2017/6/25 ハ信仰問答75「パン付き礼拝」マタイ26章26-28節
先週まで「洗礼」について見てきました。今週からは、もう一つの礼典「主の聖晩餐」について見ていきます。礼拝の中心にあるのが聖餐式です。ですから、この教会でも、朝の礼拝でも毎週聖餐式が出来たらいいなぁと思いますし、夕拝でも聖餐式が出来るようになれたら、と思います。それぐらい、聖餐式には豊かな恵みが込められているのです。ですから、今日のハイデルベルグ信仰問答75は長くなってしまいます。
問75 あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
聖晩餐において、キリストとその恵みを思い起こす。この問は、既に問66~68で、聖餐と洗礼の二つの「聖礼典」について見た時の学びを前提としています。聖礼典は、キリストの十字架の贖いを思い起こすための、恵みの手段です。決して、この聖礼典自体に効力があるわけでも、キリストの贖いでは不十分だから聖礼典が必要なのでもありません。キリストの十字架上での犠牲とその全ての益にあずかっていることを思い起こし、確信させられる。それが聖餐においても、その意味であることを確認しましょう。
答 次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにとわたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ■。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのをわたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
ここでは、聖餐で思い起こすキリストの犠牲とその益を、二つのことにまとめます。第一は、主イエスの体が確かに私のために十字架上で裂かれて、血を流されたことです。イエスは聖餐の制定において、ただ聖餐を命じただけではありませんでした。
26…彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。
わざわざパンを裂かれました。マタイや聖書記者も、その事をわざわざ伝えています。教会は初め、聖餐の事を「聖餐」とは言わず、シンプルに
「パン裂き」
と呼びました。聖餐では、皆さんの前で見えるようにパンを裂くのです。それは、キリストがパンを裂かれたのが、御自身の体が裂かれることを示しておられたからです。私たちが、パンを裂き、パンが裂かれるのを見るとき、そしてそのパンを頂くとき、私たちはキリストが十字架につけられて、その体も心も本当に裂かれて、血を流された事実を思い起こさせてもらうのです。本当にキリストは人となり、私たちのために死んでくださいました。世界を作られた大いなる神が、私たちのために私たちと同じ人となり、人の味わう苦しみや悲しみの極限の十字架で本当に死なれたのです。キリスト教は「良いお話し」ではありません。本当に起きた事実です。それゆえに、私たちの現実にもつながるのです。
第二に、そのキリストの命によって、私たちが養われ、潤される。それも聖餐が思い起こさせてくれるメッセージです。パンはお腹の足しになります。葡萄ジュースは、喉の渇きを潤してくれます。パンと杯を頂くときに、同じようにキリストが私たちを養い、潤してくださったと思い出させられる、というのです。
こういう深い意味と目的がある聖晩餐は、キリスト教会の礼拝の中心にあるのです。
面白い事ですね。教会の礼拝の真ん中に、パンや杯をいただく食卓のイメージがある。礼拝中にお弁当やおやつを食べたら怒られそうですが、何と主イエス御自身が、パンを裂いて集まった人たちにパンを食べなさい、杯から飲みなさい、と、それも強く
「食べよ、飲め」
と命じて仰ったのです。礼拝中に食事なんて不謹慎だ、と窘めるどころか、礼拝でパンを裂いて、杯を配って、これぐらいリアルに、イエスは私たちのために肉を裂かれ血を流されたのだよ、そして、私たちはこのイエスの十字架の犠牲によって、養われ、潤されていることを思い起こす。それが礼拝なのだと言うのです。キリスト教会の礼拝は、講演会や音楽会や修行というより、イエスが招いてくださる食事です。イエスが私たちを食卓に呼び集める礼拝です。私たちは、イエスの十字架の死と、私たちを養ってくださる恵みとを覚えて、裂かれたパンをいただき、ここから出て行くのです。
ここに
「奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に」
とあります。パンと葡萄酒を配る奉仕者(長老や配餐者)の手から受ける行為も、キリストを思い起こさせる、ということです。奉仕者や司式者がパンと杯で、キリストを届けるのではありません。もし奉仕者が「あなたにはパンはあげない」と言っても、牧師がおっちょこちょいで杯をひっくり返してしまっても、キリストが私たちを養い、潤してくださる恵みは決して損なわれません。思い起こす、なのです。
教会の歩みではこの事を誤解したことが長くありました。聖晩餐で、イエスの犠牲が繰り返されるのだ、と考えたのです。パンと杯そのものに、御利益があると考えたのです。その典型的な現れが、司祭が会衆に背を向ける、という立ち方でした。司式者が、会衆に背を向けて、神にパンと葡萄酒を捧げて祈る、ということで、この聖晩餐の儀式を特別なものとしたのです。そうすると、キリストの十字架の犠牲だけで十分だったことを思い出すのではなく、キリストの十字架の犠牲では不十分だから、今もパンや杯をいただく、という意味になってしまいます。
そうではないのです。だから、牧師は背を向けず、こちらを向きます。そうして、皆さんがキリストに招かれ、キリストが私たちのために御自身を裂いてくださったことを思い起こさせます。そして、本当にキリストが私たちを養い、潤し、ともにいてくださることを思い起こさせます。パンと葡萄酒に特別な力があるから、聖晩餐をするのではありません。目には見えないキリストが、しかし事実十字架にかかられた。そして、普段の食事や交わりや、あらゆる糧で私たちを今、養い潤してくださっていることを思い起こすのです。だから私たちも主にあって励まし合い、支え合うのです。