聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問67-69「いのちは神のもの」 箴言二四11~12

2015-08-23 18:12:50 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/23 ウェストミンスター小教理問答67-69「いのちは神のもの」 箴言二四11~12

 

 今日は、十戒の第六の戒め、「殺してはならない」です。

問67 第六戒は、どれですか。

答 第六戒は、「殺してはならない」です。

問68 第六戒では、何が求められていますか。

答 第六戒は、私たち自身の命と他の人々の命を守るための、あらゆる合法的な努力を求めています。

問69 第六戒では、何が禁じられていますか。

答 第六戒は、私たち自身の命や隣人の命を不当に奪うこと、および、それに至る一切のことを禁じています。

 書いてある事を読めば、誰も反対する人はいないでしょう。殺してはならないことも、自分の命と他の人々の命を守るために、あらゆる合法的な努力が求められていることもその通りだと思います。命を不当に奪うこと、そしてそれに至る一切のことが禁じられている、というのもその通りですね。けれども、私たちの周りでも、世界でも、この戒めは破られ続けています。先週も、大阪では中学一年生の暴行死事件がありました。バンコクでは爆弾テロがあって、二十人が亡くなりました。日本では毎年千件近い殺人事件があるそうですが、危険な運転で交通事故に巻き込まれ亡くなる方も毎月三百名、そして、自分で命を絶ってしまう人は、毎月二千人前後だそうです。何と悲しいことでしょうか。いいえ、悲しいと言っているばかりでは何にもなりません。「殺してはならない」と仰った主なる神に、私たちは全力で立ち帰らなければならないのです。

 殺してはならない、命は守らなければならない。それは分かっているはずです。しかし、それがこんなにも簡単に破られるのは、命は大切なのは分かっていると言いながら、損をしたくないとか腹が立ったとか、ちょっとぐらいお酒を飲んでも車を運転しても大丈夫だろうとか、そんな自分勝手なことの方が大事になっているからです。でも、もっと根本的なことは、いのちは私たちのものではなく、神のものだ、ということです。自分のいのちだって、自分のものではなくて、神のものです。神のものですから、大事にしなければならないのです。決して、人が軽く扱って、傷つけてはならないのです。ただ、「殺すことは悪い」という道徳ではないのです。いのちは、どんないのちでも、殺したり傷つけたりしてはならない価値があるのです。そして、特に人間には、神様がご自身に似せてお造りになった、という「神のかたち」に造られた、特別な存在だと聖書は言っています。聖書が、殺人の禁止を最初に語った時点で、人は神のかたちに造られたのだから、人の血を流す者は自分も殺されなければならない、と教えています(創世記九6)。人間が、神のかたちに造られている、という特別な尊厳を私たちは心に刻まなければなりません。ですから、イエス様は、「殺してはならない」を踏み込んで、

マタイ五22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

とまで言われます。殺したり傷つけたりはしないけれど、口では馬鹿にしたり、心では腹を立てたりしているなら、「殺してはならない」という戒めを破っていることになる、というのです。これは大変です。でも、殺してはならないとはそういうことです。殺さなければ守っています、というのではない。命を愛おしむのです。決して殺したり傷つけたりしてはならない、大切な、尊い命なのだ、自分の命もあの人の命も。腹が立つこともある。邪魔に思えるような時もある。関係ないように思えるときもある。けれども、その全ての命が、尊い命なのだ。そう教えられているのです。

 そう考えると、これは何と素晴らしい言葉でしょうか。人は皆、殺されたり、命の価値に優劣をつけたりすることがあってはならない、尊厳ある存在だ、ということです。昔、エジプトの国にも「神のかたち」という言い方はあったそうです。しかし、それは、王ファラオだけの呼び名で、他の人には当てられませんでした。しかし、真の神は、王様だけでなく、すべての人が「神のかたち」だと宣言したのです。王も、兵士も、農民も、奴隷も、奥さんも子どもも、老人も、みんな「神のかたち」であって、「殺してはならない」と言ったのです。貧乏人でも、障がい者でも、病人でも、お腹の中の赤ちゃんでも、どんな生まれや、どんな事情があっても、人のいのちに優劣はありません。馬鹿にされたり、憎まれたりしてはなりません。「神のかたちに造られた」のであって、殺していい人などいない、としたのです。

 ただし、正当防衛まで禁じているわけではありません。暴力に抵抗して、殺すことはやむを得ないこともあります。律法も、殺人犯や誘拐犯は死刑だと厳しく言っています。また、人を助けるにも限界があります。そして、人は今はやがて必ず死ぬのです。限りある命です。でもその限りある命を、大切にしなさい、と言われています。ですから、命をぞんざいに扱うことも、遠回しな殺人になります。健康管理をいい加減にして、病気や過労死になることも、危険なドライブやスポーツや遊びをすることも、いのちを弄んでしまう愚かな行為ですね。むしろ、今日読んだ箴言の言葉のように、

箴言二四11捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

 命を救い出すようにと、神様は私たちに命じておられます。それは、殺されそうな人を助け出すだけではありません。生きる意味を本当に多くの人が見失っています。お金があって幸せな筈なのに、生きている価値が分からずに、不摂生な生き方をしている人もいます。自分が大切だと思えないし、人の事も大切に思えない。しかし、この私たちのために、イエス様が救いの御業を果たしてくださいました。私たちを生かすために、十字架に死んでくださいました。どうして私たちが、そのイエス様の十字架の価値を蔑ろにしてよいでしょうか。生かされている事を喜ばなくてよいでしょうか。イエス様が示してくださった生き甲斐を、すべての人に証しする生涯を送らせていただきましょう。

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ルカの福音書二二章63~71節「悪口を浴びせられるキリスト」

2015-08-23 18:11:01 | ルカ

2015/08/23 ルカの福音書二二章63~71節「悪口を浴びせられるキリスト」

 

 私の周りには「ハタ」という名字の牧師が三人います。四国でならあの「ハタ先生か」と思えるのですけど、ややこしい時も多いのです。この前も、「ハタ先生が」と話をしばらくして、何となく会話がかみ合わず、「あ、あっちのハタ先生の話だ」と気づいたことがありました。同じ言葉を使っていても、実は違うことを考えている。そういうことは皆さんもあるでしょう。名前だけではありません。「神」とか「救い」とかいう言葉も、人によってイメージが様々で、全く話がかみ合っていないことがあります[1]。今日の箇所にもそんな噛み合わなさがあります。

67こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、

68わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

 ここでイエス様は「わたしはキリストです」とは仰いませんでした。キリスト、とはヘブル語の「メシヤ」(油注がれた者)をギリシャ語訳した言葉で、神に油注がれて特別な働きをする支配者を指します。世界を新しくしてくださる、真実な王であり、救い主であり、希望そのもののお方です。旧約の終わりから、新約の初めにかけて、このようなメシヤ(キリスト)のおいでを待ち望む信仰がイスラエルの中に広がっていました。

 しかし、ここでさっき言った食い違いが起きていました。彼らが考えていた「キリスト」とは神の栄光を帯びた、輝かしく力強い勝利者でした。当時の世界を支配していたローマ帝国を打ち負かしてくれるようなヒーローです。ローマの軍隊と戦い、重い税金を払わなくてよくしてくれ、折れ掛かっている民族意識を持ち上げてくれるような救世主を「キリスト」として待ち望んでいたのです。これを「政治的メシヤ」とか「軍事的メシヤ」と呼ぶことも出来ます。政治的に、軍事的に、世界を救い出し、自分たちの生活を改善してくれるのがメシヤでした[2]

 しかし、主イエスはそういう「キリスト」ではありません。これは、今までルカ福音書を読んできた中で、繰り返されてきたメッセージです。実際、ここにおられるイエス様のお姿はどうでしょうか。63節から書かれている通り、ただの監視人たちにからかわれ[3]、鞭で叩かれ(続け)、目隠しをされて「今叩いたのは誰か、当てて見よ」と弄ばれるままの惨めな男です[4]。悪口を浴びせられても、罰しようとはしません。議会に引き出されて抵抗もせず、殴られた痕は腫れ上がり、流れた血とかけられた唾の跡が渇いて見えます。鞭打ちの傷の痛みにひきつったでしょう。夕べ遅くまで、汗と涙を激しく流しながら祈り続けられたまま、一睡もしていないのですから、憔悴しきっています。年の頃は三〇歳を過ぎたばかりですから、年配者が醸し出す威厳もありませんし、話す言葉はガリラヤ訛り。どう考えても、ヒーローとか解放者というイメージには届きません。けれどもイエスはその、惨めな汚れたお姿のままで仰るのです。

69しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。

 これはもう全く状況とそぐわない発言です。自分が今、悪口を浴びせられ、叩かれ、嘲られている状況さえどうにも出来ないし、どうにかしようとさえしていないのに、「神の大能」(力)の右の座に、今から着く、と仰るのです[5]。イエスの中には、その確信がありました。人から冷たい仕打ちや不条理な暴力を受け、敵意や悪意に取り囲まれても、それを何とか解決するかどうかは問題ではない。不正な状況を力尽くで変えて、改善することが神の力ではない。そうではなく、悪口を浴びせられても憎しみに囚われず、不条理の中でも恐れや絶望や孤独に流されずに、神の御心に従うこと。それこそが、神の大能の右の座に着くご自分の道なのだ、と確信しておられたのです。この言葉に、議会の人々は皆が言いました。

70…「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。

71すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。

 「人の子」とイエス様が仰ったのは、ダニエル書七13に出て来る言葉から持ってきたメシヤの呼び名です[6]。そして、その人の子が「神の大能の右の座」つまり皇太子の御座に着くと言った時に、彼らはこぞって、「ではお前は神の子のつもりか」と言いました。イエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と答えられました。神の威厳とか輝かしさとかは全くない、汚れた惨めなお姿のままで、そう答えられました。そして、そう答えることでこの議会に、冒涜罪の口実を与えることも承知の上で、そうお答えになりました[7]

 当時のメシヤ待望は、「政治的・軍事的メシヤ」だと言いました。「的」だなんて言っただけで、余所余所しい思いをするかもしれません。では、私たちはどんなキリストを期待しているのでしょうか。お金や貧困の問題をあっさりと解決してくれる「経済的メシヤ」とか、病気や健康、老化の悩みを取り去ってくれる「治療的メシヤ」。勉強や、心の不安や、人間関係や、様々な問題の解決を求めているものでしょう。どれも大事です。イエス様の時代に人々が求めた政治や暴力の問題も、それはそれで大事だったのです。けれども、そうした問題の解決がキリストのお働きなのでしょうか。病を癒し、嵐を沈め、どんな難問にも絶妙な名答でお答えできたキリストが、ここでそうした力を一切発揮せずに、ほんのちょっとでもやり返してやろうともせずに、惨めなお姿のままで「神の大能の右の座に着く」と仰っていること自体が、私たちの考え方を覆してしまうチャレンジではないでしょうか[8]

 私たちはこう思っていないでしょうか。
「神には何も出来ない事がないのなら、この状況を変えて欲しい、自分のささやかな願いを叶えてくれてもいいぢゃないか、こんなに傷つくような思いをどうしてしなければならないのか」。
 勿論、そう願って解決を祈ることが悪いのではありませんし、諦めずに祈ってよいのです。しかし、それ以上に、私たちはこのイエスのお姿を通して語られています。今の私の状況においても、イエスは神の大能の右の座に着いておられて、御業をなしておられるのだ、と。疑い、呟き、恐れて、神を呪うことを止めて、今ここでキリストの良き御支配を信じることを迫られます。状況が苦しいからと、ペテロのように嘘を吐いたり逃げ出したりしてしまう、その被害者意識や自己憐憫からこそ、私は救ってもらう必要があるのだと、気づかされたいと思います。

 主は全能のお方です。政治や経済、私たちの状況やあの人この人を変えることもお出来になりますが、主は何よりも、私たち自身の心を、神の愛によって満たしたいのです。傲慢やプライドで占められて、思うようにならないと傷つき、怒り、裏切るような心から救い出したいのです。神が私たちを愛されているのですから、どんなに人から罵られようが、苦しかろうが、神が私たちを導き、治め、愛されている事実は変わりません。必ず主イエスがともにいて、私たちを、神の大能により、闇の中でも支えてくださるのです。その主に、私たちの状況も、私たち自身の心、根本的な生き方も委ねましょう。

 

「主が本当に酷い扱いをも進んで引き受けてくださったのは、あなたの無力ではなく、神の大能のゆえでした。今世界を治めておられますあなたに、ますます深く期待させてください。その深い大能によって、私たちをどうぞ御心のままに造り変えてください。思い上がりや不平不満から救われて、今ある所で主がともにおられる幸いに絶えず立ち戻る幸いをお恵みください」



[1] だから、私たちが神ご自身の御言を通して、神がどんなに偉大で真実であるかを教えられていることが大事になってくるのです。

[2] しかし、当然ながらそれは、ローマの支配に対する反乱でもありますから、議会はイエスがキリストを名乗るならば、ローマ総督のピラトに、反逆罪で訴えるという算段もあったのです。なぜなら、彼らが言う「キリスト」は政治的な解放者を指したからです。

[3] 「からかう」エムパイゾーは、十八32「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます」といわれていた言葉です。その成就がここであり、二三36「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し」です。ちなみに、二三35の「あざわらい」はエクミュクテーリゾーで別の語です。

[4] 63節の「イエスをからかい、むちでたたいた」の過去形は、一度きりではなく、継続的な行為であったことを現す時制です。また、64節の「言い当ててみろ」は、直訳すると「預言せよ」で、イエスの預言者としての資質を嘲り、挑発したものです。

[5] これは、詩篇一一〇1「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」を引用したものです。「右の座」とは、王の「右手」となって統治する権威の座です。神である主が、主(メシヤ)に、完全な裁きの実行に至るまで、メシヤに権威を与える、という宣言です。決して、「右の座でゆっくり休んで待っていなさい」ということではありません。むしろ、このユダヤの議会の真ん中で、被告席にいるようでいて、実は、キリストが裁きの座に立ち、議員や世界の人々を裁き、敵を確実に踏みにじる、と仰るのです。しかし、二〇41~44でも詩篇一一〇が引用されていました。ダビデの子以上に、神の子である、と宣言されていたのです。しかしその言葉にも聞こうとせず、揚げ足を取り、責任を擦り付けることしか考えていないのでした。

[6] ダニエル七13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」この、比較的マイナーな「メシヤ称号」をイエスは好んで使われました。それは、もっと手垢のついたメシヤ称号で政治的なメシヤの期待を抱かせないためです。

[7] ユダヤ人からすると、「偉大な神の子が、おまえのような惨めで、願わしくないものであるはずがないのに、それでもお前は神の子だと詐称するなら、冒涜罪で死刑だ」と言う意図がありました。イエスからすると、「わたしこそは、弱く惨めに謙ってまで、正義を行い、人を底辺から造り変える神の子である」と仰っています。ここにも、言葉のイメージが違うために、すれ違いが起きています。そのかみ合わない会話が、「わたしがそれだと言っているのは、あなたがただ」という歯に物が挟まったような言い方になっていますが、イエスの言葉は、ただのすれ違い以上に、彼ら自身の、真理を求めるよりも何とかして揚げ足を取ってでもイエスを殺そうという悪意があり、その責任は彼ら自身にあることを指摘しているのです。

[8] ルカは、イエスの裁判において、訴えの証拠が見つからなかった、偽証で陥れようとした、神殿を壊す罪を問われた、沈黙を貫いた、サンヘドリンでも殴られ、唾をかけられた、といった、マルコ、マタイの記述は省略しています。それ以上に、マタイ、マルコはイエスの裁判を先にして、ペテロの否認をその後にしていますが、ルカはそれも逆転しています。そして、侮辱したのが、裁判後の議会においてではなく、裁判前(有罪確定前)の「監視人ども」としています。また、マルコが、再臨のキリスト証言を伝えるのに対して、ルカは、「今から後」と現在化しました。このように、ルカの裁判記事は、短く編集していながら、要点を非常に分かりやすく凝縮しています。それは、この酷く扱われるお方こそキリストであり、それはユダヤ人たちには悟ることが出来なかった「メシヤ理解」だ、ということです。これは、ルカ全体を一貫しているテーマです(参照、ルカ二四44~49)。

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問65-66「親との和解 その困難と祝福」

2015-08-16 21:57:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/09 ウェストミンスター小教理問答65-66「親との和解 その困難と祝福」

 

 先週に続いて、十戒の第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」からお話しをします。問65では「父と母を敬え」とは何を禁じているのか、という角度で説き明かします。

問 第五戒では、何が禁じられていますか。

答 第五戒は、さまざまな立場と関係にある、あらゆる人の名誉とその人に対する義務を無視したり、それらに反することを行うことを禁じています。

 前回もお話ししたように、ここでは自分の親だけでなく、「さまざまな立場と関係にある、あらゆる人」に対して、その名誉と義務を無視したり、それに反することを行ったりすることが禁じられている、というのですね。親だけではなくて、全ての人間関係の土台が、親との関係から始まるのです。あるクリスチャンの方がこんな事を言っていました。「祝福された結婚の最大の秘訣は、親との和解です」。これも、親との関係が、結婚して、新しく自分の家庭を持ったときと切り離せない関係がある、ということですね。あなたの父と母を敬え、ということは、様々な人間関係の根っこにある親子関係を解きほぐそうという神様の御心なのだと言えます。

 けれども、聖書に描かれているのは、人間が罪によって神から離れ、親子や夫婦や大切な関係もおかしくしてしまう姿ですね。お父さんやお母さんとの関係でさえも、敬うことが難しいぐらいこじれて苦しんでいる人はたくさんいます。結婚の祝福は、親との和解です、だなんてわざわざ言わなければならない事自体、親子の関係がギクシャクしてしまっている証拠です。聖書に出て来る親子は、イサクも、ヤコブも、ダビデも、親子関係で問題を抱えていました。現代もこの問題は解決していません。親だからって尊敬できるわけではないことは、明らかです。神様はどうして、そんな人間社会に対して、「あなたの父と母を敬え」だなんて仰ったのでしょうか。「敬え」と言われて、「はい、分かりました。尊敬します」と言えるようなものではないとご存じないのでしょうか? どんなに親がひどい人でも、我慢しなさいと仰っているのでしょうか?

 いいえ、神様は人間の罪や苦しみの深さを、誰よりもよく知っておられます。敬えと言われて、敬えるわけではないことも知っておられます。だから、ここでも

「あらゆる人の名誉とその人に対する義務を無視したり、それらに反することを行うことを禁じています」

と言われています。父と母を好きになりなさい、ではありません。父と母からどんなひどいことをされても受け入れなさい、でもありません。親だからといって、子どもに何をしても許されるわけではないのです。神様は、人間の罪を怒り、悲しまれるお方です。それを無理遣り、和解させよう、好きになりなさい、などとは仰いません。けれども、私たちがいつまでも、こじれた関係や相手の問題に振り回されたまま、縛られて、引き摺ってしまうことも望まれません。だから、「あなたの父と母とを敬え」と仰るのです。恨んだりせず、関係を解きほぐそう。苦しい思いはわたしが引き受けるから、あなたは敬いなさい。それが、あなたの解放になるのだ、と言われるのです。

 「父と母」という言葉は、聖書の最初の創世記二章で初登場します。そこでは、人が

創世記二24…その父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

とあるのですね。両親との関係は、やがて「離れる」べきものだ、と聖書の最初に言われています。そう言いつつ、同時に、十戒では「父と母を敬え」と言われているのです。ですから、「父と母を離れる」と「父と母を敬う」は両面です。

 両方あっての関係です。中には、親が子どもから離れたくない、子離れが出来ない大人も沢山いて、子どもが巣立っていくと「敬われていない」と寂しがったりします。でも、そうではありません。反対に、親に反抗したくて、飛び出してしまうことで「父と母を離れ」て、スッキリしたと思っている人もいます。でも、それも違います。反抗心から離れるのでは、実はまだ親離れが出来ていないのです。逆に、いつまでも離れられないようでは、敬うことも出来ません。お互いの人格の違いを認めることが出来て初めて、「敬う」ことは出来るからです。親子と言えども、別個の存在なのだと、弱さも罪も一癖も二癖もあるがままに認めることが出来た姿が「敬う」という姿勢なのです。

 この第五の戒めには、「理由」が付け加えられています。申命記ですと、

五16…それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

 とはいえ、親孝行をすれば全員長寿になる、とは言い切れませんね。問66の答でも、

第五戒に付け加えられている理由は、この戒めを守るすべての人々に対する、長寿と繁栄(それが神の栄光と彼ら自身の益に役立つかぎりで)の約束です。

とはありますが、これは、個々人に対する約束、というよりも、この戒めを守る人々全体、言い換えれば、そういう社会や国家が、長く繁栄するという約束と考えた方がよいでしょう。主は、足りない親、尊敬するのが難しいような親に対してさえ、敬意を払うような社会には、末永い繁栄を約束しておられます。

 いいですか。人を騙したり、お金儲けばかりしたり、強い軍隊を持ち、たくさんのミサイルやコンピュータを持つことで、末永く繁栄すると思っている政治家や政府は沢山あります。経済大国や軍事大国、周囲の国々を支配し、隣国と競い合う動きは、この日本にもあります。しかし、それは間違っているのです。人と人が、力比べをしたり、利用し合ったりするような社会は、決して、幸せな社会にはなれません。心の中に恨みを引き摺っていると長生きは出来ません。実際、豊かそうな国で、多くの人が心を病み、家族が壊れて、おかしくなっているではありませんか。

 私たちはここで会堂に集まり、主イエス・キリストを礼拝し、讃美をささげています。それは、楽しく歌って嫌な人を忘れて、鬱憤を晴らし、またそれぞれの生活に戻っていくためでしょうか。決してそんなことではありません。私たちが讃美する神は、生きておられます。世界を作られ、命を下さり、教会や音楽、そして親や友を下さった、大いなるお方です。そして、私たちを、敗れた人間関係の中で、生かしておられ、そこにおいて神にある「敬う」関係、愛し、愛される関係をもたらすためにお遣わしになるのです。家族が傷を持ち、不器用で、自己中心が最も現れる場所であると認めつつ、そこに自分が置かれている摂理を受け止めさせてくださいます。そのような、全く新しい回復を、私たちを通して始めることが、主の御心なのです。

 主イエス・キリストは、「あなたの父と母を敬え」と言われ、両親やあらゆる人への思いも新しくしてくださるのです。

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ルカの福音書二二章54~62節「ごまかしはおしまい」

2015-08-16 21:54:50 | ルカ

2015/08/16 ルカの福音書二二章54~62節「ごまかしはおしまい」

 

 「戦後七〇年」が経ちました。七十年前、戦争だけでなく、言論や信教の自由も許されない大変な中で、礼拝をしていたクリスチャンたちがおられました。もっとも、日本よりもお隣の朝鮮の方が信仰にシッカリ立って、多くの牧師や信徒が投獄され、殉教されました。迫害や死ぬことも厭わずに、キリストを告白し続けた方は、日本の教会にも全くいなかったわけではありませんでしたが、大勢は、衝突を避けて、お国のために祈り、尽くす道を選んだのです。

 今日の箇所で、ペテロが三度イエスを否認した所を読むときに、命と引き替えにしてでもキリストを告白する、というテーマを重ねて読むことも多いのではないでしょうか。自分も、そんな戦時中や迫害のただ中の時代にあったら、ペテロのように主を知らないと言うのではないか… そんな読み方も間違ってはいないでしょう。けれども、ペテロはこの時、イエスを知らないと言ったのは、殺されることを恐れたからなのでしょうか。イエスの弟子であると言ったら、迫害されるから、勇気が持てなかったのでしょうか。そうではなかったのです。

 オリーブ山で捕まったイエス様に、ペテロは人に紛れてついていきました。でも、この時点で、逮捕に来た人々は、イエスを捕まえる以外、弟子たちも一網打尽にしようというつもりはサラサラなかったのです。ペテロは紛れて、着いていき、大祭司の邸宅に入ることも出来たのですから。そのペテロを、一人の女中が見つけて、見咎めるのですね。

56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。

 もしこの人々に、ペテロや弟子たちを、イエスともども捕らえて罰してやろうという意図があったとしたら、ここでペテロがいくら打ち消した所で、周りが黙ってはおかないと思うのですね。引っ張っていって、尋問や拷問にかけたと思うのです。しかし、そんな動きはなくて、

58しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。

59それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。[1]

 しばらくして、一時間して、と、まるで何か、話題がなくなったからまたペテロをいじって、躍起になって否定するペテロを見て、ニヤニヤ笑っているようでしょう。そして、もしイエスの仲間ならどうなのか。共犯者として捕まえてやろうか。そういう積もりはなくて、ただペテロの正体をネタにして、焦って否定するこのガリラヤ人を面白がっていじっているだけですね。けれども、ペテロはそのからかいに耐えられなかったのです。逮捕され殺されることが怖かったのではありません。イエスの弟子として、名誉の殉教も辞さない覚悟はあったのです[2]。しかし、彼はイエスの弟子であることが笑われ、馬鹿にされることは嫌だったのです。恥ずかしかったのです。英雄としての殉教だったら出来たのかもしれません。でも、この時イエスが無力に捕まって、祭司長たちが勝利したかのようでした。その邸宅の中庭で、イエスの弟子だと名乗ることは英雄的どころか、苦笑されてオシマイでした。だから恥じてごまかしたのです。

 私たちにとって、これはとても身近なことですね。戦時下や迫害の時代に、キリストか死か、どちらかを選ぶというような仮定の話以前に、もっと現実的なことでしょう。クリスチャンであると言ったからって、迫害や殉教の危険があるわけではない。でもそう言うのが恥ずかしい。「ちょっと変わっている」と思われたくない、面倒くさくなるのは止めておこう。言うとしても、気まずくならないよう、「はしくれです」とか「名前ばかりで」などと逃げを打っておいたり、さっさと話題を変えようとしたり… 思い当たらないでしょうか[3]。でもその彼が、立ち返ることが出来たのは、主イエスがペテロに関わってくださったから、ですね。

61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62彼は、外に出て、激しく泣いた。[4]

 主がペテロを振り向いて、目が合った、かどうかは分かりません。大事なのは、目が合ったかどうか、ではなくて、主がペテロを見つめて、ペテロが主の言葉を思い出した、という事です。それは、ペテロが自分の忠誠心や信仰深さによってイエスを告白し抜くとか、恥ずかしさや恐れや臆病によって知らんぷりをしたとか、そういうことよりももっと深いキリストご自身の眼差しへの気づきでした。もっと頑張れとか、仕方なかったとか、そんな人間の側の言い訳よりも大きく強い、キリストの、自分に対する関わりに気づかされたことでした。

 このペテロの涙は、何と言ったらいいのでしょうか。情けなさとか申し訳なさとか、赦された有り難さとかキリストの恵みへの感動とか、そんな事よりももっと深い涙なのではないでしょうか。自分では人一倍忠実な弟子を目指していましたし、今は今で嘲られるのが我慢できなくて嘘やごまかしや分からないフリで体裁を繕ってしまいました[5]。そんな取り繕いのもっと根底にある自分を、胡麻化しようのない自分というものを、主イエスは知っておられ、見つめておられ、引き戻してくださいました。その事に気づかされて、魂を揺さぶられたのがこの涙なのではないでしょうか。

 主を裏切った罪悪感や、今まで自惚れてきたことへの恥ずかしさ、そして、そんなペテロを愛してくださる主の恵みもあったでしょう。でも、そこで自己憐憫や「これでもいいんだ」という開き直りに終わらせるのが主ではないはずです。主はペテロを見つめてくださいました。その眼差しは、ペテロの頑なな心を砕き、激しい涙を流させ、その存在そのものを揺さぶり、新しくしてくださいました。この主との関係こそが何よりも大切なのです。ペテロが頑張るとか失敗した、といった、上っ面の胡麻菓子や背伸びをもうオシマイにさせて、取り繕いや気負いのない、主に対する信頼によって再出発させてくださいました。

 私たちも弱い者です。小さな者です。でも、その私たちの脆さや調子の良さも逃げ腰なところも全て知っておられる主が、私たちを見つめておられるのです。私たちを蔑むことも笑うこともなく、私たちを尊び、愛し、私たちが取り繕いがちな価値よりももっと深く真実な価値を、私たちに与えてくださるのです。その眼差しは、私たちにとってどんなに喜ばしいことでしょう。そんな眼差しによる励ましをどれほど必要としていることでしょうか。主は私たちをその眼差しによって見つめ、支え、新しくしてくださいます。

 私たちも、キリスト者だからと大きな顔をする必要もありませんし、頑張って信仰を貫いてやろうという自信も棄てなければなりません。でも逆に、キリスト者であることを恥じたり、遠慮したり、反対や笑われることを恐れたり、面倒臭がったりすることもないのです。そして、私たちもまた、他者を裁かず笑わず、失敗も恐れも恥も受け入れる、主の眼差しを持つようにと、励まされているのです。

 

「主よ。恐れ、裏切ったペテロの心に激しく触れて立ち上がらせたように、主が私たちをも痛みや労苦や試練を通して、ますますあなた様を指し示す存在とならせてください。あなた様が見つめておられる多くの方々の赤裸々な姿から、どれほど教えられ、励まされてきたでしょう。私たちもまた、胡麻菓子や言い訳やプライドを捨てて、自分自身を差し出させてください」



[1] これだって、「ガリラヤ人だからイエスの仲間に違いない」という、かなり乱暴なこじつけです。「関西人だから阪神ファンに違いない」よりも大雑把です。

[2] ペテロはなぜここに来たのでしょうか。主イエスへの愛からではあったでしょうし、勇気を見せたかったとも思えます。特に、「ついて行った(アコリューセオー)」は、ルカで17回も使われる、弟子の動詞です。ここでもペテロは、「ついて行った」のです。しかし、ついて行ったのが「主に」とは記されていません。繋がりで言えば、ペテロはこの時、「彼ら」について行ったのではないのか。もっと言えば、今までも、ペテロは主に従うよりも、自分の美学や自惚れに従っていたに過ぎないとも言えないでしょうか。

[3] そういう時、私たちは、おかしな事にイエスはどんなお方か、ということを抜きに考えています。人からどう見られるか、あれこれ突っ込んで聞かれたら答えられないしややこしい… そういうことにばかり気を回して、肝心のキリストとの関係を見失っているのではないでしょうか。

[4] 「泣く」 ルカで11回(六21、25、七13、32、38、八52、十九41、二三28)

[5] ペテロは、最初は「私はあの人[イエス]を知りません」と言い、次に「いや、違います[私は彼らの仲間ではありません]」と自分を否定し、最後は「あなたの言うことは私にはわかりません」と会話そのものを打ち切っていきます。マタイ、マルコは否定の度合いの強まりを、ヨハネはその事実を(泣いたことは省略)。ルカは、ペテロのセリフを全て記録して、その中身の問題(ペテロの危機)と主イエスの眼差しによる回復を記す。

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問63-4「親も子どもも敬え」エペソ六1~4

2015-08-11 15:14:11 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/09 ウェストミンスター小教理問答63-4「親も子どもも敬え」エペソ六1~4

 

 今日と来週は、十戒の第五の戒めから、神様の深い御心を教えられましょう。今までは、他の神があってはならない、偶像を造ってはならない、神の御名をみだりに唱えてはならない、安息日を覚えよ、という事でした。生ける本当の神様だけを礼拝することが、その方法や、心持ちや、時間の過ごし方から教えられていました。それが、十戒の前半の要求でした。後半では、神様との縦の関係から、人間同士の、横の関係についての内容になります。その最初が、今日の第五の戒めです。

問63 第五戒は、どれですか。

答 第五戒は、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」です。

問64 第五戒では、何が求められていますか。

答 第五戒は、目上の人、目下の人、あるいは対等な人として、さまざまな立場と関係にある、あらゆる人の名誉を守り、その人に対する義務を果たすことを求めています。

 次の第六の戒めは「殺してはならない」なのですね。「殺してはならない」よりも先に「父と母とを敬え」が来ます。これは、とても面白いと思いませんか。勿論、どっちも大事なのですよ。殺人は親不孝よりも罪が軽い、という意味ではありません。順番であって、優先順位とか比較ではないのです。

 でも、私たちはみんな親があって、生まれたのです。生まれる前から、親との関係があって、命が与えられたのです。そんな意識はないでしょうが、赤ちゃんにとって最初は親との関係が人生の全てです。そこから段々と他の関係にも気づくようになっていくのです。だとすると、人間にとって「殺してはならない」よりももっと根源的なことは、確かに親との関係ということなのだなぁと思わされて、十戒の順番が持っている意味が「なるほどなぁ」と分かるのです。

 ウェストミンスター小教理問答では、「あなたの父と母を敬え」を解説して、

 …目上の人、目下の人、あるいは対等な人として、さまざまな立場と関係にある、あらゆる人の名誉を守り、その人に対する義務を果たすことを求めています。

としています。親というから、目上の人だけかと思ったら、目下の人、あるいは対等な人、あらゆる人だ、というのです。学校の先生や上級生、先輩、職場の上司、政治家や指導者たちだけではないのです。下級生や後輩、職場の部下、社会の立場の低い人、弱い人も、同僚や仲間も、引いては、通りがかりの人や見知らぬ人も含めた、すべての人に対して、その名誉を守り、果たすべき義務があれば果たしなさい。そう言います。それぐらい、お父さんお母さんとの関係は、すべての人間関係の土台だ、という事ですね。

 でも、そんなに大切ならば、わざわざ「あなたの父と母とを敬え」とわざわざ何故言う必要があるのでしょうね。それはやっぱり、お父さんとお母さんと言えども、尊敬するのが難しいこともあるから、ですね。大好きなお父さんとお母さんでも、間違うことがあります。話しを聞いてくれなかったり、分かってくれないと思ってしまったりすることもありますね。嘘を吐いたり、裏表があったりするかも知れません。僕は小学校の時に、家族でドライブをしていたら、お父さんがスピード違反で捕まったことがありました。「お父さんはクリスチャンなのに、警察の人に謝っている」と、物凄くショックだった記憶があります。中には、間違っている時の方が多くて、お父さんお母さんを尊敬するだなんて難しすぎる、と思わずにはおれないお友達もいます。とても悲しいことですが、親になっても、どう子どもを愛して、育てたら良いのか、分かっていない人もいるのです。聖書が、「あなたの父と母を敬いなさい」と言っているのは、そんな酷い大人がいると考えていないからではありません。むしろ、聖書は、大人も子どもも、みんな罪があると教えています。親になったからといって、立派なお父さんお母さんになるわけではありません。良かれと思ってでさえ、間違った育て方をしてしまうのが人間なのだ、と聖書は言っているようです。

 ですから、神様は十戒で、どんなお父さんお母さんでも、「好きになりなさい」「言うことを絶対聞きなさい」と言っているのではないのです。エペソ書六章1節でも、

 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

と言われていました。「主にあって」とは、主なる神様とともに歩む者として、ということです。もし、親が主の御心に逆らうことを言ったら、それでも親の言うことに聞き従え、ということではないのです。そして、親にも、

 4父たちよ。あなたがたも、子どもを怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

と言われたのですね。子どもにだけ、親への尊敬を命じたのではないのです。

十戒でも、最初には何と言われていたでしょうか。

出エジプト二〇2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

でしたね。それが、十戒の全ての出発点です。

「父と母を敬え」

もそうです。神である主が、イスラエルの民を導き出してくださいました。尊い御業で神の民としてくださいました。それでもまだ、イスラエルの民は間違いを犯し、罪の思いから自由ではありません。自分の家族という一番大切な関係でさえ、こじらせてしまうのです。でも神は仰います。あなたがたの土台は、わたしだよ。親との不完全な関係から、わたしがあなたがたのために果たした完全な関係に、あなたの生きる土台を変えなさい。親との関係は多かれ少なかれ、必ず壊れている。あなたが親になった時にも、完全な親になんかなれっこない。それでも、わたしがあなたがたを愛しているのだから、あなたがたは自分の親を不完全なままで大切にしなさい。自分の子どもに対しても、わたしがあなたがたを親子として結び合わせることを信じなさい。神は、私たちをご自分の民としてくださった完全な関係を土台として、全ての人間関係を新しい目で見させてくださるのです。

 神様は天の父として、私たちを本当に愛してくださっています。その神様が、私たちに必要なこととして、親を心から大切にしなさいよ、と言ってくださっています。この戒め自体が、完全な天のお父様から与えられた、愛の籠もったプレゼントなのです。

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