聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問66「見て、触れて、味わう」Ⅰヨハネ一1-7

2017-04-30 16:16:47 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/5/7 ハ信仰問答66「見て、触れて、味わう」Ⅰヨハネ一1-7

 私たちは「目には見えない神」を信じています。神は霊で、私たちには見る事も触る事も出来ません。これを見える形に作ってしまうと、それは「偶像」となります。見えるものがあると分かりやすいので、目には見えない神を信じて、聖書を読み、言葉を聴く、というキリスト教の信仰形式は物足りないように思われることも少なくありません。しかし、今の聖書の言葉ではハッキリとこう言われていましたね。

Ⅰヨハネ一1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 ここでいう「いのちのことば」とはイエス・キリストの事です。そのイエスを私たちは聴き、目で見て、じっと見て、手で触った、ありありとした現実だと言っています。「見えない神」とは言うのは、神がぼんやりとした捉え所のないお方だ、ということではないのです。この神こそ世界の全てをお造りになりました。見えるものも、私たちの目には見えないものもこの神なくしては存在しません。そして、神の子イエス・キリストはこの世界に人としてお生まれになり、体を持たれました。弟子達と過ごし、病人に触れ、兵士たちによって十字架に磔にされました。抽象的で観念的どころか、見えるすべての背後にある神を信じる-これ以上無いリアルな方を信じるのが私たちです。

 そして、先回から見ています「聖礼典」。これは、神が私たちのために、見て、触って、食べる事さえ出来るように、福音を味わい知らせてくださるという事を教えます。

問66 礼典とは何ですか。

答 それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた刻印であって、神は、その執行を通して福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、刻印なさるのです。その約束とは、十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が恵みによって罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、ということです。

 「聖礼典」あるいは「礼典」は、英語でサクラメントと言います。後の問68で、礼典とは二つあって、洗礼と聖餐であると言われます。頭に水をかけるか、全身水に入るかして、罪の赦し、新しいいのちを象徴する。それが洗礼です。そして、聖餐(主の聖晩餐)ではパンを裂き、杯のワインをともにいただいて、永遠の命を象徴するのです。この洗礼と聖餐の二つが、ここで言われている「聖礼典」です。

「神によって制定された」

とあるように、人間が考え出したのではありません。主イエスが、教会に世の終わりまで守るようにと定められて、初代教会がその通りに実践していたことが何度も記されています。特にプロテスタントは、この二つだけが、主イエスによって制定されたのであり、この二つを礼典とします。そして、この二つの

「目に見える聖なるしるしまた刻印」

によって、私たちは福音の約束をよりよく理解し、刻印してもらうのです。

 「しるし」というのは標識やお知らせ、サインのことです。この先に横断歩道がありますよ、この先に建物や目的地がありますよ、と知らせてくれるのです。まだ目には見えないけれども、そこにあるものを見える形でお知らせしてくれるのがしるしです。ですから、洗礼や聖餐式は、イエスが私たちの罪を赦して新しい命を与えてくださったこと、永遠のいのちを与え、いつも養ってくださっていることを、水の洗いやパンと葡萄酒をいただくという「しるし」でハッキリ見せてくれるのです。

 「刻印」とは刻みつけられることです。見たり触ったり味わうと、私たちの体にはその記憶がもっと強く残りますね。水が冷たいとか、パンが固いとか、葡萄ジュースが喉を通っていったとか、そういう感覚で、罪の赦しやイエスの下さるいのちが、私たちの魂に刻みつけられて、もっとハッキリ分かるようになるのです。こうして、福音の約束が、私たちによりリアルに分かるようにと、イエスは聖礼典を定めてくださいました。言葉だけ、頭だけではなく、本当にキリストの福音が現実だと分かるように、聖礼典というものを備えてくださいました。それは、福音の言葉や聖書、説教が不完全で不十分だからではありません。御言葉だけでは足りないから聖礼典が必要なのではありません。むしろ、受ける私たちの鈍感さのゆえです。人間というものが、知識や情報だけで分かる存在ではなく、感覚が大きく占めている者だからです。

 神様は人間を、言葉だけのものには造られませんでした。むしろ、体をもって生きる存在に造られました。遊びたいし、美味しいものが食べたいし、見えるものに驚き、世界を楽しみ、手を動かし、汗を流して、生きるようにと造られました。そして、罪が赦されて、神の子どもとされ、福音の中で成長するというのも、頭の中だけのことではありません。私たちの食生活、仕事、健康、生活全体と関わります。そもそもこの見える世界そのものが、神の栄光を現しているのです。その中で私たちは勉強や立派な知識を増やすようにと言われているのではありません。この体での営み全てが、神の栄光を現すものとなるようにと言われているのです。そのためにも、神は私たちに、言葉だけではなく、聖礼典を下さいました。それは、まさに私たちの感覚そのものが、福音の約束に根ざすためです。そして、私たちがキリストの福音をハッキリと知り、言葉や知識に出来ないほど深くまざまざとした現実として、見、触れ、味わうのです。神は聖礼典を通して、私たちに本当にキリストとの交わりを味わい知らせてくださるのです。

 言い換えれば、決して聖礼典は、説教の補足ではありません。むしろ、説教によってキリストの恵みを知るのは、聖礼典を通してリアルな福音体験をするため、と言ったほうが良いでしょう。

 教会建築の考え方に、こういうことが言われます。礼拝堂の入口にはいつも洗礼盤を置いておく。そして、礼拝堂の真ん中には聖餐卓を置く。説教壇ではなく聖餐のテーブルです。それによって、礼拝堂に入ってくるたびに、洗礼を受け、罪が赦された事実を思い出す。心の重荷を下ろし、悔い改めて、明るい思いを持つ。そして、礼拝では中心の聖餐卓をいつも見る。そこで、主イエスが私たちをご自身の食卓に招き、永遠に迎え入れてくださることを見る。それも、自分だけではなく、集まった皆さんが、主の食卓に招かれていることを覚える。それ自体が福音です。 

 そこには、神の国の縮図があります。福音のエッセンスがあります。洗礼と聖餐式は、そのような大事なしるしであり刻印となってくれます。見て触れて体験できる素晴らしい恵みです。

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問65「パンを分け合う」使徒2章37-42節

2017-04-23 14:34:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/23 ハ信仰問答65「パンを分け合う」使徒2章37-42節

 教会でよく聴く言葉の一つに

「証し」

があります。自分の信仰の経験を、人にお話しして聞かせるのです。特に、自分がイエス・キリストを信じた経験を分かち合うことを「救いの証し」とかただの「証し」と言います。波瀾万丈な人生で劇的にキリスト教に出会ったような証しもありますし、家族が信仰を持っていて生まれる前から教会に行っていたけれど、ある時に改めてイエスに出会う体験をした、という証しもあります。人の数だけドラマがあって、そういう話を聞かせて頂くのは、いいものだなぁと毎回思います。けれども、そのような話を聞けば聞くほど、特に、ドラマチックにクリスチャンになったという話ほど、聞いている人の心には、自分もそういう劇的な体験が必要なのではないか。イエスを信じたいけれども、どうしたら信じたことになるんだろうか、という素朴な疑問も膨らんでくるのです。

 前回まで、キリストの果たされた救いの業を私たちは信じるだけで頂けるのだ、とお話してきました。信仰は魂の手であって、その手を伸ばして信仰をいただくだけです。でもその信仰は、どこから来るのでしょうか。

問65 ただ信仰のみがわたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。

答 聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確証してくださるのです。

 信仰は、聖霊が起こして、確証してくださるのです、と言います。その人が頭がいいから、心がきよらかだから、そんなことは関係ないのです。三位一体の神の聖霊が、私たちの心に信仰を起こしてくださるのです。言い換えれば、信仰は聖霊から来るのです。では聖霊はどのように信仰を起こしてくださるのでしょうか。それは、

「聖なる福音の説教を通して」

です。聖なる福音の説教。それは特にこの礼拝の説教です。教会の礼拝や夕拝の説教で、キリストの福音が説き明かされる時、それを聞く人の心にキリストを信じる思いが出て来る。あるいは、自分の罪が分かって、心を砕かれ、謙虚にされます。あるいは、キリストの愛を信じたい、自分も救われたい、そういう思いが起こされます。その福音に対する「信じたい」気持ち、それ自体が、聖霊が働いてくださって初めて持つことが出来る一歩なのです。福音の説教を通して聖霊が働かれるからこそ、人の心には福音に対する興味や反応が湧くのです。あるいは、抵抗さえも、神がその人の心を動かし始めているからでしょう。説教者のお話しが分かりやすいとかしどろもどろだとかを超えて、その人のうちに聖霊が働いて、福音がその人の心に届いてくださる。だから、その福音を聞いての反応は、聖霊が起こしてくださる信仰の始まりなのです。

 自分の中にある「信じたい」思い。救われたいという願い。いいえ、「こんな自分が救われるんだろうか」とか「私の罪が赦してもらえるなんて、そんなわけがない」という心さえ、聖霊のノックだと思いましょう。そういう自分の思いだけではダメで、聖霊が何かもっと特別な思いや体験や声を下さって初めて、本当に信じて救われる事が出来るに違いない、と思う必要はありません。その私たちの中に小さく始まった、ごくごく人間的な思いこそ、神が下さるかけがえのない信仰なのです。聖霊は、直接人間の心に魔法のように信仰を与えるのではありません。説教を聴き、福音に耳を傾ける中で、どうにか心が動かされてゆく、そういうプロセスで働かれるのです。今日の聖書でも、

使徒二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 ペテロの説教を聴いて心を刺された人に、パウロはそのまま、悔い改めなさい、つまり神から離れていた生き方から、神を神とする生き方に向き直りなさい。そして、バプテスマを受けなさい、と勧めますね。

「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」

というのは、それまでは聖霊は関係ない、ということではありません。彼らが

「心を刺され」

たこと自体、聖霊のお働きなのです。だから後は神に向き直って、洗礼を受ければ、聖霊が私たちのうちに住んでくださいます。そう素直に受け入れれば良いのです。

 しかし、「福音の説教」とは礼拝説教に限らず、一対一で話をしながらイエスについて聞かされる場合もあるでしょう。テレビや映画で、キリストについて知ることもあるでしょう。先に言ったように「救いの証し」にはその人の数だけ違うストーリーがあるのです。そして、そういう人の「救いの証し」を通して、別の人が福音に出会うということも沢山起きるのですね。本当に、聖霊は様々な形で、私たちに語りかけ、福音の説教を聴かせてくださるのです。そこで起きる現象ではなく、どうにかして、聖書に証しされたイエスの十字架と復活、恵みによる赦しや喜びを知り、心が動かされることが大事なのです。ですから、「信じたい」と思うなら、「信じます」と応えたらよいのです。

 それだけではありません。聖霊は、福音の説教を通して信仰を持たせるだけでなく、

…聖礼典の執行を通してそれを確証してくださる…

とあります。先の使徒2章でも、洗礼を受けた人々は、その後も、

使徒二42…使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 この「パンを裂き」が「主の聖晩餐」という聖礼典となりました。来週から、この「聖礼典」とはどういう事かを詳しく見ていきます。今日はさわりだけお話しします。信徒たちは、教えを学んだり聞いたり守っただけではなく、集まって、ともにパンを裂いたのです。これは、キリストが示してくださった福音のしるしでした。キリストがご自分を十字架に与えて、ご自分の肉を裂かれて、私たちに与えてくださったこと、そして私たちがお互いを与え合い、交わりをすることが「パンを裂く」というしるしです。パンを裂くたびにイエスの福音を思い出し、分かち合い、味わう。また、パンを分け合うこと、パンだけでなく証しや心や生活を分かち合うことを通して、信仰がますます確証される。それが、聖霊が私たちに働いてくださる方法なのです。

 信仰は、自分で聖書を勉強さえすれば分かるとか、奇蹟や特別な体験があれば強くなるものではありません。聖霊が、説教や聖晩餐、礼拝や交わりを通して信仰を起こし、養ってくださるのです。

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ダニエル書2章20-23節「ダニエル書 たといそうでなくとも」

2017-04-23 14:30:28 | 聖書

2017/4/23 ダニエル書2章20-23節「ダニエル書 たといそうでなくとも」

 今月取り上げるダニエル書は実に愉快な書です。ある学者は

「大いに説教に取りやすい本」

だと言っています[1]。特に六〇周年記念礼拝を前に、ダニエル書は神の支配を教えてくれます。

1.捕囚の真っ只中で

 ダニエル書の舞台は、旧約聖書でも最も暗くどん底の時期でした。イスラエルの民が、何百年も神に逆らい続けた末、遂にバビロン帝国の侵入を許し、三回に渡ってエルサレムから大勢の人々がバビロンに連れて行かれたのです。これを「バビロン捕囚」と言います。この第一回の捕囚の中に、ダニエルがいました。まだ少年だったそのダニエルが、バビロンの王に仕えるための人選に選ばれて、教育を施されて、やがてバビロンが滅びてペルシヤ帝国が始まるまで、七〇年にわたります。少年だったダニエルが、九〇歳近い老人になった期間です。その間、ダニエルは異国のバビロンの王に仕えて、大臣として勤めたのです。ずっと異国で、自分とは違う民族、違う文化、何より違う信仰の中で生きたダニエルです。そういう中で、神がダニエルを通して繰り返して証しされたのは、先に読みました言葉のような信仰です。

二20ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。

21神は季節と年を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。

22神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」

 大バビロン帝国にあって、天にいます神こそ知恵と力があり、季節と年を変え、王を廃し王を立てる真の支配者。私たちの神こそ歴史の王だと告白するのです。それは大変な勇気でした。ダニエル書一章から六章までの前半は、一章ごとに、ダニエルと三人の友人が、自分の信仰をどう守ったかがドラマチックに描かれます。灼熱の炉に投げ込まれ、指が現れて壁に字を書き、ライオンの穴に落とされ、摩訶不思議な夢が説き明かされるなど、実に劇的なストーリーがあり、ダニエルたちのピンチと勇気とが生き生きと描かれます。特に三章の「金の像と燃える炉」事件は劇的ですね。金の像を拝めと命じられて、三人の友人は怯まず言うのです。

16私たちはこのことについて,あなたにお答えする必要はありません。

17もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

18しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。

 説教題もここからですが、教会の歴史では迫害の場面で引き合いに出される有名な言葉です。

2.王たちの心が露わに

 この少年たちの信仰とともに、ダニエル書では相手の王の人間くささも鮮明です。ダニエルたちの存在で、バビロンの王も一人の人間であり、弱さや間違いがあり言い訳がましい、ただの人間であることが浮き彫りにされるのです。ここでネブカデネザル王は、二章で不思議な夢を説き明かしてもらい、ダニエルたちの神の力に触れたはずなのです。それでも彼はほどなく金の巨像を拝ませようとしました。それを三人がきっぱり拒むと、王は激怒して、炉を七倍も熱くせよと命じます。実に無茶で無意味で大人げないです。神は火の中で三人とともにいて、守ってくださいます。それを見てネブカデネザルは態度を豹変させます。でも次の四章でまた彼は高ぶってしまい、正気を失ってしばらく獣のように過ごすのです。四章にはこうあります。

四17…いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』

 神は世界を治めるだけでなく、最も謙った者を置かれる。これがダニエル書のテーマです。そもそも神こそは世界の王なのです。聖書の最初、創世記で人が神に背いて以来、人は自分の力で世界を幸せになろう、神抜きで人生を勝ち取ろうとします[2]。しかし、たとえそれに成功し、王や世界の頂点にまで上り詰めたとしても、人は人です。神にはなれません。王といえども人に過ぎず、自分の心さえ治められないのです。神こそ、もっと大きな力とご計画で世界を支配されます。

 でも同時に神は、その王の心にまで問いかけ、高ぶりを打ち砕かれます。王だけではなく私たちの心の奥深くまで、神は見ておられます。私たちの思い上がりを砕いて、謙り、神に立ち返るように熱く働かれます[3]。人が神である事を止め、謙虚に正直になり、人を支配しようとせず、むしろ他者にしもべとして仕え、なすべきことを淡々としていく。でも、神ならぬものに頭を下げる事はしない。そういう謙虚な人を通して、神の御心が前進していく。それが、神の歴史の治め方です。謙りこそ、神のご計画なさっている歴史の筋書きです[4]

 ダニエルは王の傲慢を裁く以上に、彼自身が謙りの人でした[5]。いつも神の前に祈り、自分の仕事を忠実になしていました[6]。また、九章にはダビデの長い祈りが出て来ます。それは自分たちが今バビロンにいるのが、民族として神に逆らった罪の結果であることを正直に認めて祈った、悔い改めの祈りです[7]。謙虚で正直な姿です。

 しかし、神が人間の国をお任せになる支配者として相応しい、最も謙った者とは誰でしょう。それは、イエス・キリストです。

3.最も謙った「人の子」

 イエスこそ、最も謙ったお方であり、マリヤの胎に宿り人間として成長され、十字架の死にまで謙ったお方ですね。また、その生涯、分け隔て無くあらゆる人の友となった方でした。イエスはご自身のことをよく

「人の子」

と言われました[8]。それは、イエスが人間の子、つまり人間であられる、ということではなくて、実はこのダニエル書7章13節の引用なのですね。

七13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

14この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

 ダニエルが見させられた幻には、やがて「人の子のような方」がおいでになって、永遠の主権を与えられると約束されていました。国々の支配の歴史の最後には、「人の子のような方」が全世界をいつまでも治めるようになる、と約束されました。イエスはその「人の子」という名称を用いてご自分を名乗られて、ダニエル書にあったメシヤである事を仄めかされたのです。そしてそれは、ダニエル書にあるように、神が人の心を見られ、人の高慢を打ち砕かれ、その心を謙りに至らせるお方であることと繋がっています。また、ダニエルの三人の友人たちが、

「たといそうでなくとも」

と偶像崇拝を拒んで火に投げ入れられた時も、四人目となって友にいてくださったお姿にも重なるでしょう。主イエスは私たちとともにおられるのです[9]

 ダニエル書は七〇年に及ぶダニエルの生涯、バビロン捕囚という聖書の歴史の最もどん底、神が歴史の王だと生き生きと描き出した書です。その大胆な告白とドラマは、神の民への大いなる励ましです。そこには「人の子」として来られるイエスの予告も述べられています。神は人に向き合い、試練や夢や友、様々な形で働きかけ、歴史を導かれるのです。神の子キリストは本当に謙った王として世に来られ、人の高ぶりを打ち砕いて、新しい国を始めてくださいました。

 やがてその国が永遠に幕を開ける時が来るでしょう。それまでも主が私たち一人一人の歩みを導いてくださり、ともにいてくださいます。その途中、神ならぬものが勝ち、自分の信仰など取るに足りなく見える現実もあるのです。でも、私たち一人一人は決して些末ではない。神の大きな謙りのご計画の中で、小さな一人の魂の旅路も、かけがえないエピソードとされるのだ、とダニエル書は励ましています。そう信じて主を信じ、主にのみ従うのです。

「歴史の主なる神様。ダニエル書の七〇年、鳴門教会の六〇年、それぞれに恵みがあり、戦いがありました。悔い改めと戦いは尽きませんが、それ以上に豊かな主の憐れみを信じます。暴力のほうが強く見え、人の心にある闇や暴力に、たじろぎます。だからこそ、どうぞ私たちが、謙虚に、真実に、口と存在をもって、主イエスの御支配を告白し続けることができますように」



[1] 「ダニエル書は旧約聖書の中でも、読むにも理解するにもやさしいものではなく、ましてやその解説をするのはむずかしいことです。何世紀にもわたって、まじめな学者たちや気むずかしい研究者たちが、ああでもない、こうでもないと、幸せなほじくりかえしをつづけてきましたが、今日に至ってもなお解けない問題が数多くあります。…むしろダニエル書の作者が彼の時代の同胞に何を語ったのかを見、彼を通じて神が後々の世に、またわれわれの時代に、何を告げられたかに耳を傾けようとします。すると、ダニエル書は大いに読みやすい本です。説教者の耳にちょっと一言ささやかせてもらえれば、大いに「説教に取りやすい」本です。ダニエル書はわれわれの時代に、われわれ現代世界の現状に、地上の国々すべてを支配したもう歴史の神からのことばをもって、明瞭に力強く語りかけています。」D・S・ラッセル『ダニエル書 ザデイリースタディバイブル21』(牧野留美子訳、ヨルダン社、1986年)、九-一〇ページ。

[2] 「神のみが王である。人間が王となろうとして失敗して、やがて神が王として回復される」は聖書全体のテーマ。ダニエル書で繰り返されているこのテーマの箇所は、特に、四25…こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。…27それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」34…私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。35地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。…37今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」五21「ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。」六25「そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。「あなたがたに平安が豊かにあるように。26私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。27この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」「七13私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。14この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」七18「しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。」七26「しかし、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』」、その他。

[3] 神が王であり、謙った者を喜ばれる、とは聖書の中心的なメッセージであることを思う。その心を主は見ておられる。人の心にある恐れ、神を知らぬが故の不安、孤独、限界をご存じ。私たちの旅は、最後まで欠けや失敗から自由ではない。最後には善人や聖人になっているだろう、というのは、それ自体が、謙遜を欠いた、人間の理想でしかない。本当に謙った心は、ますます自分の不完全さを認め、良く見せようなどと思わなくなっている心。その「へりくだった人」とは誰か? 謙遜ぶる人ではなく、必要事情に自分を貶める人でもなく(その裏には「本当はもっとすごいはずの自分」というイメージがある)、あるがままの現実を認める人。謝るべき事はゴメンナサイと言い、分からないことは分からないと言え(分かったふりや、とりあえず謝ったり、恥をかくことを恐れたりしない)、人と自分を比べようとせず、悲しみや恐れや嘆きから逃げようとせず、特権意識を持たない。それが「砕かれた心」である。

[4] たとえば、十二3思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。(自分を義とした人ではなく、他の人を義とした者、つまり神との関係を整えるよう導いた人。)

[5] ダニエルの偶像崇拝への禁忌の姿勢は大いに学ぶべきです。しかしそれと同時に、それほど王宮での責任は偶像崇拝と結びついていた現実も考慮すべきです。そうした環境を頭から批判して、潔癖に生きようとする道もあったでしょう。しかしダニエルは異教の文化を否定せず、それを批判し闘おうとするよりも、その異教の王たちに心から仕えたのです。また、ダニエルら四人以外にも大勢の若者がイスラエルから来ていたが、信仰の貞潔を貫いたのはこの四人だけでした。四人は他の若者たちを裁いたり、否定したりはしなかったのではないでしょうか。

[6] ダニエル書六10「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。-彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。-彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」

[7] 九章で明らかになるのは、実はダニエルの属するイスラエル民族こそは、神に逆らい、御声に従わずに、神によって裁かれ、打たれた民に他ならない、という事実である。しかし、その中でダニエルは、神がただ主権者であるだけでなく、憐れみ深い王であるゆえに、自分たちにも憐れみを注ぎ、回復を願う希望を告白して祈っているのである。

[8] 当時はメシヤのことを「神の子」と呼んでいましたが、イエスはその呼び方を避けて、「人の子」と言われました。

[9] この先の預言においても、国々の王たちの丁々発止は11章で詳述。聖徒たちが任されることさえ予告される。しかし、神の支配はそのような中で証しされるのだ。

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マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

2017-04-16 16:01:30 | 説教

2017/4/14 マタイ27章33-56節「見捨てられた救い主」受難日礼拝説教

 イエスが十字架に死なれたこと、そして、三日目によみがえられたことは、キリスト教会にとっての最も大切な信仰告白です。Ⅰコリント15章3節以下にこう書かれています。

Ⅰコリント十五3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

 5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 この「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと」、これが最も大切なことであり、福音(良い知らせ)です。そして、それこそが聖書の示しているメッセージだ、と言われています。

 キリスト者でさえ、聖書に何が書いてあるのか、つい誤解しがちです。敵を愛しなさい、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出しなさい、そんな高尚な道徳が書かれているように思いがちです。聖書を実際に読んでも、そこにある失敗や人間ドラマを読んで、教訓を引き出そうとして終わることが多いのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目によみがえられ、弟子たちに現れたという福音を中心に書かれています。そして、私たちはそれを信じています。でも「信じれば救われる」に勝って、信じる相手の神が、私たちの罪のためにご自分をお与えになった方、本当にいのちを捨てられて、三日目によみがえり、弟子達に現れた、そういう驚くべきお方である事に驚きたいのです。

 これは本当に驚くべきことです。余りに意外すぎて、誰も理解できませんでした。今読みましたマタイ27章の記事でも、イエスは十字架につけられた後、たったひと言

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と大声で叫ばれたのと、最後の最後にもう一度大声でお叫びになった以外は何もなさいません。ただ十字架の上で苦しまれて、死んだだけです。そういう全く無力な死に方をなさったのです。余りに弱々しくて、惨めであるため、周りにいる人々は、イエスを嘲笑い続けたのですね。そうです。むしろ、ここでは道行く人々や祭司長や律法学者、長老たち、両脇の強盗たちがイエスを罵り嘲る姿の方が、詳しく長々と記されています。

「もし神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」

 そう言って囃し立てて馬鹿にする人の姿のことしか書いていません。それぐらい、十字架に苦しんでいるイエスは、惨めでした。そこには神々しさとか、英雄らしさなどは一切ありませんでした。感動するような犠牲的な愛も感じられませんでした。イエスが叫ばれた、ここで記録されている唯一のお言葉、

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

でさえ、

47すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。…

49ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。

と見当違いな誤解をして、無神経な言葉を吐くだけでした。そういう人々の無神経さ、鈍感さ、無理解、そして冷たく嘲笑い、罵り、中傷することをマタイは記録しています。しかしその向こうに見えてくるのは、そのように誤解され、嘲られながら、黙ってご自分をそのままに差し出されたイエスのお姿です。イエスは、十字架という残酷な痛みに、私たちの想像を絶する苦しみを味わって何時間も過ごされました。手足を釘で打たれたまま、裸で日差しに晒されて、死ぬまで放って置かれるのです。多くの人は気が狂い、この時も隣の強盗も自分の反省は棚に上げてイエスを罵っていたのに、イエスは違いました。反論もせず怒ったりお説教したりもなさいませんでした。

「もし神の子なら自分を救え。十字架から降りてこい」

と罵倒されても、イエスは言い換えされませんでした。私なら「お前達の救いのために、死んでやるんだぞ」と言い返したでしょう。イエスはそんな反論を一切されず、ご自分の正しさを証明しようとされたりもせずに、十字架の苦しみも、人々からの罵声も、神から捨てられるという想像できない苦しみにも、最後まで留まって、死なれたのです。

 この冬に、「沈黙」という映画が日本でも上映されました。切支丹ご禁制の時代を舞台にした、とても重い映画です。そこでも拷問や苦しみが扱われていました。そこでのシチュエーションに、踏み絵を踏んで信仰を捨てるか、自分や誰かの命を犠牲にするか、という選択が何度もありました。主人公の司祭はそこで苦しむのですね。神を裏切るような真似はしたくないが、信徒を見殺しにするのも苦しすぎる。簡単な答は言えませんが、その事をイエスの状況と重ねてハッとさせられました。

 イエスは、ここで人間の命を選ばれました。ご自分が誤解され、神を冒涜している、偽メシヤだ、嘘つきだと笑われて、十字架に苦しめられても、その濡れ衣を晴らそうとは思われませんでした。十字架にかけられたままでも、せめて自分が神の御心を行っていることは分かって欲しいとも弁解されませんでした。自分を捨て、自分が神に対する最大の罪を犯したという汚名をもすすごうとされず、ご自分をお与えになったのです。それも、その苦しみを与える相手、ご自分を嘲笑い、否定する人々の罪が赦されるために、でした。これは、真面目な人なら全く思いつきもしないような行動です。しかもそれこそが、聖書が証ししているキリストの行動でした。

 イエスはこれをずっと予告しておられました。一番弟子のペテロはイエスを愛すればこそ、そんな滅多なことは言われるもんではありませんと窘めた事がありました。しかしイエスは、ペテロを

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と仰り、

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

と言われたのです[1]。人の道は、楽や名誉や賞賛を求めます。しかし、神の道は、自分を捨てる道、自分を与える道です。それは、イエスの死と復活において最大に表されました。聖書がキリストの死と復活を示している、というのは、ただイエスが死んで復活する出来事を予め記していた、というだけのことではありません。神御自身が、本当に愛のお方であり、ご自分を与えるお方であり、そういうお方として私たちに現れてくださった、ということです。

 旧約聖書にはこのような言葉もありました。

イザヤ五三11彼[キリスト]は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 イエスは本当に激しい苦しみを受けられました。それは、イエスが神の子であるにも関わらず、例外的に「一度だけなら我慢しよう」というような自己犠牲ではありませんでした。キリストも神も、そういうお方なのです。私たちの誤解や非難、どうしようもない罪に顔を背けず、苦しみ、命を与えることを選び、満足されます。その深い人間理解をもって私たちの罪を赦して義としてくださいます。私たちの咎を、嫌がることなく担ってくださるのです。そうやって、私たちが神から離れた生き方から、この神を喜び、神に従う生き方へと立ち戻らせてくださるのです。

 ここに私たちの救いがあります。キリストが私たちのために御自身を与えて死に、よみがえって、現れてくださった。人間の考える「宗教」や「神」の理解の枠には到底収まらない神です。正しいことをせよ、と命じるよりも、聖書の物語は神御自身がどんな方かを示します。それは、私たちの罪も問題も深くご承知の上で、ご自分が傷つき、その顔に泥を塗られることも厭わず、私たちの所に来て、正しい生き方へと導いてくださる神です。このイエスを十分私たち自身が味わい、驚き、これほど深い救いに与っていることを覚えましょう。苦しみや孤独や罪の重荷も、誤解も過ちもすべて知って、受け止めてくださるイエスを仰ぎましょう。

「主よ。受難日に思う十字架の苦しみも、私たちに耐えられるのはほんの僅かな断片に過ぎません。それでもあなたは、御自身の犠牲の重さより、私どもに対する愛と喜びこそ知らせたいお方であることを感謝します。主の愛の大きさをなお深く思い巡らし、一切の恐れや汚れから解放され、恵みに感謝するとともに、その主に似た心で生きる幸いへまでお導きください」



[1] マタイ十六21-28。

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問62-4「実を結ばないわけがない」ヨハネ15章1-13節

2017-04-16 15:38:36 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/16 ハ信仰問答62-4「実を結ばないわけがない」ヨハネ15章1-13節

 今日はイースターです。イエス・キリストが、十字架の死から三日目、日曜日の朝に墓からよみがえられたことをお祝いする、教会のお祭りです。キリストが復活されたので、日曜日にキリスト者たちは復活を記念して集まるようになりました。それまで、日曜日はおやすみではなかったのに、復活によって今の世界のカレンダーを作ってしまったのです。それだけではありません。プライドだけは高いくせに臆病だった弟子達は、復活したイエスによって大きく変えられました。大胆にイエスを証しするようになり、人に仕えるようになりました。そのような弟子達の生き方は、多くの人に影響を与えて、キリスト教はじわじわと世界に広がって、全世界に広まっていったのです。

 イエスの復活は、神の恵みに生きるよう、人々を変えていきました。私自身も、イエスがともにいてくださり、私の心を変えてくださっている、その恵みに与っています。そういう生きた恵みこそ、キリスト教の福音なのです。それは、私たちが救われるかどうか、という宗教の問題よりも深い、すばらしい信仰です。

ハイデルベルグ信仰問答問62 しかしなぜわたしたちの善き業は、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。

答 なぜなら、神のさばきに耐えうる義とはあらゆる点で完全であり、律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の業ですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。

 先回、私たちは「信仰は魂の手」という言葉を学びました。キリストの義を頂くのに、ただ信じることで頂ける。それは、私たちの信仰が素晴らしいからではありません。手が美しく、器用だから食べ物をもらえるのではなく、ただで下さる食べ物を、手の汚さや人と比べて不格好かどうかなど考えずに、手を伸ばして頂くだけだ、そういう意味でした。

 しかし、ここでもう一度問うのです。どうして私たちの善き業は、神の御前でちょっとでも認めてはもらえないのか。信仰だけとしか言わないで、私たちがする善い行いにだって、正しさがあるのではないか。しかしこれに対しての答はこうです。神のさばきに耐えられる、あらゆる点で完全であり、律法に全く一致する義など持てはしないじゃないか。どんなに頑張っても絶対に無理です。「ちょっとぐらい私たちの義も認めてくれたって良いのに」と人間は考えたがりますが、神の前には「ちょっとぐらい」の義を認めてもらおうなど、勘違いでしかないのです。なぜなら、私たちの精一杯の義さえ、不完全で罪に汚れているからです。まず私たちはこの事を忘れないでいましょう。自分の善意とか正義感とかは決して完全ではなく、不純物が混ざっていることを弁えて、謙虚になりましょう。勿論神は、そういう足りなさばかりを突いてくる嫌みったらしいお方ではありません。重箱の隅を突き、揚げ足を取る神ではないのです。むしろ、

問63 しかし、わたしたちの善き業は、神が今の世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。

答 その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。

 私たちの欠けだらけの行いにも神は功績ではなく、恵みによる報酬を下さるからです。足りない行いも、神は恵み深く「よくやった。よい忠実なしもべだ」とねぎらってくださいます。しかし、そんなことを言うと、じゃあ善い行いなんて止めた、好き勝手に生きた方が楽しいや、ということにならないでしょうか。これは、宗教改革の時に、新港のみによる救いという教えに対して向けられた批判、疑問の一つでした。そこで、

問64 この教えは無分別で放縦な人々をつくるのではありませんか。

答 いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。

 スパッと言い切っている素晴らしい答です。救われたり報われたり誉められたりするために善い業をすることはもう止めるのです。しかし、そうして恵みによって救いをくださる素晴らしいキリストに出会い、キリストに結び合わされるなら、感謝の実を結ばないことなどありえない。キリストが下さる命をいただくなら、病んでいた魂も健やかになり、喜んで明るく生きるようになる。しなくてもいいなら好き勝手に生きよう、というそんな生き方はもう出来なくなる。キリストは私たちに好き勝手にしてもいいよ、というために、ただ信仰による救いを下さったのではありません。キリストは、私たちに良い生き方を生きてほしいのです。でもそれを、誉められるため、報いをもらうため、ではなくて、神の恵みへの感謝から、喜んで行うようにしたいのです。そういう新しい生き方こそ、神がキリスト・イエスにあって私たちに下さる素晴らしい祝福なのです。

 実と言えば、今日のヨハネの15章、イエスが

「わたしはぶどうの木。あなたがたは枝です」

の御言葉を思い出します。イエスと私たちの関係は、木と枝のようなものです。私たちがイエスにつながり、祈り、御言葉に養われ、神の恵みを十分に頂きながら歩むなら、そこには感謝の実が結ばずにはおれません。木の枝は、実を結んでいきます。決して頑張って、自分の力で実を生み出したりはしません。枝が頑張って、自分の力で良い実を生み出して、そうしたら木につなげてもらえる、と考えたら、大間違いでしょう。かといって、枝が木につながって、ああ善かった、もう実を結ばなくてもいいや、と思ったらもったいないですね。枝が幹につながれば、幹から養分が運ばれて、枝は生き生きとよみがえるでしょう。いのちを持つようにならずにはおれないでしょう。そうして、自然と実を結ぶようになるのです。それが、イエスが私たちになさりたいことです。

 問64の後、礼拝について話してから、問86以下が第三部になります。キリスト者の生涯について十戒や祈りについての教えが始まります。この第三部の題が「感謝について」です。ヘンリ・ナウエンは

「キリスト者であるとは感謝して生きることだ」

と言いました。その事がここにも現れています。評価を求める心や、競争心やプライドから頑張る生き方ではない。感謝して生き、実を結ぶ生活を主は私たちにお恵み下さいます。感謝できる嬉しい事ばかりではありません。大変な災難も誘惑もあります。失敗もし、色々なことが起きます。それでも主は、どんな中でも、何にも勝るキリストの恵みを頂いた者として、私たちを生かしてくださいます。幹であるイエスにつながり、渇いた心を潤して頂きましょう。イエスの愛に感謝して生きる時、実は自然についてきます。ですから、大事なことは、私たちが日々、自分に福音を語り聞かせ続けることです。いつも、恵みの福音を聞かせ、毎日、十字架とイースターを覚えていくことです。

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