2020/6/28 エペソ書章8~9節「いい加減な信仰でも」ニュー・シティ・カテキズム29
「いい加減な信仰でも」なんていう題でお話をするのは、不真面目かもしれません。真面目でない信仰なんて、と思う人は大勢いるでしょう。そう考えると、聖書の信仰は私たちに、真面目になる事とは全く違う、ビックリする話をしているのでしょう。
第二十九問 私たちはどのようにして救われることができるのですか?
答 イエス・キリストと主の十字架上の身代わりによる贖いの死を信じるのみです。私たちが神に従わず、あらゆる悪を行う傾向があったとしても、私たちが悔い改め、キリストを信じるとき、神は、私たち自身の功績によるのではなく、ただ純粋な恵みによって、 私たちにキリストの完全な義を与えてくださるからです。
どのようにして救われるのだろうか。良い事をして、悪いことを止めて、礼拝に休まずに来たら、救われる。そう思ったら、ここでは
「イエス・キリストとイエスの十字架の身代わりによる贖いの死を信じるのみ」
というのですね。イエスを信頼する。そのイエスが十字架で私の身代わりに死んでくださったことを信じる。それだけだと言います。更に「私たちが神に従わない」-神に従っているかどうかを言われたら、従わなかったことは言い逃れようがなくても、それでも、それだからだめだ、とは言われないのです。
「あらゆる悪を行う傾向があったとしても」
とは強烈です。怒りっぽい、身勝手、嘘をつきそう、妬んだり、ひがんだり、疑ったりする、そういう傾向が心の中にある。それで、いくら信仰をもっても、そんないい加減な信仰ではダメだ、ではないのです。
勿論、神に従わないままでいい、あらゆる悪を好きなようにしていい、あるいは、ちょっとぐらいならしていい、と言うことではありません。なぜなら、神に従わないことは、私たちにとって害です。悪を行えば、必ず悲しい結果が生じ、その刈り取りを引き受けなければならなくなります。それは、避けた方が良いに越したことはありません。でも、どんなに避けようとしても、私たちは完璧には程遠い人間です。
聖書を書いた使徒パウロがそうでした。パウロはとてもすぐれた学者で、ローマ帝国を広く旅した熱心な伝道者でもありました。でも、彼は以前、教会もイエスも憎んでいた迫害者でした。キリスト者を捕らえて殺し、教会を潰そうとしていた人だったのです。
Ⅰテモテ1:13私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
主イエスに従うどころか、暴力で反対した、その過去はいつまでもパウロに付きまとっていたことでしょう。だから「あのパウロが救われるなんて信じられない。いくら良いことを書いた手紙をもらっても、どんなに大変な伝道旅行をしても、あんな過去のあるパウロは、認められない。信じられない。救われるなんて思えない」。そういう人もいたかもしれません。確かにそうです。神様に従わなかったパウロが救われることは驚きです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
という言葉は、パウロのような迫害者、罪人が、イエスに出会って、イエスを信じる信仰、イエスの愛を持つようになったことに、ハッキリと証言されているのです。しかし、それはパウロの過去の事だったとしても、パウロはイエスを信じて、伝道者として生きている今、もう一点の曇りもない、純粋な信仰を持っていたのでしょうか。いいえ、こう言っています。
ローマ7:18私は自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
パウロは今も、内面には葛藤がありました。良いことをしたい願いはあるのに実行できない。したくない悪を
「あらゆる悪を行う傾向」
がある。私も牧師ですが、自分の心にはたくさんの醜い心があります。誰かが、自分の心の中まで見通すメガネを持っていたら、とても恥ずかしくて逃げ出させてもらいたいです。教会に来ている人、すべてのクリスチャンは、イエス・キリストへの信仰を持ちつつ、
「あらゆる悪を行う傾向」
も持っています。罪を犯さない人ではなく、罪があることを認めて、その度にイエス様に向き直り、その救いにすがるのがクリスチャンです。その時「神は」私たちの信仰や心や悔い改めが純粋だからではなくて、
「ただ純粋な恵みによって、私たちにキリストの完全な義を与えてくださる」。
私たちの罪を赦して罰しないだけでなく、キリストの正しさが私たちのものであるかのように見て下さって、私たちと和解してくださるのです。
キリストが私たちのために完全で、十分なことをしてくださり、私たちにゆるし以上の恵みを下さいます。それを信じます。私たちの信じ方の純粋さや、正しさではなく、信じる対象である、主イエスが大事なのです。飛行機が空を飛ぶとき、私たちは勿論、飛ぶことを信じます。でも、搭乗客が「飛ぶ」と純粋に信じているから飛行機が飛ぶのではありません。お客の理解が足りなくても、揺れたときに疑ったり恐怖でパニックになったりしても、飛行機は飛んでくれます。だから、安心して乗ることが出来るのです。
イエスの救いもそうです。私たちがいい加減でも、行動や心が不純だらけの信仰でも、イエスが私たちを救って下さること、十字架の死が身代わりの、確かな死だったことを信じるのです。それが足りなくて、私たちが何かを付け加える必要はありません。
エペソ2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
だからこそ、私たちの生き方は、誇ったり自分を正当化しようとしたり、間違いを隠したりすることが全くない、本当に新しい生き方に変えられていくのです。
「憐れみ深い主よ、私たちは自分の高慢さや見せかけの義を捨て、悔い改めと信仰をもって御前に近づきます。キリストの死によって、私たちにいのちが与えられていることを信じます。あなたが与えてくださった救いを賛美します。アーメン」