聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/6/28 エペソ書章8~9節「いい加減な信仰でも」ニュー・シティ・カテキズム29

2020-06-27 11:17:33 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/28 エペソ書章8~9節「いい加減な信仰でも」ニュー・シティ・カテキズム29

 「いい加減な信仰でも」なんていう題でお話をするのは、不真面目かもしれません。真面目でない信仰なんて、と思う人は大勢いるでしょう。そう考えると、聖書の信仰は私たちに、真面目になる事とは全く違う、ビックリする話をしているのでしょう。
第二十九問 私たちはどのようにして救われることができるのですか?
答 イエス・キリストと主の十字架上の身代わりによる贖いの死を信じるのみです。私たちが神に従わず、あらゆる悪を行う傾向があったとしても、私たちが悔い改め、キリストを信じるとき、神は、私たち自身の功績によるのではなく、ただ純粋な恵みによって、 私たちにキリストの完全な義を与えてくださるからです。

 どのようにして救われるのだろうか。良い事をして、悪いことを止めて、礼拝に休まずに来たら、救われる。そう思ったら、ここでは
「イエス・キリストとイエスの十字架の身代わりによる贖いの死を信じるのみ」
というのですね。イエスを信頼する。そのイエスが十字架で私の身代わりに死んでくださったことを信じる。それだけだと言います。更に「私たちが神に従わない」-神に従っているかどうかを言われたら、従わなかったことは言い逃れようがなくても、それでも、それだからだめだ、とは言われないのです。
「あらゆる悪を行う傾向があったとしても」
とは強烈です。怒りっぽい、身勝手、嘘をつきそう、妬んだり、ひがんだり、疑ったりする、そういう傾向が心の中にある。それで、いくら信仰をもっても、そんないい加減な信仰ではダメだ、ではないのです。
 勿論、神に従わないままでいい、あらゆる悪を好きなようにしていい、あるいは、ちょっとぐらいならしていい、と言うことではありません。なぜなら、神に従わないことは、私たちにとって害です。悪を行えば、必ず悲しい結果が生じ、その刈り取りを引き受けなければならなくなります。それは、避けた方が良いに越したことはありません。でも、どんなに避けようとしても、私たちは完璧には程遠い人間です。
 聖書を書いた使徒パウロがそうでした。パウロはとてもすぐれた学者で、ローマ帝国を広く旅した熱心な伝道者でもありました。でも、彼は以前、教会もイエスも憎んでいた迫害者でした。キリスト者を捕らえて殺し、教会を潰そうとしていた人だったのです。
Ⅰテモテ1:13私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
 主イエスに従うどころか、暴力で反対した、その過去はいつまでもパウロに付きまとっていたことでしょう。だから「あのパウロが救われるなんて信じられない。いくら良いことを書いた手紙をもらっても、どんなに大変な伝道旅行をしても、あんな過去のあるパウロは、認められない。信じられない。救われるなんて思えない」。そういう人もいたかもしれません。確かにそうです。神様に従わなかったパウロが救われることは驚きです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」
という言葉は、パウロのような迫害者、罪人が、イエスに出会って、イエスを信じる信仰、イエスの愛を持つようになったことに、ハッキリと証言されているのです。しかし、それはパウロの過去の事だったとしても、パウロはイエスを信じて、伝道者として生きている今、もう一点の曇りもない、純粋な信仰を持っていたのでしょうか。いいえ、こう言っています。
ローマ7:18私は自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
 パウロは今も、内面には葛藤がありました。良いことをしたい願いはあるのに実行できない。したくない悪を
「あらゆる悪を行う傾向」
がある。私も牧師ですが、自分の心にはたくさんの醜い心があります。誰かが、自分の心の中まで見通すメガネを持っていたら、とても恥ずかしくて逃げ出させてもらいたいです。教会に来ている人、すべてのクリスチャンは、イエス・キリストへの信仰を持ちつつ、
「あらゆる悪を行う傾向」
も持っています。罪を犯さない人ではなく、罪があることを認めて、その度にイエス様に向き直り、その救いにすがるのがクリスチャンです。その時「神は」私たちの信仰や心や悔い改めが純粋だからではなくて、
「ただ純粋な恵みによって、私たちにキリストの完全な義を与えてくださる」。
 私たちの罪を赦して罰しないだけでなく、キリストの正しさが私たちのものであるかのように見て下さって、私たちと和解してくださるのです。
 キリストが私たちのために完全で、十分なことをしてくださり、私たちにゆるし以上の恵みを下さいます。それを信じます。私たちの信じ方の純粋さや、正しさではなく、信じる対象である、主イエスが大事なのです。飛行機が空を飛ぶとき、私たちは勿論、飛ぶことを信じます。でも、搭乗客が「飛ぶ」と純粋に信じているから飛行機が飛ぶのではありません。お客の理解が足りなくても、揺れたときに疑ったり恐怖でパニックになったりしても、飛行機は飛んでくれます。だから、安心して乗ることが出来るのです。

 イエスの救いもそうです。私たちがいい加減でも、行動や心が不純だらけの信仰でも、イエスが私たちを救って下さること、十字架の死が身代わりの、確かな死だったことを信じるのです。それが足りなくて、私たちが何かを付け加える必要はありません。
エペソ2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 だからこそ、私たちの生き方は、誇ったり自分を正当化しようとしたり、間違いを隠したりすることが全くない、本当に新しい生き方に変えられていくのです。

「憐れみ深い主よ、私たちは自分の高慢さや見せかけの義を捨て、悔い改めと信仰をもって御前に近づきます。キリストの死によって、私たちにいのちが与えられていることを信じます。あなたが与えてくださった救いを賛美します。アーメン」

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2020/6/21 マタイ伝8章14~17節「病を担う王」

2020-06-27 11:17:33 | マタイの福音書講解
2020/6/21 マタイ伝8章14~17節「病を担う王」

 今日から8章に入ります。丁寧に見るなら、
8章1~4節は「ツァラアトに冒された人のいやし」
5~13節は「百人隊長のしもべの癒やし」
そして、この14節の「ペテロの姑の癒やし」
が書かれています。こうしてまとめて読むと、癒やしが並べられていることに気づけます。山上の説教で群衆を驚かせたイエスは、今度は癒やしの奇蹟によって、人々を驚かせました。
 それは本当に驚きでした。ただ、病気を癒やすという驚き以上の驚きがありました。それは、ツァラアトという「汚れ」と見做されていた病気の人の癒やしから始まった、という驚きです[1]。この病気は「神の罰だ、汚れの現れだ」とされて、触ることも忌み嫌われていた。見た目の悲惨さと、聖書の誤解でひどく差別されていた病気です。イエスは退けたり逃げたりせずに、手を伸ばして触り、きよくされました。
 続いたのは、異邦人である百人隊長です。異邦人(ユダヤ人ではない外国人)はユダヤ人からすれば、選びの民ではない、生まれつき呪われている異教徒、滅びの民と考えられていました。ところが、イエスはその異邦人の百人隊長の願いを聞いて、しもべを癒やされます[2]。これも当時のユダヤ人からすれば非常識なことでした。
 それに続いたのが14節の、ペテロの姑の癒やしです。女性で高齢者というのも、当時の社会では軽んじられていました。今はどうでしょう。女性や子ども、病人や障害者、見た目が変わっている人、外国人・文化や宗教の違う人が、その立場であるというだけで不利な社会であることが今も大きく問題にされています。家を借りることも大変だったり、入試でも就職でも拒まれたり、犯罪の被害を訴えても取り扱ってもらえない。そんなことが、今もまた日本でも世界でも叫ばれています。イエスが癒やされたのは、まさにそういう人たち、差別されている人たちでした。その人たちを率先して受け入れて、癒やされた。それは病気の癒やしだけでなく、癒やされる価値がある、人として尊厳を認めてもらう、そういう癒やしでもありました。
 こうして始まった癒やしが、16節で大勢の人が連れて来られて、癒やされて、17節では、
17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
と言われます。預言者イザヤのこの言葉は、イザヤ書53章4節の言葉です。しかし、ちょっと考えるとイエスは人の病気を癒やされたのであって、担ったり背負ったりした、というのは違うような、こじつけのような気もします。病気や悪霊をイエスの権威で癒やされ、近寄らなくても癒やせるほどの権威があった、というのがここまでの病気の癒やしでした。でも、病気の癒やし以上に、これが汚れていると忌み嫌われた病人や、外国人・異教徒と偏見を持たれた百人隊長、そして癒やしを願われることさえなかった姑、そういう病んだ社会への挑戦だったと気づくなら分かります。イエスは、彼らを癒やすことによって、もっと大きな荷物を引き受けられました。そして、最終的にはその分け隔てない愛のゆえに、十字架に殺されたのです[3]。
 マタイの福音書はイザヤ書から、明言されているだけでも6回、その他でも5回引用しています[4]。イザヤはイエスの時代から六百年前の預言者ですが、当時の特権階級に有利な、形式的な信仰のあり方を批判した人です。そして、やがてメシヤが「みどりご」として生まれ、私たちの病を背負い、苦しみを受け、そのいのちをささげ物として、私たちを回復し、治めてくださると預言しました。マタイはイザヤ書を繰り返し引用して、イエスがイザヤの約束した王だと告げています。イエスは病気の癒やし以上に、私たちの生き方全体を回復なさるのです。
 今回のコロナウィルスの事でも、ウィルスと同時に、不安とかデマとか差別が感染してしまうことが検証されつつあります。病気らしい、医療関係者だ、中国人だ、県外ナンバーだ…そういう事で中傷や排除がされる。「病気よりも人間が怖い」と心が病んだ人がいます。これこそ人間らしさを失った、悲しい病気です。イエスは世界に来られて、病んだ社会、差別されている者の苦しみ、差別する者の罪を担われました。病気の症状の癒やしは始まりで、人に染みついている、罪の冷たい病を担って、長い癒やしを続けています。神が治める国、誰もが人として、神の子として生き、死ねる共同体をイエスは始めたのです[5]。それは病気の癒やしよりも困難な癒やしですが、イエスは必ず癒やして、私たちの冷えた心も関係も癒やしてくださる。
 癒やされたペテロの姑は、イエスをもてなしました(欄外「仕えた」)。癒やされることと、仕えることとは、切っても切り離せません。病気が治るだけでなく、誰かを喜ばせたい、誰かを助けたい、「ありがとう」と感謝されたい。そういう渇きが人にはあります。生きているだけでも、誰かが喜んでくれる。そう思えない心は、病んでしまいます。イエスは病気を癒やしただけでなく、姑のもてなしも喜んでいます[6]。病気の癒やし以上の交わりを与えたのです。イエスは、実にここに「天の御国」について教えられたことを、見える形で産み出されました。癒やしの奇蹟は、キリスト者の多くは受け継ぎませんでした。しかし、末期の病人を、自分が感染することも恐れずに介抱するような共同体、神から与えられたいのちを尊び合う共同体が始まりました。教会は医学も発展させましたし、人が人として扱われ、喜ばれて、安心して死ねるホスピスや「死に向かう人の家」を作ったのもその実です[7]。その延長に私たちもいたいのです。

「癒やし主なる主よ。どうぞいのちの祝福で満たしてください。どんな人も、あなたによって尊く生かされ、救いや癒やしを、温かさと生き甲斐を求めている、そんな当たり前のことを見失って、心を閉ざしてしまう私たちの病を癒やしてください。あなたが始められた、神の御国の喜びに、私たちの思いや言葉も新しく、温かく変えて、仕え合う喜びに与らせてください[8]」

[1] この病気が本来どんな病気だったのかは実はハッキリしていません。長らく「癩病」、今では「ハンセン病」と呼ばれる病気と考えられてきました。この病気が日本でも長く誤解され、悲惨な差別を受けて、隠されてきた歴史に、キリスト教会も少なからず荷担してきました。「天荊病」などと呼んで、罪の象徴だと見做してきたのです。
 この説教の前日(2020年6月27日)の徳島新聞1面にあったこの記事は、今日のイエスのみわざと重なって、私たちに迫ってきます。

[2] また、イエスは、百人隊長のうちに、イスラエルのうちにも見たことがない信仰を見た、と仰いました。これも、単なる「立派な信仰」の教えというよりも、屈辱的・言語道断と言える爆弾発言でした。
[3] 「イエスはすべての病気を癒やす」→「どんな病気も癒やされるはず」→「癒やされない病気があるのはイエスのせいではない」→「癒やされないのは本人の罪・不信仰・祈りの欠如」という、本末転倒な論法もないか。
[4] マタイの福音書3:3(イザヤ書40:3~4)「この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。」、4:14~16(イザヤ書9:1)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」」、8:17(イザヤ書53:4)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」、12:17~21(イザヤ書42:1~4)「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。18「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。19彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。20傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。21異邦人は彼の名に望みをかける。」」、13:14(イザヤ書6:9)「こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』」、15:7~9(イザヤ書29:13)「偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。8『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」」、そして、27章の受難記事では、多くがイザヤ書53章を踏まえています。例えば、27:12~14(イザヤ書53:7)「しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。」、25(イザヤ書53:3)「すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」、57~60(イザヤ書53:9)「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。58この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。59ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。」。また、1:22~23(イザヤ7:14)「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」、21:13(イザヤ56:7)「そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」、26:24「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」、26:56「しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」
[5] 山上の説教に照らして、あの教えと反対の状態も、人の病と言えるでしょう。さばき病、思い煩い病、見せるため病、神忘れ病、自己陶酔、憎しみ病。それが悪いのではない、本人の罪とか、親の育て方、ということでもない。「本人でも、両親でもない。神の栄光がこの人に現れるため」と言える。
[6] ツァラアトの人の祭司との関わりも、百人隊長のしもべに対する熱心も、イエスは新しく変えて祝福の交わりとしてくださっている。そう思えてなりません。
[7] マタイが引用したイザヤの言葉もこう続いていました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ53:4。現代病と言われる「依存症」は、孤独を根底に持っています。薬や治療者によって治せるものではなく、逆に、本人が気づくのを支えていくしかありません。特定のものに依存するのではなく、健全な、多くのものに依存している安心感、責任・応答に気づく以外に「治療」のない、長いつながりによって癒やされる病です。
[8] 癒やしの奇蹟は、教会の中でも、ここに書かれているように教会の外、違う宗教の中でも起きています。主は憐れみ深い方ですから。それを受け止める私たちは、病気や外見、生まれや肩書き、性別や自分との違いで、人を排除する病から救われていきたい。イエスが私たちを担ってくださって、私たちの生き方や社会に染みついた冷たい偏見から救い出して戴きたいと願います 。イエスはこの時だけでなく今も、世界の片隅で働いておられます。私たちの狭い思いを覆すような御業は、続いています。
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2020/6/21 ヨハネ伝3章16~18、36節「神の御前から」ニュー・シティ・カテキズム28

2020-06-21 14:18:20 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/21 ヨハネ伝3章16~18、36節「神の御前から」ニュー・シティ・カテキズム28

 神様は、主イエスを信じる人にも信じない人にも恵みを惜しまれない方です。では、キリストを信じても信じなくても変わらないのでしょうか? 

第二十八問 信仰によってキリストと一つとされていない人々は死後どうなるのですか?  
答 彼らは裁きの日に、恐ろしくも、正しい有罪の判決を受けます。そして彼らは神の良き御前から追い出され、地獄に入れられ、正しく、悲しみに満ちた永遠の刑罰を受けます。

 「地獄」は聖書に出て来て、イエスが何度も言及された言葉です。地獄は、キリストを信じない人が、無理矢理神の前から追い出されて、行かされる場所ではありません。神は私たちを招き、御前にいるように作られたのです。それを人間の方が、神の前から飛び出して、神のいない世界に出て行ったのです。キリストはその人間のために、神の場所から飛び出して、私たちの所に来て下さいました。十字架の苦しみにまで謙って、私たちやどんな人の所にも近づいて、手を差し伸べてくださったのです。罪の赦しと神との和解を差し出してくださいます。それを受け入れる信仰も、神の側からの不思議な贈り物です。「キリストを信じないから地獄に行く」ではなくて、元々、神を退けたことが「有罪」なのです。その「有罪」はキリストを信じなかった、という有罪ではなく、神を拒んだ有罪で、キリストは、そこから救い出してくださる恵みを下さったのです。でも、それを受け入れる事は出来ないくらい、人間の中には、神の前から逃げて、神なしに、自分が神になって生きたい、という妄想が染みついてしまっているのです。

 「地獄」とはどんな場所でしょうか。聖書に出て来る「地獄」とは「ゴミ捨て場」という言葉です。エルサレムの街のゴミ捨て場、ヒンノムの谷はゴミを燃やす火がいつも燃えていました。でも、今のゴミ焼却炉のように超高温の焼却炉があったわけではありません。燃える暑い火でゴミを苦しめて懲らしめるというより、ゴミ捨て場だから火も燃えていたのです。この「ヒンノムの谷」(ゲー・ヒンノム)から「ゲヘナ」、地獄と訳される言葉が出ました。神様から離れたら、人は、どんどん命を失って、最後には、人間としてはゴミのようになってしまいます。神がくださる命も、喜びも、愛も、希望もない。不安や、ワガママでいっぱいになります。自分でも自分が嫌いになり、後悔やごまかしばかりするようになるでしょう。全ての良いものは神様からの贈り物です。その良い物を失った時、私たちはどんなになるでしょう。それはとても恐ろしい事です。



 恐ろしい、と言う以上にここには「悲しみ」と書かれています。そう、愛である神様から離れることは、悲しい事です。ですから、イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかって下さる時、イエス様は「私は恐ろしくて死ぬほどです」とは言われず、
マタイ26:38わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
と言われました。神から離れた状態は、悲しみです。しかし、繰り返しますが、その状態から救い出すために、イエスはその地獄の悲しみを味わってくださったのです。悲しみから救うために、イエスは来られたのです。神は私たちを救ってくださるのです。
ヨハネ3:16~18神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

 神は世を裁くためではなく、救うために御子を世に遣わされました。御子を信じれば救われるのです。でも、信じない人は信じないこと自体が、神の御前に戻るよりも神から逃げていたい、という選択でした。その反逆が最後には成功して、本当に神の御前から遠く離れた場所に行けるのです。そこから救うために命も惜しまなかったイエスですが、無理矢理そこから連れ出すことはなさいません。それは彼らが望まないのですから。

 もう一つ思い出してください。神は良いお方です。私たちのうちに救われるための信仰を下さるお方です。その方が、私たちにも他の人にも、救いを豊かに下さるでしょう。決して、「信じないと地獄に行くぞ」と脅してはなりません。そんな救いなら要らないでしょう。また、「キリスト教」を信じている人でも、「信仰によってキリストと一つとされていない人々」はいるでしょう。逆に、聖書を見れば、イエスが来られる前、キリストのキの時も知らないけれど、神の民とされている人々は大勢います。



 キリストが心に働いて、神への悔い改めを与える業は、見えないお働きです。そして、私たちは、神がどの人にもひっそりと心の内に働いておられる、良いお方であることを信じましょう。

 「地獄の門は内側から鍵がかけられている」
といいます。「地獄とは、成功した反逆者達のいる場所」だとか、「罪人の求める、神からの自立と独立の究極の形です」とも言います。今でも、物凄く不安で、淋しく、悲しいのに、強がって、楽しみに逃げて、人も神も笑っている人たちはいるかもしれません。そんな閉じ籠もった世界の、ゾッとするような楽しみがあるとしても、そんな快楽から救い出されたことを感謝しましょう神の恵みを戴いて、私たちは、頑固に滅びる生き方から救われるのです。本当に有り難い恵みです。今日の言葉は、信じない人を脅すための言葉ではなく、私たちが神に背いたままの生き方ではどうなっていたかを思い出し、謙虚に感謝するための告白です。

詩篇73:23~28
あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。
24あなたは 私を諭して導き 
後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
25あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。
地では 私はだれをも望みません。
26この身も心も尽き果てるでしょう。
しかし 神は私の心の岩 
とこしえに 私が受ける割り当ての地。
27見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。
あなたに背き 不実を行う者を あなたはみな滅ぼされます。
28しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸せです。
私は 神である主を私の避け所とし
あなたのすべてのみわざを語り告げます。

「地上のすべてのものを裁かれる神よ。あなたとの契約のうちにいなければ、どれほど恐ろしい裁きが私たちを待っていることでしょうか。あなたから離れていたら私たちも裁きを受ける身でした。どうか、手遅れになる前に、私たちの愛する人々もあなたと和解し、彼らが受けるべき罪の報いの苦しみを味わうことがありませんように。アーメン」
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2020/6/21 マタイ伝7章21~29節「岩の上に家を建てたよう」

2020-06-20 14:58:40 | マタイの福音書講解
2020/6/21 マタイ伝7章21~29節「岩の上に家を建てたよう」

 「山上の説教」が終わり、群衆の反応は
「その教えに驚いた」
 腰を抜かすほどの強い驚きでした。それは、イエスが権威ある者として教えられたからです。律法学者も権威はあって、律法を教えていました。非常に真面目に、神の言葉への恐れをもって語っていた人も少なくなかったはずです。しかし、それとは全く違う権威がイエスにはありました。私たちも、山上の説教を読むとき、そのイエスの権威への驚きを今日も新たにしたいのです。
 この結びの所でも驚かされるのは、
「天の御国に入る者」
とは、
「主よ、主よ」
と熱心に言い、
「私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか」
と誇れる人ではない、という言葉です。勿論、そういう業がダメだ、というのでなく、熱心さや働きの多さは、天の父の御心の本質ではない。天の父の御心は、私たちが何かをしたから子どもにしてやろう、熱心だから必要を満たして上げよう、真面目に生きたから御国に入れて上げよう、ということではなく、ただ神の一方的な憐れみのゆえに、私たちの天の父となってくださること、そして、その恵みを受けた者として、私たちも応答し、感謝に溢れて、互いに心から愛し合うこと。それが、ここまでの「山上の説教」で様々な角度から繰り返されてきた、神の国の道でした。ですから、
24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。…26わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。」
とあるのも、「聞くだけで実行しなければダメだ」というよりも、肝心のその「御言葉」を聞いているかどうかです。22節の大勢も、実行は十分にあったのですが、していたのは、イエスの言葉とは違う働きでした。大事なのは神の恵みです。イエスが語られていたのは、父なる神の大きな恵みへの信頼です。その言葉に耳を傾けるなら、驚かずにはおれず、更にイエスが仰った応答を、静かに深くしながら変えられて行かないはずがありません。他者との関係も、自慢や比較から解放されて、恵みの光の中で見るよう新しくされるのです。そのような主の愛を求めて生きる生き方が、ここで
「岩の上に自分の家を建てた賢い人」
に譬えられています。
「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」
こと。イエスが語る天の父への信頼、隠し事もなく、自慢や頑張りを手放して、人も自分も裁かない生き方…、それは確かに
「狭い門から」
入り
「細い道」
を通る歩みですが、何よりイエスがともにいてくださる道で、共に歩む兄弟姉妹もいます。主に聞き従い、恵みを受け取り、分かち合う歩み。それは
「岩の上に家を建てた人のようだ」
と言われる、確かさがあるのです[1]。主に耳を傾け、主の言葉に地道に従って、主の恵みに生きるなら、意外なことに嵐でも倒されない礎を持つ。それは、イエスの言葉が、権威あるイエスご自身の約束だからです。イエスが私たちを神の子どもとして結びつけてくださる。そこに御言葉は、私たちの生き方を結びつけてくれるのです。この御言葉に静かに耳を傾け、信頼をすることはそれほど命がある。そんな大胆な宣言を仰ったのです。[2]

 イエスは16章で、ペテロが
「あなたこそ生ける神の子キリストです」
と告白した時に、
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」[3]
と仰いました。イエスが生ける神の子キリストである事実こそ「揺るがない岩」です[4]。イエスを神の子キリスト、私たちの主と告白して、その約束に聴き、生き方も変えて頂く時、揺るがない土台を持ったのです[5]。
 とはいえ、こう告白したペテロはとても気位が高い弟子でした。
「私たちはすべてを捨ててあなたに従って来ました。」
と胸を張り[6]、今日の22節の「大勢」と同じく、自分のしたことや信仰を誇っていたのです。その末に、イエスが逮捕された時に、ペテロの信仰はひどい倒れ方をしました。では、そのペテロをイエスは叱ったのでしょうか。お前は知らない、わたしから離れていけ、と切り捨てたでしょうか。いいえ
「知らない」
と言われたのは、イエスでした。十字架は、権威ある方イエスが、借り物の権威しかない律法学者達に偽メシアとして殺された事です。父なる神にも見捨てられた最期です。そしてペテロから、三度知らないと言われたのです。その事もイエスは先に見通しておいででした。自分を知らないと言われることもイエスは引き受けて、そのペテロのために、命を捨てて十字架にかかってくださったのです。そして三日目に復活したイエスは、ひどい倒れ方をした弟子たちに近づき、もう一度立ち上がらせて、世界へと派遣された。今も同じです。私たちの勘違いとか、嵐に耐えられずに倒れ、主を知らないと呪おうとも、主イエスは私たちを立たせてくださるのです[7]。
 この主の言葉に聴き、育てられ、自分を育てましょう。今ここで、主の恵みの言葉に聴いて、自分の誇りに頼らず、誇る自分を笑いながら歩めるのです。禍に襲われて、人の目には倒れたと見えても、必ず主イエスは私を支えて、立ち上がらせてくださいます。そう約束されたのです。今も、主は常識を引っ繰り返すような恵みで、私たちを深く守り、支えてくださるのです。

「主イエス様。あなたの恵みの言葉によって、終わりの日にも揺るがない確かさを贈って下さり感謝します。あなたの言葉で、私たちの隠れた思い上がりや卑しさを押し流してください。岩を掘るのではなくとも、自分の心の奥深くに、あなたとともに下りて行き、心の奥を恵みに潤される幸いを与えてください[8]。私たちの生活に、あなたの驚くべき御業を現してください」

イエスは岩 ・・・ Jesus is Rock!

脚注:

[1] 決して「死に物狂いでやっと通れる困難な旅」ではありません。貧しい者は天の御国が与えられる、と言われる、身一つであれば通れる道です。多くを手放しながら歩む、細い道なのです。
[2] 以前、教会の中に聖書紙芝居で、この「愚かな人と賢い人」の話を絵にしていたものがありました。とてもよく覚えている、可愛らしいイラストのお話しでした。しかし、ある時気づいたが、この話とその紙芝居は大きく違う、ということです。その話では、大変な肉体労働で家の土台を据えるのです。それも、岩の上にではなく、岩に鶴嘴(つるはし)で穴を掘るという、途方もなく大変な作業を必死にしているのです。そして、そういう生き方をすれば、洪水が押し寄せても大丈夫、というお話しで、皆さんも頑張って御言葉に従っていきましょうと閉じるのです。イエスの譬えはそれとは違います。興味のある方は、こちらから朗読したものがご覧になれます。https://i.ytimg.com/vi/JBLb83bsfpc/hqdefault.jpg 
[3] 16:15~19「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
[4] Ⅰコリント3:10~15「 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。11だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。12だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、13それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。14だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。15だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」
[5] そんなことをイエスは言われたから人々は驚いたのです。さりげなくハッキリと、イエスはご自分の御言葉の権威を宣言されました。律法学者が、聖書の権威を高々と掲げて語ったのだとすれば、イエスはその権威を肩に担いで、人の中に降りて来られ、自由自在にお語りになりました。イエスへの私たちの貧しい信頼が、岩の上に家を建てるような堅固さだと宣言されました。イエスのために何かをするのではなく、イエスが恵みによって作ってくださる生き生きとした交わりの中に生きる道を示して招いてくださったのです。そして「山上の説教」の後も、イエスは更に御言葉を語り続け、群衆を癒やし、驚くことを続けます。
[6] マタイ19:27「そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
[7] ローマ14:4「しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」
[8] 地面に深く穴を掘る。努力が求められている、というのではなく、御心を行うことを指している。しかしそれは、一面、自分の心の奥深くに下りて行く作業だとも言える。何か周りを堅牢に高くすることで、安心しようとするのではなく、自分の心の奥深いところに、主の恵みを置く。見えない所に、神を迎え続ける。心の一番奥に、主イエスを迎え入れ続ける。隠している自分、誇っている自分、焦って、絶望して、諦めて、信じ切れないでいる自分を、神は父となりわが子として抱きしめて下さっているのだと、自分の中で確かめ続ける。静まり、手を開く。
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2020/6/14 ローマ5章17節「選びの恵み」ニュー・シティ・カテキズム27

2020-06-13 17:48:37 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/6/14 ローマ5章17節「選びの恵み」ニュー・シティ・カテキズム27

 教会のシンボルは、色々あります。舟、魚、聖書、パンと葡萄酒、鳩…。
 その中でも最も有名なのは、十字架です。十字架は、イエス・キリストが磔にされた処刑道具です。神の子であり、最も聖なるお方が、十字架に死なれました。でもそれは、敗北や恨めしやの十字架ではなく、神が私たちを、最悪の死さえ惜しまなかったほどに愛しておられる、という証しです。また、神の子イエスが死なれた以上、私たちは必ず生きる、という希望です。私たちだけではなく、この世界全体が、キリストの命によって新しくされる。そういう希望をもって、教会は十字架を掲げています。では、キリストの死は、全ての人が、救われるという証しなのでしょうか。イエス様を信じようとしない人も、神の愛も人の命も大事にしない人も、すべての人が救われるのでしょうか。

第二七問 アダムによってすべての人が失われたように、すべての人がキリストによって救われるのですか? 
答 そうではありません。神によって選ばれて、信仰によってキリストと一つとされた人だけです。それでもなお、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。

 すべての人が自動的に救われる、訳ではないのです。救いは、神の側からの贈り物で、キリストを信じる信仰を与えられた人だけのものです。キリストを信じる事を拒み、神も人の命も馬鹿にするような人まで、自動的に救われるのではありません。「自分は救われたくない。神を信じたくなんかない」という人まで救われるのであれば、おかしな話になりますね。神様との和解が救いです。神と和解したくない人が和解させられるとは、その人にとって有り難くもなんともないはずです。ただし、ここでは、「それでもなお神は憐れみ深く」と驚くべきことを語っています。この事に目を留めましょう。
それでも尚、神は憐れみ深く、罪の影響を抑え、人の幸福のためになされる文化の働きを可能にすることによって、選びを受けていない人にも一般恩恵を表されます。
 神はこの世界の、罪の影響を抑えています。文化の働きを可能にしています。この中には、勉強している学問、科学や医療や技術があります。料理や衛生やインフラ、音楽や芸術やすばらしい文学もあります。スポーツや福祉活動もあります。そして、そうした働きを支えている、この世界の法則や、天候や、私たちの健康、身体の仕組みも、神の憐れみによることです。これを、神学の言葉では「一般恩恵」といいます。救いに至らせる恩恵(特別恩恵)とは別だけれども、自然やこの世界や、人の文化やカラダも心も、神の一般恩恵が支えているのです。主イエスはこの事をハッキリと宣言されました。
マタイ6:45…父(神)はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
 もっと遡ると、地の堕落を食い止めるための大洪水の後、生き残ったノアの家族に、
創世記8:21…主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」
 もし神が、世界を人の罪の故に罰したり、信仰者だけを憐れむという基準をもっていたりしたら、この世界はたちまち滅んでいたでしょう。種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜が今日もあるのは、神がこの世界を憐れんでおられるからです。また、神が人の心に働きかけて、罪の影響を抑えてくださらなければ、この世界はもっと自己中心で、滅茶苦茶で、犯罪の巣窟のようになっていたでしょう。教会でも、この世界をそのような堕落した悪の社会だと描くことがありますが、聖書の約束は違いますし、実際も世界には、神が悪を抑制し、人の幸福のための文化を育てておられる印が溢れています。私たちの食事、生活、楽しみ、幸せが、たくさんの人の努力や工夫や善意で成り立っています。新型コロナウイルス感染防止のために、病院で働いている人、自粛している人、自粛の中で、何とか楽しんだり安心して生活したり出来るように、知恵を凝らした仕事をしている人、そして、ワクチン開発のために働いている研究者…。そうした方々の善意、勇気、知恵、努力から、私たちはたくさん教えられ、励まされていますね。
ローマ5:17もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
 アダムという一人の人の違反によって、その子孫の全人類が、死によって支配されました。しかし、その中の一部を救う、という小さな救出ではありません。すべての人が自動的に、強制的に救われるのではなくても、神の恵みと義の賜物は溢れるばかりに注がれているのであって、イエス・キリストを信じる私たちは、命にあって支配するようになるのです。私たちは、この世界の中に、神の憐れみが溢れているという事実を知らされて歩むことが出来ます。単純に、「救われた人」と「救われない人」と色分けはしないのです。それは、私たちには最後まで分かりません。なぜなら、この世界に、神は憐れみ深く働いておられるからです。多くの人の努力や、この世界の文化や、良心や、他宗教を信じる人の言葉や存在からさえ、本当にたくさん沢山助けられています。それは、神の一般恩恵であり、憐れみ深さです。だとしたら、その中にどんな救いの準備があるか、神の選びがそこに始まろうとしているか、大いに期待できるでしょう。
 神が選んで下さったからこそ、私たちはこの世界が、神の憐れみによって支えられ、神の良いご計画を表していると信じることが出来ます。この世界を美しい世界として見ることが出来ます。イエス様が十字架にかかったのは、この世界の悲しみも暴力も放っておかずに、神様の美しい物語を届けて下さるためだと、信じる事が出来ます。

「全知全能なる救い主よ、あなた以外に救いはありません。あなたの御名を呼び求める者を、あなたは必ず救ってくださいます。あなたが私たちを死からいのちへと移してくださったからこそ、私たちはあなたの御名を呼ぶことができます。あなたの選びの愛を完全に理解することはできないかもしれません。しかし確かなことは、私たちも、また他の誰も、あなたの愛を受けるに相応しくない者であることです。ただ感謝します」
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