2016/03/27 ヨハネ二〇章1-10節「復活しなければ」
イースターおめでとうございます。どうやら巷では、ハロウィーンに続いてイースターも日本の消費産業に吸収されつつあるようで、盛んにイースターが宣伝されるようになりました。「ハッピー・イースター」と言ってもあまり抵抗がなくなっていくのでしょうか。個人的には、キリストの誕生を祝うクリスマスはまだしも、その復活を祝うイースターは日本人には馴染まないと思い込んでいたのですが、あっさり広まりつつあるようです[1]。
ただ、イースターは何の日か、という説明に「キリストの復活のお祭りで、そのシンボルが卵形のチョコレート」と答えるのは無茶苦茶です。「キリストの復活のお祭り」だけでよいのです。キリスト教は、この復活を土台とします。聖書で、イエス・キリストの生涯を伝える「福音書」は四つありますが、そのどれもが最後の復活記事をゴールとして、注意深く書いているのです。復活こそが、キリスト教会の存在の根拠です。
とはいえ、今聞きましたヨハネの箇所では、復活されたイエス本人は登場しません。十字架から取り下ろされたイエスの所に女弟子が行ってみたら、墓の蓋をしてある大きな石が取り除けてあった。だから報告を聞いたペテロともう一人の弟子も、墓には布ぎれしかないのが分かった、というのです。この後14節でイエスが登場します。けれども最初からイエスが現れてくださってもよかったのにと思いたくなるのですが、そうはなさいませんでした。まずは、空のお墓を見せて、首をかしげる弟子たちを帰してから、その後、マリヤに会われ、他の弟子たちにも会う。そういうとてもまどろっこしい登場をなさったのですね。イエスの復活は、いきなり墓から「おめでとう!」と現れて、人々を圧倒する、まさにお祭りを始めるような出来事ではなかったのです。弟子たちが興奮して騒ぎ立てた出来事ではなかったのです。
8そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
とあります。実は同じ言い回しが二〇章の後半で出て来ます。イエスは、疑う弟子トマスに、
29…「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
と仰るのですね。今日の所でも、弟子たちが「見て、信じた」というのは、まだ聖書を理解していなかったからだ、とあります。見て信じる、ではなく、聖書の言葉を、真っ暗な現実の中でも信じるのが教会の信仰です。それでも、彼らはひと息に「見ないで信じる信仰」に達したのではなく、まずは見て、信じるあり方から進んだのですね。イエスはそれをよしとなさいました。キリスト者であっても、復活が本当かどうか分からない、神がいると断言する自信さえない方もいますので、もし皆さんの中にそんな疑問があったら、よく聞いて欲しいのです。
今日の6節7節に、イエスを包んでいた筈の亜麻布が置いてあり、頭の布も離れた所に巻かれてあったとあります[2]。墓泥棒が布をわざわざほどいていくはずはありません。イエス本人が仮死状態で、この時息を吹き返した、という説明には、この布を自分でほどくことは出来なかったでしょう[3]。二人の弟子が布を見たというのは、作り話にしてはお粗末すぎますし、本当であるなら、復活以外に説明しようがないのです。もし復活が弟子たちによる作り話だったら、もっと尤もらしい話を作ったでしょう。彼らはイエスの復活を捏(でっ)ち上げて、自分たちの活動を続けよう、などという野望などありませんでした。むしろ、19節で「ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた」、臆病な集団でした。その怯えた弟子たちが、この後、イエスの復活を大胆に証言し始めます。彼らが語ったのは、ただ「愛しなさい赦しなさい、希望を持ちなさい」という教えではありませんでした。イエスが死んでよみがえったことと、このイエスこそ神が使わした王である、というメッセージでした。そのために殺されることも恐れなかったのです。
イエスの復活は、確かに常識や科学では説明できない出来事です。しかし、復活が本当にあったのだと考えなければ、聖書の記録も、教会の発展も、説明が付かないのです。「あったかもしれないし、なかったかも知れない」ではないのです。聖書は、イエスが死人の中からよみがえらなければならないと言っており、パウロは「復活がなければ私たちの信仰は虚しい」と言い切ります[4]。この復活を信じた人たちは、ただの歴史的事実としてだけ信じたのではありません。よみがえられたキリストは、今も文字通り生きておられて、私たちを生かし、私たちにも豊かないのちを吹き込んでくださり、心を新しくしてくださる。そういう恵みに、実際に与ってきたのです。そうして、殉教も恐れず、沢山の犠牲も惜しまず、大胆に新しい歩みをした人たちがいました。あるいは、忍耐と謙遜をもって人に仕える歩みをした方たちがいました。そのような復活の力なくして、教会の歩みとその影響を受けた世界の歴史はないのです。
私も時々、色々な事が疑わしくなり、漠然と不安になる時があります。そういう時、この、「キリストの復活は間違いなく事実だ」という点は有り難い手がかりの一つです。自分の生活やこれから先、あらゆる事が不確かで、どうなるか分からないとしても、キリストが間違いなく十字架の死からよみがえられて、それ以来、世界を新しくしてこられた以上、今も大丈夫だ。そう思い出して、ホッと出来るのです。だから、復活が本当かどうか分からないままでの信仰生活ではなく、この事実と、これこそ私たちの中心だと知って欲しいのです。
復活の証拠は、それが十分あったから事実だったに違いない、といって終わるものではありません。見ないで信じる信仰へ、と進ませてくれます。キリストのお約束も聖書の言葉も、全部真実であったと信じることに繋がらなければ意味がありません。ここで墓に残されていた「亜麻布」「布きれ」が後にキリストの亡骸を包んでいた「聖骸布」として珍重され、やがては特別な奇蹟の力を秘めた「聖遺物」として崇められるようになりました。それは逆ですね。空っぽの墓や、そこに残されていた布は、キリストの復活を指し示しているのであって、そこに特別な力や御利益があるとありがたがる様なものではありません。イエスが私たちのために死んで、その墓も布も後に残して、よみがえってくださったことは、私たちがイエスを信じて、イエスのいのちを戴いて、今ここで生きるようになさるためでした[5]。それは、この世界の歴史に否定しよう無く証しされている事実です。聖書の言葉は、そのイエスの復活を力強く証ししています。それは、私たちが今ここで、死からよみがえられたイエスに愛されている者として生きるためです。いつどこにあっても、見える現実がどうあろうとも、です。
私たちはこのマリヤやペテロたちのようです。早合点し、焦り、疑い、嘆くのです。見えるものに振り回され、一喜一憂します。でも、主はそういう私たちのため、確かによみがえったのです。イースターの朝に起きた復活は、人が思い描くような派手で華々しい復活ではありませんでした。弟子たちが駆け回り首を捻り疑い、出直してしまう、そんな時間も主はよしとされたのです。しかし、そうして回り道をしながらでも、主は彼らとともにおられ、出会いを備えておられました。主は私たちにも最善の時に出会ってくださいます。生涯かけて、主を信じる幸いを、愛されている者として生きる喜びを、じっくりと教え導いてくださるのです。
「主は本当によみがえられて、今も私たちを治めておられます。そのことを信じることが出来ますように。それこそが聖書のメッセージであり、それが私自身のためであったと、信じることが出来ますように。私たちの生涯が、私たちの理解や不信仰を越えて、確かな主の導きの中にあり、私たちの体も苦しみも、淡々と主のいのちに溢れるものとなっていきますように」
[1] 欧米のイースターも、商業化して、キリスト教から離れて、ただの「春のお祭り」や年中行事となっていたのでしょう。
[2] これが、キレイに巻かれてたたんであった、なのか、頭を巻いていた布が中身だけスッポリ抜けたように巻かれたままになっていた、という意味なのか(新改訳はこちらの解釈の訳文になっています)、は不明です。
[3] そもそも、「仮死状態」はあり得ません。死を確認して、更に槍で心臓を突き刺していましたし(ヨハネ十九33、34)、十字架の極度の拷問で、体力は衰弱、手足の関節はバラバラに外れて、釘を打たれた跡は酷く裂けていました。十字架にかけられた人間が途中で下ろされて、生き延びたとしても、一生真っ直ぐにはあるけない、障害ある体となったのです。また、その体は、30kgの香料と一緒に亜麻布で巻かれていました。十字架で重篤な障害を負った身で、そこから脱出し、大きな石を動かして出て来ることは不可能です。まして、その後、栄光あるキリストとして弟子たちの前に現れるなど、現実にあり得ません。
[4] Ⅰコリント十五章全体。特に、12節から19節参照。「14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰は実質のないものになるのです。15それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。16もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」
[5] ヨハネ二〇31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」