聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ヨハネ黙示録11章15-18節「礼拝⑰ 私たちのではなく神の」

2017-05-07 17:10:41 | シリーズ礼拝

2017/5/7 ヨハネ黙示録11章15-18節「礼拝⑰ 私たちのではなく神の」

 「主の祈り」の最後

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

は、マタイ六章の「主の祈り」本文にはなく欄外にあります。元々この結びの言葉は聖書にはなかったけれども、早い時期に教会でこの言葉を付加して言うようになった。主が直接教えてくださった本文の結びにふさわしい応答の言葉として、教会が早くから生み出し、ずっと大切にしてきた言葉です。

1.天の父のもの

 私はこの言葉を口にする度に、改めていつも思わされるのは、ただ自分の願いを祈って終わるのではなく、もう一度ここで、神の偉大さに立ち返って終われることの大切さです。願いだけで終わるなら心許ないでしょう。願いや心配に思いが向いてしまうでしょう。そうではなく

「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

と口にすることで、神に向かうことが出来ます。天の父は必ずその力をもって良い事を成し遂げてくださる、と信頼するのです。

 同時に、私たちの中には、神を差し置いて、自分の力や自分の栄光を求めようとする強い傾向があります。主の祈りの最初でお話しして来た通り、

「私の名が崇められてほしい。私の国が来てほしい。私の願い通りになってほしい」

と思っているのです。主の祈りで教えられているのは、そのような私たちが

「自分の名前ではなく、天の父の御名があがめられますように。自分が王さまになるのではなく、天の父が治められる国が来ますように。自分の願いではなく、天の父の御心がなってほしいのです」

と祈ること、こう祈る事によって私たちの生き方や願いそのものが変えられて行くことです。そして、その最後にも

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と祈って、私たちは自分の願いを聞いてもらうために祈るのではなく、神が王であり、神を神として崇めて、そこに私たちの目を向けさせてもらうのです。

 特にここでは

「国と力と栄え」

と言われます。最初の「国」は第二祈願で

「御国が来ますように」

と言われていましたことの繰り返しでもあります。そこでもお話ししたように、イエスの福音は「神の国の福音」です。イエスは、神の国が近づいたことを語られ、ご自身が王として神の国を生き生きと示してくださいました。イエスこそは本当の王として、私たちを治めておられます。でも現実はどうでしょうか。日本という国、アメリカや北朝鮮、イスラム国など、強力な政府や為政者が権力を振るっています。お金や能力や人脈がある者が世界を支配していて、私たちもそのような国の一員に過ぎないようにどこかで思っています。そういう支配者たちにとって、教会が

「国と力と栄えとは限りなく天の父のもの」

と祈る事は面白くないに違いありません。もし本気で私たちがこのように祈っているのなら、政府は何とかしてそれを止めさせ、骨抜きにしようとするでしょう。ただ神を誉め称えて、神の摂理や赦しや恵みを歌う以上に、

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と祈るのは、実に革命的な告白なのです。

2.ハレルヤコーラス

 黙示録には人間の歴史が大きなドラマとして描かれています。教会は、迫害が厳しくなる時代にいました。まさにローマ帝国という国家が勢力をふるって、教会を潰そうとし始めた時代でした。黙示録は、苦しみや戦いが続くようでも、最後には神の勝利に導かれていく物語が繰り返して語られています。その一つのクライマックスとなるのが、今日の11章です。

十一15この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。

 これはまさしく、主の祈りの結びと通じる告白です。ただ天の父が王であられる、というだけではありません。この世の国が、私たちの主、およびそのキリストのものとなるのです。この世の国々が、ローマ帝国も日本もアメリカも、全ての国々はキリストのものとなる。自分たちが王だ、世界の支配者だ、それを証明しようと戦争も辞さず、弱い者や他国を踏みつける権力者も、やがてキリストの前に平伏す。私たちを支配しているのは、キリストです。私たちの魂とか信仰とか教会だけでなく、全生活が神の支配の中にある。私たちの願い求める全ての事が一つ残らず、この神の手の中にある、と私たちは大胆に宣言するのです。勿論、だから「神頼み」で何もしないのではなく、神からお預かりしているからこそ、精一杯取り組むのです。

 この黙示録11章15節の歌詞から造られたのが、あの有名な「ハレルヤコーラス」。楽しげに明るく、ハレルヤと喜び歌う、あまりに素晴らしくてあの曲の最後は立って拍手することが恒例になったあの曲です。主とキリストが世界の国をご自分のものとされる事は喜びです。

「国と力と栄え」

この世界に溢れる権力や暴力やプライドとは根本的に異なります。主イエスは愛し仕える王です。嵐を静める力がありながら、十字架にご自分を与え、弱さを通して恵みの力を現される方です。イエスの栄光は十字架でした。恥や苦しみをも全く厭わずに、十字架に死なれた、あの測り知れない栄光です。そのイエスがやがて、完全に世界の王となられる日が来ます。人間が王になろうと背伸びをして、争って、自分で自分の首を絞めているような時代は終わって、イエスが治めてくださる日が来ます。その日、私たちは心から、あのハレルヤコーラスを、いや、もっと素晴らしい歌を、喜びに溢れて歌い始めます。その日を私たちは信じて、今も既に全てを治めておられる王は、主であるという信仰を持って喜び生きるのです。

3.祈りの結び

 新改訳では

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」。

 つまり、理由を言うのです。これは私たちの普段の祈りの最後でもふさわしい言葉かもしれません。「主の御名によって祈ります」ではなく「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」と結んでも良いのです。

 祈りながら、本当に聴かれているか不安になる時があります。しかし、天の父が王であり、力と栄光を永遠にお持ちなのだから、必ず聴かれている。私たちの願い通りには叶わないかもしれません。国と力と栄えは私たちのものでなく天の父のものなのですから、下駄は神にお預けするのです。神を引きずり下ろして自分が王座に着こうとする思いを手放し、王なる神に背を向けずに、一生懸命願い、絶えず祈り、嘆き、諦めずに訴え、そして委ねるのです。何より御名があがめ、御国が来、私たちの日毎の糧と罪の赦しと悪からの救いを祈ります。それは天の父が永遠の王、力と栄光の方だから出て来る祈りです。そこに立ち戻って、閉じるのです。

 マタイ六章でイエスが仰った注意事項は、神がどんなお方かを忘れた祈りをするな、ということでした。人に見せるために祈るとか、長々と祈り、まるで私たち人間の側の熱心さやしつこさで神を操作しなければならないかのような祈りをイエスはキッパリと警告されました。ここでも

「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」

と言います。口先での賞賛でなく、本当にそうだと告白するのです。また

「私たちが神に栄光をお返しします」

でもなく、

「あなたのものになりますように」

でもなく、もう今現に、そして永遠にあなたのものです、と言うのです。時々、祈りながら、自分でもどう言えば良いか分からなくなることはありませんか。焦って何とか当たり障りのない言葉で形を整えたくなります。焦るその時こそ気づきましょう。自分の祈りの貧しさに関わらず、神は大いなる方です。神は力強く、恵みの栄光を永遠にお持ちです。そこに心を向け、形を整えるよりも、ゆっくりと結びの言葉を言えばいいのです。それほどの信頼こそ祈りの恵みです。そうして私たちは自分が王になろう、人や状況を支配しようとする誘惑から自由になります。世界戦争や様々な力が圧倒しようとも、その上におられる本当の王を仰ぎます。今も永久までも治めておられるイエス・キリストを告白して大胆に生きることが出来ます。私たちの言いっ放しで終わらない。祈りも礼拝も、その最後には、神ご自身を永遠の王と称えます。それは祈り終えて立ち上がる私たちの心に、喜びの明るい歌を響かせるほどのことです。最後にはこの賛美が響くゴールに向けて、私たちは祈りつつここで生きるのです。

「永遠の王なる天の父。大いなるあなたの深い御支配を感謝します。祈る事を通し、あなたを仰ぐ時間を通して、握りしめて強張った手も開かれるのです。祈りがなければ心は闇に流され、生き方はバラバラになります。戦いも誘惑も大きいからこそ、あなた様を仰がせ、祈りにより、神の国の民として育ててください。喜び歌いつつ、あなたの先触れをする民としてください」

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「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

2017-04-02 15:31:39 | シリーズ礼拝

2017/4/2 「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

 「主の祈り」最後は一番しっくり来る願いですが、実は何を願っているか問われる祈りです。

1.試みに遭われるイエス

 イエスは私たちに

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るよう教えられましたが、そう祈るよう教えられただけではありません。今日のマタイ四章にはイエスが悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って、四〇日の断食をなさって、試みに遭われたことが書かれています。これは、三章でイエスが洗礼を受けた後、四章17節以降、宣教活動を始められるに先立って、荒野へと追いやられて試みに遭われた、という順番になっています。洗礼を受けてすぐに活動を始められたのではなく、悪魔の試みを受けることが相応しかったのです。そしてイエスは、ここで神の子どもとしての奇蹟や権威を振るって悪魔を一掃するのではなく、徹底的に一人の人間として対峙されました。私たちと同じ、弱さを持ち、特別な力などない、人間として、厳しい試練のふるいにかけられたのです。そうなさってから、イエスは活動を始められ、教えられ、あの主の祈りを祈るようにと授けられたのです。

 それ以降も、イエスの御生涯は試練の連続でした。何よりもあの十字架の苦しみにおいて、イエスが受けた試みは人間として最も厳しいものでした。イエスの御生涯全体は、始めから終わりまで、試みから救い出すことがテーマでした。私たちと同じ試みを受けて、私たちを試みから救い出すためでした。

ヘブル二18主は御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。[1]

 イエスは私たちの人生が試みの中にあることをご存じです。私たちが弱く、試みに負け、騙されてしまう者で、助けが必要であることもご存じです。そして、御自身が人として試みに遭われ、それがどれほどの強力なものであるかも、誰よりもご承知です。そのイエスが

「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」

と祈るように教えられたのは、本当に深く、切実な思いで、私たちの弱さをご存じで、悪から救い出したいと願ってのことであるに違いありません。そのためにこそイエスはおいでになって、御自身が厳しい苦しみをお受けになったのですから。

 イエスご自身がまず試みと対峙されたのは、私たちが試みの中にあるからです。人間は騙されっぱなし、負けっ放しで、それにさえ気づかないのです。同じ荒野でひもじい状況にあれば、私たちは石をパンに変える力が欲しいのです。高い所から飛び降りても守られて、みんなをアッと言わせたい。自分の願う支配を手にするためなら、悪魔にひれ伏したり妥協したりしてしまうのです。そういう生き方をイエスは否定され、神を深く信頼して生きる道を示されました。

2.試みとは何か

 「試み」というと何か厳しいこと、辛い苦しみ、病気や災難、恥ずかしい思いを私たちは考えがちです。「苦しい目に遭わせないで、でも禍から救い出してください」と祈りがちです。しかし試練とは、ただ苦しいとか嫌なことではないのです。神が私たちに下さった大切な関係を、様々なものによって傷つけてしまうことです。現に私たちは、神から愛され、互いに愛し合うようにと命を与えられているのに、その素晴らしい恵みを信じられず、自分の世界に閉じこもりがちです。そこから出て来るのは痛いことです。自分が頼りにしていたものがなくなるのは、苦しい経験です。しかし、それを避けて、温々と自分の世界にいたいと思うなら、主の祈りは、そういう誘惑からこそ救い出されるようにという意味ではないでしょうか。そして、試練には耐えられない弱さを正直に、謙虚に告白しつつ、しかしそれ以上に、あらゆる悪から、また悪魔の騙くらかしから、必要ならば強いてでも救い出して下さい、という祈りなのです[2]

 主の祈りが教えられた「山上の説教」では、人に見られるために施しや祈りや断食など善行をする誘惑が警告されました[3]。また人を赦さない誘惑も釘を刺されました[4]。お金の誘惑、心配しすぎる誘惑、人を裁く誘惑も語られていました[5]。更に、伝道で華々しい成功を収めたことさえ誘惑になることも仰いました[6]。勿論、肉欲や偶像崇拝などのあからさまな誘惑も聖書は上げていますし、私たちは秘かな楽しみをも十分注意すべきです。それと同じぐらい、本来は良いこと、正しさや確かさが神御自身よりも求められやすく、それは一層厄介な誘惑だとも聖書は教えます。

 「山上の説教」では、天にいます私たちの父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深くなることをイエスは繰り返されます。その事を忘れさせたり、後回しにさせたり、曖昧にしたりする事はすべて誘惑です。ですから、私たちにとって必要なのは、何が誘惑かを決めたり、誘惑を避け罪を犯さないことに焦点を合わせたりすることではありません。むしろ、神の愛をたっぷりと頂き、私たちの天の父として信頼し、その神の子どもとして、私たちも嘘や偏見や悪口や足の引っ張り合いを止めた生き方を願い(頑張る、でなく!)私たちの心も体も生き方も、神に差し出すことです。それを恐れ、神を疑い、信頼しきれないとしたら、それこそ悪魔の誘惑の声です。悪魔の誘惑は、様々な形を取ります。罪を犯すまいとするばかりで、今ある恵みを心から楽しまず、目の前にいる人を批判するとしたら、それも誘惑なのです。

3.神の愛の中に生きる

 先に申し上げたように、イエスのお働きは人間を試みて神から引き離す悪魔の働きを討ち滅ぼすという大事な一面がありました。そのためにイエス御自身が人となられ、試みを極限まで味わわれ、具体的で巧妙な誘惑について教えられました。そのようなイエスのお姿そのものが、私たちを誘惑から救い出してくれる手がかりです。もしそのことを忘れて、「試みに負けたら、流石(さすが)の神様も見捨てるに違いない」と思っているなら、それこそはサタンの思う壺です。

 先週知って、来週の学び会で見ようと思っている短い動画があります。麻薬や薬物依存の解決に取り組んだポルトガルでの試みを紹介した動画です[7]。依存症というのはまさに「誘惑」の問題でしょう。そこで紹介されていたのは、依存症の解決は罰則や禁止ではなく、繋がり、支援、友情、コミュニティを育てる方策なのだ、という実例です。繋がりがない時に、人は寂しさや虚しさを埋めるため、薬物やギャンブル、インターネットなど何でもいいから飛びつくのです。罰や非難や叱責、賞罰はそのような孤独をますます強めるだけです[8]。だから、薬物を使おうと使うまいと友となる、支援をする、繋がり続ける。社会復帰を助け、喜びや苦しみを分け合う。そういう取り組みが、驚くほどの成果を上げ、依存症患者は半減したのです。

The Root Cause of Addiction 日本語字幕版  

 これは本当に素晴らしい事例です。そして、今日の祈りについても、引いては私たちの信仰生活そのものについても、とても大切な光を投げかけています。<誘惑に負けたら私から離れて行ってしまう神>を念頭に置いているなら、私たちは誘惑に引かれます。そもそも誘惑に負けるのは、その方が「とりあえず」でも安心できるからなのです。心にある孤独や不安を埋めたくて、薬物やギャンブル、仕事や買い物や食べ物や恋愛に飛びつくのです。淋しさから何かにしがみつき、人の道を踏み外してしまうのです。そこに、誘惑に勝つことを求める神や罰で脅すお説教をしてもダメです。それは症状であって、問題は神から離れた深い孤独なのですから。

 神はそんなアプローチはなさいません。神はご自身を私たちの

「天にいます父」

という「つながり」を結んで下さいました。イエスは私たちと同じように試みを受け、誘惑の苦しみ、人としての寂しさを味わわれました。最後は十字架の上で、神から見捨てられる孤独さえ味わわれました。その上でなお、イエスは天の父を見上げられました。イエスのお姿は、私たちを決して見捨てず、離れず、どんな過ちからももう一度立ち上がらせてくださる天の父を示しています。だから、私たちは、他のものによって自分を満たそうとしなくなっていけるのです。そして

「私たちを試みに遭わせず」

ともに祈る繋がりへと、私たちは召されたのです。[9]

「天のお父様。「試みに遭わせず悪より救い出し給え」と祈る事を、諦めずに求めてくださるあなたであることを感謝します。あなたとの喜びに満ちたつながりを感謝します。それを恥ずべき誘惑や、自分の正しさに替えかねない私たちの惨めさを、あなたは憐れんでくださいます。どうぞ深い恵みに立ち戻らせ、あなたの下さる慰めを注いで、主にある回復をなしてください」



[1] また、「ヘブル四15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

[2] この第六祈願の二つの文章の関係には、三つの可能性があるでしょう。①「試みに会わせない」=「悪から救い出し」(最も一般的です)、②「試みに会わせない形で、悪から救い出し」(最も事実上願われがちな妄想です)、③「試みに会わせない」しかし、もっと大事なのは「悪から救い出し」。接続詞の「alla」は逆接の「しかし」の意味ですから、③の関係と理解するのが妥当でしょう。

[3] 六1-9。

[4] 六13-14。確かに、主の祈りの文脈から考えると、「御名をあがめさせ…御国を来たらせ…御心が行われ」ることから引き離すもの全てを「試み」と理解することも出来ましょう。特に直前の「私たちの負い目をお赦しください」とのつながりは顕著です。更に、マルチン・ルターの妻カタリナは、「私たちが赦してもいない罪を赦したと思う誘惑からお救い下さい」という注を残しています。

[5] 六16-18、19-34、七1-5。

[6] 七22。

[7] http://krikindy.blogspot.jp/2017/03/blog-post_28.html。また、記事としてもいくつかのものがヒットします。たとえば、http://shindenforest.blog.jp/archives/61397011.html。

[8] あるいは誘惑に勝ったご褒美ということさえ、「いつかは見捨てられるかもしれない。本当の自分の苦しみはダメな証拠でしかない」と思わせるだけです。

[9] このことは、AAの12ステップが示している道筋です。

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「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

2017-03-19 14:41:50 | シリーズ礼拝

2017/3/19 「礼拝⑮ 赦せない苦しみからの解放」マタイ18章21-35節

 主の祈りの第四の願いは

「日毎の糧を今日もお与えください」

でした。それに続く「私たち」の願いの二つ目は

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」。

 日毎の糧と罪の赦し。これこそ私たちの必要であり願うべきことです。

1.無制限の赦し

 このマタイ十八章の「王としもべの例え」は、弟子ペテロの

「何度まで赦すべきでしょうか」

という質問をきっかけに語られた「赦し」についての教えです。このマタイの福音書では「赦し」という言葉が十八回も使われて、とても「赦し」を大事にしています[1]。「赦しの必要に気づいている」といったほうがいいかもしれません。マタイは、その六章で「主の祈り」を記していますが、その直後でも、今日の35節と同じ事を強く教えているのです。

マタイ六14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 「主の祈り」を教えられた最後にこう確認されます。第五の「赦し」の願いを、他の願いに勝ってもう一度取り上げられるのです。このように、マタイは「赦し」を丁寧に取り上げます。今日の十八章の例えが示しているように、私たちは「人を赦してやるなら何度までか」と考えがちです。しかし、それに対してイエスが語られるのは、そもそも私たち自身が赦されていること、それも膨大な負債を赦して戴いていることです。主の祈りでは「罪」を「負い目」(負債・借金)と呼んでいますが、この十八章の例えでも

「一万タラント」

の借りのあるしもべが出て来ます。一万タラントとは欄外にありますように、一日分の労賃一デナリの六千倍の一万倍です。つまり、二〇万年分の労賃という膨大な金額です。これほどの負債を、彼はどうやって作ったのでしょうか。そして、彼はどうやって返済するつもりなのでしょうか。しかし、その彼のため、王は心を深く深く痛めてくださいました。27節の

「かわいそうに思って」

は簡単な言葉ではなく「腸で感じる」という言葉です[2]。そういう深い深いあわれみをもって、このしもべの莫大な負債を免除してくれました。それなのに、彼は、自分に負債のある仲間を赦しませんでした。自分が赦してもらった借金の六〇万分の一でしかない額を赦してやりませんでした。それを知った王は、彼を呼びつけて、怒り、投獄したという話です。

 ここで大事なのは、王が先に彼を憐れんで巨額の負債を赦されたことです。王は「お前が仲間を赦したら、私も赦してやろう」とは言われません。まず王が、測り知れない慈悲を垂れて、返せもしない負債を返しますといって憚らないしもべさえ憐れんで下さったのです。その驚くべき赦しに対する応答は、自分もまた同じように人を赦す、という形以外にないのです。

2.「赦せませんが、赦してください」はダメ?

 主の祈りを祈りながらも、こう考えていることはないでしょうか。「『我らに罪を冒す者を』私たちが赦し切れていないなら、神が私の罪を赦されないのだろうか」[3]。もっとすっぱりと

「私たちに負い目のある人を私たちは赦せませんけれども、私たちの負い目をお赦しください」

と祈るなら、どんなに楽か、と思ったりします[4]

 しかし、そうではないのです。イエスが求められたのは、私たちが赦されるだけではなく、赦されるからこそ人をも赦す生き方です。決して、私たちが人を赦したならそれに基づいて神も私たちを赦してくださる、ということではありません。まず神が私たちを圧倒的な愛で赦してくださったのです。そこには、私たちが赦すなら神も私たちを赦してくださる、という条件付きの保留はありませんでした。条件もなければ理由もない、全くもって不可解な、計りがたい赦しがありました。私たちもこのしもべも、同じように思いがけない新しい人生、赦された者としての新しい人生が与えられました。そしてその新しさは、神の憐れみに基づいています。莫大な負債さえ赦す、もっと莫大な愛をいただいたのです。だから、私たちも他者を赦すのです。他者に対して、冷たい心を捨てるのです。そうしないなら、私たちは自分が新しくされた土台を否定することになります。神は恩着せがましい方ではありません。この例えの、

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。

は、王の心外さ、悲しみ、叫びです。王は彼にも憐れみ深く生きて欲しかったのです。神は、私たちを赦すだけでなく、私たちが互いに赦し合うことを心から願うのです。

「我らに罪を犯す者を我らは赦せないけれど、我らの罪をば赦したまえ」

という祈りなんかではないのです。

 私も誤解しやすいのですが、赦しとは「不問に付す」「大目に見る」のとは違います。この十八章も直前の20節までで丁寧に、教会の中での「つまずき」の問題を扱っています。つまずきが起こるのは避けられない[5]。人間関係で大きなダメージが起きることは避けられない。それをイエスは丁寧に扱われ、15節以下で対処を論じられます。責め、報告し、公開し、祈るのです。何も対処をせず目を瞑り、放任するのが赦しではありません[6]。そうした現実的な対応のアプローチが示されるのです。その続きの21節以下で、その対処が七度までか、いや、七度の七十倍、つまり「限りなくせよ」と言われたのです。それは本人の回復を願うからです。

3.「罪人」ではなく「神の子」

 躓きが起こるのは避けられません。私たちも神に対して負い目を重ねずには生きられません。神からお預かりした命や時間や体を、本来の目的通り運用する事が出来ません。口や手、能力や特権を神の御名があがめられるためではなく、御心を行うためでなく、悪用してしまうことが避けられない私たちの現実を神は十分にご存じです。そこで神が私たちに求められるのは何でしょう。失敗を繰り返さない努力でしょうか。ゴメンナサイと謝罪し、罪意識を抱えて生きることでしょうか。いいえ、神は私たちをご存じです[7]。その避けがたい現実に苛立つよりも、その私たちの「天にいます父」となってくださいました。イエスは主の祈りの最初に、罪を怒る神、返しきれない罪を責め、眉をひそめている王ではなく、

「天にいます私たちの父」

と呼ばせてくださいます。神は既に私たちの「父」となり、私たちを深く憐れみ、私たちにも神に愛された者として生きる新しい歩みを下さったのです[8]。神が私たちを赦されるのは、私たちを愛しておられるからです。そして、私たちの現実をどう変えていけば良いか、一緒に苦しみ、取り組み、助けてくださいます。躓きや罪が避けられない中で、今ある現実に対処しつつ、何度でも何度でも、回復や和解や癒やしに向かうことを願い、助けてくださる「父」なのです。

 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」。

 そう祈りなさいと言われた主のお言葉自体が、私たちに与えられた新しい生き方の証しです。主イエスは、赦しなさいと道徳を命じられ、赦さなければ赦されない、と捨て台詞を残されたのではありません。そして、神が人間の罪を丁寧に赦し、責めるよりも救いを下さることを何度も宣言されました。そして最後には、御自身が十字架に犯罪者として殺されることを通して、すべての負い目を代わって支払ってくださいました。[9]

 私たちにはまだ罪の性質はあります。躓きは避けられません。でも神は赦しのお方です。「罪人」とは私たちの性質や自覚であって、決して私たちのアイデンティティや肩書きではありません。私たちは神の子どもです。神の赦しを戴く者です。神の憐れみは膨大な借金よりも大きく、神の恵みの力は私たちのどんな失敗よりも強い。そして、十字架のキリストが下さる罪の赦しを信じる者です。福音は、私たちの罪を責めない以上のものです。それは私たちに自分の罪を認めさせて赦しを求めさせ、他の人を赦せない思いからも解放してくれます。

 赦しがたい問題があり、赦せない心がある私たちの現実に、この祈りは光を与えてくれています。

「主よ。私たちの負い目の赦しを願うのは、あなた様の測り知れない憐れみを信じるからです。その赦しの恵みを仰がせてくださり、人を赦せない思いや人を傷つける自分の姿にも気づかせてください。そうして自分を責め、あなたを冷たい神だと決めつける思い込みからも救い出してください。主イエスの下さった赦しとこの祈りにより、どうぞ私どもを新しくしてください」



[1] アフィエーミが十八回で、そのうち「赦す」と訳されているのは十八回です。他は、放っておく、置いておく、そのままにする、などの意味で使われています。「(罪の)赦し」に限らず、網や死人や雑草、を構わなくすることがアフィエーミです。二二22(イエスを残して立ち去った)が最も分かりやすいでしょう。罪を過去の変えられない出来事として、過去に置いておくことが「赦し」です。もし過去を何とかしよう、あるいはまだ捨てずに持っていたい、というなら、それは「赦し」を求めているとは言えませんし、そんな態度は神も赦しようがないでしょう。赦すとは、そのものから自由に生きることなのです。

[2] ギリシャ語「スプランクニゾマイ」。

[3] あるいは、文語では「我らが赦す如く」と言い、新改訳では「私たちも…赦しました」と言う、その微妙なニュアンスの違いで、自分たちの赦し方に基づいて、神の赦しも代わるのかどうか、でまた悩みそうになるかも知れません。この接続詞の訳は、日本語に訳すのが難しいのです。しかし、後述するように、全体的な「神の赦しと私たちの赦しとの対応」が分かれば、この訳語や関係で悩むことはないでしょう。「どこまで赦さなければならないのか」という問い自体、十八章21節以下でペテロが問い、イエスが覆された人間的な発想なのです。

[4] ここを読んで、「神の赦しは、私たちの赦しが十分でなければ、与えられないのだ」とは思わないでください。神は私たちを赦して、もう完全な救いに入れて下さるのです。しかし、それは私たちが人を赦さなくても自分だけは救ってもらえる、という「救い」ではありません。私たちが人への傲慢、自分を義とするプライド、他者の罪や過ちへの軽蔑、そして「そもそも自分が赦されたこと自体、大して自分には非がなかったからなのだ」と言わんばかりの思いから救われることが必要なのです。自分の失敗を隠し、胡麻菓子、言い訳し、他者に対して攻撃的である生き方そのものから救い出され、かぶっていた鎧を解くようになる救いへと、神は招かれるのです。

[5] マタイ十八7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

[6] 復讐は神に委ねる、ももう一つの柱。個人的に、感情的に、「正義」を果たそうとしてはならないことの自戒です。「復讐をしない」という意味での赦しは、「復讐は神の正義に委ねる」という意味です。神は人の復讐心を怒られると言うより、「わたしに委ねなさい」と引き受けてくださるのです。

[7] 私たちが一方で「まだ神は怒っておられるのではないか」とビクビク考え、他方で自分が赦されたことを忘れて他人の失敗を怒っている、そういう生き方そのものを憐れんでおられます。なぜなら、神は「天にいます私たちの父」だからです。

[8] イエスが世界に差し出されたのは、神が裁くお方である以上に赦しの神、回復の神、和解と平和を創り出す大いなる神であるという福音でした。私たちはその赦しに自らを差し出します。決して、神の怒りを恐れて、その宥めをビクビクと求め、キリストの慈悲に縋って赦しにあずかるためではなく、神の大いなる愛とあわれみのゆえに、差し出された赦しと救いをいただくのです。そして、その赦しをいただいた者として、私たちが他者を赦す時、私たちはイエスが始められた大いなる赦しの宣言に加えられるのです。

[9] そして、三日目に復活されて、弟子達に現れた時、その赦しや身代わりを恩着せがましく語られはしませんでした。むしろ、神の子どもとする聖霊を与えてくださったのです。

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「礼拝⑭ 養い主なる神」マタイ14章13-21節

2017-03-12 20:18:38 | シリーズ礼拝

2017/3/12 「礼拝⑭ 養い主なる神」マタイ14章13-21節

 私たちがいつも祈っています「主の祈り」を、改めて一つずつ取り上げています。前回まで「御名、御国、御心」と来て、まず天の父なる神をあがめ、神を礼拝し、委ねる祈りであることを見てきました。今日から「私たちの」祈りになります。その最初は、何を祈るでしょうか。私たちなら、自分のためにまず何を祈るのでしょうか。主イエスが教えられたのは「糧(パン)」です。

1.「糧」はパン

 「日毎の糧を今日もお与えください」。

 なんと有り触れた願い事でしょうか。もっと高尚で、信仰的で、壮大な祈り-たとえば「世界平和」「奇蹟を行う力を」「神の栄光を現す大事業を」などと祈ることも出来るのに、イエスが教えられたのは

「日毎の糧」

 つまり自分の一日分の食事を乞う祈りでした[1]。しかし、こう祈る事を教えることによって、イエスは私たち弟子に毎日のご飯、生きるのに必要な最低限のことさえひとえに神が下さると教えられました。「食事はあって当たり前、神に願うならもっと大きなもの、特別な事を」ではないのです。食べ物や命さえ当たり前ではありません。私たちは神に養われて生かされていると教えられるのです。

 この「糧」はパンです[2]。私たちの食事、ご飯です。これを直ぐ、もっと「神聖」な意味に換えて「みことばのパン」とか主の聖晩餐のパンだとか広げようとしてはなりません。本当に私たちの食事、必要最低限のものが神からの賜物だ、神が私を生かしておられるのだ、と生々しく覚えさせるところに、主の祈りのインパクトがあるのです。イエスは祈りについて、

六6祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて…祈りなさい。

と言われましたが、その「奥まった部屋」とは食料庫のことだとも言われるそうです[3]。食料庫に入り、生活の現場から祈りをささげる。私たちはこの生々しい現実を棚上げしがちです。「神は自分の祈りなど聞かれない、祈っても何にもならない」と呟きがちです。呟きながら、神から備えられた食事を食べているのです。神は天の父として、私たちに必要な食事を下さり、生かしておられます。祈りに応えてくださらない、何もしておられない、ではないのです。

 「主の祈り」が教えられたマタイ五から七章の「山上の説教」をまた思い返してください[4]。主はこの祈りに続いて、弟子達に

「何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな」

と教えられ、天の父が私たちを養ってくださっていることを信頼するよう教えられました。野の花や空の鳥を見て、天の父の養いを信頼せよ、と言われました[5]。そして、今日の十四章15節以下では

「五つのパンと二匹の魚」

で男だけでも五千人の人々を養われた奇蹟を見せられました。これはマタイとマルコとルカ、ヨハネの四つの福音書が全て記している唯一の奇蹟です[6]。それだけにこの記事にはイエスの福音が凝縮されて、豊かに生き生きと物語られていると言えます。

2.天地の造り主を信ず

 ここでイエスは、子どもの弁当に過ぎないパンと魚で一万もの人を満腹させるパフォーマンスで人々を惹き付けられたのではありません[7]。そうだと誤解した人々に対してイエスは一線を引かれたと、ヨハネの六章に記されています[8]。そして実際こんな奇蹟をイエスがなさったのは二回だけです[9]。しかし、イエスが天に帰られた後も、いいえ、天地創造の最初から今に至るまで、神は私たちをパンや魚で養い続けておられます。人間が神に背き、恵みを忘れて呟いてもなお神は太陽を上らせ、雨を降らせておられます[10]。穀物を生じさせ、豊かな実りに至らせ、それが食料となって人間の手に入り、手間暇をかけて調理されて食卓に並ぶまでの全てのプロセスを備えておられます。それは、パン五つを何千倍にした一瞬の奇蹟に、遙かに勝ってダイナミックでドラマチックな奇蹟です。イエスが五つのパンと二匹の魚の奇蹟で示されたのは、天の父が私たちに食べ物を豊かに与えてくださること、私たちもその養いと憐れみを信頼して、互いにその配慮をしていくことでした。言わば、

「私たちの日毎の糧を今日も与えてください」

という祈りがどれほど現実的であるか、ということでした。

 イエスは日毎の糧を与えたもう父、「天地の造り主」を信じる信仰を育てられます。この世界のものや現実と切り離された信仰の世界、天国の宗教ではなく、この世界を造られ、支えられる神を信じ、今朝の食事も、それを食べたこの体、手足も、神のものとして見るのです。また、糧を生じさせるこの世界の、ユニークな自然、ビックリするほど面白い動物や、カラフルな植物など多様な生態系、太陽や宇宙、不思議な自然界を造り、支えたもう神を信じます。もっと言えば、神から与えられたこの世界の営みを、自分のためではなく、神を喜び、感謝して育てる使命を信じます。人間は、体や「世俗」と切り離して、伝道や奉仕や教会の事をするのが信仰だと誤解しやすいものです。天地を作られた神を信じる時、自然を育てること、体を大事にすること、社会を営んでいくこと自体が神の栄光を現す、かけがえのない意味を取り戻します。牧師や伝道者になるのは素晴らしい人生ですが、それは社会に生きる人、また体が弱くて生きるのが精一杯という人にさえ、その生きる喜び、生かされている素晴らしさを取り戻すお手伝いをするためです。神に日毎の糧を求めて祈る祈りは、そういう招きなのです。

3.私たちのものを私たちに

 イエスが教えてくださった祈りは「私たち」と繰り返しています。「私」ではなく「私たち」と教えられます。この第四祈願でも「私たちの日毎の糧を私たちに」です。自分が食事に事欠きませんよう、ではなく、私たちの日毎の糧を私たちに、なのです[11]。豊かな人が他者の食料まで取り上げて、贅沢に楽しむことをこの祈りは窘めます。「私たちに」と祈る時、私たちは自分だけでなく、この祈りを祈るすべて方々に思いを馳せるのです。実際イエスも弟子達に、

マタイ十四16…あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。

と仰ったのです。この言葉を受け止めて弟子達は、教会に長老と執事とを立て、監督の務めと食卓の配慮の務めを大事にしようとしました。ただの宗教ではなく、現実の問題に取り組もう、この世界は神がお造りになった素晴らしい世界である意味を取り戻そうとするのです[12]

 二千年前と今では、社会の構造は大きく変わりました。弥生時代の日本と現代では社会も全く様変わりして、同じような働きは求められていないかもしれません。同時に「糧」に凝縮される人間の必要はより深く理解されています。人に必要なのは栄養補給だけでなく、噛むことや香りや楽しみ、また食べた物の排泄も含めた健康もだと分かってきました[13]。食糧の心配よりも、食べ過ぎや肥満の解決も必要になっています[14]。その根っこには、豊かさが幸せだと勘違いが扱われなる必要があります[15]。人間が生きるのには、健康は勿論、知恵や正しい情報を見分ける力、人格的な成熟などもあるのです。ストレスでさえ、ある程度はなければダメなのだそうです。

 生き甲斐も必要です。家族や友人、共同体も必要です。一緒に人生を分かち合い、喜んだり泣いたり、笑わせてくれる仲間がいて、健全な自尊心、自己肯定感をもらうことも必要です。そして、そうした所での問題が人間を深く傷つけているという現実もあります。それは、伝道や信仰だけで解決できない、現実的な問題です[16]

 ですから、教会には食料の援助や教育の働き、様々な支援団体の活動があるのです。その全てに取り組めるわけではありません。それでも主イエスが私たちに「私たちの日毎の糧をお与えください」と祈る道を示してくださいました。ですから私たちは祈るのです。

「私たちの日毎の糧を、生きるのに必要なものを私たちにお与えください。食べる物がない人に食べ物を、食べ物が豊かにあるのに生きる意味を見失っている人に生き甲斐を、孤独な人に良い仲間を与えてください。そのために遣わされている私たち一人一人を助け、祝福してください。そうして、私たちに命も糧も与えてくださっているあなたを、ともに心から誉め称えさせてください」

と祈り、行動するのです。

「日毎の糧を与え、私たちを養いたもうあなたの御愛を感謝します。あなたが私たちを喜んで養い、今ここに生かしておられます。そうして、私たちがともにあなたのいのちを戴くよう、その事を願い、仕え合うよう送り出してくださいます。どうぞ主の恵みに気づき、感謝する者としてください。互いに生かし合い、喜び合い、天の父を称える私たちとならせてください」



[1] 先の「荒野の誘惑」では、石をパンに変える誘惑に抵抗されたイエスが、ここではパンを求めよと言われる。そこに、人間をバランス良く見ておられるイエスの深い理解が現れている。私たちも自分の必要に気づこう。そして、そのすべてが天父の養いによって与えられることを祈り求めよう。

[2] もちろん、ご飯ではなくパン、という意味ではありません。日本人はパンではなく米食文化で、食事の事全部を「ご飯」というように、このパンはパン食文化での食事全体です。ですから日本語では「糧」と堅い言葉を使ったのでしょう。どちらにしてもこれは食事のことです。

[3] ジェームズ・フーストン、『神との友情』、199頁。

[4] マタイでの「パン」 四3、4(荒野の誘惑)、七9(パンを求めるのに石を)、十二4(ダビデが供えのパンを食べた史実)、十四(五つのパンと二匹の魚)、十五2(洗わない手でパンを)、26(机の上のパンを子犬にはあげない)、33以下(七つのパンの給食)、十六5(パンを持ってこなかった)、二六26(最後の晩餐)山上の説教では、天父の養いも強調。六25以下の「思い煩うな」も、七9以下「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」も。ここでは、神が下さるのがパンである、という以上に、神は当然必要なものをくださるし、何よりも、神の国とその義を求めて生きる生き方、自分にしてもらいたいことを他の人にもする生き方を下さる、そのような心、生き方を下さる、というメッセージである。食べ物や必要から、神の恵みに生かされる生き方、神の恵みの栄光を現す生き方まで、神は下さらないはずがない、というメッセージである。

[5] マタイ六25-34。

[6] マルコ六32-44、ルカ九10-17、ヨハネ六1-13。マタイ、マルコ、ルカの三つは「共観福音書」と呼ばれ、重なる記事は多いのですが、ヨハネは独自です。イエスの復活以外に四つの福音書に共通する奇蹟記事は、この「五つのパンと二匹の魚」だけです。

[7] ヨハネの並行記事では、この「五つのパンと二匹の魚」が「少年の持っている」ものだとあります。そこからよく「お弁当」という言い方がされます。本当にお弁当だったのか、少年が差し出したのか、などは想像の域を出ませんが。

[8] ヨハネ六15、26以下をご参考に。

[9] マタイの十五32-39(及び、マルコの並行記事)では男四千人を七つのパンと少量の魚で満腹にされた記事があります。この二つでイエスのメッセージとしては十分であったとお考えであった事は、十六8-11で明らかです。

[10] マタイ五45。

[11] 「私たちの場合、物質が溢れかえった消費文化のただ中で、次のように言うことができるようになる恵みを求めて、この祈りを祈るべきなのです。「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください。」「この世界が多くの物によって誘惑して来るときにも、私たちが『いらない』と言えるように助けてください」。(ハワーワス、148頁)

[12] 神が私たちに糧を与えておられることに気づく時、それは何のためか、も考えずにはおれない。それは決して無駄ではなく、目的がある。ただしそれは、人間が考えがちな、有用性とか効果ではない。憐れみ豊かな神は、私たちをも神の恵みに沿って生きる者とならせることを考えておられる。私たちが何かをすることが大事なのではなく、神の恵みに応えて、感謝と喜びをもって生きることこそ、神が私たちを生かしておられる目的である。

[13] 天の父は、私たちの下の世話をも配慮してくださっています。

[14] 「しかし、私たちは、パンが少なすぎることによってではなく、自分をむしばむ虚無感を絶え間なく消費し続けることでごまかそうと、あまりに多くのパンを集めることによって滅びていくのです。」(ハワーワス、『主の祈り』、147頁)

[15] ここで思い出されるのは、箴言三〇8-9です。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

[16] それは、食糧難が祈りだけでは解決しないのと同じです。食糧が与えられるように、とは祈りますが、それを祈るだけで何もしないとか、「祈れば空腹で悩むことはなくなる」などという事はないでしょう。

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「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

2017-03-06 10:40:37 | シリーズ礼拝

2017/3/5 「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

1.「御心の天になる如く、地にも為させ給え」

 この「主の祈り」の第三祈願を祈る時、皆さんはどんなことを考えているでしょうか。私は随分長い間、「天では争いや禍がないように、地でも悪いことや嫌なことがありませんように」という思いで祈っていました。自分にとっての願わしい状況に引き寄せて「御心」ということを考えていたのです。第一祈願と第二祈願でお話ししたようにこの「御心」とは

「天にいます私たちの父」

の「心・御意志」という意味です。第一祈願、第二祈願と同じように、私たちはこの祈りをする時に、

「私の願いではなく、あなたがよいと思われることをなしてください。私の思うようにではなく、あなたのご計画の通りになりますように」

と言うことになります。言わば、天において行われているのも、私たちが願うような平和で温々とした心地よいことではなく、天にいます私たちの父の御心が行われているのです。キリスト者の祈りは、自分の楽や降伏や願いを神に要求する祈りではありません。自分のちっぽけで浅い願いよりも、神の大きなご計画やお考え、天の父の思いに信頼し、明け渡す。そういう祈りだ、という素晴らしい意味に、私は段々と気づかされています[1]。勿論それは、自分の願いを押し殺し、諦めて、神の御心に降伏する、というような詰まらないことではありません。自分が見えている事、精一杯考えていることよりも遙かに深く、比べものにならないほど素晴らしい神のお考えに、私たちが心から信頼して、自分の願いも、自分自身も、その御心にお任せして従うことです。[2]

 でも、多くの方は心配するのではないでしょうか。自分の願いや思いを捧げて、神の願いに従うだなんて、危なくはないのだろうか。何か、神の操り人形やロボットになろうとするかのような、危険な宗教ではないのか。確かにそうです。そういう危険は教会こそ十分警戒しなければなりません。私たちは、聖書を通して、神の御心がどのようなものであるかを丁寧に学び続けて行くことが出来ます。そして、聖書を通して私たちは、神の御心が私たちの考えがちなものとは全く違う、驚くばかりの憐れみに満ちた御心だと知ります。私たちが神の名前や真理を掲げて、絶対服従を要求すること自体、神の御心とは違うのだと、聖書は教えています。そればかりか、今日読みましたマタイ七章では、不思議な最後の大逆転が言われていました。

マタイ七21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

2.あわれみの御心

 この七章21節は、マタイ六章10節の「主の祈り」の

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

の後に初めて出て来る「御心」の箇所です[3]。勿論、「御心」という言葉は使わなくても五章から七章の「山上の説教」全体が神の御心を現しています[4]。でもその最後にもう一度

「天におられる父の御心を行う者が天の御国に入るのです」

と念を押すように書いている時に、私たちはどれほど神の御心を誤解しやすいかを思うのですね。ここでイエスはハッキリ、主の御名によって言葉を語るとか悪霊追い出しや奇蹟など力強い業を行ってさえ、それが「御心を行う」ことではないと明言なさいます。そういう人は大勢いると言われます[5]。熱心に主の御名を呼び、自分では御国に入れるものと疑わないのです。御心を行っていると疑わないのです。でも、そこに勘違いがあります。なぜなら、自分が御心を行い、あれこれの正しい伝道、華々しい活動をしてきたから、だから自分は神の御国に入る権利がある。そう主張するのは、神の憐れみではなく、自分を誇ることです。神の恵みではなく、自分の信仰や行為に信頼を置いているのです。そんなあり方は御心ではない、とイエスはハッキリと仰るのです。

 厳しい言葉です。だからこそ、私たちの心にシッカリと神の御心を刻みましょう。神は私たちにもっと何か努力せよ、自分の期待に応えよと求めたり、出来ない私に呆れたり失望したりしておられるお方ではないのです。自分の願いが叶わないのは自分の信仰が足りないからだとか、人に対してもそのような基準で裁いたりするとしたら、それ自体が、天の父の御心を全く誤解したあり方です。それは、天の父との関係も不健全にしますし、人との関係も傷つけます。

 この「山上の説教」の最初にイエスは何と仰ったでしょうか。

五3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 これは神の深い憐れみです。自分の心に何もないと嘆く者に天の御国を与えてくださるのが神の御心です。同じ山上の説教の最後に出て来たあの人たちが主張したのは何でしょう。自分は預言や奇蹟をしてきたから神の国に入る権利がある-自分は貧しくない、という自己主張でした。そこには神の深い愛への感謝が欠けています。自分のプライド、人より勝っていたいという思いを神の御名によって貫いただけです。そんな生き方を神は求めておられないのです。

3.「天にいます私たちの父」の御心

 神は憐れみ深く、三位一体の中に永遠の愛を輝かせておられるお方です。その神の、見せかけでない、深い御心が聖書に明らかにされています。御心を明らかにするだけではありません。聖書は、神の御心が確かにこの世界になされている現実も明らかにしています。人の誤解や傲慢や悪意が勝ったように見えても、その全てを巻き込み、覆したり逆手に取ったりしながら、神の大きなご計画が果たされるのです。御心が行われていないから、

「御心が行われますように」

と祈るわけではありません。御心は確かになされる。その事を忘れがちな私たちのために、

「御心を為させ給え」

と祈るよう主は教えて、御心への信頼を取り戻させてくださるのです。

 しかし、御心への信頼だけではありません。マタイが教えるように、天にいます私たちの父の御心は、私たちもまた憐れみ深い父に倣って、憐れみ深い子どもとして成長することです。神の子どもは、天の父の心を知り、神と同じ心を持っていくのです。神は、私たちを我が子として憐れまれるだけでなく、私たちにも同じように、心から仕え、互いを受け入れ、赦し合い、慰め合い、生かし合うよう教え、育て、訓練なさるのです[6]。私たちは、ただ一方的に与えたり、優しくしたり、相手をかばい甘やかすのではありません。ともに我が儘や甘えを捨てて、神の子どもとして成長することを励まし合うのです。起きる出来事にどんな御心があるのかは分かりません。しかし、今は多くの事に御心が見えない中で、互いに思い合い、祈り合い、限界を受け入れ合って境界線を引き、みんなを巻き込んで、ともに進むことこそ、御心なのです。

 主イエスは、居心地のよい天にふんぞり返っているお方ではなく、私たちを神の子どもとするために、人間となるリスクを冒しました。それが天において行われた御心でした。御自身の命を十字架に捧げて、私たちの罪のための生贄となってくださいました。その一方的な憐れみへの感謝に溢れて、私たちは神を礼拝し、証しや奉仕を行います。それは神の憐れみを現すためですが、ひょっとするとそうしたそれ自体は善い業さえもプライドにすり替わりかねません。でも、そういう危うい私たちを、天の父は

地の塩」

とされてこの地に置き、天での御心を地になさるのです[7]。私たちが幸いや成功した時には神に感謝をし、失敗や恥をかいては謙ってまた神に感謝をし、禍や悪に対しては真剣に戦う。そういう生き方を、聖書を読みながら励まされ、砕かれ、何も誇れない自分を痛感して、ますます天の父の憐れみを仰がされます[8]。そういう私たちの歩みを通して、神が深い憐れみの御心を、尊いご計画をなして下さるのです。

「御心が、私たちの願いより遙かに尊いあなたの御心が行われますように。その確かな御心を知らせ、信頼させてください。御心は、私たちがあなたの子どもとなる、父としての御心です。どうぞその御心を私たちになし、それぞれの場で傲慢を砕かれ、あなたへの感謝と心からの信頼に歩ませてください。私たちの小さな業を祝福し、御名が崇められるよう用いてください」



[1] 諦めを込めてこう祈るのではない。私たち自身がそう願い、それを選び取っていけるようにと祈る。そうすることによって、私たちは自分の狭い殻を打ち破り、怒りや苛立ちではなく、天の父への広やかな希望、信頼、喜びに立つ。

[2] 私たち自身が積極的に神の御心にそった願いを持つようになることこそ、神の願いであることは、最も大切な戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ一二30)にも明らかです。自分の意志・心・感情を押し殺して、ではないのです。判断を放棄するのではなく、悩み、熟慮し、思いを新にしていくことです。参考、ローマ十二2。

[3] マタイでの「御心(セレーマ)」は他に、十二50「父のみこころを行う者はわたしの兄弟また姉妹なのです」、十八14「小さな者のひとりが滅びることは天の父のみこころではない」、二一31「父親の心にかなうことをしたのはどちらか」、二六42「わたしの願いではなくあなたのみこころがなりますように」で用いられています。

[4] この山上の説教で見えてくるのは、隠れた所を見ておられ、憐れみ深く、善い物を下さり、心の貧しい者を幸いに入れて下さる天の父。

[5] C・S・ルイスは、「人は、神に「あなたの御心がなりますように」という人間と、神から「おまえのしたいようにせよ」と言われる人間とのどちらかになる」。

[6]五45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。…48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」繰り返しますがこの「完全」とは、冷たい完璧主義のような完全さではなく、憐れみにおける完全さです。

[7] 「天になるごとく地にも」の「地」は、山上の説教では「地の塩」でも用いられます。私たちが地に置かれているのは、地の塩として、私たちを通して御心が行われるため。神に愛されている者、あわれみをいただいた者として生きることが、地に対する「塩」としての働きを示す憐れみの証しとなるのです。

[8] それは今まで見てきたように、自分の名前がどう口にされるかではなく、神の御名が崇められることを何よりの喜びとして満足し、自分の支配や力への憧れを捨てて、天の父が王であられる事実に服する。そういう御心です。主の祈りという実にチャレンジングな祈りを通して私たちが変えられ、新しくされることも、主の御心がどのようなものであるかを物語っています。

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