聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二三章44~49節「イエスは大声で叫んで」

2015-11-22 14:23:32 | ルカ

2015/11/22 ルカ二三章44~49節「イエスは大声で叫んで」

 

 礼拝前の時間、なんとなく緊張をして、体に力が入り、肩が凝る、という過ごし方をすることがないでしょうか。むしろ、心と体で神を礼拝するのですから、体をほぐす方がよい準備なのです。最近「呼吸の祈り」というのを教えられました。ゆっくりと呼吸しながら、短い祈りをするのです。息を吸う時、神の愛なる臨在とそれに伴うすべての真理を吸い込み、吐く時にはそれ以外のものをすべて吐き出すことをイメージしながら。不安な時、パニックしそうな時、深呼吸に合わせて祈るのです。たとえば、

「主は私の羊飼い…」

と(声に出してでも、心の中でも)大きく息を吸い込み、

「私には乏しいことがありません…」

と言いながら、ゆっくり息を吐く。「助けてください」「主よ」、御言葉でもオリジナルでもよいのです。そして、今日、46節の主の最期の言葉もよいでしょう。

「父よ、ゆだねます」

「わが霊を御手に」[1]

 この言葉の前、全地が暗くなり、三時間も太陽が光を失った状態が続きました。そして、エルサレムの神殿の幕が真っ二つに裂けました。これは、神殿で、神と人間との間を仕切っていた聖なるカーテンであって、そこを潜って入ることは、大祭司一人だけが、一年に一度の「贖いの日」にだけ許されていました。罪ある人間が、聖なる神に近づくことは出来ないのです。その幕が裂けたのです。全地が暗くなったことも、神の裁きや、世の終わりの主の日が来た象徴でした。主イエスの十字架は、太陽も全地も礼拝儀式をもひっくり返してしまいました[2]。しかし、その後、いよいよ何が起こるのか、と思うと、イエスは叫んで息を引き取るのです。

46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 最後に起きた暗やみや神殿の幕が裂けたことで、もっとご自分のために何かをなさることも出来たかも知れません。イエスを笑い、嘲る人々の間違いを認めさせるような、スゴいことを十字架のその場でなさることも出来たんじゃないでしょうか。あるいは、彼らをギョッとさせて反省を強いるような何かを仰ってもよかったんじゃないでしょうか。でもそうはされずに、ただ、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と仰って、息を引き取られたのです。けれども、

47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

のでした。天地を暗くし、神と人とを隔てる幕を裂く、人間ではないお方、ではなく、「この人は正しい方」と百人隊長が告白して、イエスを崇めたのではなく、神を崇めたのでした[3]。イエスは神の子でありながら、徹底的に人間となり、私たちと同じ人として生涯を貫かれ、死なれました。十字架の苦しみと嘲りの中、苦しむ人間であることを止めることも出来たのに、そうはされずに人間として十字架に留まり続け、最後まで人間として、十字架に息を引き取られました。百人隊長はそのイエスが、人間として全く正しい方だと告白しました。それは、確かに不十分なイエスの理解ではあるのですけれど、ここではそれで十分ですし、それ自体驚くべきことです。正しい人となられたイエスにこそ、イエスの素晴らしい御業があるのです。

 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」

との最後の言葉は、詩篇三一篇5節の言葉です。ダビデが、敵たちの包囲で、窮地に陥り、どうしようもない状況で歌った詩篇です。

詩篇三一5私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。…

という言葉はその中に出て来ます。そこには、主の慈しみや守りへの告白もありますが、彼自身の苦しみ、恥、また恥を見たくない思い、早く助け出して欲しい焦り、いらだち、悲しみ、嘆き、自分の咎への罪責感、孤独があります。自分のことを

「こわれた器のようになりました」

とさえ言っています[4]。彼は主の慈しみを賛美しますが、そう信じ切れずに、

「私は主の目の前から断たれたのだ」

と口走ってしまったことも白状します。しかし、そんな自分を慈しみ、捕らえ、導いてくださる主だと告白するのです。こんな私の叫び求めをも、あなたは聞いてくださいました、と歌うのです[5]。イエスは十字架の上で、このダビデの言葉を最後に言われました[6]。これをイエスは穏やかに、安らかに仰ったのでしょうか。いいえ、

「大声で叫んで」

とあります[7]。これは、「大きな・声で・叫んだ」という三つの言葉からなる大変強い言い方で、ルカの福音書ではここでしか使われません。「大きく叫んだ」というもう少し押さえた強調は何度も使っていますが、いずれも、興奮や怒りや混乱など感情的にとても高まった、叫びなのです[8]。使徒の働きでもう一度だけ、同じ「大きな声で叫んだ」という言い方が出てきます。使徒16章28節、パウロがピリピの牢獄で、囚人が全員逃げ出したと勘違いして、剣で自害しようとした看守に、大声で叫んで、

「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」

と言った、あの箇所です。本当に必死な、叫ばなければ聞こえないかもしれない、そういうアクションです。

 イエスは祈りに対する注意として、異邦人のように言葉数が多ければ聞かれると、神をそのような遠い方だと考えてはならない、と言いました[9]。預言者エリヤは、異教の神バアルに雨乞いをする人々に皮肉を込めて、

「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。…もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう」

と嘲りました[10]。長々と、大声で叫ばなければ聞こえない神は、生ける本当の神ではありません。それなのに、イエスご自身がここで神に大声で叫ばれました。私たちが叫ばずにはおれない思いをイエスは知っておられます。苦しみや疑いや恐れの中で、叫ばずにはおれない私たちと同じ、人間として死なれました。人間には遠く及びもつかない、高尚で立派で安らかな死ではなく、死の孤独、恐れ、疑いを深く知り、叫ばれました。そして、そのイエスの叫びが、私たちにも希望を与えます。主は、私たちの叫びを聞いてくださる方です。この方の御手に私たちの霊を委ねることが出来るのです。私たちが傷だらけで、恐れや悲しみや、罪や疑いだらけとしても、主は御手を差し伸べて、受け入れてくださる。そう確信して、最後の息を吐き出せるのです。

 「息」は「霊」と同じプニューマから来た語で、息を引き取るより、吐き出す動作です。最後の息(霊)をはき出す、それを天の父が御手で受け止めてくださるのです。でもそれは、最期だけでなく、生涯の呼吸のことです。ダビデが歌ったのも、臨終ではなく、苦難の生涯のただ中での「ゆだねます」でした。同じ詩篇でダビデは、

詩篇三一15「私の時は、御手の中にあります」

とも言いました。私の時、人生の全て、毎日の一呼吸一呼吸が、主の御手の中にある。主は、この、迷い、悩む小さな私をも、父がわが子を御手の中で慈しむように、導き守っておられる。そして、地上の生涯を終える最期の息をも受け入れて、私たちの霊を引き上げてくださる。その時に、私がそれを確信できるか、叫ぶように必死に言うか、あるいはもっと弱くなって、「死にたくない」と慌てるか、何も考えられずに滅茶苦茶なことを口走ってしまうか、どうあろうとも主の御手は私たちをシッカリと捉え、私たちは主と共にパラダイスにいると約束されています。主の死は、私たちと掛け離れた死ではなく、私たちにこの希望を与える死でした。呼吸するたび、私たちを包む大きな主の御手を思いながら、今週も歩んで参りましょう。

 

「主よ。あなた様は、私たちに御子イエス・キリストを遣わし、私たちとご自身とを繋ぐ架け橋とされ、ここに隔ての幕は破られました。私たちはあなた様の御手の中で息をし、今も死の時にも、委ねるお方を知らされています。頼るべきお方を、本当に頼もしく、頼るに値するお方を知らされている幸いを感謝します。御手の中で、感謝し御名を崇めつつ歩ませてください」

 

 



[1] ブログ「ミルトスの木かげで」『Breathing Prayer』より。他に、紹介されている例として、以下のようなものがありました。「わたしが与える水を飲む者は…渇くことがありません…(ヨハネ4:14)」「Help me(助けてください)…Lord(主よ)…」「Holy Spirit... Renew me...」「I consent... to You...」「あなたこそ… わが主です… 」「しもべは聴きます… お語りください…」「Abba... I belong to You...」「Lord Jesus Christ... Have mercy on me...」「Who am I...?  I am Yours...」などなど。

[2] その間、イエスが何をされたか、何を話されたか、何も書かれていません。人間の言葉には到底表すことが出来ないような、イエスの贖いの御業がなされていたのでしょう。三時間もの暗やみの中で、イエスは、神の怒りを引き受けて、最後の命を燃やし尽くされました。私たちには想像できない程の、恐ろしく、悲しく、耐えがたい苦しみを、イエスはここで味わわれたのです。その事もまた、ここで忘れずに想い、噛みしめるべきことです。この事は、今年の受難週の説教で触れました。ルカの福音書二三章4453節「わが霊を御手に」 受難日礼拝説教

[3] 「神をあがめ」 ルカにおいて、イエスの奇蹟に対する人々の反応を示す用語(五25、26、七16、十三13、十七15、十八43)。

[4] 詩篇三一12。

[5] 詩篇三一22「私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。」

[6] ただ「父よ」と付け加えて、もっと深い信頼を表しています。これは、イエスが繰り返していた「アバ」(お父ちゃん)という非常に近しい神への呼びかけです。

[7] この言葉をどのようにイエスが言われたと皆さんは考えますか。穏やかな、揺るぎない信仰の言葉だと思うでしょうか。やはりイエスが仰っただけに、特別立派な信仰の言葉、なのでしょうか。「自分は最期にこんな立派なことを言えるほど信仰はないなぁ」と考えないでほしいのです。

[8] 四33、八28、十七15、十九37、二三23、使徒七57、60、八7、十四10、十六28、十九34、二六24。

[9]  マタイ六7「また、祈るとき、異邦人のように同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

[10] Ⅰ列王記十八27「真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」28「彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。」

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問89「みことばの力ある働き」 使徒20章32節

2015-11-15 21:05:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/15 ウェストミンスター小教理問答89「みことばの力ある働き」

使徒20章32節

 

 世界には沢山の宗教があります。キリスト教にとっての聖書のような本(経典)を持たない宗教は、ただ儀式をしたり、拝んで、お祈りをしてもらったりすることがすべてだと考えるのでしょう。でも、教会ではそのようには考えません。神は、聖書を与えてくださいました。神の言葉としての、聖書を私たちに与えて、語り掛けてくださるお方です。今日読んだ、使徒の働き20章で、使徒パウロは、もうたぶん二度と会うことがないだろうと思ったエペソ教会の人たちに、最後に言っておきたい言葉を話しました。「パウロの遺言説教」とも言われますが、色々なことを思い出させて、これから予想される大変さについて語って、大事な戒めを与えた上で、こう言いました。

使徒の働き二〇32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 みことばは、あなたがたを育成し、御国を継がせることが出来る…。パウロはそう信じています。神のみことばに対する大きく、深い、全幅の信頼です。他にも、聖書には沢山のみことばへの信頼や賛美が溢れています。これはキリスト教の大きな特徴です。

問89 みことばは、どのようにして救いに有効とされるのですか。

答 神の霊が、みことばの朗読、特にみことばの説教を、罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせるのに、有効な手段とされます。

 前回、救いに有効な恵みの手段として、三つの方法があることをお話ししました。みことばと聖礼典と祈り、の三つです。今日は、その最初のみことばが、どのようにして救いに有効になるのですか、という問とその答です。

 最初に「神の霊が」とありますね。「御霊が、聖霊が」と言い換えてもいいでしょう。神の御霊が、聖書を有効な手段としてくださる、ということです。中には、聖書の言葉そのものに力や人格でもあるかのように考える人がいます。仏壇や神棚を熱心に拝んでいるお婆ちゃんに、牧師さんが、本当の神様は世界を造られた大いなる神様で、その神の言葉である聖書がどれほど素晴らしく、大切な神の言葉かを一生懸命話したのだそうです。お婆ちゃんが分かったと言ってくれたので、次の日もまたそのお婆ちゃんを訪ねたら、仏壇も神棚にあったものも片付けて、代わりに神棚に聖書を置いて拝んでいた、という話しを聞いたことがあります。聖書は拝む物ではありませんね。聖書に魔力があるわけではありません。神の霊が、聖書を通して、私たちに働かれるのです。また、聖書の言葉を呪文のように力があると考えるのも間違いですね。神の霊が、聖書を通して、私たちに教えて下さるのであって、聖書の言葉に何か特別な秘密の力はありません。

 では、神の霊は、みことばを通して、私たちにどのように恵みを与えてくださるのでしょうか。

ここには、「罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせる」とあります。聖書に耳を傾ける時、私たちは自分の罪を自覚して、回心させられます。そして、信仰を与えられます。聖さをいただき、慰めをいただき、救いの完成へと至ります。スゴいですね。

 ただ知識だけではないのです。あれをしなさい、これをしなさい、という事が聖書で教えられるのではありません。もっと深く私たちは自分自身を知らされ、罪に気づかされ、生き方を方向転換して、神が下さる聖さと慰めの中で新しくされながら、救いに至らせていただける。

聖書を知らなければ、私たちは自分の罪に気づくことが出来ず、汚れや絶望の中で、滅びに至る生き方しかしません。私たちを愛してくださる神を知らない。イエスの十字架の赦しも知らない。救いの恵みも知らない。競争や迷信や間違った幸せに走ってしまうでしょう。でも、聖書を通して、神が私たちに光を与えてくださいます。それで、私たちは、迷わなくてもいいことで苦しまないようになります。暗やみの中で手探りしながら、この先どうなるか分からないような生き方ではなくて、主がともにいてくださり、行く手には素晴らしいゴールが待っていることを心から信じる生き方へと変えられていきます。私たち自身が、成長し、整えられていくのです。また、聖書には沢山の人たちの物語が出て来ます。だれも、立派で失敗のなかった人はいません。みんな、私たちと同じような人間です。失敗したり、危険にあったり、喧嘩したり、罪を犯したり、戦争に遭ったり、その時代その時代を生きた人たちの物語です。そういう伝記を通しても、私たちが慰められたり、自分を重ねたり、教えられたりします。立派なことや、覚える規則が書いてあるだけの本ではありません。聖書はもっと私たちにとって、大きく、壮大で、なまなましい本です。そういう神の言葉を通して、私たちは、ちっぽけで息苦しい生き方から、もっと長く、確かな生き方へ変えられていくのです。

よく言われます。「聖書は神様からのラブレターです」。本当にその通りだ、と私も思います。勿論、みんなが書いたりもらったりするような「ラブレター」とは随分書き方が違いますね。でも、これを下さったのは、間違いなく、私たちを愛しておられる、天のお父様です。その愛は「もっと真面目になったら愛してやろう」とか「ちゃんと生きないと愛してやらないぞ」なんていう愛ではなくて、私たちを無条件に愛する愛です。そして、限りなく愛するからこそ、私たちが、詰まらないものや、嘘や悪い心に捕らえられて生きるのではなく、もっと伸び伸びと、もっと正直に、もっと愛し合って生きることを願われるのです。そのために、こんな分厚い聖書を通して、私たちに丁寧に語り掛けてくださっています。私たちが、聖書に聴くとき、聖霊がみことばを通して力強く働いてくださって、私たちの心を励まし、私たちを育てて下さるのです。好きな人や、お父さんやお母さん、兄弟や友達、大好きな誰かからラブレターをもらうと嬉しいですね。心が嬉しくなりますね。もし、あなたが手紙を書いた人だったら、書いた手紙を読んでほしいでしょう。手紙をあげて喜ばれるとこっちも嬉しくなります。「読まなきゃいけないなんて面倒臭いなぁ」と、渋々読まれたり、粗末に捨てられたりしたら悲しいですね。神が下さったラブレターの聖書も、心から感謝して読みましょう。そして、聖書を通して、神の霊は私たちを必ず慰め、救いに至らせて下さいます。

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ルカ二三章39~43節「逆転の恵み」

2015-11-15 21:02:58 | ルカ

2015/11/15 ルカ二三章39~43節「逆転の恵み」

 

 この秋は外部講師や、ブラジルやアフリカなどからも礼拝に加わる方がおられます。教会の交わりが世界大の広がりであって、実際に生きた交流があることを体験しています。嬉しく思います。お客様を迎える時、どんな迎え方をしたらよいだろうか、失礼のないように、相応しく精一杯のおもてなしをしたい、と日本人としては思いますね。どんな迎え方を喜んでくださるだろうか、ガッカリさせたら申し訳ないと考えます。もしイエスが明日ここに来られるとしたら、「誰の家でお迎えしようか、誰が挨拶するのが失礼にならないだろうか、一番信仰の篤い人、一番相応しい模範的なクリスチャンでないと悪い」と考えるでしょう。ところが、イエスはこの世界に来られた時、最も相応しくない人、最も神から遠い人の所に行かれた方でした。それが、福音書に繰り返されており、今日の箇所にも見られるイエスなのです。

 今日の箇所は、前回の33節辺りから一気に読んだ方が分かりやすいでしょう。十字架という惨たらしい処刑道具にイエスを釘付けした人々は、みんなでイエスを嘲りました。指導者たちも、兵士たちも、民衆も、イエスの無残な死を取り囲んで、嘲笑いました。そして、39節でイエスの隣で十字架に掛けられていた犯罪人も、イエスを冒涜して、

…「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

 上から下までみんなが十字架のイエスを呪った。ところが、そこでアッと驚く展開です。

40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 これは本当にまさかの出来事ですね。誰もが罵り、十字架のイエスを侮辱する中で、なんと隣にいた犯罪人のひとりが、イエスの無罪を心から確信して、告白します。マタイやマルコの福音書では、二人とも一緒になってののしっています[1]。最初は一緒にイエスを呪い、自分と俺たちを救えと毒づいたのです。初めから、健気(けなげ)にイエスをかばったり、自分の非を認める良心が残っていたりした人ではありません。むしろ、振り返れば、十字架のこの苦しい死が、自分のしたことの相応しい報いだと認めるような生き方をしてきたのです。罰当たりな生き方を突っ走って来て、なおイエスを罵って「自分と俺たちを救ってみやがれ」と唾をかけたのです。けれども、その彼が今、非を認めて、本当に謙った正直な懺悔(ざんげ)を口にしています。そして、想像すら出来ないほどの激痛と苦悶に身を捩(よじ)らせながら、イエスを罵る仲間を窘(たしな)めて、イエスの正しさを告白するのです[2]。自分の人生の間違いに気づき、もう取り返すには遅すぎました。でも後悔や絶望や投げやりではなく、最後の力を振り絞ってイエスの正しさを告白するのです。

42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 彼は、イエスが何一つ悪いことはしなかった無垢な方であるだけでなく、御国の位に就く方、即ち、王であると告白しています。37、38節で「ユダヤ人の王」とあったのは嫌みであり嘲りでしたが、この犯罪人はイエスが本当に王だと告白します。あなたは王です。今は十字架で苦しまれて、誰一人気づかないけれど、あなたこそは王であり、やがて御国の位に就くお方です、と信じたのです。しかし、彼は、その時には私もおそばに置いて下さいとは言いません。御国の端っこに入らせてください、とも言いません。ただ、思い出してください、と言うのです。思い出してどうするかは、イエスにお任せしています。思い出してくださるだけでよかった。御国に入れてほしいとか地獄で苦しみたくないとか、そんな事よりも、もうイエスが思い出してくだされば、それだけで本望だと死ねる。そういう思いだったのではないでしょうか。

 東日本大震災後しばらく経ってから、「忘れられるのが一番怖い」「覚えていてほしい」という言葉をよく聞きます。大変な中にあっても覚えていてくれる人がいれば頑張れる、というのが人間です。家族や生活を失った上、それを思い出す価値もないと忘れられるなら、耐えられないほど孤独になります。この犯罪人は、十字架刑を宣告されるような破壊的な生き方を突っ走って来ました。誰も自分を気にかける人などいないさと、最後は神にも人にも呪われて死ぬのでも構わないと生きてきたのでした。でもその最後に、イエスに出会いました。自分を覚えてくださる方がいると思えたのです。この方に思い出してもらえるなら、死んでも満足だ。そして、その願いを、きっとこの方は聞き入れて下さるに違いない、と思えたのです。

43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 彼をやがて思い出すだけではない。今日、わたしとともにパラダイスにいる。パラダイスとは聖書にも余り沢山は出て来ませんので詳しいことは言えません[3]。ただ、そこは祝福の場で、イエスがともにいてくださる場です。この犯罪人にイエスは、「あなたはわたしとともにいる」と言ってくださいました。思い出すどころか、パラダイスまで連れて行くと約束してくださる方との出会い。それは彼の破滅的な人生のすべてを逆転させてしまうような言葉でありました。

 イエスは、そういう王です。パラダイスも死も司り、犯罪人の心にも働いて、罪を認めさせ、その赦免を与えてくださる王であられます。いいえ、彼のために、こうして一人の人間となり、十字架の苦しみに最後まで留まられることも厭われなかった王です[4]。犯罪や虚しさや自滅的な生き方を這いつくばっている者に、いつの間にかそっといてくださるお方です。神を恐れるとか永遠のいのちという言葉が、素晴らしすぎて身近に思えないほど荒んだこの世界の、どん底に降りて来られる方です。そして、「ただ思い出してほしい」と願うのが精一杯という心の渇きに応えてくださるお方。そういうイエスこそ世界の王であり、いま共におられるお方です。

 この犯罪人だけではありません。ルカは、放蕩息子の喩えや取税人、ザアカイ、不品行な女など、沢山の「まさか」と思うような人の事を語ってきました。また続きの「使徒の働き」では、教会の迫害者のリーダーから初代教会の中心的な役割に転じた使徒パウロがいます。そういう「まさか」の大逆転の系譜に、この十字架で起きた犯罪人の回心が伝えられています。

 イエスは、神から最も遠い人の所に行って、その心を捕らえて、新しい希望や喜びを下さるお方です[5]。彼の名前は分かりません。大きな影響力を持つ人でもなく、ルカ以外は記さないほど彼の回心はある意味では小さなことでした。でもそういう小さな者に目を留めて、そのために命を投げ出してくださった主イエスなのです。そういうお方が世界を治めておられ、今も私たちの中に働いておられる。私たちの予想を大きく覆すような恵みでもって、この地に働いておられる。そして、その恵みを先に知らされた私たちの歩みを通しても、生きる希望を下さる主が証しされ、御業が進められる。そうした恵みの大逆転を信じるのが、私たちの信仰なのです。

 

「無力だと罵られる中、人の力ではなし得ない回心が起きました。人の力や知恵ではなく、ただあなた様の深く強い愛だけが世界に希望を与えます。今も、不正や貧困、刑務所や臨終の場で、あなたとの出会いに与るために、働いている教会の業を用いてください。私たちを忘れず、今日ともにいると約束したもう御声によって、私たちの家庭や地域をも新しくしてください」



[1] マルコ十五32「…また、イエスといっしょに十字架につけれらた者たちもイエスをののしった。」(マタイ二七44)

[2] 「二人の犯罪人」の対比が印象的ですが、ルカでは、二人を並べての対称という構造のエピソードが頻出します。「五タラントと五十タラント(七41)」「兄と弟(一五章)」「二人の主人(十六13)」「パリサイ人と取税人(十八10)」、マルタとマリヤ、シモンと不品行な女、などなど。

[3] パラダイスとは、ペルシャの「園」に遡り、旧約聖書のギリシャ語訳では、エデンの園と、終末的なエデンの園(エゼキエル二八13)などに使われます。しかし、その意味内容については明確ではなく、イメージとして用いられていますので、定義や説明はしにくい概念です。その根底には、キリスト教が、彼岸宗教ではなく、現世を神の創造の舞台とし、現世での生き方に重点を置く宗教であることがあります。

[4] これは、ルカが最初から「ヘロデがユダの王であった時」と書き出したように、地上の王と対比した、キリストの御国、支配とは何か、という視点が、この十字架において明らかになる、という意味があります。このイエスの「王国」こそ、ルカが宣べ伝えている神の国であり、使徒の働きが展開する、神の国の福音の根拠なのです。そして、私たちも、この十字架のキリストこそ私たちの王であると信じる。ヘロデや権力者、高い者たちが支配し、勝利する国ではなく、この低くなられたキリストこそ、王であり、永遠の勝利者であると信じるのです。そのことが力強く証しされたのが、復活でした。

[5] これは、「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(十九10)と明言されている通りです。

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問88「恵みをいただく三つの方法」

2015-11-12 19:11:30 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/08 ウェストミンスター小教理問答88「恵みをいただく三つの方法」

 

 今読みました、マタイ二八章の言葉は、マタイの福音書の最後の言葉です。十字架の死からよみがえられたキリストが、弟子たちに与えられた最後の大命令です。

マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々をイエスの弟子とするために、出て行きなさいと言われました。そして、バプテスマを授け、イエスが弟子たちに命じられたすべてのことを守るように教えなさい、と言われました。勿論、弟子たちも私たちもどこの誰でも、イエスの命令を守ることによって救われるわけではありませんし、誰一人として、自分の力や努力で、イエスの命令を守ることは出来ません。それでも、イエスが弟子たちに命じられたことを教会は教え、守らせるようにと強く言われています。これは、イエスが教会に与えてくださった、新しい生き方、イエスの弟子としての歩みです。

問88 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的手段は、何ですか。

答 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的な、通常の手段は、キリストの諸規定、特に、みことばと聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。

 キリストは、私たちが神の贖いによって、様々な益をいただきながら歩むために「外的な、通常の手段」を下さっています。それが

「キリストの諸規定」

と言われて、特に

「みことばと聖礼典と祈り」

の三つだと言われます。「みことば(聖書、また、その説教)と聖礼典(バプテスマ・洗礼と主の聖晩餐)と祈り」。この三つの大切さを、今日は覚えたいと思います。次から、ではみことばはどのように救いに有効な手段となりますか、聖礼典とは何ですか、祈りとは何で、どう祈れば良いですか、という内容になっていきます。一つ一つについての細かいお話しはまた来週以降に回します。今日は、こういう三つの「外的な、通常の手段」を神が与えてくださった、その事を覚えましょう。覚えるだけでなく、実際の私たちの生活の中で、使っていきましょう。なぜなら、私たちに与えられているみことば、聖礼典、祈りは、本当に素晴らしい方法だからです。私たちを恵みたいと願ってやまない神が定めてくださった手段だからです。

 神が私たちに求めておられるのは、信仰と悔い改めです。決して、何かの儀式とか行為ではありません。そこである人たちはこう言います。「自分達には信仰がある。信仰は、神様と私たちの直接の関係だ。聖霊が働いて下されば、聖書さえなくても、人は信仰を持って救われるんだ。だから、聖礼典なんて必要じゃない」と言います。それから案外、「私はお祈りが苦手だから余りしていないけれど、それでも神様がお恵みを下さると思っています」というクリスチャンは多いです。でも、それは勿体ないことです。「信仰が成長したら聖書や祈りが苦手じゃなくなる」ではないのですね。

 

 その逆です。聖霊は、祈りやみことばを下さり、私たちはそれを通して贖いの益を戴き成長していくのです。元気になったらご飯を食べよう、病気が治ったら医者に行こう、というなら勘違いですね。元気になるためにご飯を食べ、病気を治すために医者に行きます。祈りや聖書は、信仰の立派な人のものではありません。信仰が弱ければ、だからこそ、聖書を読む必要があります。意識して、いつも祈るようにする事が、一番の安全策なのです。

 確かに、信仰は神と私たちの関係です。

 

聖霊が働いて、信仰や悔い改めという恵みを下さいます。そして、聖霊は自由に働かれます。聖書以外の方法-交わり、読書やテレビ、自然、芸術-色々なものを用いて、いいえ、時にはダイレクトに心に働かれ、自由に信仰や悔い改めを起こしてくださいます。ですから、洗礼を受けなくても救われる人はいるでしょうし、聖餐に与れなくても信仰を養われていることはあるでしょう。しかし、「信仰と悔い改めが心にあれば、見えるものなんかいらない」。本当にそうでしょうか。

 「スポーツが好きでさえあれば、きっと上手になる、普通の練習なんか役に立たない」と怠けていたら、上手になるでしょうか。基本の素振りとか空手の型とか、当たり前のことをちゃんとやっているから、毎回の試合でも、ちゃんと戦えるようになっていくのですね。

 私自身、若い頃、聖書を読むのが面倒臭く思いました。神様が直接声を聴かせて下さったり、夢にでも現れて下さったほうがいいのになぁ、と真剣に思っていました。それで、信仰のスランプのようになっていたら、先輩から「聖書読んでる?」と言われて、ハッとして、聖書をまた読み始めました。すると、不思議にすぐ心が明るくなっていきました。ホントにこれは基本なのですね。

 人間は、心と身体で出来ています。心の中と、外側の手段を切り離すことは出来ないのです。心における信仰の関係が、身体の行動や感覚によって支えられる必要があるのです。神は私たちがそういうものだということを知っておられます。だから、最善の方法として、普通に出来る恵みの手がかりを下さっています。それを毎日忠実に続けること、そうして信仰と悔い改めに心を向けていく事を約束してくださっています。

 勿論、形ばかりで心がないのも困ります。恵みの手段は手段であって、信仰と悔い改めに代わるわけではありません。聖書さえ読んでいれば信仰が完璧になるわけでもありません。聖礼典に与れば与るほど、祈れば祈るほど、恵みに満ちるわけでもありません。信仰と悔い改めがなければ、いくら聖書を暗記し、聖礼典や祈りに欠かさず与る生活をしても、虚しいでしょう。ですから、ここでも「外的な、通常の手段」と言っているのです。手段と目的をはき違えないようにしましょう。

 神は私たちに、キリストへの信仰と悔い改めを支えるために、みことばと聖礼典と祈りを下さいました。私たちの生活や人生全体が新しくされるために、見える手がかりを三つも下さいました。これ以外の方法でも、聖霊は自由に豊かに働いておられますが、私たちが熱心に大事にすべき基本はここです。もっと手っ取り早いもの、もっとドキドキワクワクするもの、奇蹟とか幻とか、そういうものに走ると、私たちの心はどんどん渇いていきます。主が下さった三つの方法は私たちをつなぎ止めてくれるのです。

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ルカ二三章32~38節「無力な神」

2015-11-12 19:09:48 | ルカ

2015/11/08 ルカ二三章32~38節「無力な神」

 

 教会のシンボルは十字架です。キリストが磔にされた十字架を、教会は屋根の天辺(てっぺん)や礼拝堂の真正面に高く掲げます。シンボルにするとどうしても、それを輝かせたり、大きくしたり、高々と、美しく、豪華なものにするようになります。実際の、イエスの十字架を描く絵画でも、長く厳粛な十字架が、丘の上に目立って三つ並んでいるものが多く描かれてきました。一世紀当時、十字架の高さもそんなに高くはなかったようです。見上げるような十字架ではなく、つま先は地上からせいぜい30cmぐらいしか離れていなかった。私が講壇の上から見おろしているよりも、もっと低い所で、主イエスは十字架の苦しみと恥とを味わわれたのです。それは一層屈辱的で、囚人にとっては居たたまれなかったのではないでしょうか。ルカの福音書をご一緒に読んできて、今日の箇所で、ついにイエスはそういう十字架につけられました。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 十字架という処刑が、どれほど苦しく残酷で、身震いするようなものか、想像してみてください。イエスは手足をこの木に釘付けにされ、恐らくロープで腕を支えられただけで、地面に看板のように立てられ、放っておかれたのです。痛みの極限でも、ゆっくり衰弱するだけで、多くの囚人が発狂したのだそうです。本当に残酷な十字架の苦しみでした。その事もまた、私たちは決して忘れてはなりません。苦しみや惨たらしさと、私たちキリスト者の人生が無縁であるかのように考えてしまうなら、キリストの十字架をただの飾りにしてしまうのです。

 けれども同時に、ここでのルカの書き方を見ても分かりますように、どれだけイエスが痛くて苦しい思いをされたか、ということよりも、そのイエスを嘲り侮辱する、人間の態度に目を向けましょう。人々は犯罪人たちの真ん中に首謀者のように並べました。彼らは、苦しむイエスよりもイエスの着物に興味を持っています[1]。民衆は、イエスの味方であったはずなのに今は「ながめていた」だけです[2]。民の指導者たちが「自分を救え」と嘲笑いました。兵士たちも、酸いぶどう酒を差し出してからかいながら、

「ユダヤ人の王なら、自分を救え」

と言っていました。そして、次の39節でも、イエスの横で十字架につけられていた犯罪人でさえ、同じようにイエスに悪態をついています。十字架の激痛や苦悶よりも、この人々の憎悪むき出しの態度に、目眩(めまい)がしないでしょうか。指導者たちは、自分達の特権を脅かすイエスの人気に嫉妬して、遂にイエスを抹殺することに成功したのですから、嘲り放題です。兵士はよくイエスを余り知らないでしょうに、弱い者イジメを楽しんでいるのでしょうか。民衆にしたら、「イエスへの期待が裏切られた、ガッカリだ」という思いだったのでしょう。失望や嫉妬、弱い者に対する軽蔑、様々な理由が混じり合っています。理由はともかく、彼らは一様にイエスを白い目で見つめ、笑い、蔑んでいます。十字架の苦しみだけでも想像を絶するのに、そのイエスに同情したり励ましたりしようとしない。かえって、そんな無力なイエスに愛想を尽かし、見限り、唾を吐いています。惨めな思いをしながら死んでしまえと、心までズタズタにしています。私たちに染みついている、残酷で身勝手な思いです。弱者や気にくわない者、邪魔な者を排除しようとする、人間の醜さが露わになっています。他人事ではありません。私たちは、いじめや虐待、民族の虐殺、戦争に通じる狂気を抱えているのです。

 そのような中で、イエスは何も仰いません。神の子であったイエスは、もし自分を救おうと思えば降りて来ることは出来ました。こんな苦しみを止めて、それも嘲る人々のために苦しむことなんぞ馬鹿馬鹿しいと止めることも出来たのです。イエスは、本当に神の子だったのですから。人々は、イエスが無力に十字架の上で、虫けらのように苦しみ藻(も)掻(が)いているのを見て、嘲笑いました。お前が神の子であるはずがないではないか、神の愛だ、神を信じろと言っても、今お前は苦しんでいるだけで何も出来ないではないか、と冒涜しました。

 しかし、その無力に見えるイエスこそは、実は、神の子でした。人間には理解も真似も出来ない神の全能の力は、ひとり子イエスがこの世に来られ、人間として私たちと同じようになるということに現されたのでした。そして、十字架の耐えがたい苦しみをも、神の力で逃げることをせず、最後まで味わい尽くされました。人々の罵りや挑発に心までズタズタになりながらも、なおその十字架に留まられました。つまり、キリストが一人の人間として無力になりきることによって、私たちと本当に一つになってくださったのです。罪という障害物を取り除いて、私たちと神とを結びつける架け橋となってくださったのです。十字架は、敗北や神の無力さの証拠ではなくて、その時にこそキリストの救いの御業は着実に全うされていたのです。私たちを取り戻すために、ご自分を捧げきっておられました。神が何もしておられないように見えても、神はもっと大切な神のご計画を-人の目には見えない大切な御業を-必ず推し進めておられます。それを簡潔に語っているのが、この最初に語られたイエスの言葉です。

34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」…[3]

  赦してください、と祈られました。ご自分を十字架に釘打ち、見捨てて、苦しみを見て笑う彼らを、何をしているか分からないでいるのだから、赦してくださいと祈られました。身勝手な憎しみで心を焼き焦がしている彼らのために、赦しを祈られました。狂気に駆られて「自分を救え」と叫ぶ声に、「何をしているか自分で分からないのだ」と赦しを願われました。主イエスの力は、その力を振りかざし、人を捕らえ、正義を振りかざす力としてではなく、憎しみや暴力や狂気に対してさえ、徹底して赦し、自分を与え抜くという力でした。

 この主イエスの十字架をしるしとするのが教会です。それは、高々と格好良く掲げるのではなく、本当に私たちと同じ目線に降りて、そこに留まられ、赦しへと私たちを招いてくださるお方の十字架です。イエスには、私たちの苦しみや恥や惨めさを一気に解決することもお茶の子さいさいです。でも、十字架から降りずに、人の罪を負われ、赦しを示し、自分のいのちを与えられたのです。私たちの状況を変える以上に、神は私たちの心を変えるお方です。憎しみや狂気や不満や妬みから、赦しに生きるよう変えてくださいます[4]。神の力で、苦しみや問題が解決して、すごい奇蹟で幸せになれると期待するのでしょうか。

 十字架が示すのは、神の力は、苦しみや無力さの中で働いているという希望です。主イエスは私たちを赦しと和解へと導かれています。痛みのない自分の幸いではなく、ともに歩むことです。それは、私たちの力では出来ません。ただ主イエスの力が、私たちをそう導くのです。その十字架の御業を押し頂きましょう。今も、何をしているか分からないまま自分達の正しさを振りかざし、暴力によって取り返しのつかない出来事が私たちの周りで起きています。神を信じて何になるのかと言われるこの世界で、なお私たちが力強く生きる道が、主の十字架に豊かに示されています。

 

「主よ。目には見えないあなたが今も生きて働き、すべてのものを一つとする完成に向けて働いておられることを感謝します。それが見えない事もあり信じられない時もあります。しかし、主の十字架こそ、真っ暗闇で無力にしか思えなかった長い時間でした。どうぞ、今も私たちを導き、恥や反対にもめげない愛と赦しを与えてください。あなたこそ私たちの真実な王です」



[1] 「着物」 八44では、長血の女が触れて癒されたのと同じイエスの着物です。しかし、今彼らはそれを手にしても、何も癒されません。御力にあずかることを願ってさえいません。まさに、何をしているのか分からない、でいるのです。

[2] この箇所の描写が、詩篇二二篇を意識したものであるなら、「6しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。7私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」は、「見る」ことも嘲る側の行為とされています。「17私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。18彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」にも「ながめる」行為が出て来ます。

[3] 写本によってはこの34節を欠いているものもあります。それも、初期の有力な写本で、欠いているのです。そこで、この節は後代の追加だろうとする人もいます。しかし、概ねの意見としては、初代教会でもこれがイエスの言葉として伝えられていることからしても、もともとルカのここにあったのだろうと考えられています。だとするとなぜ削除したのでしょうか。それは、やはり赦しがたい人々が赦されることが、教会の写字生にとっても受け入れがたいからだったからでしょう。また、ここで赦されていたなら、七〇年のエルサレム陥落は起きなかったはずだ、と考えたことも想像できます。教会にとっても、主の赦しの限りなさは、受け入れがたく思えるほどなのです。

[4] ルカは、この「赦し」を強調しています。五20(寝たきりで運ばれてきた男に)、21、23、24、七47(不品行な女に)、48、49、十一4(主の祈り)、十二10(赦されない罪について)、十七3、4(七度の七十倍赦せ)。原語のアフィエーミは三十三回使われるが、「放っておく」などの他の意味もありますので、「罪の赦し」の意味では十一回です。

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