聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/2/27 ダニエル書3章「燃える炉」こども聖書㊽

2022-02-26 12:35:22 | こども聖書
2022/2/27 ダニエル書3章「燃える炉」こども聖書㊽

 今日のお話は、旧約聖書の残り四つのお話しの一つです。旧約聖書の歴史の終わり頃。

「王の時代から長い長い年月が経ちました。イスラエルはバビロンという国と戦って、負けてしまいました。そしてイスラエルの人はみんな、バビロンに連れて行かれました」

とあった通り、イスラエルの人々は遠くバビロンに移されたのです。



 バビロン捕囚の時代です。そして、バビロンの王ネブカドネツァルは、本当の神を知りません。そして、

ダニエル3:1
ネブカドネツァル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた。

 これはメートルに直すと、高さ26.4m、幅が2.64mちょうどこの講壇の半分ぐらいの幅で、高さはその十倍。


 マンションの九階ぐらいの高さです。鳴門図書館はその半分ぐらい。



 どうやってそんな大きな像を造ったのでしょう? それを平野に建てて、何の役に立つのでしょう? それは多くの国々の人々が、王の命令に従い、自分たちの宗教よりもバビロンの命令に従うための試金石だったのかもしれません。そのお披露目の式典も仰々しいものでした。なんとも大袈裟で、自慢したがりな空っぽさがギラギラしています。しかし、集まった大勢の人々は黙ってこの命令に従いました。巨大な金の像と、大がかりなセレモニーで、圧倒されて、言われるがままになったでしょう。従わない人がいるなんて、誰も思わなかったでしょうか。ところがイスラエルの若者三人は違いました。ある人々が訴えます。

12…王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもいたしません。」


 王は怒り狂って、三人を脅し「金の像を拝むならそれでよい。拝まないなら、火の燃える炉に投げ込むぞ。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」と脅しました。これに、あの三人は、きっぱりと答えました。

16…「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。17もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。18 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」

 私たちの神は、救い出すことが出来ます。しかし、たとえそうでなくても(神が私たちを火の中から救い出されないとしても)私たちはあなたの神々や金の像を拝むことはしません。こう言い切るのですね。私たちが仕える神だけが、私たちが拝む神です。王が造る金の像はいくら巨大でも、救いも滅ぼしも出来ません。今この金の像はどこにあるかも分かりません。抑も、たった三人の若者が拝まないだけで、怒り狂う。脅しても言うことを聞かせられないで、ますます怒り猛り、三人を火に投げ込むことも、王も金の像が、無力で、偽物の神で、虚しいことの証拠に他なりません。

 怒りに満ちたネブカドネツァルは、炉を何倍も熱くして、三人を投げ込ませます。彼らを連れて行った屈強な兵士たちさえ、その火に焼き殺されてしまいました。三人は、縛られたまま、炉に投げ込まれてしまいました。



 しかし、そこで驚くことがおきます。

24そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。…25…だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」



 何の害も受けていない。王は唖然として、三人に出て来るよう命じます。

27…三人を見たが、火は彼らのからだに及んでおらず、髪の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火の臭いも彼らに移っていなかった。

 三人は救われたのです。
 この時は王もイスラエルの王を認めました。とはいえ、その後も彼はまた思い上がって、神を忘れます。その後も今日まで二千年以上、人間が神を造ったり自分を拝ませたりする出来事は続いています。逆らうなら命を奪う、と脅して、多くの人を強いてきました。日本の国でも、天皇陛下を神として拝ませて、逆らう人が酷い目に遭わされることが、80年にもならない前にあったのです。ですが、そうして無理やり人を従わせようとすること自体が、そして、それでもみんなを従わせることは出来なかった事自体が、どれも本当の神ではない、無理があることの証しです。

 本当の神は無力どころか、世界のすべてを創られました。火の中からも救い出せます。いつも私たちと一緒にいて、支えてくださり、「たとえそうでなくても人間や偶像は拝みません」という勇気も与えてくださいます。三人と一緒にいた四人目の誰かは、きっと神様でしょう。見えない神がともにいたのです。預言者イザヤも言いました(43:2)。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 こう約束した主は、本当に彼らとともにいてくださいました。そして、ともにいることを最も現して下さったのは、御子イエス・キリストです。イエス様は、火の中どころかこの世界に飛び込んでこられました。人間の思い上がりや冷たさ、非難や裏切りに身を焼かれるような生涯を歩まれました。最後まで、その苦しみから救い出せる天の父を信頼しつつ、救われないで十字架に息絶えるまで、私たちのため、ご自分を与えきってくださいました。それは、本当に私たちとともにいてくださることの証しです。


 この本当の神を知れば知るほど、私たちは人の脅しや無理な要求にもノーと言えます。世界中が神ならぬものにひれ伏しているようでも、私たちは決して一人ではありません。仲間がいます。イエスがいてくださいます。だから、私たちが勇気をもって本当の神を告白して、神ならぬものに頭を下げないことは、出来ます。どんなに脅されても、私たちの心の自由は、決して奪われることは出来ません。その行動で、大勢の流れを変えることが出来るのです。そういう勇気ある生き方も、本当の神が下さるのです。



「本当の神である主よ。遠くバビロンの地で、三人の若者が見せた真っ直ぐな信仰に、あなたがともにおられる神であることを励まされます。生きて働かれる主よ、そのあなた以外の何者も神ではないことを、私たちの生き方に貫かせてください。あなただけを礼拝する生活により、この世界の暴走を食い止め、風穴を開ける私たちとしてください。私たちと常にともにいて、恐れから救い出し、今ここであなたを礼拝させてください」
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2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

2022-02-26 00:04:03 | 一書説教
2022/2/27 ユダ書17~23節「聖なる神に憧れて 一書説教 ユダの手紙」

 一書説教として、新約聖書の最後から2番目の「ユダの手紙」を取り上げます。[1]

1. ユダの手紙の執筆事情

 このユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別です。イエスの弟の一人で、マタイ13章55節に名前があります。十字架の前には、この弟たちの誰もイエスを信じませんでしたが、復活後、一番上の兄ヤコブはエルサレム教会の中心的リーダーとなり、末の弟のユダも、教会の指導者となった。そしてこの手紙を書いているのでしょう。この手紙を書いたのは、

 3…聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。4それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。

 こういう事情で、ユダは緊急性を感じて、この短い手紙を書いたのです。この手紙は宛先が特定されていないのも特徴です。テモテやテトスへ、○○教会へ、という個別の宛先はない。ただ旧約聖書の引用があちこちにあります。また9節や14節は聖書には書かれていませんが、当時読まれていた旧約聖書の外典「エノク書」「モーセの遺訓」が下敷きになっています。ユダの手紙は聖書や当時のユダヤ文学に親しんでいた人を念頭に置いています。けれど、それは、

 1…父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々…

 即ち、私たちも含めたすべてのキリスト者を直接想定している、珍しい書です。そしていつの時代にとっても、神の恵みを放縦に変えて、キリストを実質的に否定する危険はあるのです。

 8…この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。…16彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。

 また、17~18節では使徒たちも、こういう将来を予告していたことを思い出させます。

18…「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

 具体的には、淫行とか利益、権威に逆らう、暴言…といった事が出て来ますが、根本的には、嘲りの心です。心の奥深くには、強い支配欲、思い上がった嘲りがある。それは神の恵みを否定してしまう危険です。ユダはそのために戦うよう、必要に迫られて本書を執筆したのです。

2. 非戦の戦い

 だからこそユダは「恵みを否定する不敬虔な人々と戦え」とは言いません。戦えよりむしろ、

 9御使いのかしらミカエルは、…ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました。

戦わない態度を思い起こさせるのです。その後18節まで、非常に激しく毒づく非難が続きますが、それもまるで「彼らの悪は目に見えている。その愚かさや行く末は明らかで、最後には裁きで明らかになる。分かっているから。」と代弁して毒づいているのでしょう。だから、

20しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 これが、ユダがこの手紙を急いで書いて伝えなければならないと残した命令です。自分自身を築き上げ、自分自身を守る。といって、それは自分の努力や頑張りという事でもない。

 「最も聖なる信仰の上に」とはどういうことでしょう。私たちが信仰を聖なるものに引き上げるのでしょうか。いいえ、聖とは神ご自身の本質です。その神を信じる信仰、聖なるイエス・キリストを信じる信仰は、聖なる信仰なのです。私たちが聖なる神を告白し、聖なるイエスの、最も聖なる御業である十字架と復活を信じ、聖徒とされた。そうして下さるのは聖霊。私たちの信仰は「最も聖なる」信仰です。その上に自分自身を築き上げる。聖霊によって祈る。神の愛のうちに自分自身を保つ。主イエスの憐れみを待ち望む。それこそが、恵みを引き下げて、欲望のままに振る舞う人々に流されず、信仰を守る「戦い」なのです。不敬虔や悪、不品行を憎み、裁きや罰を宣言するだけなら、そこには違う嘲りや、妬みが入ります。ユダの手紙は誘惑を警戒するからこそ、もっと大事なこと、いただいた信仰の尊さ、神の愛の素晴らしさ、もっと言えば今日の説教題の通り、聖なる神への憧れに立ち戻ること。この戦いを諭すのです。そして、その上で、他の人にそれぞれに接することが、22~23節で始まります。敵だとか、対立的に、一律に観るのではなく、ひとりひとりに、憐れみをもって接する。それこそ、ユダが勧める戦いなのです。

3.「ユダの手紙」

 もう一つ、「ユダの手紙」だからのことがあります。ユダという名前は、イスラエル十二部族の一つでもあります[2]。聖書には7名のユダが出て来ます[3]。十二使徒にもひとりユダがいます。なのに、「イスカリオテのユダとは違うユダ」と言われて少しホッとしたり、それでもモヤモヤしたりして、余り「ユダの手紙が好き」という人はいません。それぐらい「ユダ」という名前は「裏切り者」と結びついて、一人歩きして毛嫌いされています。英語では、イスカリオテのユダはJudas、このユダはJude(「Hey, Jude!」のジュードです)と区別したりします。違うと思う事で安心しようとします。でも、元々のヘブル語やギリシャ語では同じなのです。

 このユダ自身、イエスの弟なのに、長いこと兄を信じませんでした。いつイエスを信じたのかは分かりませんが、いつか何かがあったのです。彼はイエスと血が繋がった弟だなんて誇りは少しも匂わせず、神の恵みを語っています。自分の兄とまでなってくれた恵み、それをも信じられなかった自分をも変えてくれた恵みを味わい知る者として、この手紙を書きました。ユダという名は、母ラケルが嫉妬から解放されて「今度は、私は主をほめたたえます」とつけた「賛美」の名です[ⅳ]。彼がホントは書こうとしていた「救いについて」の手紙とはどんな素晴らしいものだったのでしょうか。奔放に生きるチャンスにするには余りにも勿体ない恵みです。

 このユダはあのユダとは別人です。でも、このユダもイエスを理解せず、見捨てた一人でした。そのユダを変えたのは神の恵みです。私たちも同じです。このユダのこともあのユダのことも、他人事ではないのです。その恵みを知るならば、私たちも誰かをその名前やほんの僅かな情報だけで裁いたり、争い、嘲ったりすることで戦おうとしてはなりません。私たちの戦いは、自分を「最も聖なる信仰の上に築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエスの憐れみを待ち望む」ことです。それは、私たちの業という以上に、神ご自身の恵みの業です。この恵みの神への憧れをもって、私たちの生き方を建て上げていくのです。

「聖なる神よ。あなたが下さった信仰は、何よりも聖く麗しい信仰です。新約の最後に、短く載せられたユダの書が、あなたの美しい救いの御業を証ししています。しかし私たちが恵みを引き下げ、欲に流され、人やあなたを蔑み、好戦的になりやすいことも教えられます。どうぞ、あなたの戦いはあなたに委ねて、私たちが自分たちを信仰の上に、神の愛のうちに建て上げていく戦いに立ち戻れますように。麗しいあなたご自身への憧れを増してくださいますように」

脚注:

[2] ユダ(Judah)、イェフーダー(ヘブライ語: יהודה‎ Yehûdâh)もしくは ジューダス(英語: Judas)、ヘブライ語で「ヤハウェに感謝する」という意味の人名。(Wikipedia)
[3] ネヘミヤ記12章8節、使徒9章11節、15章22節。
[4] 創世記29章35節「彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。」
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2022/2/20 マタイ伝27章45~56節「言葉を失うほどの」

2022-02-17 17:32:55 | マタイの福音書講解
2022/2/20 マタイ伝27章45~56節「言葉を失うほどの」

 イエス・キリストが十字架にかけられた最後の3時間の出来事を読みました。直前では人々がイエスを嘲笑い、罵っていたのが、

45節 …十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。

 嘲っていた人々も黙ったようです。この3時間、闇と沈黙が全地を覆っています。その後、イエスが大声で叫ばれます。
「エリヤ」
と聞き間違えた人たちが誤解してしゃべりますが、その期待を躱(かわ)すようにイエスは霊を渡される。その後の出来事に
「この方は本当に神の子であった」
の告白が響く流れです。騒然さから闇と沈黙になり、イエスの叫びと、短い勘違い発言、最後の告白。動から静へ、そこに響く肝心な言葉。そういう流れを、私たちも言葉を失う思いをもって聞きたいと願います。
  1. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

 全地を覆った闇は、神が罪への怒りをもって顕現されたしるしの闇です[1]。真っ暗な中過ごす不気味さ、不安に、笑っていた人々も黙らざるを得なかったでしょう。そして、

46 三時頃、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。[2]

 これと同じ言葉が、詩篇22篇1節にあります[3]。聖書の昔から、神に捨てられたと思わずにおれないような痛み、理不尽な力で悩まされる現実があります。それでも、本当に神に捨てられるとはどういう出来事なのでしょうか。怪我やトラウマや心が狂うことも、経験した本人でないと分からないように、もしすべてを支えている神に、本当に捨てられるとしたら、どれほど恐ろしく絶望的なのか。太陽も雨も惜しまない天の父の恵みがすべて取り上げられるのがどれほど悲しいことなのか。私たちには精一杯想像するしかありません。この

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

は詩篇の言葉そのものでなく、当時の日常語アラム語です。イエスにとっての本心からの叫び、問い、訴えです。堪え難いこと、人間となったイエスには予想できなかったほど心境でした。それでもイエスは「わが神」と求めています。神と神の御子であるイエスの繋がりは永遠です。でもその関係が「見捨てる」という言葉でしか表現できない、最大の痛みを負われました。それが私たちのために神がなさったこと、イエスのささげ物だったのです。

ヘブル九26…しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。

2. すると見よ、神殿の幕が裂け

 人々が勝手に期待した、預言者エリヤの登場は起こらず、イエスは死なれました。しかし、

51すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。53彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。

 一つ目の「神殿の幕」は、祭司だけが入れる聖所の幕か、その更に奥にある、年に一度大祭司しか入れない至聖所の入り口の幕か、どちらかでしょう。いずれにせよ、神殿の心臓部である聖所の幕が裂けた事は、神殿そのものの終わり、神殿を中心とするモーセの律法の時代が役割を終えて、新しい礼拝の時代が始まった事を示します。イエスはこれまでも

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」[4]

「ここに宮よりも大いなるものがあります。…人の子は安息日の主です。」[5]

と言われて、神殿も律法も全うすることを言っていました。イエスの死こそ、すべての生贄を終わらせて、すべての宗教を用済みとしたのです。

 そればかりでなく、多くの聖なる人々が生き返りました[6]。ここに書いてある以上の事は分からず好奇心をそそられますが[7]、大事なのはイエスの死が死者をよみがえらせた、ということです。イエスが生まれる前、御使いは

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

と告げていました[8]。それは罪の罰の免除に留まらず、私たちにいのちを与えたい、死よりも強い新しい命をもたらす救いです。神の子イエスが私たちのために死なれた。奇蹟や神々しいドラマを見せたりせず、徹底的に謙り、神に見捨てられて息絶えられるほど、人となられた。その死が、私たちを豊かに生かすのです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 Ⅰヨハネ4章9-10節

3.「この方は本当に神の子であった」

 この出来事を見た百人隊長たちが

「この方は本当に神の子であった」

と言いました。神の民であるユダヤ人ではなく、異邦人である百人隊長と兵士たちです。しかも35、36節でイエスを十字架につけ、衣をくじ引きし、十字架の足元からイエスを

「見張っていた」

あの者たちが

「この方は本当に神の子であった」

と言ったのです。惨めな囚人だ、神の子なら自分を救え、と笑っていたこの人は、本当に神の子だ。

「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ぶ絶望に、神の子でなければ発せられない真実な絶望を、聖なる告白を感じ取った。いや、そう思わせたのも神の業としか言えません。イエスの死は、神殿の幕や聖徒たちの墓の岩を裂き、神の民ではない異邦人の心も開いて、異邦人とユダヤ人の隔ての壁も崩しました。
 更に55、56節には

「大勢の女たち」

が登場します。今まで登場しなかった無名の女性たち[9]。そもそも女性の立場は低くて、今まで女性の弟子がいたことさえ分からなかった。でも饒舌だった男の弟子たちもクモの子を散らすようにいなくて、イエスを嘲っていた人々も黙った中、この女性たちが遠くから見ているだけではあっても、そこにいて見ている。その彼女たちが、この後、埋葬と復活の目撃者になるのですね。その事も又、イエスの死において始まっている、新しい、驚くべきことです。誰も予期しなかった事が始まったのです。

エペソ二13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。…

 まとめましょう。
 一つ、イエスの十字架で、全地が暗くなり「神に見捨てられた」のです。私たちの言葉を持ち合わせない、想像を絶する出来事です。詩篇に託された人間の叫びを、イエスは誰よりもご存じです。誰も体験したことがない真っ暗闇を味わわれました。人が「神から見捨てられた」と思う時も、その私とイエスがいてくださいます。私たちは決して神から見捨てられることがないと知るのです。
 二つ、イエスの死の後、神殿の幕が裂け、モーセの律法の時代は終わり、イエスによって神に近づける新しい礼拝の時代が始まりました。私たちも罪の罰を免れるだけでなく、死の後にもよみがえりを約束されています。新しいいのちが与えられたのです。
 三つ、異邦人やイエスの処刑の執行者、女たち、当時の神殿礼拝では、聖所に入ることも出来なかった人々が、ここでイエスを告白し、証言しています。私たちの誇りや壁を打ち砕く出来事が、すでに始まっています。

 自分の饒舌さを恥じて、十字架の福音の意外な力に言葉を失って驚きましょう。この私のために主が十字架と闇と絶望的な孤独を経られました。多くを語らずに、苦しまれ、深い叫びだけを発して死なれました。そしてその死が、まさかと思う人をも変えました。この事に、私たちの心に築いているプライドの壁も砕かれるのです。私たちの周りのすべてを包んでくださる主がおられることに、希望を見出すのです。

「私たちのために死なれた主よ。あなたの十字架の苦しみを、想えば想うほど、言葉を失います。それは私たちを罪から解き放ち、いのちを与えるためでした。あなたの愛の深さ、御心の豊かさはどんな言葉でも足りません。折々に静まって、主の恵みを想い、味わい、感謝と賛美を捧げさせてください。私たちの心の頑なさ、冷たさ、神にも人にも築いてきた幕を、恵みによって開いてください。主よ、私たちを愛してくださり、有り難うございます。」

脚注:

[1] 出エジプト記10章21節「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」22モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。」、アモス書8章9節「その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。10あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に粗布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする。」

[2] ルカやヨハネを見ると、十字架の上でイエスは七回の言葉を残していますが、マタイとマルコが記すのはこの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」だけです。

[3] 詩篇22篇1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。」

[4] マタイの福音書5章17節。

[5] 12章6節、8節。

[6] 「聖なる人々」ハギオス マタイで10回使われますが、他の九回は「聖霊、聖なる都」です。本節以外、聖徒と訳される場所はなく、どう訳したらいいのかさえ、定かではありません。

[7] この「聖なる人々」とは誰なのか、旧約の預言者たちであればなぜ名前がないのか、彼らはイエスの復活まで何をしていたのか、その後、どうなったのか、などなど好奇心は尽きません。

[8] 1章21節「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

[9] 「マグダラのマリア」は有名ですが、マタイではここで初。61節、28章1節と合わせて3回のみ。ガリラヤからついてきて、今まで無名だったが、イエスの十字架と、埋葬と、復活の証人となった、ということだけ。

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2022/2/13 Ⅱ列王記5章「ナアマンを助けたエリシャ」こども聖書㊼

2022-02-12 12:23:40 | こども聖書
2022/2/13 Ⅱ列王記5章「ナアマンを助けたエリシャ」こども聖書㊼

 預言者エリシャは、旧約聖書で最も多くの奇蹟を行った人です。今日の「ナアマンの癒やし」はそのエリシャの預言でも真ん中に、一番詳しく描かれているエピソードです。

1アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。

 アラムはエリシャの国、イスラエルの民にとっては当時、敵対関係にありました。そのアラムの将軍がナアマンです。彼は地位も、将軍としての実績もありました。しかし、彼の体はツァラアトという重い皮膚病にかかっていました。この病気は、直ぐに死ぬとか苦しむとか、人に感染するというような恐ろしい病気ではありません。しかし、見るからに病気と分かるので、とても恥ずかしく、嫌われるような病気だったのです。

 この人の家に、イスラエル人の少女がいました。彼女は、ナアマンが最近、イスラエルの地からさらわれてきたのです。とても悲しく寂しく、ナアマンを恨んでいたとしても不思議ではありません。でも、彼女はナアマンの病気を見ても「いい気味だ」と喜んだりはしませんでした。その反対に、ナアマンの奥さんにこう言ったのです。

3…「もしご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

 この少女の言葉は、どんなに勇気と恵みの満ちた言葉でしょうか。

 この言葉を聞いたナアマンは早速、王の所に行き、イスラエルに行くことにしました。アラムの王も手紙を書いてくれて、ナアマンは銀340kg、金70kg、晴れ着十着、沢山の贈り物を持ってイスラエルに行きました。



 しかし、彼がまず行ったのは王の宮殿でした。そこにエリシャはいませんでした。ナアマンはエリシャの所に行きました。しかし、エリシャは、

10…彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」



 こう言っただけで、家から出ても来ませんでした。ナアマン将軍は激怒して去ります。

11…言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。

 エリシャの対応は、将軍ナアマンにとってはプライドが許さないことでした。顔を見せもせず、汚いヨルダン川で体を7回洗え、それだけ? もっと神々しく、自分も敬われて、奇蹟を見せてくれていると思っていたのに! でも私たちもそんなことを思いがちです。神のなさることは派手な事ではありません。何より大事なのは、私たちがプライドを捨てて、謙って、神を神として受け入れることです。その時、彼の僕たちが、

13…近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」



 そうだ、難しいことを言われたら、それをしただろうに、簡単だからと怒るなんておかしな話です。プライドで腹を立てて拒むなんて、損で愚かな話です。こう部下たちが言ってくれたことでナアマンは思い止まり、近くのヨルダン川に降りていきます。彼は、

14…神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。



 主の力によって、ナアマンのツァラアトは完全に良くなりました。彼は引き返します。

15…「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」



 しかしエリシャはこれを受け取りません。エリシャはナアマンに、自分が癒やされた事が神様からの一方的な贈り物だと知って欲しかったのです。エリシャが贈り物を受け取ってしまったら、そこで終わってしまいます。敵同士の関係だったはずのアラムの将軍ナアマンを、イスラエルの神、主が癒やしてくださったことへの驚きが見えなくなってしまいます。だから、受け取りませんでした。しかし横にいた僕ゲハジは違いました。随分遠くに行ったナアマンを追いかけていって、贈り物をもらってしまったのです。そのゲハジに対して、エリシャは言います。

26…今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。

 主の民イスラエルが、神を侮って混乱していました。アラムに連れ去られた少女の方が優しさを見せ、そこからやってきたナアマンのほうがイスラエルの王よりもずっと信仰的でした。そのナアマンの行動を助けたのは、ナアマンの部下たち。この異邦人たちの行動は、本家本元のイスラエルを恥じさせ、主への信仰に立ち戻らせるはずでした。銀や金や晴れ着をくすねようとする、そんな小さながめつさより、イスラエルの人々の心を主が清めてくださって、病んだ心を癒やしてくださるよう求めるべき時でした。

 預言者エリシャはエリヤよりも目立ちません。しかし、そのエリシャこそ最も多く奇蹟を行った預言者です。また、エリシャ(わが神は救い)の名はイエス(主は救い)にも通じます。エリヤに続いたエリシャは、エリヤの再来でもあったバプテスマのヨハネに続いたイエス様と重なります。そして、イエスもヨルダン川に降り、川に入りました。ナアマンと同じように、イエスもヨルダン川で、洗礼を授かり、弟子たちにも洗礼を授けたのです。

 もっと綺麗な川もあるのに、イエスはヨルダン川に下りました。将軍よりも尊い神の右に座する方が、謙ってくださいました。その名誉を守る、もっとましな選択も出来たのに、汚れる道に踏み入りました。それは、私たちをきよめてくださるためでした。ヨルダン川は綺麗ではなくても、イエスはそこで弟子たちに洗礼を授け、ご自分も洗礼を受けられました。その恵みを映し出すゆえに、美しい川となりました。私たちの心を新しくし、思い上がったプライドから、自分ではどうしようもない恥から、救い出してくださり、喜びと感謝の道を行かせてくださる。私たちは洗礼を通して、キリストの謙りに与り、プライドや金銀よりも尊いもののために生きる歩みを生き始めているのです。



「主よ。エリシャとナアマンの話を有り難うございます。あのナアマンが身を浸したヨルダン川で、あなたも洗礼を授けられ、弟子たちに洗礼を授け、新しい生涯を始めさせました。来週の夕拝で洗礼式を行いますが、ここにナアマンと主の謙りを覚えて、私たちもともにあなたに与えられた新しい人生の道を確かめ、ともに祝う時としてください」
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2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

2022-02-12 11:45:31 | マタイの福音書講解
2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

 説教題を「裸の王さま」としました。よく知られたお話は、「愚か者には見えない服」を着たフリをしてしまう笑い話です。今読みましたマタイ27章27~44節では何度もイエスが「王」と呼ばれます[1]。最初、総督の兵士たち全部隊(六百人)が服を脱がせたり着せたりして、イエスを

「ユダヤ人の王様、万歳」

とからかい、最後は裸にして十字架に磔ました[2]。十字架の多くの絵は気が引けてどうにか腰を覆いますが、実際は「裸の王様」とされたイエスでした。

  1. からかい、嘲り、罵る人々
28…緋色のマントを着せて、…茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。[3]

 兵士たちは、「ユダヤ人の王と自称している」と訴えられて十字架に決まったイエスを、王様ごっこで辱めます。鞭で打たれた後、服を脱がされ、またマントを着せる、棘の食い込む茨の冠、唾を掛け、葦の棒で頭を茨の冠の上から何度も叩いて、またマントを脱がせて、元の衣を着せ…。こうした拷問も決して見過ごしには出来ません。しかしそのイエスの苦しみ以上に、それを与える周りの人間たちの罵り、イエスの姿を嘲るほか無かった人間たちが伝えられます。

32兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。

 十字架の横木を背負わせて刑場まで行くのは十字架刑の常でしたが、イエスはその横木を運べないほど憔悴していたのでしょう。兵士たちから、十字架を担えないほど情けないと思われたイエス。そしてそれを背負わされたシモンは、北アフリカの町クレネの人、恐らく黒人と思われています[4]。黒人だから、兵士たちに目をつけられて、十字架を無理やり負わされたのかもしれません。逆に、イエスが十字架を負うことも出来ないほど弱って、黒人に助けられている情けない姿だ、とこれまた一層、イエスへの嘲り、からかいに拍車がかかったでしょう[5]。



 その先に到着したゴルゴタの丘での肝心な十字架も、ともすれば読み飛ばすぐらいサラッと、

35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。

と、兵士や通りすがりの人たちの行動をメインに伝えます。祭司長たち、両脇の強盗たち、周りの人々が罵り、「王だなんて」と笑った。しかしそのイエスこそ王だと伝えているのです。

2.イエスが王であるとは?

 マタイの福音書のテーマは「王であるイエス」です。ダビデ王の系図から始め、東方の博士たちが「ユダヤ人の王はどこにおられますか」とやって来た最初から、イエスを王としていました。その王がどういう王かというと、低くなり、疲れた人、重荷を負っている人に近づき、仕える王。最も謙って、そのために卑しめられる事も厭わない王。誰も王だとは思わず、からかわれ、嘲られた王。その局地が、この十字架につけられた「王」という今日の箇所です。使徒パウロはこの事を言います。

…私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24…召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。[6]

と言っています。これは
 「十字架につけられてしまった
あるいは
「十字架につけられたままのキリスト」
というニュアンスです[7]。確かにその日の内にイエスの亡骸は十字架から下ろされて、三日目に復活されて、今は神の右に座しておられます。でも、それは十字架につけられたキリストでもあるのです[8]。またこの箇所の「くじ引き」「神のお気に入り」などの欄外に詩篇22篇やイザヤ書53章が言及される通り、多数の旧約の言葉が下敷きにあります。これこそ神が旧約の昔から語っていた救いです[9]。その一つ、イザヤ書53章では、こう言います。

イザヤ書五三5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 イエスが人間社会の最も低い十字架に、傷つき、嘲られ、裸にされたこと。差別される黒人に助けられ、犯罪者の間に立たれたこと。それが、私たちの傷、罵り、冷酷さを癒やすのです。キリストが十字架につけられた。それは、イエスがどんな王か、私たちが宣べ伝えられ、宣べ伝えているのはどんな救い主なのかを現しています。それは私たちのために痛みを引き受け、罪のために悩み、この世界を背負って、苦しみも裸も厭われない王なのです。

3.十字架につけられたままの王

 十字架を見ていた人々は「こんな王などいない。もし神の子キリストなら自分を救ってみろ」と笑いました[10]。けれどももしイエスがここで神の力によって十字架から降りたとしたら、信じたのでしょうか。恐れおののいてひれ伏してイエスを認めたかもしれません。でもそれは、イエスが求める信仰ではありませんでした。力を見せつけたら信じる、そんな誘いをイエスは最初から誘惑として退けておられました[11]。イエスは罪に病んでいる世界のために心を引き裂かれて人となり、最悪の扱いをご自身の痛みとされました。十字架の激痛も、人間性を踏みにじる嘲りも、無防備に受け止められました。
 お話しの「裸の王様」はありもしない服を着ているふりをして笑われましたが、イエスはすべての栄光を人間のために惜しまず脱ぎ捨て、罪に病み、苦しむ世界で十字架にかけられてくださいました。
 「神の子の力があれば、こんな苦難から自分を救うのが当然」ではなく「誰であってもどんな人間でも、こんな扱いを受けていい人はいない」のです。神が作られた人間を、人間が貶め、嘲り、苦しめて笑ったり鬱憤を晴らしたつもりになる、そのあり方そのものが罪です。それは本当に私たちの心を痛めつけ、縛り付けている罪です。それを贖うのは、十字架につけられたイエスです。私たちは生涯掛けてこの十字架につけられたキリストを通して癒やされていくのです[12]。その姿に、私たちは罪を示されるとともに、ここまでして私たちとともに苦しんでくださる愛を示されないでしょうか[13]。

 キリスト教は、十字架につけられた(ままの)キリストの宣教です。
 一つ、聖書はイエスの苦しみにもまして、人間の冷たさ、残酷さを浮き彫りにします。それは神の赦しも憐れみも見えず、イエスや誰かを十字架にかけて笑う罪です。
 二つ、「イエスは王」というテーマの頂点がこの苦しみ罵られ、情けなくも助けて貰い、裸にされた姿です。しかしそれこそ、徹底的に低くなることを厭わない神の子の方法でした。
 三つ、この傷ついた主が私たちを癒やされます。私たちに必要なのは、罪人が罰せられることでも、誰かを罰して鬱憤を晴らすことでもありません。罪のもたらす悲惨さが十分に味わわれ、嘆かれて、傷が癒やされるために露わにされる以外ありません。そのために、キリストが来られました。私たちの苦しみを知り、私たちの罪に傷つけられる人々とともに傷つかれることによって、私たちを癒やし、罪のあり方から救い出されます。
 そのために今も主は苦しみを厭わず、私たちを運び続けてくださるのです。[14]

Ⅰペテロ二24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

「十字架につけられた主よ。あなたの力を十字架に見ることが出来るよう、私たちの目を開いてください。裸の王として笑われた主こそ本当の王です。私たちを罪から救い、神の子どもとし、神の国をもたらしてくださる主です。愚かな思い上がりから救って、目を開いてください。人を笑い、貶める思いを覆して、罪を嘆いて恵みへと救う御心を教えてください。十字架も私たちをも恥じず、喜んで負われたあなたの深い御心のままに、私たちを新しくしてください」

脚注:

[1] 29、37、42。他の多くの語が、ここだけなのに対して「王バシリュース」は、マタイに22回も繰り返されるキーワードです。(マルコ12,ルカ11、ヨハネ16)

[2] 35節で、兵士は「くじを引いてその衣を分けた」とあります。ヨハネの福音書でははっきりと「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。」と伝えます(19章23節)。つまり、十字架の主は裸でした。これは当時の十字架刑の通例で、肉体の激痛もさることながら、裸、さらしもの、放っておかれる精神的苦痛こそ、十字架刑の特徴とも言われます。イエスを描く十字架の多くの絵は気が引けて、イエスの腰はどうにか覆っていますが、実際は真っ裸だったのです。文字通り「裸の王さま」、あのお話し以上に本当に「裸の王さま」だったのです。

[3] マントは薄汚れたものでしょうし、太くて長い棘のある茨をわざわざ編んだ冠も、葦の棒も、虐めでしかありません。

[4] 「使徒の働き」13章1節に「ニゲルと呼ばれているシメオン」が、アンテオケ教会の主要メンバーの一人として登場します。この「シメオン」と、クレネ人シモンが同一人物ではないか、という読み方も可能です(断言は誰にも出来ません)。それはともかく、「ニゲル(ニグロ≒黒人)」と呼ばれるとある通り、肌の色が違うことは、当時からも大きな差別だったのでしょう。ここでも、黒人であったシモンを、兵士たちがイエスの十字架を担う役割に無理やりあてがったのは、人種への偏見・蔑視であったことは筋が通ります。

[5] キリストの救いは完全だ。しかし同時に、クレネ人シモンにも助けられた十字架でもある。私たちの助けを必要とはされないが、私たちの働きもそこに関わり、私たちも巻き込まれて、キリストのわざは完成されるのだ。コロサイ書1章24節「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」という大胆ないい方さえ、パウロはしています。人の労苦は、キリストの苦しみにあずかり、確かな役を果たすことです。クレネ人シモンはそのような人の苦難の一面を思わせてくれます。そして、巻き込まれることによって、彼は恐らく、後にキリスト者となりました。だからこそ、名前が伝えられているのでしょう。

[6] Ⅰコリント1章23~24節。同様の表現は、ガラテヤ書3章1節「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」にあります。文語訳では「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」と明確です。

[7] 昨年召天された、日本長老教会の教師、故村瀬俊夫氏が、この言葉を最初に教えてくれた恩師です。立川福音自由教会のHPで、同氏と「十字架につけられたままのキリスト」のことが触れられていたので、以下、引用します。「村瀬俊夫先生は、ガラテヤ3章1節の文語訳の「愚かなるかな哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ」という表現を見て、キリスト理解が変わったと言っておられました。それは、既に復活されたキリストが、同時に今も、「十字架につけられたままである」という途方もない逆説です。私たちはあまりにも働きの成果のようなもの(栄誉)に目が向かって、弱さや苦しみ(十字架)の中にある恵みを忘れてしまいがちです。しかし、キリストの苦しみは今も続いており、それによって世界が平和の完成へと導かれているのです。ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられたままでいるべきなのです。それは、この世的には恥と敗北ですが、そこに真の神の力が働きます。パウロはキリストについて、「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱ13:4)という不思議なことを言っています。十字架につけられたままのキリストの「弱さ」こそが、弱肉強食の世界秩序を変える鍵なのです。私たちも自分の能力や力を誇るのではなく、私の中に生きておられるその方によって生きるのです。「全能の神を信じているのに、どうして、こんな目に会ってしまうの・・・」というのは人情としてはわかりますが、聖書の物語からしたら「愚問」です。私たちはキリストとも共に苦しむために召されたのだからです。」ゼパニア2章4節〜3章20節「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ……」

[8] 黙示録でもキリストは「ほふられたと見える小羊」として登場します。5章6節(また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。)、12(彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」)

[9] ここだけではありません。このマタイの記事には、旧約聖書の言葉が鏤められています。彼らがぶどう酒を飲ませたこと、衣をくじ引きしたこと、罪人と並べたこと、頭を振りながら嘲ったこと、「神のお気に入りだろう」とあざ笑ったこと…。これらは詩篇22篇(7 私を見る者はみな 私を嘲ります。 口をとがらせ 頭を振ります。8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。 主に救い出してもらえ。 彼のお気に入りなのだから。」、18 彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。など)や69篇(21 彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました。)、イザヤ書53章(3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。)など、旧約の昔から神が語っていた、冷たく残酷な人間社会の一面です。そうした人間の冷たく、壊れた現実を掬い取り、なめ尽くされるイエスこそ、王、キリストなのです。

[10] 40~43節の人々の言葉、「もし神の子なら、自分を救え」は、最初の四章でサタンが荒野の誘惑でイエスに再三呼びかけた誘惑と通じます。あの時もここでも、神の子ならその力を見せてみろ、もっと楽な道、自分を救う道を選ばないなんて愚かだ、と言う声が付きまといました。

[11] また、今ここでも、「イエスが十字架から降りようと思えば降りられたのだ。しかし、私たちのために十字架に留まってくださったのだ」と言ったところで、その「申し訳なさ」から私たちのうちに生じる思いも、イエスが私たちのうちに造ろうとする信仰とは全く別物です。イエスは、力・栄光によって威圧する神ではなく、無力・無防備さ・裸によって私たちに近づかれることで、初めて生まれる関係、すなわち、愛を求められるお方です。恩着せがましい神ではなく、本当に惜しみない神です。

[12] 英語で苦しみをpassionパッションと言いますが、その派生語が「ともにcon苦しむpassion」から来たコンパッション(思いやり、あわれみ)です。特にキリストの受難はthe Passionと言いますが、それはthe Compassionとも呼べる、私たちとともに苦しむ、あわれみの受難でした。正確には、ラテン語でcompatioの過去分詞から、英語になったもの、だそうです。

[13] その変化がここにも見られます。36節はなぜわざわざ書かれたのでしょう。一つは、これも詩篇22篇7節とダブらせるためでしょう。もう一つは、54節への伏線です。イエスを見張っていたこの兵士たちが、十字架にかけらたイエスとその後の出来事を見て「この方は本当に神の子であった」と言います。復活を見て、ではなく、十字架につけられたキリストを見て、「この方は神の子だった」という告白をしたのです。もう一人は、クレネ人シモンです。わざわざ名前が挙げられるのは、後に彼がキリスト者となり、あの十字架を担ったのは私ですと知られたからでしょう。彼は決してイエスの十字架の贖いを助けたわけではありません。しかし、シモンが十字架を運んだことは、その時は無理矢理な災難としか思えなくても、確かにそれはイエスとの出会いとなり、苦しみがイエスとともに苦しむ新しい意味を持つ始まりとなりました。

[14] このテーマに関して、今週いただいたのが、上沼昌雄氏の記事「ウイークリー瞑想「福音派はニーチェと無関係ではないのか?」2022年2月7日(月)」でした。お許しをいただいていないので、全文の転記は出来ませんが、「私たちが如何にだめなものであるのかを強調して、神の恵みを説くやり方です。私たちの罪意識を駆り立てて、キリストの十字架による救いを説くやり方です。その背後にはニーチェが指摘するように、どこかでどうにもならない自分の方がよいのだという思いが動いていると言えます。それゆえに神が負い目を取り除いてくれるといういやらしい思いです。それに対してニーチェは嫌悪感を持っています。しかし2千年の教会にとって当たり前のことになっています。 さらに信仰を持って一生懸命にやっているのに実際には惨めな思いに苛まれていて、どこかで神に対しての怒りを積み重ねていることがあります。表面的にはクリスチャンらしく寛容に振る舞っているのですが、思い通りに行かないで後悔と反感を内側に深く抱えているのです。ルサンチマンの感情です。そのようなクリスチャンの働き人の姿を結構身近に感じます。どこかで自分のことのように思わされます。ニーチェの批判するキリスト教が自分のうちに宿っているのです。」という指摘は、熟考する必要があります。

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