2015/06/28 ルカの福音書二二章31~34節「何もない残らないところから始まる」
「シモン・ペテロ」と言えば、キリストの十二使徒の中でも筆頭で、初代教会のリーダーとして知られているでしょう。最後は、ローマで殉教の死を遂げましたが、イエス様と同じ十字架ではもったいないと、逆さまに十字架にかけられてなくなったと言われます。しかし、それ程の篤い信仰を持っていたからリーダーにもなったのだろうと思うと大間違いで、聖書は、そのシモン・ペテロの大きな過ちを赤裸々に伝えているのです。今日の箇所はその典型例です。
31シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを[1]麦のように[2]ふるいにかけることを願って聞き届けられました。
ここで「シモン」と言い、34節では「ペテロ」と言われていますが、元々は「シモン(シメオン)」が本名で、イエス様がつけたあだ名が「ペテロ」、ヘブル語で「ケファ」(岩)という名前でした。つまり、頑固者、動じないもの、ペテロの自信に満ちた性格を物語っています。
33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
折角イエス様が、ペテロに試練と回復とを予告されたのに、ペテロは、牢であろうと死であろうと覚悟は出来ている、と言い返すのですね[3]。鼻持ちならない自信です。あるいは、自分はサタンに負けるような弱虫ではないと憤慨したのでしょうか。それは、「ペテロ(岩)」という綽名(あだな)に似つかわしいプライドでした。でもその頑固者に、イエス様は愛を込めて言われます。
34しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロもまもなく崩れ落ちる。岩が砕けて、砂のようにこぼれ落ちてしまう。牢であろうと死であろうと覚悟は出来ている、と豪語するペテロが、今晩、明け方に鶏が鳴く前、イエスを否定する、イエスとの関係を否定する[4]。自信家のペテロの自信が、粉砕される時がもうまもなく訪れる。「ペテロ」という呼びかけには、そう言われるのです。
ペテロは、自分の信仰、イエス様に対する忠実さに自信を持っていました。他の人はともかく、自分は大丈夫です、と思っていました。しかし、イエス様は、その自信を誉めたり励ましたり、これからも何があっても、信仰を捨ててはいけないよ、とは仰いませんでした。サタンが篩(ふるい)にかけても大丈夫な信仰を持っていなさい、と命じたのではありませんでした。また、シモンや弟子たちが、サタンに篩われても何とか生き延びるほどの強い信仰があったから、初代教会のリーダーとなった、ということでもありませんでした。そういう人間の頑張りや熱心によって信仰が保たれるものだとしたら、実は、とてもプレッシャーです。辛いし、疲れます。安心できません。安心できるのは、ペテロのような自信家、自他共に認める頑固者でしょう。しかし、その自信を壊すことこそが、神が私たちに対して必要と思われることなのです。
31節に
「聞き届けられました」
とあります。これは当然、天の父なる神が聞き届けなさった、許可されたということです。旧約聖書のヨブ記に、この「天上の場面」がよく描かれていますが、サタンが神に、人間を試みることを願い出て、神の許可がなければ、サタンは人間に手を出すことは出来ないと聖書は伝えています[5]。勝手に神を出し抜いたり、神の知らない所で人間を誘惑したりすることは決してないのです。ここでも、サタンは神の許可がなければシモンを篩にかけることは出来ませんでした。そして、神はそれを許可されたのです[6]。しかし、主は真実なお方ですから、サタンが曝こうとするペテロの脆さ、自惚れの間違いは百も承知です。適当にお茶を濁し、欠点を隠しておこうとは思われません。むしろ、ペテロが自分の力で主に従っていると思い上がっているプライドを挫こうとなさいます。ご自身を三回も否定するのが自分だと思い知り、恥ずかしさと申し訳なさで顔を上げることも出来ないような自己嫌悪を味わうことも許されました。それは、ペテロにしてみたら、自分は大丈夫だ、麦のように篩にかけても、良質の小麦がたっぷり残って、誉められるつもりでいたのが、結局、全部籾殻で、後には何も残らなかった、という結果にも等しいことです。でも、主イエスは仰るのです。
32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
信仰をなくさないようにペテロが頑張らなければならない、のではありませんでした。主イエスがペテロの信仰がなくならないように、父なる神に願われたから、ペテロの信仰があるのです[7]。信仰とは、神からの賜物です。人間が信じること自体、神の御業です。そこで人間が誇ったり、頑張ったりするのではありません。ペテロの誇りは、篩にかけられて、吹き飛んでしまいました。しかし、それこそがペテロにとって必要なことでした。主イエスは、何も残らなかった所から、ペテロを再出発させようとなさいました。イエス様を売り渡して、自信が消し飛んだ所から、主が残してくださる信仰によって、もう一度立ち直ることから、ペテロが本当にスタートすることが出来る、と語っておられます。そこで、
…兄弟たちを力づけてやりなさい。
と言われるのです。「自分の力で頑張って信じる。他の人が信仰をなくそうと自分は殺されたって構わない」、そんな自負がある限り、きょうだいたち(他のキリスト者)を力づけることは出来ません。いいえ、そもそも誰が偉いか、自分は負けるもんかと思っている限り、「きょうだいたち」と思う事さえ出来ません。そういう自負心が砕かれて、この信仰自体が、主の恵みによって与えられました。それも、主を裏切り、恥じてしまうようなこの自分に、ただ主が深い憐れみと愛によって、信仰を与えてくださいました。その事実を、失敗や挫折を経て知りながら、他の人々が失敗し、弱まり、信仰を失いそうになっているのを「力づける」者とされていきます。それが、ペテロに与えられた召しです。信仰は主に支えられるものです。そして、互いに支え合う、共同体的なものです。主が私たちに下さる信仰は、私たちがお互いに励まし合い、力をもらい、支えられるという交わりを生み出す、共同体的な信仰なのです。
サタンは人間の限界を暴露し、神との関係も台無しにしようとします。しかし、主は、その人間の限界を暴かせた上で、私たちが主を信頼せずにはおれないようにさせ、またお互いを兄弟姉妹として結び合わせてくださいます。私たちが頑張ることや良い格好を守ることによってではなくて、自分の誇りや頼みを砕かれたとか失敗や赦されがたい経験をしたことを通してこそ、人が励まされる。そんな体験をさせてくださいます。
それは、小さな、地味なことのように思えます。でも、それは、サタンの目的を挫くような大きな事です[8]。強く偉い、えり抜きの信仰者たちの集団ではなく、弱さを知り、高ぶらず、ただ主を見上げ、ともに主にあって歩むような共同体。それを作るために、イエス様は来られたのです。ご自身が裏切られ、否定され、殺されることをも厭わずに来られたのは、このような神の家族をこの世に作るためでした。
「私たちの信仰を支えたもう主よ。信仰を篩われ、誇りとしていたことを砕かれる体験は、本当に辛く、苦しいことですが、そのことを通してでなければ気づけない、主ご自身の苦しみと愛とを仰がせてください。そのようなことを通してこそ深められる、神の家族として交わりへとどうぞ私たちをお導きください。私たちのために祈られる主を、共に仰がせてください」
[1] 31節では「あなたがた」とあります。ペテロだけでなく、弟子たち全員のことです。しかし、代表としてペテロに呼びかけられ、他者を力づける使命を与えられました。それ自体が、主のあわれみを受けた者として初めてなされることなのです。
[2] 「麦のように」 三17。洗礼者ヨハネの裁きのことば。その裁きのふるいにかけたら、私たちは一溜まりもありません。その言葉がここで使われています。
[3] 「牢」二8(番)、三20、十二38、58、二一12、二三19、25。最後の二つはピラト。私たちは、主のために投獄されるどころか、自分こそが、牢から主イエスによって救い出されたと知らなければならない。もう一つ、「使徒の働き」では十六回も出てきます。初代教会の歩みでは、弟子たちが信仰のゆえに投獄されることは現実に起こりました。牢も死も覚悟することが必要ではありました。しかし、そこでも牢に入れられたペテロが御使いによって助け出される逸話も起こります。教会にとって牢や死は現実的な戦いでしたが、そこにこそ、主の助け、支えがあったことを忘れてはなりませんでした。
[4] 「知らないという」十二9、二二61(この予言の成就)。十二章では「しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」とありました。主イエスを知らない、という事は大きな背信です。しかし、その背信さえ、ここでは視野に入れられています。「たいしたことではなかった。しかたなかった」で済む行動ではありませんでした。しかし、そのような大スキャンダルをさえ率直に記した上で、ペテロがあわれみによって立ち直ったことが伝えられているのです。
[5] 「サタン」 十18、十一18、十三16、二二3。ルカではここがラスト(使徒では五3、二六18)。同義語の「悪魔」は四2、3、6、13、12(および、使徒十38、十三10)。
[6] ただ、それはサタンの目的も神が同意された、ということではありません。サタンは、シモンの信仰をなくそう、その頑固者の自信を挫き、いざとなればわが身可愛さに主を知らんぷりをすることだって辞さない卑怯者であることを暴露しようとしています。そして、それは、その主であるキリストや神ご自身に対する挑戦であり、神のご計画の虚しさを暴露しよう、神の顔に泥を塗ろうとする目的のためにします。
[7] 「信仰がなくならないように」とは、主を否むことがないように、という意味ではありませんでした。篩にかけられ、立っていられなくなり、主を否むことさえあるのです。それでも、それが「堕落」「信仰の破船」ではないのです。主のとりなしは、私たちが篩われない(試練に会わない)とか、篩われても倒れない、というとりなしではなく、篩われたとしてもそこから立ち直り、篩われたことを通して、一層他者を力づける存在とならせる「執り成し」なのです。
[8] サタンは願ったようにシモンやヨブや教会を篩にかけます。でも、その結果はサタンが企んだようなサタンの勝利にはならず、神が勝利されるのです。