聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問70「神は潔癖症ではない」テトス三1-8

2017-05-28 18:31:37 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/28 ハ信仰問答70「神は潔癖症ではない」テトス三1-8 

 洗礼について今日もお話しします。教会で、水に沈めたり、水を頭からかけたりして、教会員になる儀式をするのが洗礼です。それは「キリストの血と霊とによって確実に洗われる」ということが、思い出され、確証させられるための儀式です。イエスを信じるなら、イエスが仰ったとおり、洗礼を受けます。それによって、私たちはイエスがして下さったことが、本当に私のためだったとハッキリ分かるようにされているのです。そして、今日の問70ではもう一度、その意味を確認するのです。

問70 キリストの血と霊とによって確実に洗われるとは、どういうことですか。

答 それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で非の打ちどころのない生涯を歩むためなのです。

 ここには、大きく分けて、二つのことが言われています。一つは、

「恵みによって神から罪の赦しを得る」

ということ。そしてもう一つは、

「聖霊によって新しくされ、キリストの一部として聖別される」

という事です。水で洗うと、汚れが落ちるだけではありません。濡れて、瑞々しくなったり生き生きしてきますね。ですから、洗礼において表されているキリストの洗いも、罪からの赦しだけでなく、聖霊によって新しくされることでもあるのです。それが確実だということが、洗礼で体感されるのです。

 キリストの血と霊とによって、私たちが神からの罪の赦しを得る、と言われています。決して、私たちが自分で罪の赦しを洗い清めるのではありません。キリストが私たちの罪を洗って下さるのです。洗礼はそれを思い起こさせるのであって、洗礼が私たちの罪を洗うのではありません。洗礼の水に特別な力があるのでもありませんし、洗礼を授ける人が誰かによって効き目が違うこともありません。ここが誤解されやすいのです。聖書の時代でさえ、誰が自分に洗礼を授けてくれたかで分派をした人々がいました。また、イスラエルに団体旅行に行って、ヨルダン川で洗礼を受けるという人もいます。ヨルダン川の水を汲んできて、それを垂らした水を使って洗礼をする人もいます。そういうミーハーな気持ちも楽しいものでしょうが、逆に言えば、普通の水道水やそこらの海でしようと洗礼の意味は変わらない。名前の知られた誰かが授けたのと、田舎牧師の古川が授けたのも変わらない。それぐらい、大事なのはイエス・キリストが十字架で血を流してくださったことと、イエス・キリストが私たちに聖霊を送って、罪の赦しと新しいいのちに確実に与らせてくださる。それは、なんとすごいことだろうか、と思うのです。

 また、洗礼はこのキリストの洗いを思い出させてくれるものであって、洗礼そのものが罪を洗うのではありません。洗礼が罪を洗うのだと思うと、それは有り難い儀式になるかもしれませんが、私たちはきっと何度も何度も洗礼を受けたくなるでしょう。私たちは今でもまだ、罪の性質を持っているからです。罪とは無縁に一日でも生きることは出来ないのです。ですから、私たちの中には、自分の心の汚れや、口にしてしまった暴言や嘘、後悔している行動についてのとがめがいつもあります。そして、神様も、私たちの罪を嫌い、汚らわしいものでも見るかのような目で見ておられるのではないか。怒る寸前なのではないか、と思ってしまいます。でも、そうではないのです。洗礼は、神が私たちを罪に汚れた者として嫌悪してはおられない証しです。キリストは十字架に死なれて、私たちの罪を洗ってくださいました。そればかりではなく、聖霊のお働きによって、更にもっと私たちを聖別して、新しくしてくださいました。そうして、私たちに罪に死に、敬虔な生き方をするようにと働いてくださるのです。

 「潔癖症」という病気があります。汚れているのが大嫌いで、自分の身体が汚れていないかいつも気になってしまう病気です。とても苦しい病気です。潔癖症になると何度も手を洗います。いつも手を洗うと綺麗になった気がしますが、またすぐ汚れたような気がする。本当に苦しい病気です。私たちの心にある罪の汚れも、ずっと洗っていなければならないとしたら苦しいでしょう。イエス様の赦しを何度も頂くために、洗礼を受けたり、聖餐を頂いたり、良いことをしたり、罪の告白をしたりしなければ赦されないのだとしたら、とても苦しくて耐えられません。

 でも、洗礼はその逆を教えてくれると言います。洗礼は何度も受けるものではなく、一度だけです。それは、洗礼に罪を清める力があるのではなく、キリストが私たちを洗って、罪をきよめただけでなく、新しいいのちを下さって、新しい生き方も下さる。その事を覚えさせるものだからです。

 もしかすると神は潔癖症の方だと思っていませんか。自分の罪を少しも我慢できず、少しでも汚れがないかといつも見張っていて、何か見つかると触れたくないと思われるようなお方だと思い込んでいる人もいる気がします。しかし、洗礼が示すのはその逆です。神は、私たちがどんなに汚れていようと、その罪を洗ってきよくして、これからは罪のためではなく、神を知るものに相応しい生き方をしてほしいと願われるお方です。そのために、御子イエスは、この世界の罪の真っ只中に来て下さいました。私たちの罪をすべて負われて、十字架に殺されました。そして聖霊によって私たちを新しくして、新しい生き方を生きるようにと働いてくださっています。

 神は潔癖症ではありません。私たちが自分に嫌気が指す時も、神はイエス・キリストにおいて私たちを洗い、永遠に私たちとともにおられます。私たちの心のどんな汚れをもご承知の上で、私たちを愛されます。天のお父様は、私たちを我が子として愛して、私たちを洗って下さるのです。罪を忌み嫌う以上に、もっと清く明るい生き方こそ、可愛い私たちには相応しいと見てくださるのです。汚れが嫌だから「洗ってこい」という神ではなく、私たちを愛して、私たちを「ありのままで美しい、尊い」と見てくださる神です。お風呂に入るのに、汚れだけ落とすわけにはいきません。裸になって、お化粧や飾りも全部落ちて、すっぴんになりますね。神が私たちを洗って下さるのもそうです。汚れだけでなく、自分を取り繕っていた全てのものからもサッパリするのです。そういうすっぴんの私を神は愛されて、尊いと見なされて、だからこそ、心から尊い生涯を歩ませたいと願う神です。洗礼は神が私たちを愛され、聖別してくださっている証しです。

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ダニエル書三章「四人目がいる」池戸キリスト教会説教

2017-05-28 18:26:12 | 聖書

2017/5/28 ダニエル書三章「四人目がいる」池戸キリスト教会説教[1]

1.金の像を拝め

 バビロンの王ネブカデネザルが巨大な金の像を立てました[2]。宗教はいつも権力の道具として利用され創り出されます。ネブカデネザルも求心力を強めるために、金の像を造りました[3]。著名人を集め、大オーケストラを集めて、炎の炉までこしらえて、権力を誇示しました。現代でも、万博やオリンピック、超高層ビルや宇宙開発などなど、驚くほど大きいものを造って、自分たちの力を誇示しよう、後代に名を残そうという傾向は変わりません。自慢が好きで、大口を叩きたがり、すぐにお金の話になるという、端からは滑稽にしか見えないパターンです。ここバビロンでもまた同じエピソードが一つ増えただけです[4]

 しかし、そんなものに圧倒されず、金の像の前に膝を屈めなかった若者が三人いました。密告されても、13節から15節で王直々に礼拝を命じられても、彼らは態度を変えません[5]

16…「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

17もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

18しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 こう短く言い切って、自分たちの神に対する忠実を貫きます。「貫く」といってもそこには生真面目さや頑固さというよりも自由さがあります。肩肘張って「偶像崇拝は罪だから」といきり立ったり、説明や説得をしたりせず、私たちの仕える神ではない神には仕えません、金の像は拝みません、と短く答える余裕があります。アンデルセンの「裸の王様」では、大人たちが王さまのご機嫌を損ねまいとする中、子どもが「王さまは裸だ」と叫びました。この若者たちは子どものようです。自由で恐れず率直です[6]。彼らが炉の中で、炎で死ぬどころか、縛られていたはずの縄を解かれて歩いていたというのは象徴的です。その後も、彼らは王の言葉に素直に従って出て来ます。「これで思い知ったか」とも言わず、このチャンスに伝道しよう悔い改めを説こう、何かを要求しようともしません。そんなことを考えないからこそ、彼らは自由にあれたのかもしれません。その後も今まで通り、自分の職務を淡々と果たしたようです。

 初代教会がローマ帝国の迫害期にあった姿と重なります。面だって信仰を表明することが危険な時、伝道など出来ない中、彼らの喜び、他者に対する憐れみ、病人や子どもに対する態度が周囲にキリストの香りを放ちました。それで信仰を疑われて密告された場合は、死をも恐れずに信仰を守りました。その自由な態度こそが、史上どの時代よりも多くのキリスト者を生み出して、やがてはローマの迫害を止めさせ、国教として認めさせるに至りました。しかし彼らは決してそのようにしたいと思ってはいませんでした。そのような影響力を行使したいという野心から自由だったからこそ、彼らの存在は地の塩となったのです。

2.ネブカデネザルの本心

 対するネブカデネザルはどうでしょうか。バビロンの王として巨大な帝国を治め、金の像を造り、諸州の有力者を平伏させ、逆らう者は殺すほどの権限がありました。しかしそれに従わないたった三人の若者の振る舞いに、彼の目論見はすべて泡と消えてしまいました。彼は怒り狂い、顔つきも変わり、火を七倍熱くせよという無茶で無意味な命令をわめき散らします[7]

ダニエル三24そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に言った。「王さま。そのとおりでございます。」

25すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」

 こうしてネブカデネザルは三人に出て来るように言って、彼らが出て来ると彼らは全く火の害を受けず、髪の毛は焦げもせず、上着は臭いさえしなかった。ネブカデネザル王は、三人の仕える神を侮る者は、手足を切り離し、その家をゴミとする、と宣言します。でも、自分の愚かさは棚に上げていますね。三人を褒めそやし、この神を礼拝させようと健気ですが、しかしそれさえも舌先三寸に過ぎず、また四章では高ぶってしまうのです。そもそも王が、巨大な金の像を造って拝ませよう、脅してでも平伏させようとしたこと自体が、王の問題を暴露しています。歴史に残る帝国を造っても心は満ち足りません。人々の生殺与奪の権を握ったようで、実はそうではなく、彼は自分の心さえ治めることが出来ていませんでした。彼は惨めで、渇いて、為す術を知りませんでした。心は深い闇に囚われて、自分を見失っていました。神は三人の若者の存在でネブカデネザルの本心を浮き彫りにされ、彼に迫られました。

 三人の若者が拝んだ神、私たちもここで礼拝する、生ける本当の主なるお方は、ネブカデネザルのなろうとしたような王とは全く違います。力尽くで拝ませ、拝まなければ怒り、地獄に落とす方ではなく、私たちを虚しいものを追い求める心や生き方をあぶり出しながら、本当に自由で伸びやかで、喜びに満ちた生き方へと導かれます。背伸びをしたり何かで心を見たそうとしたりする渇いた生き方から、神の恵みを知る故に自由で、淡々と他者に仕える生き方へと導いてくださいます。王が怒ろうと国家が命じようと、燃える火があろうと、何にも阻まれることなく、いやその最悪な状況さえ神は用いることがお出来になるのです。

3.四人目の存在

 三人の若者は「神は火の燃える炉から私たちを救い出すことが出来ます。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えません」と言いました。でも、実際には彼らが予想もしない展開でした。火の燃える炉の中にあって、神の子のような四人目がともにおられて、三人と一緒に歩いていたのです。炉に投げ込まるか助かるか、ではなく、炉に投げ込まれて、そこにも神がともにおられた、という展開になったのです。その四人目も、最後に

「神々の子のようだ」

と言われるだけで、派手に火を消したり、火の中から神々しく現れたりはしませんでした。金の像を破壊したり、逆に天から火を振らせて三人以外を焼き殺すことも出来たでしょうに、そうはしません。ただ、四人目として一瞬いて、消えたお方です。でも裏を返せば、目には見えなくとも、いつも神がこの三人とともにおられた、ということです。目には見えなくとも、私たちの予想通りにならなくても、いつも神は私たちとともにおられるのです[8]

 今も神以外のものを拝むよう強いられる戦いがあります[9]。でもそのような難しい課題を厭い、最初から逃げ出せとは聖書は言いません。悩みを抱え、迷いつつ、ここにともにおられる神を信じる者として生き、人と関わり、ノーをノーと言う自由を、聖書から教えられます。私たち自身、神ならぬものを神のごとく崇めたり、背伸びをし、人の賞賛を求めたりしやすい者です。怒りっぽさや操作的な言葉、また信仰的に見えて、実は妄想を握りしめている者なのです[10]。そんな現実に神は働き、人が心から変わるよう、長いスパンで関わり続け、偶像を砕かれる方です。それは主イエス・キリストのご生涯に最も明らかです。イエスは、裸の王様のごとき振る舞いをする人間を笑ったり滅ぼしたりせず、むしろ、ご自身が裸にされて殺されることを厭わずに私たちの所に来られました。イエスは見えなくとも私たちとともにおられます。人の予想もしない形でともにおられ、悲しみや禍を通して導かれ、神の恵みを現されます。この神を私たちが知り、このお姿を学ぶ時、迫害に屈するかどうか以上に大きな視点で、毎日を、また目の前にいる一人一人を、見ることが出来るようになるのです。[11]

「全能の主よ。あなたを知らずに虚栄を求め、実に不自由で脆い生き方を繰り返す人間に、あなた様は長く働き続け、あなた様へと立ち戻らせてくださいます。幼子のように神を礼拝し、信頼する信仰へと私たちもお導きください。私たちのため十字架の死も厭わなかったイエスを知り、それ以外の一切からも自由にされ、あなたの愛する一人一人を愛し、尊ばせてください」



[1] こうした特別な機会でお話しする時は、なるべく旧約の有名な逸話を改めてご一緒に読むようにしています。このダニエル書三章の「金の像と燃える炉」の話は教会学校でもドキドキしながら聞いた話しでしょう。私たちが同じような立場に置かれる事はないことを願いますが、そうだとしても、この物語が光となって助けになるような読み方をしていられたらと幸いです。

[2] 「高さ六〇キュビト、幅六キュビト」は単純計算すれば、三〇メートル×三メートルとなります。しかし、バビロンは六進法(エジプトは一〇進法)だったことを考えると、厳密な数字というよりも「何十メートルもある」ぐらいに理解してもよいのかもしれません。

[3] ネブカデネザルは、エルサレムの国も支配下に治めて全盛期にありました。広い諸国を統一するために、宗教を利用しようとしたのは、多くの国々の発想です。

[4] そういう大風呂敷が好きな愚かさを嘲笑うかのように、2節の「太守、長官、総督、参技官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官」というリストは二回(2、3節)、5節の「角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音」という楽器のリストは四回も繰り返されています(5、7、10、15節)。27節には「太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、」と短いバージョンが出て来ますが、これもシャデラクたち三人の出来事を経て、もはやあのお歴々たちのリストを繰り返す虚しさにきづいたかのような印象を与えます。

[5] 錚々たるリストや金の像、またそれを拝まなければ投げ入れられるという火の燃える炉まで目にしながらも、怯まなかったのです。彼らにとっては、目の前にある圧倒的なリアリティよりも、目には見えない主の臨在の方が確かなリアリティでした。

[6] 実際にそんなことがあれば、その子どもはたちどころに捕らえられ、殺されるでしょう。この三人の若者は、殺されることも恐れずに、童心を失わず、本当のことを言う自由な人たちでした。

[7] 勿論、七倍とは温度の数字を七倍(例えば500度を3500度に)という意味ではありません。それは不可能ですし、測りようがありません。燃料を七倍、もしくは限界まで投与せよ、ということでしょう。そういう表現自体が、王が正気を失った激怒の状態にあることを示しています。

[8] この「四人目」が誰か、この時点では後のイエス・キリストだとまでは言う必要はないでしょう。しかし、後に来られたイエスは、確かに神が私たちとともにおられることをそのまま現してくださいました。世の終わりまでいつも私たちとともにおられると言われました。

[9] 今年上映された映画「沈黙」でもあったように、それは簡単に答が出ない複雑な問題です。単純に世界から身を引けば簡単でしょうが、それもまた、聖書が取っている生き方ではないのです。いやむしろ、このややこしい世界の中で、ともに苦しみ悩みつつ、神を信頼し、御言葉に従う生き方をするのが、キリスト者への招きです。

[10] この三人の友人が、バビロンに居た事自体、ユダの堕落の結果でした。神ならぬものを拝み続けた結果、神は遂にユダの罪を裁かれて、エルサレムを滅ぼされ、バビロンに屈服させられて、ダニエルと三人の若者たちもバビロンに来たのです。しかし、神はそれでも彼らを滅ぼさず、そこにともにいてくださいました。不真実な民をも見捨てることなく、そこで火の中にともにいてくださいました。

[11] そう信じてこそ、ダニエル書三章は私たちに希望や勇気をもたらしてくれるエピソードとなるのです。

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問69「真っ白に」Ⅰペテロ3章21節

2017-05-21 15:41:17 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/21 ハ信仰問答69「真っ白に」Ⅰペテロ3章21節

 今日から「洗礼」についてお話ししていきます。礼拝におけるとても大事な要素です。でも、肝心の「洗礼とは何ですか」という説明は実はありません。それは、このハイデルベルグ信仰問答が書かれた時代、みんな「洗礼とは」何かを知っていたからです。そこに居た人はみんな洗礼を受けていましたし、物心ついた時から赤ちゃんが教会に連れてこられて、洗礼を受けるのを毎回毎回見ていたのです。ですから、洗礼がどんな儀式かの説明は必要なかったのですが、私たちは確認する必要がありますね。

 洗礼とは、水に沈めたり、頭にかけたり、ちょっと滴を垂らしたりする儀式です。その時に「父と子と聖霊の御名によって、洗礼(バプテスマ)を授けます」と言います。

全浸礼

(全浸礼)

灌水礼

(灌水礼)

(滴礼)

そして、その事によって、その人は正式にキリストの弟子となり、教会員となります。この、水を使って、主の御名によって施し、キリストに正式に結びつけられるのが洗礼(バプテスマ)という儀式だと言えるでしょう。では、その意味は何なのでしょうか。どうして教会では洗礼を施すのでしょうか。

問69 あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。

 この問い自体に大きな鍵があります。「十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを…思い起こしまた確信させられる」と言います。決して、十字架上でのキリストの犠牲が洗礼によって私たちの益になる、とは言いません。キリストが十字架で私たちのために死んでくださったことは、洗礼や何かの手段によらず、私たちの益になるのです。でも、考えてみれば、これ自体不思議なことです。今から二千年も前に、遠くのエルサレムの町で十字架にかけられたイエス・キリストの死が、どうして現代の日本にいる私たちと結びつくのでしょうか。歴史も文化も、時間も場所も、全くかけ離れた出来事が、どうして私たちに効力を発揮するなんて分かるのでしょうか。

 実は、それが洗礼の意味なのです。キリストの犠牲が私たちの益になることを、

答 次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時、約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわちわたしのすべての罪をこの方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ、そして、それは日頃体の汚れを落としているその水でわたしが外的に洗われるのと同じぐらい確実である、ということです。

 洗礼を通して、思い起こしまた確信させられるのです。キリストが、私の魂の汚れ、即ち、私の全ての罪を洗ってくださる。そのために、イエスは十字架で血を流してくださいました。本当に尊い苦しみをもイエスは私たちのために進んで引き受けて、血を流されて、あらゆる罪を引き受けてくださいました。そればかりではなく、イエスはご自身の聖霊のお働きによって、私たちのうちに働いてくださいます。聖霊は、私たちの罪をきよめて、心を新しくしてくださいます。といってもピンと来ませんね。なんだかなぁと実感が湧かないのが正直なところです。そういう私たちのために、イエスが制定してくださったのが、洗礼なのです。水にザブッと沈んだり、ジョジョジョッとかけたり、ポタッと垂らしたり、あの水で濡れてヒヤッとする感覚が、イエスの罪の赦しに与った、ということを思い起こさせて、確証させてくれるのです。それが洗礼なのです。

…そして、それは日頃体の汚れを落としているその水でわたしが外的に洗われるのと同じぐらい確実である、ということです。

 皆さん、泥や汗で汚れた時、お風呂に入りたいですね。シャワーを浴びて、ごしごし体をこすって、頭もシャンプーでよく洗ったら、流したら、体も心もサッパリするでしょう。お風呂に入って汚れを洗い落として、綺麗になるように、それと同じぐらい確実に、キリストは私たちの罪を綺麗に聖めてくださるのです。私たちの心にある全ての罪や汚れを、キリストは洗い清めてくださるのです。次の問70で、

問70 キリストの血と霊とによって確実に洗われるとは、どういうことですか。

という事をお話ししますので、今日は洗礼が私たちにキリストの洗いを

「思い出させ、確実にしてくれる」

ということに絞ります。そうです、洗礼は、私たちにキリストの洗いを思い出させてくれます。決して、洗礼が、私たちの心を洗ってくれるのではありませんよ。また、罪を犯したら、そのたびに洗礼を受けたら、キリストによって罪が洗われる、というのでもないのです。むしろ、洗礼は、一度きりで良いのです。

Ⅰペテロ三21そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

 洗礼が肉体の汚れを取り除くのではないのです。洗礼を受けてからも、大きな失敗をするかもしれませんし、心にある様々な罪に悩むでしょう。その時にもう一度洗礼を受け直して、イエスの罪の赦しをいただきましょう、ではないのです。洗礼は、何度も受けるものではなく、一度受ければ良いのです。なぜなら、イエスがご自分のいのちによって私たちの罪を洗い流してくださったからです。洗礼を受けた、ということは、イエスが私たちの罪のためにもう完全な犠牲を払ってくださったことだ。この罪のために、神が私を汚らわしい目でご覧になっていることはない。神が私をもう責め、怒っていることはない。そう思い出させてくれて、私たちの心を神へと向けるのが洗礼です。私たちが自分で思い出すのでは無くて、洗礼が思い出させてくれます。私たちが思い出せなくて、まだ信じられなくて、疑っているとしても、主は私たちを洗い清めて、雪よりも白くしてくださいました。それを確証させてくれるのが、洗礼の恵みなのですね。

イザヤ一18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

 この言葉を、アフリカの暑い国に行った宣教師たちは、悩んだそうです。雪を見たことがない人たちに「雪のように白い」と言っても分からないからです。考えに考えたあげく、その人たちにとって一番白いものを使いました。

「あなたがたの罪が緋のように赤くても、アーモンドのように白くなる」

(花も実の粉も真っ白なアーモンド)

皆さん、本当にイエスは私たちの罪を赦して、真っ白だと思ってくださっています。洗礼はその事の保証です。

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エステル記四章1-17節「エステル記 もしかするとこの時のため」

2017-05-21 15:30:16 | 聖書

2017/5/21 エステル記四章1-17節「エステル記 もしかするとこの時のため」[1]

1.あらすじ

 エステル記の最初は、前の王妃ワシュティが、王の宴会で余興の見世物になることを拒んで退位させられる事件から始まります[2]。ユダヤ人の少女エステルは幸か不幸か大変な美女で、王にも側近にも気に入られて王妃に選ばれました。しかし「王妃」といっても飾り物か奴隷のようなもので、先の王妃ワシュティの罷免が示したとおり、少しでも自己主張をすれば、王の憤りにあって殺されかねない、女性の立場は大変不利だったことが大前提なのです[3]

 この五年後、ハマンという人物が王に重んじられて王に次ぐ地位を与えられます。このハマンが実に悪い奴でした。権力欲の塊で、王の家来たちを跪かせるのが好きでした。しかし、エステルの親戚のモルデカイは、ユダヤ人として人間に礼拝を捧げることは断固としてしませんでした。ハマンはモルデカイに憤り、モルデカイをやっつけようとします。モルデカイだけではなく、ユダヤ民族を根絶やしにしようとします。ハマンはくじを投げて決めた日付に、ペルシャ中でユダヤ人を根絶やしにしてよい、家財も略奪して良い、という法令を発布するのです。それで町中に大混乱が起きた、と言う所で、今日の四章になるのです。

 四章でモルデカイは大声でわめきながら荒布をまとって嘆き、エステルに事情を説明します。そして、エステルに、王にあわれみを求めるように言うのです。これにエステルは11節でこう応えます。

「誰でも王に召されずに王の所に行く者は死刑に処せられます。王が金の笏を伸ばして許せば生き延びますが、自分はこの三十日召されてはいないのです」。

 これに対して、

13モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。

14もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

 この言葉がエステルの覚悟を決めさせて、この後の行動に繋がっていくのです。途中は割愛しますが、最終的にはハマンの法令は骨抜きにされ、ユダヤ人が大勝利をします。詳しくは是非それぞれにエステル記を読んでいただきたいのですが、この出来事を記念する

 「プリムの祭り」

は今日でも祝われています。そしてそこでは必ず「エステル記」が読み上げられるのです。

2.エステルの決断

 この四章は、そういう最終的な展開は分からない時点でのモルデカイとエステルの会話が伝えられています。私たちはよく

「自分がああしなかったら、誰かがそこにいなければ、あの時こうしていなかったら、こうはならなかった」

と言いたがります[4]。このエステル記を読んでも、エステルが王妃でなかったら、勇気を出していなかったら、モルデカイが以前にクーデターを防いでいなかったら、ユダヤ人の抹殺計画は実行されていたに違いない、エステルが王妃だったから、モルデカイがいたから、この時の勇敢な行動をしたから、プリムの祭りがあったのだ、と考えたがるのです[5]。モルデカイのここでの言い分はそれとは違います。

四14もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」

 そしてこの言葉を受け止めたエステルも、どうぞ自分のために断食して祈って下さい、と言いつつ、自分のしていることが絶対に正しいとか、使命だとか、神の御心だからうまくいくとか、うまくいくように祈って下さい、とは言っていないのですね。

16…たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。

と言うのですね。自分がやらなくても他から助けは来る。自分がやったらうまくいく、守られると確信できるわけではなく、死ななければならないのかもしれない。でも、それでもこれは自分が出来ること。うまくいく保証はない。やらなくてもいい理由はいくらでも挙げられる[6]。でも、自分がやらないなら、それは逃げだ。そういう凜とした覚悟が光っているのです。[7]

 ここまで「神」という言葉を使わずにお話ししていますが、エステル記のどこにも「神」という言葉はありません[8]。エステル記ほど神の摂理や不思議な導きを感じさせる書は他にないのに、エステル記は神を持ち出しません。でも私たちの人生もそうです。神が見えない、神がいるとは到底思えない時が多いのです。それでも私たちは、安易に「神がしてくださる」とか「これは神の導きだ。きっとうまくいくに違いない」とか「危険が多いから、きっとしなくてもいいといことに違いない」と言いがちです。エステル記が示すのは、無闇に「神」を持ち出して安心したがるのでなく、「自分がここに来たのは、もしかすると、この時のためかもしれない」、でも「そうに違いない」と断言はしない敬虔さです。

 しかも、ここまでエステルはいくつもの理不尽な目に遭っていました。王宮に無理矢理召し上げられて、王の后という不自由な立場で、女性をモノのように扱う中で、いちいち声を張り上げたり正義感に駆られた行動を取ったりはしませんでした[9]。でも、民族が皆殺しになろうという今この時は、最も王に近い場所にいるのが自分だとモルデカイの助言を素直に聞いて、死をも覚悟して踏み出したのです。それがうまくいくか、神の御心という確信があるか分からなくても、立ち上がったのです[10]

3.キリストの雛形

 私たちもこのような立場に置かれることはあるでしょう。私たちが迷う時に、エステルやモルデカイの言葉が参考にもなるでしょう。しかし、そういう道徳以上に覚えるべきは、ここに神が用いられた救いの物語がある、ということです。

 エステルやモルデカイの、死を覚悟した行動がありました。その時だけの勇気だけではなく、それに先立つ誠実な行動がありました。民の命を守るために、小さな自分の命を差し出したエステルが用いられました。これと同じ事が後に起きました。イエス・キリストが私たちのいのちを救うために、十字架を背負ってくださいました。私たちのために、本当に死をも引き受けてくださいました。エステルのように、イエスが私たちのために謙り、泥をなめて、そしてイエスは本当に死んでくださいました。それも十字架の苦しみの死と、神の正義による罰を引き受けて、死んでくださったのです。ご自分に降りかかる数々の不条理や不正や恥辱のために文句を言うよりも、私たちの命を救うために、犠牲となってくださったのです。

 エステルが救おうとしたユダヤ人たちは、エルサレムに帰らずペルシャに留まっていた、言わば世俗的で信仰も曖昧な人々でした。それでもエステルは彼らが滅びることを望みませんでした。イエスもそうでした。私たちが神に従うから、礼拝に来るから、ではありません。私たちを滅びてはならないものと見てくださったのです。不安や恐れに怯える生き方から、救われた喜びをもって生かしてくださるのです。

 そして、これはエステル記の時代的な限界を打ち破る点ですが、もう自分の敵に対する復讐心からも自由にして、喜び祝い、神の恵みをたたえ合う共同体をお造りくださるのです。更に、神がエステルやモルデカイをそうされたように、私たちも、自分のなすべきことを淡々と、しかし時には勇気をもって果たし、死やリスクを恐れずに生きる者としてくださる。互いのために断食をしたり、祈り合ったりさせてくださる。そうして、神の御心がハッキリは見えない中でも、神は働いておられる。人の思いを超えた不思議な摂理で、全てを益として下さる。そういう信頼をもって生きる者に私たちを変えてくださる。そういう大きな物語を信じさせてくれるエステル記です。

「エステルの置かれた過酷で不確かな状況は形を変えて今もあります。しかしこの世界であなたは働いておられ、全てを不思議に治め、御子は命がけで私たちを守り、新しくしてくださいます。その大きな導きを信じ、御名をみだりに唱えず、曖昧さを恐れず、知恵と勇気をもって、互いに祈り合い、ともに歩ませてください。喜び歌う民として歩む幸いを頂かせてください」

Esther, mosaic from The Dormition Church on Mount Zion in Jerusalem.

[1] 今月の一書説教も「みことばの光」に沿って、エステル記を取り上げましょう。「歴史書」の最後に当たります。「ルツ記」と並んで女性の名前がつけられた稀な書であり、エステルはペルシャ帝国でも王妃として選ばれる絶世の美女でした。その王宮での宴会、美女、暗殺計画や策略、知恵比べ、どんでん返しなど、全てドラマの材料が揃った実話が、エステル記です。

[2] 王妃の不服従に王が憤って、王国中の妻たちへの見せしめともするため、王は王妃を更迭したのです。酔った勢いで、王妃の座を取り上げたのですが、後から王は当然淋しくなって、そのため国中の美女たちを集めて、その中から王妃を選ぼうということになりました。これもまた本当に酷い話です。エステルも無理矢理王宮に連れてこられ、一年かけて身支度をさせられてから、一晩王とベッドを共にさせられて、それで気に入られなければ二度と呼ばれない、という大変屈辱的な扱いを受けました。

[3] 「憤り」とはエステル記の一章12節、二章1節(アハシュエロス)と、三章5節、五章9節(ハマン)、七章7節、10節(アハシュエロス)に繰り返される、キーワードです。

[4] 私たちが言いがちなのは「自分が居なかったらこうはならなかった」とか「自分がしなくても神様がしてくださる」ではないか。自意識過剰と、責任放棄との間に居やすい私たち。ここには神ご自身以上に「確かさ」や「安心」を求める人間の傾向があります。しかし、エステル記はそのどちらも言いません。神の御心を断定することには慎重です。「エステルの勇気が民を救った」という言い方も、エステルたちとしては心外でしょう。むしろ私たちは、「自分に対する神の御心は分からないし、神の御心だからうまくいく、とも言いかねる」という慎みを大事にすべきです。悩むことや曖昧さを避けようとせず、祈り、状況の確実さばかりを求めず、不確かな中でも自分のなすべきことをなしていくのです。また、祈ってもらうこと、他者の知恵を借り、勇気をもらい、損得や危険を恐れる思いと向き合うのです。そうやって、自分の生きるべき道を淡々と進んでいくものでありたいと思わされます。

[5] エステルの勇気だけが功を奏したのではありません。二章最後に書かれるクーデター防止も大事な鍵です。あそこでモルデカイが、憎きペルシャの王への裁きだとほくそ笑んで黙殺しなかった誠実さが伏線となります。私たちが普段から、敵をも大切にする行動を取っているか、は小さなことではない、と言えます。

[6] エステルの居た状況は、あらゆる意味でタイミングが悪かったのではないでしょうか。女性が差し出がましい行動を非常にしにくい時期、「今は自分の動く時ではない」といくらでも言える状況でした。しない理由はいくらでも挙げられます。自分がしなくても誰かが、とはモルデカイも認めていました。しかしそれでも、損や反発を承知の上で、自分が動かなければならない時があるということでしょう。そしてそれは、他ならぬ自分が一番よく分かっているのではありませんか。

[7] エステルの名は「星」の意です。

[8] 「神」や「主」の名が使われないのは、エステル記と雅歌だけです。

[9] また、八章3節では、エステルは王の足下に平伏して、法令の取り消しを懇願しています。モルデカイはハマンの足下に平伏すのを拒みましたが、エステルは王に平伏して嘆願をする。ここに、自分の方法を頑固に貫きはしない、柔軟な態度を見ることが出来ます。

[10] この上で典型的なのは、五章のエステルの「二度目の宴会への招待」という判断です。あの判断の真意は不明です。しかし、二度目を提案したために、ハマンの憤りがモルデカイに向かい、翌朝にもモルデカイは磔になりかねませんでした。しかし、同夜にアハシュエロス王が不眠となり、歴史書を読ませ、モルデカイの忠義を思い起こして、それに報いていないことに気づいたために、ハマンの企みはモルデカイの栄誉に一転しました。このエピソードもよくよく重要です。しかし、いずれにしてもあの出来事は少なくともエステルが予想も計算もしていなかったことは間違いありません。ひとときの判断が吉と出るか、凶と出るか、後からでなければ分かりませんし、「あの時こうしていれば」という後悔は現実的ではありません。そういう人間の判断の限界も含めつつ、それを超えて働かれる神の導きが語られています。そして、結果としては、この一日があったからこそ、モルデカイの徴用が起こり、大臣として二人で働きかけることが出来たのだが。

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問68「一番大事なことは一つ」Ⅰコリント11章23-26節

2017-05-14 15:59:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/14 ハ信仰問答68「一番大事なことは一つ」Ⅰコリント11章23-26節

 このところ、キリスト教会の礼拝の特徴、「聖礼典」についてお話ししていますが、今回の問68については、先取りして既にお話ししてきた通りです。

問68 キリストは新約において、いくつの礼典を制定なさいましたか。

答 二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。

 今までもう二つであることを前提にお話しして来ましたが、改めてここで「いくつですか?」と問うています。ナゼかと考えるとすぐに答は思い浮かぶでしょう。そうです。聖礼典がいくつあるのか、混乱があったのです。

当時の教会では、聖礼典には「七つ」が考えられていました。今でもカトリック教会は、聖礼典のことを「秘蹟」と言い、七つあるとしています。その七つは、洗礼と聖餐(聖体拝領)の他に、

「堅信(信仰告白)、改悛(告解)、婚姻、塗油(終油)、叙階」

です。七つの儀式が、司祭によって行われる特別な礼典である、という教えでした。

こういう理解に対して、ハイデルベルグ信仰問答は、キリストが制定なさった礼典は二つだけです、と言いました。実際、聖書でイエスがハッキリと弟子達にお命じになったのは、洗礼と聖餐だけです。

 聖餐については、今日のⅠコリント11章23節以下やその他で繰り返されています。

Ⅰコリント十一23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 洗礼については、マタイ28章19節、最後の大事な命令のところで言われています。

マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

 そして「使徒の働き」では、弟子達が実際に教会の中で、洗礼を授け、パンを裂くために集まっていたと何度も書かれています。こうしたことから、新約においては、洗礼と聖餐の二つが、キリストご自身によって定められた「礼典」である、それ以外は礼典ではない、と考えたのです。この事を確認しているのが、この問68です。

 しかし、ここで

「新約において」

とわざわざあります。それは、新約の前、旧約においては、洗礼と聖餐はまだ定められていなかったのです。むしろ、キリストが洗礼や聖餐を定める土台となった儀式やその他の儀式がありました。旧約の律法を読むと、神は御自身の民に対して、

「大祭司」

を立て、子どもには

「割礼」

を施し、

「幕屋」

という礼拝の場所を造らせました。何かの度に「動物の生贄」が捧げられ、毎年一回

「過越の祭り」「仮庵の祭り」「ラッパの祭り」

などのお祭りを命じられました。そのような儀式を行うことが大事な役割を持っていたのです。

そして、イエスご自身もそのような儀式を守られました。幕屋の代わりに出来た神殿を大事にされました。しかし、十字架に架かられることで、そのような儀式を変えられました。割礼は洗礼に、過越の祭りは聖餐に変わりました。なぜなら、大祭司はイエスご自身の事でしたし、動物の生贄もイエスご自身の十字架の生贄によって終わったからです。パウロはこう言います。

コロサイ二16こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。

17これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

 

 本体はキリストにある。食べ物も飲み物も、祭りや戒めも全て、キリストという本体の「影」だったのです。だから今では、旧約の儀式やお祭りなどの規則に従う必要はありません。もうキリストが全部を成就してくださったからです。それほどキリストが私たちにしてくださったことは豊かで確かなことでした。このキリストを見ていくこと。それが一番大切なことです。キリストの福音こそ、ずっと旧約時代も待ち望んできたことで、新約の今は、洗礼や聖餐式を通して、覚え、いただく恵みなのです。キリストが私たちのために、大祭司となって十字架にかかり、完全な生贄となり、私たちの全ての祝福の土台となってくださった。その福音に、礼典は与らせてくれるのです。

 先ほどの、秘蹟を七つとする考え方に上がっていたのはどれも大切なものだとは思います。結婚も罪の告白も、最後に油を塗って祈ってあげることも、大事です。それは聖礼典ではありませんが、やはり大事なことです。けれど、聖礼典として牧師が大切に執り行うのは聖餐と洗礼の二つです。罪の告白や油を塗っての祈りを秘蹟にする考えだと、そういう大事な時には牧師がいないと祈ることは出来ないことになります。けれども一番大切なものはひとつ、本体であるキリストだけだ、という考えを採る私たちの教会は、祭司は牧師だけではありません。私たち一人一人がイエスにあって祭司となる。これを

「万人祭司(全信徒祭司)」

と言います。人の心の重荷を聞いて、そのために祈り、心の重荷を分け合ってあげられるのは牧師だけではありません。皆さん一人一人が出来るのです。病気の時、死の直前、結婚のような嬉しい時、祝福を祈って欲しい時、「牧師が祈った方がよく聞かれる」とは考えないのです。イエスが私たちのために、十字架に捧げられた、完全な罪の赦しと、溢れるほどの祝福を届けるのは、牧師だけではなく、全てのキリスト者の特権です。私たちの毎日の生活における様々な出来事で、儀式や牧師に特別頼る必要はありません。

 誰もが同じように、助け合い、支え合うことが出来ます。しかしその根本には、私たちの祝福全体の鍵となるキリストの十字架があります。キリストの十字架の贖い、犠牲、愛、赦し、祝福によって、私たちはキリストが下さった完全な救いを見るのです。そして、そのキリストに繋がる時に、私たちも、互いの祝福を願い、祈り、出来る形で仕え合うように召されます。

 キリストが私たちのために、十分な生贄となってくださいました。私たち一人一人の大祭司として立っていて下さり、私たちをお互いの祭司としてくださっています。この一番大切なひとつのことに立って、私たちは自分の生活にも、他の人との関わりにも、出て行くことが出来るのです。

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