聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節

2018-04-29 17:04:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/29 ハ信仰問答120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節 

 今日から「主の祈り」についてゆっくりと見ていきます。暗唱しているほどの「主の祈り」ですが、それでもただ習慣的に、意味を考えることなく唱えて終わっていないでしょうか。勿体ない事です! ゆっくり味わいながら、イエスが下さった素晴らしい贈り物として祈りましょう。そのためにも今日からの学びに期待したいと思います。

問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。

答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とをわたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親がわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神はわたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとはなさらない、ということです。

 イエスは主の祈りでまず

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかけることを教えてくださいました。日本語では最初に来るのは「天」ですが、元々の言葉では「父よ」です。ですからここでは、キリストが私たちに「父よ」と呼びかけるようにお命じになったことを確認させてくれます。何を祈るか、どう祈れば良いか、よりもまず冒頭で、神を「父よ」と呼ぶように教えて下さった事自体の素晴らしい恵みを思い起こさせます。

ガラテヤ書四4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

 神の御子が律法の下にある人間となってくださいました。それは、人間を(私たちを)子としての身分に与らせてくださるためでした。そして、キリストが私たちに神の子どもの身分を授けてくださったので、神は私たちに御子の御霊(聖霊)を遣わしてくださって、私たちが神を

「アバ、父」

と叫び求めるようにしてくださった。私たちは、奴隷やお客様という他人行儀の関係ではなく、神の子どもという確かな絆を頂いたのです。

 「アバ」

という言葉は「お父さん」を呼ぶ子どもの呼びかけです。それも小さな子どもがお父さんを呼ぶ時の、幼児語です。お父ちゃんとかパパとか、そういう幼児の呼びかけです。まだ話し始めたばかりの子どもが、「アッバ、アッバ」という、あの言葉です。この当時でも、家の外で子どもがお父さんに「アバ」と呼びかけるのは恥ずかしいと考えられていた、それぐらい親しい呼びかけです。そういう言葉で、イエスは父なる神に「アバ」と呼びかけられました。そして、それと同じ親しい関係を下さったことが、私たちにも「アバ、父」と呼ぶ関係を頂いていることには込められているのです。神に親しく「アバ(お父ちゃん)」と呼びかけて祈る、そういう親しい関係です。

 「父」という言葉は

「畏敬と信頼」

を思い起こさせる、と言います。「畏敬」というのは、偉大さを忘れない、ということです。馬鹿にしたり軽んじたりしない。神を親しく呼びつつ、しかし神の偉大さを踏みにじるのではなく、ますます心から、喜んで神への敬意、礼拝を惜しまなくなるのです。この事については次の問121で見ましょう。今日はその前に違う角度からこの事をお話ししておこうと思います。

 ひょっとすると「神は天の父だ」と言われて、嬉しいと思えない人もいるかもしれません。厳しいお父さん、怒りっぽいお父さんで、安心できない家庭経験をしている方は少なくありません。今でも沢山の映画や小説で、父親とのギクシャクした関係がテーマになっていることがよくあります。自分のお父さんへのイメージや関係で痛みがあるままだと「父への畏敬」と言われると、体が強張ってしまうでしょう。

 聖書はその事を十分に踏まえています。ですから、イエスの前には神は「父」とだけ呼ぶ事はありませんでした。他の国では王が「父」を名乗ることがありました。王も、家庭の父親も、威張ってふんぞり返っていました。だからこそ、聖書は「父」という言葉に非常に慎重でした。その上でイエスが神を「天にいます父」と呼ばれた時、それは神が人間の父たちとは全く違う父、本当のお父さんだと言っているのです。血の繋がったお父さんに完璧なお父さんはいないけれども、天の神が私たちの本当のお父さんであって、この方を私たちは「アバ」と親しく呼び、心から畏敬と信頼を持てる。そのように新しい関係を下さったのです。

 今日はⅠ列王記三章を読みました。ソロモン王の裁判です。彼が王になった時、夢で神が現れて、欲しい物を願えと言われて、ソロモンは知恵を願いました。その後に書かれているのがこの記事です。

16そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

17その一人が言った。「わが君、お願いがございます。実は、私とこの女とは同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。

18私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。

19ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。

20この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。

21朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が産んだ子ではありませんでした。」

22すると、もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」女たちは王の前で言い合った。

3:23 そこで王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」

24王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。

25王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。」

26すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。

27そこで王は宣告を下して言った。「生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。」

28全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

 二人の遊女がそれぞれに子どもを産んで一緒に住んでいたのに、一人の赤ちゃんが死んでしまった。どっちも「死んだのは相手の子で、生きているのが自分の子だ」と譲らない。どうしたらいいか、みんな困って、ソロモンの所に連れて来られたのでしょう。そこでソロモンは剣でその子を半分にせよと言うと、本当の母親は、自分のものにならなくてもいいから子どもを殺さないでください、と言うのですね。本当の母親ではない方は、「半分に切って死んでも良い。自分のものにも相手のものにもならなくて良い」と言うのですね。ソロモンは、「自分のものにならなくても生きていてほしい」、それが本当の親の心だ、と知っていたので、こういう試し方をしたのでした。聖書は本当の親心が、何が何でも自分の思い通りにしようとは思わないことを知っています。本来、親はわが子の幸せや命を願うものだと踏まえています。

 それは、神御自身が私たちの「天の父」であることにも言えます。神は私たちの天の父として、私たちの幸せ、命を願い、そのためには遠回りや自己犠牲も厭われません。私たちが祈り願うことを聴いて、良い物は決して拒まれません。御自身の心が引き裂かれてでも、私たちに命を与えたいお方、いやそうして下さったお方です。剣で脅して畏敬と信頼を強いるのではなく、心から「アバ、父」と親しく呼び崇める関係を育ててくださる方です。祈る時、天の神がそのような方である事をまず思い出す。そう呼べる恵みにまず立ち帰る。

 八木重吉の詩を紹介します。

おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり
天にいます おんちちうえを呼びて
おんちちうえさま おんちちうえさまと唱えまつる
出ずる息に呼び 入りきたる息に呼びたてまつる
われは御名を呼ぶばかりのものにてあり

さて、赤んぼはなぜにあんあんあんあんなくのだろうか
ほんとにうるせえよ
あんあんあんあんあんあんあんあん
うるさかないよ
呼んでるんだよ かみさまを呼んでるんだよ
みんなも呼びな あんなにしつこく呼びな

 「お父さん」、そう呼びかけるだけで、もう後は何も言わなくても良くなるような、そんな関係が与えられています。

 

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ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

2018-04-29 16:56:38 | 一書説教

2018/4/29 ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

 教会図書に『さかなに食べられたヨナのおはなし』を入れて頂きました。今月の一書説教はヨナ書です。子どもにも分かりやすく大人にも鋭いメッセージをかいつまんで読みましょう[1]

1.ヨナ書のあらすじ

 ヨナ書の荒筋はこうです。紀元前八世紀頃イスラエルの国の預言者ヨナに主が言われました。

「大きな都ニネベに行って、彼らの悪について語りなさい」。

 しかしヨナはこの派遣を嫌って、東のニネベとは反対方向の西のタルシシュ行きの船に乗り込みます。神の戒めを拒絶して、逃亡したのです。ところが、主はその船に大嵐を与えて、船は難破しそうになります。船長や水夫たちは積み荷を投げ捨てたり必死に漕いだりしますがダメです。ヨナは自分のせいで暴風が起きているのだから自分を海に投げ込むように言って、渋々水夫たちはヨナを海に放り込みます。ここで大きな魚が出て来てヨナを呑み込み、嵐は静まる。これが一章です。

 二章に、魚の腹の中で祈ったヨナの祈りが記された後、三章でヨナは陸地に吐き出され、もう一度ニネベに派遣されます。今度はヨナも逃げずに従います。ヨナがニネベで

「あと四十日するとニネベは滅びる」

と言って回ると、ニネベの人々はその言葉を信じ、断食をして荒布をまとうのです。ニネベの王様まで王服を脱ぎ、国中に断食と懺悔を命じます。それを見て、神は天罰を思い直して、おやめになる。そういう出来事が三章にドラマチックに記されています。

 ところが、四章でそれを見たヨナがどう反応したでしょうか。ヨナは非常に不愉快になって、怒って主に抗議するのです。

「ああ、主よ。こうなると分かっていたから、私はタルシシュに逃げたのです」

と怒りをぶちまけるのです。ニネベを首都とするアッシリヤはイスラエルと敵対関係にあって、ヨナもその残虐ぶりに苦しんだ一人だったのでしょうか。家族を殺されたのかもしれません。彼がタルシシュに逃げたのはニネベに行くのが怖かったからでなく、自分が神の言葉を取り次げばひょっとしてニネベの人々が悔い改めたら、神は憐れみ深い神だから、裁きを思い直すかもしれない。それは嫌だ。彼らは滅ぼされるべきだ。あいつらに回心のチャンスを与えるなんてゴメンだ、それなら死んだ方がましだ。だから主の言葉に逆らってタルシシュへ向かったのです。自分を嵐の海に投げ込ませたのもヨナの勝手な意地でした。悔い改めではなく、自分を海に投げ込めばいいと言っただけ[2]。二章でも悔い改めの言葉はひと言もありません。三章の宣教も「滅ぼされてしまえ」という冷たい思いで語っていたのであって、そのヨナの怒り、心を閉ざした本心が四章で爆発するのです。

 このヨナと主のやり取りから、主の途方もない恵みを味わいましょう。ヨナはニネベの人々が滅んで当然だと抗議した時、

「あなたは当然のように怒るのか」

と主は短く言われます。勿論、怒りは大抵「当然」だと思って怒るのです。それを主は受け止めつつ、説得や議論で考えを改めさせようとはしないのです。

2.「あなたの怒りは正しいか」

 その後、ヨナは町の東で仮小屋を作り、そこから都で起こることを見てやろうと思います。ニネベの人々は裁きが下らないと分かったら、すぐまた悪さを始めるに違いない。そうしたら主も間違いを認めざるを得なくて、裁きを下されるだろう。そう思ったのでしょうか。

 しかし、この後の出来事は読んで戴いた通りです。主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上に生えさせ、日陰を作られます。ヨナは喜びますが、翌日、神は一匹の虫を備えて、そのグリーンカーテンは枯れてしまう。太陽が昇って、主が東風まで送られるので、ヨナは弱り果てて死を願うのです。そこで主は、

「この唐胡麻のためにあなたは当然のように怒るのか」

と問われ、

10…「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。11ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

と仰る。

 「あなたがその唐胡麻さえ惜しむのなら、ましてわたしは

と仰る。こういう非常に回りくどい方法を採られる。そして、この主の言葉でヨナ書はプッツリと終わります。この言葉にヨナがどう応えたか、また、ニネベがこの後また悪に立ち帰った歴史などは抜きに、主の問いかけで終わります。ヨナ書は、私たちに主の問いかけを投げかける、強烈な余韻の書です。

 ヨナがニネベの人々への憐れみに怒ったのはヨナの心情があるでしょう。私たちが怒り、誰かの救いを願わないのにも、それぞれなりの理屈や心境や経験があるでしょう。主はそれよりも大きな愛の神で、私たちには到底及ばない憐れみのお方です。でも神は、あなたの心は狭い、頑固だ、自己中心だと責めるよりも、「あなたがたった一本の草をさえ惜しむなら、わたしがニネベの人々をどれほど惜しむかも分かるだろう」と「体感」して考えることを懇願するのです[3]

 私たちが何かを惜しむ時、まして主はニネベの人も、私の嫌いな人も、また私のことも惜しんで下さるということに思い至って欲しい。神の御心に添わないから滅んでも当然ではなく、滅んで欲しくないのが当然で、そのために手間を惜しまないのが当然、少しでも立ち直ろうとするならそれを受け止めて、面子丸つぶれの計画撤回も当然。神とはそういう方なのです。

3.「仮小屋を後にして」

 主はニネベの人々を惜しまれたからこそ、その悪い行いから救い出そうとされました。神が人を愛されるとは何をしても大目に見る、ということではなく、その生き方が暴力や不真実であるならそんな死んだ生き方から立ち帰るよう働きかけて止まない、という事でもあります。愛されるからこそ、その生き方にも深く問いかけられるのです。しかしそれだけなら、ヨナでなくもっと違う、ニネベに恨み辛みのない人選をしても良かったでしょう。あえてヨナを選ばれたのは、神の願いがニネベの救いだけでなく、ヨナの救いでもあったからです。

 ヨナはイスラエル人で預言者でした。だからもう細かい事はいい、とは主は思われず、そのヨナが主の大きな憐れみへと引き寄せようとなさいます。自分の憎しみ、正義感で怒り、心に苦しみを持ち込んでいる。それを象徴するのが

「仮小屋」

を建てて不機嫌でいる姿です。主はそこからヨナを救おうとなさいました。6節に主が唐胡麻を備えて

「ヨナの不機嫌を直そうとされた」

には、欄外に

 「(ヨナを)苦痛から救い出そうとされた」

という別訳が記されています[4]。ヨナが意固地になって不機嫌のうちに閉じこもり、仮小屋を作ってそこに立て籠もり、神と争おうとする。そのヨナを主は救おうとされるのです。ヨナ書には「備える」という言葉も繰り返されます。大魚や唐胡麻、虫、東風を備えて、主はヨナの心に働きかけるのです。ヨナが自分の正義に閉じ籠もった生き方から出て来るために、主は色々なものを備えるのを惜しまれません。またヨナ書を通して私たちにも、自分の「当然」から主の「当然」に気づかせてくださるのです。

 もう一つヨナ書で顕著なのは、ヨナよりも異邦人の方が素直な姿です。水夫もニネベの人々も、謙虚で必死で助け合っています。主イエスご自身も、終わりの日にはニネベの人々が裁きの座に立つと言われました[5]。聖書は「人は主を信じれば救われて神の民になり、神を知らない人々は罪の裁きを受ける」なんていう単純な色分けをしません。神の民もまだ、主の恵みに触れて、取り扱われ、心を新しくされていく途中なのです。そのように取り扱われていくのが、主の救いなのです。

 今も主は私たちに、御言葉だけではなく、様々なものを備えてくださっています。私たちに大事なもの、助けてくれたもの、失って悲しかったもの、当たり前のように思っているもの、そうしたすべては、主が私たちに、大切な事を気づかせるために備えられた贈り物です。それは私たちが主によって遣わされた生活の場を照らす光です。悪や問題や自分の弱さや傷が出て来る中で、測り知れない神の恵みに気づかされ、怒りや不機嫌から救ってくれます。ヨナ書は私たちに自分の「当然」を手放し「仮小屋」を後にさせてくれる書なのです。

「全世界の所有者なる主が、人を惜しまれ、悪人の滅びを決して喜ばれないゆえにただ御名を崇めます。そして私たちにその御心を知らせ、想像するよう様々なものを備えたもうご配慮も感謝します。日常に惜しみなく鏤(ちりば)められたヒントに、怒りを和らげ、主の惜しまぬ愛へと変え続けてください。罪を怒るのも、その先にある希望を待ち望む心からでありますように」




[1] 作者のスピアの『ノアのはこぶね』もありますが、そのヨナの絵本が出ると知ってワクワクしていました。ノアとヨナのお話しは聖書の中でも子どもにも分かりやすい物語です。

[2] しかも、自分から進んで海に身投げしたのでもなく、水夫たちに選択を求めた所に、彼の操作的で、被害者意識、責任放棄が感じられます。

[3] 四11の「右も左も弁えない」は十字架上の「彼らは何をしているか自分で分かっていないのです」に通じます。そもそも、エデンの園での「善悪を知る木」(食べない事で善悪を知る木)の約束を破って、善悪を弁えないようになったのが人間です。そのような人間を神は、表面的な行為で(それ自体はどんなに暴力的でも)罰するよりも、右も左も弁えられないための悲惨な生き方としてその修復を願って下さいます。

[4] この名詞「ラー」は「悪」(一2、三8、10)、「わざわい」(一7、8、三10)と同語で、四1の「不愉快にした」(ラーアー)の派生語です。ですから、ニネベの人々の悪や嵐の海での禍に等しい問題がヨナの中にあって、それから主が救い出そうとなさった、という原意があります。

[5] マタイ十二39以下「39しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。40ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。41ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」また、マタイは16章4節でも繰り返しています。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。」

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問119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

2018-04-23 06:34:15 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/22 ハ信仰問答119「祈りのお手本」マタイ6章5-15節

 夕拝では「祈り」についてともに教えられてきました。前回は、私たちはすべての必要を神に求めるよう命じられていることと、その事をイエスが教えてくださったという問118でした。それを受けて、今日から主イエスが教えられた主の祈りに入ります。

問119 主の祈りとはどのようなものですか

 その答は、先ほどもご一緒に口にしました「主の祈り」が引用されるのです。そして次から主の祈りの言葉が一つずつ丁寧に解説されていきます。今日は、言葉の細かな所ではなく「主の祈り」の全体的なことを見ていきましょう。

 まず、先のマタイの福音書でありましたように、これは、主イエスご自身が弟子たちに教えて下さった、祈りのお手本です。マタイの六章とルカ一一章に記されています。その二つは細かく見ていくと意味が違う所もありますが、元々イエスご自身があちこちで何度も「このように祈りなさい」と教えてくださっていたのでしょう。その時に、少しずつ違う言い回しを使っておられたのかもしれません。ルカが書いたものとマタイの記録とが違っているのは、矛盾や食い違いではなく、むしろ、イエスが教えられた祈りの豊かさ、型にはまらない自由さの現れだと思うのです。

 これは「主の祈り」そのものに言えます。イエスは私たちにこのように祈りなさいと教えてくださいましたが、ただ「主の祈り」を機械的に唱え続けるようにと命じたのではありません。一字一句間違えずに、繰り返していればいい、というのではありません。「主の祈り」は祈りのお手本であって、この祈りをよく味わい、身に着ける事で、私たちの祈りの土台や骨組みが作られるのです。イエスが仰ったのは「このように祈りなさい」という手引きで、祈りの決定版を下さったのではありません。

 よく考えもせず、分かってもいない言葉をただ繰り返すような事があったために、その反動で教会の中にも、祈りの言葉を嫌う傾向があります。「成文祈祷」より「自由祈祷」を推奨する教会が多いのです。確かに、成文祈祷より自由祈祷の方が「自由」ですし型に囚われず、自分の心の思いを祈る事が出来ます。しかし、それで祈りが成長するかというと結局リードしてもらう事がないので、成長がないことが多いのです。また、意外と誰か周りの人の繰り返している言葉を真似していて、「自由」とは限りません。そしてそのような自分なりの「祈祷文」を繰り返しているだけで、必ずしも心がこもっているとは限りません。独り善がりな祈りのまま終わってしまいます。そして、こちらの自由裁量に任されてしまうだけに、心が落ち込んだり塞いだりして祈れない時には祈れなくなって、ますます神が見えなくなってしまいます。

 ある方が、私たちは「主の祈り」の逆で祈る事が多い、と言いました。「逆」とは

私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください。
私たちの日ごとの食物を、今日もお与えください。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。
御国がきますように。
御名が聖とされますように。

 「助けて下さい、罪は責めないでください」、まず自分のことを祈って、それから神様の御心を祈り、御名が崇められますようには一番最後になりやすい。それが私たちの思いつく、そして戻ってきやすい発想です。だからこそ、主イエスが教えてくださった祈りを味わう時、私たちは、自分流の祈りを繰り返す事から解放されるのです。自分が助かることが一番大事になってしまう考えから、もっと大きく、神の御名が聖とされることを第一に願う考えへとシフトチェンジしてもらうのです。自分の名前よりも、神の御名のために祈る。自分が王様のように思い通りにしたい考えから、神が王である御国の来る事を願う。そのように自分の思いを軌道修正してもらうのですね。私は「主の祈り」を自分にとっての「軌道修正の祈り」と呼んでいます。

 マタイの福音書でイエスが「主の祈り」を教えられた時も、父なる神に対する根本的な勘違いをまず指摘なさいました。人に見せるために祈るのではなく、隠れた所で見ておられる神に祈りなさい。また、同じ言葉を繰り返して、長々と祈れば聞いてもらえると思うような神を小さく考える間違いを止めなさい、と仰いました。私たちの必要をすべてご存じの神に、また隠れた心の奥までご存じの神に、祈っているのだと思い出させてくださいました。この絵のように、沢山の生贄を献げたり、ゴージャスな礼拝をしたら神を動かす事が出来る、という宗教がたくさんあったのです。

 今でも教会の中に、熱心に祈れば、神様を祈り倒せると言っている教派があります。それはイエスが引っ繰り返された考えです。神の偉大さ、また私たちに対する深い関わりに立ち戻らせつつ、主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのです。

 神は私たちのすべての必要をご存じで、それを満たしてくださる「天の父」です。すべてをご存じの神です。では私たちは祈るのでしょうか。祈らなくても、神は私たちの必要をご存じなのではないでしょうか。この事については、問116で既に見ましたが、こう言い換えることも出来ます。神は私たちの必要をご存じです。その神が私たちに祈りを教え、こう祈りなさいと「主の祈り」まで与えてくださった、ということは、私たちに祈りが必要だ、ということです。「主の祈り」を祈る事で、私たちは、すべての必要をご存じである神を、天の父として仰ぐことが出来るのです。祈る事で、焦りや疑いや傲慢や裁く事から救われるのです。軌道修正をしていただくのです。自分のことしか見えない生き方から、神の広い世界に立ち戻って、深く息を吸って、伸び伸びと歩むことが出来るのです。飾ったり、格好をつけたりせず、聴いておられる神の前に、自分の思いも悩みも恐れも悲しみや怒りも祈ることが出来るのです。

 「主の祈り」をそれぞれの生活でゆっくり味わいつつ、祈っていきましょう。立ち止まりつつ、繰り返したり前に戻ったり、自分の祈りも合間に差し挟んだりしながら、天の父とお話ししましょう。そして主イエスがこの祈りを教えてくださったのですから、天の父が自分の祈りを聞いてくださらないはずがないと信じる時、私たちは、実にこの世界で大切な役割を果たしているのです。天と地とをつなげる祈りに加わっています。また、世界中の人たちがそれぞれの言葉で「主の祈り」を祈っている、その大きな輪に連帯しています。この祈りを学び、普段毎日祈り、そして魂を養っていただきましょう。

 

 

成文祈祷

自由祈祷

主の祈り、聖書の祈り

「祈祷書」や先輩たちの祈り

「成文祈祷」を使わない

利点

リードしてもらえる

内容・言葉などを教えられる

深みがあり、養われる

教会とつながる

祈りが出て来ない時も使える

自由に祈れる

型に囚われない

自分の思いに気づける

 

欠点

言葉だけの繰り返しになる

心がこもらない

理解が難しいときがある

進歩がない

意外と誰かの言葉の真似が多い

心がこもっているとは限らない

独り善がりで終わる

祈りが出て来ない時は出来ない

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使徒の働き二二章1-22節「話をさせてください」

2018-04-22 14:02:29 | 使徒の働き

2018/4/22 使徒の働き二二章1-21節「話をさせてください」

 このパウロの弁明は、同胞のユダヤの民衆を相手に語られたものです。結局最後は

「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」

という怒号でかき消されてしまいますが、最初からパウロを非国民、神を冒涜して、神殿を汚す不届き者だと殺意に燃えていた相手でした。そういう相手に、パウロが何を、そして何故そんな話をしたのでしょうか。

1.自分の物語を

 まずパウロはここで自分の話をしています。自分の生まれ、育ちを話し、

「今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」

と語り出しています。4節で

「この道」

と言っているのはキリスト教信仰、ナザレのイエスをキリストと信じる信仰のことです。それをかつては迫害し、捕まえて牢に入れ、死に至らせることもしていました。そういう自分が、6節以下、ダマスコへの道でイエスに出会い、その声を聴いて、目が見えなくなった。その自分の所にダマスコのアナニアという人が来て、祈ってくれて、目が見えるようになった、という経緯を語っています。そういう自分の物語を、淡々と伝えていくのがここでの「弁明」です。

 パウロは自分を殺そうとした人々の殺意を咎めませんし、「その考えが間違いだ」と非難もしません。怒っている相手に「でも」は絶対に禁句ですが、賢明なパウロは説得や議論は避けています。相手のことも「神に対して熱心」と認めますし、自分の証人として大祭司や長老会全体も名指して信頼を寄せています。ダマスコのアナニアのことも

「律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い」

と紹介します。とても謙虚に誠実に語っています。上から目線ではありませんし、権威に訴えるようないやらしさもありません。不用意に反発や敵意を煽るような話し方をしない。自分を殺そうとした相手、敵視している人々です。その相手にパウロは語りかけるのです。抑も22章32節以下で兵士たちに助け出されたまま保護されてもいいのに、わざわざ立ち止まり、

「お願いです。この人たちに話をさせてください」

と言うのが尋常でありません。パウロはこの人々を「暴徒」「無知な群衆」でなく、話し相手、自分を伝えたい相手と思って止みません。相手も神を大事にしていると尊重しつつ、自分の出会ってきた神を語るのです。対決ではなく対話を求めるのです[1]

 こういうパウロの姿勢は、主イエスご自身を思い出させます。イエスは、御自身に敵対する人にも、当時蔑まれていた人や誰に対しても、敵や他人としてではなく人として向き合われました。自分を十字架につけ嘲笑う人々のためにさえ祈られました。そのイエスの心が、パウロの中に生きています。そして私たちのうちにもこのイエスの心を戴きたいのです。

2.「何をためらっている」

 しかしそのパウロの「対決より対話」という姿勢そのものが群衆には我慢なりません。

「こんな奴は地上から除いてしまえ、生かしておくべきではない」

と声を張り上げたのです。「ナザレのイエスをメシアだと言うなんて奴は神を冒涜している。だから捕まえてもいい、殺してもいい」。それはかつてパウロ自身の正義でした。これは「対決型」の信仰です。「報復/懲罰」の正義です。勧善懲悪で考え、神も逆らう者は罰するのだと考えます。ルールに従わない者は罰や暴力を振る舞われても文句を言えない、という論理が罷り通ります。最近、人種差別をテーマにした映画を観て、考えさせられていたら、その映画にも差別が沢山あるという見方もあると知りました。でもその批判が講じて、映画に対して「お前が一番差別主義者だ」とこき下ろしてしまう。自分に気に入らない問題はあったとしても、「だから何を言ってもいい、何をされてもお前が悪い」という懲罰的考えは、悲しいことに私たちに深く染みついています。[2]

 しかし14節以下アナニアは何と言いますか。主はパウロを断罪して懺悔させるより、御心を知らせ、義なる方を見て、御声を聴く関係へと選ばれました。そして義なる神がどんなお方かを伝える証人となさるのです。それは躊躇(ためら)わずにおれない正義でした。パウロは、どう償えば神は受け入れるか、どう自分を罰したら良いかと考えたとしても、アナニアは

「躊躇わずに立ち上がり、主の名を呼び、洗礼を受け、罪を洗い流しなさい」

-償いや反省や自罰的な態度ではなく、躊躇わずに主のもとに行く。その新しいスタートこそ主の求めること、私たちを求めてくださる義なるお方の御心。「悔い改め」を言うならば、「悔い改めなければ受け入れられない」ではなく、主の元に行き赦しを戴く事こそ「悔い改め」なのです。これはかつてのパウロには躊躇わずにおれない考えだったでしょう。しかしそれこそが、主なる神の御心です。神である主はそういうお方だ、という驚くべき出会いをパウロは体験したと話しています。[3]

 その後パウロはエルサレムに帰って、宮で祈っていたと言います。彼はこの後も神殿で祈ることを大切にしていました。また同胞に対する熱い思いも変わりませんでした。しかし主はパウロに

21行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」

と言われます。これを聴いて、人々はもうこれ以上聴いちゃおれんと、話を中断するのです。それは、彼らもパウロの話に躊躇った、あまりの主の恵みの大きさ、途方もなさに聴いていられなくなったからでした。

3.報復から修復へ

 パウロは、宮の冒涜という誤解を糺して自分を正当化するより、この宮の主がナザレのイエスその方だ、赦しの神で、異邦人に自分を遣わされた主だと証ししました[4]。これを聴いて人々が怒り狂ったのも無理はありません。パウロの弁明は失敗だったのでしょうか。いいえ、承知の上でしょう。かつて熱心な迫害者だった自分が変わった奇蹟さえ決定打にはなりがたい人間の頑固さも熟知しています。「だから話しても分かるまい」でなく、それでも語りました。今はこの驚くほどの恵みが理解されなくても、いつか気づく日が来る。かつての自分がステパノを殺したけれど、今あの証しが胸に刻まれているように、そうなる事を願って、精一杯証ししたのです[5]。勧善懲悪という枠を覆す偉大な恵みの神を証しする一石を投じ続けたのです。

 こういう神に対する抵抗が人間に強くあることも聖書には繰り返されています。来週のヨナ書もこれがテーマです。勧善懲悪や因果応報のほうがスッキリするし、自分が正しいと思いたがる。また人を動かすにも「神の御心だ」と脅すのは迫力があります。でも主はそんな杓子定規なお方ではありません。全てを知り、人間の限界や誤解や過ちを知り尽くした上で、裁くよりも回復へと導かれるお方です。その正義は、懲罰や報復よりも修復を目指す正義です。報復という考えから、人間を救い出し修復してくださるのが聖書に繰り返されている神の物語です。人が神の名を振り翳して争ったり傷つけたり怯えるのを止めて、私たちの帰りを待ち、喜んで迎えてくださる神に出会うようにと、主は私たちをじっくりと導かれるのです。自分が正しいと思っていると力尽くで抵抗しますが、自分の限界を知る者にはこの上ない慰めがあるのです。

 それは言葉や思想ではいくらでも言える綺麗事ではありません。主なるイエスご自身が、この世界に来て、十字架と死と復活で証ししてくださった事実です。また、パウロを変えたことも主の御心でした。主は私たちの歩みに今も働いて、断罪とか懲罰とは違う正義、対話や修復という慰めに満ちた正義を築こうとされるのです。この恵みによって、私たちの人との向き合い方を変えて、主の正義の証人としてくださる。人を敵だとか決めつけず、貶(けな)さなくなるだけでもどれほど世界は美しくなるでしょう。そのようにして、主イエスの恵みが伝わるのが伝道です。私たちにそれが出来るかどうかではありません。主が懲罰よりも癒やしを下さる神だ。御自身の十字架の犠牲さえ厭わなかった主だ。この恵みと派遣の主を私たちは信じ、礼拝しているのだ、と確認しましょう。そうして自分をも人をも、主の御手の中に見ていきましょう。私たちのささやかな証しを、主がその時の中で必ず益としてくださると期待しましょう。

「義なる主よ。私たちも、躊躇するほどの憐れみに招かれて今ここにあり、ここから遣わされていきます。どうぞ憎しみに希望で、非難に友情で応えさせてください。脅しや敵意にも恐れず媚びず、友情や祝福を、自由やユーモアをもって応えさせてください。主の恵みの福音が、言葉だけでなく、私たちを生かす恵み、私たちの喜びや成長として届けられていきますように」



[1] 勿論パウロは相手に媚びて怒りをただ宥めようとはしていません。

[2] この場合の「私たち」には、キリスト者も教会も含みます。教会の伝道が「対決型」であったことは歴史において散見されますし、近年の伝道熱心な「福音派」がそのような問題を抱えていたことも今では公に指摘されるようになりました。

[3] 14彼[ダマスコのアナニア]はこう言いました。『私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。15あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。16さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

[4] これはパウロや新約だけの新奇な信仰理解ではありません。旧約においても、赦しと回復、神の「怒るのに遅く」あられる忍耐などは十分に証しされています。イザヤ書六章で、主は神殿で「私はもうだめだ」と罪を自覚したイザヤに赦しを与えてくださいました。そして、そのイザヤを預言者として派遣されました。パウロはここで、イエスがその主であり、イザヤのように自分に赦しと派遣を与えてくださった、と発言したのです。それは「爆弾発言」でもありましたが、イザヤに起きた出来事の延長でもありました。そして、そのような類似性に気づいたからこそ、彼らには許しがたかったのかもしれません。

[5] 「正しいのは自分の方だ。今に分かるさ」という優越感ではなくて、そういう人間的な「どっちが正しいか」を越えて私たちを迎え入れ、また結び合わせてくださる神の証しです。

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問117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

2018-04-15 20:51:27 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/8 ハイデルベルグ信仰問答117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

 二週間、主の十字架と復活を記念する「受難週」と「イースター」を過ごしました。イエスが想像を絶する苦しみを受けてくださったこと、そしてよみがえって、今もその力で私たちに働いてくださっている。その素晴らしい恵みを思いました。今日からまたハイデルベルグ信仰問答に戻ります。祈りの学びを再開しますが、十字架と復活と別の話ではありません。イエスの十字架と復活は、私たちと神とを親子関係に結びつけてくれました。私たちが、神を親しく「天のお父様」と呼ぶ親しい永遠の関係をくれました。その事が最もよく現れているのが、祈りです。ですから、祈りについて学ぶだけでなく、私たちの普段の生活で祈ることも励まされて、夕拝を続けて行きたいのです。

 前回116では、祈りが私たちに必要であることをお話ししました。今日の117では、祈りに求められることは何か、三つの姿勢を挙げています。

問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。

答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちが無価値なものであるにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れようとしておられるという、揺るがない確信を持つ、ということです。そのように、神は御言葉においてわたしたちに約束なさいました

 ここで祈りに求められるものとして3つあげているのは、どれも私たちの心の姿勢や考えです。見える外見のことではありませんし、形式的なことではありません。呪文のようなものがあって間違わないとか、沢山の献げ物をしましょう、ということではないのです。私たちが聖書から教えられる祈りは、神との心の関係を問います。それなしに、沢山の生贄や花輪や人柱を立てれば神が聞かれるだろうとか、強力な呪文を唱えたら、こちらの大きな願いも聞いてもらえるとか、そういう世界ではありません。

 まず、私たちが

「御言葉において私たちに啓示された唯一の真の神に対してのみ、この方が私たちに求めるようにとお命じになった全ての事柄を、心から請い求める」。

 聖書において私たちに語りかけておられる、唯一の神だけに、全ての事柄を求める。それも心から。自分に都合の良い神を造り出したり、二股を掛けたり、人間はしがちですが、神は人間の都合でどうこう出来る方ではありませんから、まず、神は神であって、この方以外にないと肝に銘じるのです。そして、自分に都合の良いことだけでなく、聖書で求められているすべてのことを求める。これは、次の問118以下で触れますが、自分が欲しいものだけでなく、知恵とか愛とか勇気、良い心も求めることを教えられます。

 第二に、私たちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前に謙る。乏しさと悲惨さ、ということはこのハイデルベルグ信仰問答で何度も言ってきたことです。これは人間のありのままの事実です。私たちは愛にも真実にも乏しく、神の大きな恵みが見えずに苦しく、孤独で、不安や生きづらさを抱えています。また、周りの悲惨や苦しみを助けることも理解することにも本当に力の無いことを痛感しています。それでいて、そういう乏しさや悲惨を認めることが苦手で、言い訳をしたり、背伸びをしたりしがちです。人と比べて自分のほうがましだと言いたがります。

 先に見ました

「パリサイ人と取税人の譬え」

はまさに典型でした。宗教的に熱心な生き方をしていたパリサイ人はどう祈りましたか。イエスは

「自分を正しいと確信して他の人々を見下している人」

に対しての警告として語られました。自分を正しいと確信して他の人々を見下し、自分は他の人のようではない、悪の生き方をしていない。「断食も献金もしています」。そう祈る祈りと、取税人として敵国ローマの手先となって生きていた人が

「目を天に向けようともせずに、「神様罪人の私をあわれんでください」

と言うしかなかった祈り。その違いは何でしょうか。ここには今日の学びの第二点

「自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、神の威厳の前に謙る」

姿勢がありません。勿論、やたらと卑下して諂って、自分を貶めるのとは違います。人との比較でない、ありのままの自分の状態を認めるなら人は謙虚にならざるを得ません。自然の前で人間ってなんてちっぽけな存在か。十字架のイエスの愛の前に、自分は何と愛のないろくでなしか。神の前にある自分の惨めさ、貧しさを認める謙虚さを忘れた尊大な祈りは、神の大きさを見失った独り言です。

 ですから第三は

「私たちの無価値にもかかわらず」

と始まりますが、私たちが無価値だと言っているのではありません。私たちは神の作品であり、神に愛されているものです。それは私たちに何が出来るか、人と比べて能力や美貌や実績があるか、というパリサイ人が見ていた価値観とは違う、深い神の愛です。ここで言われているのは、私たちが自分の乏しさ、悲惨さを思って自分を無価値だと思っているとしても、だから神も自分の祈りを聞かれないだろうと思ってはならない、ということです。自分では無価値で祈る資格もないし、祈りを聞かれると期待する資格もないと思っているとしても、主キリストのゆえに、神が私たちの祈りを確かに聞いてくださる。その揺るがない確信こそ祈る時に求められることだ、というのです。自分を卑下して、貶めて、祈る価値などないと謙るのではないのです。その逆に、自分が無価値であるかのように思う時も、主キリストのゆえに、祈りは聞かれるという確信を持ちなさい、というのです。何という励ましでしょうか。そしてそれが聖書の御言葉における神の約束なのです。

 どう祈れば良いのか、そう思うこともあるでしょう。私も以前は、失礼のないよう、堅苦しくぎこちない言葉を早口に綴って、何を祈っているかより早く終わりたくて言葉を並べ立て、終わってホッとしていました。今日の言葉の逆さですね。偉大な神に心を向けて祈るのです。自分の貧しさを早口で誤魔化したりする必要はなく、心までご存じの神が聞いておられると信頼して、心の思いをゆっくり祈るのです。その前に、聖書の御言葉をゆっくり読むだけでも、それも十分な祈りです。聖書の約束通り、神は私たちの祈りや心の呻きさえ、確実に聞いておられます。そして、私たちの願うよりも大きなご計画で、全てを益としてくださいます。祈りはその神への信頼を与えてくれるのです。

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