聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問54「一つの教会」ヨハネ10章14-18節

2017-02-26 21:59:10 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/2/26 ハイデルベルグ信仰問答54「一つの教会」ヨハネ10章14-18節

 

 「使徒信条」の最後の部分では、

「聖霊を信ず」

から始まっています。そして、それに続いて、

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し…を信ず」

となります。聖霊のお働きは、まず教会についての信仰へと繋がるのです。聖霊のお働きは見えにくいように思えますが、実は、教会というリアルなものが、聖霊のお働きなのです。

問54 「聖なる公同の教会」についてあなたは何を信じていますか。

答 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ、そしてまた、わたしがその群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。

 ここに

「ご自分の御霊と御言葉とにより」

とあります。聖霊が御言葉と共に働いて、集められたのが教会なのです。でも、ここで「聖なる公同の教会」について質問しながら、答では「教会」という言葉は一度も出て来ませんね。その代わりに何と言われているでしょうか。

 そうです、

「一つの群れ」

ですね。教会とは、「一つの群れ」。神の御子が、全人類の中から御自身のために永遠の命へと選ばれた「一つの群れ」。

ヨハネ十16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

 こうイエスが仰った言葉が、今日のハイデルベルグ信仰問答でも使われるのです。羊飼いがあちこちから羊を集め、導いて、「一つの群れ」として導いてゆかれる。集めるだけではなく、守り、保たれる、ともハイデルベルグ信仰問答では言われました。それが聖霊のお働きだというのです。それは壮大な群れですね。全世界から集められるのです。また、世の初めから終わりまで、ともありました。世の初め、アダムとエバから、聖書の時代、二千年に及ぶ教会の時代、そしてこれから先、いつまで続くか分かりませんが、世の終わりまで聖霊は、数え切れないほどの人を集めて、一つの群れとされる。それが教会だというのです。

 「聖なる公同の教会」とありました。「公同」というのは「どこに行っても同じ一つの」教会だということです。先週、私たちは、オーストラリアの教会で礼拝をしてきました。■そこにはオーストラリア人だけでなく、イランやインドネシアから来た人たちもいました。また、アメリカの教会に行ったことのある方もここにはいます。日本でも、北海道から沖縄まで、六千程の教会があります。しかし、その教会が実は「一つの群れ」である。別々の教会ではなく、「聖なる公同の教会」の部分部分なのだ、と私たちは信じるのです。歴史の最初から最後まで、地球の種々様々な文化や地域の教会が、いいえ、既に死んだ人も考えると、生と死の境さえ越えて、すべて「どこに行っても同じ一つの教会」だ。そう信じる、というのです。

 何とも大胆な発言です。実際にはどうなのでしょうか。中には教会同士でいがみ合っていたり、喧嘩別れをしたり、なかなか一つには慣れない現実があります。また「聖なる公同の教会」ともありますが、「聖」などとは到底呼べないような、問題を抱えている教会の現実もあります。それは今だけではありません。教会はいつも、色々な問題や罪を抱えています。人間の集まりですから、弱く、醜い出来事も起こしてしまうのです。教会の歴史の中で、時々、「自分たちだけが聖い教会だ。他の教会はみんな汚れている。自分たちだけが聖書にあるのと同じ、本当の聖なる教会だ」と言う人がいました。しかし、聖書の教会にも最初から問題がありました。特に有名なのは、ギリシャのコリント教会のていたらくです。コリントの教会には、分裂や性的腐敗や貧富の差別などの問題がありました。でも、そのコリント教会に対しても、使徒パウロは手紙の冒頭で、

Ⅰコリント一2…私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

とコリントの人に「聖徒」「聖なるもの」と書き送っていますね。大変な問題があることも知った上で、パウロは「あなたがたは聖徒ですよ」と言います。その人たちが聖いから、立派だから「聖徒」なのではありません。ただ、主が聖なるお方だからです。また、彼らを集める聖霊が聖だから、教会は「聖なる公同の教会」なのです。他の人はダメで、自分たちは聖い、と胸を張るとしたら、キリストがかしらであることを否定することになります。キリストが折角集めて下さる教会を引き裂くことになります。キリストが導かれる「一つの群れ」には色々な羊がいます。汚い羊も、喧嘩ばかりしている羊もいます。しかし、羊飼いはキリストお一人です。そして、聖霊が一人一人を導き、守り、保ってくださるのです。だから、「一つの群れ」「聖なる公同の教会」なのです。

 「聖なる公同の教会」。この言葉は、そういう途方もない大きさと歴史と、そしてキリストがかしらである、というスケールがあります。深い恵みがあります。でもこれに加えて、ハイデルベルグ信仰問答の後半にはこうありました。

 …そしてまた、わたしがその群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける…。

 そうです。私が、皆さんが、その群れの生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける。そう信じる事が「聖なる公同の教会を信ず」という告白の意味なのです。神の御子キリストが私をもそのスケールのでかい「聖なる公同の教会」の一部分とされている。数え切れないほどの群れの中でも、私も生きた一部分であり、永遠にそうあり続ける、そう信じるのです。数え切れないから、自分一人ぐらい居なくなっても気づかれなかったり、気にされなかったりしそうですか。いいえ。

 モンゴルの羊飼いの話をしましょう。その地域には数は少し多くなると「たくさん」になって、言葉がないそうです。十も一万も「たくさん」です。でも、彼らは何百頭もの羊の群れを飼っています。一匹でもいないと気づくのだそうです。数は数えられないのですよ。でも、顔を覚えているのです

 キリストもそうです。もしその一つの群れにあなたがいないと「あれ、一匹少ない。誰だろう」ではなく、「○○ちゃんがいない」と気づかれて、探してくださり、必ず見つけて、一緒につれ行かないはずがありません。私もその群れの生きた一部分だと信じましょう。そして、お互いにそんなに大切な存在であるのですから、大切にしあいましょう。

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「ヤコブ書 筋の通った人」ヤコブ3章13-18節

2017-02-26 21:56:03 | 聖書

2017/3/5 「ヤコブ書 筋の通った人」ヤコブ3章13-18節

 今月、聖書66巻の中から取り上げるのは「ヤコブ書」です。祈りのカレンダーにも印刷しました「聖書同盟」の通読表では、3月7日からヤコブ書を読む順番になっています。五章しかない短い書簡ですから、改めて読んでくださればと思います。そして、そこに出て来る強い言葉を「律法的」「厳しい」とでなく、生きた恵みなのだと気づいて味わえたらと願います。

1.「藁の書」?

 宗教改革者のマルチン・ルターがヤコブ書を評して「藁の書」と言ったという有名なエピソードがあります。ルターは、中世のカトリック教会が、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要だ、と人間の行為(善行、献金、苦行、聖職叙階、殉教など)を必要としたのに対して、人が救われるのは行いによらず信仰のみだと大胆に主張した人です。それが、宗教改革という大きなうねりになっていったのです。しかし、ヤコブ書二章にはこんな言葉があります。

14…だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」[1]

 行いのない信仰では救われない、と言っていますね。でも、ルターの宗教改革では、救われるためにはキリストが十字架で御自身をささげてくださった事で十分であって、私たちはそれを信仰で受け取るだけで良い、宗教的な善い行いを付け加える必要はない、が論点でした[2]。ヤコブ書で言う場合の「行い」や「信仰」は少し意味が違います。ヤコブが言う「信仰」は「宗教的な行い」も含めています。割礼・献金・儀式・奉仕・伝道などを含めて「信仰」と言っているのです。そういう「信仰」がいくらあった所で、その人の生き方が信仰と結びついていないなら、そんな信仰は何の役にも立たない、というのです[3]

 確かにキリストは私たちのために十字架にかかり、よみがえられて、私たちの救いを果たされました。私たちはそれに儀式や善行を付け加える必要はありません。しかし「行いはどうでもよい」のではないのです。むしろ、恵みによって救って下さるイエスとの出会いは、私たちの考えや生き方の土台をも変えるはずです。自分が救われるために何かをする生き方から、イエスを信じる生き方、神を知ってしまった者として新しく生かすのが「信仰」なのです。

 週報にも書いたとおり、ヤコブ書にはイエスのご人格とか御業などは全く触れられません。けれども、イエスの説教は、このヤコブ書の中で繰り返されています[4]。そして生き生きと、具体的に、当時の人々に適用しているのです。イエスは、私たちが神の子どもとして生きるために来てくださいました。孤独に囚われ、罪に振り回された生き方から、恵みに捕らえられ、恵みに動かされる生き方へ-自己中心的な生き方から神を賛美し互いに仕え合う生き方へと私たちを解放してくださるため、命を捧げて下さったのです。そういう意味で、このヤコブ書は他にはないユニークな形で、イエスの教えをハッキリと示し、想起させてくれます。

2.信仰による歩み

 ヤコブ書は具体的なテーマを扱います。試練のこと、教会での貧富の差別、言葉の失敗、喧嘩や悪口という人間関係、商売人の思い上がり。病気の人のための祈り…そういう具体的な問題です。そこに透けて見える教会は、信仰に立っていると豪語しながら、実際の対人関係や生き方、価値観が、信仰と無関係で、ダブルスタンダードであった教会の姿です[5]

ヤコブ三13あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。

14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

15そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。

16ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

 天にいます神が下さる知恵は、柔和で良い生き方を生み出す。けれども、もしまだ心の中に苦い妬みや敵対心があるならば、それは天からではない、この世界の知恵(知恵ならざる知恵)に振り回されているに他ならない。秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがある、というのです。

17しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

18義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 私たちはこういう「知恵」を求めるべきだ、とヤコブ書は勧めます。一言で言えば、ヤコブ書は、筋の通ったキリスト者、信仰と一致した人となれ、と勧めるのです。でもそれは、「立派な生き方をせよ」ではありません。三章には

「舌で罪を犯さない人はいない」

という有名な説教がありますが、それは「言葉で罪を犯すな」ではなく

「舌で罪を犯さない人は一人もいない」

なのです[6]。舌で罪を犯すなという道徳ではなく、神に対する信仰と他人に対する毒舌や軽蔑を、自分の中の破れとして自覚するのです。憐れみを必要としている自分を知らされて、その私を憐れんで下さる神を求めるのです。

「純真、平和、寛容、温順、あわれみと良い実」

に満たされ、依怙贔屓や見せかけのない者へと変えられることを求めるのです。そしてイエスがそれを求められ、ヤコブ書がそれを改めて言うとおり、そういう生き方は可能なのです。

3.イエスの願う「救い」のゴール

 過ちのない生き方ではなく、過ちを持ち、矛盾を抱えた自分だからこそその自分を神に差し出し、知恵をいただく生き方をイエスは下さるのです。自分の心を欺かず[7]、二心でない生き方はあるのです。神の御子イエスは私たちを、どんな罪や問題や血筋や素性があろうとも関係なく、神の家族に迎えてくださいます[8]。しかしそれがゴールではありません。イエスが生涯で語られていたのは、神に愛された者として生きる生き方、思いそのものでした。神を忘れて、妬みや恐れやプライドに生きるあり方を深く憐れまれて、神の子どもとしての生き方を示してくださったのです。

 イエスは、私たちが憐れみに基づいて生きるべきだと宣言されます。ただ善行を命じたのではなく、私たちの具体的な生き方や言葉や考え方を、神の憐れみと支配によって潤したいのです。恵みの神を信じる者らしい、本当に自由で、伸びやかで、謙虚で陰日向ないものとしたいのです。罪の赦しや永遠の命や御自身への信仰とか伝道活動よりも、今私たちがここで、本当に神の子どもらしく人と接し、誠実に語ることをイエスは示されたのです。

 ここで念頭にあるのは、私たちの現実の人間関係です。貧乏人への軽蔑、互いの陰口、争い、約束破り…。それは世間では問題とも思えない日常茶飯事でした。イエスは、そういう妬みや敵対心、依怙贔屓や見せかけから救い出して、神の子どもらしく、上からの知恵を戴いて生きよと、新しい生き方を示されました。イエスを信じるとは、そのように生きることなのです。

 イエスの言葉を通して、私たちは、心にある欲望や渇きや甘えに気づかされます。神を賛美しながら、心には神に対する怒りや疑いがある。それがひょっと口から毒となって飛び出す。そんな感情や思いを天の父に差し出しましょう。主が私たちに示されるのは、神の憐れみを信じ、見せかけをやめて、恵みによって生きる者となる道です。そして、ヤコブ書はそういう恵みは私たちに手が届くものだとハッキリ教えています[9]。差別せず、口で呪わず、富や地位に思い上がらず、病人のために、間違った人のために祈り、迷った人を連れ戻す生き方は皆さんのそばにあるのです。完璧には無理です。私たちは弱く不完全です。だからこそ、イエスは私たちに天にいます私たちの父を信じさせてくださいました。神を信じる、分け隔てのない見せかけでない生き方を求めなさい。それが現実である事を覚えさせてくれるヤコブ書です。

「憐れみ深く大いなる、そして私たちの父なる神様。主イエスが私たちに求められた、神の前に生きる生き方を、本当に自由で、重荷を下ろして、傲慢を砕かれた心を、どうぞ私どもに強いてでもお与えください。普段の生活の隅々にも、心の妬みや疑いにも目を配って下さり、差別や争いを恥じ、私たち自身が癒やされ、ともに歩むにはどうしたら良いかを教えてください」



[1] 他にも、「17それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」「22あなたの観ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、…24人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」「26たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」

[2] パウロの書簡のあちこちに書かれている通りです。たとえば、エペソ書二章8節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によってすくわれたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」、また、ガラテヤ書二章16-21節、ローマ三章21-31節、など。

[3] これはルターとカトリック教会とが議論したことからすると、信仰義認には都合が悪い文章に思えます。ルターにとっては不利な言葉で、カトリック教会が喜ぶような言葉なのです。だから「藁の書」と言った。そのエピソードだけが一人歩きして強調されてしまって、「ヤコブ書は律法的だ、人間の行いばかり主張して、恵まれない」と思われているふしもあるようです。

[4] 山上の説教との類似:一2(マタイ五10-12)、一4(五48)、一5、五15(七7-12)、一9(五3)、一19-20(五22)、二13(五7、六14)、二14-16(七21-23)、三17-18(五9)、四4(六24)、四10(五3-4)、四11(七1-2)、五2-3(六19)、五10(五12)、五12(五33-37)

[5] ヤコブ書が書かれたのは、紀元五〇年のエルサレム会議の前とされています。エルサレム会議(使徒一五章)の決定が反映されていないからです。興味深いことに、エルサレム会議では、割礼や律法の遵守などの行いも必要とするユダヤ主義クリスチャンと、異邦人は割礼を受けなくても救われるとするパウロたちの理解を巡って、信仰義認が決定されるのですが、ユダヤ人宛に書いたヤコブ書が、「行いではなく信仰によって救われる」か「行いも必要か」という二分法ではなく、「行いが信仰と一致していない」というアプローチで、偽善を暴露しているのです。また、ヤコブ書の宛先が、迫害によって散らされたキリスト者ユダヤ人たちであったとすれば、迫害にも耐えて信仰に留まっていながら、貧富の差別や悪口など、人間関係レベルでは甚だ思い上がったものになっていた、という事情もうかがえてきます。

[6] ヤコブ書三1-12。

[7] ヤコブ書一26。

[8] でもイエスは、私たちが神の家族に入ればいいとは考えません。イエスが語られた「神の国の福音」は「ただ信じなさい。罪の赦しを戴きなさい」、せいぜい、「そういう有り難い救いの約束を伝道しなさい」ではありませんでした。

[9] ヤコブ書五12。

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問53「聖霊なる神の恵み」ヨハネ14章16-17節

2017-02-12 20:33:48 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/2/12 ハイデルベルグ信仰問答53「聖霊なる神の恵み」ヨハネ14章16-17節

 キリスト者が信じる神とはどんな神か、と言われたら、どう答えるでしょうか。キリスト教の神は三位一体の神と言う呼び方も有名です。父、子、聖霊の三つの神が一体である。これは人の理解を超越した神秘です。もう一つには「愛の神」という言い方です。キリスト教は愛を大事にし、神が私たちを愛しておられると信じます。「愛の神」を信じるのです。でもこれを言い換えて「友情の神」と言う言い方に、私はとても惹かれます。キリスト教が言う神は友情の神です。「三位一体」というと難しく聞こえます。「愛の神」というのも分かったようで分からない。しかし、父、子、聖霊の三者が互いに厚い友情で結ばれている神。それさえ、完全には理解できない神秘ですけれど、私たちが神を考える上で、とても良いイメージがここにあります。そして、今日の問53では、その神の友情の一角におられる、聖霊なる神のことを問います。

問53 「聖霊」についてあなたは何を信じていますか。

答 第一に、この方は御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰を通してキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、わたしと共に永遠にいてくださる、ということです。

 使徒信条をずっと辿ってきて、今日は「我は聖霊を信ず」に入ります。そこで、その

「我は聖霊を信ず」

とは、どういう事ですか、と問うのがこの問53です。この最初で、聖霊が御父と御子と同様に永遠の神であられる、とあります。私たちが聖霊を、神なるお方、三位一体の「友情」の神。御父と御子とともに、永遠に友情を持っておられる神として信じるのです。そして、その方もまた、私たちの神であられます。御父や御子だけでなく、聖霊も私たちに深く関わっておられます。

「まことの信仰を通してキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、わたしと共に永遠にいてくださる」

お方です。そう信じるのだ、というのです。言い換えれば、聖霊が私たちに働いて下さったからこそ、私たちは信仰を持ち、キリストの恵みに与り、慰めや祝福をいただくのです。聖霊がおられなければ、信仰も救いもない、ということです。

 私自身、この事では随分誤解をしていました。イエスが救いの御業をしてくださるとしても、それを信じるかどうかは私だと思っていました。また聖霊が与えられるというのは特別な奇跡的な体験をして、恍惚状態になったり、不思議な霊的境地に到達したりするようなことが伴うのだ、といわれる事もありました。「第二の恵み」という言い方もあって、「信じるだけでは足りないのだ。聖霊に満たされる体験が必要なのだ。聖霊を受けたら、癒やしや異言や奇跡的な事を行う賜物が持てるのだ」と説く、聖霊派と自称する教派もあるのです。そこで私は「自分はまだ聖霊を受けていないのだ。神様、どうか私にも聖霊を満たしてください」と祈っていた時期が長くありました。でもそれは「恵み」ではなく、疑問になりました。祈っても祈ってもそんな体験は出来ないし、では自分はダメなのか、と悩んだのです。こういう事を断言する教派は、実は宗教改革の時代にもいたのです。今日のハイデルベルグ信仰問答ではどうでしょうか。

 ここでは

「この方は私に与えられた方であり」

と信じるのだと言いますね。聖霊について、三位一体の神であるだけでなく、この聖霊が「私に与えられた方だ」と信じるのです。これは私にとって、とても驚きでした。そして、慰めでした。私はまだ聖霊を受けていない、ではないのです。聖霊は私に与えられた方だ。そう信じることこそ、キリスト者の信仰なのです。

ヨハネ十四16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 これはイエスが「もう一人の助け主」即ち聖霊をお与えになると約束された言葉です。イエスは父に願って、父は聖霊を送ってくださるのです。聖霊なる神は、私たちの所に来られて、信仰を与え、救いに与らせ、慰め、ともにいてくださいます。もう聖霊は私たちに与えられているのです。「聖霊派」を自称する教派もありますが、実は私たち長老教会や改革派教会の土台を造ったジャン・カルヴァンは救いも悔い改めも信仰も全て聖霊のお働きなしにはないのだ、と聖霊を強調したのです。カルヴァンは「聖霊の神学者」とも呼ばれるぐらいなのです。私たちもまた、聖霊派なのです。ただ、特別な体験や恍惚状態や癒やしや異言など、目を見張るような現象と聖霊を結びつけるのではなく、私たちの信仰の始まりや聖書を通しての慰めや励まし、私たちの全てが聖霊のお働きと切り離せないのだ、と考える違いは大きいのです。■

ガラテヤ五22…御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

23柔和、自制です。…

 御霊(聖霊を「御霊」と呼ぶこともあります)の実は愛、喜び、寛容、自制…。「人よりも強く、特別になりたい。自分は聖霊を受けたけれど、あの人は聖霊を受けていないからまだまだだ」そういう思いこそは、御霊の実りがない状態です。私たちが求めるのは、聖霊によって特別すごい人になることではありません。むしろ、聖霊によって私たちの人格がキリストに近づけられ、心が変えられて行くことであるのです。そして、聖霊はそのように私たちの中に働いて下さいます。それが神のお働きだと教会でさえ気づかずに、聖霊のことがよく分からなくて、誤解したり、注意しすぎたりすることもある中で、聖霊は目立とうとせず、黙々と私たちを慰め、励まし、イエスへと向かわせてくださいます。そのような神の控えめなご性質を、聖霊はよく現しています。

 さて次回から

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのち…」

と続きます。実はこれこそ聖霊のお働きです。教会を建て上げ、罪の赦しを下さるのは聖霊のお働きです。御子イエスの贖いは聖霊が具体的にこうして届けてくださいます。この聖霊を私たちは信じます。まだ与えられていないお方ではなく、既に聖霊は与えられていて、私たちにキリストの救いを届け、今も働かせ、やがて完成させてくださる。今も私たちと共におられて、様々な出来事においても私たちを慰め励まし、キリストの恵みに与らせ、愛や喜び、寛容をもたせてくださる、と信じます。

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「礼拝⑫ 神を王として迎える」マタイ6章31-34節

2017-02-12 20:26:45 | シリーズ礼拝

2017/2/12 「礼拝⑫ 神を王として迎える」マタイ6章31-34節

 主イエスが教えて下さった「主の祈り」は、私たちに祈りについてだけでなく、信仰や神、また自分自身についても多くのことを気づかせる、革命的な祈りです。今日は

「御国が来ますように」

という祈りに目を向けましょう。

「御国が来ますように」。

 この祈りを口にする時に、皆さんはどんなことを考えているでしょうか。「御国」をどんな国と考えているでしょうか。

1.神の支配がここに

 前回もお話ししたように「御国」の「御」とは「あなた様の」という丁寧な言い方を現しています。つまり「天にいます私たちの父よ。あなたの国が来ますように」という意味です。その「国」というと、いわゆる「天国」を考えている事が多いのではないでしょうか。キリスト教信仰には、やがてこの世界にキリストがもう一度おいでになり、全世界を新しくされて、悲しみも不正もない、永遠の御国が始まる、という教理もあります。その国を考えるならば「御国が来ますように」との願いには、この世界の苦しみや争いや悪がもう嫌だから、早くイエス様がおいでくださって、世界を新しくしてください、という意味で祈ることにもなるでしょう。

 確かに聖書には、そのような神の国への待望も満ちています。

「主よ、来てください」

は、聖書の一番最後を飾る部分での言葉です[1]。けれども「国」には場所だけでなく、支配という意味があります。私たちが待ち望むのは天のフワフワとした幸せな場所ではなく、神が王として完全に支配しておられる国です。王様には適当に治めておいてもらって、好き勝手なことをして暮らせる国、ではなく、神の御支配そのものが「御国」なのです。

 「御国が来ますように」

と祈る時、私たちは

「天にいます私たちの父」

を王として崇めるのです。私たちは自分の思い通りにしたい気持ちがあります。「我が世の春」という言う通り、自分の願いや幸せを第一に求めます。神に祈る事さえも、祈りによって神を呼び出し、願望を叶えるためになりやすいのです。勿論、「世界を征服したい、宇宙の支配者になりたい」と大それたことを思う人は殆どいないでしょう。ただ自分の家族、自分の職場、自分の妄想や趣味や人生を、神にも手出しをさせず、自分の天国にしていたい。自分が王として振る舞える場所を持っていたい。そういう願望なのでしょう。しかし

「御国が来ますように」

と祈る時、私たちは自分が王になることを止めるのです。自分が思い通りに支配しようとすることを止めます、と宣言して、神が王である国が来ますように、と祈るのです。神に白旗を揚げて、降参をして、神の御支配に明け渡すのです。それが「御国が来ますように」という言葉の最も基本的な意味です。「私の国・私の支配ではなく、あなたの国・天の父の御支配が来ますように」。そう祈って、私たちは自分が王であることを止めます。また、誰か人間を王にして、その言うなりに生きることも止めるのです。神の国の市民として、御言葉に従った自由な歩みをするのです[2]

2.「神の国の福音」

 イエスはマタイの六章で「主の祈り」を教えられましたが、「御国」は主の祈りの中だけでなく、その前後の五章から七章の「山上の説教」を貫く大事なテーマなのです[3]。特に有名なのが今日読んで戴いた六章33節の言葉でしょう。

マタイ六33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 言わばこれもまた「御国が来ますように」の言い換えです。御国が来ますようにと祈るのは、神の国とその義とを第一に求めることです[4]。「神の国」は山上の説教全体で繰り返される事ですし、イエスの教え全体、マタイの福音書を通しての中心的なテーマなのです。イエスは

「ユダヤ人の王としてお生まれに」

なり[5]

「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」

と宣言して宣教を始められました[6]。17回も「神の国の例え」が語られています[7]。イエス御自身が「御国」の王であり、私たちを御国へと招き入れてくださる王なのです。

 ただし、イエスが神の国とその義を第一に求めなさいと仰った根拠には、天の父が食べる物や飲む物や着る物など、私たちに必要なことをすべてご存じであるという「天の父」としての恵みの備えがありました。天の父は、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、とも言われていました。神が私たちの天の父として、私たちを養ってくださっています。私たちの出来不出来や、問題や強情ぶりにも関わらず、私たちを憐れみ、正しく私たちを扱い、私たちを御自身の子としてくださっているのです。この方は限りなく正しく、恵み深い王です。

 その神の正しく、公平な支配に私たちは服従して、

「御国が来ますように」

と祈ります。神は暴君のようなお方ではありません。神の支配は、恐怖や狂信的なことではありませんし、また強制されることでもありません。何よりもそれは、イエス御自身に現れています。王でありながら、貧しくなり、罪人を受け入れ、御自身を十字架の死にまで差し出された。あのイエスの王としての御支配は、人知を越えて正しく恵みであるに違いありません。神の御支配はもどかしく、業を煮やす思いをします。もっと手っ取り早く自分の願いを強引に推し進めてしまいたくなります。そのような逸る思いをも手放して、

「御国が来ますように」

と祈るのです。

3.「国と力と栄えとは汝のもの」

 ですから

「御国が来ますように」

という祈りもまた、私たちにとって大変挑戦的な祈りです。まず私たちの中には、自分の支配したい思いを明け渡して、天の父に王になっては戴きたくない自我があります。そういう私たちに対して、イエスは「自分が王になれますように」(またその様々な変形の祈り)ではなく、天にいます私たちの父に「あなたの御国が来ますように。あなたを王としてお迎えいたします」と祈るよう教えられました。また、実際、神の支配に抵抗して、自分たちの国を建て上げている、世界の現実があります。そして、そちらのほうが強そうに見えますし、手っ取り早く思えます。神の正義や憐れみなど綺麗事で、経済や軍事力や圧倒的な国家の力を前に、なお「神の国」が来ますようにと祈りなさいと言われました。しかも、そう祈ったからと言って、直ぐに神がおいでになって、悪や不正を一掃したり、世界をバラ色の国に変えてくださるわけではありません。いや、むしろ、イエスが示されたのは、そのような政治的な現実さえも一新してしまう将来を見据えながら、まず、神の国を私たち自身が迎える、という道です[8]。不正や暴力を嘆いたり憤ったりするに先立って、まず自分が、神を王として、私が神の国に従うことを求められました。そしてそれは、天の父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深くなり、真実に生きることです。具体的には次の祈り、

「御心が行われますように」

で見ていきます。それにしても、神の国、神の御心は、私たち人間が思い描くよりも、遙かに深く、豊かで、意外すぎて愚かしく見えるほどの不思議な統治です[9]

 主の祈りの最後は何と結ぶでしょうか。

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」

と言います。御国が来ますように、と祈るのは国(支配)があなたのものだからです。私のものではないし、強者や大国のものでもなく、天の父のもの。それも永久にあなたのもの。今はまだそうではない現実があるからこそ、

「御国が来ますように」

と祈り続けるのです。神の完全な御支配や、やがての御国の到来を信じつつ、今この現実で、色々な力関係が絡み合う中で、本当に忍耐が必要です。並々ならぬ知恵もいります。毎日聖書を読み祈ることが必要です。でも、そのような必要も主は知ってくださっている、と言われていました。だから私たちに、

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」

と言われ、

「御国が来ますように」

「国と力と栄えはとこしえにあなたのもの」

と言う祈りを授けてくださったのです。主が私たちを治めてくださるように、また私たちを通して、主の良き御支配を現してくださるように、祈りましょう。

「御国が来ますように。あなただけが私たちの王であり世界の王です。それを忘れて空回りし、思い煩い、怒り嘆き、決めつけてしまう私たちを、この祈りによって引き戻してくださる憐れみに感謝します。主の良き御支配が、全宇宙から国々の政治まで、また悪や暴力の横行から、この私自身の心の隅々までも新しくする。その約束を信じて、御国を待ち望ませてください」



[1] ヨハネの黙示録二二20-21「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン」が聖書の結びの言葉です。

[2] ウェストミンスター小教理問答「問102 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。」

[3] 他に、五3、10、19-20、七21。

[4] 「神の御国が来るようにと祈ることは、私たちに代わって神が支配されることを受け入れることです。」フーストン、『神との友情』、195頁。

[5] 二章でイエスがお生まれになった時、東方の博士たちはイエスを「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と誰何しました。マタイ二2。

[6] マタイ四17。

[7] 神の国は辛子種のようなもの、パン種のようなもの、自分の持ち物を預けて旅に出掛けた主人のようなもの。その驚くべき例えをよく聞こう。

[8] W・H・ウィリモン、S・ハワーワス『主の祈り 今を生きるあなたに』(平野克己訳、日本キリスト教団出版局、2003年)「私たちの目指すところは、霊的な熱い空気を吹き込んで、あなたが地の上にふわりと浮くことができるようにすることではありません。私たちが目指すところは、政治やパンのように物質的な事柄が、そのままあなたにとって霊的な事柄になることを願いつつ、祈ることを学んでいくことです。主イエスは、私たちにご自分について考えさせたり、ご自分について深く感じさせたりするために来られたのではありません。主イエスが私たちを弟子に召されたとき、肉体から遊離した個々の魂を捜し求めませんでした。主イエスは来て、ご自分の国に加えるために、私たちを招いてくださったのです。主イエスが人びとの病を癒やし、悪霊を追い出すのを見るとき、「神の国があなたがたのところに来た」ことを、私たちは知ることになるのです。」(98-99頁)

[9] やがての完成を信じる。小さな始まりでも、それは確かに実を結び、やがて全地を覆う日が来る。傲慢なもの、自分を正しいと思う者、他者を裁く者は恥じ入る国が来る。貧しい者、悲しむ者、罪人、異邦人、マナーに欠き、恵みがなければ到底希望がないような人が手放しで迎え入れられる国が来る。そう信じるのです。

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問52「誤審からの解放」テトス二11-14

2017-02-05 17:32:28 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/2/5 ハイデルベルグ信仰問答52「誤審からの解放」テトス二11-14

 今日は、「使徒信条」の「主イエス・キリスト」についての最後の部分を読みます。今までは、キリストが地上でなさったこと、また、現在、天の神の右の座でしておられる御支配についてでしたが、最後に扱うのはやがてキリストがおいでになることです■。使徒信条ではこう言います。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。やがて、キリストは、かしこ(全能の父なる神の右)からこの世界にもう一度来られて、生ける者と死ねる者とを裁かれる。その約束が、新約聖書では三〇〇回も繰り返されているそうです。その一つが、先ほどのテトス書の言葉です。■

テトス二11というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、

12私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、

13祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。

14キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 ここにある、「キリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望む」というのが、キリストのおいでになる時の事です。もう一度キリストが栄光を持っておいでになる。これを

 「再臨」

と言います。そして、再臨されたキリストが世界を裁かれて、世界を新しくされて、永遠の御国をお始めになる。これはキリスト教教理の基本の一つです。ここから、「最後の審判」といった題材が、西洋の絵画や映画などに出て来るのです。それはとても恐ろしく、暴力的なイメージがあります。ハイデルベルグ信仰問答はどうでしょう。

問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げて、かつてわたしのために神のさばきに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにそのさばき主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、選ばれたすべての者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと伴ってくださるのです。

 驚くべき事です。ここでは

「審かれるための再臨」

「慰める」

というのです。「最後の審判」には「世界の終末」「滅亡」という怖いニュアンスがたっぷり塗りたくられています。確かに「裁き」「審判」と聞いて良い気はしません。神の裁きの前に立つ。逃げることも誤魔化すことも出来ず、私たちの人生の行動や言葉、心までが、すべて神の絶対的な正義の基準に照らして裁かれる。それは、恐ろしいこと、本当に恐れ多いことです。でもハイデルベルグ信仰問答は、それは「私たちを慰めるのだ」と言います。なぜなら、その裁きをなさるイエスは、私たちを愛されるイエスだからです。私たちを裁くためではなく、私たちを救うためにこの世に来られて、自らを神の裁きに差し出して、十字架にかかられた方だからです。そればかりではありません。それもまた、父なる神のご計画でした。神は聖なるお方ですが、その神の裁きそのものが、私たちの間違いを許さず、罪を滅ぼさずにはおかない、というものではありませんでした。神は、罪を見逃しはなさいませんが、その罪人を罰して滅ぼすのではなく、御自身が罪の罰を身に引き受けてまで痛みを負われ、そうして人を罪から悔い改めさせ、神を信頼するよう導いてくださる。そういう正義のお方なのです。神の義は、慰めに満ちた義です。

 私たちはそういう「義」を考えません。「義理と人情」「正義か愛か」というように、どちらか一方で考えます。神を考えるにも、私たちを愛するお方だと考えつつ、でも最後にはその愛も限界が来て、恐ろしく裁いて、罪を厳しく罰して、私のことも「永遠の刑罰」に投げ込まれるのではないか、と思い込んでしまうのです。私たちの「裁き」は偏って、歪んだものになっています。善意や正義感で、真面目に考えて判断したことでも、後から考えるとマズかったり、人を傷つけたり、間違ってしまうことが多いのではないでしょうか。また、力が強い人や声の大きい人が勝って、悪いことが放っておかれていますし、おかしな出来事がたくさんあります。そういう意味では、この世界には、「誤審」が沢山あります。間違った判断で、悲しんでいる人、苦しんでいる人が沢山いることも知っています。けれども、そういう「誤審」が、キリストがおいでになる時に、すべて終わるのです。キリストの裁きによって、間違いや胡麻菓子はすべて明るみに出されます。すべての不正は糺されるのです。もう悪い者はのさばれないのです。

 しかし、その神の裁きは悪を容赦しないという以上のものです。そうでなければ、私たち自身も裁かれて、罰せられることを恐れなければなりません。イエス・キリストは、私たちのために御自身を捧げてくださいました。そのお方が来て下さるのです。そして、私たちは裁き主として来られたイエスが「わたしを、選ばれたすべての者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと伴ってくださる」という約束を戴いています。それは私たちが正しいからでしょうか。裁かれても大丈夫な人生を送ってきたから、叩かれても埃が出ないから、でしょうか。いいえ、私たちが多くの間違いをし、罪の心を抱えているからこそ、イエスはかつて私たちの救いのために来て下さったのです。私たちを神に立ち戻らせるため、十字架において、神の義と愛とをハッキリと示してくださったのです。そして、私たちに、イエスを信じるなら、決して滅びることはないと約束して下さったのです。であれば、イエスがやがて来られて、すべてのものを裁かれるということさえ、私たちにとっては恐怖ではなく、慰めなのです。

 再びキリストが来られて全ての者を裁かれ、恵みの御国をお始めになる。そう信じる事は、私たちの人生を方向付けます。この世界の歴史のゴールが完全に正しく、素晴らしいどんでん返しで、人知をはるかに越えた大団円のエンディングなら、今の生活への取り組みも変わらずにおれません。希望、慰め、生き甲斐を私たちは持ちます。まさに「あらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げて…待ち望む」生き方をイエスは下さいます。

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