2015/11/22 ルカ二三章44~49節「イエスは大声で叫んで」
礼拝前の時間、なんとなく緊張をして、体に力が入り、肩が凝る、という過ごし方をすることがないでしょうか。むしろ、心と体で神を礼拝するのですから、体をほぐす方がよい準備なのです。最近「呼吸の祈り」というのを教えられました。ゆっくりと呼吸しながら、短い祈りをするのです。息を吸う時、神の愛なる臨在とそれに伴うすべての真理を吸い込み、吐く時にはそれ以外のものをすべて吐き出すことをイメージしながら。不安な時、パニックしそうな時、深呼吸に合わせて祈るのです。たとえば、
「主は私の羊飼い…」
と(声に出してでも、心の中でも)大きく息を吸い込み、
「私には乏しいことがありません…」
と言いながら、ゆっくり息を吐く。「助けてください」「主よ」、御言葉でもオリジナルでもよいのです。そして、今日、46節の主の最期の言葉もよいでしょう。
「父よ、ゆだねます」
「わが霊を御手に」。[1]
この言葉の前、全地が暗くなり、三時間も太陽が光を失った状態が続きました。そして、エルサレムの神殿の幕が真っ二つに裂けました。これは、神殿で、神と人間との間を仕切っていた聖なるカーテンであって、そこを潜って入ることは、大祭司一人だけが、一年に一度の「贖いの日」にだけ許されていました。罪ある人間が、聖なる神に近づくことは出来ないのです。その幕が裂けたのです。全地が暗くなったことも、神の裁きや、世の終わりの主の日が来た象徴でした。主イエスの十字架は、太陽も全地も礼拝儀式をもひっくり返してしまいました[2]。しかし、その後、いよいよ何が起こるのか、と思うと、イエスは叫んで息を引き取るのです。
46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
最後に起きた暗やみや神殿の幕が裂けたことで、もっとご自分のために何かをなさることも出来たかも知れません。イエスを笑い、嘲る人々の間違いを認めさせるような、スゴいことを十字架のその場でなさることも出来たんじゃないでしょうか。あるいは、彼らをギョッとさせて反省を強いるような何かを仰ってもよかったんじゃないでしょうか。でもそうはされずに、ただ、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と仰って、息を引き取られたのです。けれども、
47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
のでした。天地を暗くし、神と人とを隔てる幕を裂く、人間ではないお方、ではなく、「この人は正しい方」と百人隊長が告白して、イエスを崇めたのではなく、神を崇めたのでした[3]。イエスは神の子でありながら、徹底的に人間となり、私たちと同じ人として生涯を貫かれ、死なれました。十字架の苦しみと嘲りの中、苦しむ人間であることを止めることも出来たのに、そうはされずに人間として十字架に留まり続け、最後まで人間として、十字架に息を引き取られました。百人隊長はそのイエスが、人間として全く正しい方だと告白しました。それは、確かに不十分なイエスの理解ではあるのですけれど、ここではそれで十分ですし、それ自体驚くべきことです。正しい人となられたイエスにこそ、イエスの素晴らしい御業があるのです。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます」
との最後の言葉は、詩篇三一篇5節の言葉です。ダビデが、敵たちの包囲で、窮地に陥り、どうしようもない状況で歌った詩篇です。
詩篇三一5私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。…
という言葉はその中に出て来ます。そこには、主の慈しみや守りへの告白もありますが、彼自身の苦しみ、恥、また恥を見たくない思い、早く助け出して欲しい焦り、いらだち、悲しみ、嘆き、自分の咎への罪責感、孤独があります。自分のことを
「こわれた器のようになりました」
とさえ言っています[4]。彼は主の慈しみを賛美しますが、そう信じ切れずに、
「私は主の目の前から断たれたのだ」
と口走ってしまったことも白状します。しかし、そんな自分を慈しみ、捕らえ、導いてくださる主だと告白するのです。こんな私の叫び求めをも、あなたは聞いてくださいました、と歌うのです[5]。イエスは十字架の上で、このダビデの言葉を最後に言われました[6]。これをイエスは穏やかに、安らかに仰ったのでしょうか。いいえ、
「大声で叫んで」
とあります[7]。これは、「大きな・声で・叫んだ」という三つの言葉からなる大変強い言い方で、ルカの福音書ではここでしか使われません。「大きく叫んだ」というもう少し押さえた強調は何度も使っていますが、いずれも、興奮や怒りや混乱など感情的にとても高まった、叫びなのです[8]。使徒の働きでもう一度だけ、同じ「大きな声で叫んだ」という言い方が出てきます。使徒16章28節、パウロがピリピの牢獄で、囚人が全員逃げ出したと勘違いして、剣で自害しようとした看守に、大声で叫んで、
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」
と言った、あの箇所です。本当に必死な、叫ばなければ聞こえないかもしれない、そういうアクションです。
イエスは祈りに対する注意として、異邦人のように言葉数が多ければ聞かれると、神をそのような遠い方だと考えてはならない、と言いました[9]。預言者エリヤは、異教の神バアルに雨乞いをする人々に皮肉を込めて、
「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。…もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう」
と嘲りました[10]。長々と、大声で叫ばなければ聞こえない神は、生ける本当の神ではありません。それなのに、イエスご自身がここで神に大声で叫ばれました。私たちが叫ばずにはおれない思いをイエスは知っておられます。苦しみや疑いや恐れの中で、叫ばずにはおれない私たちと同じ、人間として死なれました。人間には遠く及びもつかない、高尚で立派で安らかな死ではなく、死の孤独、恐れ、疑いを深く知り、叫ばれました。そして、そのイエスの叫びが、私たちにも希望を与えます。主は、私たちの叫びを聞いてくださる方です。この方の御手に私たちの霊を委ねることが出来るのです。私たちが傷だらけで、恐れや悲しみや、罪や疑いだらけとしても、主は御手を差し伸べて、受け入れてくださる。そう確信して、最後の息を吐き出せるのです。
「息」は「霊」と同じプニューマから来た語で、息を引き取るより、吐き出す動作です。最後の息(霊)をはき出す、それを天の父が御手で受け止めてくださるのです。でもそれは、最期だけでなく、生涯の呼吸のことです。ダビデが歌ったのも、臨終ではなく、苦難の生涯のただ中での「ゆだねます」でした。同じ詩篇でダビデは、
詩篇三一15「私の時は、御手の中にあります」
とも言いました。私の時、人生の全て、毎日の一呼吸一呼吸が、主の御手の中にある。主は、この、迷い、悩む小さな私をも、父がわが子を御手の中で慈しむように、導き守っておられる。そして、地上の生涯を終える最期の息をも受け入れて、私たちの霊を引き上げてくださる。その時に、私がそれを確信できるか、叫ぶように必死に言うか、あるいはもっと弱くなって、「死にたくない」と慌てるか、何も考えられずに滅茶苦茶なことを口走ってしまうか、どうあろうとも主の御手は私たちをシッカリと捉え、私たちは主と共にパラダイスにいると約束されています。主の死は、私たちと掛け離れた死ではなく、私たちにこの希望を与える死でした。呼吸するたび、私たちを包む大きな主の御手を思いながら、今週も歩んで参りましょう。
「主よ。あなた様は、私たちに御子イエス・キリストを遣わし、私たちとご自身とを繋ぐ架け橋とされ、ここに隔ての幕は破られました。私たちはあなた様の御手の中で息をし、今も死の時にも、委ねるお方を知らされています。頼るべきお方を、本当に頼もしく、頼るに値するお方を知らされている幸いを感謝します。御手の中で、感謝し御名を崇めつつ歩ませてください」
[1] ブログ「ミルトスの木かげで」『Breathing Prayer』より。他に、紹介されている例として、以下のようなものがありました。「わたしが与える水を飲む者は…渇くことがありません…(ヨハネ4:14)」「Help me(助けてください)…Lord(主よ)…」「Holy Spirit... Renew me...」「I consent... to You...」「あなたこそ… わが主です… 」「しもべは聴きます… お語りください…」「Abba... I belong to You...」「Lord Jesus Christ... Have mercy on me...」「Who am I...? I am Yours...」などなど。
[2] その間、イエスが何をされたか、何を話されたか、何も書かれていません。人間の言葉には到底表すことが出来ないような、イエスの贖いの御業がなされていたのでしょう。三時間もの暗やみの中で、イエスは、神の怒りを引き受けて、最後の命を燃やし尽くされました。私たちには想像できない程の、恐ろしく、悲しく、耐えがたい苦しみを、イエスはここで味わわれたのです。その事もまた、ここで忘れずに想い、噛みしめるべきことです。この事は、今年の受難週の説教で触れました。ルカの福音書二三章44~53節「わが霊を御手に」 受難日礼拝説教
[3] 「神をあがめ」 ルカにおいて、イエスの奇蹟に対する人々の反応を示す用語(五25、26、七16、十三13、十七15、十八43)。
[4] 詩篇三一12。
[5] 詩篇三一22「私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。」
[6] ただ「父よ」と付け加えて、もっと深い信頼を表しています。これは、イエスが繰り返していた「アバ」(お父ちゃん)という非常に近しい神への呼びかけです。
[7] この言葉をどのようにイエスが言われたと皆さんは考えますか。穏やかな、揺るぎない信仰の言葉だと思うでしょうか。やはりイエスが仰っただけに、特別立派な信仰の言葉、なのでしょうか。「自分は最期にこんな立派なことを言えるほど信仰はないなぁ」と考えないでほしいのです。
[8] 四33、八28、十七15、十九37、二三23、使徒七57、60、八7、十四10、十六28、十九34、二六24。
[9] マタイ六7「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
[10] Ⅰ列王記十八27「真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」28「彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。」