聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

Meet the Risen Christ LAURA TRUAX オーディオ説教をDeepLで翻訳したもの

2023-04-01 07:53:29 | 聖書

Meet the Risen Christ  LAURA TRUAX


https://cepreaching.org/audio-sermons/meet-the-risen-christ/

イースターという素晴らしい日にようこそ この日は世界中の教会が集まって大胆に宣言する日です 私たちは神の愛を殺すことはできても、それを死んだまま葬ることはできません 私たちが生きていて、息をしている間は、神が命を生み出し続けることを宣言できます 人を完全にする神の業は今も続いています キリストは復活しました 彼は本当に復活しました 来られる皆さんは半を知っていますね もし、今日から1つのメッセージがあるとすれば、それは「キリストは生きている」「神の愛はここにある」「神は私たちを求めてこの世界に存在している」「それを止めるために私たちにできることは何もない」ということです。
私たちは、ヨハネによる福音書の美しい朗読を聞きました。それは、私たちが最もよく知っているキリストの昇天の物語かもしれません。
マリアは天使の言葉を聞き、涙を流し、自分の名前が語られ、振り返り、キリストを認識する。
弟子たちはもっと早くからそこにいて、いろいろなものを見て、混乱して去っていった。この復活の場面には、4つの異なる福音書があり、4つの全く異なる結末がある。
後日、彼のためにアダルトに行くなら、4人全員を聞けるよ
そして、アネット・ハイジガがその違いを説明します。
この復活の場面をもう一度聞きたい。今回はマルコの福音書から
新約聖書の47ページを開いてみてください。
八節しかない
マタイが好きな地震の詳細がなく、ヨハネが使う優しさがない。

安息日が終わったとき、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、行って彼に油を注ぐために香辛料を持ってきた。
週の初めの日、日が昇るやいなや、彼らは墓に行った。
彼らは互いに言っていた。「誰がこの石を転がしてくれるんだろう」と。
しかし、彼らが見上げると、非常に大きな石がすでに転がされていた。
そして、その中に入ると、白い衣を着た若い男が右手の横に座っているのが見えたので、彼らは警戒した。
しかし、彼は言った。「心配しないでください。あなたが探しているのは、十字架につけられたナザレのイエスですが、よみがえったのです。
しかし、弟子たちとペテロに、彼は先に行くと伝えれば、そこで彼が言ったとおりに会うことができる。
そこで、彼らは外に出て、墓から逃げ出した。
を恐れて、誰にも何も言わなかった。

ヨハネの美しい詩的なエンディングを聞いて、このエンディングをどう解釈したらいいのだろう。4つの異なる福音書、4つの異なるエンディング、1つだけでいいのでは?


今朝はマルコの記述に焦点を当てたいと思います。この未完成の結末が、この希望のメッセージにどのように関わっているのか、この女性たちが墓に着いて、行って話せと言われ、行っていいよと言ったが、誰にも何も話さず、怯えている。私たちのためにこの石を転がしてくれるのは誰なのだろう。


正直に言うと、私たちはこの「吠え声」のエンディングを読んで、それが私たちの人生と驚くほど似ていて、不確かで、少し落ち着かない感じがします。


を観に行ったのに、映画が終わってから、クレジットが回っている間に、あれは何だったんだろうと思うような、そんな映画のひとつです。


このエンディングを見ると、歴史の授業で聞いたであろう歴史的な余談を思い出しますね、「イギリスは戦いの結果について知らせを受けた」という記述です。ワーテルローの戦い......ご存知、ウェリントンとナポレオンの戦いです。彼らは、戦いの結果を知るために、いくつかの発煙筒を設置しました。発煙筒は、読者がいるウィンチェスター大聖堂に向かう予定でしたが、メッセージが発信された後、霧が発生し、人々が得たのは、最初の言葉、つまり、くすぐったい最初の言葉でした ウェリントン敗北


ウェリントンが敵を倒したのは、その全貌を知ったのは後のことである。


だからマルコの福音書は未完成のように感じられるのです。一日の終わりには、マルコは巻物で、終わりは歴史から消えてしまったと気づくかもしれません。つまり、終わりはボロボロになるのです。でもそれまでは、マルコはこの福音書に深い理由があると思うのです。マルコは私たちに復活の物語を完成させるよう求めているのです。私たちがこの物語に参加し、女性たちの現実的な問題解決に参加するよう求めているのです。この不確実性や恐怖の瞬間に参加し、どうすればこの物語を完成できるのか、この証拠を使ってどうするのか、と考えます。


pick your gospel pick your ending


彼女たちの結末は論理的とは言い難く、「次の一歩」は不確かで、どこに向かって進んでいけばいいのか分からない。福音書の4つの異なる結末を見て、すべてを異なるものとして捉え、論理的に理解しようとする他の人々にとって、私たちはただ飄々と立ちすくんでいるのかもしれません。復活がこれほど多様で、人々の人生によって異なるものに見えるとは想像できないのです。
もしかしたら、私たちは女性のように、人生で何か大きなことを経験し、それをどう受け止めていいのかわからず、不安から恐怖を感じ、損失を経験し、その損失をどう受け止めていいのかわからなくなるかもしれません。 (中略) 分析の結果、どうせやる価値はないと判断し、辛く怒ることもある。配偶者を死に追いやり、その悲しみを乗り越えられないこともある。退職して、お金が足りないと心配する。恐怖は多くの人にとって人生の環境です。マルコ書では、弟子たちは常に恐怖の状態にあり、この復活劇の結末を生きることを妨げています。次の章では、イエスが悪魔の病人を癒すという壮大な奇跡を起こし、墓の中に住んでいた男を癒した。彼らはとても恐れ、町を出るように頼んだ。彼は苦しみについて話し始め、彼らは恐怖でいっぱいになり、12章で彼の死について話し始め、彼らは再び恐れ、それについて静かにするように頼んだ。


しかし、もしあなたが2つ目のことを聞くだけなら、イエスは生きていると聞くでしょう。2つ目のことは、復活が、物語の終わりを恐れる必要はないと宣言していることです。復活がこの世に終わるということは、私たちが恐怖の中にとどまるということではありません。復活したキリストに出会ったら、天使に伝えてください。彼はここにはいません、ここで待っていてはいけません、彼はもう先に行きました、あなたのために先に行きました、彼はガリラヤにいます、戻って弟子たちに伝えてください、彼はそこであなたに会うつもりです。弟子たちが復活したのは、彼らが死んでイエスに出会ったからではなく、この運動を説得したのは彼らの生活の中でイエスに出会ったからであり、彼らの生活の中で復活が彼らを変えたのである。


キリストがあなたに出会っている場所、キリストがすでに先に行っている場所、そして、あなたが生きている場所。


もしあなたが彼を探しているなら、あなたは彼を見つけることができます。それが福音の約束だからです。会報の表紙にあるように、あなたが彼を探しているなら、キリストがあなたを見つけるのを妨げるものは何もありません。イエスは悲しみの中でマリアに出会い、弟子たちに密室で出会い、弟子たちにエマオへの道で出会いました。今朝、私たちはどこでイエスと出会うのか。マリアのように私たちの中には悲しみの頂点で、もう耐えられないと思うまさにその時に、主が出会うのです。復活したキリストは私たちに会っている 他の人たちは別の方法でキリストに会っている 私たちはひどく失敗してもう戻れないと感じたことがある イエスは言葉を持っている 天使が墓で女性たちに言った言葉だ 弟子たちとペテロに伝えなさい 他の人への裏切りで失敗した人たちは自信を失っている 神から失望されたと感じている人たちは神を失望したと感じている キリストは私たちが落ちたその場で会ってくれる 弟子たちとペテロに伝えるんだ
私たちは、復活のキリストを見つける 恐怖の中に復活のキリストを見つける 悲しみの中に復活のキリストを見つける 他の人々の中に復活のキリストを見つける 毎週毎週ここにいる聖人たちの生活の中に見つける ウィリアム・スローンコフと今週初めに亡くなったリバーサイド教会の偉大な牧師は、復活のキリストを探したいならコミュニティの中で見つけると言った 彼を見つけることができると言った 人生の頂点は、人が人を愛することができる人格についてです 人々のところに復活のキリストが見つかるでしょう 復活したキリストを見つけるのは、人々が注意を引こうとする場所ではなく、注意を払う場所なのです。


もし彼を見つけたら......もしこのキリストを見つけたら......いや、もっと正確に言えば、彼が私たちを見つけたら......それから?


もし、イエスが私たちを見つけるなら、このイースターの季節に私たちが見て、キリストを見つけるなら、私たちは絵を完成させ、この物語を完成させ、福音書の朗読に入り、彼らが去った場所でイエスを見つけるなら、私たちには選択肢がある絵を完成させるために一緒に行く選択肢があるああ私たちには目を背ける選択肢がありますよね?しかし、もし私たちが完成することを選ぶなら、この物語に入ることを選ぶなら、復活を実践し始めることを選ぶのです初期の信者が経験することを私たちが経験します新しいことを経験します神が打ち勝つことを回復されます 私たちは、キリストが私たちの悲しみの中に入ってきて、私たちの名前が再び語られるのを聞くのを経験する。私たちは、恐怖を超えた自由を経験する。私たちは、以前の10倍の人間になったという感覚を経験する。この神の大きなドラマにおける神の動きを経験する。私たちの目は、自分を超えてこの絵に、この生命の復活を経験できるのだ。彼らは、神の霊が私たち全員に降り注いでいると主張し、この世の支配者や権力者を放っておくことはできないと主張し、それらの権力者や支配者の忠誠をキリスト一人のために主張したのです。私たちはそれを信じますか? もし信じるなら、私たちはこの復活を完成させるのです。もし私たちがその主張に人生を賭けることを望むなら、私たちは世界に出て行き、天使が女性たちに言ったように、メシアは一人、メシアはイエス・キリスト、主は一人、ある時点ですべての膝が屈し、すべての舌が告白するようになるのだと伝えるのです。


私たちはこの物語を終えようとしているのです。そして、その愛から私たちを引き離すものは何もないと言いましょう。私たちは行き、伝えましょう。私たちは、聞きたくてたまらない世界に、この物語を完成させましょう。私たちの人生とともに完成させましょう。復活を引き受け、生き、実践しましょう。キリストの弟子から始まった私たちより前に来た何百万人ものために私たちは物語に加わり、キリストは復活したと世界に伝えます。あなたは行く前にキリストに会うことになります。アレリアキリストは復活し、本当に復活しましたアーメン


welcome to this um great day of Easter this is the day that the churches all over the world come to declare boldly that while we can kill God's love we cannot keep it dead and buried that while we are living and while we have breath we can declare that God continues to bring forth life that God's work of making people whole still continues right now because Christ has risen he has risen indeed for all of you guys who come you know semi-occasionally those who only get here once a year or so we're thrilled you're here and if there's one message to take away from today it's this that Christ is alive that God's love is here that God is present in this world seeking us out and that there's nothing we can do to stop it Hallelujah
we heard the gospel read told beautifully from the Gospel of John that may be the story of Christ's ascendance that we know the best the angel coming to Mary Mary hearing he threw her tears her name being spoken and turning and and recognizing Christ you know the disciples getting there earlier on and seeing the things and going away confused we have four different gospels four very different endings to this Resurrection scene we've heard it from John if you want to go down to adult for him later you'll hear all four of them and you'll hear Annette heisiga tease out the differences I want to hear it again this Resurrection scene this time from the gospel of Mark it's a short one it's the most succinct version we have I invite you to turn in your Bibles to page number 47 in the New Testament there's only eight verses to this scene it lacks the details of the earthquakes that Matthew likes it lacks kind of the tenderness that John uses

when the Sabbath was over Mary Magdalene and Mary the mother of James and Salome brought spices so that they may go and anoint him and very early on the first day of the week when the sun had risen they went to the tomb they had been saying to one another who's going to roll the way the Stone from us for us from the entrance to the tomb but when they looked up they saw that the stone which was very large had already been rolled back and as they entered they saw a young man dressed in a white robe sitting on the right hand beside and they were alarmed but he said to him don't be alarmed you're looking for Jesus of Nazareth who was crucified but he's been raised he isn't here look here is the place they laid them but go go tell his disciples and Peter that he's going ahead of you and there you'll see him just as he told you so they went out and they fled from the tomb for Terror and amazement had seized them and they said nothing to anyone for they were afraid

what a way to make of this ending huh what are we to make of this ending after hearing this beautiful poetic ending in John can only one of them be true four different gospels four different endings can't there only just be one this is the kind of stuff Skeptics love you know parsing through and seeing the differences are we just mix them all up into a big soup

it's Mark's account and I want to focus on a little bit more this morning how does this unfinished ending how does that play into this message of Hope these women get to the tomb and they're told to go and tell they go all right right but they don't tell anything to anybody they are terrified somehow this gospel I think speaks to the place where we typically live practical people who are looking for practical Solutions as they are on their way and looking for who's going to roll away this stone for us what are we going to do how are we going to get in practical people don't we have those kind of practical issues in our life how are we going to get our kid into High School how are we going to get them into preschool how are we going to stretch our paycheck just a little bit further isn't this what fills our life issues about just getting up and going through the day

I think if we're honest we read this ending of bark and it sounds strikingly like our lives strikingly like uncertainty and it feels a little bit unsettled doesn't it doesn't feel quite so tidy how can we enter triumphantly into this message they leave and they tell nothing to anyone so they're terribly afraid

it's like one of those films it seems like that you go to and then you you sit there after it's over while the credit's rolling you think what was that all about

you kind of keep trying to piece it all together again and maybe mix up the dialogue again and you try to live in the characters trying to trying to find the hook you know that'll make it make sense these women left not feeling like it made sense this ending reminds me of that historical aside that many of us probably heard in history classes it's that note about the British receiving word about the outcome of the Battle of Waterloo you know that was the battle between Wellington and Napoleon they had set up some smoke signals that's how they were going to learn about the outcome of the battle the smoke signals were to go to Winchester Cathedral that's where the readers were but after the message had been sent out a fog rolled in so all the people got were those first words those tantalizing first words Wellington defeated

it wasn't until later that they got the whole story Wellington defeated the enemy

that's how the gospel of Mark can feel unfinished incomplete now maybe at the end of the day maybe at the end of the day when it's all over we'll realize that you know Mark was a scroll and the ends just got lost to history I mean the ends get ragged don't they but until then I suggest Mark's got a deeper reason in this gospel I believe Mark's asking us to finish the resurrection story he's asking us to somehow come in and engage with this story engage with these women in their practical solutions to practical problems engage in this moment of uncertainty and Terror and fear engage in that and wonder how would we complete this story what would we do with this evidence

pick your gospel pick your ending

the ending for these women doesn't look quite logical enough The Next Step seems just uncertain enough that they don't really know where to go with it for some of us if we were rewriting or if we were writing our ending to the resurrection story if we were completing this story maybe we'd find ourselves in a similar place we don't know what the next step looks like it doesn't feel firm enough to us somehow maybe instead of going back to home maybe we would just hang out around the tomb the tomb of our predictable habits the grave of our predictable thoughts maybe that's where we would end up maybe that's how some of us are ending up today because that's how we're completing the resurrection story for others of us who look at these four different endings to the gospel and who see it all differently and who are trying to piece it all together so that really makes logical sense maybe we just stand back in aloofness maybe we can't really imagine how the resurrection could be so varied so different that it looks different in different people's lives so maybe our intellectualism keeps us at a distance from actually completing the story

Maybe like the women we experience something huge in our life we don't really know what to make of it the uncertainty causes us to fear we experience loss and we don't really know where to go with that loss are we experience fear that causes us to hold back when everything in us would like us to move forward but we fail too many times maybe like the women we just stay in fear a friend loses their job and instead of risking any sort of self-analysis just can decide that it's not worth it anyway and can become bitter and angry we can lose a spouse in death and we can be so waylaid that we just can't move beyond the grief we retire and we worry that we don't have enough money fear is the milieu of our life for many of us fear is common in the Book of Mark the disciples are constantly in a state of fear fear can prevent us from living this Resurrection ending the disciples in chapter 4 when Jesus fills the water the storm they're sitting in the boat quivering and Jesus is the one who says have you no faith yet why do you continue to fear the next chapter he does a spectacular Miracle of healing the demoniac the guy who lived among tombs and they were so fearful They begged them to leave the town he starts talking about suffering and they close down they're so full of fear in chapter 12 he starts talking about his death they're fearful again and begging to be quiet about it we know fear don't we man try preaching on Easter Sunday if you want to know some fear

we know fear we know fear that would want us and keep us in prison to it but if you only hear a second thing you hear Jesus is Alive the second thing is this that the resurrection the resurrection declares that the ending of the story need not be fear that the ending of the Resurrection Story the ending of Mark's gospel in our life the ending of the Resurrection on the world does not mean that we stay in fear the resurrection is all about life the resurrection is all about what these disciples start to experience in the days and weeks following what breaks through their fear isn't an empty tomb that's an insufficient reason what breaks through their fear is that suddenly they encounter the Risen Christ go and tell the angel says he's not here don't wait around here he's already gone ahead of you he's already ahead of you and for you and he's in Galilee go back go and tell the disciples go he's going to meet you there the resurrection tells us that we need the Risen Christ right here in the present these disciples the resurrection didn't mean that they died and met Jesus that wasn't what persuaded this movement they met Jesus in their life and it was in their life that the resurrection changed them if we want to enter into the resurrection story we enter it not with words about an empty tomb but we enter into it by needing a risen Christ

ianity is a resurrection faith and Mark begs us to live that Resurrection Faith right now in the present where is Christ meeting you where has Christ already gone ahead and

if you're looking for him you'll find him because that's the promise of the Gospel if you're looking for him just like is on the front of our bulletin there is nothing that will stop Christ from finding you Jesus meets Mary in her grief he meets the disciples in locked rooms he meets the disciples on the way to Emmaus where are we meeting him this morning some of us like Mary are meeting Jesus at the very point of our grief at the very point where we feel like we can't bear it anymore that's where our Lord the Risen Christ is meeting us others of us are meeting Christ in a different way we have felt like we've screwed up so badly that we can't ever come back and Jesus has a word the word that the angel says to the women at the tomb go and tell the disciples and Peter for those of us who have screwed up in our betrayals of other people who have lost confidence who have felt like God has let us down who feel like we've let God down Christ meets us right there right where we fell go tell the disciples and Peter

we find the Risen Christ and our fear we find the Risen Christ in our grief we also find the Risen Christ in other people I find in in the lives of these Saints who are here week after week William sloankoff and the great minister of Riverside Church who died earlier this week said if you want to look for the Risen Christ you find them in community you'll find him he says where the Apex of life is about personality that which allows a person to love another person will find the Risen Christ where people are giving wrapped attention to one another's existence is that where you're finding the Risen Christ not where people are trying to get attention but where they're giving attention we find them there we find them in the world's victims we even find him unexpectedly in our enemies don't we Jenny Churchill said treat your friends as you do your pictures place them in their best light but the resurrection says something even deeper treat your enemies as if Christ died for them too because most certainly he did

what if we find him what if we find this Christ or or more precisely what if he finds us what then

if Jesus finds us if in this Easter season we'd look and we find Christ we complete the picture we complete this story we enter into these gospel readings right where they left off we find Jesus we have a choice we have a choice to go with it to complete the picture oh we have a choice to turn away don't we but if we choose to complete it if we choose to enter into this story if we choose to start living out the resurrection we experience what those early Believers experience we experience that newness we experience God restoring beaten down hope and beating new relationships we experience Christ entering in into the midst of our grief and hearing our names spoken again we experience Freedom that moves us beyond our fears we experience a sense of being tenfold the people we ever were before we experience a movement of God in this great drama of God our eyes are removed Beyond ourself to this picture to this resurrection of life that's what we can experience those really believers who experience this we're so emboldened that they had a claim they made a claim a claim on this earth right in the Here and Now they claimed that they that God the spirit of God was descending upon all of us they claimed that the principalities and the powers of this world were not to be left on their own device they claimed even the allegiance of those powers and those principalities for Christ Alone they declared that there was one Lord and it wasn't Caesar it wasn't the government it wasn't the powers that exist in this life there was one Lord above them all the Messiah the kidios the Christ and they declare that there was nothing that could stop that power of Christ in the earth do we believe that because if we do we're completing this Resurrection if we are willing to stake our lives on that claim then we go out in the world and we tell them we go and tell the way the angel told the women we go and tell that there's one Messiah that Messiah Jesus Christ that there's one Lord and that at some point in time every knee will bow and every tongue will confess that there's a Creator God who loves this good creation so much that he was willing to die for and be raised again

we are finishing this story then we say that there is nothing that can separate us from that love we go and we tell we go and we tell a world who's dying to hear that we complete the story we complete it with our lives we underwrite the resurrection we live it we practice it We join our story for those millions that came before us starting with Christ's disciples we go and we tell the world Christ has risen even now he goes before you go and meet him there Alleluia Christ has risen he is risen indeed amen
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2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

2021-01-01 09:11:51 | 聖書
2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

 2020年、色々なものが揺さぶられて変わった一年で、改めて深く思い巡らした御言葉が、

いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

でした。この「愛」、いつまでも残り、最も優れている愛に、色々な事が変わって、過ぎ去っていくことを痛感している今、ともに目を向けたいと思います。

 このⅠコリント13章、「愛の章」「愛の賛歌」として知られる美しい印象とは裏腹に、コリントの教会が問題だらけであった事を背景にしています。神からいただいた能力を自慢したり、妬んだり、比べ合って協力を忘れていた教会でした。そういう教会に対して、1~3節では繰り返して

「愛がなければ、私は無に等しい。何の役にも立ちません」

と強く言い切る言葉から始まって、愛に立ち返るよう歌い上げているのが、この「愛の賛歌」です。

 この「愛」とは、私たち自身の愛情とか思いやりという以上に、神ご自身の愛です。元々の言葉はアガペーです。他にも「愛」を表す言葉、恋愛とか友情を表す言葉も別にあるのです。しかしそれにも勝って、ここで言うのは「神の愛」です。恋とか優しさも勿論素晴らしいものです。私たち人間が精一杯愛するのも大事ですし、尊いこと、素敵なこと、素晴らしい事です。しかし、私たちがここに書かれるような愛があるか、こんな愛で愛せるでしょうか。

 4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6不正を喜ばずに、真理を喜びます。

 こんな愛は私のうちからは出て来ません。これは神の愛です。そしてその神が私たちを愛しておられます。神が私たちに寛容で、親切で、妬まず、自慢せず。私たちの悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜んでおられる、その愛を注いで生かしてくださっています。そして、

7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

私たちがどんなに愛から遠くても、神は耐えてくださり、信じてくださり、望んでくださり、忍んでくださっています。神は、私たちの愛のなさ、今の罪の問題を知りつつ、なお、私たちを尊ばれ、私たちの成長や回復を信じて、希望を捨てないで、忍耐してくださっている。この手紙そのものが、愛を見失ったコリントの信徒たちにも、なおこの愛の賛歌が届くと信じた手紙です。冷たくなったコリント教会も、きっと回復できると希望をもって語られたのです。

 8~12節は、私たちの今の知識はごく部分的な、中途半端なものだと思い起こさせます。私たちに見えているのはごく一面です。しかし神は私たちを完全にご存じです。やがて私たちも完全に知ることになります。知りたかったことを全部、だけでなく、知りたくないようなことも、知られたくないことも全部、完全に知られた上で、なお神が私たちに、寛容で、親切で、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍んでくださっていたかを知る。その時こそ、私たちは本当に、愛が残る、神の愛は決して絶えることがないと分かるでしょう[1]。

 結びの13節で
「いつまでも残るのは愛だけです」
とは言わず

「信仰と希望と愛、これら三つです」

と言います[2]。この「残る」という動詞は単数形です。愛と信仰と希望は一つのものです[3]。7節でも

「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」

と信仰と希望を生み出すと言っていました。神の愛は信仰を伴い、希望を生み出します。そしてこの「信仰と希望」は神に対する信仰だけでなく、神が働いておられるゆえに、横の関係、周りの他者を、色々な問題をも踏まえた上で、深いところで信じる関係性でもあります[4]。また、目に見える出来事の中でも、最善を信じる。やがての回復を疑わない、希望でもあります。私たちの想像や理解を超えた神の良いご計画を期待して、耐え忍び、待ち望んで良い。それが教会も共同体も育てるのです。[5]

 今私たちは人間の知識や考え、予想の限界を痛感していますが、その中にも愛や信じることや希望の尊さが輝く出来事もたくさん神は見せてくださっています。そして、やがて私たちが完全にすべてを知る時に、神の愛と信仰と希望が輝いて残る。そうここに約束されています。私が愛せない時も神は私を愛し、私が信じられない時も神は信頼を回復し続けておられ、私が希望をひとかけらも持てない時も、祝福に満ちたご計画へと私たちを運んでいてくださる。この言葉に立つのは、ただの優しさよりも遙かに大それた告白です。勇気がいります。そんな大それた確信への招きなのです。

 そこに至るまで、私たちには理解できないことが続くでしょう。自分の愛も、信仰も希望も、吹き飛ぶ出来事もあるでしょう。その私たちに御言葉は、人の知識を遙かに超えた、愛と信仰と希望こそ現実だと語るのです[6]。だから私たちは、どんな時にも、分かったようなことを語るよりも、互いに神の愛を分かち合えます。神を信じ、お互いの信頼を育てることを追い求めます。楽観的な将来を予測することは出来ませんが、希望を語り合えます。その希望と信仰を伴う愛へと立ち返って、一年を踏み出させていただきます。

「私たちを愛したもう主よ。新しい一年もあなたが主です。すべてを導き、私たちをあなたの愛によって成長させ、御栄えを現してください。私たちの知識も視野も限られています。本当に私たちは小さな者です。その与えられた小さな力を、あなたの愛によって用いてください。恵みならぬものを求めるたびに、教え諭してください。今こそ、私たちがあなたの愛に励まされ、あなたの愛の器となることを求めます。信仰と希望を受け取って、一年へと踏み出します」


聖書協会共同訳
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
2たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
3また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
6不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
9私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
11幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
12私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

たとえ私(わたし)が人(ひと)の異(い)言(げん)や御(み)使(つか)いの異(い)言(げん)で話(はな)しても、
愛(あい)がなければ、騒(さわ)がしいどらや、うるさいシンバルと同(おな)じです。
たとえ私(わたし)が預(よ)言(げん)の賜物(たまもの)を持(も)ち、
あらゆる奥(おく)義(ぎ)とあらゆる知(ち)識(しき)に通(つう)じていても、
たとえ山(やま)を動(うご)かすほどの完全(かんぜん)な信(しん)仰(こう)を持(も)っていても、
愛(あい)がないなら、私(わたし)は無(む)に等(ひと)しいのです。
たとえ私(わたし)が持(も)っている物(もの)のすべてを分(わ)け与(あた)えても、
たとえ私(わたし)の体(からだ)を引(ひ)き渡(わた)して誇(ほこ)ることになっても、
愛(あい)がなければ、何(なん)の役(やく)にも立(た)ちません。
愛(あい)は寛(かん)容(よう)であり、愛(あい)は親切(しんせつ)です。
また人(ひと)をねたみません。
愛(あい)は自(じ)慢(まん)せず、高慢(こうまん)になりません。
礼(れい)儀(ぎ)に反(はん)することをせず、自(じ)分(ぶん)の利(り)益(えき)を求(もと)めず、
苛(いら)立(だ)たず、人(ひと)がした悪(あく)を心(こころ)に留(と)めず、
不(ふ)正(せい)を喜(よろこ)ばずに、真(しん)理(り)を喜(よろこ)びます。
すべてを耐(た)え、すべてを信(しん)じ、すべてを望(のぞ)み、すべてを忍(しの)びます。
愛(あい)は決(けっ)して絶(た)えることがありません。
預(よ)言(げん)ならばすたれます。異(い)言(げん)ならば止(や)みます。知(ち)識(しき)ならすたれます。
私(わたし)たちが知(し)るのは一(いち)部(ぶ)分(ぶん)、預(よ)言(げん)するのも一(いち)部(ぶ)分(ぶん)であり、
完全(かんぜん)なものが現(あらわ)れたら、部分的(ぶぶんてき)なものはすたれるのです。
私(わたし)は、幼(おさな)子(ご)であったときには、幼(おさな)子(ご)として話(はな)し、
幼(おさな)子(ご)として思(おも)い、幼(おさな)子(ご)として考(かんが)えましたが、
大人(おとな)になったとき、幼(おさな)子(ご)のことはやめました。
今(いま)、私(わたし)たちは鏡(かがみ)にぼんやり映(うつ)るものを見(み)ていますが、
そのときには顔(かお)と顔(かお)を合(あ)わせて見(み)ることになります。
今(いま)、私(わたし)は一(いち)部(ぶ)分(ぶん)しか知(し)りませんが、
そのときには、私(わたし)が完全(かんぜん)に知(し)られているのと同(おな)じように、
私(わたし)も完全(かんぜん)に知(し)ることになります。
こういうわけで、いつまでも残(のこ)るのは信(しん)仰(こう)と希(き)望(ぼう)と愛(あい)、これら三(み)つです。
その中(なか)で一番(いちばん)すぐれているのは愛(あい)です。


 1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。2たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。3たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
と強く、愛がないことの空々しさ、殺風景な味気なさを思い起こさせるのです。

O Lord,
Length of days does not profit me except the days are passed in Thy presence, in Thy service, to Thy glory.
Give me a grace that precedes, follows, guides, sustains, sanctifies, aids every hour, that I may not be one moment apart from Thee, but may rely on Thy Spirit to supply every thought, speak in every word, direct every step, prosper every work, build up every mote of faith, and give me a desire to show forth Thy praise; testify Thy love, advance Thy kingdom. I launch my bark on the unknown waters of this year, with Thee, O Father as my harbour, Thee, O Son, at my helm, Thee O Holy Spirit, filling my sails. Guide me to heaven with my loins girt, my lamp burning, my ear open to Thy calls, my heart full of love, my soul free.
Give me Thy grace to sanctify me, Thy comforts to cheer, Thy wisdom to teach, Thy right hand to guide, Thy counsel to instruct, Thy law to judge, Thy presence to stabilize.
May Thy fear be my awe, Thy triumphs my joy

神よ、新しい始まりと、不思議な驚きの神よ。新年という贈り物を感謝します。この年が私にとって恵みの時となりますように。信仰と愛において成長する時、あなたの御子イエスに従う忠実さを新たにする時となりますように。私にとっての祝福の時となりますように。私の家族と友人たちを大事にする時、新たに私の仕事に奮起する時、私の信仰を更に育む時となりますように。私とともに歩んでください。この新年の毎日、毎時間、キリストの光が私を通して輝きますように。たとえ、私が弱く、失敗しようとも。何よりも、この年、私があなたへの聖なる旅路を進む巡礼者であることを忘れませんように。
 O God of new beginnings and wonderful surprises,
thank you for the gift of a new year.
May it be a time of grace for me,
a time to grow in faith and love,
a time to renew my commitment to following Your Son, Jesus.
May it be a year of blessing for me,
a time to cherish my family and friends,
a time to renew my efforts at work,
a time to embrace my faith more fully.
Walk with me, please, in every day and every hour of this new year,
that the light of Christ might shine through me,
in spite of my weaknesses and failings.
Above all, may I remember this year that I am a pilgrim on the sacred path to You.

 Amen
And I would like to add to this prayer...
May it be a time of grace for you,
May it be a year of blessing for you,
May the Lord walk with you in every day and every hour of this new year,
and let you shine His light in this troubled world.
 Oh dear fellow pilgrims, let us enjoy together the sacred path to our Heavenly Father this year!
この年があなたにとっての恵みの時でありますように。
あなたにとっての祝福の年でありますように。
主が、この新年の毎日、毎時間、あなたとともに歩んでくださり、この問題多き世界であなたに主の光を輝かせてくださいますように。
愛する巡礼者仲間の皆さん、この年、私たちの天の父への聖なる旅路をともに楽しみましょう。

一年が家だとしたら
The Year as a House: A Blessing 
(by Jan Richardson)

一年が家だとしたら。
歓迎するように大きく開かれた扉、
きれいに掃かれて用意の整った戸口、
あなたのために差し出されている広々とした心地よい空間、
どの部屋も祝されますように。
どの部屋も隅々まで尊ばれますように。
どの小部屋も避難所となり、
そこにあるものはみな、
聖なることのために用いられますように。
ここに
安全がありますように。
健康がありますように。
平安がありますように。
愛がありますように。
ここに
疲れている人、
傷んでいる人、
迷っている人、
悲しんでいる人が
やって来れますように。
ここに
安らぎと慰めを見つけ、
居場所と喜びを見つけられますように。

そして一年というこの家で、
それぞれの季節が美しく紡がれますように。
日々刻々と、喜びが増し加えられますように。
そしてどの部屋も、
ふつうの恵みで満たされ、
どの窓からも光がこぼれ出ますように。
見知らぬ人を歓迎するために。

[1] 「8愛は決して絶えることがありません。預言ならばすたれます。異言ならば止みます。知識ならすたれます。9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、10完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」私たちが知るのは、どんなに知ったつもりでも一部分。私たちの知ることは結局中途半端な聞きかじりです。知ることは大事ですが、全部知った気になったら勘違いです 。今、私たちが目にしているのは、ぼんやりした、ごく一面的なことでしかないのです。「12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」 私たちの知識はごく一部分です。誰かのこと、自分のこと、今年どんなことが起きるか、また、今何が起きているのか、去年何が起きたのかも、僅かな、限られたことしか見えません。神の愛さえ分かってはいません。「神の愛を説明しろ」と言われても出来ない出来事はたくさん起きるのです 。でも、神は私を完全に知っておられます。そして、やがて私たちも完全に知ることになります。その時、自分が知っていたことはなんと一面的だったかをまざまざと思い知るでしょう。なんと知らなかったかと驚くのでしょう。なんて知ったかぶりで分かったようなことを話していたかを恥じ入るでしょう。それ以上に、神が私を完全に知っていてくださったこと、一人一人を神が完全に知って、愛しておられたか。何かが出来る出来ないにかかわらずの愛ですし、神は完璧に私たちを知った上で、愛してくださる。その愛は残るのです。今はそれは完全には分かりませんが、やがて私たちはハッキリ、愛を見る。

[2] 「目に見える望みは望みではない」(ローマ8:24)とも言われるが、やがてすべてが恵みの光の中で見る時、望みも信仰も、廃れるのではなく不動のものとなる。

[3] 新約聖書には、この三つの組み合わせが多く語られています。他でのこの組み合わせ:ローマ5:2-5(このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。)、エペソ1:15-18(こういうわけで私も、、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、)、4:2-5(謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。)、コロサイ1:4-5(キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。5それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。)、Ⅰテサロニケ1:3 (私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。)、5:8(しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。)、ヘブル6:10-12(神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。11私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、12その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。)、10:22-24(心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。)、Ⅰペテロ1:3-8(私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。)、21-22(あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。22あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。)

[4] 2節の「山を動かすほどの完全な信仰」は、まさに人間が持つ「信仰力」というものだろう。13節での「信仰」は、人間の信仰ではなく、神がもたらしてくださる信頼。愛から生まれる信仰であるはずが、いつのまにか、人間の業としての信仰となり、愛を欠いた信心となりうることが、「その中で一番すぐれているのは愛です」という言葉からも意識されています。

[5] 「すぐれている」 12:31「よりすぐれた」、14:5「まさっている」 教会の建徳を語る。信仰も希望も、愛(神の真実、ヘセド)から生み出されるが、愛抜きの信仰や希望では、人を益することは出来ない。しかし、愛だけで、信仰・信頼・誠実を育てず、希望を与えないということも不徹底である。

[6] 「愛だけではダメだ。信仰と希望もないと」というような言い方は、信仰と愛を切り離してしまいます。ガラテヤ書5章6節「割礼を受ける受けないは大事なことではありません。大事なのは、愛によって働く信仰です。」 愛によって働かない信仰、というのもあるのです。それは、私たちがよくよく注意しなければならないことの一つかもしれません。それ以上に注意しなければならないのは、神の愛抜きにして、自分の愛を誇ることです。愛ではなく、義務感や罪悪感によっては、信仰は育ち得ません。

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受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

2019-04-14 15:38:14 | 聖書

2019/4/14 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」

 イエスは今から二千年ほど前、イスラエルのエルサレムで、十字架に付けられて死に、三日目に復活されました。時は、ユダヤの「過越の祭り」というお祭りで、このお祭りは毎年、春分の日以降の満月を基準に、毎年日付が変わりました。そこで、教会がイエスの十字架と復活を記念する「受難週」も、春分の日の次の満月に合わせて決まる「移動祝日」となっています。今年は、今日からの一週間を受難週、そして来週の日曜日を復活主日として世界で祝うのです。

 今日は「ゲツセマネの祈り」として知られる箇所を読みます[1]。この祈りの後にイエスは民衆に捉えられて裁判にかけられ、翌日十字架によって処刑されます。その事を既に知っていたイエスが、御自分の最期を思い、祈りに三時間を費やして、父に祈られた姿がここに記されています。ここでイエスは

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」

と言われます。

「ひれ伏して祈られた」

とありますが、当時の祈りは立って顔を天に向ける姿勢でしたから、ひれ伏すのは立っていられない程の緊張、恐れだったのでしょう。ルカ伝には、

イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。[2]

という一文が入った写本もあります。本当に激しく、苦しい思いでした。イエスが十字架にかかられたこと、私たちが今も毎年受難週を覚え、世界中の教会とともに想うキリストの苦難は、私たちの想像を絶する、リアルな苦しみでした。本当にイエスは、残酷極まりない拷問の十字架にかかり、弟子たちに裏切られる孤独、為政者や通行人から笑われる辱め、そして、何よりも天の父から見捨てられるという底知れない恐怖-思うだけでも立っておれず汗がほとばしる苦しみ、死ぬ程の悲しみを体験しました。それが

「この杯」

です。イエスはその杯を飲んだのです。しかし、それはイエスにとっても堪え難いものでした。ですからイエスは正直に

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

と、率直に祈っています。十字架や鞭打ちや嘲り、人間が与えた暴力から目を逸らして「イエスだから我慢できたのだ、十字架も神の子イエスは喜んで背負われたのだ」と簡単に考えてはなりません。イエスにとっても考えるだけで堪え難いことでした。そして実際に十字架を負い、身も心も引き裂かれて、最後には力尽き、息絶えたのです。その恐ろしさに、人でもあったイエスは決して平気なふりや、強がることなどせず、恐れる自分をさらけ出しました。同時に、

「…しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

とも祈りました。イエスは、自分の願いを正直に訴えつつ、それ以上に、天の父なる神が望まれることを優先して欲しいと、自分を明け渡したのです。

 この

「あなたが望まれるまま」

とは何でしょうか。結果的には、それはイエスが

「この杯」

を飲むこと(=十字架にかかること)です。けれどもイエスは以前から、天の父なる神の御心を丁寧に語っていました。ここで「望む」と訳されている言葉をマタイ伝で辿るだけでも、こんな言葉が浮かびます。

9:13「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 このように、神の願い(望み、御心、喜び)は真実の愛です。この言葉は欄外にもあるように

「あわれみ」

と訳されるですが、元々のホセア書6章6節が

「真実の愛」

と訳される「ヘセド」という「真実、恵み、変わらない愛」などとても深く豊かな訳しきれない意味の言葉です。マタイはこのホセア書を二回引用して、神の御心が真実の愛であることを強調します[3]。そしてそれが現れるのは、神の

「罪人を招く」

御業に現れています。更に、18章14節でも、

小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心ではありません。

と言われています。天の父の御心は、真実の愛(ヘセド)であり、罪人を招くこと、小さい者たちの一人も滅びないことを願う、憐れみなのです。この御心の具体的な現れとして、イエスは来られました。ゲツセマネの時だけ、

「あなたが望まれるように」

と祈ったのではなく、イエスの御生涯全体が、天の父の御心を現すものでした。イエスが来られた事自体が、天の父の望まれるままに従ったことでした。そして、イエスはハッキリと天の父が喜びとするのは、いけにえではないと仰っています。神は罪人を罰して滅ぼさずにはおれない方ではありません。また、罪人を罰する代わりにイエスの十字架という

「いけにえ」

で満足する方でもありません。天の父の御心は、罪人だろうと取るに足りないとされる者だろうと、滅びないことです。それは、神が

「真実の愛」

のお方だからです。しかし、だからこそ、人が神との関係に背いて罪を持ち込み、神を愛さなくなったことは測り知れないダメージをもたらしてしまった出来事です。その結果の個々の罪も、償いが必要です。しかし、その償いによって関係を修復することは出来ません。神との「真実の愛」は、どんな生贄や償いによっても癒やせません。それは、ただ一つ、神ご自身が命を賭けてその傷を塞いでくださる事によってのみ、修復できるのです。そして、神はそうすることを願って止まず、実際にそうしてくださるお方です。神ご自身がどんな犠牲も犠牲と思わずに払うことも惜しまない程の憐れみのお方です。それがイエスを遣わして、その十字架によって果たされる「贖い」です。イエスも、父のその「望まれるまま」に心から同意して、この恐ろしい杯を引き受けることをも祈っておられるのでしょう。十字架にかけるのが御心だ、というのではなく、罪人を滅ぼさず、招かれる御心への明け渡しなのです。

 それでも、イエスがこの世界と神との架け橋になることは、身悶えする程の苦しみが伴いました。真実の愛である神に背いた人間を取り戻すためには、イエスご自身が死ぬ程の悲しみ、孤独を味わわれなければなりませんでした。口先だけで「君のためなら何でもする。愛しているから何でもしてあげる」というのは簡単ですが、それが口先だけでなく本物の愛であることがこの世界と神との関係を償うために最大に悲しまれたイエスのお姿には証しされています。神と私たちとの間に立つことの、とてつもない苦しみと、そうしてでも人を神に立ち帰らせたいという御心、この二つの相反する思いに引き裂かれる葛藤を、イエスは引き受けたのです。

 イエスはこのようにして、十字架に至る苦難へと進まれました。繰り返しますが、それは十字架という苦難が父の御心だという以上に、父が私たちを招いてくださるという御心を見遣ったことでした。私たちはこのイエスの十字架によって救われます。しかし、それがゴールではありません。ここには、私たちも、天の父の御心が生贄ではなくて憐れみである。真実の愛であることが最大級に現されています。であるならば、今ここでの私たちの生き方も、イエスのように父なる神の御心を行うものへと変えられて行く道が続いている、と改めて思います。

6:10「みこころが天で行われるように地でも行われますように」

7:21「主よ、主よ、というものではなく、天にいますわたしの父の御心を行う者が」

12:50「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 現実に生きる中で、苦しみや悲しみを私たちは体験します。それは勿論避けたい痛みです。でも時として「神の御心があるのに、恐れや不安など不信仰だ。口先だけでも感謝や従順の祈りを捧げるべきだ」と思ったりしませんか。或いは「どうせ御心しかならないのだから」と思って、苦しみも控え目に曖昧な祈りをしていたりします。しかし、イエスのように、恐れや悲しみや願いを率直に祈りつつ、主の深い御心がなりますように、と自分を差し出すような生き方へと私たちは招かれています。主の御心は犠牲を求めるような「御心」ではなく、真実な愛に満ちた御心です。私たちは、自分の痛みや弱さも正直に申し上げつつ、それよりも遥かに大きな父の御心を想い、この世界の苦しみや罪や分断を贖う御心を知らされています。だから正直に自分の願いや痛みを祈りつつ、あなたが望まれるままに、と祈るのです。

「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

 こういう関係を、私たちに与えるためイエスは十字架にかかりました。この祈りを手本に、私たちも、正直な願いと、それを超えて大きな主のあわれみを信じて祈るようにするのが、イエスの果たされる「御心」です。そのためにイエスは、世界にある様々な悲しみの中に立って、不条理や矛盾や葛藤を味わってくださいました。イエスは生きる難しさを味わい知っています。そして今もイエスは私たちとともにいて、私たちの生活を通して御心を果たし続けておられるのです。

「主イエス様。あなたの十字架と、包み隠さぬ願いと、御父への信頼は、何と尊い御業でしょう。本当に私たちと一つとなり、私たちを神との生きた交わりに招き入れてくださり感謝します。確かに罪の赦しが与えられ、神の子とされた恵みを感謝します。受難週、主の苦しみと、父の御心との確かさを思い、私たちのうちにもこの主の祈りを教え、願いとさせてください」



[1] 「ゲッセマネ」と呼ばれることが多いですが、旧「新改訳 第三版」も「新改訳2017」、また「新共同訳」でも、「ゲツセマネ」としています。

[2] ルカ二二44。

[3] この言葉は、十二7でも繰り返されます。

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夏期学校メッセージ(案) だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

2018-07-23 18:01:37 | 聖書

だいじょうぶのかみさま  聖書はしくじり大図鑑!

 

 今年の夏期学校のメッセージテーマは「しっぱい」です。いつのまにか子どもの読書ランキングには「ざんねんないきもの」「失敗図鑑」「しくじり歴史人物伝」などが並んでいました。しかも、大人気!

 「しっぱい」なら聖書だって負けません。「聖書」は「聖人」ばかりが出て来て、美談や訓話が集められているかと思ったら、意外や意外。出て来る人は誰もが、ひと癖もふた癖もある人ばかりです。

・    神様との小さなたった一つの約束を破った…アダム

・    泥水…ノア

・    殺されると思い込んで、妻を「妹です」と偽って王様に差し出す…「信仰の父」アブラハム

・    兄のふりで父を騙して、二〇年も家出…ヤコブ

・    カッとなって人を殺し、四〇年後も石に八つ当たり…モーセ

・    戦勝して調子に乗って、次の敵に騙される…ヨシュア

・    怪力の秘密をばらしてつかまってしまう…サムソン

・    不安で二枚舌の嫉妬王サウル

・    不倫と隠蔽殺人…ダビデ王

・    燃え尽き症候群と鬱…エリヤ

・    行き過ぎた愛国主義…ヨナ

・    天使に反論…ザカリヤ

・    優柔不断…ニコデモ

・    相続財産を放蕩…放蕩息子

・    口を開けば順位争い…12弟子

・    ポピュリスト…ピラト

・    献金詐欺…アナニヤ夫妻

・    熱心すぎて悪役に…パウロ

 

※ 「失敗学」では、「失敗」の定義を「人間が関わったひとつの行為が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」としています。「望ましくない」と期待するのがだれか、によって「失敗」かどうかの判断も変わります。犯罪は、犯罪者から見るのと、被害者から見るのとでは全く逆の判断になります。その時は「失敗」と思ったものが、後には「失敗」とは評価できなくなることは多くあります(特にキリスト者はこの慰めを持っています)。ですから「失敗」とは「客観的な間違い」というよりも「自分にとって望ましくないという主観的な状況と真理」をどう扱うか、という問題です。 

 こんな例を見ていくと、そもそも人間を作った神様が大失敗したのでは?と思いそうです。もっとましな世界を造って、もうちょっと清らかな人を選べば良かったのではないか、と神様が疑わしくなります。世界は、神様の大失敗なのでしょうか?

 神様は、世界をお造りになる時、絶対に失敗のない「完璧な理想世界(ユートピア)」を作ることも出来たのかもしれません。間違うこともなく、神の命令に絶対服従する、ロボットのような人間を生み出すことも出来たのでしょう。けれども、それは神の方法ではありませんでした。神は「従わない選択」も出来る人間をお造りになりました。その結果、たくさんのざんねんな出来事が起こるとしても、ロボットより人間を作りたいと思われたのです。

 人間は神様ではありません。ですから出来ないことがあります。分からないことがあります。分かっても受け入れられないことがあります。分かったつもりで大きく勘違いしてしまうこともあります。そういう人間が一緒に暮らすと、もっと大変な事が沢山起きます。でも、神様は、そういう世界を造られました。失敗のない世界よりも、失敗の避けられない世界を造ることで、神様のご計画を果たそうとされたのです。

 「失敗学」によれば、「人間は必ず失敗する」のだそうです。人間は必ず失敗する。そのつもりで、ではどう準備していけば良いのかを考えるのです。聖書では端的にこれを「人間は神ではない」と言います。人間は神様ではないので、完璧ではないし、間違えます。だから失敗が悪いのではありません。神ではない人間が失敗したからと言って、神は責めません。「失敗するな」なんて「神になれ」に等しい無理な話です。「失敗しない」がゴールではなく、「失敗から逃げない」が大事なのです。

 ところが、神に背を向けた人間は、おかしなことに「神のようになりたがる」のです。失敗しない自分になりたいのです。『失敗学』の言い方では、「失敗から目を逸らして、隠したり、人のせいにしたりして、もっと大きな間違いをしてしまう」のです。

※「失敗」は三種類あります。

1.   織り込み済みの失敗。ある程度の損害やデメリットは承知の上での失敗。

2.   結果としての失敗。果敢なトライアルの結果としての失敗。

3.   回避可能であった失敗。ヒューマンエラーでの失敗。

 1.と2.の失敗は、「失敗は成功の元」となり得る失敗である。また、この2つの失敗については、状況・結果などがある程度予測できたり、経験からくる的確な判断で対処したりすることができる。

 3.の失敗は、失敗からさらなる悪循環が生まれる失敗である。予想しておけば回避可能であったにも関わらず、予想をしていなかったためにパニックに陥り、ますます、状況を悪くしてしまう。

「重要なのは、不可避である『いい失敗』から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで『悪い失敗』を最小限に抑えることである。失敗や事故が隠蔽され、教訓として生かされないまま同じことが繰り返されるなら、社会的な損失は計り知れない」。

Wikipedia「失敗学」 

 イエス様には、十二人の弟子がいました。そのリーダーは、ペテロでした。このペテロが、とてもおっちゃこちょいで、失敗だらけの人でした。頑固で、お調子者で、いばりたがってしまう人でした。いつも弟子たちとの間では「だれが一番偉いか」を話題にするのが好きだったみたいです。イエス様の弟子になったら、格好いいなぁ、イエス様が王様になったら、自分もその次に偉い大臣になりたいと思っていました。他の弟子たちも同じような思いがありましたが、ペテロもそうでした。

 ある時には、イエス様をたしなめて、間違いを教えて上げようとしたことがありました。それは逆にイエス様から厳しく叱られましたが、でもそんな間違いをしてしまうペテロをイエス様は愛されていました。ペテロという名前自体が、イエス様がつけられたあだ名でした。ペテロとは「石」という意味です。石頭とか頑固者、真っ直ぐだけど融通が利かない人ということでしょうか。でもイエス様はそんなペテロの性格もニックネームにしてしまうぐらい、おっちょこちょいのペテロが大好きだったのです。

※ キリスト教は「道徳」ではありませんが、クリスチャンには、なんでも「罪」のせいにしてしまう傾向もあります。しかし、神様から離れる前にも人間は限界を持っていました。つまり、失敗する存在だ、ということです。堕落という大失敗によって、罪は始まりましたが、その前から人は有限な存在でした。そして有限な人間が一緒に暮らすところ、必ず衝突やすれ違いが起きたでしょう。しかしそれは「罪」ではなく、受け入れ、乗り越えていけるチャンスだったのです。堕落以降始まったのは、人間としての限界を受け入れず「神のようになろう」とする行動や、限界に目をつむり「罪」として責める行動、また「恥」て隠蔽しようとする(結果もっと大きな問題を引き起こす)体質です。

 イエス様は、国の偉い人々から妬まれて、最後は捕まって、十字架に殺されました。その直前、イエス様はペテロに、「あなたも私から逃げていくけれど、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(参照、ルカ二二31以下)。

 ペテロは、自分は死んでもイエス様から離れたり、イエス様を知らないなんて絶対に言わないと断言しました。けれども、イエス様が捕まった時、ペテロは怖くなって、イエス様を見捨ててしまいました。「おまえもイエスの仲間だな」と笑われたら、必死になって何度も否定しました。ペテロは自分が絶対にしたくなかった大失敗をしたのです。でもイエス様は、そのペテロを責めることはしませんでした。ガッカリだとも言われませんでした。そうではなくて、失敗を経験することで、他の人を力づけて上げる人になることを願ってくださったのです。

 教会の最初のリーダー、ペテロは大失敗をした人です。なにしろイエスをたしなめたり、裏切ったりした人です。イエス様は、そのペテロを最初のリーダーにしました。ですから今でも、教会は自分の失敗を正直に認める場所です。安心して失敗して、それでも大丈夫だと、どんな時にも一緒にいてくださるイエス様を一緒に見上げていくのが教会なのです。

※ しかしペテロと同じように、懲りずに間違いを繰り返したり、自分の失敗を認めにくいのも、教会の一面です。失敗事例に学ぶ(逆演算)よりも、成功事例ばかり語りたがる面もあります(順演算)。そうした面にも正直に向き合って、教会の負の面を(「罪の問題」として「悔い改める」だけで解決と思うことなく)誠実に知っていくことは欠かせません。今も、私たちは何かしらしでかしているに違いないのですから…。

 神様は、私たちが神ではないから、沢山の失敗をしてしまうことをご存じです。そういう私たちが、助け合ったり励まし合ったりしていくことを願われるのです。失敗のない生き方ではなくて、助け合っていく世界を、神様は今も造っておられるのです。失敗だらけの人たちの話を聖書に載せることで、神様は私たちをどれほど愛しておられるかを教えて、励ましてくださっています。また、世界を見ると「ざんねんないきもの」や「へんないきもの」がたくさんいますが、人間も「へん」で、「ざんねん」なことをしてしまうものです。そういう人間が、だれも神様になろうとせず、いっしょに生きていけたら、楽しいじゃありませんか?

 最後に、皆さんに知って置いてほしいことを三つ、お話しします。

  1. だれでも失敗します。だから、失敗した人を馬鹿にしたり、自分は失敗したからダメだ、とは思わないでください。神様でない人間は必ず失敗するのです。大事なのは、失敗しないことではありません。失敗してしまう私たちが、一緒に、ワクワクできる世界を造っていくことです。
  2. 「助けて」と言える人になってください。自分一人で何とかしようと思わず、「手伝って」「助けて」と言えるようになりましょう。また、失敗が分かった時にも早く人に相談してください。隠そうとするのは一番マズいことです。正直に相談することが、失敗をカバーする最善の道です。
  3. 「失敗」と思うものも、正直に向き合うなら、神様は必ずそこからすばらしいことを始められます。イエスの御生涯も、最後は十字架に殺され、弟子たちは逃げていき、こんなざんねんな人はいないようでした。でもそれは、神様がどんなにこの世界を愛されているかの証しでした。この世界は神様の失敗作のようにも見えます。でも、そういう世界で人が今日までたくさんのものを想像してきました。ですから、皆さんも、いつも神様に祈って、期待して、決して諦めないで、神様がしてくださることに期待しましょう。

 

 私は小さい頃、忘れ物ばかりしている子どもでした。泣き虫で、運動が苦手な子どもでした。もっと頑張っておきたかったこともあります。50歳まで生きてきて、失敗も神様が受け止めてくださって、今ここにいます。もし、「恥ずかしい、悔しい、失敗した」と思う時があったら、いつでもここに来てください。その気持ちを聞かせてください。教会は、そういう私たちが、一緒におられる場所でありたいと思っています。

(実際の話とは違います)

 

聖書の「しっぱい学」

☀人は神さまではない

☀イエスは「しっぱい」のつらさを知っている。

☀神さまには失敗はない!

☀「うまくやる」より「たすけあう」がだいじ!!

☀ 神はすべてを最善にしてくださる

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詩篇一五〇篇「ハレルヤ」 年末感謝礼拝

2017-12-31 22:11:33 | 聖書

2017/12/31 詩篇一五〇篇「ハレルヤ」  「みことばの光」聖書通読表より

1.詩篇のしめくくり

 詩篇全150篇の最後の5つ、一四六篇から一五〇篇までは

「ハレルヤ」

で始まり

「ハレルヤ」

で終わる詩でまとめられています。「ハレル」は「ほめたたえよ」、「ヤ」は主(ヤハウェ)を短くしたものです。ですから「ハレルヤ」は「主をほめたたえよ」という、神である主を賛美する言葉です。

「ほめたたえよ」

は150篇に11回ありますが、これもすべて「ハラル」です。全部で十三回「ハレル、ハレル、ハレル」と繰り返す、とても力強い、底抜けに明るい歌になっています。5つの「ハレルヤ」詩篇はそれぞれに賛美のテーマや強調点がありました[1]。その最後の一五〇篇は、他にないぐらい「ほめたたえよ」を十三回も繰り返しているのです。

 詩篇は全部で150篇。そこに人間の生活の恵みや喜びも苦しみや戦いも歌われていました。神の民の歩みにも、闇があり、浮き沈みがあることがにじみ出ていました。その辛い中でも信仰に立っている詩もあれば、怒りや憎しみに駆られて、呪いや復讐を願う詩もあり、嘆きや訴えで終わっている詩もありました。神の民だから、祈っているうちに心も晴れて、ハレルヤとはいかない現実も詩篇には十分に汲み取られています。そういう詩篇の最後に「ハレルヤ」の詩篇が並べられます。最後は、主への賛美に至るのです。今はまだトンネルの中を歩み続けているような毎日かもしれません。祈っても平安がないままの時もあるでしょう。その悲しみは主もまた尊ばれて、簡単に癒やして解決するには惜しまれているのかもしれません。それは辛く苦しいことですが、しかし、その逃げられない闇の中にそっと留まって、一歩一歩を進む、そこに見えない主がともにおられることを受け止める。そういう時があるのです。一年の終わりだからといって、ドラマのように全てが解決して落ち着くわけでもないでしょう。私たちの生活や心境は、それぞれ違うのです。どれが良いとか悪いとか評価は出来ない、それぞれの人生であり、それぞれの今です。詩篇にはいかに人間が複雑で深いものかが汲み取られています。

 その詩篇の最後にハレルヤの歌が続いています。私たちの悲しみは癒やされ、罪は赦され、間違いは糺され、闇は光に照らされます。嘆きは躍りに、悲しみは喜びに、恐れは信頼に、虚しさは溢れるハレルヤに埋められるのです。苦しみや痛みが深くて、修復しようがないと思われたものをも主は癒やし、回復なさるからこそ、主をほめ歌わずにはおれなくなるのです。

2.神の聖所で(1節)

 「神の聖所で」は、旧約時代のエルサレム神殿の一部屋かと思いきや、

「御力の大空で」

と広げて言い換えられます。神が造られた大空の下、この世界のどこもが「神の聖所」となり、神を誉め称えるに相応しい。2節には

「その大能のみわざのゆえに…その比類なき偉大さにふさわしく」

 まさにこの天と地そのものが神の御力が現された偉大な作品です。私たちの生きている世界そのものに、神をほめたたえる根拠は十二分にあるのです。神を誉め称える気になれない人間の疑問や理屈や無理解がすべて晴れた後、ただ神を誉め称える時が来るのです。6節に

「息のあるものはみな」

とありますが、人に息を与えられたのは神です[2]。人はみな、その息を下さった方を賛美するのです。息を与えられたのはこの方を賛美するためでした。大空には神の御力、大能のみわざ、比類ない偉大さが表されて、神を誉め称えるよう招いています。それこそが、造られたすべてのものの第一のあり方、いのちの目的なのです。

 そしてここには楽器が沢山出て来ます。角笛、琴、竪琴、タンバリン、弦、笛、シンバル。紀元前のユダヤで楽器がどう使われて、どんな演奏がされていたのかは楽譜も残っていないので詳しく分かりません。まだそれほど高度で複雑な演奏はなかったでしょう。ですからここも「上手に楽器が弾ける人」を募集しているのではないのです。むしろ、八つもの楽器が並べられて、神を誉め称えることの喜び、溢れる心、弾けるような思いがあるでしょう。楽器が弾けない人にも、笛や琴やタンバリンやシンバルを配って、さあ神を誉め称えよう、と呼びかける。4節の

「躍り」

は、タンバリンを持ったなら躍りながら打ち鳴らすのです。それは自然に体が動き出す躍りです。湧き上がる喜びです。うまいとか下手とか人がどうこう言えません。ただ本人が神の素晴らしさを誉め称えて、溢れる喜びから躍りながらタンバリンを叩いたり、楽器をかき鳴らしたりシンバルを打ち鳴らして神を誉め称えよ、と息のある人を招くのです。

 勿論、心にまだ重荷や悩みがあろうとそれに蓋をして神を誉め称えよ、と強いるのではありません。神を誉め称えるとは言葉だけではなく、心から神を称え、その偉大さを認め、驚いて、神を喜ぶことです。ただ讃美歌やゴスペルを歌うことでもなく、その歌詞を味わい、心からその言葉を神に向かって告白するのが「神を誉め称える」ことです。そしてここでは、人の心の蟠りや問題はすべて神が恵みに変えてくださり、自分の失態や隠していたこともすべて露わになって、残るのは恥でも痛みでも後悔でもなく、主の偉大さに圧倒されるのです。本当に心から神を誉め称えて、楽器や躍りをもってというひたむきな溢れる喜びに歌っている姿なのです。

3.あなたも神をほめたたえる

 詩篇は最後にこの突き抜けるような、明るく、踊り出す全ての者の賛美を呼びかけます。そうはなかなか出来ない現実があることも詩篇は十分踏まえつつ、最後は

「ハレルヤ」

なのです。苦しみや戦いもあるし、悪もあり、人の痛みや恥も知った上で、最後には主を誉め称えるハレルヤが力強く響くのです。「私」が誉められるとか幸せになるか、などでなしに、神を誉め称えることへと私たちの思いを引き上げてくれます。主の偉大さ、知恵や力、栄光、私たちへの憐れみ、愛、そうしたことを忘れて、自分の幸せや願いを中心に考えやすいものです。だからこの詩篇から、大事なのは

「御名が崇められますように」

だ。息をしているのもこの世界があるのも、神の御業に他ならないことを思い出させられるのです。

 かといって、私たちが自己中心を捨てて、悔い改めて、神を誉め称えなければ、この祝福には与れない、と考えるのも律儀なお門違いです。詩篇一五〇篇の大合唱は無条件です。人間に対する条件や資格は何も言われません。

「息のあるものはみな」

です。神の偉大さのゆえに神を誉め称える。私たちの悩みも躓きも不信仰も超えて、神の偉大さを崇めるのです。自分は相応しくない、自分なんかが神を誉め称えても喜ばれまい、と勝手に決めつけていた者にも、神を誉め称えよ、さああなたにも楽器を渡すから、一緒に躍って賛美をしよう、それこそが神があなたに息を与えられた願いなのだから。そう言われる日がやがて来るのですし、そこに向かっている以上、今ここでも、世界の造り主であり王であり、私たちの中に働いておられる神を誉め称えようと呼びかけるのです。これを拒んで断る道もあるのかもしれません。神を誉め称えるより自分を大事にしたいと頑固に傲慢に背を向ける選択もあるかも知れません。「放蕩息子」の兄息子が父の憐れみに腹を立てて、祝宴に加わらなかった勿体ない道もありえましょう。でもその兄息子に、一緒に喜ぼう、祝おうと呼びかけるのがイエスのメッセージでした。

 神は偉大でその憐れみは測り知れません。私たちがどんなに見(み)窄(すぼ)らしくボロボロでも、必ず喜んで受け入れ、手に楽器を持たせて「一緒に神を誉め称えよう」と招き入れてくださいます。私たちもとてもガッカリする事があっても、子どもや孫や誰かの顔を見れば癒やされる体験をしましょう。しかし、最後には偉大な神が微笑んで迎えてくださるのです。神御自身が、私たちがどんな歩みをしようとも私たちの顔を見て喜び迎え入れてくださいます。その最後を約束されている故に、今ここでも私たちは神を誉め称えます。詩篇の終わりは、神を誉め称えて終わるのではありません。私たちに何度でも、神を誉め称える歩みを始めさせてくれるのです。

「この一年も新しい年も、主の御手の中にあります。宇宙の偉大さに比べて、私たちの存在や悩みなどちっぽけなものだとしても、あなたは私たちを深く憐れみ、この小さな私たちを通して栄光を現してくださいますから感謝します。そのあなたの約束を覚えつつ、ハレルヤと歌わせてください。あなたが導いて、最後には底抜けに明るい賛美を歌う日が来ます。どうぞその日に向けて、今も私たちに誉め歌を歌わせてください。あなたの偉大さに預からせてください」

 

1 ハレルヤ。
神の聖所で 神をほめたたえよ。
御力の大空で 神をほめたたえよ。

2 その大能のみわざのゆえに
神をほめたたえよ。
その比類なき偉大さにふさわしく
神をほめたたえよ。

3 角笛を吹き鳴らして 神をほめたたえよ。
琴と竪琴に合わせて 神をほめたたえよ。

4 タンバリンと躍りをもって 神をほめたたえよ。
弦をかき鳴らし笛を吹いて 神をほめたたえよ。

5 音の高いシンバルで 神をほめたたえよ。
鳴り響くシンバルで 神をほめたたえよ。

6 息のあるものはみな
主をほめたたえよ。
ハレルヤ。



[1] 一四六篇は主の恵みと力を、一四七篇は主の御業の素晴らしさを、一四八篇は天と地のありとあらゆるものに呼びかけて、「主をほめたたえよ」と言います。

[2] 創世記二7。

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