聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/10/27 Ⅱコリント13章13節「1×1×1の神」ニュー・シティ・カテキズム3

2019-10-27 22:13:26 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 Ⅱコリント13章13節「1×1×1の神」ニュー・シティ・カテキズム3
 前回は、神とは人間が考えるよりも遥かに偉大で、正しく、素晴らしく、私たちに近いお方だと確認しました。驚くべきお方、世界よりも遥かに大きく、誰よりも私たちに近い、不思議なお方。その神の不思議さが、最もよく表れすのが「三位一体」という言葉です。マンガやテレビや経済でも良く聞く言葉ですが、これは教会の言葉なのです。
第3問 その神にはいくつの位格がありますか? 答 唯一、まことの、生きておられる神には、三つの位格があります:父、子、聖霊です。

 神は唯一であり、同時に神には三つの位格がある。これを三位一体と言います。聖書には三位一体という言葉は出て来ません。聖書には「神が唯一である、他にはいない」と繰り返されています。同時に、父なる神が神であると同時に、子なるイエス・キリストも神だとされています。また、聖霊も神とされています。また、父と子とはお話しをしあう関係で、別々の存在です。子と聖霊も、使わす関係で、別々の存在です。父と聖霊も違います。父と子と聖霊の三つの方が、互いに違うのに、それぞれが神であり、また、神が三ついるのでもない。私たちの頭では到底理解できません。そこで、その事を精一杯言い表したのが、「三位一体」という表現なのです。

 先週もお話ししたように、神は宇宙を超えたお方です。宇宙が全部、神経回路であったとしても、神を理解し尽くすことは出来ません。まして、私たちの脳みそは、鶏や虫の脳と変わらず、三位一体を理解することは出来なくて当然です。神は唯一で、父と子と聖霊の三つのお方がそれぞれに神であり、お互いに同じではないけれど、ひとつの神である。それをそのままに受け入れていくだけです。
 時々、三位一体の説明に「水」を持ち出す人がいます。水は水蒸気になったり、氷になったりします。でも、三位一体は、父が子になったり聖霊に変わったりするのではありません。父と子と聖霊は区別されるのです。そして、その別々の三つのお方が、完全なチームワークで、この世界を治めているのです。その事を知るのは、私たちにとって力強い励ましです。


 父なる神は世界の創造者であり、計画者です。父が世界の創造を計画され、人間の救いを計画してくださいました。そして、子なる神キリストは、その父の計画に従ってくださいました。この世界を造り、この世界に来て人となり、救いのご計画を実行してくださいました。そして、子が実行した御業を、聖霊がこの世界に届けてくださっています。世界に働き、私たちに信仰を届け、私たちを新しくして、完成に至らせてくださるのは、聖霊のお働きです。父が計画し、子が実行し、聖霊が適用してくださる。この完全なチームワークによって、世界は今日も守られており、やがて確実に完成します。
Ⅱコリント13:13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
 これは、毎週の礼拝の最後に言う「祝福」の言葉です。この手紙を書いた使徒パウロも、コリントの教会への祝福を告げています。それは、主イエス・キリストの表してくださった恵み、その背後にある父なる神の大きな愛、そしてそれを私たちに豊かに届けてくださる聖霊の交わり(関わり)。どの一つを欠いても、神の祝福はとても薄っぺらいものになります。イエス・キリストの恵み、その背後にある神の大きな愛、それを私たちに届けて、神ご自身との交わりに入れて下さる聖霊。ここにも、三位一体の立体的なチームワークが窺えます。
 今日の説教題は「1×1×1の神」です。三位一体を、1+1+1と理解すると3にしかならず、1じゃないじゃないか、となります。でも、1×1×1なら3です。こういう式は、立体を表す時に使いますね。高さと長さと深さ、この三つの要素を表すのに、かけ算を使います。三位一体も、父と子と聖霊と三つのお方が、それぞれに役割を果たして、一つの神として働いておられると考えたら、より豊かになるでしょう。それは、神のお働きを、文字通り「立体的」なものだと思い描かせてくれます。三位一体の神が、それぞれに役割分担をして、私たちを生かしてくださっている。それは私たちにとって、理解しきれないけれども素晴らしい恵みであり、確信であり、希望です。私たちが神をも、この世界をも、豊かに見る助けになります。神が唯一である、というだけでは浮かんでこない、豊かな理解になります。神と私、という一対一の関係と言うよりも、三位一体の神の、立体的な交わりの中に、私たちは入れられています。

 神ご自身が、永遠に三位一体の神であり、交わりを持っていました。この言葉から
「神は愛である」
という聖書の大事な言葉もはっきり分かります。神が三位一体の交わりがあったからこそ、そこには永遠に愛し合う関係がありました。愛する相手が欲しくて世界を造ったのではありません。そんな不完全な神は神ではありません。父と子と聖霊とには、世界の始まる前から交わりがあったのです。永遠の昔から、神は交わりを持つお方、即ち、愛であったのです。そして、その愛の交わりの中に、私たちが創造され、私たちの救いが行われ、この交わりの中へと救われていくのです。そしてそのために、父が計画を立て、子がご自分を献げて完成し、聖霊がその救いを私たちにシッカリと届けて下さるのです。この立体的な救いを、三位一体は思い起こさせてくれます。


 私たちは、神が三位一体のお方であることを信じます。イエス・キリストが、完全な人であると同時に、完全な神、永遠の神であることも信じます。また、この世界が偶然や神の気まぐれで造られた世界ではなく、永遠の愛の交わりを持つお方によって造られたことをも信じます。この世界は、愛の神が造られました。それも、父と子と聖霊とが、「共同作業」で、チームワークで、何か笑ったり歌ったりしながら造り上げられていった世界。三つが力を合わせるなんて、マンガも真似たくなるドラマがこの世界の土台なのです。唯一の神として天の高い所で動かない神でなく、世界の一つ一つを造り、今も支えている神。その神が私たち一人一人を生かし、支えています。神の惜しみないチームワークで私たちを救い、とともにいてくださいます。本当に測り知れないことです。たとえ神が三位一体でなくても、私たちの理解を超えています。三位一体はそれ以上の神秘ですが、しかし、私たちの心に豊かな信頼と喜びとを与えてくれる教理です。

「父、子、聖霊よ、あなたは私たちの理解を遥かに超えています。私たちをあなたの愛のうちに入れて下さり、感謝します。愛は、世界が造られる前から、三つの完全な位格のうちにあった愛です。アーメン」
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2019/10/27 マタイ伝3章13~17節「今はそうさせてほしい」

2019-10-27 21:05:07 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 マタイ伝3章13~17節「今はそうさせてほしい」
 キリスト者としての公式なスタートは、洗礼(バプテスマ)という主の御名によって水を受ける儀式です。見えないスタートはイエス・キリストと出会い、イエスを人生の主として受け入れた時から始まっていますが、そのイエスご自身が洗礼を命じたのです。このマタイ福音書の最後二八章の結びでこう仰ったのです。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」[1]。
 この言葉があるから教会は洗礼(バプテスマ)を大事にします。そして今日の箇所、マタイの3章ではイエスご自身が洗礼を受けています。イエスの働きは洗礼から始まりました。3章の前半で洗礼者ヨハネが大勢の人に洗礼を授けていましたが[2]、それに混じってイエスが洗礼を受けたのです。そしてこの後、洗礼については28章までひと言も出て来ず、最後の最後にイエスは弟子たちに
「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」
と言われます[3]。言わば洗礼とは、イエスがお受けになった洗礼を私たちも受ける、という出来事なのです。私たちは洗礼によってイエスに結ばれた(結ばれる)のです。
ローマ6:3…キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 イエス・キリストが受けた洗礼を、私たちも受けることによって、私たちはキリストに結ばれるのです。ではイエスはこの洗礼を何のために受けたのでしょうか。まずヨハネが
「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」
と萎縮したように、イエスは洗礼を受ける必要はありませんでした[4]。洗礼は人間にとっては、今まで神に背を向けてきた生き方から、主をお迎えする準備をする生き方に方向転換をするという決断を表します。神に背を向けてきた罪を告白して、またそれぞれに覚えのある罪を告白してお詫びすることも伴います。そういう意味ではイエスには洗礼は必要ありません。イエスには罪がありませんし、罪を洗われたというシンボルの水の洗礼も必要ありません。イエスは、自分の罪をきよめられるために、ではなく私たちを義とするために洗礼を受けました。
3:15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」…
 「正しい事」は以前1章19節で
「正しい人」
とあった所でもお話しした、マタイの福音書が丁寧に問う大切な言葉です[5]。人間の「義」は正しさを求めますが、正しくないことを裁いて責め、罪人を断罪します。しかし、イエスが語る
「神の義」
は、正しくない人にも光を与え、雨を注いで、新しい生き方を与える「義」です。断罪して切り捨てる正義ではなく、赦しと回復を与える「神の義」です。この「神の義」をルターが発見したのが「宗教改革」です。洗礼自体が神の赦しと回復の保証です。神の義は、人間の基準ではふるい落とされるような人にも、希望と新しい生き方を与えます。イエスは、その洗礼の持っている「神の正しさ」を、ご自身の洗礼によって実現しました。だから私たちは、洗礼を通して、イエスご自身が洗礼を受けたように、この洗礼を通して私も神の赦しと新しいいのちを戴ける。私を裁く義ではなく、私を罪から救ってくださる神の義を頂ける、と信じることが出来るのです。
 イエスにとって罪ある人間の列に混じるのは屈辱的なことです。プライドが高ければ許せないことです。しかしイエスは
「今はそうさせてほしい」
と言います。今日の説教題です。これは「そのままにする」「放っておく」「させておく」「手放す」「開放する」と訳される言葉です。イエスが十字架で死ぬ際
「大声で叫んで霊を渡された」
とあるのもこの言葉です[6]。最も有名なのは「(罪を)赦す」です。「赦す」とは、罪を罪として手放すこと、握りしめたり、その人と紐付けたりせず、「それはそれ。あなたはあなた」と放っておく。手放す、なのです。日本語の「赦す」も「緩める」から来ているそうです[7]。聖書の「赦し」も似ています。握りしめていた手を開く、自分の持っていたものを明け渡す、どうにかしてやろう、どうにかしなきゃ気が済まないと思うことを止める。
 「赦さないことは、人間にとっては、重すぎる重荷だ」
と言う言葉があります。赦すとは、憎しみという重すぎる重荷を手放すことです。勿論、罪の赦しの具体的な方法は丁寧に扱われるデリケートな問題です。ともかくこの言葉は、罪の赦しだけでなく、「させておく」など別の意味で沢山使われる、イエスがよく使われる、解き放つ、自由にする、という在り方。しかも、マタイでのイエスの最初のセリフがこれです。罪の赦しを命じる以前に、「わたしを放っておいてくれ。わたしのしたいようにさせてほしい」。そうして、人に説教をするより、人に先立って洗礼を受けた。それが正しい事だから仕方なく、実は嫌々、ではなく、イエスは自分から「洗礼を受けたい」と願った。イエスの自由な選択・願望です。喜んで、ワクワクして「洗礼を受けたい」、罪人の列に並んで「本当に神があなたがたを招いていると知って欲しい」、そういう神の正しさを実現したい。「罪の赦し」という、高尚で難解な道徳を命じたのではなく、私たちを自由にしたかった。緩めたかった。そして、イエスご自身が最初に「今はそうさせてほしい。今はわたしを放っておいてほしい。わたしを自由にさせてくれ」と仰って、その自由の中で、洗礼を受けたのです。イエスは、本当に自由なお方で、私たちをも自由にしてくださる。自分の罪からも人の罪に対する憎しみや恨みからも、人間的な「正しさ」からも開放してくださるのです。そのために、罪人の列に立ち、十字架への道を歩み出すことも構わないお方でした。
3:16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
 この言葉は先に読んだ詩篇2篇とイザヤ書42章の言葉を思い出させます[8]。旧約聖書から待ち望まれていたお方が遂においでになった。イエスのそれは力強く光り輝く姿であるより、罪人の列に混じって洗礼を受ける姿。そのイエスに、聖霊は火よりも鳩として現れ、神は
「これこそわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
と愛の宣言を仰います[9]。ヘンリ・ナウエンは
「イエスの公生涯の核となる瞬間」
がこの言葉を聞いた瞬間だと言います[10]。神は御子イエスが罪人の列に並び、神の義に与らせる、屈辱の道を歩むに当たって、愛の言葉、無条件の承認の言葉を天から聞かせてくださった。洗礼の時のこの宣言が、イエスの生涯を貫くのです。
 この後イエスは4章で、厳しい試みを受けます。その先もイエスの働きは反対を受け、憎まれ、絶えず試みられます。本当に
「あなたが神の子なら」
証明して見よ、本当に神があなたを愛しているならどうしてこんな苦しみが、と挑発が続きます。最後の十字架でも、
「もしおまえが神の子なら自分を救え」「神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」
と嘲笑されるのです[11]。それでもイエスは最後まで私たちの側に立ちました。中傷や誹謗や疑いの声があっても、天からの
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
という声は真実でした。それゆえ十字架の死後、百人隊長がイエスを指して、
「この方は本当に神の子だった」
と言わずにおれませんでした。神の愛の言葉が勝ったのです。
 洗礼は、このイエスに結ばれる洗礼です。それは試みがない保証ではありません。むしろ、「神が愛なら、どうしてこんなことが起きるのか」と試される出来事もあるのです。しかし、どんなことが起きようとも、イエスはともにいてくださる。イエスが私とともにいてくださる。その声に聴きながら、自由にされていきたい。罪や憎しみや、「どうして?」と思いたくなるような出来事も、手放して、そのままに置いておいて、私たちは自分として自由に生きるのです。洗礼で私たちも、イエスと共に「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言う声を聞きました。これが神の義の声です。この言葉を聞き、語り合い、自由にされたいのです。

「私たちを愛したもう主よ。あなたの愛は無条件に無制限に、私たちに届けられています。イエスの洗礼に与らせて、私たちに確証されたこの恵みを感謝します。疑いや恐れや焦りの声も絶えず聞こえますが、主よ、どうか私たちが恵みの言葉を聞き、希望の言葉を語っていけますように。あなたの正しさがどれほど慰めに満ちた力強いものかを追い求めさせてください。」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] 3章の前半では、この時代、紀元1世紀のユダヤで洗礼者ヨハネが、救い主を迎えるために準備をするよう呼ばわったことが書かれていました。大勢の人々がヨルダン川にやってきて、自分の罪を告白し、ヨハネから洗礼を授かりました。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] バプテスマのヨハネは、イエスがメシアだと知っていたとは書いていません。イエスとの問答で、自分にはこの人物に洗礼を授けてもらう必要がある、と言わずにおれなかった、という可能性もあります。ヨハネの福音書1章ではこのように書かれています。29~34節「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。31私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」32そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』34私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] マタイには「罪を赦す」という言葉が18回も使われますが、それ以外の訳語のほうが圧倒的です。動詞アフィエーミが40回、名詞形のアフェシスが1回。この多さは、福音書の中でも群を抜いています。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 詩篇2:7「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ。…」、イザヤ書42章1~4節 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。2彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。4衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] 「私が固く信じていることは、イエスの公生涯の核となる瞬間は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という承認の声を聞いた、ヨルダン川で洗礼を受けた瞬間です。それこそが、イエスの核となる経験でした。自分が何者であるかを深く、深く心に刻み、それを自覚したのです。荒野での誘惑は、この霊的なアイデンティティからイエスを遠ざけようとする誘惑でした。自分はそんな者ではないと信じさせようとした誘惑でした。すなわち、「あなたは石をパンに変えることができ、神殿から飛び降りることができ、民衆をひざまずかせる力がある人です」と。しかし、イエスは言われました。「いいえ、そうではありません、違います。わたしは神に愛されている者です」。 私が思うのは、イエスの全生涯は、すべての出来事のただ中で、このアイデンティティを絶えず主張し続けた歩みだったということです。賞賛されたり、軽蔑されたり、拒否されたりした中で、こう言い続けたのです。「人々はわたしを見捨てるでしょう。しかし、わたしの父は見捨てません。わたしは神に愛されている息子です。そこに、わたしは希望を見出します」。」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』(小渕春男訳、あめんどう、2008年)、35ページ。

[11] マタイ27:37~44「彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。38そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。39通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。40「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。42「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」44イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

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ニュー・シティ・カテキズム2 詩篇86篇8-10、15節「不思議である神」

2019-10-20 21:06:07 | ニュー・シティ・カテキズム

2019/10/20 詩篇86篇8-10、15節「不思議である神」ニュー・シティ・カテキズム

 先週から新しく「ニュー・シティ・カテキズム」を見ています。最初は

「私たちのただ一つの希望は何ですか?」

と問い、それは

「それは私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであることです」

と答えるものでした。私たちが持っているどんな希望もどんな楽しみも、いつかは必ず失われます。私たち自身のことも忘れて分からなくなることもあります。それでも、私たちが自分のものでさえなく、神のものである。それは私たちのただ一つの慰めです。では、その神とはどんな方ですか? 私たちの持ち主である神はどんなお方なのでしょう。それが第2問です。

第2問 神とはどんな方ですか? 

答 神は全ての人とすべてのものの創造主であり、維持者です。神はその力と完全さ、善と栄光、知恵、義、そして真理において、永遠であり、無限であり、かわることがありません。いかなることも神を通して、そして神の御心によってでしか起こりえません。

 神はすべての人も、すべてのものも、神が造り、支えています。これだけでも、本当に大きなことです。私は、神が造った私なのだ、ということだけでも私の理解を超えています。私だけではなく、すべての人を神が造られた。そして、人間だけでなく、すべてのもの…すべての動物も植物も、地球も宇宙も、神がお造りになった。これは、私たちの理解を超えています。そして、神がそのすべてのものを支えておられます。それは、私たちの想像を絶することです。この世界のことを知り、人間の体や心のことを知って驚いたり、生き物の不思議を知って驚いたりするたびに、私たちは、測り知れない神の業の断面を見ているのです。算数や数学、科学を学び、息を吸い込み、美味しいものを食べ、美しいものを見るたびに、私たちは神の作品に触れているのです。

 そして、聖書の言葉と、この世界を通して見える神の御性質は、神の力、完全さ、善(善さ)、栄光、知恵、義(正しさ)、そして真理のお方。そのすべてにおいて、永遠で無限で変わることがありません。最初もなく、終わりもないし、限りもないし、変化したり廃れたりすることもない。これは、私たち人間には全く理解できない事実です。

 人間が考える「神」はたくさんいます。精一杯、スゴい神、強い神、何でも出来る神を考えます。でも、その神は、人間と似ています。神の上に更に神がいたり、出来ないことがあったり、怒ったり困ったり分からないことがあったり、喧嘩したりします。今日のカテキズムで言われていた、「神はその力と完全さ、善と栄光、知恵、義、そして真理において、永遠であり、無限であり、かわることがありません」という神ではありませんね。せいぜい、物凄い力を持っているくらいで、完全でも、善でも、足りないし、永遠や無限や変わらないとは程遠い神です。そんな人間が考える神とは、聖書のいう、生ける本当の神は違います。そして、この神だけが本当の神で、本当におられる神です。

 ダチョウは、目玉より脳みそが小さいそうです。「そんなに小さいの?」と笑ってしまいますね。バッタや昆虫は、人間の万分の一の小さな脳を持っていますが、結構、優秀な「昆虫脳」を持っています。勿論、人間はダチョウや昆虫より遥かに大きく優れた脳を持っています。でも、永遠で無限の神を理解するには、到底足りません。私たちの脳みそは、神を治めるにはダチョウやバッタと大差ないのです。ですから、このカテキズムでも「永遠、無限」といった時点で、神を説明したり定義したりは出来ないと行っています。私たちが神を限られた絵や形にすることは出来ません。聖書は神を一つの形に描いて分かりやすく引き下ろして拝むことを禁じています。神は、マンガや人が使う「神」よりも遥かに大きく、全く異なる偉大な方であることを、心に刻みたいのです。

詩篇八六8主よ 神々のうちであなたに並ぶ者はなく あなたのみわざに比べられるものはありません。

主よ あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て 伏し拝み あなたの御名をあがめます。

10まことに あなたは大いなる方 奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です。

 しかし神が、余りに大きくて、私たちとは関係のないお方、とても遠くて、手の届かない方だとは思わないでください。この神が、私たちを造り、愛して、私たちとともにいてくださるのです。神は私たちに深く関わるお方としても、比べるもののない方です。

15しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。

 この世界を造られ、私たちに心を下さった神は、心をお持ちの神です。私たちの心の奥深くを知り、私たちを心にかけ、私たちを求めたもうお方です。実に、神は人間から遠いどころか、人間通しよりも近く、私たちに誰よりも近くいてくださいます。ここに、

いかなることも神を通して、そして神の御心によってでしか起こりえません。

と言われていた言葉は、私たちが自分の周りに起きることを、測り知れない神のご計画によることだと受け止める弁えになります。私たちの生き方、毎日の出来事一つ一つを神の手の中に見ていくのです。この詩篇86篇も、苦しみの中で神に助けを祈り求める叫びです。すべてが神の御心だと諦めたり、投げ出したりするのではなく、神の憐れみを信じるからこそ、神が憐れんで下さることを求めて、今ある目の前の苦しみのために祈るのです。自分のために、神が動いてくださって、私を助けて下さいと、そう祈っても良いのだと、それぐらい神は憐れみ深いお方なのだと信じているのです。

 聖書には神に対するイメージが様々に出て来ます。王、光、父、岩、羊飼い。他にも農夫、母、裁判官、救い主、沢山のイメージがあります。それは、私たちが思い込んでいる、小さな、偏った神様イメージを壊してくれます。神がもっと偉大で、もっと素晴らしく、もっと私に近い、不思議な方であると思い出させてくれます。この世界の創造者であり維持者である神が、私たちを今日もこれからも生かし、愛しているのです。神を小さく、詰まらなく考えるのは勿体ないことです。この神だけを礼拝しましょう。

「創造主であり維持者である神様。すべてはあなたによって保たれています。最も小さなものもあなたに知られており、最強の力もあなたの指揮下にあります。あなたは義をもって治めておられます。あなたが望まれていることの中にあなたの最善を信じる事が出来るよう、私たちを助けてください」

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マタイ伝3章1~12節「きよくなれるのです」

2019-10-13 15:18:28 | マタイの福音書講解

2019/10/13 マタイ伝3章1~12節「きよくなれるのです」

 キリストの誕生にまつわる出来事が一章二章と続き、いよいよイエスご自身の登場に先立つ出来事が今日の「バプテスマのヨハネ」の働きです。マタイだけではなく四つの福音書全てが、洗礼者ヨハネの登場を導入にイエスの生涯に入っていきます。ヨハネを通して、イエスとはどんなお方か、私たちがイエスに対してどんな迎え方をすれば良いのか、が教えられるのです[1]

3:1そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。[2]

 イエスは4章17節で宣教を開始する際、これと全く同じ言葉を語ります。イエスの働きとヨハネは一致していました。ヨハネはイエスがおいでになる露払いだったのです。そこで、

この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。

と言います。この言葉は、今日交読したイザヤ書40章の言葉です[3]。紀元前8世紀のイザヤの時代、社会が荒んで、希望もなく、神への期待も失っていた時代に、もっと希望もないような荒野から、

「慰めよ、慰めよ」

という声が呼ばわる。罪の罰は終わり、主が来られる。人間が造り上げた貧富の差、身分の差は埋められ、人間の誇る富や栄華、一切の虚栄は消え失せて、神の国が始まる。そのように告げる声が荒野から聞こえてくる、と語っていたのです。

 このイザヤの

「主の通られる道をまっすぐにせよ」

と叫ぶ声がヨハネで、それを言い換えたのが

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

です。「天の御国」とは「天を御座とする大いなる神が治める王国」です。死後に行く「天国」とは違います。神が治める国がこの地に近く来た。だから、あなたがたは神を王として迎える準備をしなさい。神の道を備えなさい。自分たちが王や神のように振るまい、人を踏みつけたり豊かさや安逸を貪ったりしている「わが世の春」はもう終わり、主を王として迎えなさい、それが「悔い改め」という準備です。

 「悔い改め」とは「考えを変える」というのが第一の意味で、「生き方の方向転換」「回心」とも訳せます[4]。旧約聖書では「帰る」「戻る」という言葉です。神に帰る、神を神とする生き方に立ち戻る、神の御支配を忘れた考えを一新する。それが「悔い改め」です[5]。またこれは一度の悔い改めでなく、継続して「悔い改め続けよ」という生き方です。神を神とし続ける、神を忘れて傲慢や絶望を行き来する考えを、恵みの神へと向き直り続ける、生涯続く作業です[6]。でも中心なのはその私たちの「悔い改め」ではありません。大事なのは、「天の御国が近づいた」ことです。イザヤが告げたように「主の通られる道」を備えるのが「悔い改め」です。道を完璧にすることが目的ではなく、主が来られることが肝心なのです。道に欠けがあったら主が来ないとかお怒りになるとか、そんなことはありません。主はおいでになる。だから私たちは、その主を王として、考えを神の国の生き方に方向転換し続けて行くのです。

 そう思うと、4節のヨハネの出で立ちの異様さも、それ自体がメッセージなのでしょう。

…らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 ヨハネは、王服や華やかな着物をまとう人ではありませんでした[7]。人の関心は、食べ物や着る物に向きがちです[8]。そんな人たちにヨハネはかつての預言者エリヤのように毛衣を着て荒野に現れて、強烈な一石を投じました[9]。勿論、毛衣を着て蜜や蝗を食べるかどうか、ではありません。こんな姿は新約には他に出て来ませんから。同じように、このヨハネの元には、

そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 確かに、神に立ち帰ることには「罪を告白」する要素が伴います。悔い改めには当然、罪を捨てることが出て来ます。罪とは、真の神ならぬものを神のように中心にすることですから。でも悔い改めの中心は、罪の告白ではなく、神を神とすることです。聖書には「ごめんなさい」という言葉は出て来ません。しでかした行為を詫びることは勿論大事です。でも悔い改めとは、罪を悔い改める以上に神へと悔い改めること。自分を責めるより、「帰って来なさい」と言って下さる神に帰ること。それも一度ではなく、生涯継続してなのです。洗礼は立ち戻り続ける生涯へのスタートです[10]。洗礼の水を浴びればもう悔い改めなくて良いわけではないし、悔い改めの印に何度も洗礼を受けもしません。洗礼は一度だけ。その一度の洗礼から始まるのが、いつも神に立ち帰り続け、神の言葉によって思いを変えられ続け、方向転換した生き方を軌道修正し続ける生涯が始まったのです。私たちは安心して罪を告白し、神に立ち戻れるのです。

 ですから自分を明け渡すこともないまま、自分の非も認めないままやって来た、当時の宗教的なエリート、パリサイ人やサドカイ人に、ヨハネは厳しく言います[11]。彼らの考えは、「迫り来る怒りを逃れる」だけのことでした。神に立ち帰る気持ちはなかったのです。

それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…

 悔い改めの実は、心の中で

「自分たちの父はアブラハムだ」

と思っていては結ばれません。「自分は特別だ。自分は他の人とは違う。自分はましなほうだ。自分は変わる必要が無い」と思っているなら、心を変えるという「悔い改め」とは相容れません。神が生き方を変えてくださろうとしていて、その招きを本当に有り難いと集まって自分の罪を告白している庶民、罪人、厄介者を軽蔑したり見下したりする。主が招く人を断罪して、懲罰やレッテル貼りをしようとする思い上がりを捨てることこそ、

「悔い改めにふさわしい実」

です[12]。これは、この後のマタイの記述で、イエスとパリサイ人の対立で繰り返されていく、大事な問いかけになります。

 ヨハネは自分よりも、後に来るイエスを大いなるお方として紹介します。

「履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」

とありますが[13]、自分には資格があると思っているパリサイ人やサドカイ人に対して、ヨハネはその方に対して自分に何か資格があるとは思っていないと言うのです。資格などない人間なのです。その人の所に、主が来て下さる。そして、聖霊と火によって人もこの世界も隅々まで「掃き清め」ます[14]。主は私たちをきよめてくださる。神の国にふさわしい実、神の憐れみ深い招きを映し出すような生き方は、小さな一粒も、水一杯でも、忘れたような小さな親切さえ、残さず集めて下さる[15]。その実を育てるための「殻」に過ぎなかったもの、社会の地位とか立場とか業績とか実績とか、何を着たとか何を食べたとか、そんな殻は焼き尽くされ、神に立ち帰った本物の実だけが残される[16]。それは慰めであり希望です。でも上辺の殻を握りしめ、自分に資格があると思い上がり、自分が王でいたい思いにとっては、自分のプライドが呆気なく燃え尽きる事実は「とんでもない」と抵抗してしまうことでもあります[17]。私にもそんな抵抗があります。だから毎日、主に立ち帰り続けるのです。有り難い事に、主は私たちを迎え、隅々まで掃き清めてくださるのです[18]。これからのマタイの記事を読みながらも、抵抗を覚えつつ、その主を心に迎え入れ「掃き清めて」いただくのです。

 その主が来られるのだから、その用意をせよ、といわれています。それは、自分できよくなることでも、「自分は他の人より立派です」と資格を翳すことでもありません。ただ、神に立ち戻ること、神を神として受け入れ、恵みを戴き、自分の生き方を神の恵みに照らして変え続けていただくことです。そこには赦しがあり、慰めがあります。罪を悔い自分を責めなければだめだ、という意味ではなく、私たちを生かし、憐れみ、回復して下さる神に立ち返り、心や考えも御言葉によって原点に返る、という悔い改めが何度でも出来ます。安心して罪を告白することが出来ます。こう語ったヨハネが指し示したキリストが来られました。そのイエスがもっとハッキリと、私たちに神の国を示し、私たちに新しい生き方を教えて下さっています。

「主の御支配がここに始まって、私たちにも用意を呼びかけてくださり感謝します。洗礼を通して示された新しい生き方、あなたに何度でも立ち帰り続ける幸い、そしてともにその赦しと回復に与り、あなたを証ししていける幸いを感謝します。プライドや殻に縋る愚かさを吹き飛ばし、主の恵みをともに喜び、祝い、主よ、いつでも来て下さい、と待ち望ませてください」



[1] 杉並教会の阿部大牧師の説教も参考にしました。

[2] 「そのころ」は、1節、5節、13節とありますが、1節の「そのころ」は「これらの日々に」という言葉です。24章22節、29節、38節で使われる用語です。3章5節、13節の「そのころ」は英語のthenに当たるトテという一語です。2章7節「そこで」、16節「そして」、17節「そのとき」などと訳され、マタイで90回使われる接続詞です。

[3] イザヤ書40章「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──2エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と。」3荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。4すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。5このようにして主の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに主の御口が語られる。」6「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。7主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。8草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」9シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」10見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

[4] 『広辞苑』では「悔い改め」の意味を「悪事や過失を悔いて善に向かう」としていますが、聖書は日本語の「悔い改め」に新しい意味を与えています。

[5] 聖書の「悔い改め」は、「考えを変える」「生き方の方向転換をする」。神に帰ってくること。マタイでは動詞で四回(4:17、11:20、21、12:41)、名詞形で2回(3:8、11)。「ゴメンナサイ」と言うことではない。神も「謝れ」とは言わない。「帰って来なさい」なのだ。

[6] マルチン・ルターの『九十五か条の提題』の第一は、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ4.17〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」でした。引用元、ルターの「九十五か条の論題」(抄)

[7] 後の11章でもイエスはヨハネの事を「柔らかい衣を着た人」ではない事を思い出させています。マタイ11章7~9節「この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。8そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。9そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。」

[8] マタイ6章25~34節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

[9] Ⅱ列王記1章8節「彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」

[10] 洗礼は、ヨハネが始めたものではなく、既にユダヤ教において実践されていました。ただし、ユダヤ人になるために、異邦人が一度受けるものであって、ユダヤ人が受けるものではなかった。

[11] 「まむしの子孫」12:34、23:33でも。7節の「バプテスマを受けに来る」は、原文では「バプテスマに来る」です。必ずしも「受ける」ためではなく、その場に「来」ただけ、野次馬根性だったのかもしれません。

[12] 「実」は、マタイで14回。7:16~20、12:33、13:8、26、21:19、34、41、43。いずれも、行動としての実、というよりも、当然の結果としての実です。実は無理に力んで結ぶことは出来ません。

[13] 奴隷でさえ、履き物を脱がせるような屈辱的な仕事はしなくていい、と言われていたのに、ヨハネは「私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」と言いました。

[14] ヨハネの洗礼と、イエスの命じた洗礼は同じではありません。しかし、ここで言われている「聖霊と火とのバプテスマ」と、イエスに命じられて教会で行われている「水のバプテスマ」とも違います。教会は、聖霊の働きを信じつつ、礼典として、洗礼を授けます。イエスの「聖霊と火とのバプテスマ」によってきよめられることを待ち望みつつ、今ここで洗礼や聖餐を行います。それと、イエスの洗礼や聖餐は、重なりはしても、イコールではありません。

[15] 神の国が示す「実」は、個人的な善行ではありません。それは、罪人への招き、告白と赦し、絶望の中での希望、恵みによるコミュニティ形成、あわれみのわざです。最後の日に刈り取られる「実」の実例としては、マタイの10:42「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」や、25章の「羊と山羊の譬え」(25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。35あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』37すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』)に表れています。

[16] イザヤ40:6-7で「「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。7主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。8草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」といわれていた「主の息吹」とは「霊」とも訳せます。主の聖なる霊が吹くと、人の栄えはみな野の花のように枯れ、神の言葉が永遠に立ち、神の喜びに満ちた国が終わることはない、と言われていたイザヤの言葉が、洗礼者ヨハネによって言い直されているのです。

[17] そして、そのような神の国のメッセージに、パリサイ人たちは最後まで抵抗して、結局、イエスを十字架に殺す結末につながっていくのです。しかし、それは神の国の終わりではありませんでした。イエスは、その死からよみがえらされました。神の国は、人の抵抗や誇りや悪足掻きよりも強いのです。これが、今後のマタイの展開でも見えてくるアプローチ。そして、最終的にパリサイ人は、イエスの最後の日々に、既に亡くなっていた洗礼者ヨハネの権威を問われて、否定するのです。(マタイ21:25)

[18] 「きよめる」(カサリゾー)は、8:2(すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。)、8:3(イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。)、10:8(病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。)、11:5(目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。)、23:25(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。)、23:26(目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。)の6回使われています。3章12節の「掃き清める」(ディアカサリゾー)はそれを徹底的にする、強調形で、新約聖書でここにしか使われていません。

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ニュー・シティ・カテキズム 問1 ローマ書14章7~10節「新シリーズ、スタート!」

2019-10-13 15:01:58 | ニュー・シティ・カテキズム

2019/10/13 ローマ書14章7~10節「新シリーズ、スタート!」ニュー・シティ・カテキズム1

 今日から新しいシリーズ「ニュー・シティ・カテキズム」新しい都市の教理問答、を見ていきます。これは、私たち長老教会の伝統で育まれてきた教理問答を、今の大都市の人にも分かるようかみ砕いたもので、一昨年出版されました。全部で52問を一年掛けて、学びながら、教会の信仰を確認しましょう。最初は

「神、創造そして堕落、律法」

という部分です。教会のお話しだから、神の話から学ぶのはアタリマエのようにも思います。しかし、その第一問は、こういう意外な始まり方をするのです。

第一問 生きるにも死ぬにも、私たちのただひとつの希望は何ですか?

答 それは私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであることです。

 ただ一つの希望。これは「慰め」とも「喜び」「幸せ」「拠り所」「生き甲斐」、色々な言い方が出来ます。皆さんもそれぞれに、自分の喜び、希望、幸せって何、と聞かれたら、どう応えるでしょうか。家族、仕事、野球や音楽、健康や食べ物、子どもの成長、趣味や旅行など、色々な答があるかもしれません。中には、パッと答えられない人もいるかもしれません。その中には、自分が大事にしていたことが出来なくなってしまった。年を取ったり、生活が変わったり、もう飽きてしまったり、以前は毎日の張り合いにしていたことが、もう味気なくなってしまった、ということもあるのです。

 ですから、ここではそうした喜びや楽しみは無くなったり変わったりしても、「ただひとつの希望」は何でしょうか、と問うのです。それは死ぬときにも希望であることです。そんなものがあるのでしょうか。ここでは、それがあると言います。そしてそれは、

私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであること…

だと言うのです。私たちが何か幸せにしてくれる趣味や宝物や能力を持つこと、持ち続けることではないのです。それは、私たちの「ただ一つの慰め」にはなりません。私たちが持っているものはすべて、死ぬときには持って行けませんし、生きている時にさえ、壊れたり古くなったり変わってしまいます。でも、私たちの持っているものがなくなっても、希望があります。それはそもそも私たち自身が、私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のもの、私たちの救い主イエス・キリストのものであること、それが私たちの慰めなのです。先ほどの御言葉でもこうありました。

ローマ書14:7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

 私たち、というのは、私も皆さんも、すべての人の事です。全ての人は、神様のものです。「自分は違う、自分は自分で選んで生まれてきた。今もこれからも、自分は神様が何と言おうと、自分で生き、自分で死ぬのだ」なんて言える人はいません。この世界の全てのものは神が作られたもの、私たちは神のものです。

 長い長いお話しがあっても、そのお話しを作るのは作者です。主人公も脇役も敵役も、作者ではありません。作者に命令したり、お話しに注文をつけることは出来ません。私たちも、神のものです。世界の作者である神が、今も私たちを通して、この世界に物語を綴っています。世界に神が見えなくても、世界がある事自体が、神がいる証拠です。私たちは、自分のものではありません。私たちは神のもの、私たちの救い主イエス・キリストのものです。それも、神は私たちが身につけているもの、特技も経歴も、自慢も見た目も全部失った私たちを、詰まらない、価値のない奴だとは思って捨てたりしません。神は、私たちをご自身のものとしてくださいました。主イエスは、この私たちを愛して、救うために、ご自身を捧げて下さいました。神と主イエスは、私たちをご自身のものとして、永遠に大事に思ってくださいます。それは、なんという希望でしょうか。

 私たちは神のもの、主イエスのもの。この事実から、新しい教理問答「ニュー・シティ・カテキズム」は語り始めます。私たちがどんなことをするか、どんなことを知っているか。そういう行動や知識からではなく、私たちが何者か、から語り始めます。ですから私たちも、この言葉を深く心に刻みましょう。私たちは神のもの、主イエス・キリストのもの。神は、私たちを喜んでご自身のものとしてくださいました。主イエス・キリストは、私たちの罪や問題や、心の中も過去もこれからのことも、全部全部全部ご存じの上で、私たちのために、喜んで命を与えてくださいました。それによって私たちは、自分が自分のものであるかのようなあやふやな夢から救い出されて、神のものとして生きるようになったのです。そして、私たちは神のものですから、神の言葉に喜んで聴き、自分の人生も神のものとして捧げていくのです。また、自分も他の人も、何よりも神のものですから、大事にしなければなりません。このローマ書の言葉も続きます。

10あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

 私たちが誰かを見下したり、馬鹿にしたりするなら、それはその主である神を引き下ろすことになります。自分を虐めたり、卑しめたりすることも、自分が神のものであると思えば出来るでしょうか。またこの世界の自然や環境も、自分たちの好きにしてよいものではなく、神のものとして大切に扱うべきものだということになります。そうです。私たちが、自分たちを神のものだと思う事は、私たちの生き方の全てに対する見方を変えるのです。しかし、それを忘れて、自分たちが神のものだということを忘れても、それでも神はその私たちを決して見捨てず、私たちとともにいます。それが、生きている時も死ぬときも、私たちのただ一つの希望なのです。祈りましょう。

「生きるにも死ぬにも私たちの希望であるキリストよ。私たち自身をあなたの恵み深い、父としてのご配慮にお委ねします。あなたは私たちを愛しておられます。私たちがあなたのものだからです。あなたを離れては何の益もありません。あなたのものであることを求める以上に、素晴らしい贈り物もありません。私たちの主イエスの御名によって」

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