2014/07/27 「創造された状態から」創世記3章1~11節
ウェストミンスター小教理問答13
前回は、人間に対する「特別な摂理」として、善悪の知識の木から取って食べてはならない、という契約が与えられたことを見ました。今日の問13では、その摂理に対して人間が取った行動が取り上げられます。
「私たちの最初の先祖たちは、彼らが創造された状態にとどまっていましたか。
答 私たちの最初の先祖たちは、彼ら自身の意志の自由にまかされていたところ、神に対して罪を犯すことによって、彼らが創造された状態から堕落してしまいました。」
それは、今読みました、創世記三章の出来事です。エデンの園にいたエバに、蛇が語りかけました。
1「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
そんなことを神様は言われませんでしたが、蛇が最初に否定的な言い方をすることで、エバの返答も、否定的な答になってしまったのでしょう。そこで、蛇は女に言いました。
4あなたがたは決して死にません。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
蛇は、主の約束のウラには秘密がある(ケチな、意地悪な思い)と囁きかけて、エバに、主への不信を吹き込みました。疑いを芽生えさせました。そして、エバはその木の実を食べてしまい、夫のアダムにも与えて、夫も食べた、とあります。
今日のところで、肝心なのは、創造された状態から、意志の自由にまかされていたところ、神に対して罪を犯して、創造された状態から堕落してしまいました、という事実です。創造された状態には、罪はありませんでした。アダムとエバの心は、完全ではなかったですし、まして、全知全能であったわけでもありませんが、それでも罪によって汚されてはおらず、きよい心でした。自己中心や欲に負けてしまう、自制心の利かない心ではありませんでした。罪を犯さないことも出来る、正しい人間だったのです。
そういうきよい心境というのは、私たちには思い描く事が出来ません。ですから、そこでの彼らの心理も十分に想像する事は出来ないのです。でも、私たち以上に誘惑に強いはずの彼らが、エデンの園という素晴らしく恵まれた状況で、たった一本の木の実を食べてはならない、という約束を守らなかったことが、大きな決断だった事は想像できるのではないでしょうか。
私たちの心には、意志の自由があるようで、実は色々な欲や願望、偏見に染まっています。罪のせいで、私たちのしたいこと自体が、罪に縛られているのです。アルコール中毒の人は、お酒を飲まずにはおれません。端から見れば、お酒の奴隷になっている。お酒から自由になることこそその人が自由になる事だ、と分かりますが、本人は、好きなだけお酒を飲めることが自由なのだとしか思えません。アダムは、アルコール依存症でもなければ、罪人でもありませんでした。木の実を食べたいとか、「ダメだと言われたらますます食べたくなる」というような心ではなかったのです。それでも食べてしまいました。エバも、神様との親しい交わりがあったのに、神様を疑って、木の実を食べても死ぬどころか賢くなると言う蛇の言葉を信じました。蛇に唆された、とは言えるかもしれません。しかし、アダムはエバに勧められた時に断ることも出来たのに、食べてしまいました。それは、「気の迷い」とか「魔が差して」と言い訳することは出来ません。まして、「女がくれたから」「蛇が進めたから」とは言えませんし、「神様がそもそもあんな木を作らなければよかったのに」などと神様のせいにすることも出来ません。アダムが、自分の意志で、選んだ事です。そして、それは歴史上の事実です。それ以降、創造された状態から、堕落してしまい、この世界には罪が入ってきたのです。そして、その歴史の末に、イエス・キリストがこの世においでになり、更にその末に、今、私たちがここにいるのです。
今でもサタンは、蛇ならぬもっと狡猾な形で、私たちの心に囁きかけています。神様を信じないように、疑いを吹き込みます。御言葉を引きながら、でも、本来の意味から外れた使い方をして、間違わせようとします。そして、心のきよかったアダムをさえ、エバから先に惑わすという戦略で落とす事が出来たのですから、欲に負けやすく、神様を信じる信仰から離れている私たちを誘惑する事なんて、サタンにとっては赤子の手をひねるよりも簡単でしょう。この出来事が抽象的なことではなくて、歴史上の事実であったように、私たちが誘惑に合うのも、毎日の生活の中、日常で起きていることなのです。
けれども、イエス様は、このアダムの堕落を贖うために、人となって来てくださいました。そして、アダムとエバよりも遥かに厳しい条件で、サタンの誘惑に会われました。四十日の断食の末に、石をパンに変えよと唆されたのです。それが出来たイエス様にとって、どんなに厳しい事だったか、それもまた私たちの想像を超えています! でも、イエス様は私たちと同じ人間として、父への信頼を貫かれて、サタンの誘惑に打ち勝たれました。それも、イエス様お一人が勝利されたのなら当然で終わるかも知れませんが、イエス様は私たちのために、試みに会い、私たちのために、誘惑に勝利してくださったのです。ですから、私たちは今、誘惑に弱い自分を自覚するだけでなく、イエス様の勝利を確信して、希望を持つ事が出来るのです。
創造された状態からの堕落というこの事実を、私たちは厳粛に心に留めます。でも、そこから贖いだしてくださるお方が、今も私たちの歩みにともにおられて、働いていてくださるという厳かな恵みをも覚えて、御言葉を正しく理解し、信じて歩みたいと願います。
2014/07/27 ルカ18章1~8節「気落ちせず常に祈る」(#233)
17章の20節で、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちが聞いてきたことから始まりました教えが、今日の所にも続いています。「不正な裁判官のたとえ」として知られる話です。
2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
この裁判官の所に、一人のやもめ(未亡人)がひっきりなしにやってきて、裁判を求めたというのです。当時は、女性の立場が低いですから、夫を亡くした寡婦は、必死になって自分の生活を守らなければなりませんでした。そこで、しょっちゅう裁判官に掛け合って、
3「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていた。
のです。神を恐れず人を人とも思わない裁判官も、
5どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがない」
と腰を上げたのです。そしてイエス様は言われます。
6主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
不正で身勝手な裁判官でさえ、しつこい裁判の要求には動かずにはおかないのだとしたら、まして、神は、必ずや、叫び求める選民の祈りに、応えてくださらないはずがない、と言われるのです。だから、
いつでも祈るべきであり、失望してはならない
のです。
ただし、以前十一章でも、夜中に友人を叩き起こす喩えがあって、祈り続けることの大切さは教えられていました。ここで言いたい事は、「信じて祈り続ければ、願いは叶う」というような事ではありません 。そもそも、そんな期待をして祈り続けても、願いが叶わないことは沢山あるではありませんか。失望してはならない、と言われても、実際には願いが聞き届けられなくて、ガッカリで終わったのは、祈りが足らなかったから、なのでしょうか。いいえ、イエス様はそんな安請け合いや精神論を仰っているのではないのです。「失望する」は「気落ちする」 、「勇気を失う」 、「落胆する」 、「たゆむことなく」 、などと訳される言葉です 。願った祈りが叶うに違いないと望むよりももっと強く、心をシッカリ持って、前向きに生きることです。そしてそれが、不正な裁判官のたとえを経て、7節に、
まして神は、…選民のためにさばきをつけ…
てくださらない筈がない、と結ばれる勧めなのです。
8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。
不正な裁判官でさえ、やもめのために裁判をしてやろうとしたのだから、まして神は、夜昼神を呼び求める選民のためには正しいさばきを必ずなしてくださる。だから、私たちは、
いつでも祈るべきであり、失望してはならない
のです。信じて何でも願い続けよ、ではなくて、主に望みを置いて、祈るべき、なのです。
熱心に願いを献げ続けたからと言って、どんな祈りでも叶うわけではありません。わがままな祈りではなく、自分のためにでさえなく、大切な事のため、愛する人のため、病気の癒やしや問題の解決をみんなで心を合わせて必死に祈っても、願いとは逆の結果に終わる事は少なくありません。でも、それが今の世です。前回も見たように、神を待ち望まない人々が、
27…食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり、
28…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしてい…
るのがこの世界です。イエス様を信じないパリサイ人が幅を利かせ、神を恐れず人を人とも思わない人が権力の座に着いているのが、昔も今も変わらない現実です。そういう中で、主の弟子たちも私たちも、祈らなくなってしまうことが起きます。神様の正しい裁きなど期待しなくなり、神の国を別世界の事、精神的なもの、心の中のものだと考えてしまいます。確かに、私たちの祈りがそのまま叶って、神様が私たちの思い通りにしてくださる訳ではありません。また、7節の後半は、正確には、
…いつまでもそのことを放っておかれるようであるとしても[神は、…さばきをつけないことがあるでしょうか]。
という意味のようです。いつまでも放っておかれるように見える。けれども、それは神様が無関心だからでもなければ、人間の祈りが足りないからでもありません。神様は必ず裁きをつけてくださるのです。神も正義も信じない方がアタリマエに見えても、やがて必ず主が、正しいさばきをしてくださって、どんな悪や不正についての訴えにもチャンとけりをつけてくださいます。むしろ、問題はそれを信じず、疑って、祈る事もしない人間の側にあるのです。
8…しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。
裏を返せば、地上に信仰が見られなくても、教会の中にさえ待ち望む信仰や正しい裁きを夜昼呼び求めている選民がなくなっていたとしても、それでも主は来られるのです。正しい裁きをなさるのです。主は王であり、力あるお方です。やがて、全世界を新しくなさる全能の主です。私たちの祈りが叶わなくても、それは主が弱いとか無関心だとか祈りを聞かれていないからではありません。私たちが願う以上の大きく素晴らしいご計画を神様がお持ちだからです。放っておかれるように思えるほどの長いスパンで、神様がご計画を進めておられるのです。
そして、その神が私たちのうちに御業を始めてくださいました。王であるイエス・キリストが来られて、神の国を始められました。それは、私たちが神を信じ、御言葉に従うように変えられていく、御業です。周りが神を信じず、日常の営みに追われている中で、神を待ち望み、財産だの名誉だのではなくて、私たちのために苦しんでくださった主イエスにのみ、私たちのいのちがあると信じるように教え、導かれています。あらゆる願いを祈りつつ、でも、それを叶えてくださるから信じたり祈ったりする信仰ではないのです。この世界は遅かれ早かれ、過ぎてゆくのです。私たちも人生をより良くしようと努力はしますが、それが私たちの究極の願いや目的ではないのです。神の正しい裁きが来て、世界が全く新しくされることをこそ、私たちは待ち望みます。
だから、その神様にあって、私たちが失望せず、勇気を持って、顔を上げて歩むために、祈ることが私たちのために必要なのです。ニュースで知る不正や暴力、不公平や悪に、心を痛めて、日夜、主の正義を叫び求めること、そして、どんなことが起きても失望せず、待ち望んで、私たちの不信仰よりも強いお方、主イエスを信じるために、いつでも祈ることが必要なのです。
「あなた様の正しさ、力、御真実により、失望を追い払ってください。祈らないから心が荒むのです。祈らずにはおれないよう私たちを揺り動かしてください。呼び求めずにはおれない生活としてください。そうして顔をあげて、正義を果たされる主のおいでを迎えさせてください」
文末脚注
1 とはいえ、十一章の喩えにしても、どんなことでもしつこく祈れば叶う、という勧めではなく、「聖霊を下さる」(13節)と閉じられるものでした。どんなことでも祈り続ければ叶う、というような、人間本位の祈祷論は、聖書にはありません。
2 文語訳。
3 Ⅱコリント四1、16。
4 エペソ3:13。
5 Ⅱテサロニケ3:13。
6 ガラテヤ6:9でも「失望(せずに)」と訳されています。
2014/07/20 「善悪の知識の木からは」創世記二章15~18節
ウェストミンスター小教理問答12
神さまが全世界をお造りになり、それを今に至るまで治めておられる。そう語った上で、今日の問十二は、人間に対する「特別な摂理」に触れています。
「神は、創造された状態にあった人間に対してどのような特別の摂理の行為を行われましたか。
答 神は、人間を創造されたとき、完全な服従を条件に、人間との命の契約に入られ、死を罰として、善悪の知識の木から食べることを禁じられました。」
有名な、エデンの園の「禁断の木の実」の話です。そして、次の問十三では、人がその木の実を食べてしまった事に進んでいくのです。ところで、その木の実を食べてしまうことが神に分かっていたなら、どうしてそんな木を造ったりしたのか、というギモンは古くからありました。また、木の実を食べたから、人間は文明を築き上げ、科学を発展させることが出来たのだ、というような考えなども様々あったようです。
けれども、今日の聖書の箇所では何と言われているのでしょうか。
二16…「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
これが、三章の女の台詞になると、微妙にすり替えられています。
三3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
食べたら勿論、触れるだけでも死ぬかもしれない木。蛇はこれに対して、
三4…「あなたがたは決して死にません。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
と言うのですが、これは、最初に言われた事とはまるきり趣旨が違っています。死ぬといけないから食べてはならない、ではなかったのです。
取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
その木に毒があるから、ではなく、その約束違反の罰として死ぬ、だったのです。神さまは、食べたら目が開けるとか死んでしまうような魔法の木をお造りになりはしませんでした。そんな木は、確かに造らなくてもよかったのでしょう。けれども、大事なのは、その木がなくてもよかったかどうか、ではなく、その木の実を巡って、
取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
と言われた主の約束に、人が「従う」ことでした。主に従うことにこそ、人の命があります。また、人は自由意思を与えられて、主に従う者として造られました。もちろん、エデンの園を耕し、世話をするという使命もありました。それに背いたとしたら、彼らは罪ある者となって、死ななければならなかったでしょう。でも地を耕す使命に従うことは、ムズカシイことではありません。考えれば納得のいくことです。けれども、善悪の知識の木の実を食べない、ということは、主がそう言われたから、という以外に理由がありません。エバはそのため、木の実に問題があって、食べないだけでなく、触りもしない方がいいのだろう、と考えたようです。そういう誤解や無理解があった上で、なお、主が言われたのだから、そのようにしよう、と約束を守ることは出来たはずでした。そして、そのように主に従うことによって、彼らは、死ぬことがなく、永遠のいのちへと引き上げられたはずでした。
もちろん、これは、人の努力が永遠のいのちを勝ち取る、ということではありません。「命の契約」を提案されたのも、締結されたのも、神の側からの一方的な行為でした。人間は、被造物として、創造主に従うのが当然であって、それが何かを要求する権利になると考えるとしたら、図々しいもいいところです。人間に一つの約束を与えられた事は、神の恵みです。それも、よいものをすべて備え、エデンの園で暮らし、園のどの木からでも思いのままに食べさせた上で、たった一本の木の実を禁じる約束が、永遠のいのちの報いをもたらすようにされたなんてのは、神の測り知れない恵みに他なりません。勿体ない、有り難い、お約束、それが、「いのちの契約」でした。
でも、この小さな契約が、「特別な摂理」と言い表されます。全被造物に対するこの上ない摂理の、いわば「頂点」に、人間が神に従うという契約がありました。それは決して小さな事ではありませんでした。神さまの聖定において、人間が神に従うこと、神を信じて生きることが、肝心な意味を持っていたのです。
この約束を破ったために、人間は罪ある者、神に背いて生きる者となり、死すべき存在となりました。自分でその不従順を解決する事は出来ませんし、神さまとの関係を修復することは出来ません。ただ、神さまが備えて下さった解決方法、すなわち、御子イエス・キリストの命を捧げてくださっての贖いによって、私たちは神さまとの関係を回復していただくのです。けれども、回復されて終わり、ではなく、主はなおも「わたしに従って来なさい」と仰いますね。今日のことを考えたら、それはもうお分かりでしょう。私たちがいのちを得ることは、主に従うことと切り離せないからです。なおも主に従おうとしないなら、それは自ら死を選ぶことです。
最も大切な戒めは、
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
だと主は教えられました(マタイ二二37、38)。人間は、心から主を愛し、隣人を愛する存在として造られました。愛せない自分、まだ罪があるため従うには程遠い自分です。けれども主が、従えないその現実を十分に知った上で、私たちを救われました。みことばと御霊によって支え、何度でも「わたしに従いなさい」と仰います。表面的な従順ではなく、心からの信頼を求められます。それは、アダムに与えられた「特別な摂理」が映し出している、尊い御心です。
2014/07/20 ルカ17章22~37節「稲妻がひらめくように」(#173)
前回、20節でパリサイ人たちが聞いてきました、
「神の国はいつ来るのか」
という質問から始まったテーマが今日のところでも続いています 。21節では、
「…いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
と結ばれて、一番肝心なこととして、王であるイエス様がもう来ておられることが宣言されました。今日の所では、改めて弟子たちに対して、もっとそれを具体的に話しています。ただし、大事なのは前回と同様、私たちがイエス様の教えに従って生きること、神の国のあり方に生き方を変えられることであって、決して、いつ来るか、どんな時に来るか、と腕組みをして待っているようなものではない、ということなのだと思います。
22…「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。」
苦しい時代が来ます。神の国の時代が一日でも見られたら、と願わずにはおれない程の、厳しい時が来ます 。でも、それは叶わない。そういうときに、
23人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
世の終わりだ、と騒ぎ立てて、「救われたければ、神の国を見たければ、こっちにおいで、あそこに来るらしい」ともっともらしく勧誘するカルトは必ず現れます。でも、
24いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
誰の目にも明らかに、また、全天を輝かして人々を照らし出すようにハッキリと現れるのです。あっちだこっちだと教えるなら、それだけで馬脚を現して、偽物だと公言しているのです。
25しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
輝く稲妻のように神の国が現れるその前に、イエス様は、多くの苦しみを受けて、この時代に捨てられなければならない。その事を、弟子たちは理解しなければなりませんでした。この世界が終わる前に、この世界で苦しみ捨てられる 。そのようなご自身の道を示されたのです。
イエス様は、復活された時にも、同じ事を言わるのですね。弟子たちがまだイエス様のよみがえりを信じられないでいた時、あのエマオ途上の二人の弟子が首を振っているのに対して、
二四25…「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
そういって聖書を説き明かされて、ご自身の十字架こそが、キリストである証拠だと教えられたのです 。ここでもイエス様は、26節以下でノアの箱舟が起きた時代もそうだったし、ロトが住んでいたソドムの街もそうだった、と言われます。
27…食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり、…
28…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていましたが、
そこに裁きが訪れました。それこそ、稲妻が大空を横切るように、突然、彼らの時代は終わったのです。洪水も、天からの火と硫黄も、世の終わりを予告しています。
30人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
神の国が来ること、人の子イエス・キリストが再び王として、稲妻のように現れるのを待ち望むということは、この世界もまた、いつか突然に終わるという事実を心に刻んで生きる信仰に他なりません。勿論、飲み食いや結婚、仕事も神様からの賜物です。生活をシッカリして大いに楽しんでよいのです。そうして、全てを預けて、楽しませてくださる主に感謝し、賛美するのです。そして、やがて主がおいでになり、全てを新しくされるのを待つのです。
でも、今のこの世界、この時代は、その主の訪れを避けて、自分たちが永遠に続くかのように思い、この世界が全てだと思わせようとします。私たちもまた、その誘惑に弱いものです。信仰をもっても、この時代で食べたり飲んだり、成功したり幸せになったりすることばかりを願いやすいのです。苦しみや病気が起きると、「神様、どうして?」と疑います。自分の死や世の終わりを見ないで過ごしたいのです。31節で警告される通り、主がおいでになってもまだ、家に残っている家財道具を取りに戻ろうとするようなところが私たちにはあるのです 。32節では、滅ぼされるソドムの街から救出されながら、振り返ってはならないと警告されていたのに、振り返って「塩の柱」となってしまったロトの妻を思い出しなさいと言われます。
十二15どんな貪欲にも注意してよく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。
と言われていました。本当に私たちもまた、ロトの妻のように振り返りかねない。ですから、そういう私たちの傾向をご存じのイエス様ですから、「神の国はいつ来るか、イエス様の再臨はいつなのか」という事ではなく、今、神の国が来ても良いように歩む事、いつでも神の国を迎えられるように生きる事、この時代での苦しみを受け入れる事、家や家財や生活に心を奪われずに主を待ち望んで生きる、その待ち方、待つ姿勢にこそ目を向けさせられるのです 。
33自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
やがては必ず失われるような家財道具やこの世の財産がいのちだと思って後生大事に抱え込んでしまうなら、私たちは間違いなくすべてを失います。でも、それを過ぎ去るもの、必ず失うものと弁えて、永遠の神を見上げて、主の愛に根差しているなら、いのちを保つのです。
34節35節にあるのは、どんなにそばにいる二人でも、片方が滅ぼされ、片方が生きて残るという事実です。その人が本当に何を大事にしているかは、心の中でのことです。あの人と友達だから大丈夫、洗礼を受けているから大丈夫、などと言う事ではありません。死体のある所にハゲタカが集まると37節にあるように、罪に死んだ人々のいるこの世界には、必ず裁きが訪れる。どこかや誰かの話ではなく、皆が自分のこととして受け止めなければならないのです。
神の国はやがて必ず来ます。イエス様は「人の子の日」と繰り返されて、ご自分が神の国の王である事と言い切られます。でもイエス様は力や輝かしさをもって来られる前に、
「まず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」
と仰いました。私たちのために苦しみを担い、惜しまずにいのちをもお捨てになりました。そのイエス様が私たちのいのちです。この世の富や幸せ、健康や親しい仲間も必ず失われます。それは辛く悲しい事ですが、恐れることはありません。イエス様は、全てを失った私たちをご自身の永遠の御国に迎え入れて下さるのです。主のおいでに慌てずにはおれない私たちをも、主は迎え入れて下さいます。その恵みを覚えて、心から主の御国の訪れを待ち望みたいのです。
「御国を来たらせたまえ、と祈るように生きる事が出来ますように。口先だけでなく、心から待ち望みつつ、切望しながら、そして今も主の御支配を見させて戴きながら、地上の歩みを重ねさせてください。自分の支配を手放させてください。失う事を通して、失う事のないものを噛みしめることが出来ますように。そうして、その王なるあなた様だけを証しさせてください」
文末脚注
1 さらに次の十八8でも「人の子が来た時」と、この「人の子の日」のテーマが続きます。
2 22節をあえて意訳するなら、「[厳しい]時が来ます。その日には、人の子の日を一日でもいいから見たいと願いますが、見られない[それぐらい厳しい]のです。」とでもなるでしょうか。新共同訳では、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」ここには、今は腕組みをして「神の国はいつ来るのか」と問いながら、本気で御国の訪れを待ってもおらず、主イエスを王として受け入れていない人々に対して、「そのあなたがたも、人の子の日を見たいと願う日が来る」という皮肉があります。しかし、その苦難の日が終末のしるしではないのです。苦しみの日が過ぎれば、人々は自分の生活にかまけて、主のおいでを待つ準備など何もしないで過ごすのです。禍の日には「終末だ、世紀末だ」と叫び、それが過ぎ去ると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」となる人間の性向とは正反対のことをイエス様はお語りになっているのです。
3 主がこの世から「捨てられる」ことは、九22、二〇17でも繰り返されます。
4 ルカは、使徒の働きの最後、二六22-23でもこの主題を繰り返します。それほど「苦難のキリスト/苦難の教会・キリスト者」というテーマは、私たちが心に刻み続けるべきものです。
5 この言葉は、マタイ二四17、マルコ十三15の平行箇所では、エルサレムが滅ぼされる時、すなわち、紀元七二年のローマ軍によるエルサレム陥落を予告したものです。文字通りの警告です。そして、実際にエルサレム陥落において、キリスト者たちはこの言葉を思い出して、家に戻らなかったために、多くの人が救われたと言います。しかし、ルカの福音書の文脈では、エルサレム陥落という特定の出来事よりも、人の子の現れる日という終末を指して語られています。もちろん、マタイやマルコの読者にとっても、これは終わった言葉ではなく、続けて世に生きる心構えを具体的に教えるものでしたから、両者が矛盾しているわけではありません。
6 参照、ルカ一二章35-40節。
2014/07/13 「万物を保っておられます」マタイ十章28~31節
ウェストミンスター小教理問答11
神様のご計画(聖定)は、創造と摂理とのみわざによって果たされると学びました。創造について2回お話ししましたので、今日からは「摂理」のことを教えられていきます。
問 神の摂理のみわざとは、何ですか。
答 神の摂理のみわざとは、彼の全被造物とそれらの全活動に対する、神の最も聖であり、賢く、力強い保持と統治です。
以前にもお話ししましたように、神様は世界をお造りになりましたが、造った後は放っておかれたのではなく、これを支えておられます。もしも神様が、世界を少しでも放っておかれたりいい加減にされたりなさったら、たちまち世界は崩壊して、無となるでしょう。神様の「保持」の御業がなかったら、世界は存在し続けることなど出来ません。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(ヘブル一章3節)
万物を保っておらます。一羽の雀も、世界中に何百万種とある生物の一つ一つも、太陽も月も、夜空の星々も、みな残らず、神様が保っておられます。
けれども、ただ下から支えて、存在させている、というだけではありません。ここでは、
全被造物とそれらの全活動に対する、神の最も聖であり、賢く、力強い保持と統治
と表現されています。全被造物の全活動を、神様は、これ以上ないほどの聖と、賢さと力強さをもって、保持し、統治しておられます。言い換えれば、世界に起こる全てのことは、神様の統治を免れては起こらなかったものであり、神様の、永遠の昔からのご計画の実行に他ならないのです。
自然界のものだけではありません。人間の活動、行動、国家の興亡。偶然や何であれ、神様を「出し抜く」ものはありません。「予定外」の行動もありません。かといって、神様が「悪」をご計画された、ということではありません。悪を選ぶのは、自由意思です。人間やサタンや悪霊が、神に反抗して、正義を嫌悪して、悪を行うのです。けれども、それもまた、神様の手の中でのことです。そもそも、神様が私たちに「自由意思」を与えられた、ということが私たちの理解を超えています。自由意思によって右でも左でも選ぶことが出来るのに、どっちを選んだとしても、神様はそれをご計画のうちに知っておられる、だなんて、私たちの理解を超えています。ですから、神様は万物を治めておられる。私たちの周りに起きるすべてが御心なしに起きたことではない。そう信じて十分としましょう。
多くの人が、神様がいることを信じていると言います。何か不思議な巡り合わせとか、願いが叶ったとか、見えない力、霊的な世界、という漠然としたものがいると信じたい、と思っています。世界を保っておられる方、幸せを用意しておられるパワー、というものなら大賛成なのです。けれども、そういう人は、この方に服従しようとはしません。私たちが、礼拝に集まり、他の神を礼拝せず、自分の罪を認め、悔い改め、教会の一員として歩むことを求められる神だ、と聞くと、途端に向きを変えてしまいます。まして、神様が私たちに、従うことを遠くから要求されるだけでなく、私たちの人生に踏み込んでこられる方-積極的に介入し、すべてのことに働いて、「統治」しておられる神だとは思いたがりません。でも、私たちはここにある通りに信じます。神様の摂理は、
全被造物とそれらの全活動に対する、神の最も聖であり、賢く、力強い保持と統治
です。有名な、ローマ書八章28節の御言葉を引きましょう。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
神が万事を益として下さる。でもそれは、私たちにとって悪くならないとか、願いが叶う、万事上手くいく、最後はハッピーエンドになる、という話ではありません。神のご計画-私たちを神の子どもとし、神のかたちに造られた者として、力強く育て上げ、教え、導いてくださる、そのご計画-にかなうよう、益としてくださる、ということです。「聖定」に沿って、すべての事が治められていて、御心を実現しています。
聖書にヨブという人がいます。この人は神様を信じる立派な人でしたが、サタンは神様に言いました。「ヨブの信仰は、幸せに暮らしているからですよ。幸せを取り上げたら、神様を呪いますよ」。サタンはヨブの幸せを全部取り上げてしまいました。ヨブは大変苦しみました。どうしてこんなことが自分に起きたのか分からず、本当に辛い時期を通りました。けれども、その苦しみを通してヨブは、自分には分からないことがあるけれども、神様がすべてを治めておられる事実を受け入れることを深く味わい知りました。
あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(ヨブ四二2)
と言って、深く謙りました。ヨブは以前にも増して、祝福されました。
これは、人間中心に見ればとんでもない「摂理」としか思えないでしょう。「すべてを益として働く」とは到底言いがたい摂理です。けれども、神が私たちをお造りになった、という世界の原点から見れば、神を貶めて、自分の幸せを目的にし、幸せや御利益があるから神様を恐れ(るフリをす)るだけで、本当に「神様が神様である」という理由で恐れない姿こそが、異常なのです。世界には、人間が思い描く「摂理」には当てはまらない事件が数限りなく起きています。戦争や暴力、不幸や理不尽な出来事。そういうことがあるから神様を信じない、などと言い始めるほど、人間は甘ったれなのでしょうか。
しかし、私たちは知っています。神の子イエス様ご自身が、本当に理不尽な暴力を引き受けて、十字架に殺されました。でも、それも神様のご計画にありました。それは、私たちには全くもって理解しがたいことです。けれども、そう信じるのです。私たちも今、神様の完全な摂理の中に生かされています。訳が分からないようなどんな出来事が起きても、神様がすべてを治めておられると信じてよいのです。そして、聖書に聞き従いながら、希望をもって歩み続ければよいのです。私たちは、闇の中にあっても、すべてを保ち治めておられる摂理の神を信じ、その神が下さった御言葉の光を手がかりに歩むのです。