2019/4/28 創世記17章1~14節「アブラハム契約のしるし 聖書の全体像14」
聖書は、神が世界を創造したことから始めて、人間が神に背を向け愛の御心を誤解しても、神は人間に働き続けて、最後にはこの世界を新しい世界として必ず完成する。そういう大きな物語を語っています。しかし、それは華やかなというよりもむしろ地味で、上から力強くというよりも低い所から、弱さから、痛みや慰めを通して進む計画です。その事が豊かに現されているのが、神が最初に「神の民」の父として選んだのが、アブラハムという、子どものいない老人だった事実です。そして、そのアブラハムに神が与えた契約のしるしが「割礼」でした。割礼というのは男性の性器の皮を一部切り取る儀式です[1]。私たちにはそういう習慣に馴染みがありませんし、新約聖書を読むと
「割礼を受けなくても、イエス・キリストの恵みによって、信仰だけで救われる」
という教えが目につきます[2]。ですから、あまり割礼に関心もないのではないか、と思うのですが、あえて今日の箇所から「割礼」のしるしを考えたいのです。
まず、今日の箇所は、アブラハムが九九歳の時のことと始まりますが、その前の16章16節では八六歳だったとありますから、13年の歳月が経っています。13年前、アブラハムと妻サラは神の言葉を信じ切れませんでした。自分たちの拙速な判断で女奴隷を代理母にして子を儲け、神との関係も閉じ、自分たちの関係も大きくこじれさせたのです。夫婦の間の不満とか醜い責任逃れとか、女奴隷を虐めて追い出す程の残酷な思いも暴露したのでした。それから13年、黙っておられた神が、この17章で現れて、アブラハムにこう語りかけるのです。
17:1…「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
「全能の神」元の言葉でエル・シャダイという名前を、ここで初めて名乗られます。100歳を前にしたアブラハムに「全能の神」として現れて、
「わたしはわたしの契約を立て、あなたを大いに増やす」
と仰るのです。そして4節以下、アブラハムを大いに増やして多くの国民の父とし、王たちが出て、今いる一帯の地を与える。わたしは彼らの神となる、という、将来の壮大な構想を語るのです。それが、神が「全能の神」として名乗られた時、その具体的な御業として語られた壮大なご計画でした。それは人間の常識や経験では考えられないことです。老人アブラハムに、全能の神は、新しい将来像、永遠に続くご計画を始めるのです。神はアブラハムに、ご自分の前に歩み、全き者であれと言われて、手始めに三つのことを与えられます。
一つ目は改名、名前の変更です。今まではアブラム、ここからアブラハムに変わります。15節では妻もサライから「サラ」となります。これは色々な説明がありますが定説はないようです[3]。意味はともかく、神が名前を変える、それもハという息を吹き込むような一字を入れた事自体、神が人に新しい命を吹き込んで、人を新しく造り変える御業でしょう[4]。神はサラにもアブラハムにも、ご自分の命を吹き込んで、人には想像のつかない大きな何かをなさいます。なぜなら、神は「全能の神」だからです。それが、名前を変えたことに表されています。
全能の神の前に「全き者であれ」と言われることの、第二は割礼です。この儀式は、
13…わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
とある通り、男子の体に刻まれる神との関係の印です。確かにその儀式そのものは猛烈な痛みや血を流す行為ですが、痛みとか犠牲という以上に、全能の神との関係を表す、体に刻まれた印でした。それも、場所が場所だけに、人からは見えない所での神との関係です。それは、
11あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。
とある通り、隠れた所の覆いの皮を切り取る所に意味があります。神との、包み隠すことのない関係。「全き者」とは、間違いをしないとか、神に対する立派な信仰を持つ、ということではありません。全能者なのは神で人は違います。限界があり、神をも疑い小さく考える者です。そのくせ「何をした」とか表面的な装いで自分を守り、本心の醜さ、恐れ、素を隠したがる。アブラハムもサラも主を信じず、互いに責任を擦り合い、弱い者虐めをした普通の人間でした。しかし主はそんなぶっちゃけた裸の私たちをご存じです。ある意味で失敗を通して、心が割礼を受けるのです。私たちの隠れた心、弱さ、疑い、罪、過ちをすべてご存じである神の前に立ちます。そして全能の神は、この私たちにも新しい働きをなさる、小さな私たちを通して尊い神のご計画をなさる。到底信じられなくても、全能の神は御心をなさる。そういう、何の隠し立てもない神との関係に入れられている。割礼はそういう契約に立ち戻らせてくれるのです。
レビ記26:41彼らの無割礼の心…
エレミヤ4:4主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。[5]
といった表現が旧約聖書の中にも散見されます。割礼は神との人格的な関係を表すために体に刻みつけられたしるしです。割礼そのものを誇ったり、絶対視したり、そこに安住したりするものではないのです。だからこそ、新約の時代、イエス・キリストが来られて、救いの契約を完成して下さった時、割礼の儀式を強制してハードルを高くする事は止めました[6]。しかし割礼を受けなくて良くなった、のとは反対に、割礼よりも深く、強烈な恵みが私たちの心に刻み込まれたのです。私たちが血を流す代わりに、イエスが血を流して、神と私たちとの隠し立てのない関係を下さいました。私たちの誇りや自慢や美化をすべて手放して、素の自分、隠したままにしたい自分の本心をご存じの神の前に立たせてくださいました。痛みや罪や弱さを通して覆いを取り除けられ、心から謙って神の前に立つのです。そういう関係が始まったことを現す最初の儀式が洗礼ですが、洗礼は
「キリストの割礼」
とも言われるのです[7]。
洗礼は割礼の代わりではありません。割礼が示していた、神との深く、隠し立てのない関係、体に刻みつけられた関係、それでも形ばかりになりうる関係を、イエス・キリストが完全な形で成し遂げてくださいました。キリストが肉を裂かれ血を流した御業によって、私たちの心が深く照らされました。迷いや弱さや罪のあるまま、主に立ち帰って、全能の神がこの私たちのうちにも働いて新しい業をなさる。私たちを新しくしてくださる、と信じるのです。
この言葉を聞いても
「17アブラハムはひれ伏して、笑った」。
サラも次の18章で
「12心の中で笑い」
ます。神が全能だからといって、こんな老人に子どもが産めるはずがない、とせせら笑うのです。それは微笑みや幸せの笑いというより、小馬鹿にした笑い、戯れる、笑い物にする笑いです[8]。しかし、神はそれを「不謹慎だ、不信仰だ」と怒るどころか、笑いを逆手に取って
「サラが産む子どもをイサク(笑い)と名づけよ」
と言うのです。「イサク」は全能の神が与えた第三の贈り物です。21章でサラは生まれて割礼を施したイサクを抱いて言います。
6…「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう」。
全能の神の約束はアブラハムもサラも吹き出した笑い話でした。神は人に、馬鹿馬鹿しい約束を語って笑われて下さり、でもそれを成就なさる。老人が子どもを抱き、神を裏切った人が何年も経って神から語りかけられる。人の失敗を通してもっと深い繋がりを与え、心の深い思いも隠している恥もさらすような出来事を通して、それでも神が愛していることに気づかせて、本当に隠し立てのない関係を結ばれる。
神は私たちとの契約を、ひとり子イエスの御業によって完成しました。神の子が田舎娘から産まれ、十字架に殺された人が救い主として復活し、裏切った弟子が砕かれたリーダーになり、迫害者が伝道者になる不思議でした。その準備になされたアブラハムの選びは、神が全能の神であることを、笑わせて教えてくれます。回りくどい、笑っちゃうような不思議を私たちになさいます。そして最後には私が、みんなと一緒になって、信じずに笑った自分を笑う。全能の神は、笑いを下さるお方。そんな告白が、イサクという名に込められています。この主が今も私たちと包み隠すことのない関係を求めているのです。
「主よ、あなたから離れた世界の中に、いいえ、この私たちの心の奥の封じ込めたい自分にも、あなたが深い憐れみをもって近づかれることを感謝します。どうぞ、私たちが笑い出す程の尊い事をなしてください。ここにどうぞ、あなたの不思議な恵みを、思いを超えた慰めを始め、今の恐れや諦めを、いつか笑う日を迎えるとの約束を果たして、私たちを新しくしてください」
[1] 今日の週報のコラムを参照。エジプトの壁画も載せました。この時代のメソポタミアではごく一般的になされていた儀式のようで、衛生的な意味や宗教的な意味合いがあったのだろうと考えられています。ただし、聖書に書かれているように、ペリシテ人はしていませんでした。また、現代でも、フィリピンでは男性になる通過儀礼として10代でなされているようです。ちなみに「女性の割礼」という儀式がアフリカなどで習慣としてあることが近年も報道されて問題視されていますが、女性に一生の痛みを強いる女性器切除と、男性性器の皮の一部を傷つける割礼とは全く違うものです。
[2] ユダヤ人はアブラハム以降、割礼を「神の民のしるし」として大事にしてきました。生まれて八日目に割礼を施すという儀式がとても大事な民族のアイデンティティともなったのです。それだけに、特に新約の時代、ローマ社会との出会いで、割礼という習慣がない人々との交流では、大きな壁になってしまいます。キリスト教会は、外国人に対して、割礼を強いることはせず、割礼がなくてもイエス・キリストを信じるだけで神の民となる、という信仰に立ちました。割礼がなければダメだと考えたキリスト者と、割礼を受けなくても信仰だけで救われるとした使徒たちとの議論が新約で目立ちます。
[3] 良く言われるのは「アブラム」は「高められた父」という意味で、「アブラハム」は「多くの国民の父」だ、という説明です。しかし、「アブラハム」に「多くの国民の父」という意味が直接あるわけではありません。
[4] サライがサラになったのは、「イ」を取ったように見えますが、原文では、SaraiをSarahに、つまり最後の一字をiからhに変えた変更になっています。
[5] エレミヤ書4:4「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」、また9:25-26「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」、レビ記26:41「このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。」、エゼキエル44:7「あなたがたは、心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血を献げたが、あなたがたの行った忌み嫌うべきあらゆるわざによって、わたしとの契約を破った。」
[6] 割礼を巡る議論は、使徒の働き10章、11章、15章などを参照。また、パウロの書簡での直接の言及としては、ローマ2:25~29など。「もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。」
[7] コロサイ2:11、12「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。12バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」
[8] この言葉ツァーハクが出て来る他の節としては、以下が挙げられます。創世記21:9「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。」、26:8「イサクは長くそこに滞在していた。ある日のこと、ペリシテ人の王アビメレクが窓から見下ろしていると、なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた。」、39:14「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」(同39:17)、出エジプト記三二6「彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」、士師記一六25「彼らは上機嫌になったとき、「サムソンを呼んで来い。見せ物にしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で笑いものになった。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、」などがあります。