつけて、私たちの罪をきよめて、新しい歩みを下さるのです。それが本当のことであると、洗礼は水の洗いをもって、表してくれるのです。

 その水の使い方にも、3種類あります。

全身を水につける全浸礼

頭の上から水を掛ける灌水礼

指を水につけて額を濡らす滴礼

 この3つです。私が洗礼を受けたのは、全浸礼で、頭まで沈められました。長老教会では、滴礼でするところが多いですが、全浸礼をすることもあります。もともとの言葉、バプテスマから、全部を水に浸すのが正しいやり方だ、という人もいますし、バプテスマという言葉も、全身を浸すわけでは無いという人もいます。今日はその議論には立ち入りませんが、私たちは、大事なのは水による洗いを表していれば、このどれでもよいと考えています。そして、洗礼は大事なことですし、個人個人が勝手にやるようなことではありません。洗礼は、教会の行事として、教会の役員が承認して、牧師が執行することにしています。洗礼を授けるのは、教会が牧師に委託する務めです。それぐらい、洗礼は大切な式なのです。

 しかし、洗礼は

「父と子と聖霊の名によって」

授けられます。先週見たマタイの28章の言葉でもイエスご自身が

「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」

と言われていました。全浸礼か滴礼か、どこでやったか、授けたのは誰だったか、有名な牧師か、田舎の牧師か…そんなことは何にも関係がありません。いつ、どこで、だれが、どう授けた洗礼だった、とは言わず、

「父と子と聖霊の名によって授かったバプテスマ」

つまり、父と子と聖霊、という神様に結びつけられるのです。イエスは、私たちをご自分に結びつけて、神様との交わりを回復して下さいました。私たちを、神の子どもとしてくださり、神の子として喜んで生きるために、イエスはこの世界に来て下さいました。そのイエスを私たちは信じて、イエスとともに生きるのです。造り主である神との関係が回復されて、神を神とする生き方、心をいただいていくのです。それが、イエスが私たちに下さる「救い」です。イエスに結ばれるということは、イエスだけでなく、父と子なるイエスと聖霊なる神、その三位一体の神に結ばれることなのです。

 「父と子と聖霊の名によって」洗礼は授けられます。この

「名」

は単数で、父と子と聖霊が一つの名前を共有しているのです。大いなる神と、人となったイエスと、聖霊なる神は、本質において一つ。これを教会は「三位一体」という言葉で言い習わしています。私たちには到底理解できない神秘ですが、神ご自身が、父と子と聖霊の交わり、愛し合う関係、永遠の友情を持っているお方なのですね。神とは、孤独な神ではなく、父と子と聖霊という、永遠の三つのお方なのです。その神が私たちを造って、私たちを愛し、私たちにも愛し合うように、違う互いを喜び合うように、と願われています。それなのに、人間は神から離れた結果、お互いにも裁き合ったり、傷つけ合ったり、競争するようになってしまいました。人も、神をも、疑って、怖がって、自分をかばいながら生きています。そういう人間の考えでは、「救い」ということさえ、人と関わらず、仲良しクラブのようなフワフワした場所でゆっくり過ごす、というようなものでしょう。

 「洗礼を受けなくてもイエスを信じれば救われるのなら、洗礼は受けたくない」と言うようなことを思っている方も多いのですが、そういう時に思っている「救い」とは、「イエスと結ばれる」とか「父と子と聖霊の交わりに入れられる」とは違う「救い」でしょう。ですから、

「父と子と聖霊の名によって」

洗礼を授かる、ということは、キリストが下さる救い、信じるだけでいただける救いとは何かを思い出させてくれます。

 イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちの罪を赦して、新しい命を下さいます。自分中心に生きて、神とも人とも自分との関係も壊してしまう罪から救い出して、神の交わりに入れ、私たちのお互いをも神の愛と知恵をいただいた、新しい関係にしてくださいます。そういう新しさを、イエスを信じる時にいただけるのです。でも、それだけでなく、洗礼式をイエスは定めてくださいました。私たちが本当にイエスから新しい命をもらったと、自分も他の人も分かるためにも、洗礼式を用意してくれました。全浸礼だろうと滴礼だろうと、それは水を使った儀式に過ぎないようですが、でもイエスが私たちの罪を赦して、神の家族に迎えてくださったことは、変えられない事実なのだと、洗礼式は表してくれています。

 そして、洗礼は一度受けたら、再び受け直すことは出来ません。教会から離れたり、罪を重ねたり、信仰を捨てることがあったとしても、再び帰ってくるなら、イエスは迎え入れてくださいますし、前の洗礼が無効になったとは考えません。イエスが私を救って始まった新しい歩みにも、山あり谷あり、何でもあっても、それでもイエスが私を捕まえてくださった新しい関係は決して解消されることがない。そのことも洗礼はハッキリと示してくれるのです。洗礼は本当に喜ばしい儀式です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イザヤ書40章1~11節「新しい希望 一書説教イザヤ書」

2019-08-31 21:44:22 | 一書説教

2019/8/25 イザヤ書40章1~11節「新しい希望 一書説教イザヤ書」[1]

 聖書通読表では9月から休み休み12月までかけてイザヤ書を読む予定です。なにしろイザヤ書は66章。詩篇に続く章数です。エレミヤ書が52章でも量は多いのですが、イザヤ書の章数六六は聖書の数と同じ。しかも旧約三九巻、新約二七巻(三九(サンク)、二七(ニジュウシチ))で六六巻になるように、イザヤ書も三九章までと四〇章からの27章で大きく分けられます。四〇章は、

「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──

エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」

 こう力強く語り出していくのです。確かにこの四〇章以降は、力強い言葉やイメージがたくさん連ねられて、私たちを慰めてくれます[2]。勿論、一章から三九章にも、イエスのクリスマスの預言や、回復を力強く語る言葉は沢山あります。新約聖書にはイザヤ書からの引用が一番多く、イザヤ書が「イザヤによる福音書」と言われるほどの福音的なメッセージが満ちているのです。有名な言葉は上げていくと切りがありませんが、いくつか見てみましょう。

30:15…「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

42:3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく…。

43:4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。[3]

 こうした言葉がちりばめられていることだけでも、イザヤ書全体が慰めに満ちて、力強い希望を語っていることは一目瞭然です。旧約の時点で、神は十分すぎる程の恵みを現しています。

 しかしイザヤの語ったその言葉は、当時の人々に歓迎されたわけではありません。一章一節には

「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」

とありますが、これが紀元前七三九年から六八六年までです。この頃はちょうど国際的にアッシリア帝国が台頭して、北から勢力を広げていた時期でした。ウジヤとヒゼキヤは比較的信仰的な王ですが、その国際情勢の舵取りでは妥協的でした。アハズ王は主なる神に背を向けた悪王です。しかしどの時代も、礼拝儀式は形通り行われていても、王や貴族、富裕層が自分たちの安全や繁栄を第一として、貧困層、寡婦や孤児、在留外国人たち弱者への公正な扱いは後回しにされたのです。イザヤが語ったのは、ただ「主に立ち帰って、神を第一とせよ」という宗教的な回心ではありません。既に大きな神殿はあり、祭司たちは、神もその礼拝に

「飽きた」

と言われる程の生贄を捧げていたのです[4]。礼拝の方法が形式的だったというよりも、彼らが求めていたのが自分たちだけの幸せ、自分たちだけの繁栄、自分たちだけの安定で、周囲の弱者、他人の嘆きは放置され、家族や隣人に対する虐待、ネグレクトで、神が求めるような社会を造ろうとしていない事をイザヤは責めます[5]。アッシリアを過剰に恐れて外交的に立ち回るより、

「主を信頼して正義を行え」

と語ります。急に台頭してきたアッシリアはまもなく頼りにならなくなり、アッシリアとともにユダヤも滅ぼされることになる、と警告します。時には3年間、腰帯をせずに裸を晒しながら歩き回って「このままいけばこのように外国に裸で連れて行かれることになる」と警告するのです。

 一方イザヤのメッセージは、罪を責める以上に希望です。天地の主が信頼に足るお方であり、平和、将来の回復がある、という希望です。人々が社会の荒廃や外国の脅威に怯えて絶望する中、「これは自分たちが主に背いた天罰だ、報いだ」と自暴自棄になる中、希望を語ります。

1:18たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

35:10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びを戴く。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る。

 こう希望を語り続けるのです。人々が抱く「自分さえ良ければ」という歪んだ救い、社会の不正を放置した自分勝手な幻は、容赦なく責めます。しかし、それを責めるだけではありません。神が抱いている夢は、あなたがたの夢よりも遥かに豊かだ。そこにあなたがたも、あなたがたが目に掛けない外国人や貧困層も含まれて、ともに主の慰めを十分に戴き、喜び歌い踊る日が来る。天地を造られた大いなる神は、この世界に新しい天と新しい地をお造りになる。そうイザヤは語り続けています。この、神が天地を造り今も治めておられる大いなる神である、という信仰と、それに根差した神への信頼、神が語る希望の確かさと神が求める正しい生き方への信頼とが言葉を換えて繰り返されるのもイザヤ書の特徴です。

 もう一つ、イザヤ書には「主のしもべ」が四回登場します[6]。主のしもべと言われる存在が立てられて、世界を新しくするのだ、というのです。これをイエスはルカの四章で朗読し、

21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

と宣言しましたし、使徒の働き八章ではエチオピアの宦官が、イザヤ書五三章の「主の苦難のしもべ」の箇所を朗読して、そこからピリポがイエスの福音を彼に伝えたのです。「主のしもべ」が現れるということでもイザヤ書は、イエスの訪れを予告している書です。

 またこの書には今まで「聖書の物語の全体像」というテーマでお話しして来た契約が踏まえられています。天地創造、その回復のためのノアの天地の保持の契約[7]、アブラハムの選びの契約[8]、モーセの新しい生き方の契約[9]、そしてダビデの末から王が出る[10]という契約すべてが踏まえられて、それを果たす「主のしもべ」が来て贖いの契約を完成し、やがて新しい天と地が創造される、という大きな物語をイザヤは語ったのです。そして、今も私たちはイザヤを通して、主の慰めを聞きます。主が求める正しい生き方、更には主が思い描いている大きな夢、すべての人が集められて、主の慰めに与って喜び賛美する世界を知らされます。でも、それを拒む人もいるし、受け入れるまでにも長い時間はかかるのだという現実も、思い出すのです。

 イザヤは預言書の第一人者であり、イザヤ書は「福音書」とも言われますが、決して当時の人々から歓迎されて成功した人気の説教者ではありませんでした。むしろ最初から、主はイザヤの言葉は悟られず、聞かれないと覚悟を求めていました[11]。彼は希望を語りましたが、それは絶望や諦めが蔓延している社会の中ででした。イザヤは「主のしもべ」が来て苦難を受け、自分を捧げると語りましたが、イザヤ自身が仕えるしもべとなって生きていました。伝説では、イザヤはヒゼキヤの子マナセ王の時代に鋸で斬り殺されて殉教したとされていますが真偽の程は定かではありません。ハッキリしているのはイザヤには妻がいて、こどもが二人はいた事です。子どもたちの名前でもイザヤは主の預言を語ります。一人は

「シェアル・ヤシュブ」(残りの者が帰ってくる)

で、今時の「キラキラネーム」も真っ青なメッセージネームでした[12]。イザヤの妻は「女預言者」と言われますが[13]、妻も預言者であった、というよりも、妻は預言者である夫を支え、子どもたちの存在を通して、厳しい現実と確かな希望とを語った、その事自体から「女預言者」と言われるのでしょう。人を教えたり導いたり、大きなことが出来たかどうかでなく、その生き方、夫と子どもたちとともに、主の回復の希望に聴きながら生きた女性。

 現代も、皆さん一人一人が主のメッセージです。イエスに愛されて、希望を約束されている者として、神の物語の大きな夢を与えられている者として、私たちはここに生かされています。イザヤの語った将来の幻、すべての国民が集められて、すべての不正が終わり、この世界の特権や贅沢が終わって、すべての罪が心から悔い改められて、すべての関係が心から和解して、本当に回復する世界が始まる。そのために、神の子イエスが来られて、苦難のしもべとなってくださった。だから私たちもここで、本気でその神の夢を信じて生きるのです。

「聖なる神よ。イザヤ書に証しされた、世界への主の真剣な嘆きと朽ちない慰めを感謝します。その約束の通り主イエスが来て、贖いを果たし、すべての民に福音が宣べられています。どうぞその幻に照らしてこの社会を導いてください。私たちを贅沢からも絶望からも救い出し、ともに主を礼拝する交わりを、すべての教会やあなたの愛する民を通して、始めていてください」



[1] 1963年8月28日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は「私には夢がある I have a dream」(1963年)という有名な演説をしました。そのクライマックスには、イザヤ書4章4節が引用されました。

[2] この語調の変化に、イザヤ書は一人が書いたのではなく、四〇章からは後の時代の別人が書いた、と言われるようになりました。この「第二イザヤ」、更には「第三イザヤ」という説は、主流なイザヤ書論とさえなっています。私はそのような結論を出す必要はないと思っています。四〇章だけで二分したら良いわけではない、もう少し細かな展開があるのは、週報にも書いた通りです。「三九二七」はあくまでも覚えやすさです。イザヤ書全体で一つの書と見ない理由はありません。しかし、紀元前7世紀と、捕囚期の6世紀、そして捕囚帰還後の5世紀それぞれに、イザヤ書は違うリアリティをもって聞かれたことは十分に想像できますし、胸が熱くなる思いをします。

[3] 他にも、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。(11:6-9)」「しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。(32:15)」「主は言われた。「まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。(63:8-9)」「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに」(55:6-11)、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(56:7)、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。」(57:15)、「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、」(61:1)、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。」(63:9)、「狼と小羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。」(11:6-9、65:25)などなどなど。

[4] イザヤ書一章11~12節「「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。」

[5] イザヤ書五八章5~8節「わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる」。他。

[6] 「主のしもべ」は、イザヤ書四二章1~4節、四九章1~6節、五〇章4~9節、五二章13~五三章12節の四箇所に登場します。

[7] イザヤ書五四章8~10節「怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」

[8] イザヤ書二九章22~24節「それゆえ、アブラハムを贖い出された主は、ヤコブの家についてこう言われる。「今からヤコブは恥を見ることがなく、今から顔が青ざめることはない。彼が自分の子らを見て、自分たちの中にわたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる者を聖として、イスラエルの神を恐れるからだ。心迷う者は理解を得、不平を言う者も教訓を得る。」」、四一章8~10節「8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」、三三章25~26節「主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」

[9] イザヤ書六三章11~15節「そのとき、主の民はいにしえのモーセの日を思い出した。彼らを、ご自分の群れの牧者たちとともに海から導き上った方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置いた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。荒野の中を行く馬のように、彼らはつまずくことはなかった。谷に下る家畜のように、主の御霊が彼らを憩わせた。このようにして、あなたはご自分の民を導き、ご自分のために輝かしい名を成されました。どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。」

[10] イザヤ書九章7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」、一六章5節「一つの王座が恵みによって堅く立てられる。ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、さばきをし、公正を求め、速やかに義を行う者。」、三七章35節「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」、五五章3節「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」など。

[11] イザヤ書六章9~10節「すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

[12] イザヤ書七章3節。もう一人の子は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕り物はすばやく、獲物はさっと(持ち去られる)の意)でした。八章1~4節。

[13] イザヤ書8章3節。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱサムエル記7章18~29節「この方が私たちの王 聖書の全体像23」

2019-08-18 18:15:02 | 聖書の物語の全体像

2019/8/18 Ⅱサムエル記7章18~29節「この方が私たちの王 聖書の全体像23」

 「聖書の物語の全体像」をお話ししています。このⅡサムエル記七章は、ダビデ王に主が約束されて、ダビデの家から「永遠の王」が出ると宣言された、大切な節目です。羊飼いであった少年ダビデを選んで王となさったばかりか、その子から永遠の王を起こす。その王が、主の民を正しく治めて、恐れ戦いたり、不正な支配者に苦しめられたりしないようにしてくださる。そういう確かな将来も含んだ、大きな約束がここにあります。これは詩篇八九篇[1]、一三二篇[2]などで

「契約」

と言われ、「ダビデ契約」とも呼ばれます。この「ダビデ契約」を聞いて、ダビデが主の箱の前に行き、感慨を漏らして語っている長い祈りが今日読まれた箇所です。

18…「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。19、主よ。このことがなお、あなたの御目には小さなことでしたのに、あなたはこのしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。、主よ、これが人に対するみおしえなのでしょうか。

 圧倒されている告白が続きます。自分が王になっただけでも大きな恵みなのに、そればかりか遥か先の事まで約束してくださった。その事に驚いて、主を誉め称える言葉が続きます。このダビデの告白が長々とここに記されることで、私たちも主がしてくださることがどれほど驚きか、どれほど大きな、思いがけない祝福かを思い起こします。聖書には驚きが満ちています。イエスがなさったことも弟子や群衆達を驚かせ続けました。私たちの信仰には、正しさとか清らかさだけでなく、驚きがあります。神は真面目であるより私たちを驚かせる方。キリスト者の信仰の特徴は、謙虚や自己否定よりも、驚きや期待なのです。こうも言われています。

23…地上のどの国民があなたの民イスラエルのようでしょうか。御使いたちが行って、その民を御民として贖い、御名を置き、大いなる恐るべきことをあなたの国のために、あなたの民の前で彼らのために行われました。あなたは、彼らをご自分のためにエジプトから、異邦の民とその神々から贖い出されたのです。24そして、あなたの民イスラエルを、ご自分のために、とこしえまでもあなたの民として立てられました。主よ、あなたは彼らの神となられました。

 神はイスラエルをご自身の民となさった。その事自体が主のユニークさ、吃驚(びっくり)せずにおれない恵みでした。決して大きくも立派でも善人ばかりでもないイスラエルを、一つの国にしてくださったこと、そして、そこに

「とこしえまでもあなたの民」「あなたは彼らの神となられました」

という、確かな結びつきを下さいました。この

「主があなたがたの神となり、あなたがたが主の民となる」

という文言は、アブラハムの時から繰り返されていた、聖書の契約の定型文です。大事な概念の言葉です[3]。しかし、このⅡサムエル記七章のここだけが、将来の約束でなく、

「あなたは彼らの神となられました」

と唯一、過去形で表現している箇所です。ダビデは本当に主の契約が果たされ、自分たちが主の民とされていると告白し、主の御名をほめたたえているのです。そして、その約束に基づいて、25節以下の祈りで応答しています。

 しかしこの後、ダビデは誠実な統治を通したわけではありません。ダビデは人として多くの欠点を晒します。特に11章では、部下の妻を召し入れて妊娠させて、その部下と他の兵士たちを戦場での死に追いやらせるのです。ダビデが特別立派だったとか信仰深かったから、神がダビデを選んだ、のではありません。ダビデを選んだのは主ご自身の不思議な恵みです。ダビデが王の立場を乱用して悪を行うなら、主はダビデをハッキリ責めて、悔い改めを迫ります。でも、主はこの契約を守って、ダビデを王座から退けません。それだけでなく、ダビデの後の時代も、主はこのダビデ契約に基づいて、ダビデの子孫の王座を支え続けるのです。

 旧約聖書の後半を一気に観ましょう。ダビデの息子のソロモンは、ハッキリと主から心を離して、他の神々に礼拝を捧げ、主の契約を守らなくなってしまいます。それで、主はソロモンの次の時代に、王国を半分に引き裂きます。紀元前九二二年頃、イスラエルの国は南北に分裂します。北がイスラエル王国、南がダビデのユダ部族を中心とするユダ王国です。しかし、その事を予告するⅠ列王記11章でも、主はソロモンにこう言われるのです。

12…あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。13ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える[4]

 「ダビデに免じて」…。この言葉はソロモンの後にも繰り返されます。「ダビデに免じて…ダビデのために」と5回繰り返されます[5]。ダビデの子孫らはしくじりながらも退けられず、回復を与えられます。北イスラエルは違います。210年の歴史で二十人の王が乱立して十の王朝が入れ替わり、722年にはアッシリア帝国によって滅ぼされます。一方の南ユダ王国は586年にバビロンによってエルサレムが陥落するまで、ダビデ王朝の20人が続きます(一時期、異国からの女王が君臨しますが、それも摂理的に終わります[6])。それでも悔い改めずにますます堕落していったため、最終的には主のさばきとして、バビロンによって打ち負かされます。しかしそれまで四百年続きました。一つの王朝が四百年続いた例は歴史上ありません(徳川時代も二六〇年です)。これ自体が主の特別な憐れみです。旧約に、この世界に現実にあった王国時代が、何はともあれ、長く詳しく記されています。それ自体が、ダビデ契約の証しです。神がこの地に御心にかなった王座を立てるのです。神の御国が永遠に続くことを見据えておられるのです。ダビデ契約は、世界に対する主のご計画が、神の国の確立にある現れです。

紀元前千年 ダビデ王即位
前九二二年 王国、南北に分裂
  南ユダ王国             北イスラエル王国
・ユダ部族中心            ・10部族
・ダビデ王朝(一時除く)       ・10の王朝乱立
・王20人               ・王20人
・400年の歴史            ・200年の歴史
・586年、バビロンにより陥落、捕囚  ・722年、アッシリアにより滅亡
・539年から帰還           ・離散

 その後、イエスがおいでになって、「神の国の福音」を語りました。

マルコ1:14…イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。15「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 時が満ちて神の国が近づいた。あなたのそばに神の国が始まったと語りました。「天国」の話ではなく、この世界に神が王となる「神の国」です。言わばダビデ契約の完成です。「福音」という言葉もただの「良い知らせ」という以上に、「新しい王が即位した」「皇帝に世継ぎが生まれた」という場合に使われたそうです。勿論、それは「皇帝目線」の押しつけでしょうが、本当に良い王の即位は確かに国にとって素晴らしい知らせです。イエスの福音は、ダビデに約束されていた永遠の王がおいでになった、という宣言です。民を不安から救い、幸いを下さるため、神が遣わした王。そして民のために命を捧げ、民に仕え、民を育ててくださる王です。私たちの王であるだけではありません。世界全体を、神の恵みの御国となさるのです。全てのもの、目に見えるものも見えないものも、神を信じない者も全てを、イエスは治めています。

 その支配は余りにも大きくて、深くて、私たちには到底理解できません。それでも、イエスが王としてすべてを治めていて、私たちの近くにいて、最善をなし、御心をなさる。私たちはそう信頼して、自分が心を込めて出来ることをしていけばよいのです。神は、ダビデとその子らを憐れみつつ、決して悪い支配や独善的な統治を放っておきませんでした。その神が遂に遣わして下さった王を、私たちは信頼して、希望を持つことが出来ます。そのイエスが教えて下さる「神の国」がどのようなものか、罪や罰や競争ではなく正直で恵みと喜びに満ちた神の支配を信じるとは今どう生きることなのか。御言葉を通して教えられていくのです。更に、私たちが、ダビデ契約も含めた聖書全体の大きな物語の中で、イエスがおいでになったことを知り、やがてこの世界に永遠のイエスの国が訪れるゴールに向かっている。それを驚きながら、今ここで、神の国の民として生かされ、その生き方を学びつつ歩んでいるのがキリスト者なのです

「世界の王なる主よ。あなたの約束がダビデを驚かせたように、私たちもダビデの子イエスの言葉を聞く度に、驚きを新たにさせてください。イエスが永遠の王として来られたという福音を、廃れることのない希望、不安よりも強い信頼として受け止め、伝えさせてください。あなたの庭であるこの世界で、生き、働き、遊び、歌い、御名をともに誉め称えさせてください」



[1] 詩篇八九篇「28     わたしの恵みを 彼のために永遠に保つ。わたしの契約は 彼にとって確かなものである。29わたしは 彼の子孫をいつまでも 彼の王座を天の日数のように続かせる。30もし その子孫がわたしのおしえを捨てわたしの定めのうちを歩まないなら31また もし彼らがわたしのおきてを破りわたしの命令を守らないなら32わたしは杖をもって 彼らの背きを むちをもって 彼らの咎を罰する。33しかし わたしは彼から恵みをもぎ取らずわたしの真実を偽らない。34わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない。35わたしはかつて わが聖によって誓った。わたしは決してダビデに偽りを言わないと。36彼の子孫は とこしえまでも続く。その王座は 太陽のように わたしの前にあり37月のように とこしえに堅く立つ。その子孫は 雲の上の確かな証人である。」セラ」

[2] 詩篇一三二篇「11主はダビデに誓われた。それは 主が取り消すことのない真実。「あなたの身から出る子を あなたの位に就かせる。12もし あなたの子らが わたしの契約と わたしが教えるさとしを守るなら 彼らの子らも とこしえにあなたの位に就く。」」

[3] 聖書の「救い」とは私たちがただ幸せになるとか楽園に行くという「極楽浄土」ではなく、私たちがイエス・キリストを通して神との関係を回復されることです。私たちが主の民となることです。それが聖書で繰り返されている約束です。

[4] Ⅰ列王記11章「11そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。12しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。13ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」」

[5] Ⅰ列王11:32「ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。」、11:34「しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。」、15:4「しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。」、Ⅱ列王8:19「しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。」、19:34「わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」」、20:6「わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」」。

[6] Ⅱ列王記十一章。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅱサムエル記7章8~17節「永遠のダビデの王座 聖書の全体像23」

2019-08-14 14:33:20 | 聖書の物語の全体像

2019/8/11 Ⅱサムエル記7章8~17節「永遠のダビデの王座 聖書の全体像23」

 ダビデは、旧約聖書に出て来る最も有名な王です。聖書で、イエス・キリストに次いで詳しく生涯や言葉が記されているのは、このダビデです。そして、イエス・キリストご自身が「ダビデの子」と呼ばれますし、ダビデと重ねて語られる王です。それほど聖書において、ダビデという人物は大切な役割を与えられています。特に、今日のⅡサムエル七章では主がダビデに大事な契約を与えています。この「ダビデ契約」を巡って、数回お話ししたいと思います。

 このⅡサムエル記七章は、ダビデが先の王サウルから命を狙われて逃げ続けた生活が終わり、エルサレムに自分の家を建て、落ち着いた生活が出来るようになった時に当たります[1]

 2…「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」

 自分が杉材の家にいるのに神の箱はテント住まいでは…と神殿建設を考えたのですが、主はそれを気にするどころか、ダビデのためにもっと大いなる家を備えると言われるのです。

11…主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。

 それは、ダビデの子どもがダビデの後継者として王となり、王国を確立する。それが永遠の王座となる。「ダビデの家」が永遠の王家となる、と主は約束されたのです。

13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

 これは本当に恐れ多い、ダビデにとっては思ってもいなかった主の言葉でした。ダビデの子孫から永久の王座が出る。やがてダビデの子孫からイエス・キリストが生まれるのです。ダビデはイエスの時代から千年前の人ですが、聖書の長い大きな物語の中で、キリストが来る千年前から、永遠の王である方が来る事を予告していたのです。しかし、ここにはその「王」に伴う大切ないくつかの事も書かれています。まず、8節以下、ダビデを

「羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした」。

 主がダビデとともにいて、敵を断ち滅ぼし、一介の羊飼いで親からも軽く見られていたダビデを、他の王たちと等しい王としてくださいました。その事と、10節では、イスラエルの民全体が安心して住むこととが並べて語られています。

10わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。

11それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。…

 ダビデやサウルに先立つさばきつかさ(士師記の時代)以来、400年以上、民は不安定な生活をしてきました。恐れ戦いて、不正な支配者たちに苦しめられて来ました。そのような中で民が王を求めましたけれど、最初の王サウルは王という立場に執着して、神から退けられてしまいました。それがようやくダビデの統治により、民全体が落ち着いた生活をし始めたのです。ですから、この8~11節では、主がダビデを個人的に導かれたことと、ダビデの統治がイスラエルの国全体を

「もはや恐れ戦くことのないように…不正な者たちも…重ねて民を苦しめることのないようにするため」

民全体の安息のため、という公の面とが両面言われています。ダビデ個人が神に贔屓(ひいき)されて、思い上がって、民の生活が脅かされたり不安定な生活を余儀なくされることが放って置かれたり、不正な支配者と同じ道に走ってはならなかったのです。

 ですから、主がダビデの家を堅く立てて、永久の王座を約束したのは、ダビデの個人的な栄誉という以上に、国民全体にとっての安心、永久の幸せの約束でもありました。特に、

14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

とあるのは、主がダビデに約束するのが、暴君になっても良い、という免許ではない証しです。王や支配者というと、特権をもって、犯罪に手を染めても目を瞑ってもらえるとか、訴えられない立場になりやすいものです。「王様は誰だ」というゲームがありますが、「王様」になった人の真似を皆がする。王にはそんなイメージが付き物です。実際、ダビデも王の立場で多くの間違いをしますし、その子たちは職権乱用をしてしまいます。そして、主は確かにその罪を見逃さずに報いるのです。言い換えれば、主はダビデを永久の王座を約束された家としますが、本当の王は主であって、ダビデもダビデの子らもその主の下にいる王に他なりません。絶対君主とか「王権神授説」とか特権階級ではない、主の恵みに生かされている自分だと深く弁えた王です。自分が主の目の前にあることを覚えている王です。この言葉は、永久の王も不義を犯すかも知れない、というよりも、永久の王だからと言って威張って暴君になることが許されることは決してない、と安心させるものだったでしょう。だからこそ、ダビデの子のソロモンが王になって、民を踏みにじったり、多くの妻を娶ったりして、最終的には偶像崇拝に流されていった時、主はソロモンの罪をハッキリ指摘しましたし[2]、その後でも王たちの不義は預言者たちによって責められるのです。それでも、15節ではこうも言われています。

15しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。

16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

 主はダビデの家から恵みを取り去ることは決してないと約束し、永久に堅く立つのだ、と言い切られています。この言葉は最終的にはイエス・キリストがダビデの末裔として来て、永遠の王となってくださったことで成就しました。新約聖書の一頁目、マタイの福音書一章には長々と系図が記されていますが、ここにはイエスが

「ダビデの子」

として紹介されています。また1章6節以下はダビデ王朝の名前がずっと記録されています。ですからこの系図は、イエスがダビデに約束された「永久の王」であることを教える大事な系図です[3]。同時にそれは、人の罪、神の民やダビデの王家に祝福された者たちさえ、罪や背信を重ねてきた歴史です。その罪は当然報いを受けますが、しかしイエスは決して民を見捨てません。恐れ、間違い、疑いが蔓延している社会だからこそ、イエスは来られて、私たちを治めてくださるのです。今、イエスは私たちの王です。主は私たちを治めて、永遠に私たちの王でいてくださいます。その事に私たちは安心して良いのです。でも教会やキリスト者の「不義」-過ち、問題、傲慢は主が見逃さず、真剣に取り扱われます。それでも、決して主が私たちの王であることを止めず、恵みを取り去ることはしない。永久に私たちの王として、神の国の生き方に育てて下さるのです。

 私たちは「王」と言えば、庶民とはかけ離れていたり、服従することを求めたりする王を思い浮かべ、不正な支配者も沢山思いつきます。恐れ戦き、民を苦しめ、失敗も重ねればいつか契約も打ち切られる、そういうもんだと思い込んでいたりする。だからこそ、ダビデへの主の語られた「永久の家を立てる」という契約は、驚くべき内容ですし、イエスはその「永久の王」として来て下さった。私たちの恐れ揺れる心も治めてくださる。罪には何としてでも悔い改めと赦しを与えて、恵みにますます信頼して晴れやかに生かしてくださる。私たちの失敗や足りなさや弱さもご存じで、私たちの人生を導き、神の御心を行ってくださる。私たちには、恵みに満ちた王がいる。私たちの人生を支配するのは、私ではなく、私の罪でもなく、誰かや何かでもなく、主イエスです。それを主は聖書の昔から約束されたし、小さい羊飼いから王にされたダビデを通してハッキリと示してくださいました。その王が私の主であるのです。

「私たちの王であり、ダビデの末から生まれた主イエスよ。世界を治めるあなたが、私たちの永久の王ですから感謝します。私たちの支配者が、あなた以外の何かであるかのように思うとしても、あなただけが王であり、私たちを愛し、慰めと希望と新しい生活を下さる王です。どうぞ私たちの心も、この世界も治め、あなたの恵みと正義と喜びを高らかに表してください」



[1] Ⅱサムエル記7章1節「王が自分の家に住んでいたときのことである。主は、周囲のすべての敵から彼を守り、安息を与えておられた。」

[2] Ⅰ列王記11章。

[3] 特にマタイの福音書はイエスが「ダビデの子」であると繰り返して、イエスがダビデへの約束の成就としてこられたことを強調しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

2019-08-13 14:52:13 | はじめての教理問答

2019/8/11 マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

 

 「水とパンとブドウ酒」。いったい何の事でしょう。しかし、イエス・キリストを信じる事と、この三つのものは切っても切れない関係があります。先週まで「主の祈り」からお話しをしてきました。今日からこの三つの話、「聖礼典」をお話ししていきます。

問126 聖礼典はいくつありますか? 

答 ふたつです。

問127 そのふたつとは、なにとなにですか?

答 洗礼式と聖餐式です。

問128 聖礼典を守るように命じたのは誰ですか? 

答 主イエス・キリストです。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか? 

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 私たちの教会では、二つの聖礼典の儀式を行います。教会で「儀式」というとなんだか不気味な気がするかもしれませんが、私たちはふたつの聖礼典を行います。それは、洗礼式と聖餐式の二つです。洗礼式や聖餐式については、次回から詳しく見ていきますが、簡単に言えば、洗礼式は、水で人を濡らす、入会式。聖餐式は、パンとブドウの汁をみんなで分けていただく軽食です。だから、水とパンとブドウ酒、なのです。この洗礼式と聖餐式を「聖礼典」として定めたのは、主イエス・キリストです。ですから、私たちは、主イエス・キリストが守るように命じられた洗礼と聖餐式を、ずっと大事にしていきます。それによって、私たちは、キリストの慰めや力をいただくのです。教会の教えはただの知識や言葉ではありません。礼拝で話されているお話しは、ただの思い込みではなく、本当の出来事です。水をかけられ、パンとぶどう酒をいただいた実感が、私たちが本当にキリストの恵みをいただいた実感になると信じるのです。

 洗礼も聖餐も、教会が考え出した儀式ではなく、イエス・キリストが定めた儀式です。教会が、勝手に付け加えたのであれば、聖礼典とは呼べません。長い間、教会には、この二つの他に、色々な儀式が続けられていたことがありました。洗礼の他に、司祭に任命すること、結婚、罪の告白、死ぬ前に油を塗って祈ること、などがありました。

 このどれもが大切な事です。けれども、イエスはそのような儀式を特別にお定めにはなりませんでした。私たちにとって大切でも、教会がそのことを特別な儀式にするなら、おかしなことになります。ですから私たちは、イエスが定めた聖礼典は、二つですとハッキリさせています。洗礼式と聖餐式は、イエスご自身がお定めになった儀式です。教会では結婚する人のために結婚式もしますし、死んだ方のお葬式も、病気の方のためには癒やしのお祈りもしますが、洗礼と聖餐式はすべての信徒が招かれている、キリストと結びつけてくれる儀式なのです。マタイの福音書の結びは、イエスのこの言葉です。

マタイ28:18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…」

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々を弟子としなさいと言われ、そこに「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け」とあります。「バプテスマ」とは日本語にすると洗礼です。洗礼を授けなさい、とイエスは言いました。イエスの弟子たちは、あらゆる国の人々に、イエスの言葉を伝えて、洗礼を授けるのです。ただイエスのすばらしい教えを伝えて、信じることを求めるだけではなく、洗礼を授けて、本当にあなたの罪は赦されて、新しいいのちを授かった、あなたはイエスに結ばれた、そうハッキリと見える形で表すことを弟子たちに命じたのです。だから教会は今も洗礼を授けるのです。そして、洗礼を受けた後は、聖餐式に与るようになります。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか?

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 ここに聖礼典は、私たちを、この世から区別して、私たちを慰め、力づける、とあります。水、パン、ぶどう酒そのものに、何か特別な力があるとは考えません。ただ、冷たい水を浴びたり、パンを食べたりぶどう酒を飲んだりすることは、話しを聞かされるのとは違って、私たちの体でキリストの福音を味わうことです。イエスの慰めと励ましを、頭ではなく、体で体験して、キリストは私たちを守ってくれます。

 キリストは、本当に生きておられます。この世界や見えるもの、見えないものもすべてを造った神様、私たちを体あるものとして造られたお方です。今、皆さんの体はどんな感覚がありますか? お腹が空いていますか? 眠たいですか? 椅子の座布団の感触はちょうどいいですか? 服の肌触りはちょうどいいですか? 体を動かさないとムズムズしたり、仲良しの人とタッチするのが楽しかったり、嬉しいと踊ったり、悲しいと病気になったり、美味しいものを食べたら幸せになったり。そういう体を持つ者として神は人間をお造りになりました。

 そして、その神が、私たちに触れて、やがて神の国で、本当に豊かないのちを注がれて、主の食卓を一緒に囲む、永遠の生き生きとした将来を示してくださっています。その世界の前味として、今、イエスは聖礼典を下さっています。それは、ただの御言葉の補助とか、教会の習慣にしている儀式というより遥かに勝って、神が私たちにやがて用意されている世界をのぞき見る時間です。神は、この世界を造られたように、永遠の世界を用意して、私たちもそこで恵みを体感しながら生きるのです。そして、そこに向かう毎日の生活においても、食べたり飲んだり、触れたり見たり、体の感覚を大事に研ぎ澄ませながら、生きていくのです。

 夕拝では聖餐式をしていませんし、礼拝でも聖餐式は月に一度だけです。しかし、聖餐式を行わなくても、礼拝の真ん中には聖餐の食卓があります。私たちは、主の食卓を囲む交わりです。聖餐に与るのは、洗礼を受けた後ですが、「洗礼を受けていないと聖餐に与れない」ではなく、「だれもが洗礼を受けて聖餐に与るよう呼ばれている」と思ってください。イエスは、私たちを、神の国の食卓に招いてくださっています。洗礼を授けなさい、とイエスは弟子に言い、聖餐を通して慰め、励ましを実感させたいのです。もし、洗礼を受けて、聖餐式に与りたいな、と思ったら、いつでも話してください。準備を始めましょう。私も、パンとブドウ酒が食べたくなったのが洗礼を受けてきっかけでした。食べ物や見えるしるしもまた、イエスが下さっている恵みの手段なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする