2017/2/26 ハイデルベルグ信仰問答54「一つの教会」ヨハネ10章14-18節
「使徒信条」の最後の部分では、
「聖霊を信ず」
から始まっています。そして、それに続いて、
「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し…を信ず」
となります。聖霊のお働きは、まず教会についての信仰へと繋がるのです。聖霊のお働きは見えにくいように思えますが、実は、教会というリアルなものが、聖霊のお働きなのです。
問54 「聖なる公同の教会」についてあなたは何を信じていますか。
答 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ、そしてまた、わたしがその群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。
ここに
「ご自分の御霊と御言葉とにより」
とあります。聖霊が御言葉と共に働いて、集められたのが教会なのです。でも、ここで「聖なる公同の教会」について質問しながら、答では「教会」という言葉は一度も出て来ませんね。その代わりに何と言われているでしょうか。
そうです、
「一つの群れ」
ですね。教会とは、「一つの群れ」。神の御子が、全人類の中から御自身のために永遠の命へと選ばれた「一つの群れ」。
ヨハネ十16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
こうイエスが仰った言葉が、今日のハイデルベルグ信仰問答でも使われるのです。羊飼いがあちこちから羊を集め、導いて、「一つの群れ」として導いてゆかれる。集めるだけではなく、守り、保たれる、ともハイデルベルグ信仰問答では言われました。それが聖霊のお働きだというのです。それは壮大な群れですね。全世界から集められるのです。また、世の初めから終わりまで、ともありました。世の初め、アダムとエバから、聖書の時代、二千年に及ぶ教会の時代、そしてこれから先、いつまで続くか分かりませんが、世の終わりまで聖霊は、数え切れないほどの人を集めて、一つの群れとされる。それが教会だというのです。
「聖なる公同の教会」とありました。「公同」というのは「どこに行っても同じ一つの」教会だということです。先週、私たちは、オーストラリアの教会で礼拝をしてきました。■そこにはオーストラリア人だけでなく、イランやインドネシアから来た人たちもいました。また、アメリカの教会に行ったことのある方もここにはいます。日本でも、北海道から沖縄まで、六千程の教会があります。しかし、その教会が実は「一つの群れ」である。別々の教会ではなく、「聖なる公同の教会」の部分部分なのだ、と私たちは信じるのです。歴史の最初から最後まで、地球の種々様々な文化や地域の教会が、いいえ、既に死んだ人も考えると、生と死の境さえ越えて、すべて「どこに行っても同じ一つの教会」だ。そう信じる、というのです。
何とも大胆な発言です。実際にはどうなのでしょうか。中には教会同士でいがみ合っていたり、喧嘩別れをしたり、なかなか一つには慣れない現実があります。また「聖なる公同の教会」ともありますが、「聖」などとは到底呼べないような、問題を抱えている教会の現実もあります。それは今だけではありません。教会はいつも、色々な問題や罪を抱えています。人間の集まりですから、弱く、醜い出来事も起こしてしまうのです。教会の歴史の中で、時々、「自分たちだけが聖い教会だ。他の教会はみんな汚れている。自分たちだけが聖書にあるのと同じ、本当の聖なる教会だ」と言う人がいました。しかし、聖書の教会にも最初から問題がありました。特に有名なのは、ギリシャのコリント教会のていたらくです。コリントの教会には、分裂や性的腐敗や貧富の差別などの問題がありました。でも、そのコリント教会に対しても、使徒パウロは手紙の冒頭で、
Ⅰコリント一2…私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。
とコリントの人に「聖徒」「聖なるもの」と書き送っていますね。大変な問題があることも知った上で、パウロは「あなたがたは聖徒ですよ」と言います。その人たちが聖いから、立派だから「聖徒」なのではありません。ただ、主が聖なるお方だからです。また、彼らを集める聖霊が聖だから、教会は「聖なる公同の教会」なのです。他の人はダメで、自分たちは聖い、と胸を張るとしたら、キリストがかしらであることを否定することになります。キリストが折角集めて下さる教会を引き裂くことになります。キリストが導かれる「一つの群れ」には色々な羊がいます。汚い羊も、喧嘩ばかりしている羊もいます。しかし、羊飼いはキリストお一人です。そして、聖霊が一人一人を導き、守り、保ってくださるのです。だから、「一つの群れ」「聖なる公同の教会」なのです。
「聖なる公同の教会」。この言葉は、そういう途方もない大きさと歴史と、そしてキリストがかしらである、というスケールがあります。深い恵みがあります。でもこれに加えて、ハイデルベルグ信仰問答の後半にはこうありました。
…そしてまた、わたしがその群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける…。
そうです。私が、皆さんが、その群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける。そう信じる事が「聖なる公同の教会を信ず」という告白の意味なのです。神の御子キリストが私をもそのスケールのでかい「聖なる公同の教会」の一部分とされている。数え切れないほどの群れの中でも、私も生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける、そう信じるのです。数え切れないから、自分一人ぐらい居なくなっても気づかれなかったり、気にされなかったりしそうですか。いいえ。
モンゴルの羊飼いの話をしましょう。その地域には数は少し多くなると「たくさん」になって、言葉がないそうです。十も一万も「たくさん」です。でも、彼らは何百頭もの羊の群れを飼っています。一匹でもいないと気づくのだそうです。数は数えられないのですよ。でも、顔を覚えているのです。
キリストもそうです。もしその一つの群れにあなたがいないと「あれ、一匹少ない。誰だろう」ではなく、「○○ちゃんがいない」と気づかれて、探してくださり、必ず見つけて、一緒につれ行かないはずがありません。私もその群れの生きた一部分だと信じましょう。そして、お互いにそんなに大切な存在であるのですから、大切にしあいましょう。