2020/5/31 Ⅱコリント5章21節「罪の終わり」ニュー・シティ・カテキズム25
Ⅱコリント五18これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
神は私たちが神に背いた責任を、私たちに負わせない。それは、神がキリストを送って、キリストの十字架が、私たちの代わりに罪の罰をすべて負ってくださったからです。ですから、私たちは、自分の罪によって神から罰せられることを恐れる必要はなく、神の和解を受け取り、信じることが出来るのです。これは素晴らしすぎる言葉です。
第二十五問 キリストの死が、意味しているのは、私たちのすべての罪が赦されることですか? 答 はい、なぜならキリストの十字架での死が、私たちの罪の刑罰を完全に支払い、神は恵み深くキリストの義を私たち自身のものとして与え、私たちの罪をこれ以上覚えないからです。
キリストの十字架での死は、私たちの罪の刑罰を完全に、残らず、全部、支払ってくださって、聖なる神は、私たちがキリストの義をまとうようにしてくださる。神が躊躇わずに私を受け入れて下さる、と信じて良いのです。
勿論、「本当に悪かった。赦して下さい」と心から求めることは大事です。でも、そうでないと赦されない、ではありません。「本当に悪かったと思っていないだろう」と言われたら、辛いですね。怒られている時には、悪かったと思うより、怖いだけです。もしも、赦しが、私たちの心がけ次第、ということになれば、赦されない不安が大きくなります。赦されないかもしれないなら、私たちは諦めたくなります。神が赦して下さると信じるからこそ、私たちは心から「本当に悪かったです。ゴメンナサイ」と正直に言うことが出来るのです。
また、「私たちが罪を告白したら赦されるけれど、告白しない罪は赦されない」という人もいます。イエス・キリストが赦して下さる罪は私たちが告白したものだけだ、という考え方です。これも、私たちの告白の大事さを言いたいのでしょう。でも、私たちは、覚えていない罪をたくさん犯していますね。誰かを笑って馬鹿にする言葉は、言われた方の心を深く傷つけて、一生に影響するかもしれませんが、言った方がケロッとして、言ったことも忘れているかもしれません。そういう罪は、告白できなかったので、最後には赦されていなくて、罰せられるのでしょうか。そうだとしたら、これまた絶望です。
『氷点』という小説に、こんな話があります。
「ある人がね、牧師に、わたしには罪はない。なぜキリスト教は人間をすべて、頭から罪人扱いにするのか。それは一体どういうことなのだ、と詰め寄ったそうだ。するとね、その牧師が、じゃ君、あの大きな石をここまで持ってきてくれないか、と庭の石を指した。その男は、漬け物石の倍もあるその大きな石を、よいこらしょと、運んで来た」「牧師はさらに、その大きな石と同量ほどの小石を持ってくるように言った。男が、小石を沢山集めて持っていくと、牧師は、今度はそれらの石を、元の場所に戻すようにといった。男は困った。大きな石だけは、どこから運んで来たか、はっきり覚えている。だが、沢山の小石は、どこにどの石があったか、分かるわけはない。小石は一つも元に戻せなかった。…つまり、人を殺した、強盗に入った。これが我々には大きな石なんだね。しかし、うそをいった、腹を立てた、憎んだ、悪口を言った、などという日常茶飯事は小石なんだな。つまり、ひとには始末のつけようがないんだね。」
こういうお話しです。私たちは思い出せないほどのたくさんの小さな罪を犯しています。それを全部告白しなければ赦されないとしたら、絶望的です。でも、私たちが思い出せない罪も、赦されるとは信じられない大きな罪も含めて、測り知れない赦しの中に私たちは生かされています。この事を思うと本当に謙虚にさせられます。私たちに対する神の憐れみの大きさにクラクラします。だからこそ、私たちが小さな罪からも守られて、愛のある関係を築いていけるように、祈らずにおれません。
そうです。赦し、とは、大目に見ることではありません。神は私たちを罪のゆえに退けはしませんが、私たちが蒔いた種の刈り取りはあります。壊した事は事実です。したことの結果を引き受けて、片付けたり、治したり責任ある応答は必要です。(勿論、どんな理不尽な要求にも責任感を感じるのではありません。)しかし、それをも、神は私たちに押しつけるのではなく、一緒にしてくださり、私たちが責任ある行動を取れるように助けてくださるのです。主は、私たちを罰しないだけではありません。罪よりも遥かに素晴らしく強い、愛し、赦し、ともに歩む関係を築くように、私たちを助けてくださるのです。だからこそ、どんな罪をもその神の愛を妨げることはないのです。
こう信じる私たちは、自分の罪も全て、キリストの十字架のゆえに、神は赦してくださると信じることが出来ます。どんな小さな罪も、キリストの十字架があるので、赦されています。どんな大きな、酷い罪も、その酷い罪に相応しい呪いを、すでにキリストが十字架の測り知れない苦しみによって身代わりとなって受けてくださいました。イエスの十字架だけでは足りないかのように思うことは全くないのです。イエスは、十字架で想像を絶する苦しみを受けました。しかしそれは恐ろしい体験でありつつ、私たちを愛し、私たちの罪をすべて清算して、私たちと神とを和解させるためでしたから、イエスは喜んで十字架を背負って下さったのです。だから、私たちはすべての罪の赦しを信じることが出来ます。そして、私たちも他の人に同じように接することが出来ます。それが
「和解の務めを委ねられています」
という言葉です。どんな罪の赦しをも信じて、自分の罪を認めて告白し、悔い改めて、責任を負う旅を始められるように、続けられるようにサポートしていく。そういう関わりをしていきたいのです。
5:20-21私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
「赦しを与えて下さる父よ。キリストの義の衣に包まれた私たちは、あなたの御前に責められる所がありません。東が西から遠く離れているように、あなたは私たちの罪を遠く離して下さいました。どうかあなたの赦しと、憐れみと愛を疑うことがないよう助けて下さい。そして、あなたに愛される子として御前に大胆に出ることができますように。アーメン」