2017/5/7 ヨハネ黙示録11章15-18節「礼拝⑰ 私たちのではなく神の」
「主の祈り」の最後
「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」
は、マタイ六章の「主の祈り」本文にはなく欄外にあります。元々この結びの言葉は聖書にはなかったけれども、早い時期に教会でこの言葉を付加して言うようになった。主が直接教えてくださった本文の結びにふさわしい応答の言葉として、教会が早くから生み出し、ずっと大切にしてきた言葉です。
1.天の父のもの
私はこの言葉を口にする度に、改めていつも思わされるのは、ただ自分の願いを祈って終わるのではなく、もう一度ここで、神の偉大さに立ち返って終われることの大切さです。願いだけで終わるなら心許ないでしょう。願いや心配に思いが向いてしまうでしょう。そうではなく
「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」
と口にすることで、神に向かうことが出来ます。天の父は必ずその力をもって良い事を成し遂げてくださる、と信頼するのです。
同時に、私たちの中には、神を差し置いて、自分の力や自分の栄光を求めようとする強い傾向があります。主の祈りの最初でお話しして来た通り、
「私の名が崇められてほしい。私の国が来てほしい。私の願い通りになってほしい」
と思っているのです。主の祈りで教えられているのは、そのような私たちが
「自分の名前ではなく、天の父の御名があがめられますように。自分が王さまになるのではなく、天の父が治められる国が来ますように。自分の願いではなく、天の父の御心がなってほしいのです」
と祈ること、こう祈る事によって私たちの生き方や願いそのものが変えられて行くことです。そして、その最後にも
「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」
と祈って、私たちは自分の願いを聞いてもらうために祈るのではなく、神が王であり、神を神として崇めて、そこに私たちの目を向けさせてもらうのです。
特にここでは
「国と力と栄え」
と言われます。最初の「国」は第二祈願で
「御国が来ますように」
と言われていましたことの繰り返しでもあります。そこでもお話ししたように、イエスの福音は「神の国の福音」です。イエスは、神の国が近づいたことを語られ、ご自身が王として神の国を生き生きと示してくださいました。イエスこそは本当の王として、私たちを治めておられます。でも現実はどうでしょうか。日本という国、アメリカや北朝鮮、イスラム国など、強力な政府や為政者が権力を振るっています。お金や能力や人脈がある者が世界を支配していて、私たちもそのような国の一員に過ぎないようにどこかで思っています。そういう支配者たちにとって、教会が
「国と力と栄えとは限りなく天の父のもの」
と祈る事は面白くないに違いありません。もし本気で私たちがこのように祈っているのなら、政府は何とかしてそれを止めさせ、骨抜きにしようとするでしょう。ただ神を誉め称えて、神の摂理や赦しや恵みを歌う以上に、
「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」
と祈るのは、実に革命的な告白なのです。
2.ハレルヤコーラス
黙示録には人間の歴史が大きなドラマとして描かれています。教会は、迫害が厳しくなる時代にいました。まさにローマ帝国という国家が勢力をふるって、教会を潰そうとし始めた時代でした。黙示録は、苦しみや戦いが続くようでも、最後には神の勝利に導かれていく物語が繰り返して語られています。その一つのクライマックスとなるのが、今日の11章です。
十一15この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。
これはまさしく、主の祈りの結びと通じる告白です。ただ天の父が王であられる、というだけではありません。この世の国が、私たちの主、およびそのキリストのものとなるのです。この世の国々が、ローマ帝国も日本もアメリカも、全ての国々はキリストのものとなる。自分たちが王だ、世界の支配者だ、それを証明しようと戦争も辞さず、弱い者や他国を踏みつける権力者も、やがてキリストの前に平伏す。私たちを支配しているのは、キリストです。私たちの魂とか信仰とか教会だけでなく、全生活が神の支配の中にある。私たちの願い求める全ての事が一つ残らず、この神の手の中にある、と私たちは大胆に宣言するのです。勿論、だから「神頼み」で何もしないのではなく、神からお預かりしているからこそ、精一杯取り組むのです。
この黙示録11章15節の歌詞から造られたのが、あの有名な「ハレルヤコーラス」。楽しげに明るく、ハレルヤと喜び歌う、あまりに素晴らしくてあの曲の最後は立って拍手することが恒例になったあの曲です。主とキリストが世界の国をご自分のものとされる事は喜びです。
「国と力と栄え」
はこの世界に溢れる権力や暴力やプライドとは根本的に異なります。主イエスは愛し仕える王です。嵐を静める力がありながら、十字架にご自分を与え、弱さを通して恵みの力を現される方です。イエスの栄光は十字架でした。恥や苦しみをも全く厭わずに、十字架に死なれた、あの測り知れない栄光です。そのイエスがやがて、完全に世界の王となられる日が来ます。人間が王になろうと背伸びをして、争って、自分で自分の首を絞めているような時代は終わって、イエスが治めてくださる日が来ます。その日、私たちは心から、あのハレルヤコーラスを、いや、もっと素晴らしい歌を、喜びに溢れて歌い始めます。その日を私たちは信じて、今も既に全てを治めておられる王は、主であるという信仰を持って喜び生きるのです。
3.祈りの結び
新改訳では
「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」。
つまり、理由を言うのです。これは私たちの普段の祈りの最後でもふさわしい言葉かもしれません。「主の御名によって祈ります」ではなく「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」と結んでも良いのです。
祈りながら、本当に聴かれているか不安になる時があります。しかし、天の父が王であり、力と栄光を永遠にお持ちなのだから、必ず聴かれている。私たちの願い通りには叶わないかもしれません。国と力と栄えは私たちのものでなく天の父のものなのですから、下駄は神にお預けするのです。神を引きずり下ろして自分が王座に着こうとする思いを手放し、王なる神に背を向けずに、一生懸命願い、絶えず祈り、嘆き、諦めずに訴え、そして委ねるのです。何より御名があがめ、御国が来、私たちの日毎の糧と罪の赦しと悪からの救いを祈ります。それは天の父が永遠の王、力と栄光の方だから出て来る祈りです。そこに立ち戻って、閉じるのです。
マタイ六章でイエスが仰った注意事項は、神がどんなお方かを忘れた祈りをするな、ということでした。人に見せるために祈るとか、長々と祈り、まるで私たち人間の側の熱心さやしつこさで神を操作しなければならないかのような祈りをイエスはキッパリと警告されました。ここでも
「国と力と栄えとは限りなく汝のもの」
と言います。口先での賞賛でなく、本当にそうだと告白するのです。また
「私たちが神に栄光をお返しします」
でもなく、
「あなたのものになりますように」
でもなく、もう今現に、そして永遠にあなたのものです、と言うのです。時々、祈りながら、自分でもどう言えば良いか分からなくなることはありませんか。焦って何とか当たり障りのない言葉で形を整えたくなります。焦るその時こそ気づきましょう。自分の祈りの貧しさに関わらず、神は大いなる方です。神は力強く、恵みの栄光を永遠にお持ちです。そこに心を向け、形を整えるよりも、ゆっくりと結びの言葉を言えばいいのです。それほどの信頼こそ祈りの恵みです。そうして私たちは自分が王になろう、人や状況を支配しようとする誘惑から自由になります。世界戦争や様々な力が圧倒しようとも、その上におられる本当の王を仰ぎます。今も永久までも治めておられるイエス・キリストを告白して大胆に生きることが出来ます。私たちの言いっ放しで終わらない。祈りも礼拝も、その最後には、神ご自身を永遠の王と称えます。それは祈り終えて立ち上がる私たちの心に、喜びの明るい歌を響かせるほどのことです。最後にはこの賛美が響くゴールに向けて、私たちは祈りつつここで生きるのです。
「永遠の王なる天の父。大いなるあなたの深い御支配を感謝します。祈る事を通し、あなたを仰ぐ時間を通して、握りしめて強張った手も開かれるのです。祈りがなければ心は闇に流され、生き方はバラバラになります。戦いも誘惑も大きいからこそ、あなた様を仰がせ、祈りにより、神の国の民として育ててください。喜び歌いつつ、あなたの先触れをする民としてください」