聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

2022-03-26 12:00:29 | こども聖書
2022/3/27 「建築家、ネヘミヤ」ネヘ1~8章『ジーザスコーリングバイブル』137

 夕拝で読んできた「こども聖書」は、旧約聖書のエピソードが先週で終わりました。今日は、その中になかった大切な話を『ジーザスコーリングバイブル』から選びました。それがこの「建築家ネヘミヤ」、旧約の結びにある、捕囚から帰還した出来事です。



 先週まで見てきたダニエル、エステルの出来事は、エルサレムから遠く離れたバビロンやペルシャでの出来事でした。イスラエルの民は、神である主の言葉に背き続けたため、遠くバビロンへと連れて来られたのです。



 しかし、七〇年したら、再びエルサレムに帰る、という約束をお与えになっていました。七〇年、決して短くはありませんが、そんな先のことを言われても信じがたいのに、神様は歴史を大きく支配されて、遠いバビロンからイスラエルの人々を連れ戻してくださると約束されていました。そして、そのバビロンでも主はイスラエルの民とともにおられました。そして、七〇年後、本当に、彼らはバビロンから帰ってきた。帰還したのです。それは、紀元前538年と、紀元前458年の2回に亘りました。今日のネヘミヤは、その二回目の出来事です。

 ネヘミヤが、二回目の帰還でエルサレムに行ったのは、エルサレムの城壁が敵に焼かれてボロボロだと知ったからでした。ネヘミヤはペルシャの王宮で、よい地位を得て、仕事をしていましたが、故郷エルサレムの悲惨な知らせに一大決心をして、王の元に行き一時帰国を願ったのです。



 ペルシャの王アルタクセルクセスは、ネヘミヤの願いを受け入れてくれました。必要なものすべてを揃えてくれて、ネヘミヤの推薦状まで持たせてくれます。こうして、ネヘミヤはペルシャを後にして、エルサレムに向かいます。帰って来てから、ネヘミヤは焼け崩れた城壁を見て回った後、言います。

2:17私は彼らに言った。「私たちが直面している困難は見てのとおりだ。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままだ。さあ、エルサレムの城壁を築き直し、もうこれ以上、屈辱を受けないようにしよう。」

 このネヘミヤの言葉に励まされて、民は再建に取りかかります。しかし、反対する人たちもいて、ネヘミヤの働きはなかなか簡単には進みません。ネヘミヤは腹を立てます。悩み、祈り、神様に愚痴ります。一緒に働いている人たちも、段々疲れたり、狡くなったりして、ネヘミヤは頭を振り絞って、指揮に当たります。そうして、敵や裏切り者の攻撃をかわして、民の心を奮い立たせたりしながら、城壁は再建されたのです。



六15こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。16私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。

 工事の完成の後、お祝いの礼拝をしました。



 そして、エズラという学者が聖書の戒めをまとめて、皆の前で読み上げました。なぜなら、本当の再建は、城壁や建物が建て直されることではないからです。神の民としての再出発は、見えない心で、神様に立ち帰って歩み始めることだからです。だから、エズラは聖書をまとめて、皆に聞かせました。



 しかし聞いている人々は泣き始めました。聖書に書かれた神の命令や、人間の罪が心に刺さったからでしょうか。自分たちの悪、ボロボロだった都、神様の御心に背いた過去に、心が責められたからでしょうか。



 その民を見て、ネヘミヤとエズラは言いました。
八9-10
「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。10さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」

 主の言葉は、確かに人の罪を責めます。しかし、責められるだけなら絶望です。責めるだけなら神様でなくても、人間でもできます。神は、責めるしか出来ない方ではありません。建て直してくださるお方です。バビロンの捕囚からも民をエルサレムに帰還させてくださいました。敵たちがボロボロにして、建て直すなんて無理だと嘲った城壁を再建させてくださいました。その神の言葉を知る時、自分の罪や失敗を気づかされて泣くことはあるとしても、その私たちの失敗や後悔から、神がもう一度、立ち上がらせて歩み出させてくださると知ります。それこそが神だと励まされて、喜び祝い、互いに励まし合う。それが神の下さる信仰です。主が、愛する人々を建て直してくださる事こそ、敵を恥じ入らせる裁きです。その主を喜ぶことこそ、あなたがたの力、私たちの力です。

 ここまで旧約聖書を見てきました。その最後にあるのがネヘミヤとエズラの再建です。旧約の歴史全体が再建の繰り返しでした。主は、人間がご自身に背いても、何度でも何度でも、決して諦めずにやり直させてくださった。ノアの方舟、出エジプト、ダビデも、ダニエルも、神の回復の力を証ししています。それが旧約聖書です。



 そして、その旧約聖書全体が指し示していたのが、やがてキリストが来られる。私たちを心から癒やしてくださるお方。私たちを建て直してくださるお方。私たちが諦めたり、もうこんなもんだと決めつけたりしていても、キリストが来られて、新しいことをしてくださる。私たちを神様に結びつけてくださる。私たちを責めたり脅したりする人間とは違う、本当に聖なるお方、罪から救い、喜びを与えてくださるお方。そのために、命を捧げてくださるお方が来ると約束していたのです。この方がイエスです。この方を信じていいのです。

 『ジーザスコーリングバイブル』は、ここにこんな神からの呼びかけを載せています。

ジーザス・コーリング
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
マタイによる福音書5:17 新共同訳聖書

神さまを第一に愛しなさい、そしてほかの人々をあなた自身のように愛しなさい。これがもっとも大切な神さまのきまりです。しかし、イスラエルの人々は神さまのきまりに従うかわりに、まわりの国々の罪に従うことがよくありました。そのとき、イスラエルの人々はすべてを失いました。なぜなら、まことの神さまだけを信じる信仰がなかったからです。神さまはネヘミヤを用いて、何人かのイスラエルの人々をエルサレムにもどされましたが、彼らは救い主が必要でした。神さまの民は自分自身で自分たちを救うことができるほど立派になることができません。それで、神さまは神さまのひとりご--唯一の神の民をとこしえに救うことができるわたしをつかわしたのです。
(『ジーザスコーリングバイブル』137ページ)

 ネヘミヤが城壁を建てたように、この教会堂も世界中の会堂も、情熱を持った人たちが建てました。何かを建てる、それ以上に壊れたものを立て直し、修復しながら、誰もが生きていきます。それは、神ご自身が建て直すお方だからです。イエス様が命がけで世界を再建し、私たちを癒やしてくださる。そして、やがて必ずその工事は完成し、永遠にお祝いする日が来るのです。私たちが何かを造り出す事は、その一環を担う事です。



「造り主であり作り直される主である神。あなたがこの世界を完成される創造主であり、私たちをもそのあなたの栄光を現すものとしてお造りくださったことを感謝します。私たちの世界や心にある破れを、諦めを、約束通りどうぞ繕い、時間をかけて癒やしてください。あなたを小さく考える罪から、あなたを喜ぶ力へと、私たちを造り変えてください。そして、私たちの生涯の業すべてを、あなたの大きな再建の業に用いてください」
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2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」

2022-03-26 00:15:43 | 一書説教
2022/3/27 ピリピ書2章1~11節「喜びの民 一書説教 ピリピ人への手紙」[1]

 ピリピはマケドニアの都市です。「使徒の働き」16章にパウロのピリピ伝道の様子が伝えられています。その後、パウロが他の都市を巡回した間もピリピ教会はパウロを支えました。この手紙はピリピから献金を届けたエパフロディトを介して、パウロが持ち帰らせた手紙です。

1.「喜びの書簡」

 ピリピ書は「喜びの手紙」と言われます。日本語聖書だと16回も「喜び」が言われます[2]。

二18 …喜んでください。…
四4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 こんな勧めが6回も繰り返されます。でも喜べと命じる以上に、パウロが喜んでいます。6回の勧め以上に、9回の「喜び」は、パウロがどれほど喜んでいて、喜びを大事にしていたか。また、ピリピ教会の人々を喜んでいたか、を溢れるほどに物語っているのですね。

一4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、…
二17…私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
四1…私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。…

 パウロは喜びに生きた人です。聖書が差し出すのは喜びの宗教です。神も喜びの神であって、

四18私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。

と言われます。実はこの元々の言葉だけは他とは違う「喜び」の形容詞なのです。新約で9回出て来ますが、
「みこころにかなう」
とも訳されます[3]。確かに「喜ぶ」とは「心にかなう」、人としての願いが満たされること、私たちの求めに沿う何か嬉しいことがあった時の感情です。

四19…私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 だからその恵みに与る時、喜びがわき上がります。でも人は、心とは無関係に笑顔や明るさだけを取り繕ってしまうこともあります。喜びだけがいい、涙や辛さを感じまいと心を麻痺させるなら、結局、喜びさえ感じられません。心こそ命の泉です[4]。神は私たちの行動の変化以上に心を甦らせ、あわれみ、思いを新しくなさいます。パウロは涙や心配も隠しませんし[5]、

四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。…[6]

 主が私たちの心を深く知って、必要を豊かに満たしてくださる。だから、この時パウロは牢獄にいたり[7]、ピリピ教会も様々な課題があったりしても、喜びを持てるのです。

2.キリスト賛歌

 本書には素晴らしい言葉が沢山あります。中でも美しいのは今日の「キリスト賛歌」です。

二6~
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。…

 この詩はパウロの文章と言うよりも、初代教会で歌いかわされていた最初の讃美歌だったとも考えられます。神の御姿であるキリストが、ご自分を空しくして、低くして、死にまで従われました。そのキリストの姿に心打たれて、最初の信徒たちが歌い上げていたのでしょうか[8]。

 そこまでなさったキリストを知った時、パウロは他のすべてを損と思うようになったと言います[9]。パウロは新しい思い、恵みを与えられました。その中でも代表的なのが3章20節です。

三20
しかし、私たちの国籍(市民権)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 多くの宗教は天国へのパスポートを得られる方法を語ります。聖書は私たちが既に天に国籍(市民権)があり、今ここで神の国の市民として生きることを語るのですね。今この寄留者としての地で、悩みや悲しみはあっても、この世界の不条理も死もすべて味わってくださったキリストを覚えて、そのキリストが私たちにくださった新しい市民権を手に、旅を続けるのです。

3.「最も人間味あふれる手紙」

 ピリピ人への手紙は、パウロ書簡十三の中で「最も人間味溢れる手紙」です[10]。パウロが個人的に非常に良く知る教会で、ピリピの信徒らもパウロを愛し、支援を続けていました。この時はパウロが投獄されたと聞いて心配し、エパフロディトに献金を預けて遣わした、人間味ある交流がうかがえます。同時に、大きな罪は(コリント教会のように)なかったようですが、4章2節では教会内のいざこざも透けて見えます。派遣したエパフロディトが思いがけず病気になって心配しています[11]。決して問題のない教会(そんなものは元々ありませんが)に向けて、教会の一般的な義務を教える教科書のような書簡ではありません。むしろ、日常の交流や精一杯の献金や奉仕もしながら、人間同士、対立してしまう教会の姿の中で、キリストを見上げさせてくれる書簡です。先ほど読んだ、2章のキリスト賛歌は、教会の日常の心がけを語ったのに続いて、引き出された「キリストのうちにある思い」でした[12]。2章2~5節です。

あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

 これは「キリスト・イエスのうちにある思い」、受肉と十字架に現された神の心でした。そして神はそのキリストを引き上げてくださった。神は世界の中に働いて、喜びとは真逆のような事をも喜びと変えてくださいます。パウロの投獄はそこでの新しい出会いと宣教になり、教会に確信を与えました[13]。エパフロディトの瀕死の病気は主の憐れみによって癒やされました。二人のご婦人の対立は、主にあって同じ思いを持つようにとチャレンジされました。

三1最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

 「喜ぶ」ことは安全になります。我慢とか喜びのない「べき」なら、どうしても対立してしまいます。主に心変えられて、喜びに生きる時、困難にあっても希望を持てるし、対立する時にも拘りを捨てる柔軟さが持てます。喜びを持つ、必要を豊かに満たしてくださる主を味わいながら生きている。「喜びなさい」とは、私たちを苦々しさから守ってくれる言葉です[14]。

 今日はピリピ書からお話ししました。いつものまとめと違い、喜びの理由を三つ整理して結びます。
 1つ、喜びは心の願いや必要が満たされるからこその感情です。神は私たちの必要をすべて豊かに満たしてくださいます。私たちが心を深く取り戻して、必要が豊かに満たされていると気づくから、喜べるのです。
 2つ、キリストを知る喜びです。そして、キリストご自身が私たちを喜んで、ご自身を卑しく低くすることも厭わずに捧げて、私たちに天の市民権を与えてくださいました。この初代教会最初の讃美歌を、私たちも歌いましょう。
 3つ、今この現実にも神は働いてくださいます。私たちの予想とは違う形で、良いことをなさる。だから形や手段に拘らず、お互いの益や喜びを柔軟に選べるのです。最も人間味ある「喜びの手紙」ピリピ書から、私たちの道を示されて、「喜びに生きる民」として歩ませていただきましょう。

「喜びの神よ。獄中で書かれた喜びの手紙を感謝します。新しい歩みへと踏み出す今、もう一度祈ります。私たちの苦しみや悔しさを知る主が、病気や悲しみの耐えがたさを知る主が、ご自身ひととなり死も十字架さえも味わわれた主が、私たち一人一人を憐れみ支え、すべてを働かせて益としてください。喜びを受け取らせてください。また私たちが主の思いによって心から一つとならせてください。そうして私たちが喜びの民として成長する日常としてください」

脚注:

[2] ピリピ書における「喜び」は、名詞カラ5回、動詞カイロー9回、スンカイロー(カイローに「ともにスン」がついた合成語)2回、ユーアレストス1回。使用節は、次の通り。1:4(あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、)、18(しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。)、25(このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。)、2:2(あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。)、17(たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます[スンカイロー]。18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んで[スンカイロー]ください。)、28(そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。)、2:29(ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。)、3:1(最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。)、4:1(ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。)、4:4(いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)、4:18(私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んでユーアレストス受けてくださるささげ物です。)
[3] ユーアレストスの新約における他の箇所は次の通りです。ローマ12章1、2節(ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。)、14章18節(このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。)、Ⅱコリント5章9節(そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。)、エペソ5章10節(何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。)、コロサイ3章20節(子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。)、テトス2章9節(奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、)、ヘブル13章21節(あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。)
[4] 箴言4章23節「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」
[5] 2:27「本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。」、3:18「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
[6] 4章6~7節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
[7] ピリピ人への手紙1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。)、1:13(私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。)それが使徒の働きの結びにあるローマでの投獄なのか、使徒の働き20章でエペソにいた三年間での出来事なのか、判定しがたいのですが、いずれにせよパウロは投獄されていました。
[8] 聖なる神は「御心に叶う」のでないことは決してなさいません。何によっても嫌々、無理やり何かをさせられることはありません。その神の子キリストが、神のあり方を捨てて空しく謙り、仕えてくださいました。それが神の心であり、栄光でした。それほど神は私たちを喜ばれるお方です。
[9] ピリピ3章2~11節「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。4ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
[10] 伊藤明夫、『実用聖書注解』より。
[11] 2章25~30節。
[12] 2節と5節の「思いを抱く」は同じ言葉フロネオーです。この語は、1:7(あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。),2:2、5、3:15(ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。)、19(その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。)、4:2(ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。)、10(私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。)でも出て来るキーワードの一つです。
[13] ピリピ1章12~14節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。13私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」
[14] 「喜びこそ我が家だ。神は私たちを喜んで創造し、喜びに向けて創造し、私たちをその喜びから切り離すものは何もない」Frederick Buechner, The Great Dance, 240 , from “Luke 2:8-11, REJOICING, by Rev.Dr. Lindley G. DeGarmo

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2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

2022-03-19 13:08:30 | マタイの福音書講解
2022/3/20 マタイ伝28章11~20節「初めも終わりも『神ともに在す」

 マタイの福音書を二年半かけて、読んできて最後の部分を読みました。この結びは途中でも何度も触れて、このゴールを見据えながらマタイの福音書が書かれていることを意識して来た結びです。この山の上で、復活のイエスが語られた言葉は、マタイ伝の「総括」とも言えます。

1. 天においても地においても、すべての権威が

 18節のイエスの言葉は「権威」の宣言から始まります。「権威」という言葉は悪い印象があります。「権威主義」「権威を笠に着る」など非常に不快なことです[1]。それはまさに当時の権威筋、神殿や議会を司る祭司長や長老たちの姿です。それが11~15節に描かれています。
 自分たちの権威を守るためにイエスを十字架につけた彼らは、そのイエスが復活したことを番兵たちから報告されても「多額の金を与えて」偽証をさせます。ローマの総督の耳に入っても上手く説得すれば何とかする、と政治的な駆け引きで収めて済ますつもりです。(でも実際、番兵たちがマズいことになっても、どこまで責任を持ってくれるかは分かりません。)事実よりも自分の立場を守る権威。お金の力、嘘や口封じ、取引。そうした策略で安泰を守る権力。

 主の復活記事に、わざわざ番兵や祭司長たちの記事が置かれます。この世の権威がどれほど虚仮威しにすぎないか。しかしそれが功を奏して、広まってもいる。そういう現実を見させた上で、イエスに目を移させます[2]。イエスの権威は、事実をねじ曲げる命令をしたり、金や何かで吊ったり、無理やり保たなければならないような人間の「権威」とは全然違うのです。

二〇25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。…28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。[3]

2. 王であるイエス

 16節以下、都やユダヤ人の間に、大祭司たちの思惑が広まっている時、北の辺境のガリラヤでは、弟子たちがイエスに再会している、山の上での光景が描かれます。議会が狭い会議室でコソコソ協議しているのとは対照的な、のびやかな景色です。そして、その十一弟子の中にさえ疑う者がいました。復活のイエスは栄光に輝いて圧倒する威厳あるお姿ではなかった。しかし、そのイエスが、疑う者もいる弟子たちに近づかれて言われるのです。

18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 イエスの権威は人々に仕え、その罪を赦し、悪霊の苦しみから解放する権威です[4]。マタイの福音書は最初から「王であるキリスト」を語っています。イエスが王として治める「天の御国」を例え話で語り、御業で見せてくださる。イエスがどんな王であるのかをよく現すのが、この「仕える権威」です。それが何よりも現されたのは、ご自分を引き渡された十字架の死でした。苦しみや屈辱、卑しい十字架は、権威とは真逆ですが、イエスは本当に権威あるお方だからこそ、人を罪から救うため、十字架の屈辱さえ厭わずに、ご自分を与えきってくださった。そして裏切った弟子、まだ疑っている弟子たちにさえ近づかれる。その謙った、柔和なあり方こそ、イエスの権威であり、イエスが教え、招かれたあり方でした[5]。ですからここでも、

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

 「弟子」とはイエスを師匠としてその教えや生き方に倣う人ですね。キリスト者は何よりもイエスの弟子なのです。勿論、完璧に師匠の通りに出来る弟子なんていません。この十一弟子も不肖の弟子たちで、この時も疑っています。そういう彼らにイエスは

「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」

と言われます。他国の人間を異邦人と呼んで蔑むのが当然だった時に、国境を越えて出て行って、言葉や肌の色の違う人々を、自分たちと同じ、イエスの弟子とする。自分たちと同じバプテスマ(洗礼)を授ける。そして自分たちがイエスに命じられたことを、その人たちにも伝える。イエスが以前、同じようにガリラヤの山の上で語られた「山上の説教」やマタイにこれまで教えられた神の国の生き方、神を愛し、隣人を自分のように愛すること、神の国の民として生きることを、あらゆる国の人に伝える。しかも自分たちがイエスにしてもらったように、仕えるしもべとなって教えなさい、です。支配するため、自分たちに仕えさせるためではなく、イエスを師と仰ぐ弟子となるよう、自分たちが仕えていく。そう弟子たちに言われて、この仕え合う弟子が世界に広がっていくことを願うのが主イエスなのです。

3. 毎日、あなたがたとともにいます

 ですから、弟子たちへの命令・使命でこの福音書は終わりません。イエスの最後の言葉は、

…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 「いつも」は「すべての日々に」が直訳で、私たちの毎日、一日と欠かさず、無条件にともにいます、との約束です。マタイの福音書の最初でイエス誕生に先立ち、言われていました。

一23…その名はインマヌエルと呼ばれる。…訳すと「神が私たちとともにおられる」…

 それがこの最後でハッキリとイエスが

「いつもあなたがたとともにいます」

と伝えられて、この言葉が結びとなるのです。イエスがいてくださる。裏切った弟子たちも、まだ疑ってしまう弟子たちも、イエスが「わたしは毎日あなたがたとともにいます」という言葉を下さいます。「自分は弟子になんか慣れない」と思ったり、仕えるなんてまどろっこしくて少々手荒なやり方や無理やり脅したりすかしたりして、却って信頼や神の国を現すどころではなくなってしまう、そんな私たちでも、イエスは「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言っておられます。
 そして、この方にこそすべての権威があります。私たちの無力さや足りなさ、諦めや思い込みを超えて、すべての権威を持つ主が働いておられる。十字架に死んで、三日目に復活されたイエスが、この世界に働いておられる。そして、私たちとともにいると言われている。そこに立って、私たちはこの方の言葉に聞き、主の命じた事に従い、人にもそれを守るよう教える、私たちも「ともにいる」ことを大事にしていくのです。

 この最後の言葉、復活の主の弟子たちへの言葉、マタイの福音書結びの言葉から三つを教えられましょう。
 1つ、イエスは天と地、世界のすべての権威の主です。それは人間が思い浮かべる、偉そうで支配したがる権威とは全く違う、仕える権威、謙る権威です。この福音書はそういうイエスを語ってきたのです。
 2つ、イエスの権威は、イエスを王とする「天の御国」のあり方です。この仕える権威、憐れみの支配を信じて、キリストの弟子となり、この方の教えに習っていくのがキリスト者です。イエスが守るよう教えておられた事は、是非、何度もマタイの福音書、聖書全体を読み返しながら、思い起こし、気づかされてください。
 3つ、マタイは「インマヌエル神われらとともにいます」で始まり、「いつもあなたがたとともにいます」で終わります。イエスがともにおられ、私たちを教え、治めてくださっています。人間の権威や企みを恐れることはありません。本当の権威者であるイエスが、私たちのうちに神の国を始め、これを完成させる世の終わりまで、毎日ともにおられるのです。教会はここに立つのです。

「主イエス様。すべての権威はあなたのもの、国も力も慰めも命も、あなたのものです。謙り、私たちに仕えられた、あなたのものです。今日まで、マタイの福音書をともに読む恵みを私たちに下さり、感謝します。あなたが私たちとともにおられ、神の子ども、御国の民としてくださった幸いを、どうぞますます豊かに現してください。私たちもあなたの弟子です。疑いや欠けがある私たちをも、あなたの器として遣わし、あなたの不思議な権威を運ばせてください。」
[1] 『広辞苑』では、権威を「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義しています。どちらも、聖書にいう神の権威とは異なるものです。
[2] 11節の番兵たちの行動を語る文章の最初には、原文では「見よイドゥ」という言葉があります。20節の「見よ」と同じ、注目をうながす一文です。
[3] マタイ20章25~28節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」」
[4] 「権威エクスーシア」 マタイで9回使用。7:29(イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。)、8:9(と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」)、9:6(しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。)、10:1(イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。)、21:23(それからイエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それにあなたがたが答えるなら、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているのか言いましょう。)、21:27(そこで彼らはイエスに「分かりません」と答えた。イエスもまた、彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。)
[5] それは、この祭司長や議会のように偉ぶる権威、自分たちを守る権威、そのために必要とあらば手段を選ばず、人々を丸め込む権威とは全く違います。
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2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

2022-03-12 13:02:36 | マタイの福音書講解
2022/3/13 マタイ伝28章1~10節「会いに来る神」

1.キリストの復活、私たちの復活

 マタイの福音書の最後、28章に辿り着きました。主イエスのよみがえりが告げられます。十字架に架けられたイエス・キリストが三日目に甦った。マタイだけでなく新約聖書の福音書四巻が揃って、最後に伝えるのはキリストの十字架の死と復活です。本当にキリストが肉体を取って復活された驚きが福音です。ここでも女たちは、出会ったイエスの足を抱いて触っています。ルカの福音書でもヨハネでも「魚を食べた」と、二度も書かれています[1]。本当にイエスは、死んで三日目、週の初めの日に甦られた。そこで日曜を主の日と呼んで、礼拝のために集まり始めました。その結果、今ではこの日本でも日曜日がお休みの日となっているのです。

 ただし教会の告白は、イエスが本当に甦られたという以上のとんでもない告白です。イエスの復活は、私たちの復活の初穂です。イエスの復活は、私たちも死で終わりではなく、後の日に目覚めてからだを与えられることの始まりなのだと信じることです[2]。それは人間の理解や想像を超えたことですが、私たちは将来の自分たちの復活を信じる。だからこそ、今この体での私たちの営み、この世界のすべてが神の前に意味あるもの、無駄ではないことを信じて、大切に生きることが出来る。それこそ、キリストがこの世界に来られて、人となり、その死後ももう一度、からだをもってよみがえられたことが保証している奇蹟です。イエスの復活だけを信じるかどうか、ではないのです。神が私たちをも復活させると言われることを信じるのです。

2. ガリラヤに行く

 この朝、二人のマリアが墓を見に行きました。復活を期待してではありませんでしたが、大きな地震が起きます。主の使いが天から降りて来て、墓に封をしていた石を転がしたのです。その姿は輝いて、番兵たちは震え上がりました。そうして御使いが女たちに語りかけるのです。

5…「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。6ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。7そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」

 イエスは、ご自分の復活を前から言っておられましたが、そこにはこの「ガリラヤに行く」の予告もありました。弟子たちの故郷、最初にイエスと会った場所、エルサレムから見ると辺境、ド田舎の蔑まれた地でもありますが、そこに先に行くとも予告されていました。

二六32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 ここでその言葉を御使いは繰り返して、ガリラヤであなたがたと会うため待っているイエスを伝えるのです。イエスの復活は、神秘的で私たちには手の届かないことではなく、反対に、イエスはよみがえって弟子たちの先に待ち構えて、会ってくださる主です。その知らせに、

8彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

 ところが、ガリラヤで会うのを待ちきれないかのように、女たちの前にイエスが現れます。御使いの言葉にはなかった行動を、イエスがなさるのです。

9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。

 ここには「見る、会う、近寄る」と出会いの言葉が様々に出て来ますが、この「現れる」は「迎える」という、少し堅苦しい言葉です。イエスは女たちを待ち迎えてくださった。ここにも復活のイエスが、私たちにとって遠い存在ではなく、私たちと会いたい、私たちとの出会いを喜ばれ、そして私たちにもよみがえりを必ず与えて下さる方であることが豊かに現されています。ここでもイエスは御使いが伝えた伝言を繰り返されます。ガリラヤに行って、そこでわたしに会えます、と。イエスは「会いに来る神」です。そして「喜び」を下さるお方です。

3. 「喜びがあるように」

 9節の「おはよう」は欄外に「別訳「喜びがあるように」」とあります。彼女たちの目に焼き付いていたのは、十字架に架けられて無残に死に、亜麻布に包(くる)まれたイエスだったでしょう。再び出会ったイエスは、あの痛々しさなどはなく「喜び」を仰るのです。「おはよう、こんばんは、万歳」などとも訳せる挨拶の言葉ですが[3]、社交辞令や皮肉ではなく、イエスは本心から「喜びなさい」と仰ったでしょうし、イエスご自身、喜びに溢れていたからの言葉だったはずです。弟子たちの先にガリラヤで会おうと約束され、女たちに会うのが待ちきれずに現れて、そうして、弟子たちの無理解や頑なさを責めるより、喜びや再会を告げられるのです。

 1章で御使いは

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」

と言いました。イエスの十字架は、罪の赦しのためにイエスの血が流されたささげ物でした。そのイエスが十字架の死から復活して、弟子たちに近づいてくださいます。罪からの救いのため、ご自身の血を流された方として、既に罪の赦しのための犠牲を払ったお方として、私たちを迎えてくださる。その時の主の言葉、また主ご自身の思いは「喜び」なのだとは本当に深い恵みです。罪からの救い主がこんな近づき方をしてくださる。だから私たちは自分の罪を素直に認めて、主に立ち帰ることが出来るのではないでしょうか。
 罪の意識から赦しを求める、というのは人間的な順番です。キリストは逆です。人の罪の赦しのため、どんな犠牲も惜しまず払われる。それほど私たちを愛し喜んでくださる。だからこそその愛を、軽く安っぽく考える事が愚かだったと気づく。その愚かさに関わらず神が私を愛し、私たちとの関係を命がけで回復してくださる。その気づきが、自分の罪責感とか正義感とは全然違う、罪の意識を始めます。
 そして、主の赦しを受け取って、赦し以上の喜びを受け取らせていただく。赦しが分かって初めて、罪も分かる。それが、罪の力に勝利してよみがえられたイエスに導かれる中での幸いな気づきです[4]。復活の主が、私たちに先立って、私たちに会われ、私たちの救い主としてともに歩まれるのです。

 マタイの28章、イエスの復活から三つのことを覚えましょう。
 1つ、イエスは日曜日の朝、よみがえられました。それはイエスが以前から仰っていた通り、私たちのためであり、私たちも死の後、よみがえりの体を戴く保証です。そんな大それたことを、復活は保証してくれています。
 2つ、イエスは弟子たちと、彼らの故郷のガリラヤで会うことを約束され、女たちを迎えに現れました。復活のイエスは、私たちに近づき、私たちと会ってくださる主です。私たちに会うため、神はどんな犠牲も厭わないし、私たちのガリラヤ、生活のただ中に先におられるのです。
 3つ、復活のイエスの最初の挨拶は「喜びがあるように」と言う歓迎でした。罪からの救い主、十字架に殺された方がこんな真っ直ぐな言葉で迎えてくれるなんて、誰が思いつくでしょう。この方は私たちを私たちの罪から救ってくださる方です。この方の差し出す赦しと喜びによって、私たちは初めて罪を知り、罪よりも大きく強い主を知って生きていくのです。

「復活の主よ、あなたの不思議な大きないのちに包まれて、今も将来も体を与えられて生かされています。罪赦された者として、喜びを戴いて生きていける恵みを今日新たな思いで告白します。希望が打ち砕かれたように思う時、死の力や武装した兵士が圧倒的に思える時も、主よ、あなたが私たちに先立って進まれて、喜びを与えてください。罪を赦し、罪のもたらした破綻を癒やしてやまないあなたが、今も私たちを生かし、復活の希望に与らせてください」
[1] ルカの福音書24章36~43節「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。37彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。39わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」40こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」、ヨハネの福音書21章「9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」
[2] Ⅰコリント15章12以下。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。13もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。14そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、神はキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。16もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがは今もなお自分の罪の中にいます。18そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
[3] カイレ 26:49ではユダが裏切りの口づけをしながら「こんばんは」と言い、27:29では兵士たちがイエスをからかって「王さま、万歳」と言ったときも、同じ「カイレ」です。
[4] 「確かに人は、間違いを他者から追求されたとき、罪を告白する必要があるでしょう。しかし私は、罪を裁くだけではじゅうぶんではないと思うのです。裁かれると、言い訳をして逃れてしまう、自分の罪を罪として、向き合うことから逃げる。それが、私たち人間の一面ではないでしょうか。/しかし、裁かれるだけではなく、そこに赦しの可能性が存在するとき、人は罪というものが、それのみの単独の概念ではなく、赦しとの相関概念であると知らされるのです。たとえば皆さんが、漠然と悪いことかもしれないとは感じる、しかし罪と呼ぶほどではないと思えるようなことをしたとします。その行為が、人によって赦されました。そのとき、はじめて、その行為が罪だったと気づく。そういう経験をしたことはありませんか。私は、罪の意識というものは、犯した行為の深刻さによるものではなく、赦しへの見込みによるものであると感じることがあります。/もちろん、すでに話しましたように、キリスト教の贖罪思想が乱用されたり悪用されたりする危険はあります。しかし、この世に万能の思想は存在しません。だからこそ、いかなる思想も、長所だけではなく、その危険性も意識することは大切です。キリスト教の赦しという概念は、加害者に自分の罪を自覚させ、その罪を罪として向き合わせる働きがあることも忘れないでください。」、魯 恩碩『ICU式「神学的」人生講義 この理不尽な世界で「なぜ」と問う』、(CCCメディアハウス、2021年)143-144頁。
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2022/3/6 ダニエル書6章「ダニエルとライオン」こども聖書㊾

2022-03-05 12:36:02 | こども聖書
2022/3/6 ダニエル書6章「ダニエルとライオン」こども聖書㊾

 先週に続いて、ダニエル書です。
 旧約聖書の終わり頃、イスラエルの民は、イスラエルの地から遠く離れたバビロンに連れて来られていました。しかし、そのバビロンでも、神である主は変わらず神でした。バビロンは神ではなく、やがてペルシャが帝国になったのです。その王がダリヨス(ダレイオス)でした。彼もダニエルを大臣にしました。

1ダレイオスは…ダニエルを含む三人の大臣を置いた。…3…ダニエルは、ほかの大臣や太守よりも際立って秀でていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからであった。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。

 これは、他の大臣や太守には面白くありません。何とかして粗探しをしようとします。しかし、ダニエルは忠実で、何の怠慢も欠点も見つかりませんでした。そこで、

5そこでこの人たちは言った。「われわれはこのダニエルを訴えるための、いかなる口実も見つけられない。彼の神の律法のことで見つけるしかない。」

 神の律法は、神である主だけが神であることが根本にあります。ダニエルは、バビロンに来ても、この神の律法に従って、神である主だけを礼拝して、いつもこの神に向かって祈っていました。それを悪用することにしたのです。大臣たちは、ダレイオス王に、

7…今から三十日間、王よ、いかなる神にでも人にでも、あなた以外に祈願をする者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれる…

という法令を提案しました。



 こんな法令はおかしい、何か裏があるに違いない、などとも思わずに署名をしてしまいました。これで、今から三十日の間、誰でも、王以外のものに祈願をしたら、ライオンの穴に投げ込まれることになってしまったのです。

10ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。

 ダニエルは色んなことを考えたのでしょうが、何があったにせよ、家に帰り、エルサレムに向けて、以前と変わらず、神に祈りました。それも、感謝を捧げました。



 さあ、それを見ていたのは、あの大臣たちです。彼はダニエルが法令を破っているのを確認すると王の所に行きます。そして、あの法令をダニエルが破ったと告げたのです。

14このことを聞いて王は非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った。そして彼を助け出そうと、日没まで手を尽くした。

 欺されたとようやく気づいたのです。でも自分が言ってしまったことを取り消す勇気はありませんでした。大臣たちに迫られて、遂に諦めて、命令を出してしまいます。



16…ダニエルは連れて来られて、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「お前がいつも仕えている神が、お前をお救いになるように。」

 穴は封印されます。王は何も食べずに一睡もせず、朝を迎えます。

19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。20その穴に近づくと、王はダニエルに悲痛な声で呼びかけ、こうダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか。」

 するとダニエルの声が聞こえます。これはこの章で最初で最後のダニエルの台詞です。

21…「王よ、永遠に生きられますように。22私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」

 ダニエルの仕えている神は、獅子の口からダニエルを救い出してくれました。一晩、ライオンといてもダニエルは安全でした。ダニエルの仕える神は、私たちが仕えている神です。この日本で、他の神々を拝んでいる人が多くて、時には聖書や教会の礼拝が否定されるようなこともあるとしても、私たちは、堂々と主だけを礼拝します。同時に、この日本でもどこでも、ただ主だけがすべての人の神です。ダニエルは、神の前に自分が潔白であることと、王にも何も悪いことはしていません、と言ました。たとえダレイオスが間違った法律に署名をして、神を差し置いて自分に祈るよう求めてしまったとしても、そのダレイオスを非難したり、イジメ返そうとしたりはしませんでした。自分は神だけを礼拝しましたが、他の人たちの礼拝や宗教まで非難はしなかったのです。

 ダレイオスは決めてしまった法令は法令だから、とダニエルを獅子の穴に投げ込みました。しかし、ダニエルを助け出した後、ダレイオスは言います。

25…「あなたがたに平安が豊かにあるように。26私はここに命じる。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。この方こそ生ける神、永遠におられる方、その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。27この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の口からダニエルを救い出された。」

  ダレイオスは法を変えるのです! そうです、法令は間違って人を殺しかけたら、間違いを認めて改め、法よりも大事ないのちを守るため、法を変えよう」と言えばいいのです。大事なのは決まりよりも命です。

 ダニエルの神、私たちの仕える生ける神は、私たちの命を守ってくださるお方です。獅子をも静まらせる力ある神は、私たちの命を救うため、神の栄光を投げ打ってくださいました。ご自分を拝まない人間を罰したり地獄に投げ込んだりするより、ご自分が人間、イエス・キリストとなり、十字架にかかり、「神を冒涜する者」との汚名を着せられました。死んで葬られ、その墓は石で封印がされました。
 しかし、石で封じられた墓は開かれ、イエスは生ける神として現れてくださいました。イエスは、神の救いの力の証しです。そして私たちに、神を愛し、互いに愛し合う歩みを下さるのです。

「主よ、ライオンで脅したり、戦争を仕掛けたり、今も人を踏み躙られる事が続きます。あなたが私たちの神であり、私たちを愛される王です。ひとり子イエス様は、私たちを取り戻すため、命を捧げてくださいました。人が考えるよりも遙かに尊く、力強く、私たちに仕えてくださる神に、私たちも仕え、互いに仕え合う歩みで証しさせてください」


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