聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問30「口先よりも行いで」ヘブル12章1-2節

2016-08-28 21:33:11 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/28 ハイデルベルグ信仰問答30「口先よりも行いで」ヘブル12章1-2節

 

 ナルニア国物語が大好きな子どもがいました。その子どもが余りにもアスランが大好きなので、自分はイエス・キリストよりもアスランの方を愛しているのではないか、これはよくないのじゃないかと気にするようになりました。心配しているわが子を見かねたお母さんが、作者のC・S・ルイスに手紙を書いたのだそうです。その手紙を読んだC・S・ルイスはすぐに返事を書いて、お母さんは十日後に手紙を受け取ってビックリしました。そして、そこにはルイスが丁寧にこんな返事を書いていました。

 …ロレンスがアスランを愛しているのは、アスランがすること、いうことが好きだからだと思いますが、それはじつはイエスがじっさいになさったこと、おっしゃったことなのです。ですからロレンスは自分ではアスランを愛していると思っていますが、ほんとうはイエスを愛しているのです。たぶん、これまでイエスを愛したことがないほどふかく、またつよく。」[1]

 ルイスは、ナルニアの国でのキリストを、ライオンのアスランとして書いたのだから、心配しなくてよいですよという手紙をくれたのですね。ステキな答だなぁと思います。

 前回はこの夕拝で、イエスという名前は「救済者」「主は救い」という意味だとお話をしました。それは、イエスが私たちを私たちの罪から救ってくださる、ただひとりのお方だからでした。それに続く、今日の問答はこれです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答 いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者または救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れて、自分の救いに必要なことのすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。

 ここでは、ナルニアのアスランではなくて、「聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々」とあります。この「聖人」というのは、ハイデルベルグ信仰問答が書かれた16世紀のことを考えた方が分かるでしょう。それまで教会には、沢山の「聖人」と呼ばれる人たちが崇められていました。もう随分前になくなった、立派なキリスト者を「聖人」と呼んで、その像を造ったり絵を描いたりして、そちらにささげ物をしてお願いをすることが平気で行われていたのです。そういう考え方に対して、ハイデルベルグ信仰問答や宗教改革をした人たちは、それはおかしい、イエスだけが救い主であって、聖人を拝んだり聖人にお願いしたりする必要はない、と宣言を強くしたのです。

 イエスだけが救い主で、私たちの事を愛して、完全に救ってくださるお方です。でも、人間はおかしなもので、イエスは素晴らしい、凄いお方だと言えば言うほど、近寄りがたく、恐れ多い方になってしまう所があるようです。だから、イエスに直接お祈りするのではなく、母マリヤ様にお祈りして、イエス様にお願いを届けてもらおう、使徒ペテロ様に、その後継者の教皇様に、聖人の何とか様にお願いして、取り次いでもらった方が聞いてもらえるんじゃないか。そう思ったようで、「聖人信仰」というものが広まっていったのですね。けれどもそれは、結局、イエスだけが救い主で、私たちを完全に愛し、全ての罪から救い出してくださる、という信仰を否定することですね。イエスだけよりも聖人にお願いした方が効果がある、という考え方ですから。

 けれども、ここで、イエスだけが救い主だから、他の何かにも幸福や救いを求めることは間違っている、ということだけではなく、もう一つのことを覚えて欲しいのです。それは、さっきのアスランを好きだった子どもが間違っていたわけではなかった事です。

 私たちは、なんとなく、イエスよりもアスランのほうが魅力があるように思います。マリヤ様や聖人のほうが身近で、生き生きとしているように思いやすいのです。けれども、実は、イエスこそ、誰よりも魅力があり、面白く、親しく、素晴らしいお方なのです。そして、私たちの祈りを喜んで聞いて下さり、私たちと一緒にいることを喜んで、永遠に私たちと一緒にいたいと思って下さったのです。神とは、そういうお方です。

ヘブル十二1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれた競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 ここには「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」とあります。聖書に出て来る人物も、聖人と呼ばれるような先輩たちもいます。また、教会の牧師や長老さん、おじさん、おばさん、親やお友達。沢山の人たちが、私たちを取り巻いてくれています。そういう人のことを知るのは、とても励ましになります。でも、その証人たちを拝んだり、祈ったり、見つめたりするのではなくて、その人たちに励まされて、

 2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 多くの証人を通して、イエスに目を向けるのです。アスランが好きになったことが、イエスへの信仰を深めることだったように、もっともっと、イエスご自身の素晴らしさと愛を見つめるのです。イエスの愛と忍耐、苦しみと喜びを知りなさい。そうして、自分の今置かれた場所での歩みを、走り続けましょう、なのです。

 プロテスタント教会では「聖人」と呼んで崇める人はいません。代わりに「牧師に祈ってもらった方が聞いてもらえる」とか「あの先生は信仰が立派だから祝福される」とか、誰かを聖人扱いすることは、結構よくあります。そうではないと覚えて下さい。誰も、イエスよりもあなたを愛することはありません。全ての人の魅力や面白さを合わせたよりも、イエスは遥かに温かく、あなたを受け入れ、あなたの祈りも、祈りにならない思いも受け止め、最善に応えて下さいます。素晴らしい人に出会う時は、その人からイエスの素晴らしさを知って、ますますイエスを愛しましょう。助けを戴き、私たちもイエスに似た者に変えられて、多くの証人の一人にしていただきましょう。


[1] C・S・ルイス『子どもたちへの手紙』八九頁。

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Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌 心を見る神」

2016-08-28 21:30:46 | 説教

2016/08/28 Ⅰ歴代誌29章10-19節「歴代誌 心を見る神」

 教会の「祈りのカレンダー」では毎日に聖書日課が付いています。五年で、聖書を一通り読むサイクルで「聖書同盟」が作っている通読表を借用させてもらっています。今は、第二歴代誌を読むサイクルになっていますので、今日は歴代誌についての紹介をしたいと思います。

1.歴代誌の特徴

 英語では「クロニクルズ」と格好いいタイトルですが、私は若い頃、この歴代誌があまり好きではありませんでした。まず、長い。第一巻が二七章、第二巻が三六章、合計六三章もあります。そして、始まりに延々と九章も系図や名前の羅列が続きます。これは、聖書を続けて読む上での難関ですね。せっかくレビ記や申命記の難所を越えて、面白くなってきたと思ったのに、歴代誌でやる気が削がれそうになるのです。そして、その内容に新鮮味がないと思えます。その殆どは、歴代誌の前の「サムエル記」と「列王記」で、既に読んだことなのですね[1]。イスラエルの最初の王サウルの最期から、ダビデ王のこと、神殿建設のこと、ソロモン王のこと、その後のイスラエル王国の分裂と、ダビデ王朝の歴史が繰り返されます[2]。小さな変更はあるのですけど、また同じ話かと思ってしまうのです。「歴代誌は詰まらない」と思っていました。

 しかし私が、歴代誌の背景を知るうちに、見る目が変わりました。歴代誌が書かれたのは、イスラエルの民にとって大変厳しい時代、励ましや希望を必要とする時代でした。歴代誌後半に書かれるように、イスラエル王国は南北に分かれ、堕落と裁きと悔い改めを複雑に繰り返しながら、最後にはバビロン軍によって陥落してしまうのですね。そして、七〇年後に、ペルシヤ王が、エルサレムの再建のために帰還のお触れを告げる言葉で歴代誌は終わるのです。

Ⅱ歴代誌三六23「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」

そのままの言葉が、歴代誌の次の「エズラ記」の冒頭なのです。でも帰還しても、神殿再建、城壁再建、民の信仰や道徳の問題、様々な問題が山積みでした。民の心がバラバラになっていた中、エズラが律法を教え、この「歴代誌」をも編纂したのだそうです。それは、自分たちが神の民であり、神を礼拝して生きることを確認するためでした[3]。過去の事実の研究ではなく、廃墟の中から民が立ち上がるため語りかけられた本なのです。そう思った時から歴代誌は面白くなり、今では私にとって特別な本の一つです。

2.神殿建設、しかし、肝心なのは人の心の再建

 歴代誌は、捕囚から帰って来た民が「自分たちは神を礼拝する民」というアイデンティティを取り戻すため、また先祖たちの失敗や堕落の同じ轍を踏まないため書かれました。歴代誌の展開で大きな役割を果たすのはエルサレムの「神殿建設」なのですね。第一歴代誌は神殿建設を、ダビデが息子ソロモンと民の指導者たちに託す姿で終わりますし、第二歴代誌の最初、歴代誌の真ん中の部分は、神殿建設やその描写、また、その奉献の祈りなどが詳しく描かれます。

 けれども、その神殿建設は大きな中心になるのですけれども、神殿が中心ではないのです。神殿を建てることを巡っての、ダビデの信仰やソロモンの祈りは大事なのですが、神殿そのものを神聖視したり絶対化したりはしないのです。むしろその神殿は、後々の民の歩みで、どれほど乱用され、悪用されていくか。そこに偶像を持ち込んだり、異教の祭壇のレプリカを作ったり、勘違いした礼拝をしてしまう。最後に主はそのエルサレム神殿を惜しまず破壊させておしまいになるのですね。神を礼拝することは大事です。でも、礼拝する場所や礼拝の行為、また自分が礼拝に来ていること自体を誇り、安んじて、違う者を礼拝していることが人間はどれほど多いことでしょう。読んで戴いたダビデの祈りは、神を偉大なる方として誉め称えつつ、

Ⅰ歴代二九19私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛される…

と心を強調しています[4]。口先だけ、日曜だけ、教会だけの礼拝でなく、心にいつも神への礼拝があり、それが全生活に滲(にじ)み出る。それこそが神殿の建設なのです[5]。18節19節で言われる通り、神は私たちに、そういう礼拝の全き心を与えてくださのです[6]。そのために、私たちが失敗を通り、心の問題が暴露されるかもしれません。神ご自身も忍耐し、時にはご自身の壮大な神殿さえ、躊躇せずに破壊なさるかもしれない。でもそうやって神は人を導かれるのです。

 歴代誌には悪い王がたくさん出て来ます。彼らの悪い模範からも学ぶことは十分あります。しかし良い王たちも綻(ほころ)びを見せます。彼らは神だけを礼拝し、神殿礼拝の制度を大胆に改革したのです。しかし、いつのまにか、「自分は正しい」「自分は特別だ、人とは違う」と思い上がってしまいます。ウジヤ王は本当に素晴らしい王様でしたのに、祭司しか出来ない礼拝の務めを踏み込んでしまいます[7]。ヨシヤ王も律法に従った改革をしたのに、最後は無茶な戦争をエジプトの王に挑んで、愚かな死に方をします[8]。ダビデ王も、あのバテ・シェバとの不倫が描かれない代わりに、人口調査で主を怒らせたことが強調されています[9]。抑もソロモン王が神殿を建て、栄華の極みを果たした時も、民を重労働や重税で苦しめていました[10]

3.回復を宣言される神

 最悪の王のひとりはマナセ王です。散々酷い政治をした末に、バビロンへ捕縛されてしまいますが、そこでマナセが謙り、神に祈った時、神は彼の願いを聞いて彼をエルサレムに戻してくださるのです。そして、マナセはこの憐れみを体験したときに、主こそ神であることを知った、とあるのです[11]。そして彼が帰国してから心を入れ替えて精一杯真実な政治をした。この事は、歴代誌だけが伝えるエピソードです。神は、憐れみの神であり、私たちを生かす唯一のお方です。そして、歴代誌の最後は、滅ぼされたイスラエルの民に、神がペルシヤの王を通して、再出発を宣言なさったことです。主がそこにも回復を与えてくださったことです。

 歴代誌の王や民の信仰からも失敗からも、私たちは多くを教えられます。しかし、そういう失敗にさえ神が憐れみを下さり、回復をさせ、心から神を礼拝するようになる物語が繰り返されるのです。これを見逃すと、歴代誌や旧約の歩みは「失敗例」としか読めません。「私たちも同じような過ちをしないよう頑張りましょう」という道徳的な読み方になります。「ちゃんと礼拝しないと同じように滅ぼされるぞ」という殺伐としたお説教かと思いきや、歴代誌が語るのは、その反対です。反逆の民にさえ、繰り返して赦しと回復を惜しまない神の物語なのです。神は、憐れみと力に満ちた神です。この神を私たちは礼拝しているのです。この神を礼拝する民とされているのです。申命記でも繰り返して確認しながらお話ししてきましたが、この歴代誌でもそういう恵みの神が語られていて、そういう神への礼拝だと確認するのです。

 ヘブル語の旧約聖書では最後に来るのは歴代誌なのです[12]。ヘブル語聖書の結びは、

「あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。」

なのです。神は、ご自身を心から礼拝するよう、私たちを招かれる神です。立派な神殿を建てても、忠実な教会生活を送っても、本当に私たちが求めているのは、神ではなく、違うものになってしまっていることがいかに多いことでしょう。私たちが犠牲を惜しまず仕えているのは何に対してなのでしょうか。そしてそれは、本当に私たちを救うことが出来るのでしょうか。イエス・キリストだけが、私たちを本当に回復してくださる神です。神を礼拝する民として私たちを再建し、本当の礼拝の旅へと踏み出させてくださるのです。

「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。憐れみも回復も慰めも、あなたのものです。あなたと比べられるものは何一つありません。その事をあなたは今も私たちの人生において、この世界の歴史において、現されます。どうぞそのあなた様を心から信じて従う相応しい歩みを、与えてください。私共の歩みも、この礼拝の民の歴代誌に加えてください」



[1] 列王記では、北イスラエルと南ユダ王国の歩みが平行して記録されていきますが、歴代誌において北イスラエルはほぼ無視されています。

[2] アウトライン:Ⅰ歴代1-9章 系図、10-29章 ダビデ王、Ⅱ歴代1-9章 ソロモンと神殿建設、10-36章 王たちと陥落、そして帰還。

[3] 結びだけではありません。その本文の始まりも、サウルの破滅という荒廃からでしたし(一〇章)、途中は、破綻と再生の小さなエピソードが繰り返されるのです。

[4] Ⅰ歴代二八9わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。10今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。

[5] 人類の歴史を、礼拝と、実生活の信仰的な諸決断から描いているのが歴代誌です。戦争も、礼拝行為として描かれている。戦いにおいての決断は、窮地におけるその人の本質の暴露だからです。

[6]18…主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。19わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めとを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」心を導かれるのは主です。私たちが自分で良い心、聖い心と生き方を作り出す事は出来ません。そう期待されたり命じたりされているわけではなく、心を見て、心を試し、心を成長させてくださる神に望みを置くことが何よりなのです。

[7] Ⅱ歴代誌二六章。

[8] Ⅱ歴代誌三四-三五章。

[9] Ⅰ歴代誌二〇章は、Ⅱサムエル一一章でダビデがウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯した時期と重なりますが、歴代誌はこの事件について沈黙しています。しかし、その直後の二一章で、人口調査をすることによって、「神の御心を損なった」(7節)ことが却って、クローズアップされるのです。歴代誌は、ダビデの働きを「英雄視」と言われる程、肯定的に描いていますが、それは、サムエル記や列王記の描くダビデの負の部分を「歴史修正主義」的に改ざんしようとしたのではありません。歴代誌は、列王記を読者が読んでいることを前提としています(Ⅱ十15など)。その上で、違う角度から、この歴史を見させようとしています。ダビデを美化するよりも、ダビデとソロモンが陥った、権力・豊かさの落とし穴により集中しているように思います。

[10] Ⅱ歴代誌十4「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」ソロモンの業績の三つの側面:豊かさ、抑圧的な社会政策、変化のない宗教。W.ブルッゲマン『預言者の想像力』(日本キリスト教団出版局)、七四頁以下。新しいものを生み出すことのない宗教は、神を引き寄せるだけで、神の自由を黙殺する。今を豊かで楽しみに満たすことに集中し、神に今をも自分をも捧げることなどなくなる。

[11] Ⅱ歴代誌三三章。

[12] ヘブル語聖書の順番は次の通りです。①「律法(トーラー)」創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、②「預言者(ネビイーム)」ヨシュア記、士師記、サムエル記(上下)、列王紀(上下)(以上、「前預言者」)、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書(以上、「後預言者」)、③「諸書(ケスビーム)」、詩篇、箴言、ヨブ記(以上、「詩歌」)、雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記(以上、「メギローテ(巻物)」)ダニエル書、「エズラ・ネヘミヤ書」、歴代誌(上下)(以上、「歴史書」)。

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問29「イエスはユニーク」使徒4章11-12節

2016-08-14 20:12:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/14 ハイデルベルグ信仰問答29「イエスはユニーク」使徒4章11-12節

 皆さんは自分の名前が好きですか。こんな名前だったらいいのに、と思うことはあるでしょうか。私は、自分の「和男」という名前、結構好きです。でも、子どもの頃から「和男くん」と呼ばれることは余りありませんでした。「古川」という名前の方が珍しいし、特徴がありますから、「古川」と呼ばれたものです。だから、「和男」と呼ばれると嬉しかったものです。でも、今は「和男」という名前も珍しくなってしまいました。珍しい名前の人は、もっと普通の名前がいいなぁと思うかも知れません。よくある名前の人は、ありふれた名前で損だなぁと思うかも知れません。

 聖書が書かれた時代、「イエス」という名前はどうだったと思いますか。珍しい名前だったのでしょうか、よくある名前だったのでしょうか。鳴門の教会にも、「あい」ちゃん、「ともこ」さん、「まさこ」さん、「まなみ」さんが何人かいますけど、聖書にも「イエス」と呼ばれた人は、三人か四人いるのですね。とても特別な名前と言うよりも、「イエス」と呼ぶ人たちは、とても身近な、親しみを感じたのでしょう。

問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、他の誰かに救いを求めたり、ましてやそれを見出すことなどできないからです。

 イエスの元々の意味は「救済者」だとあります。「イエス」とはギリシャ語の発音で、元々のヘブル語では「ヨシュア」の事です。モーセの後を継いでイスラエルのリーダーとなった、あのヨシュアですね。その名前をギリシャ語風に発音すると、イェースースとなって、ヨシュアになるのだそうです。旧約聖書の有名な人物に肖って、子どもにイエスと名づける親はたくさんいたのも分かりますね。

 しかし、イエス・キリストの名前は「よくある人気の名前」だったから付けられたのではありませんでした。ヨシュアという名前には「救済者」または「主は救い」もしくは「主は救う」という意味があったんですね。「ヨ(イェ)」は「主(ヤハウェ)」の「ヨ」で、「シュア」は救い(救う)を現す言葉です。ですから、ヨシュアとは「主が救われる」という告白を込めた名前だったのです。そういう意味の名前をキリストが持たれたのは、偶然ではありませんでした。新約聖書の始め、マタイの一章には、キリストがお生まれになる前に、御使いがヨセフに夢でこう言います。

マタイ一21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 ここにハッキリと言われています。イエスと付けるのは、生まれてくる方が、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だから、なのです。そして、イエス・キリストは、私たちを私たちの罪から救ってくださるのです。そのような救い主は、他にはいません。この方が、私たちの罪からの救い主であることは、完全に保証されているのです。

 後にペテロが言ったのが、先に読んだ「使徒の働き」の言葉です。

使徒四10皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

11『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。

12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 当時の人々にとっては、イエスなんてありふれた名前だし、十字架に殺してしまえばいいと思うほど、無力で平凡な人間に思えたのでしょう。イエスは

「捨てられた石」、

役立たずで使う価値のないものとしか思われませんでした。でも、そのありふれた一人となり、捨てられるくらい卑しくなったイエスこそ、天の下でただ一人、私たちを罪から救ってくださるお方なのです。昔のヨシュアに肖ってとか、響きが格好いいから、といのではなくて、本当にその名前の通り、主の救いを果たしてくださるお方として、イエスはこの世においでになったのです。

 ここで、この方は

「私たちを私たちの罪から救ってくださるから」

と言われています。ただ、滅びや苦しみから救う、ではないのです。勿論、イエスは私たちを滅びから救い、最後には神の国に迎え入れてくださいます。死を迎えても、永遠の滅びを恐れる必要はありません。それは測り知れない祝福です。けれども、それ以上に、

「私たちを私たちの罪から救ってくださる」

のですね。私たちには、自己中心的な罪の思いがあります。人には見せたくない恥ずかしく身勝手な心もあります。何よりも、神を信じないで、神以外のものに頼り、縋り付こうとする間違った傾向があります。でも、そういう心の深い所での間違いから、イエスは私たちを救い出してくださるのです。

 こういう救い主は、イエス以外にいません。私たちが自分で「良い子」「良いクリスチャン」になったらイエスも救ってくださる、ではないのです。私たちが自分では自分を救えない罪を抱えていることをイエスは知っておられます。そして、そんな私たちを呆れたり責めたりせず、救いたいと願って、イエスはこの世に来られ、十字架に殺されてくださったのです。本当にご自分を惜しみなく与えてくださったのです。そのイエスが、私たちと今もともにいてくださって、私たちを罪から救い出すと約束してくださっています。私たちの人生をかけて、心に深く働きかけて、私たちを私たちの罪から必ず救ってくださるのです。なんという有り難いことでしょうか。

 この問29から、使徒信条の

「御子なる神について」

の解説が続きます。私たちが

「われはそのひとり子、我らの主イエス・キリストを信ず」

と告白するのはどういうことなのか。その最初の「イエス」について、今日はお話ししました。イエスとはヨシュアと同じで、「救済者」私たちを私たちの罪から救ってくださるという意味の名前です。そして、本当にイエスは、私たちを私たちの罪から救ってくださる、唯一のお方なのです。この「イエスを信ず」私たちは、罪からの救いをも信じ、求めて行く集まりでもあります。

 

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申命記三三章(26-29節)「家なる神」

2016-08-14 20:10:16 | 申命記

2016/08/14 申命記三三章(26-29節)「家なる神」

 申命記もあと一章です。そのクライマックスとなるのが今読んで戴いた26節以下ですが[1]、改めて、この申命記が語っていたのも、私たちの「しあわせ」だったことを教えられます。

1.モーセの祝福

 前回の三二章は「モーセの歌」でした。歌の形式で、イスラエルの民に主を思い起こさせる言葉が連ねられていました。それに続くこの三三章は

「モーセの祝福」

と呼ばれています。モーセはこの申命記を語った後、自分が死のうとしていることを知っていましたが、最後の最後に、約束の地に入って行くイスラエルの民のために、それぞれの部族に向けての祝福を語っていくのですね。そして、部族毎に「祝福」を語った後、この26節以下では民全体に対しての祝福が語られます。とはいっても、祝福を与えるとか、神に祝福を祈り求めるのではありませんね。もう既にあなたがたは祝福されている、神は本当に大いなる方であり、その神を自分たちの神とするあなたがたはどれほど幸いか、を宣言し、銘記させる「祝福」です。

26「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。
神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。

27昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。…[2]

29しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。
主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。…」

 こんな言葉が出るとは誰が思っていたでしょうか。神が民の「住む家」となってくださり、永遠の腕を下に伸ばして、民は「安らかに住まい」(28節)、他にはないしあわせを味わわせてくださる、というのですね。説教題を「家なる神」としました。神を表現したり持ち上げたりするには色々な言い方があるでしょうが、「私たちの住む家」と呼ぶだなんて、思いつかない言葉です。しかし、神は私たちの「住む家」となってくださる。神との関係は、私たちが我が家に帰ってきたように、そしてずっとそこに住み、生活するような、そのような関係なのです。実際この地球は、人間や動植物が生長するのに、絶妙な環境です。太陽との距離や地軸の傾き、科学的には最高のバランスなのだそうです。それは、神ご自身が私たちを迎え入れ、養い、安心させて、いつまでも住まわせたいと思われているお心の表れでしょう。神は、私たちを喜んで御自身のうちに迎え入れ、永遠の腕で支え続けてくださるお方です。[3]

2.平等ではないが

 しかし、その前にある6節から25節までの十二部族への言葉は随分とアンバランスです。祝福の良い言葉ばかりではありません。最初の6節のルベンや、22節のダンへの言葉は祝福なのか、どういう意味かさえ良く分からない、短い言葉です。それより「シメオン部族」は名前さえ出て来ないのですね。一方で、モーセの属するレビ部族や、13節以下のヨセフにはこれでもかとばかりに祝福や勝利の言葉が十九行も並べられます。後の七部族は、言葉も短いですし、よく意味の取れない文章が多いのです。バラツキが著しい。決して平等ではありません。

 この部族の順番は大雑把に言って、それぞれの部族毎に与えられる土地を、南から北に上って行くような並びで挙げられていきます。そうすると、その部族毎の土地の気候も広さも地の利も、バラツキが出て来ざるを得ないわけです。農業の祝福もここでは言及されていますが、産物もそのしやすさも違ってくるのですね。一律でも、公平でもないのです。

 しかし、そういう扱いの差は激しくあった上で、最初に申しましたように、26節以下で、神が住む家となり、あなたがたは他の誰よりも幸せだ、と言われているということですね。これは大事なことです。十二部族はそれぞれの部族の特徴や歴史、伝統がありました。人は誰も過去を変えることは出来ません。部族ごとの背負っているものは違うし、それを放り出すことは出来ないのです。それでも、それぞれの部族毎に違いがあっても、決して平等ではなくても、神はどの部族をも祝福してくださるし、一人一人に幸せを下さるということです。比較したり妬んだりせず、「どうせ自分は出だしが不利なんだし」といじけたら分からなくなる「幸せ」です。ハンディもあり、経済的な差や、文化や気質の違い、色々な差があっても、その「変えることの出来ない」ことを「不幸」だと被害者意識を持っていては見えなくなる祝福です。

 ここで祝福の言葉を見てみてもどうでしょうか。ヨセフには13節から十行以上、賜物、最上のもの、恵みが畳みかけられますが、21節ではガド部族に

「最良の地」

とあり、23節ではナフタリに

「主の祝福に満たされている」。

 そして24節ではアシェルが

「子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ」

と言われています。さて誰が一番祝福されているのでしょう-なんて質問は野暮で、無意味ですね。それぞれが「自分は祝福されている、最良の地、祝福に満たされた者、最も祝福されている」と思えるのが幸せなのです。比べだした時点で、求めているのは祝福ではなくて、プライドや競争心でしかなくなります。それぞれが、酸いも甘いもある、労苦の絶えない生活で、神が自分の神、自分の家となり、救いと幸せを今ここで注いでくださり、私にとっての最高の祝福をくださっているのだと受け止めていける。それこそ本当の幸せな人生です。幸せを戴いた人です。

3.神は、我が家

 申命記では、ここまで様々な命令や条文がありました。あの全部が、やはり面倒臭い決まり事に見えて、実は、主が民を幸せにしたいから、幸せな社会を作らせたくて授けられた指針なのです。そして、その条文が想定していたのは、様々な民事事件や揉め事、人間関係の衝突でした。主が約束されていたのは、人生の揉め事がない「祝福」ではありませんでした。自分たちにとって居心地の良い「幸せ」ではありませんでした。むしろ、社会に付き物の問題がある中で、その中で少しでも公平に、正しく、冷静に、そして恵み深い心で対処していこう、というあり方でした。生活や経済や対人関係が円滑でなくても、隣の芝生が青く見えても、文句を言うのではなく、出来る正義をしていく。それが申命記の律法の意味だったのです。そして、その根底には、生ける本当の大いなる唯一の神が、私たちの神となり、私の人生をかけがえのないものとして、見えない手で下から支えてくださっている。そういう信仰があるのです。

 繰り返しますが、私たちが何もしようとも神は幸せを下さる、という事ではありません。申命記は、主の言葉に背いて、神ならぬものを神として生きる時にどんなに荒廃や呪いを呼び寄せてしまうかを強調していました。この三三章の祝福もこのまま成就はしませんでした[4]。思い上がって道を外れて[5]、早々と自滅していった部族もあるのです[6]。私たちの応答や選択は決して小さな事ではありません。自分勝手に生きれば、その刈り取りは必ずすることになるのです。でも、そのような責任を語ってきた申命記の最後に、モーセが歌うのは祝福です。大いなる神にある幸せです。その神に信頼して、今ここで感謝をもって生きる。他の生き方に憧れたり、他の何かを神のように縋り求めたりせず、自分の人生を受け止めさせていただくのです。

 イエス・キリストは人としてこの世においでになりました。最も貧しく、母子家庭で、長男として弟や妹を養い、ナザレの田舎っぺとして、見栄えのないお方でした。不利な境遇で育ち、最後は十字架に死なれました。しかし、不遇の辛さを身を以て味わい知りながら、イエスが聞いていたのは、天の父が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と仰った言葉でした。そのイエスが聞かれた、主の声を聞き、主の幸いを戴きたいと思います。主が私たちの心を導き、変えてくださって、妬みや不平から自由にされ、自分は最も祝福されている、世界一の幸せ者だと思える心を、そういう人生を下さるよう、願い求めようではありませんか。

「主よ、ここにいる私たちもそれぞれに違います。個性も課題も何もかも、決して平等ではありません。それでも自分にもお互いにも、かけがえのない主の愛と最高の幸いが注がれているのだと信じ合うことが出来ますように。壊れるべきものが壊れて悲しみ苦しむとしても、下には永遠の腕があると揺るぎなく告白しながら、あなた様に栄光を帰させてくださいますように」



徳島は阿波踊りのシーズン真っ盛りです~
 
[1] 最後の一章となる三四章はエピローグのようなものですから、今日の三三章が実質総まとめのクライマックスだと言って良いでしょう。

[2] 省略しましたが、ここには「あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じた」とありますし、他にもこの三三章には戦闘用語が多数あります。現代の感覚とは大きく異なる、価値観の差があります。ですからこれをこのまま、現代に適用して、戦争の正当化や勝利主義の根拠としてはなりません。むしろ、この時から三五〇〇年の歴史の数々の反省をすべき責任が、今の私たちにはあります。この敗戦の8月に、平和を唱えるだけでなく、「ねたみ」や「むさぼり」が他国への戦いへと安易に引き込もうとする、その誘惑をも意識しなければなりません。申命記の時代と同様、この社会での歩みは、決して楽天的には済まないのです。

[3] 3節には「国々の民を愛する方」とあります。驚くべき事に、イスラエルだけでなく、「国々の民」を愛する、といわれるのです。それゆえ、私たちは、イスラエルだけが神の民ではなく、イスラエルが証しとなって、諸国の民に、神の偉大で憐れみに満ちた恵みが告げ知らされ、招かれていると、ここに既に約束を聞くことが出来ます。

[4] 創世記四九章の「ヤコブの祝福」との比較も面白いでしょう。ヤコブの言葉では呪いであった部族が、モーセの言葉では祝福に転じたり、祝福された部族があっさりと流されていたり、という違いは、「モーセ五書」が示している、歴史による変遷と人間の応答の及ぼす結果のダイナミズムを表していると思えます。神は人間を応答的な存在としてお造りになりましたから、人間の応答によって、歴史の展開は変わるのです。言い換えれば、神の摂理とは決して「運命論や決定論」ではない、ということです。

[5] その端的な例は、エフライム部族です。ここでは最も長く祝福されていますが、彼らはそこに優越感を抱き、後にはダビデ王朝に対抗し、北イスラエル王国を築いていきます。そして、王朝乱立の末、南ユダ王国より一〇〇年も早く滅亡するのです。その後に北イスラエルに誕生した「サマリヤ教団」は、この申命記までの五書のみを「サマリヤ五書」として正典にした教義を作ります。ヨセフ部族への祝福、優位性に執着してしまいます。勿論、そのような偏った聖書引用は、聖書全体で見ても受け入れられません。

[6] 困難な状況ほど、神を慕い求める契機となる。逆に、祝福にこそ、人は思い上がりやすいことも言われていた。それでも、主は祝福することを止めない。おしみなく、祝福を語り、示されるのである。

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問28「美しい心の秘訣」ヨブ記1章21-22節

2016-08-09 10:43:45 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/08/07 ハイデルベルグ信仰問答28「美しい心の秘訣」ヨブ記1章21-22節

 

 今読んだ、ヨブ記のヨブという人は、当時有数の裕福な人でしたが、その家畜や家族を一遍になくしてしまいました。その時に彼は、大変悲しみ、上着を引き裂き、神を剃り、悲痛な思いを表現しましたけれど、それでもヨブは神に愚痴を零さず、

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

と言ったのです。この言葉で、ヨブは知られています。ヨブは、神が財産やいのちを下さるとともに、財産を奪ったり、いのちを終わらせたりするのも神である、と理解していました。私たちの身の回りに起きること、世界の歴史で起きること、何一つとして、神の与り知らないことはない。それが▲前回お話しした「摂理」ということです。神が、全てのものと保ち、治めておられる、という信仰です。では、今日はその続き。

問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような恵みを受けますか。

答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。

 ここでは、神の創造と摂理を知ることの恵み(恩恵)が三つあげられています。第一が「忍耐」、第二が「感謝」、第三が「確信」ですね。忍耐、感謝、確信。どれも大事ですね。こういう品格を私たちが身に着けるようにさせてくれるもの、それが神の創造と摂理という教理を知ることなのです。

 しかし、神が全てを治めておられるというと、反発をしてくる人も沢山います。「それなら、犯罪とか地震とか日照りがあるのはどうして? 神がすべてを治めておられるなら、どうして苦しいことや悪いことがあるの?」 そして、クリスチャンでも、病気や事故、仕事や家庭や人間関係がうまくいかないことで、教会から離れたり信仰を捨てたりする人は少なからずおられます。私自身、どうでしょうか。これから、大きな災難にあったり、苦しい思いをしたりするような出来事があれば、信仰を揺さぶられないとは言い切れません。物凄く葛藤をするに違いないと思います。

 神がおられて、全てを支配しておられるのだから、それほど酷い事は起きない、とか、神が全てを善いようにしてくださるから、苦しみは私たちには降りかからない、逆境に遭うことはない、という保証はないのです。そういう特別扱いの守りを言ってはいないのです。私たちも、犯罪に遭うかも知れません。大きな事故に巻き込まれるかもしれませんし、災害に苦しみ、人間関係や社会の激変で人生が大きく狂ってしまうかもしれません。でも、そういう時にも、神の創造と摂理とを信じて、その時に忍耐し、恵みに感謝し、将来にも希望を見ることが出来るのだ、と聖書は言っています。

 決して聖書や教会の歴史では、摂理が信じやすかったから、大変なことがなくて、いつも問題が起きたら祈って解決して、順調な歩みをしてきたから、信仰することが出来てきたわけではありません。戦争や大虐殺もありましたし、民族の危機や、不公平な暴力、日照りや不作などもあったのです。そういう中で、神がすべてを治めておられるという信仰を深め、ますます神に拠り頼んできたのです。聖書が、そういう厳しい歴史を通っているからこそ、多くの人に読まれ続け、慰めや希望を与え続けて来たのです。

 ある結婚式で司式者が新郎に

「良い時も、悪い時も、富める時も、貧しい時も、病める時も、健やかなる時も、この女性を妻としますか?」

と聞くと、新郎は

「はい、いいえ、はい、いいえ、いいえ、はい」

と言いました。

 私たちは苦しいのは嫌いで、忍耐するより不満や被害者意識をもってしまいます。良いことがあっても、心から感謝するより、あって当たり前と思って、感謝には乏しいものです。せいぜいそこで良いことを話したり、立派なことが言えても、あまり魅力はありません。しかし、苦難の中で喜んでいる人には魅力があります。悩みの中で感謝している人には頭が下がります。大切なものを失った喪失の中でなお人に優しくある人には、心を打たれます。悪いことや貧しくなっても、病気になったり愛するのが大変になったりしても、なお愛し合っている夫婦にこそ、本当の愛を見る思いをします。そして、私たちもそれは大変だなぁ、と正直思いつつ、でももっと深い所ではそういう人に自分もなりたいと憧れてもいるのです。美しい心を持ちたいと願っているのです。いいえ、私たちがそれを願う以上に、神ご自身が、私たちにそのような美しい心をもたせたいと永遠から願われています。

 …わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。

 摂理とはこのようなものです。神がヨブが財産も健康も家族も一切失う苦しみに遭うことさえ許されたのは、それほどの喪失さえ、神の愛からヨブを引き離すものではなかったからです。私たちはただ苦しみの中で、摂理に縋って忍耐と感謝と確信を握りしめるのではありません。その事を通して、私たちを愛する神の愛の深さに更に触れるのです。その苦しみを通って、そこから神を仰ぐ時に初めて分かる、神の愛の横顔があるのです。そして、その愛によって、私たちの心はますます美しくされます。

 神の善意や摂理が信じがたい思いをすることは沢山あります。でも、信じがたい時に尚、信じるに値する神の御心を知るからこそ、価値があるのです。あらゆる出来事は、この方の御手の中にあります。それは、私たちが操り人形のようだ、ということではありません。その反対に、私たちは忍耐と感謝と確信を持てる、ということです。

「恐れるな」

と言われている、ということです。今は起きている出来事の意味は全く分からないかも知れません。無理に神の摂理を持ち出して納得しようとする必要もありません。悲しい時は泣けば良いのです。苦しい時は叫んで良いのです。悲しみ、叫ぶことさえ、恐れることはないのです。その涙やうめきを、受け止めて下さるのが天の父なる神です。

 そのことを味わい知りながら、神の深い御心に近づけられ、私たちがまた他の人を支え、互いに理解し合うようになっていく。そういう現実の物語こそ、神の創造と摂理の目的です。

 

 

 歌「感謝します」

感謝します。試みに会わせ鍛えたもう主の導きを
感謝します。苦しみの中に育てたもう主のみこころを
しかし願う道が閉ざされたときは目の前が暗くなりました
どんなときでも、あなたの約束を忘れない者としてください

感謝します。悲しみのときに共に泣きたもう主の愛を
感謝します。こぼれる涙を拭いたもう主のあわれみを
しかし願う道が閉ざされたときは目の前が暗くなりました
どんなときでもあなたの約束を忘れない者としてください

感謝します。試みに耐える力をくださるみ恵みを
感謝します。すべてのことを最善となしたもうみこころを

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