2016/04/17 ハイデルベルク信仰問答7「罪の始まり」ローマ5章12~14節
前回、神は人をよいものとしてお造りになったことをお話ししました。人もこの世界も、神はよいものとしてお造りになった。それは聖書が教えている、とても大きな原則の一つです。しかし、そうすると、どうして世界には、とても「よい」とは思えない事があるのか、人間も自分自身も、良くない状態にあるのか、という疑問が起きます。問3では「悲惨と罪」という言い方をしていました。問5では「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」という言い方をしました。そんな私たちの中にある、惨めな自分中心の思いは、どうしてそうなったのか。それが問7です。
問7 それでは、人のこのような堕落した性質は何に由来するのですか。
答 わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆罪のうちにはらまれて、生まれてくるのです。
アダムとエバの、楽園における堕落と不従順。聖書の最初の創世記第三章に出て来る出来事です。楽園で、神とともに、大地を耕し、管理しながら、罪のない状態に置かれていたアダムとエバが、堕落の道を選んで、神に不従順な行動を取りました。それが、人の本性が毒されて、生まれながらに罪のうちに孕まれる原因となったのだ、というのですね。パウロは、今読んだように、ローマ書でこう言っていました。
ローマ五12そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、…
ここで、ハッキリと「一人の人によって罪が世界に入り」と言っていますね。その一人の人とはアダムです。でも、その後にパウロはこう言っています。
…-それというのも全人類が罪を犯したからです。
全人類が罪を犯した? どうでしょうか。「いいえ、私たちはまだその時に生まれもしていませんでしたよ。神との約束を破ったのは、アダムです。私たちは、アダムとエバの反逆のせいで、こんな悲惨を被っているのですよ。私たちのせいではなくて、アダムのせいです。私たちは被害者です」。そんなふうに言いたくならないでしょうか。けれども、ここで言いたいのは、アダムのせいだ、私たちのせいではない、ということではありません。神のせいで世界がおかしくなっているのではなくて、私たち人間の側に、堕落した性質の由来があるのだ、ということなのですね。その事を覚えるためにも、もう一度、あの「アダムとエバの楽園における堕落と不従順」を思い出してみましょう。
神は世界をよいものとして創造されました。エデンという素晴らしい農園を作られて、そこを管理する責任を人間にお与えになりました。その中で、園の中央にあるたった一本の木を「善悪の知識の木」と呼ばれて、それを食べない、という命令を与えられました。この善悪の知識の木やその実そのものに、特別な力があったかどうかは問題ではありません。大事なのは、その木の実を食べないことを、神は人間にお命じになって、その約束を守ることをお求めになった、ということです。
難しい事ではありませんね。園には、あらゆる種類の木の実があったのですから、たった一本を食べない約束なんて、難しい事ではないはずです。しかし、そこにサタンがやってきて、エバに囁きます。
蛇(サタン)「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか?」
エバ「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
蛇(サタン)「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるようになるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そう言われると、エバは、食べてはいけないと言われた木をじっと見てしまい、美味しそう、好ましいそうに思えてしまって、木の実を取って食べてしまいます。そして、夫アダムにも与えて、アダムもそれを食べてしまうのです。しかし、彼らは目が開けて神のようになるどころか、自分たちが裸である事を知って、恥ずかしくなりいちじくの葉で自分たちの腰巻きを造ります。それでも、主がそこに来られた時、彼らは隠れてしまいます。神は
「あなたはどこにいるのか」
と聞かれますが、彼らは正直に誤ることが出来ず、妻のせいにしたり、蛇のせいにしたりします。
そして園を追放されるのです。この一枚の絵に描かれた話は、アダムとエバの話です。でもそこにあるのは、私たち自身の姿でもありませんか。十分に豊かに与えられた中、たった一つの禁止が気になる。うまい口車に乗せられて約束を破る。止めとけば良いのに、見る必要のないものをじっと見ている内に欲しくなる。自分の後ろめたさから逃れたくて、人を巻き込んでしまうとか、誤れば良いのに、人のせいにしたり言い訳をしたりする。それはアダムだけでない、この私の人生でもあると思うのです。
私たちが自分の間違いに気づいた時にすべきことは、アダムのせいや誰かのせいにして、「私じゃないよ」と責任逃れをすることではありません。自分が全部悪いのではないにしても、それでも自分が間違ったりズルをしたりやってしまったことは「私です。ゴメンナサイ。赦してください。どうぞ、もう二度としないように助けてください」と言うことですね。惨めな状態にいる人間が、なぜ惨めになったのかの犯人捜しをしている限り、決してそこからは出て来られません。そこから出たいと願うこと、助けを求めること、伸ばされた手を握りしめて、よろしくお願いしますと自分を預けるのは、他の誰にも出来ないのです。そうやって助けを求めるとき、イエス・キリストは測り知れない恵みによって、必ず惨めな状態から救って、私たちの心をも変えてくださるのです。
人が愛から離れた悲惨な状態になったのは、神に原因があるのではなく、人間に原因がありました。しかし、神はその人間のために、神のほうから、しかも神の子なるイエス・キリスト御自身の犠牲によって、救いをもたらしてくださいました。なんと有り難いことでしょう。そのイエスに、自分をお任せするのは、誰でもない、私たち自身です。