2017/5/28 ハ信仰問答70「神は潔癖症ではない」テトス三1-8
洗礼について今日もお話しします。教会で、水に沈めたり、水を頭からかけたりして、教会員になる儀式をするのが洗礼です。それは「キリストの血と霊とによって確実に洗われる」ということが、思い出され、確証させられるための儀式です。イエスを信じるなら、イエスが仰ったとおり、洗礼を受けます。それによって、私たちはイエスがして下さったことが、本当に私のためだったとハッキリ分かるようにされているのです。そして、今日の問70ではもう一度、その意味を確認するのです。
問70 キリストの血と霊とによって確実に洗われるとは、どういうことですか。
答 それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で非の打ちどころのない生涯を歩むためなのです。
ここには、大きく分けて、二つのことが言われています。一つは、
「恵みによって神から罪の赦しを得る」
ということ。そしてもう一つは、
「聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される」
という事です。水で洗うと、汚れが落ちるだけではありません。濡れて、瑞々しくなったり生き生きしてきますね。ですから、洗礼において表されているキリストの洗いも、罪からの赦しだけでなく、聖霊によって新しくされることでもあるのです。それが確実だということが、洗礼で体感されるのです。
キリストの血と霊とによって、私たちが神からの罪の赦しを得る、と言われています。決して、私たちが自分で罪の赦しを洗い清めるのではありません。キリストが私たちの罪を洗って下さるのです。洗礼はそれを思い起こさせるのであって、洗礼が私たちの罪を洗うのではありません。洗礼の水に特別な力があるのでもありませんし、洗礼を授ける人が誰かによって効き目が違うこともありません。ここが誤解されやすいのです。聖書の時代でさえ、誰が自分に洗礼を授けてくれたかで分派をした人々がいました。また、イスラエルに団体旅行に行って、ヨルダン川で洗礼を受けるという人もいます。ヨルダン川の水を汲んできて、それを垂らした水を使って洗礼をする人もいます。そういうミーハーな気持ちも楽しいものでしょうが、逆に言えば、普通の水道水やそこらの海でしようと洗礼の意味は変わらない。名前の知られた誰かが授けたのと、田舎牧師の古川が授けたのも変わらない。それぐらい、大事なのはイエス・キリストが十字架で血を流してくださったことと、イエス・キリストが私たちに聖霊を送って、罪の赦しと新しいいのちに確実に与らせてくださる。それは、なんとすごいことだろうか、と思うのです。
また、洗礼はこのキリストの洗いを思い出させてくれるものであって、洗礼そのものが罪を洗うのではありません。洗礼が罪を洗うのだと思うと、それは有り難い儀式になるかもしれませんが、私たちはきっと何度も何度も洗礼を受けたくなるでしょう。私たちは今でもまだ、罪の性質を持っているからです。罪とは無縁に一日でも生きることは出来ないのです。ですから、私たちの中には、自分の心の汚れや、口にしてしまった暴言や嘘、後悔している行動についてのとがめがいつもあります。そして、神様も、私たちの罪を嫌い、汚らわしいものでも見るかのような目で見ておられるのではないか。怒る寸前なのではないか、と思ってしまいます。でも、そうではないのです。洗礼は、神が私たちを罪に汚れた者として嫌悪してはおられない証しです。キリストは十字架に死なれて、私たちの罪を洗ってくださいました。そればかりではなく、聖霊のお働きによって、更にもっと私たちを聖別して、新しくしてくださいました。そうして、私たちに罪に死に、敬虔な生き方をするようにと働いてくださるのです。
「潔癖症」という病気があります。汚れているのが大嫌いで、自分の身体が汚れていないかいつも気になってしまう病気です。とても苦しい病気です。潔癖症になると何度も手を洗います。いつも手を洗うと綺麗になった気がしますが、またすぐ汚れたような気がする。本当に苦しい病気です。私たちの心にある罪の汚れも、ずっと洗っていなければならないとしたら苦しいでしょう。イエス様の赦しを何度も頂くために、洗礼を受けたり、聖餐を頂いたり、良いことをしたり、罪の告白をしたりしなければ赦されないのだとしたら、とても苦しくて耐えられません。
でも、洗礼はその逆を教えてくれると言います。洗礼は何度も受けるものではなく、一度だけです。それは、洗礼に罪を清める力があるのではなく、キリストが私たちを洗って、罪をきよめただけでなく、新しいいのちを下さって、新しい生き方も下さる。その事を覚えさせるものだからです。
もしかすると神は潔癖症の方だと思っていませんか。自分の罪を少しも我慢できず、少しでも汚れがないかといつも見張っていて、何か見つかると触れたくないと思われるようなお方だと思い込んでいる人もいる気がします。しかし、洗礼が示すのはその逆です。神は、私たちがどんなに汚れていようと、その罪を洗ってきよくして、これからは罪のためではなく、神を知るものに相応しい生き方をしてほしいと願われるお方です。そのために、御子イエスは、この世界の罪の真っ只中に来て下さいました。私たちの罪をすべて負われて、十字架に殺されました。そして聖霊によって私たちを新しくして、新しい生き方を生きるようにと働いてくださっています。
神は潔癖症ではありません。私たちが自分に嫌気が指す時も、神はイエス・キリストにおいて私たちを洗い、永遠に私たちとともにおられます。私たちの心のどんな汚れをもご承知の上で、私たちを愛されます。天のお父様は、私たちを我が子として愛して、私たちを洗って下さるのです。罪を忌み嫌う以上に、もっと清く明るい生き方こそ、可愛い私たちには相応しいと見てくださるのです。汚れが嫌だから「洗ってこい」という神ではなく、私たちを愛して、私たちを「ありのままで美しい、尊い」と見てくださる神です。お風呂に入るのに、汚れだけ落とすわけにはいきません。裸になって、お化粧や飾りも全部落ちて、すっぴんになりますね。神が私たちを洗って下さるのもそうです。汚れだけでなく、自分を取り繕っていた全てのものからもサッパリするのです。そういうすっぴんの私を神は愛されて、尊いと見なされて、だからこそ、心から尊い生涯を歩ませたいと願う神です。洗礼は神が私たちを愛され、聖別してくださっている証しです。