2020/3/29 伝道者の書5章18~20節「日の下の営み 一書説教 伝道者の書」
「みことばの光」の聖書通読表で、今週末から読むことになっているのが「伝道者の書」[1]。口語訳聖書では「伝道の書」、新共同訳や聖書協会共同訳では「コヘレトの書」という変わった名前が付けられている書です。元々のタイトルが「コヘレト」で、集会を集める人、説教者、ということで「伝道者」と訳されています[2]。聖書の中では、詩篇、箴言に続いて、次には短い雅歌が来て、その後にはイザヤ書や預言書が続いていく位置。そういう意味では余り目立たない書で、聖書の「奇書」とか「最も難解な書」と言われます。でも、有名な言葉もあります。
3:1すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある[3]。
3:11神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない[4]。
11:1 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」
12:1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
これらは良く知られている、伝道者の書の言葉です[5]。しかし、このような美しい言葉もちりばめられてはいますが、もっと有名な、そして、私たちを躊躇わせるのは、最初から最後まで繰り返される、「空の空」、「空しい」という言葉です。これが37回繰り返されます[6]。
1:2空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
3日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
4一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
5日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。[7]
「これが聖書か?」と思うような、虚しさで水を差す言葉が羅列されるのです。「空」は悪とか無価値とは違います。虚無だ、無意味だ、というのではないのです。それは次の繰り返し、
2:14…見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。
「風を追うようなもの」[8]。煙や風のように保証も確かさもない、予想もコントロールも出来ない。それが「空」です。
2章以下、知恵を追求しても[9]、快楽をとことん追求しても[10]、結果は空しかった。幸せや富や正義を追い求めても、風のように逃げてしまう、煙を掴むようにどうにも出来ない。人の営みも[11]、王様の大事業も、最後は、手から零れ落ちてしまい、幸せや確かさや価値を与えてはくれない。すべては風を追うようなもので、空だと言い切るのです。
聖書の他の書では、人生の意味や喜び、神とともに生きる素晴らしさを歌っていますが、伝道者の書は大胆にも「人生は虚しい」と言い切る書です[12]。聖書は一つの真理を語ると言うより、人生の両面性をいつも見ています。神の支配と人間の責任、神が三位かつ一体であること、キリストが神であり人であること、私たちが罪人であり神の子どもであること、人の堕落ぶりと愛すべき美しい存在であること。そして、人生の価値を言う言葉もあれば、「伝道者の書」は「空の空」と人生の虚しさ、ダークサイド、無価値さを一書かけて言い切ります。そして、その人生の虚しさを勘違いせずに見据えた上で、今日読みました言葉のような形で励ますのです。
5:18見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
これは「労苦して良いものを楽しむだけが神を信じない人のせいぜいの楽しみだ」とは言っていないです。
「これが人の受ける分なのだ」
と積極的で肯定的です。
19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
20こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。
他にも神が与えたものとして
「あなたの愛する妻[13]」
や様々な喜び、
「益」[14]
が言われます[15]。つまり《人生は風のように虚しく、思うようにならず、予想は出来ないし、明日どうなるか分からない不確かなものであることは変わらないからこそ、今ここで自分の仕事[16]、労苦[17]、家族、友人、食事をあるがままに喜ぶ》。目の前にある生活を、心から味わい、喜ぶことが神からの賜物だ。何とか人生を虚しくならず有意義にしようとか、人生は空だから見切りを付けて神に従うことで保証のある人生にできるとか、そういう無理な要求は虚しいのです。神は私たちに人生の王道を歩ませ、有意義で予測可能で確実な生涯を送らせたいのではない。風を追うような人生で、神を恐れ、今ここにある生活、責任、人間関係、美味しいものを大事にさせるために、賜物として下さったのです。どうにも出来ないことを何とかしようとし、それが出来ないから「虚しいなぁ」と投げやりに生きず、今ここで満たされて、喜んで生きて欲しい。
この「喜ぶ」も「見る」という言葉です[18]。楽しいふりをするのでなく、じっくり眺める、味わう、満喫するのです。ですから、悲しみや喪失でも、何が何でも感謝するとか嬉しそうにする、よりも、悲しみを見つめて十分悲しむ、虚しさを目にすれば心底泣く、ということでもあります。そうやって、風のような人生の中で、目の前にあることを存分に味わい、ベストを尽くしながら、神が下さった務めや家族や自分の心の動きを受け止めて、くよくよ思わずに生きる。それが、神を恐れて、神の命令を守り、生きることだ、と言う知恵をくれるのです[19]。
人生が風のように虚しいと言い切るなんて「伝道説教」はあまりないでしょう。でもこの虚しさ、不確かさをごまかし、人生を操作できるように大言壮語する宗教は、胡散臭いものです。何人もの方が「伝道者の書」こそ現代人が聖書を初めて読むときに真っ先に開いて欲しい書だ。社会で理不尽な思いをし、どうにもならない疲れを抱えている人たちに、上から目線でなく寄りそってくれる。この書の語る虚しさ、侘しさ、不条理さに触れて、安易な答えや解決を聴くよりも遥かに慰められて、心を開ける人は多いだろう」と言います。そして今、世界が予想もしていなかった感染症で先行きの見えない中、「伝道者の書」は大きな道(みち)標(しるべ)に違いありません。こんな書が聖書にあることに驚き、確かさに飛びつこうとする愚かさから守られたいものです。
実は「伝道者の書」には神は登場しますが、神の名「主」は一度も出て来ません。イスラエルもエルサレムも契約も出て来ません。しかし「神」という名前には珍しく「あの神」という定冠詞付きの呼び方がほとんどなのです[20]。一般的な神、正体の漠然とした「神」ではなく、あの神、私たちに命や労苦や仕事や喜びや命令を下さったあの神を見上げさせます。そして、
12:11知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。
これは誰の事でしょう。神です。あの神が私たちの羊飼いだ、という[21]。真っ直ぐに「主」「イエス」と言わず、この虚しい人生を羊のようにさ迷ういながら生きる私にもあなたにも、あの神は羊飼いとなって下さる。私たちが心まで虚しくならず、今ここにある賜物を喜んで、くよくよ悩まずに生きさせてくださる。そして、こう仰る羊飼い、イエス・キリストが来て下さいました。この世の虚しさを舐め尽くしてくださいました。そのイエスが、
マタイ28:20見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。
と仰って、本当に今もともにいてくださる。だから、私たちはここで分からない事をくよくよ思わずに委ねて、出来る労苦を喜んでさせていただき、自分やお互いの益を図っていきましょう。伝道者の書をぜひそれぞれに今こそ読んで、この深く力強い言葉に恵まれてください。
「羊飼いなる神様。伝道者の書を下さり、有難うございます。人生の不条理を見据えたこの書に今私たちは格別な指針を戴きます。どうぞ、主よ、私たちをお導きください。あなたを恐れるよりも、自分の予定や安心を握りしめてしまう私たちを憐れんでください。不安と痛みの中にある私たちを助けて、知恵と弁えを与えてください。あなたの備えてくださった、今ここに生かされている幸いを改めて噛みしめ、喜んで最善を果たしてゆかせてください。御名により」
[1] 本書の手短な参考書としては、YouTubeの「バイブルプロジェクト」の「伝道者の書」紹介動画(https://www.youtube.com/watch?v=t9L5YsVF4vE)や、長尾優『信仰の半歩前―オトコ、四十を過ぎれば』(新教出版社、2000年)198頁以下がお勧めです。
[2] 英語ではEcclesiastesエクレーシアステス。教会をギリシャ語でエクレシアと言いますが、コヘレト(集会)と語源は一緒です。
[3] 伝道者の書3章1節「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。2生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。3殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。4泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。5石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。6求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。7裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。8愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」
[4] 3:11の「神は人の心に永遠を与えられた」は、旧約では「永遠を思う思い」。
[5] これ以外にも、「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。(7:21)」「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。11また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。12一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(4:9-12)」などは忘れがたい箴言です。
[6] 空הֶבֶל 1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、15「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」、17「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、19「その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」、21「なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」、23「その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」、26「 なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:19「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。」、4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、7「私は再び、日の下で空しいことを見た。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」、16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:7「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。」、10「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。」、6:2「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」、4「その子は空しさの中に生まれて来て、闇の中に去って行き、その名は闇におおわれ、」、9「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。12 だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」、7:6「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。」、15「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」、8:10「すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」、14「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:20「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」、11:8「人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。」、10「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」、12:8「空の空。伝道者は言う。すべては空。」これが、37回ですが、旧約全体で72回使われるうちの半分以上を占めています。
[7] ヘミングウェイ『日はまた昇る』のタイトルは、本書1章5節から。小説のエピグラムは、本書の1章1節以下。ゲーテ『ファウスト』も本書から影響。ルナン「ヘブル語による最も魅力ある書」。ルター「慰めの書」。熊谷徹「初めて聖書を読もうとする人は「伝道者の書」から読むと良い」『新聖書講解シリーズ旧約13 箴言・伝道者の書・雅歌』(いのちのことば社、1988年)324頁。
[8] バイブルプロジェクトの動画では、「空」の語源が「煙・蒸気」と言われます。風は本書に20回、「風を追うようなもの」に類する言い方は10回(1:14「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」、17「私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。」、2:11、17、26、4:4、6、16、6:9、8:8)、登場します。
[11] 「営み」עִנְיָן 8回、本書のみの言葉。1:13、2:23、26、3:10、4:8、5:3、14、8:16。
[12] 12章の有名な「あなたの若い日に」も、創造者を覚えれば、「何の楽しみもない」という老後が来ないわけではありません。そのために創造者を覚えるなら、御利益宗教でしかなく、「創造者を覚えた」とさえ言えないのです。
[13] 伝道者の書9章7~10節「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」
[14] 益יִתְרוֹן 9回。伝道者の書にのみ。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:11「しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、5:9、16「これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、6:11「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。」、7:11「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。12知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」、10:10「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。11もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」
[15] 「人は生きている間、自分のわざを楽しむことにまさる幸いはない」という内容は、2:24-26、3:12-13、22、5:18-20など。
[16] 仕事עִנְיָן 8回。伝道者の書にのみ出て来る名詞です。1:13「私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」、2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、3:10「私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:3「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」、12:3「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」
[17] 労苦עָמָל 25回(旧約59回)。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」、2:10「自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。11しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」、18「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。19その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。20私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。21なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。22実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:9「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。」、13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、4:4「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、6「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」、8「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。9二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」、5:15「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。16これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」、18「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。19実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」、6:7「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」、8:15「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」、17「すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」、9:9「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。」、10:15「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」
[18] ラーアー。伝道者の書では47回出て来て、そのうち四回が「喜ぶ」です。2:1「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。」、24「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。」、3:13「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」、5:19「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」 以下の箇所の「喜ぶ」は、原語はラーアーではありません。2:26「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ」、3:12「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」、4:16「その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」、5:4「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。」、20「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」、9:7「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」、11:9「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」、12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」
[19] 「神を愛して陽気に生きよ。この世のことなど気にするな」ジョン・ダン
[21] 本書の作者を「ソロモン」とする伝統的な読み方は、現代では保守的な神学者でも否定しています。ソロモンを臭わせ、敬意を払いつつ、その名を直接出すことはしていない、という着眼点は説得力があります。ソロモンを思うとき、知恵者でありながら、最後は逸脱していった人物として、それこそ「虚しい」思いがわき上がります。しかし、それだから「ソロモンは滅びて、救われなかった」などと私たちは言い切れるのでしょうか。聖書に大きく名を残す人を、イエスさえ、繁栄の引き合いに出しただけです。ここでも私たちは「信仰者としての道を失敗した人は救われず、呪われている」などと安易にいえないことを弁えるべきでしょう。