聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/5/31 Ⅱコリント5章21節「罪の終わり」ニュー・シティ・カテキズム25

2020-05-31 18:44:45 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/5/31 Ⅱコリント5章21節「罪の終わり」ニュー・シティ・カテキズム25

Ⅱコリント五18これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。19すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
 神は私たちが神に背いた責任を、私たちに負わせない。それは、神がキリストを送って、キリストの十字架が、私たちの代わりに罪の罰をすべて負ってくださったからです。ですから、私たちは、自分の罪によって神から罰せられることを恐れる必要はなく、神の和解を受け取り、信じることが出来るのです。これは素晴らしすぎる言葉です。

第二十五問 キリストの死が、意味しているのは、私たちのすべての罪が赦されることですか?  答 はい、なぜならキリストの十字架での死が、私たちの罪の刑罰を完全に支払い、神は恵み深くキリストの義を私たち自身のものとして与え、私たちの罪をこれ以上覚えないからです。

 キリストの十字架での死は、私たちの罪の刑罰を完全に、残らず、全部、支払ってくださって、聖なる神は、私たちがキリストの義をまとうようにしてくださる。神が躊躇わずに私を受け入れて下さる、と信じて良いのです。
 勿論、「本当に悪かった。赦して下さい」と心から求めることは大事です。でも、そうでないと赦されない、ではありません。「本当に悪かったと思っていないだろう」と言われたら、辛いですね。怒られている時には、悪かったと思うより、怖いだけです。もしも、赦しが、私たちの心がけ次第、ということになれば、赦されない不安が大きくなります。赦されないかもしれないなら、私たちは諦めたくなります。神が赦して下さると信じるからこそ、私たちは心から「本当に悪かったです。ゴメンナサイ」と正直に言うことが出来るのです。
 また、「私たちが罪を告白したら赦されるけれど、告白しない罪は赦されない」という人もいます。イエス・キリストが赦して下さる罪は私たちが告白したものだけだ、という考え方です。これも、私たちの告白の大事さを言いたいのでしょう。でも、私たちは、覚えていない罪をたくさん犯していますね。誰かを笑って馬鹿にする言葉は、言われた方の心を深く傷つけて、一生に影響するかもしれませんが、言った方がケロッとして、言ったことも忘れているかもしれません。そういう罪は、告白できなかったので、最後には赦されていなくて、罰せられるのでしょうか。そうだとしたら、これまた絶望です。
 『氷点』という小説に、こんな話があります。
「ある人がね、牧師に、わたしには罪はない。なぜキリスト教は人間をすべて、頭から罪人扱いにするのか。それは一体どういうことなのだ、と詰め寄ったそうだ。するとね、その牧師が、じゃ君、あの大きな石をここまで持ってきてくれないか、と庭の石を指した。その男は、漬け物石の倍もあるその大きな石を、よいこらしょと、運んで来た」「牧師はさらに、その大きな石と同量ほどの小石を持ってくるように言った。男が、小石を沢山集めて持っていくと、牧師は、今度はそれらの石を、元の場所に戻すようにといった。男は困った。大きな石だけは、どこから運んで来たか、はっきり覚えている。だが、沢山の小石は、どこにどの石があったか、分かるわけはない。小石は一つも元に戻せなかった。…つまり、人を殺した、強盗に入った。これが我々には大きな石なんだね。しかし、うそをいった、腹を立てた、憎んだ、悪口を言った、などという日常茶飯事は小石なんだな。つまり、ひとには始末のつけようがないんだね。」
 こういうお話しです。私たちは思い出せないほどのたくさんの小さな罪を犯しています。それを全部告白しなければ赦されないとしたら、絶望的です。でも、私たちが思い出せない罪も、赦されるとは信じられない大きな罪も含めて、測り知れない赦しの中に私たちは生かされています。この事を思うと本当に謙虚にさせられます。私たちに対する神の憐れみの大きさにクラクラします。だからこそ、私たちが小さな罪からも守られて、愛のある関係を築いていけるように、祈らずにおれません。
 そうです。赦し、とは、大目に見ることではありません。神は私たちを罪のゆえに退けはしませんが、私たちが蒔いた種の刈り取りはあります。壊した事は事実です。したことの結果を引き受けて、片付けたり、治したり責任ある応答は必要です。(勿論、どんな理不尽な要求にも責任感を感じるのではありません。)しかし、それをも、神は私たちに押しつけるのではなく、一緒にしてくださり、私たちが責任ある行動を取れるように助けてくださるのです。主は、私たちを罰しないだけではありません。罪よりも遥かに素晴らしく強い、愛し、赦し、ともに歩む関係を築くように、私たちを助けてくださるのです。だからこそ、どんな罪をもその神の愛を妨げることはないのです。
 こう信じる私たちは、自分の罪も全て、キリストの十字架のゆえに、神は赦してくださると信じることが出来ます。どんな小さな罪も、キリストの十字架があるので、赦されています。どんな大きな、酷い罪も、その酷い罪に相応しい呪いを、すでにキリストが十字架の測り知れない苦しみによって身代わりとなって受けてくださいました。イエスの十字架だけでは足りないかのように思うことは全くないのです。イエスは、十字架で想像を絶する苦しみを受けました。しかしそれは恐ろしい体験でありつつ、私たちを愛し、私たちの罪をすべて清算して、私たちと神とを和解させるためでしたから、イエスは喜んで十字架を背負って下さったのです。だから、私たちはすべての罪の赦しを信じることが出来ます。そして、私たちも他の人に同じように接することが出来ます。それが
「和解の務めを委ねられています」
という言葉です。どんな罪の赦しをも信じて、自分の罪を認めて告白し、悔い改めて、責任を負う旅を始められるように、続けられるようにサポートしていく。そういう関わりをしていきたいのです。
5:20-21私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

「赦しを与えて下さる父よ。キリストの義の衣に包まれた私たちは、あなたの御前に責められる所がありません。東が西から遠く離れているように、あなたは私たちの罪を遠く離して下さいました。どうかあなたの赦しと、憐れみと愛を疑うことがないよう助けて下さい。そして、あなたに愛される子として御前に大胆に出ることができますように。アーメン」
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2020/5/31 マタイ伝12章22~32節「赦されない罪がある?」 聖霊降臨日説教

2020-05-29 11:38:43 | マタイの福音書講解
2020/5/31 マタイ伝12章22~32節「赦されない罪がある?」
 「御霊に対する冒涜は赦されません」と聞くとドキッとします。「赦されない罪があるのか」と怖くなります[1]。今日の31~32節に「聖霊に対する冒涜は赦されない」と言われています。
31ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。
 この言葉は、イエスが十字架にかかる前、集まった群衆を癒やし、目が見えず口も利けない人を癒やされた時を背景にしています。イエスの癒やしや回復の御業がありました。そして、18節から21節では、古いイザヤ書の預言が引かれて、この神の約束の成就だと言われます。
「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」
 主が、しもべを送ってくださって、その上に聖霊を授けて、異邦人にも、傷んだ茎の細い葦や、燻って消えそうな灯のような弱い者にも、勝利や希望を与えて、導いてくださる。そういう約束を神は昔から語っておられました。その始まりとして、イエスが来られました。集められていた群衆や障害者、社会の底辺に生きている人たちに近寄ってくださいました。彼らこそ、生まれが異邦人であれば、除外される。傷や弱さがあれば、それは本人か親か、誰かの罪のせいに違いない、と「赦されない罪を犯した者たち」とレッテルを貼られて、社会からはじき飛ばされていた人たちです。でも、神の約束はそれよりも深く、大きく、豊かでした。神は、ご自分のしもべとして御子イエスを遣わして、傷んだ人に、消え入りそうな人たちに寄り添ってくださいました。そこに神の聖霊も働いてくださって、癒やしや回復が始まっていたのです。それは異邦人さえ、イエスの名前に望みを持てる、という神の約束の始まりだったのです。
それにケチを付けていたのが、24節のパリサイ人たちです。
この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。
 彼らは、イエスの周りの、病人や異邦人や下層庶民が喜ぶ姿にケチを付けずにおれません[2]。イエスは26~30節でその言いがかりを喝破されます[3]。でも問題は、イエスの働きや聖霊の働きに逆らう事を口にしたかどうか、ではないのです。そもそもパリサイ人が握りしめている神の約束への抵抗、聖霊が心に働いても耳を貸したくない頑固さが警告されているのです。神の約束である癒やしや、広く罪人を招かれる赦しに対する反発、「あんな奴らまで癒やされたら、自分たちの立場がない」という自分本位の生き方、人の傷や弱さ、痛みや罪を、憐れみ、自分のことのように嘆くよりも、自分は奇麗でいたい、強くいたい、立派に見られたい。そういう本心。それ自体、差し出された赦しも和解も拒むことですから、赦されようがないのです。[4]
 今日は聖霊降臨主日。「五旬節」[5]のお祭りの時に、使徒二章に書かれるように、聖霊が弟子たちに降りました。元々「初穂の祭り」、初めての収穫のお祝いでした。この日から、聖霊が実り豊かな宣教を始めてくださいました。また五旬節は「十戒」が授けられた日です。聖霊は私たちの心を神の戒めによって新しくします[6]。ペンテコステから始まった聖霊の御業の末に、イスラエルから遠い世界である今ここにいて、福音を聴き、御言葉を教えられ、世界中の教会とともに主イエスを礼拝しています。イエスの十字架と復活に続いて、ペンテコステの日に弟子たちが新しくされて、神の物語が新たな1頁を迎えて、教会が広がっていったのです[7]。それは、弟子たちの働きである以上に、聖霊によって人に届けられた、神の御業なのです。
聖霊は、神に背いていた人の心に働いて、罪に気づかせ、悔い改める心を与えて、赦して受け入れて、同じように赦され、傷み、燻っている灯のような者たちと同じ神の民の一員として歩ませます。鳩の姿で現れた聖霊は、病気や障がいのある人も、異邦人、よそ者と見られた人にも、癒やしと希望を下さり、神の民としてくださる。コロナや差別や恐れで、どうすれば良いか分からない時、聖霊は私たちを強がりから自由にして、弱さや限界を受け入れ、ともに生きる心を下さいます。それがイエスが始めた「神の国」です。その、他者に対する赦しや恵みに言いがかりをつけたパリサイ人に、赦しを拒む「赦されない罪」が警告されたのです。[8]
 赦されない罪を犯したのではないかと思ったら、罪と気づかせてくださったのは聖霊であり、回復の始まりであることを思い出しましょう。「赦されない」と恐れたり自分を責めたりせず、赦しを祈り、和解を求め、癒やしを戴き、そして、隣人や自分にとっての異邦人にも、同じ憐れみが注がれていることを忘れない眼差しをいただきましょう。それが、聖霊のお働きです。私たちが信仰を持ち、礼拝に集まっていること。それは、ペンテコステの続きであり、やがてすべての人が主の大きな赦しに与るという望みへと至る保証なのです。
「主よ、あなたが私たちのために、御子イエスを送り、聖霊を遣わされた恵みに感謝します。信仰も悔い改めも、希望も愛も、私たちではなく聖霊が下さった賜物です。あなたの大きな御国のご計画、世界の回復の兆しです。どうぞその御業に今も与らせてください。コロナで心が弱くなる今こそ、聖霊により、言いがかりや冒涜から、あなたの愛と祈りへと導いてください」



脚注
[1] ここから、教会の歴史では、「七つの大罪(傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰)」という教理や、「意図的に犯した罪」、などという「赦されない罪」の定義が論じられてきました。しかし、それは、ここでの本旨とは違うと考えられます。
[2] パリサイ人たちは、ここでイエスに敵対する権力側、体制側、社会の主流で尊敬されていた立派な人として出て来ていると言って良いでしょう。イエスが悪霊を追い出しているのは、「悪霊のかしらの力だ」というのは「毒をもって毒を制す」というよりも底意地が悪い考えで、イエスを悪霊側、毒のある側に断定しているわけです。
[3] よく考えれば、サタンの国の内部分裂なら自滅しかありませんし、パリサイ人側の悪霊追い出しも「自作自演の狂言だ」と言えなくなります。パリサイ人の論理は、全く説得力を欠いています。
[4] パリサイ人はその恵みの国を憎みました。貧しい人、異邦人として退けていたい人が赦され、神の慈愛に与って癒やされ、喜んでいることを僻んで、妬んで、ケチを付け、泥を塗ろうとしました。それは、神のお働きを拒むことです。神の業、イエスの働きを「悪霊の力だ」なんだと難癖を付けるのは、聖霊の働きへの冒涜です。神の赦しを踏みにじることです。神の赦し以上の回復を拒むなら、赦しはもらいようがないのです。
[5] 主イエスが十字架にかかって、三日目によみがえったイースターから七週間後、五〇日目のこの日は、「五〇」を意味するペンテコステ(五旬節)と呼ばれます。ヘブル語では「シャブオート」です。
[6] エレミヤ書31章の預言が成就したのです。
[7] 神は、イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを贖い、その業を聖霊によって、私たちに確実に届けてくださり、罪の赦しも信仰も与えてくださいます。大きな救いの物語に入れて、神の戒めの支配を待ち望む心も下さって、今ここに生かしてくださっています。
[8] ニュー・シティ・カテキズム第三十七問「聖霊は私たちをどのように助けて下さるのですか? 答 聖霊は私たちに罪を認めさせ、私たちを慰め、導き、霊的な賜物を与え、神に従う思いを与えてくれます。そして私たちが祈れるようになり、神の御言葉を理解させてくれます。」
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2020/5/24 コロサイ1章21-22節「キリストの命だけが」ニュー・シティ・カテキズム24

2020-05-26 08:08:24 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/5/24 コロサイ1章21-22節「キリストの命だけが」ニュー・シティ・カテキズム24

 イエス・キリストというと、皆さんはどんなイメージが思い浮かぶでしょうか。よく絵に描かれているような、白い服を着て、長髪でヒゲを生やしている? 優しい顔で微笑んでいる? それと、十字架にかかった姿。その三つが多いかも知れません。
 特に、十字架での死は、教会のシンボルにもなっています。十字架は、イエスの死が十字架刑での磔だったことに基づいています。それは、イエスが立派な人だったのに、最後は逆恨みをされて、十字架に殺された、という悲劇ではありません。イエスは十字架で死ぬことによって、私たちに命を与えてくださったのです。死ななくて済んだはずなのに、ではなくて、イエスの死こそが、しなければならないことでした。そのことを今日は改めてお話ししましょう。
 「ニュー・シティ・カテキズム」では、イエス・キリストが私たちの贖い主であることをしばらくお話ししています。キリストは、ただの立派な人、聖人や宗教家ではなく、私たちを、神のものとして回復して下さるお方です。イエス・キリストは、私たちに、神の子どもという新しい、でも本来の生き方をくださるのです。
第二十四問 なぜ贖い主であるキリストが死ななければならないのですか?
答 死が罪の罰であるがゆえに、キリストは私たちを罪の力と刑罰から解放して神に立ち返らせるために、私たちの代わりにすすんで死んでくださいました。キリストの代理的な贖いの死によって、彼だけが私たちを地獄から贖い出し、罪の赦し、義、そして永遠の命を与えてくれます。

 私たちが神を退けたことは、死に値します。どんな罪も、相手の命を踏みにじることですから、それは死に値します。私たちは自分の罪を軽く考えて、なんとか言い逃れようとしますが、神を恐れず、愛さなかった事、神が与えてくださった人間関係を歪めることは、途方もなく由々しいことです。私たちは、「神が大目に見てくれればいいのに」とか「赦してくれたっていいじゃないか」などとは言えないのです。罪の罰は、死です。しかし、神は私たちを死刑にして、殺して罰することで、罪を解決しようとはしませんでした。ここが、人間の法律と神様の正義の違うところです。
 人間の法律、特に刑法では犯罪をした人を罰します。罰金を取ったり、刑務所に適当な期間留置したり、極刑と言えば死刑にします。それは、本人に罰を与えることで解決するやり方です。しかし、神はそういう解決ではよしとしませんでした。加害者が罰を受ける。それで終わりでは、神が願う正義とは到底なりません。実際、私たちだって満足できません。誰かあなたが信頼していた人がいたとしましょう。けれどもその人が、あなたから一万円を盗んだとします。そうしたら、警察が犯人を捕まえて、犯人のお金から一万円を取り戻したら、あなたの心は癒やされるでしょうか。一万円に罰金を加えて、二万か十万か百万円にしたら、あなたの心は癒やされるでしょうか。その人を刑務所にしばらく入れたらどうでしょう? その人を殺してしまったら? いいえ、どんなに罰しても、大事な人から裏切られたという傷、罪が心に与えたダメージが癒やされることはありません。むしろ、罰が重すぎれば、その分、私たちの心は恐怖や不安で病むことになってしまいます。罰だけでは、罪の償いは出来ないのです。

 神は、人の罪を罰する代わりに、神の子イエスを遣わしてくださいました。神の子イエスが、私たちの身代わりに死んでくださる。そうして、イエスが私たちに命を与えてくださることによって、神に対して死んでいた私たちの心に、命が吹き込まれて、罪の力と刑罰から解放される。そうして、私たちが心から、神を恐れ、愛するようになる。ただ、罪の罰を恐れたり、なんとか罰を軽くしようとか考えるのではなく、心から、神を恐れて、自分の罪が悪かった、本当に申し訳なかった、そう思うようになる。

 そのキリストの命が注がれる時に、私たちはお互いにも、関係の回復が出来ます。あなたから一万円を取った人があなたに、お詫びの手紙を書いてくるかもしれません。「私は、あなたから大切なお金を盗ってしまいました。私は、一万円を盗っただけでなく、あなたの心に、取り返しのつかない傷をつけてしまいました。私はあなたのいのちを、大きく損なってしまったことが、今分かりました。それがどんなに深く、怖く、暗い影をあなたにつけてしまったか、私には想像がつかないことを、私はようやく気づいて、本当に申し訳なく思っています。どうか、赦してください。お金をお返しして、私に今できる精一杯のお詫びも送ります。これからも、あなたの悲しみに必要なことを出来るだけしたいと願っています。本当にごめんなさい」。
 こういうお手紙をもらっても、あなたはまだ悲しく、怖い思いがあるかもしれません。その人の言葉が信じられて、心が前よりも強くなって、安心して、世界を信頼できるようになるには、長い時間がかかるのです。でもそういう重さを深く弁えて、加害者が本当に申し訳なかったと心から変わる時、罪で傷ついた交わりが、本当の意味で修復されるのです。これが、神の義です。
21あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、22今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
 神と私たちの間に、キリストが来て、私たちの罪の罰を代わりに受けてくれました。神の側から、脅しや罰ではなく、和解が差し延べられました。その間にある罰を、キリストの死は見せてくれました。イエスが、私たちのために、命を捧げてくださった。この事だけが、私たちの罪に対して、神がなしてくださった、唯一の解決方法なのです。
 教会のシンボルである十字架は、かつて処刑の道具、残酷で見るも汚らわしいものでした。しかし、その最も忌まわしい死を、最も聖なる神の子イエスが引き受けてくださったことで、十字架はイエスの死、私たちのための身代わりの死を思い起こすしるしとなりました。神は私たちを罰せず、聖なる者、傷のない者、責められる所のない者として御前に立たせてくださいます。なぜなら、イエスの命が十字架に捧げられたからです。

「贖い主、わが救い主よ、私たちを見捨てず、十字架の死とそれ以上の苦しみに耐えてくださったその御業に感謝します。あなたの死によって、私たちはとこしえに生きるいのちが与えられました。どうかあなたの死を覚え、私たち自身の死に直面する時、勇気と信仰と希望を持つことが出来ますように。アーメン」

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2020/5/24 マタイ伝7章6~11節「マルガリータ」

2020-05-23 09:38:48 | マタイの福音書講解
2020/5/24 マタイ伝7章6~11節「マルガリータ」
 「マルガリータ」と聞いて思い浮かべたのは、カクテルか、ピザのマルゲリータか、マーガレット(ヒナギク)の花や女性でしょうか。美味しいもの、美しい花や女性の名前です。
6聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。
 今日の6節「真珠」がマルガリテースというギリシャ語です[1]。イエスは「聖なるもの」を、「真珠」と言い換えました。「マルゲリータを豚に与えるな」だと、もっと印象が変わります。
 このマタイ5~7章の「山上の説教」は、神の国がどのようなものかをずっと語ります。私たちの心に、天の神を父とする生き方を力強く描き出します。地の塩、世の光として生きる。敵を愛し、迫害する者のために祈る。見せかけを作らず、隠れた所で見ておられる父の前に正直に生きる。思い煩わず、人も自分も裁かない。そういう生き方が「神の国」です。イエスが示している生き方は、決して簡単でも優しくもありません。でもそれは美しい生き方です。真珠のように尊く、輝いている生き方です。それを求めなさい。神の国の民として生きる事を、諦めたり、投げ出したりするな。それが「聖なるものを犬に与えてはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません」と聞こえるのです。あなたがたは、真珠を持っている者だ。もう一歩踏み込むと、私たち自身が「聖なる者」「真珠」と言われているとも言えます。

 話をマルガリータに戻します。カクテルもピザも、真珠みたいだ、とかヒナギクみたいだ、と名づけられたのではなく、もうワンクッションありました。それはマルゲリータという名前の女性なのだそうです。特に、ピザのマルゲリータはイタリアの王妃マルゲリータ[2]に献げられてこの名前で知られるようになった。とても素晴らしい活躍をした王妃で、国民にも人気の高かった王妃だそうです。真珠と呼ばれる女性がいて、その名にちなんだ料理や飲み物が世界に広がったのです。王妃以外にも、子どもに宝石の名前やキラキラネームをつけるのが親です。
王妃マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ

 王妃と言えば、先に6章29節30節でイエスは
「栄華を極めたソロモン」
真珠や金や宝物を身につけたソロモンも、野の花の一つほどには着飾れなかった[3]。神はその野の草以上に、あなたがたに良くしてくださらないことがあろうか、と言われました。また、26節では、天の父にとってあなたがたには大きな価値があるとありました。神は私たちの
「天の父」
となることを厭わず、私たちに養いも装いも惜しみなく喜んで与えてくださいます。その惜しみない恵みに気づいて、私たちも人を尊く見る。祝福する。自分をも他者をも大切にし、神の恵みに支配された生き方を求める。その言葉を聞きながら、「どうせ私なんか、そんな生き方は無理」と投げ出してしまうことを
「聖なるものを犬に与えてはいけません。真珠を豚の前に投げてはいけません」
と言われている。聖なる神は、私たちの父となり、私たちを子どもとして受け入れ、養い、神の国の民として成長させてくださいます。聖なる心を求めるべき価値がある存在、真珠や宝石を持つわが子。先週、徳島の新参者の教職者会で
という賛美を歌いました。私たちは、花を秘めた種や球根。白鳥になる前の「みにくいアヒルの子」です。だから、父なる神の憐れみが私たちの生き方となるように、神の恵みに生きることを、投げ出さず求めなさい。それが6節で、驚くほどの表現で私たちに突きつけられるのです。
 次の7節はもっと明白です。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
 11節では
「良いものを求める」
と言われます。6章31~33節では、何を食べよう、何を飲もう、何を着ようという求めは、神の父としての配慮を知らない異邦人のようだ。あなたがたは神の国と神の義を求めよ、と言われていました。神の国と神の義に優る「良いもの」はありません。それを求めよ、なのです[4]。
 私たちは日本にいながら神の国の民です。神の聖なる恵みに満ちた御支配を信じ、恵みを受けた私たちも人を大切にし、さばかず、祝福するように招かれています。神は私たちを大いに価値がある、わが子と見てくださっています。王や王妃に等しいと、宝や良いものや、美味しいものや笑いを惜しまずに下さっています。その、神の子どもとしての相応しい生き方、「良いもの」、神の国とその義を求めなさい。神が与えたいと願っている、愛する心、赦す心を求めなさい、なのです。だから、次の
12節「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
と続くのです。
 こういう生き方を求める。神がそのような心を願えと仰り、求めるなら必ず下さると信じて、求めているでしょうか。この良い心を求めましょう。そうしたら、神は時間をかけてでも与えてくださらないことがあるでしょうか。それほどの期待を持って生きて良い。それに気づかされていく時、他にも、願いや求めを何でも躊躇(ためら)わずに祈る大胆さも持てるようになります。その願いそのものが叶わないとしても、もっと大きな私たちは神に愛されている者として生きていくことが出来ます。聖なるもの、真珠、それは私たちのことです。神の宝とされた者です。その価値に相応しい心、自分をも人をも貶めずに愛する生き方を祈り求めましょう。[5]

「私たちを宝石のように愛したもう天の父よ。あなたが私たちを愛し、良いものをくださることを感謝します。真珠や王妃のように私たちを尊び、愛によって飾ろうと、願ってくださる。その恐れ多い言葉に目覚めて、求めさせてください。あなたの願いは、人の思いを超えて大きいのです。栄光の御国への旅路である今ここで、私たちを恵みの器としてください。赦しと愛を信じさせてください。和解と希望を取り次がせてください。感謝と祝福を語らせてください」



脚注:

[1] 7章6節「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」ここから「豚に真珠」というすっかり日本語になっている諺が生まれました。
[2] マルゲリータ・マリア・テレーザ・ジョヴァンナ王妃(1851-1926)。https://locotabi.jp/kaigaizine/flower-italy

[3] 真珠は旧約の時代にすでに多用されていますから、ソロモンも飾りとしていたことは十分想像できます。ヨブ記28:18「珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる。」、箴言3:15「知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。」、8:11「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。」、20:15「金があり、多くの真珠があっても、知識の唇こそ宝の器。」、31:10「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」

[4] これも日本語に定着して、「何でも諦めずに求め続ける」ことを説く時に使われます。しかし、ここでの文脈で言われているのは、神の国と神の義を求める、という一貫したテーマです。

[5] 出エジプト19:5「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」、申命記7:6「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」、14:2「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」、26:18「今日、主は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主の宝の民となること、」、詩篇135:4「主は ヤコブをご自分のために選び イスラエルを ご自分の宝として選ばれた。」、マラキ書3:17「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」、Ⅱコリント4:7「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」、
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2020/5/17 マタイ伝7章1~5節「はっきり見えるように」

2020-05-16 11:44:32 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/5/17 マタイ伝7章1~5節「はっきり見えるように」

 マタイ5~7章の「山上の説教」をゆっくり見ています。ここにはイエスの福音のエッセンスが詰まっています。「神の国」とはどんなものか、イエスは私たちをどんな生き方に招いているのか。神が私たちの天の父である生き方。神の国と神の義を求める生活。それがどんなものか、豊かに描かれています。その一つが、
「さばいてはいけません。」
です。
 裁判や判断は必要ですが、誰もが裁判官になったら大変です[1]。でもそれはされがちです。「あの人はダメだ。頭がおかしい。何かあったんだよ。報われるようなことをしたのだ。親の育て方が間違った。性格が歪んでいる」。そんな口さがない言葉が溢れています。イエスは仰る。
「さばいてはいけません」。
 それは
「神の国と神の義を求めなさい」
の大切な具体化です。
 「神の国」は神の恵みが治める国です。
「2あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」。
 あなたの裁きが自分に当てはめられることを想像させます。自分が当てはめられて嬉しい物差しは何だろうか、と想像させる。噂話でも批評でも、それが自分にそのまま帰って来たら…と思うと、ハッとさせられますね[2]。
 更に言います。
「3あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」。
 人の目に塵(埃、木屑)が見えて「取り除かせて下さい」と丁寧に申し出て親切なようでも、あなたの目には梁がある。針ではなく梁[3]。木屑どころか丸太がある。目に丸太が入るわけがありません。でもイエスはそんな大袈裟な言い方で、私たちに裁きが無理である事を揶揄されます。目に丸太が入っていたら何も見えません。それに気づいていないのだとしたらよっぽど鈍感で、感覚が麻痺しているでしょう。もう一つ、それを振り回せば、危ない。人を助ける所か、傷つけたり殺したりしかねません。ですから、
5偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。[4]
 今回、「ああこう言われていたのだ」とハッとしました。はっきり見えるようになって[5]、人の目から塵を取り除くことも出来るようになる[6]。「裁いてはなりません。自分が裁かれないため」と、人の欠点や間違いが見えるけれど、それを言うと自分も裁かれるのは嫌だから、黙っておく。人の事を言わない。でも自分の目には梁が入ったまま。「私は目に丸太は入っていて人の事は言えない私です」と萎縮して諦めてしまう人に、イエスははっきり見えてほしい天の父である神を見て人の小さな裁きから解放してあげよう、と招いておられるのです。
 1節の
「さばいてはいけません」
は対象がありません。「人を」とは言いません。自分をも裁かない、という事も大事でしょう。また1節は
「自分がさばかれないために裁く」
ことを禁じているという文にも読めます。自分が裁かれたくないから先手、を打って人を裁く。或いは、人から裁かれたくなくて、先に自分で自分を裁く。そして、自分が裁かれたくないから、人を裁くこともしない。どれも、裁かれることの恐れが動機です。評価か罰か、ジャッジが土台になる生き方です。そういう考え方そのものが「目の中の梁(丸太)」ではないでしょうか。
 イエスがずっと語るのは、あなたがたの天の父である神です。断罪者ではなく、贖い主である父です。悪い者にも太陽を、不正な者にも雨を降らせ、明日は地に落ちる鳥も養い、明日には火で焼かれる花をも最高に装いたもう神を指し示して、その神の子どもとして生かされているのです。私たちを養い、愛して、恵みの義の道に招かれる神。この神に、背を向けた世界で、私たちはいつのまにか目に丸太か覆いか色眼鏡かで曇らされて、神の恵みが見えなくなり、私たちはいつも人を上辺でさばいたり、レッテル貼りをしたり、噂話や憶測や決めつけをしています。その見えない目のまま、神も私を裁いているかのように思ってしまう。そういう私たちの「さばき」を土台とした見方を、「さばき」から自由にして、天にいます父を「はっきり見える」。それがイエスの願いです[7]。
 そして、神の恵みが見えるようになって、その光の中ですべてを見るようになる時に、人の目から塵を取り除くことも始まるのです。[8]
 こう仰るイエスご自身、笑って
「さばくのはやめなさい」
と仰ったように思います。
「あなたの目には梁がある」
なんて譬え、生真面目な人には思い浮かびません。聞いていた人たちも、大袈裟すぎて、笑って良いのか悪いのか、分からなかったかもしれません[9]。そして、この後イエスは、罪人と見なされる取税人や売春婦たちとも食事をし、分け隔てなさいませんでした。周囲の人は「どうしてあんな奴らと一緒にいるのか」と裁きましたが、イエスは彼らを愛され、喜ばれました。
 教会は、さばかれる必要のない人たちの集まりではありません[10]。
 裁かれたら、居ることの出来ない人たちが、イエスの恵みによって、神の子どもとされて集められているのが教会です
 そこで、実際に問題になる目の塵を、そのままにはせず、丁寧に、神の恵みの光の中で取ることもして、そしてともに父を仰ぐ集まりです[11]。
 私たち全員がその一人一人です。

「天の父よ。あなたの力強い恵みが世界を生かし、傷を癒やし、罪に赦しを、和解や回復をもたらしています。その御業を見えなくしている私たちの目の丸太を取り除いてください。あなたの福音の約束がはっきり見えるようになって、殺伐とした裁きの言葉や思いを溶かしていただけますように。裁かれる恐れのない教会としてください。あなたの愛の光の中でだけ、罪も問題も取り扱われ、あなたの御心に適う、健やかな交わりが生まれると信じさせてください」
[1] マタイでは「さばく(クリノー)」は、5:40、19:28とここのみ。さばきは悪いことではない、神がなさるのだ。神だけがなしうる、デリケートで難しいものなのだ。いずれにせよ、私たちの土台は、裁きではなく恵み。神の裁きさえ、恵み故の裁き。詩篇では「裁きか救いか」ではなく、「裁きは救い」「義は喜び」なのだ。詩篇97:8「シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも 小躍りしました。 主よ あなたのさばきのゆえに。」、119:20「いつのときも あなたのさばきを慕い求めて 私のたましいは押しつぶされるほどです。」だからこそ、人は慎重にならなければならない。ともすると、神に代わって、出過ぎた「さばき」で壊してしまう。自分が裁かれるべきことを忘れて、人を論う。自分が裁かれたくなくて、人や自分をさばく。神が恵みの神、天の父となってくださったことが見えないまま、神から離れた世界の、「異邦人の」「偽善者」の歪んだ、表面的な、表層的なジャッジをしてしまう。
[2] 自分がさばく秤で、自分も裁かれる。これは、とても腑に落ちる基準。最後の審判で、万人が量られる裁きの基準も、ある人には及びもつかない高尚な基準、と言うよりも、自分が量ってきた秤で、自分が量られるのだとすれば、言い返すことが出来ない、正当な裁きでしょう。自分だけ特別扱いは出来ない。
[3] 「梁」(ドコス) 英語でログ。
[4] 「偽善者」6:2、5、16と繰り返されてきた注意が、ここでは直球で「あなた」と言われる。(二人称単数)
[5] 「はっきり見える」ディアブレポー ここと、マルコ8:25(8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。)、ルカ6:42(平行箇所)
[6] 「取り除く」エクバロー。7:22「悪霊を追い出し」他。イエスの働きの一つだが、自分の目が塞がったまま、他者の目からチリや悪霊を追い出す愚が指摘されている。
[7] はっきり見えて欲しいのは、何よりも、人の目のちりよりも、神の豊かな恵みだ。エペソ1:17~19「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(この「はっきり見えるフォーティゾー」は、マタイ6:5の「はっきり見える」とは違う言葉ですが)。神の恵みの世界だ。鳥にも花にも、この世界に明らかな恵みだ。それが見えていないことが、イエスは最も悲しいのだ。
[8] 「他人がどう感じているのか、何を必要としているのかを知ろうともせず、他人がどうなろうと気にしないというのは、ほかの人の存在を認めようとしないことであり、つまるところ、世界に自分以外誰ひとり存在しないのと同じだ。…わたしたちのなかには、無限の価値を持っている人に「おまえは役立たずだ」と言い、本当は賢い人に「おまえは馬鹿だ」と言い、実際には成功している人に「おまえは失敗している」と言う破壊的な人びとに囲まれている人がいる。けれども、このように他人を引きずり下ろす人と反対に位置するのは、お世辞を言ったりおだてたりする人ではない。寛容でありつつも言動への責任を求める人であり、あなたの本当の姿と言動を映す鏡になる、あなたと対等の人なのだ。/対等であるわたしたちは、お互いに誠実であり、批評や意見を取り交わし、意地悪や虚偽を許さない。そして、自分の意見に耳を傾け、敬意を払い、応対してくれるよう相手に求める。それは誰にも許されていることなのだ。わたしたちが自由であり、自分の価値を認めているのであれば。自分が抱えている欲求や恐怖や感情を他人も同じように持っていることを認識させてくれる公の対話には、民主主義がある。オキュパイ・ウォール・ストリート運動に参加していた高齢の女性が語った「私たちは、すべての人が尊重される社会のために闘っている」という言葉に、わたしはいつも立ち戻る。…」レベッカ・ソルニット『それを真の名前で呼ぶならば』(渡辺由佳里訳、岩波書店、2018年)16~17頁
[9] イエスは、イエスご自身がはっきり見える目を持っている。父の愛を、自然にも周りにも豊かに見て、喜んで、安心している。私たちの変化、将来も、悲観せず、今日を生きている。梁はその目にはなく、梁を交差させた十字架に、つけられることで私たちへの愛、罪とその赦しを見せてくださった。イエスが私たちの目から、塵も梁も取ってくださるのである。人を裁く秤からも、自分を裁く秤からも、裁かれることを恐れる不安からも、救い出してくださるのだ。
[10] ここで思い起こすのは、「世界で一番美しい詩」The Best Poem in the World です。この詩にも「さばいてはならない」という言葉が出て来ます。
[11] それはどうしてか。自分のことは棚に上げたり、裁きのための裁き、粗探し、断罪ではなく、父なる神の恵みに気づくからではないか。否定から入るのではなく、恵みを土台とするからこそ、正義は人を生かす義となり、さばきは人間関係を整理する裁きとなる。
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