徳島キリスト者平和の集い拡大準備会説教 2014年11月15日(土)
1. エペソ書の「和解の務め」の全体的理解
「キリスト者平和の集い」ということで、教会が依って立つ平和を励まされる御言葉には様々な聖書の箇所があります。その一つに、エペソ書二14節があるでしょう。
14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
「キリストこそ私たちの平和」。今日は、この言葉をもう少し探って、私たちの平和の集いの手がかりとさせていただけたらと思います。
エペソ書で、平和という言葉を用いるのは二章のここが初めてですが、ここまでの話が平和について無関係であるということではなく、むしろ、エペソ書の大切なテーマの中で、「平和」を語っているのです。特に、パウロは一9で「御心の奥義」を語っています。
一8この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
天にあるもの地にあるもの一切が、キリストにあって一つにされる。それが、神の永遠の御心による奥義だ、というのです。この神様の御心の宇宙的な奥義、終末を具体的に思い描かせるパウロの視点が、エペソ書のテーマです。
二章で、パウロは、「罪」と恵みによる救いを説きます。その結果として、
13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
と続くのです。この部分を、新共同訳聖書では、「キリストにおいて一つとなる」と題しています。キリストにおいて、「異邦人」も「イスラエル」も一つとなる。それは、言うまでもなく、一章で「御心の奥義」と言われていたことの成就です。異邦人とユダヤ人、当時、お互いに忌み嫌い、一緒に食事をすることも珍しかった異人種同士がキリストにおいて一つとなったというのです。キリストの十字架は、そのような平和のためだというのです。
三章でもパウロは、自分の務めが、この奥義に関わるものだとして繰り返します。
6その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
そして、その福音を伝えるために、自分が選ばれたことを語ります。
8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。
このように、創造者なる神と、最も小さな私、という対比を繋ぐのが、御心の奥義だと言います。そうした壮大なスケールの奥義を語った上で、四章に入ります。
四1さて[新共同訳:そこで]、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。…
このように、召しのもたらした「一つ」、御霊の一致を保ち、その召しに相応しく歩みなさい、という勧めになる。御心の奥義に向かって、生きていく。そのために、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和の絆で結ばれなさい、という適用が四章以下で展開していくのです。キリストが果たしてくださった「平和・和解・一つ」というご計画を踏まえて、私たちの平和作りが始まるのです。
当時も「ローマの平和」と呼ばれる、戦争のない時代でした。ローマ帝国が地中海世界を平定していました。しかし、その「平和」は強者が弱者を抑え、武力で押さえつけている安定でした。ユダヤなどの被占領国は圧政や重税に苦しみ、反乱や転覆を夢見ていましたし、異邦人との和解や一致など願い下げだったでしょう。そうした、取りあえずの「平和」とは違う、キリストの平和、神の奥義である完全な一致を教会は信じ、その始まりとなったのです。
2. 教会史における現実
しかし、そのような福音を授けられた教会が、聖書が完成し、使徒たちの去った歴史において、平和の福音に立ち続けてきたか、「剣を取る者は剣で滅びる」との告白を貫いて、「絶対的平和主義」を守れたか、というと、そうではありませんでした。ご存じのように、アメリカの巨大軍事産業、共産圏との間に「核の傘」によって築いた冷戦時代、そしてイスラム圏を敵対視して湾岸戦争に踏み切って来た背景には、キリスト教会の強力なバックアップもありました。日本の教会も、太平洋戦争に対して大方は賛成し、礼拝の中で戦勝を祈りました。宗教改革の時代に遡っても、農民戦争やカトリック派とプロテスタント派の戦いがありました。もっと遡って、中世を見ますと、悪名高い「十字軍」に代表される、神の名の下に「聖戦」と自称して行われた軍事行動があることは言うまでもありません。
中世の前はどうだったのでしょうか。よく、「教会は、初めは絶対的平和主義だったが、ローマ帝国に公認されると、教会は世俗化していき、富の誘惑に負けて、制度化されていき、信徒が兵役に就くことも認めるようになった」と言われます。ところが、初代教会の文書を丹念に調べると、決してそうは言い切れないようです。ローマ軍の残酷な軍事行動や流血行為を非難することには歯切れ良くても、信徒が兵役につくことがどうなのか、あるいは信徒でない兵士が洗礼を受けるためには兵士を辞めなければいけないのか、そうした実際的な問題についてはブレがあります[1]。殺人、あるいは皇帝崇拝が偶像であるという理由から、信徒が兵役に就くことは禁じた司教たちでさえ、ローマによる統治の恩恵に与っている面も認めていました。絶対的平和主義を唱えた司教ラクタンティウスも、公認後には軍務を否定せず、皇帝を祝福します。有名な教会史家エウセビオスも、皇帝コンスタンティヌスの信仰や祝福を伝え、「最も偉大な勝利者」と呼びました。そして、
「「キリスト教徒にとって、それが流血を招いたとしても、教会の迫害者に対するコンスタンティヌスの勝利を、非難の眼で見ることは難しかったであろう」。
つまり、帝国が教会に対して、もっぱら迫害と緊張関係にあった3世紀には、
「キリスト教ローマ帝国」は全くのユートピアに過ぎなかったが、平和主義者ラクタンティウスはその実現を目前にしたとき、より現実的な対応をするようになったということであろう。」[2]
と言われています。少数派で、国家に物言う関係ではなかった時には、理想論を振りかざせたけれども、では皇帝や支配者がキリスト者となった場合、キリスト教的国家を現実的に考えるに当たっては、剣の問題をどのように考えていくべきか。ちゃんと整理が出来ていなかったのではないか、と思います。
同じ事が言えるのが、宗教改革の時代の再洗礼派でした。急進的宗教改革と呼ばれるグループの一つで、ルターやカルヴァンの宗教改革は生温く不徹底であると批判した彼らは、新約聖書に現された初代教会の姿に帰り、理想的で純粋なキリスト教会を自称します。彼らの打ち出した信仰は、「シュライトハイム信仰告白」という文書に見ることが出来ます。そこで彼らは、宣誓や公職に就くことの否定などと同時に、「絶対的平和主義」を打ち出し、兵役を拒否します。国家が神の定めによるものであることを認めつつも、それはキリストの完全の外にある、という言い方をして否定してしまいます。
果たして新約時代の教会が「理想的な」教会なのか、聖書自体が教会の格闘と模索とを伝えており、当時の時代的誓約を無視しては読めないのではないか、とか、この世の教会が純粋であり得ると聖書が教えているのか、などと言った問題はさておくとしても、やはり国家が戦争をし、武力で教会への攻撃を加えてくる時代に、国家によって守られている面を認めながらも、自分たちは「絶対的平和主義」に立つ、とは虫のいい話でした。ちょうどキリスト教公認後の教会が、新しい時代の妥協の産物として、信徒の結婚と兵役を認めつつ、聖職者と修道士は独身を貫いて兵役は免除される、という二重基準を設けた、実に中途半端な方向を選んだのに似ています[3]。地の塩、世の光として、積極的な働きかけを放棄して、自分たちの手は汚さない。そういう平和論が聖書の教える所なのでしょうか。渡辺信夫氏はこう言います。
「この世の中に教会と別次元のものだが、同じく主の立てておられるもう一つの秩序、また制度たる「国家」というものがあって、教会はそれとの関係を終始意識しなければならない。これは福音書の中に最も素朴な形で「神かカイザルか」という問題として提起されている。」(同)
いずれにせよ、教会は「絶対的平和主義」に常に立っていたわけではありませんし、絶対的平和主義が聖書の教える倫理だと考えたのでもありません。確かに出エジプト記二〇章の十戒は「殺してはならない」と言いますが、その次の頁には、人を殺した者、誘拐する者、両親を呪う者は殺さなければならない、とも書いています。新約においてでさえ、戦いのモチーフはある。そして、現実の世界には暴力があり、国家の衝突があり、不正が行われている。そういう中で、私たちは、「キリスト者だから戦争はしません」という論理が当たり前ではなく、むしろ歴史的にも世界の中でも珍しいという事実も受け止めておくべきでしょう。教会の中にも多様な意見があり、置かれている戦いは複雑なのです。
3. 平和の器と変えられるために
では、そのようなバラバラな教会を考えると、そもそもの「御心の奥義」はどうなったのか、という疑問が生じます。どの立場が正しいのか、という以前に、これだけ多様な価値観があって、それでも「ひとつ」と言えるのでしょうか。一切のものが一つとなる始まりとしての教会が、本当に「ひとつ」だと言えるのでしょうか。そうです。私たちは、このような多様さ、意見の違いを踏まえた上で、なお私たちは一つである、と告白するよう求められているのです。キリストに根ざし、聖書に導かれるとしても、みなが同じ結論を出すわけではありません。勿論、どんなことでも意見が違って良いわけではなく、許される範囲を超えた逸脱は異端と呼ばれます。しかし、その範囲はかなり広いものでもあって、その違いに立った上で、なお主にあって一つ、という告白が与えられているのです。
エペソ書でパウロが述べていた奥義は、異邦人も神の民に入れられる、ということでした。ユダヤ人と異邦人の違いが無くなってしまうのではなく、ユダヤ人はユダヤ人でありつつ、異邦人は異邦人でありつつ、キリストにあって一つなのです。
四3…御霊の一致を熱心に保ちなさい。
です。パウロは、一致を勧めたり命じたりはしていません。既にキリストにあって一つである、という事実を保つのであって、人間的な一致を造り出すのではないのです。更に、7節で、一人一人にキリストの恵みの測りに従って違う賜物が与えられていることを言います。そこにも「違い」があります。人間関係についての具体的な勧めが四章後半から五章前半まで語られていくのも、そのような人間関係の問題を踏まえてのことです[4]。
五22以下に、有名な夫と妻への勧めがあり、六章では親子、奴隷と主人、という具体的な関係に踏み込んでいくのです。夫と妻、男と女、あるいは大人と子ども。それは大きな違いです。歩み寄ることは出来ても、同じになることは出来ません。しかし、違った上で、主にあって一つである。それが、キリストにあってもたらされた「平和」の奥義です。
キリストの奥義を信じる私たちには、相手との違いを受け入れる、という態度が求められます。我慢、忍耐、寛容、柔軟性が求められます。ひと言で言えば、愛です。でもそれは、ただ優しい、温かい、教会の人はみんなニコニコしている、という温々(ぬくぬく)とした雰囲気ではありません。人種や国籍や文化の違う人がおり、受け入れがたい人がおり、意見の違いや個性のぶつかり合いがあった上で、なおキリストにあって互いを尊重し、神の家族として受け入れ合う「愛」です。賑やかな愛であり、バラエティに富んだ愛です。
平和に逆らうのは、このような多様性を認めない力です。話し合いではなく、武力で自分の正しさを認めさせよう。あるいは、手続きを曲げてでも、反対意見を封じてしまおうという動きです。そのような相手に対して、私たちは、自分たちの正しさを主張して、相手を非難する「同じ穴の狢」であってはならないのです。それは、面倒くさいことです。厄介です。でも、その難しさから逃げないのが、地の塩としての務めだと思うのです。教会は平和のために祈らなければいけません。でも、祈ってさえいれば、平和が来る、ということでもありません。私たち自身が、他者を認め、問題の複雑さを受け止め、平和のために出来ることを地道に積み重ね続けること、そうやって、主によって取り扱われ、変えられ、成長させていただくことを求めたいのです。
エペソ書五章後半の、夫と妻への勧めは、妻は夫に従い、夫は妻をキリストが教会を愛されたように愛しなさい、と命じます。ですが、妻は夫に暴力を振るわれても黙って従っていればいい、という適用は言語道断です。主イエスは、人間の罪の深みを見抜いておられ、その頑なさから人間を守ろうとされました。「祈りつつ堪え忍んで従っていれば、いつかは夫も変わるかも知れない。離婚は罪だから、もっと愛しなさい」とは言われませんでした。聖書は家庭を神聖視するわけではなく、家庭においてこそ罪や人間の本性が露わになり、またそれを隠そうとするものなのだと鋭く見抜いているのです。綺麗な空論に逃げて、聖書が語る堕落した世界の現実を見据えないではダメなのです。夫婦の暴力についての本に、このような結びの言葉を読み、とても本質を言い当てていると思いました。
「この問題に関する訓練をわずかしか、あるいはまったく受けていない人ほど、この極めて複雑な問題を非常に単純化し、また精神化した方法で解決しようとする傾向が強い。」[5]
これは平和の問題にも当てはまります。戦争、政治、歴史、罪と悪、そして人間そのものについてよくも知ろうとしないまま、こちらが武器を捨てれば相手も押しかけては来ない、とか、祈り続けていれば奇蹟が起こるとか、伝道してみんながクリスチャンになれば平和は来る、そんな事を言う人もいます。「殺すより殺される方が良い」という論理は一見純粋なようでいて、愚かです。罪の問題の暴力性から目を背けています。戦いから逃げることで、もっと大きな悪を引き起こすことにならないのか。悪しき政府が子どもたちを教育した、ポル・ポトの再来でもいいのか。家庭においても世界においても、罪の解決を単純化し、精神化をせず、歴史を学び続け、他者に耳を傾け、手を繋ぎつづけていくことです。信仰は問題を単純に楽観的に考える口実ではなく、聖書の示すように、罪の痛み、苦しみをキリストとともに担いつつ、うめきつつ、贖いを待ち望むものであるはずです。
また、パウロが、この奥義に仕える者として持っていた自己意識は、
三8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためでした。
というものでした。新共同訳では「最もつまらない者であるわたし」と訳していますが、私たちが自分の傲慢や正義感を砕かれて、謙らされることもまた、福音の奥義に生きるためには欠かせません。パウロはエペソ書で、「内なる人を強くされて」と勧めます(三16)。具体的に、情欲(四22)、偽り(四25)、怒り(四26)、などを自制する訓練も強調しています。それは、御心の奥義が、実現していくうえで、私たちが心の奥深くから変えられ、新しくされて、本当に一つとなるために欠かせないことだからです。
4. 段階的に。御心への信頼と望みを。
「平和への道は陶酔せぬ心にある」という言葉を読んだことがあります。キリストが果たされた奥義は、完成のときに向かっています。既に果たされた「ひとつ」であると同時に、まだ完成されていない、やがての完成を待つ「ひとつ」という奥義です。それは、私たちが物事を単純化して考え、ウットリさせてくれるような現実を夢見る誘惑から救い出します。主がおいでになるまで、永遠の御国にともに目覚めるまでは、常に不完全なのです。国家は、靖国や新憲法などによって、私たちを陶酔させてくれるような未来を語ります。ナチス・ドイツに傾いていった民衆も、熱狂的な興奮に酔い痴れた人々でした。教会も、ビリー・グラハムだ、韓国のやり方だ、伝道映画だ、教会成長論だ、と様々な伝道手段に縋っては、爆発的な成長を夢見て、陶酔したがる醜態をさらしてきました。けれども、そこにこそ、真の平和とは程遠い、まがい物があるのです。
パウロは、エペソ書最後の六章で、
六10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11悪魔の策略に対抗して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
と言い、「神の武具」として真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えを挙げます。これは、四13~16で語られてきたことと繋がっています。キリストのからだを建て上げ、信仰と知識との一致に達し、完全に大人になり、キリストの身丈にまで達する、と言いながら、
14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
と言うのです。「霊的な戦い」とはただ、悪霊の存在や邪魔を意識するというだけではありません。悪魔の策略は、教会を、キリストにある一致、御心の奥義から引き離そうとすることにあります。真理や神の正義が曖昧だと、サタンの欺き、人間的な虚しい幻想に走ってしまいます。平和の福音にしっかりと立っている事が、悪魔の策略や国家の語る幻想から私たちの目を覚まさせるのです。
今はまだ主の平和は完成してはいません。しかし、私たちはその途上にあります。この二千年の歴史、教会もまた模索と失敗とを繰り返し、世界も多くの戦争と挫折を繰り返してきました。この歴史は無駄ではありません。神は、太陽を上らせ雨を降らせて全ての人を憐れんでこられました。科学が進歩し、技術が発展し、思想も深まってきたのも神の一般恩恵です。多くの王制が廃止され、「民主主義」という手段が広がっていることもそうでしょう。世界が繋がり、国際感覚も成熟して、平和教育も浸透しています。ガンジーやマララさんの言葉には本当に胸を打たれます。武器も大量破壊兵器などに発達しましたが、平和論もまた発展しています。私は、日本の「憲法九条」という平和主義もまた、神が人間に与えてくださった、強靱な平和論だと信じる一人です。渡辺信夫氏も言います。
「第一次世界大戦の直前に、戦争勃発防止の企てがいろいろとなされ、その企ては成功に至らなかったけれども、戦後には国際連盟をはじめとして戦争を未然に防止する措置は飛躍的に進んだ。/それでも、第二次大戦を防止することができなかったので、戦後はさらに熟慮された防止策が続いている。その最たるものが日本国憲法第九条であって、「国家間の紛争解決の手段として戦争を考えることができない」とは、発展を遂げた公法思想の論理的帰結である。」[6]
聖書から「絶対に戦争は行けない」とは言えません。四百年前にシュライトハイム信仰告白が唱えたのは、当時の政治状況を踏まえない理想論でした。しかし現代の日本が、被爆や敗戦を経て与えられた「憲法第九条」はノーベル平和賞にノミネートしてもらえるほど、現実的な平和政策です。逆に、九条を捨てて武器を取ろうとすることが、周囲の危機を煽り、不審を買っています。私たちは、平和を願う声を上げなければなりません。相手に通じる言葉を探しながら、陶酔せず、希望をもってです。箴言十七1に、
一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
とあります。この「平和」は、実は、有名なシャロームではなく、シャルバーという言葉です。シャロームは「完全」をも現し、内面的な平和から繁栄、神の祝福なども示す言葉です。それに対して、シャルバーはもっと低次元の「安全」「無事」といったニュアンスです[7]。ですが、ここでは、ご馳走と争いがあるよりも、一切れの渇いたパンと取りあえずの無事があったほうが遥かに勝っている、と言います。シャロームではないからダメだ、ではなく、もっと平凡な争いのない状態です。しかし、それさえも、豊かさに勝ると言い切るだけのものを聖書は見据えています。私たちがそのような「平和」を、ケチをつけずに大切に育てていくこと、食卓における争いの解決から始めるようにと教えているのです。
「平和の神なる主。あなた様が、私たちを一つとしてくださるという奥義によって、望みを抱かせてください。大きな事は出来ません。世界を変えることも私たちの仕事ではありません。私たち自身が平和に相応しく変えられていくこと、私たちの家庭、教会、人間関係が新しくされていくこと、そして、ここで手を繋ぎ、この国の一人として学び、声を上げ、祈り続けさせてください。彼方の完成に励まされて、福音に立ち[8]、今ここにおける平和づくりを、小さくとも積み重ねさせてください。愛を与え、恐れを取り除いてください」
[1] 「研究を進めるうちに明らかになり、筆者が少なからず当惑したことは、キリスト教史の最初の3世紀間においても、厳格な平和主義の立場が明確に貫かれていたのではないことであった。」木寺廉太『古代キリスト教と平和主義 - 教父たちの戦争・軍隊・平和』(立教大学出版会、2004年)、246頁。
[2] 木寺、117頁。「」内はSWIFTの引用。
[4] 「四21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はキリストにあるのですから。22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23またあなたがたが心の霊において新しくされ、24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に著るべきことでした。」とある「新しい人」とは、キリスト者一人一人が新しくされるという以上に、「新しい一人の人」、すなわち、キリストにあって一つとされた者となる、ということです。ですから、「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と繋がるのです。
[5] アル・マイルズ『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』(関谷直人訳、日本キリスト教団出版局、2005年)240頁
[6] 『キリスト者の平和論・戦争論』(いのちのことばブックレット)72頁。
[7] 詩篇一二二7、「安心」(箴言一32)、「繁栄」(エレミヤ二二21)、「安逸」(エゼキエル十六49)など
[8] この事を考えていく上で、もう一つ忘れてはならないのは、私たちの根ざすのが、キリストの御業であるということです。神の永遠の御心であり、キリストの贖いの御業において果たされ、やがて終末において完成される、万物が真の意味で一つにされる、という奥義です。この平和の福音を捨てては、私たちは足下をすくわれてしまいます。かつての日本帝国を始め、ローマ帝国や様々な国家が、ここを譲らせようとしてきました。キリスト告白を骨抜きにして、国家の方針に従うことを求め、それに従わなければ、迫害をしたり、経済的な恩恵を与えなかったり、圧力をかけることがあるでしょう。教会が宗教法人を持つとか、キリスト教主義の学校が政府の補助金を受けている時、こうした問題は深刻です。かつて、日本の教会やミッションスクールが国家神道に妥協した動機には、そうしなければ教会を守れない、という思いがあったと言います。しかし、神のみを神とし、十字架のキリストへの信仰に蓋をする妥協は、教会の建つ土台を捨てることであり、教会でさえなくすることに他なりません。私たちが教会を守るのではありません。主キリストが教会を建てられたのです。それゆえ、私たちは、迫害や反対が来て、教会がその時は困窮したり解散したりするとしても、恐れる事なく、希望を捨てることなく、信仰告白に立つ。そのような姿勢が求められるのです。