聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二二章31~34節「何もない残らないところから始まる」

2015-06-29 09:43:31 | ルカ

2015/06/28 ルカの福音書二二章31~34節「何もない残らないところから始まる」

 

 「シモン・ペテロ」と言えば、キリストの十二使徒の中でも筆頭で、初代教会のリーダーとして知られているでしょう。最後は、ローマで殉教の死を遂げましたが、イエス様と同じ十字架ではもったいないと、逆さまに十字架にかけられてなくなったと言われます。しかし、それ程の篤い信仰を持っていたからリーダーにもなったのだろうと思うと大間違いで、聖書は、そのシモン・ペテロの大きな過ちを赤裸々に伝えているのです。今日の箇所はその典型例です。

31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを[1]麦のように[2]ふるいにかけることを願って聞き届けられました。

 ここで「シモン」と言い、34節では「ペテロ」と言われていますが、元々は「シモン(シメオン)」が本名で、イエス様がつけたあだ名が「ペテロ」、ヘブル語で「ケファ」(岩)という名前でした。つまり、頑固者、動じないもの、ペテロの自信に満ちた性格を物語っています。

33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

 折角イエス様が、ペテロに試練と回復とを予告されたのに、ペテロは、牢であろうと死であろうと覚悟は出来ている、と言い返すのですね[3]。鼻持ちならない自信です。あるいは、自分はサタンに負けるような弱虫ではないと憤慨したのでしょうか。それは、「ペテロ(岩)」という綽名(あだな)に似つかわしいプライドでした。でもその頑固者に、イエス様は愛を込めて言われます。

34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 ペテロもまもなく崩れ落ちる。岩が砕けて、砂のようにこぼれ落ちてしまう。牢であろうと死であろうと覚悟は出来ている、と豪語するペテロが、今晩、明け方に鶏が鳴く前、イエスを否定する、イエスとの関係を否定する[4]。自信家のペテロの自信が、粉砕される時がもうまもなく訪れる。「ペテロ」という呼びかけには、そう言われるのです。

 ペテロは、自分の信仰、イエス様に対する忠実さに自信を持っていました。他の人はともかく、自分は大丈夫です、と思っていました。しかし、イエス様は、その自信を誉めたり励ましたり、これからも何があっても、信仰を捨ててはいけないよ、とは仰いませんでした。サタンが篩(ふるい)にかけても大丈夫な信仰を持っていなさい、と命じたのではありませんでした。また、シモンや弟子たちが、サタンに篩われても何とか生き延びるほどの強い信仰があったから、初代教会のリーダーとなった、ということでもありませんでした。そういう人間の頑張りや熱心によって信仰が保たれるものだとしたら、実は、とてもプレッシャーです。辛いし、疲れます。安心できません。安心できるのは、ペテロのような自信家、自他共に認める頑固者でしょう。しかし、その自信を壊すことこそが、神が私たちに対して必要と思われることなのです。

 31節に

「聞き届けられました」

とあります。これは当然、天の父なる神が聞き届けなさった、許可されたということです。旧約聖書のヨブ記に、この「天上の場面」がよく描かれていますが、サタンが神に、人間を試みることを願い出て、神の許可がなければ、サタンは人間に手を出すことは出来ないと聖書は伝えています[5]。勝手に神を出し抜いたり、神の知らない所で人間を誘惑したりすることは決してないのです。ここでも、サタンは神の許可がなければシモンを篩にかけることは出来ませんでした。そして、神はそれを許可されたのです[6]。しかし、主は真実なお方ですから、サタンが曝こうとするペテロの脆さ、自惚れの間違いは百も承知です。適当にお茶を濁し、欠点を隠しておこうとは思われません。むしろ、ペテロが自分の力で主に従っていると思い上がっているプライドを挫こうとなさいます。ご自身を三回も否定するのが自分だと思い知り、恥ずかしさと申し訳なさで顔を上げることも出来ないような自己嫌悪を味わうことも許されました。それは、ペテロにしてみたら、自分は大丈夫だ、麦のように篩にかけても、良質の小麦がたっぷり残って、誉められるつもりでいたのが、結局、全部籾殻で、後には何も残らなかった、という結果にも等しいことです。でも、主イエスは仰るのです。

32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 信仰をなくさないようにペテロが頑張らなければならない、のではありませんでした。主イエスがペテロの信仰がなくならないように、父なる神に願われたから、ペテロの信仰があるのです[7]。信仰とは、神からの賜物です。人間が信じること自体、神の御業です。そこで人間が誇ったり、頑張ったりするのではありません。ペテロの誇りは、篩にかけられて、吹き飛んでしまいました。しかし、それこそがペテロにとって必要なことでした。主イエスは、何も残らなかった所から、ペテロを再出発させようとなさいました。イエス様を売り渡して、自信が消し飛んだ所から、主が残してくださる信仰によって、もう一度立ち直ることから、ペテロが本当にスタートすることが出来る、と語っておられます。そこで、

…兄弟たちを力づけてやりなさい。

と言われるのです。「自分の力で頑張って信じる。他の人が信仰をなくそうと自分は殺されたって構わない」、そんな自負がある限り、きょうだいたち(他のキリスト者)を力づけることは出来ません。いいえ、そもそも誰が偉いか、自分は負けるもんかと思っている限り、「きょうだいたち」と思う事さえ出来ません。そういう自負心が砕かれて、この信仰自体が、主の恵みによって与えられました。それも、主を裏切り、恥じてしまうようなこの自分に、ただ主が深い憐れみと愛によって、信仰を与えてくださいました。その事実を、失敗や挫折を経て知りながら、他の人々が失敗し、弱まり、信仰を失いそうになっているのを「力づける」者とされていきます。それが、ペテロに与えられた召しです。信仰は主に支えられるものです。そして、互いに支え合う、共同体的なものです。主が私たちに下さる信仰は、私たちがお互いに励まし合い、力をもらい、支えられるという交わりを生み出す、共同体的な信仰なのです。

 サタンは人間の限界を暴露し、神との関係も台無しにしようとします。しかし、主は、その人間の限界を暴かせた上で、私たちが主を信頼せずにはおれないようにさせ、またお互いを兄弟姉妹として結び合わせてくださいます。私たちが頑張ることや良い格好を守ることによってではなくて、自分の誇りや頼みを砕かれたとか失敗や赦されがたい経験をしたことを通してこそ、人が励まされる。そんな体験をさせてくださいます。

 それは、小さな、地味なことのように思えます。でも、それは、サタンの目的を挫くような大きな事です[8]。強く偉い、えり抜きの信仰者たちの集団ではなく、弱さを知り、高ぶらず、ただ主を見上げ、ともに主にあって歩むような共同体。それを作るために、イエス様は来られたのです。ご自身が裏切られ、否定され、殺されることをも厭わずに来られたのは、このような神の家族をこの世に作るためでした。

 

「私たちの信仰を支えたもう主よ。信仰を篩われ、誇りとしていたことを砕かれる体験は、本当に辛く、苦しいことですが、そのことを通してでなければ気づけない、主ご自身の苦しみと愛とを仰がせてください。そのようなことを通してこそ深められる、神の家族として交わりへとどうぞ私たちをお導きください。私たちのために祈られる主を、共に仰がせてください」



[1] 31節では「あなたがた」とあります。ペテロだけでなく、弟子たち全員のことです。しかし、代表としてペテロに呼びかけられ、他者を力づける使命を与えられました。それ自体が、主のあわれみを受けた者として初めてなされることなのです。

[2] 「麦のように」 三17。洗礼者ヨハネの裁きのことば。その裁きのふるいにかけたら、私たちは一溜まりもありません。その言葉がここで使われています。

[3] 「牢」二8(番)、三20、十二38、58、二一12、二三19、25。最後の二つはピラト。私たちは、主のために投獄されるどころか、自分こそが、牢から主イエスによって救い出されたと知らなければならない。もう一つ、「使徒の働き」では十六回も出てきます。初代教会の歩みでは、弟子たちが信仰のゆえに投獄されることは現実に起こりました。牢も死も覚悟することが必要ではありました。しかし、そこでも牢に入れられたペテロが御使いによって助け出される逸話も起こります。教会にとって牢や死は現実的な戦いでしたが、そこにこそ、主の助け、支えがあったことを忘れてはなりませんでした。

[4] 「知らないという」十二9、二二61(この予言の成就)。十二章では「しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」とありました。主イエスを知らない、という事は大きな背信です。しかし、その背信さえ、ここでは視野に入れられています。「たいしたことではなかった。しかたなかった」で済む行動ではありませんでした。しかし、そのような大スキャンダルをさえ率直に記した上で、ペテロがあわれみによって立ち直ったことが伝えられているのです。

[5] 「サタン」 十18、十一18、十三16、二二3。ルカではここがラスト(使徒では五3、二六18)。同義語の「悪魔」は四2、3、6、13、12(および、使徒十38、十三10)。

[6] ただ、それはサタンの目的も神が同意された、ということではありません。サタンは、シモンの信仰をなくそう、その頑固者の自信を挫き、いざとなればわが身可愛さに主を知らんぷりをすることだって辞さない卑怯者であることを暴露しようとしています。そして、それは、その主であるキリストや神ご自身に対する挑戦であり、神のご計画の虚しさを暴露しよう、神の顔に泥を塗ろうとする目的のためにします。

[7] 「信仰がなくならないように」とは、主を否むことがないように、という意味ではありませんでした。篩にかけられ、立っていられなくなり、主を否むことさえあるのです。それでも、それが「堕落」「信仰の破船」ではないのです。主のとりなしは、私たちが篩われない(試練に会わない)とか、篩われても倒れない、というとりなしではなく、篩われたとしてもそこから立ち直り、篩われたことを通して、一層他者を力づける存在とならせる「執り成し」なのです。

[8] サタンは願ったようにシモンやヨブや教会を篩にかけます。でも、その結果はサタンが企んだようなサタンの勝利にはならず、神が勝利されるのです。

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問96「キリストはいのちのパン」 ヨハネ6章53~58節

2015-06-29 09:31:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/06/28 ウェストミンスター小教理問答96「キリストはいのちのパン」 ヨハネ6章53~58節

 

 先週は洗礼についてお話ししましたが、 今日は、もう一つの聖礼典、「主の聖晩餐」のことをお話ししましょう。

 あの、鳴門キリスト教会では、月に一度、礼拝の中で、パンとぶどうジュースをいっしょに食べる式です。洗礼は、生涯に一度きりのことですが、主の聖晩餐は、繰り返し繰り返し、毎月行っていますね。洗礼のように、一度、聖餐式にあずかったら、もうあとは食べなくても大丈夫、ということだったら楽かも知れません。けれども、私たちは毎日ご飯を食べます。毎日眠ります。毎日、人と言葉を交わします。一生分、ご飯をまとめて食べたから食べなくても平気ですとか、一生分眠ったからもう眠らなくても大丈夫、とか、一回、おはようといったからもうおはようもアイシテルも言わなくていいでしょう?と言うのはおかしいですね。それと同じように、何度も何度も、主の聖晩餐にあずかることは、私たち人間にとって、当然必要なことです。そして、食事や眠りや毎日の言葉のように、うれしいことで、私たちの力になって、私たちを育ててくれる栄養なのですね。

問96 主の聖晩餐とは、何ですか。

答 主の晩餐とは、そこにおいて、キリストの御指示に従ってパンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示され、ふさわしい受領者が、身体的・肉体的にではなく、信仰によって、キリストの体と血にあずかる者とされ、それに伴い彼らの霊的養いと恵みにおける成長のために、キリストのあらゆる益が与えられる、そのような聖礼典です。

 ここに、「身体的・肉体的にではなく」という言葉がありますが、教会の中には「パンとぶどう酒は、特別なパンとぶどう酒になるのだ。本当にキリストの肉とパンになるのだ」と考える所があります。

カトリック教会では、パンとぶどう酒そのものが、見た目は変わらないけれど、イエス様の肉と血に変わるのだ、と考えます。だから、あのパンとぶどう酒は特別なものだから、特別な力が、パンとぶどう酒そのものにあるのだ、と考えます。ルター派も、似たような考えをします。

パンとぶどう酒の、中に、上に、下に、キリストがおられるのだ、と言います。

 いやいや、そんな考えは迷信に過ぎない。

パンはパンだし、ぶどうはぶどう。イエス様の十字架のことを教えているだけ。これは象徴だから、なくてもいいんだ。そんなに大事ではないんだ。そう考えた人たちもいます。

 けれども、やっぱりイエス様は、聖餐式を弟子たちにお命じになりました。主は,

ヨハネ六56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

というような強い言葉を仰って、弟子との関係を教えられましたことと繋がっています。聖書の他の箇所でも、聖餐式を大事にすることは教えられています。でも、あのパン屋ぶどう酒そのものが何か特別なものになる、というのも迷信ですね。

 私たちは、神様が、聖餐式を命じられた以上、私たちを養っていてくださる。象徴的に、以上にが信仰と感謝をもって、パンとぶどうジュースで、実際にお昼の前のエネルギーをわずかながらもと杯をいただくのだ。魂と体を切り離さずときに、本当に聖霊なる神様がそこに働いてくださって、私たちの丸ごとを、神は養ってを養ってくださるのだ、と信じるのです。聖霊なる神様が、聖餐式にあずかる者を、実際に祝福してくださる。それが、私たちの理解です。

 主の聖晩餐のパンは、美味しいパンを使うべきだ、と教えられたことがあります。なぜなら、礼拝の終わりも近くて、みんなお腹が空いてくる頃ですね。お腹が空いてくると、食べたときの味にも敏感で、美味しくないパンだと本当に美味しくないと気になる。だから、ちゃんと美味しいパンにしたほうがいいのだそうです。半分は冗談のような話です。けれども、私たちは主の祈りで、いつも祈りますね。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

 あの言葉は、「私たちの毎日のパンを今日もお与えください」というストレートな言葉です。毎日のパン、ご飯も神様が下さるのです。私たちのからだも信仰も、心も頭も、すべてが神様のいのちによって養われています。パンとぶどう酒をいただくときも、本当に私たちは僅かでも、パンとぶどう酒のカロリーとか栄養や水分を体にもらいますね。そこに託して、聖霊なる神が、私たちを生かしておられる。私たちの全存在が、神に養われることを、もう一度そこで覚えるのです。

 何よりも、聖餐式では、イエス様が、ご自分の十字架の死を前に、弟子たちに

「これはわたしのからだです」

と言ってパンを裂いて、お与えになりました。

「これはわたしの血です」

と仰って、杯を回されました。イエス様が、十字架に釘づけられて、ご自分の肉が裂かれ、血を流されたことを教えています。イエス様が私たちのために、十字架にかかり、死んでくださったのです。そして、そのイエス様の救いを私たちが信じて受け入れるなら、本当に私たちは、すべての罪を赦されて、永遠のいのちをいただきます。

 そして、今、ここで、すでにその永遠のいのちを戴いた者として、神に栄光を帰しながら歩んでいくのですね。

「霊的養いと恵みにおける成長のために、キリストのあらゆる益」

とあります。今の毎日に、養われ、神様の恵みの中で成長していくのです。キリストがあらゆる益を下さるのです。イエス・キリストの忍耐とか、愛、喜び、希望、勇気、そうした益が、キリストに結びつけられることによって私たちを養うのです。

 もちろん、パンやぶどう酒を食べることで、そういう力がいつのまにか身につく、というそんな魔法の食べ物ではありません。私たちが聖書を学び、信仰を養われ、イエス様のことを深く知り、自分についても聖書から教えられることを抜きにしては、主の聖晩餐の恵みもありません。勉強や野球の成長だって、「この本を読めば誰でもあっという間に一流になれる」とか「努力しなくても、これを食べたら、天才になれる」なんてものだったら詰まらないでしょう。

 でも、この聖餐式は、私たちに教えてくれています。いつもイエス様の養いを戴いて、私たちは生きていくのだ。イエス様も、からだをとって苦しんだり血を流したりされたのだ。生きることがどういうことか知っておられるんだ。そのイエス様が、私たちを力づけ、励まし、養っていてくださる。今もいつも、測り知れない愛をもって私を支え、神の子どもとして生かしてくださる。そういう本当に生き生きとした恵みをいただいて、歩ませて戴きましょう。

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ルカの福音書二二章24~30節「下への成長」

2015-06-14 20:16:23 | ルカ

2015/06/14 ルカの福音書二二章24~30節「下への成長」

 

 「牧師の職業病」の一つは、「人の話を聞くのが難しい」「すぐに話したがる」ことだそうです。黙って話しを聞いていれば良いのに、つい口を挟んだり、教えたくなったりする。これは、私もいかんなぁと思っている悪い傾向です。ある時に「そういう自分は『話しを聞いてもらう』ことを必要としているのだ」と気づいたら、自分への見方が変わりました。勿論、聖書のメッセージや教えはとてつもなく大事なのですが、それを伝える自分が偉いわけではない。むしろ、その大切なメッセージを運ぶ役目を戴くことで、自分が支えられている。教える側にいるのではなくて、聞いてもらうことで助けられているのだ、と気付けたのでした。

 最後の晩餐がもうすぐ終わろうとしている場面です。それでも弟子たちがしていたのは、

24また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという議論も起こった。

という有様でした。実は、ほとんどこれと変わらない話しは、既に九章46節で話されていたのです[1]。よっぽど弟子たちは、順位が気になっていたのでしょう。そして、その時もイエス様に「一番小さい者が一番偉いのです。」と言われたのです。なのにまだ、誰が一番偉く見えるかが気になっていたのですね。でもそれは、弟子たちだけでなく、私たち人間のホンネです。

25すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

26だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

 主の弟子たちの中では、指導者は年の若い者のように、仕える人のようにあることこそが求められるのだ、と言われます。それが、真の神を知らされた者たちのあり方です。「異邦人」とありますが、外国人というよりも真の神を知らない人、という意味です。そこでは、王が人々の上に立って指図をしたり、尊敬や服従を求めたりしています。そうして権威を振る舞える者が「守護者」と自分を呼ばせています。それが、世界の政治や国家のあり方です[2]。それは、キリストの教会のあり方ではありません[3]。それはイエス様ご自身にも見て取れました。

27食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

 ヨハネの福音書によればこの時、イエス様は弟子たちの足を洗われたのですね。最も偉いイエス様が、奴隷のように弟子たちの足を洗われました[4]。他にも、イエス様は給仕する者、仕える者として弟子たちに関わられました。そのように仕えることこそが、キリストの教会の模範であり、指導者たちがキリストの教会を導く精神でもなければならないのは当然なのです。

 イエス様が、本当に弟子たちに仕えてくださったのだなぁと思うのは、28節以下です。

28けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

 どうでしょうか。私ならこんな事は言えません。十字架を前に、大切な最後の晩餐をして、ご自分の犠牲の死を教えたのです。裏切る者のことも断腸の思いで警告されたのです。それを弟子たちはあっさり聞き流して、誰が一番偉いか、だなんてことを話し始めたのです。イエス様が自ら仕えてこられて、傲慢を警告されてきたのに、まだこんなことで盛り上がりたがる。しかし、イエス様は、そんな弟子たちを「不甲斐ない」と叱ったりせず、ただ仰ったのです。

28…あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

 よくついて来てくれた。赤面するような言葉ではありませんか。足りない所、全然分かっていない問題、そんなものをほじくり返すことなく、彼らがともにいることを感謝し、受け止めてくださいました。もっと言えば、弟子たちの存在に助けられて、慰められてきたと感謝されています。イエス様が弟子たちを教え、導き、助け、諭す、というだけでなく、イエス様も弟子たちから、励まされ、支えられ、助けられてきた、と言うようです。有難うと仰るようです。それはイエス様のお世辞とかおべっかではないはずです。本当にイエス様は謙ったお方です。人としての弱さを身にまとい、母マリヤを初めとして、弟子や人々に自分の身を委ねました。人に感謝される立場から、人に感謝する立場にまで降りることをためらわなかったのです。私たちのところに謙って来られた主イエスは、足りない私たちを引き上げようと、上から教え、正論で答え、励ますお方ではなく、黙って、私たちの痛みを受け止め、思いに耳を傾け、ともに喜び、ともに泣いてくださるのです。それがイエスの示してくださった、神の愛でした。

 29、30節で、「王権」「王座」「さばく」という言葉が出て来ます。この言葉もまた、イエス様がどのような「王」であられたか、という光に照らして理解すべきです[5]。今、仕えたら、将来、支配を振る舞えるご褒美がある、というのではないのです。上に立とう、偉く見られたい、人に指図する側に立ちたい、そういう傲慢自体が崩された上でのことです。イエス様の「王権」がしもべとしての王権だったのですから、弟子たちが与えられる王権も、本当に正しく、愛によって、相手のために仕え、配慮するようなものです。そこへと教会は召されています。そのような模範こそが、教会を導き育てていくのです。

 キリスト者の成長は、イエス様が上から下に謙られた道を辿る成長です。力や尊敬や称賛、影響力を慕うのではなく、新米者のように、教えられ、人に聞き従うのです。助けを受け入れ、支えられている弱さを素直に告白するのです。相手がどんなに鈍感で未熟でも、その人によっても自分が教えられ、その人から何かしらもらっている者であることを、てらいなく知る者となるのです。主が私たちに求めておられるのは、よく出来た弟子としてみんなを感心させることではありません。自分の脆さ、痛み、無力さ、限界を知り、それゆえに、本当に深い共感の愛をもったキリストを証しする人です[6]。教えてやろう、助けてやろう、慰めてあげよう、ではなく、そばにいよう、自分があなたを必要として、あなたの話しや思いを聞くことを通して助けられ、育てられ、癒されるのです、そう思う者です。それは下への成長です。

 私たちの中から出て来る思いやこの社会にあるのは、力による支配や競争です。それは、人の心にある渇きの裏返しですし、いつまで経っても苦々しい思いしか生み出しません。そのような中にキリストは、全く逆の謙りをもって来られました。そして、私たちにも「よくわたしについてきてくれた」と言ってくださるのです。どんなに私たちを慰め、潤してくれる事実でしょうか。この主が私たちのために、喜んで十字架にかかり、復活して、私たちに聖霊を与えてくださいました。この主の愛だけが私たちを潤します。渇きや苦々しさに支配されるのではなく、欠けがあるけれども愛された者として歩んでいるのです。主に愛されている、ありのままの貧しい者として自分を差し出すとき、この教会は、神の御国を証ししているのです。

 

「弟子も私たちも、同じく弱く誤りに気づかない者ですが、あなたは私たちを受け入れ、導き、喜んでくださいます。あなたが仕え、もてなしてくださっていることを覚えて、思い上がりを捨てて、背伸びから解放されますように。人を喜び、受け入れ、主イエスがされたように、もっと低くされますように。愚かなようでも、恵みに押し出されて主に従い、謙る勇気を下さい」



[1] 九46さて弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。47しかしイエスは、「彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた父を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」ただし、今回の議論は、「だれが一番偉い(と見える)か」という議論です。微妙に言い方を変えていますが、本心は同じだと言って良いでしょう。

[2] ルカはこのテーマを強く意識しています。一1、二1、三1がそれぞれに、世俗の王の支配を打ち出して書かれていること、その中に、キリストが王として来られ(一33、35、二11)、悪魔の支配に勝利されたこと(四5-8)、いずれも、ルカが意識し、「使徒の働き」までを貫いている、キリストの御国の神学を現しています。そしてそれは、教会にとっての大きな誘惑でもあり、証しなのです。参考として、ブログ「鏡を通して」の「御国を来たらせたまえ」シリーズ、特に「(7)(8)」をぜひお読み下さい。

[3] 確かに、教会の中でも、牧師や長老が偉そうにしたり、駆け引きをしたりして、悪い見本を示すことはありますし、中世の歴史では教会の権力はひどい有様でした。だからといって、教会に牧師や指導者はいらない、組織が入ると堕落する、といった人々もあったのですが、それは教会のかしらなるイエス様の方法ではありませんでした。むしろ、指導者たちが積極的に、年若い新米者、仕えるしもべの姿勢を取ることで、模範を示しなさい、とお命じになったのです。Ⅰペテロ五で、長老たちへの勧めにも同じ事が書かれています。「3そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。4そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」これが、群れ全体の模範となるのです。教会全体が、パワーゲームにならず、心を込めて仕え、利得を求めず、他者の上に立たず、下に立つために、指導者(牧師・長老)は率先して、そのような者となるのです。そのためには、うわべの行動で謙遜したり奉仕をしたりする以上に、自分自身の心を取り扱い、ケアしていくことが大前提となります。指導者の自己理解、自己訓練です。

[4] ヨハネ十三4-17参照。しかし、これほどの出来事を、ヨハネだけが記していて、なぜマタイ、マルコ、ルカは記録しなかったのでしょうか。他にも、記されていないイエス様の言行はたくさんあります。(ヨハネ二一25)使徒二〇35の「受けるよりも与えるほうが幸いである」という有名な御言葉も、福音書には書かれていません。洗足以外にも、イエス様はたくさんの「しもべ」のわざをなさったはずです。しかし、その「しもべ」のわざの最たるものは、十字架でありました。

[5]  この言明は、ヨハネの黙示録でも繰り返されています(五9-10、二二5)。こうした言葉も、「聖なる恵みによる支配」として理解することが鍵です。

[6] 小渕春夫「自分の優越性を示すのではなく、苦しんでいる人と私たちは同じ人間であり、弱さと限界があり、いつかは死すべきもろい存在であると深く受け止め、告白することである。人々が苦しんでいるとき、共に苦しみを負い、自分も同じ傷つきやすい、弱い人間としてその場にとどまることは、人間の努力や能力で実現できるのではなく、神のご性質を信仰をもって受け止めるときに与えられるものだ。」(牧会ジャーナル)

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問94-95「洗礼を受ける恵み」ローマ六章四~八節

2015-06-14 20:12:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/06/14 ウェストミンスター小教理問答94-95「洗礼を受ける恵み」ローマ六章四~八節

 

 宗教改革者として有名なルターは、「千年に一人」と言われる天才的な人でしたが、とても気分の落ち込みやすい人としても有名です。本当に大変な生涯でもありましたから、よく気持ちが落ち込み、底知れず落ち込んでいるような思いをしたと言います。ある時は奥さんが喪服を着て現れたので、ルターが「だれが死んだんだ?」と聞いたら、「あなたの神が死んでしまわれたようなので」と返された、というエピソードもあります。そのルターが、何も頼るものがないように思えたとき、彼が縋ったことの一つが、自分が小さい時に洗礼を受けていた、という事実でありました。自分が、物心もつかないときから神が私を選び、洗礼を授けてくださった。だから自分は大丈夫だ、とそう思う事が出来たというのです。今日のところでも、パウロは、

ローマ六3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。…

と「私たちがバプテスマを受けた」ということを、確かな手がかりとして話しをしています。私たちが洗礼を受けたことは、ルターやパウロが言うように、私たちにとっては本当に大きな恵みです。言わば、今日も、いつも私たちは「洗礼を受けた者」として生きるのです。

ウェストミンスター小教理問答94 洗礼とは、何ですか。

答 洗礼とは、そこにおいて、父と子と聖霊の御名による水の洗いが、わたしたちがキリストに接ぎ木され、恵みの契約のさまざまな益にあずかることと、主のものになるとわたしたちが約束することを、意味し、証印する、そのような聖礼典です。

問95 洗礼は、だれに対して執行されるべきですか。

答 洗礼は、目に見える教会の外にいるいかなる人々に対しても、彼らがキリストに対する信仰と彼への従順を公に告白するまでは、執行されてはなりませんが、目に見える教会の会員の幼児たちは、洗礼を授けられるべきです。

  洗礼は「水の洗い」と言われる通り、水の儀式ですね。

これは、イエス様が教会に命じられた儀式です。イエス様は、よみがえってから、天に上られる前に、

マタイ二八19…あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…

と命じられました。洗礼は、イエス様によって命じられた儀式です。そして、そこには神が私たちをキリストに接ぎ木して(結びつけて)、恵みの契約の様々な益にあずからせてくださる、という約束があります。

水や「洗い」という表現から、罪が洗い清められることも勿論あるのですが、それだけではありません。恵みの契約には、罪が清められて義と認められるだけでなく、神の子どもとされたり、喜びや愛をいただいたり、聖化されて、最後には栄光のうちに入れられる、という様々な祝福が、聖書に約束されていますね。そのすべての祝福が、天から与えられることを、洗礼は教えているのです。

 また、それに応えて、私たちの方からも、私たちは主のものです、と告白をすることも洗礼を受ける行為には象徴されています。

神からの恵みに、私たちは応答します。

ローマ六4…それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

とあったとおりです。もちろん、神様からの恵みが半分で、私たちの応答や努力が半分、ということではありませんよ。神様の恵みが私たちを新しくして、神のものとして自分をささげながら歩む新しい心や生き方をくださる、ということです。それが、今日のローマ書6章で言われていることです。バプテスマを受けたことによって、私たちはキリストとともに死に、キリストともによみがえり、これからは新しい歩みをする者とされたのだ。キリストとともに生きる者とされたのだ。そういう意味と証印なのですね④。

 私が洗礼を受けたのは、五歳のときでした。ですから、中学生になってから、改めて色々な疑問を持ってから、もう一度イエス様の福音を信じる、と決心しなおしたときに、こう思いました。「五歳の時の洗礼は、まだ全然信仰も何も分かっていなかった。だから、あの洗礼は嘘だった。もう一度洗礼も受け直したい」。そう思って周りの人に相談したら、こう言われました。「洗礼はスタートなんだ。不十分でもスタートはもうしたんだから、失敗する度にスタートに戻る必要はないんだよ。大事なのは、キリスト者として、ゴールまで歩き続けることであって、立派なスタートをすることではないよ」。その時は少し腑に落ちなかったのですが、段々と本当にそうだなぁ、と思うようになりました。そして、洗礼を受け直さなくていい、一度受けた洗礼は生涯有効だ、ということ自体が、ものすごく素晴らしい福音だと、今では心から思っています。

 洗礼は、神が下さった、私たちがキリストのものである、という証印です。もちろん、判子を偽造することも出来るように、洗礼そのものに魔力があって、それを受ければ、自動的にきよくなるとか、神の子とされるということではありません。洗礼を受けても、失敗はあり、誘惑に負けたり、疑ったりすることは絶えません。その度に、神が命じてくださった洗礼は、私たちをつなぎ止めてくれるのです。私たちはすでに洗礼によって、御霊が私たちに「キリスト」という証印を押してくださった。一度受けた事実は、もう私たちに、罪の赦しと神の子どもという立場を約束してくれています。確かな救いに与ります。いいえ、すべてが益とされる事さえも信じることが出来るのです。

 この洗礼を受けたもの、という素晴らしい立場を覚えて歩みましょう。私たちは、キリストのものです。主がいつもともにいてくださいます。私たちを養い、きよめてくださいます。主の助けを祈り、心を絶えず洗われて、清々(すがすが)しく歩ませていただきましょう。

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問55-56「御名は虚しくない」マラキ三章14~18節

2015-06-14 20:08:13 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/06/07 ウェストミンスター小教理問答55-56「御名は虚しくない」マラキ三章14~18節

 

 聖書を通して私たちが教えられていることの、最も大きな事の一つは、本当の神様が私たちの心を見ておられるお方だ、ということです。私たちの考えていること、感情、そして、その奥のもっと深くて、自分でも気づいていない、心のすべての思いを、神様は見ておられます。そして、そこで私たちが神様を信じること、神様の愛に安らいで、神の恵みに自分を委ねて、それが生き方になっていくことを願って下さっている、ということです。前回から、十戒の第三戒をお話ししています。第三戒は、

「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」

です。この「みだりに」という言葉も、私たちが心から神様の御名を呼び、神様に信頼した歩みをすることが求められているのだと、思い出させていますね。

ウェストミンスター小教理問答55 第三戒では、何が禁じられていますか。

答 第三戒は、神がご自身を知らせるのにお用いになるいかなるものをも、汚したり、濫用することをすべて禁じています。

問56 第三戒に付け加えられている理由は、何ですか。

答 第三戒に付け加えられている理由は、この戒めを破る者たちがたとえ人間による罰は逃れたとしても、私たちの神である主は、彼の正しい裁きを逃れることは彼らにお許しにならない、ということです。

 一番分かりやすい「みだりに」、神様の御名(御名だけでなく、神様がご自身を知らせるのにお用いになる、聖書や神様のみわざ、教会の大切な教えなども含めた「いかなるもの」)を汚したり濫用することと言えば、御名を罵ったり、神様を非難することです。これは、甚だしい罪です。

でも、ハッキリ神様に向かって言うのではなくても、神様やイエス様のお名前を、「ひどい」とか「ちくしょう」とかいう意味で使うことがアメリカなどではよくあるのですね。日本にもよく分からないまま、そんな使われ方が入って来ています。それは、御名をみだりに唱えることですから、止めましょう。

 でも、教会に来て、主を賛美していても、それなら御名をみだりに唱えることはないのでしょうか。いいえ、イエス様が一番非難されたのは、主よ主よ、と言いながら、自分の実際の生活では、神様を恐れることもなく、好き勝手な生き方をしている人たちでした。実際には、御名を「使い分け」ていること、二枚舌で唱えているだけです。神様はすべてを造られた、すべての主だ、と言いながら、神様が見ておられることも考えない。神様が聖書で命じておられる正しく聖い生き方も生きようとしない。それなら、神がすべての主だと言っているのは虚しいことになりますね。

マラキ三14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と。

 そう思い始める人々は、やはり御名をみだりに唱えています。神に仕えることが虚しいわけはありません。口先だけで神様を賛美しても、神に従ったら損だ、とホンネでは思っているとしたら、それは神様を貶めていることになります。

 これよりはもう少し良心的なのが、主を賛美して告白していながら、心では神様を信頼していないことです。神様が素晴らしい、すべてを益にしてくださる、どんな人も愛してくださる、と言葉では言っているのに、心には恐れや不安や心配があるのです。神様を信じずに、くよくよ考えてしまいます。こんな自分を神様が本当に愛しておられるんだろうか、怒ってるんじゃないだろうか。神様、忘れたかなぁ、前にあんなことやっちゃったからなぁ…。そんなふうに、神様が小さく貧しく弱い方だと考えてしまうなら、それはおかしなことですね。もちろん、神様は私たちを愛しておられます。本当に、愛しておられます。どんなことがあっても、キリスト・イエスの十字架と復活のおかげで、神様の無限の、全能のご計画を私たちは信じなければならないのです。

 そして、もう一つ、その逆に、いつでも「神様、神様、神様」ということも、やっぱり、御名の乱発ですね。「神様がしてくださるんだから、疑わないで頑張りましょう」とか「神様が雨を降らせたんだから、今日は学校に行かなくていいんだ」とか、何かと神様を持ち出すのは、神様の御名の言い過ぎですね。失敗したりダメになりそうでも頑張ることを神様は待っておられるかもしれません。何でも神様のせいにするのは、信仰的なのではなくて、御名を利用しているだけです。それは暴力にもなりかねません。

 ですから、最後の絵のように、神様を賛美すること、言葉だけでなく、心でも普段の生活でも神様を思って生きる事。そして、神様への信頼から、喜びや明るさや愛を大事にすることであり、神様を崇めるのであって、自分を偉く強くしようとしたりはしないこと。そうされていくことが、私たちが本当の意味で「御名を唱える」ということである筈です。そして、私たちは、自分の力で「神の御名をふさわしく唱えなければならない」と言われているのでもないことを覚えましょう。

 私たちが御名を呼ぶお方は、生ける真実なお方です。本当に深い理解と力と、よきご計画を持っておられます。今日のマラキ書でも言われていました。

マラキ三17彼らは、わたしのものとなる。-万軍の主は仰せられる-わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

 神に仕えることは、神が私たちを、ご自身のもの、ご自身の宝としてくださり、神のあわれみに与らせてくださってのことです。この神の御名を呼び、お慕いし、神の御名を信じることは、決して虚しいことではありません。神は、私たちのすべての生活においても、常にそこにおられ、私たちを守り、ともにいて、働いておられるお方です。そのお方の御名を呼び求める関係に入れて戴きました。御名を呼び求めて、歩みましょう。

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