聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答150 ヨハネの黙示録21章1~5節「新しい天と新しい地(続き)」

2019-10-06 14:46:24 | はじめての教理問答

2019/10/6 ヨハネの黙示録21章1~5節「新しい天と新しい地(続き)」はじめての教理問答150

 いよいよ今日で、「はじめての教理問答」が終わります。最初からずっと見てきたこの教理問答の最後は、私たちの将来を素晴らしい希望で語る言葉です。

問150 新しい天と新しい地とは、どのようなものですか?

答 栄光に満ちた幸せな場所で、救われた者たちはイエスさまとともに永遠にその場所にとどまります。

 先週は、全ての人が終わりの日に体をよみがえらされて、永遠の世界に迎えられると語っていました。神が招いてくださり、私たちに約束してくださっているのは、新しい天と新しい地でした。この世界はやがて終わって、新しい天と新しい地を迎えるのです。それがどのようなものかと言えば、栄光に満ちた幸せな場所で、救われた者たちはイエス様とともに永遠にその場所に留まる、と言われています。聖書の黙示録の最後、聖書そのものの結びにも、その新しい天と新しい地が来る事が言われていました。

ヨハネの黙示録21:1また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 神が涙を拭い去ってくださり、死も、悲しみも、叫び声も苦しみも、もはやなくなる。そういう素晴らしい世界を語っています。その事を先の教理問答では

「栄光に満ちた幸せな場所」

と呼んでいます。それを私たちは完全に理解することは出来ません。悲しみや苦しみがない世界を思い描くのは、簡単なようでいて、とても難しいことです。そもそも、新しい天と新しい地が来て、以前の天と以前の地が過ぎ去る、なんてどんな事なのか、到底理解できません。世界一の画家でも、最高のCG技術でも、この新しい天と新しい地を描き出すことは出来ません。私たちの想像力を遥かに超えた素晴らしい栄光の世界だ、というだけ。せいぜい、死や悲しみや苦しみがない、ということです。「海がない」というのも当時は海というのは怖い場所でしたから、そういっているのです。海が大好きな人には、海がないなんて考えられないぐらい詰まらなく思えるでしょうが、安心してください。新しい天と新しい地には、今よりももっと素晴らしい海があると期待したらよいのです。海が怖い人は、恐ろしい海などはないと安心したらよいのです。

 いずれにせよ、神は、神の素晴らしさが輝き、私たちが完全に幸せになる世界を、用意されています。そして、ハッキリ言われているのは

「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」

という事です。神がともにおられる。これは先の問150の答えでも言われていました。

「イエス様とともに」

なのです。「神抜きに幸せになる。神には私たちの幸せを用意してくれたら、後はどこかに行ってくれていれば良い」。そんな風に思う考えにこの言葉は実にチャレンジです。神がともにいる。それが新しい天と新しい地という場所なのです。聖書は、神が私たちを造り、愛して、私たちとともにいようとされることを語ります。神も、私たちに語りかけて、神と共に歩むようにと呼びかけられる。それを、神を愛するとか、神を信じる、神に従う、神に繋がる、と色々と言い換えていますが、その神とともにいることが将来の世界の中心でもあるのです。神とともにいるなんて、息が詰まりそう、緊張する、余り嬉しくない、と思うかもしれません。私たちは神から離れて以来、神を小さく歪んだイメージで考えるようになっています。しかし、神は素晴らしい神。私たちを愛して造られ、生かして、そして、将来は永遠に一緒にいたいと思ってくださっているお方です。神は、私たちを私たち以上にご存じで、私たち以上に私たちを愛しています。この方は私たちの目から、涙をことごとく拭い去ってくださいます。泣くな、と怒られるんじゃないかとか、神の前で泣いたら失礼だとか思い込んでいようと、神は、私たちの目から、ご自身が涙を一つ一つ拭い取ってくださるのです。神と共にいることは、堅苦しく緊張することではありません。それは栄光であり幸せの始まりなのです。すると

5…御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 神が「わたしはすべてを新しくする」と宣言されます。神が全てを新しくなさる。私たちを新しくしてくださいます。それがどんなことか、私たちには今想像もつきません。しかし、想像もつかない素晴らしい新しさを、神は私たちに約束しています。

 今、私たちが住んでいる世界は、新しい天と新しい地とは違います。今は、まだ死があり、悲しみ、叫び、苦しみがあります。この黙示録が書かれた時も、教会は沢山の悩みを抱えていました。ひどい暴力や狡い胡麻菓子が蔓延っていました。そうした時代に黙示録は書かれました。そして、これからもつらい想いをたくさんすることをまざまざと書き綴った上で、最後にはそれらの苦しみを償って余りある将来が来ると約束しています。最後にあるのは、新しい天と新しい地で、イエスとともに永遠に留まります。もう二度と、死や終わりはありません。永遠にそこにあると約束されています。「そんな話はうますぎて信じられない」と思う人もいるでしょうが、それでも、これが神の約束です。神は、新しい天と新しい地を用意して、そこに向けて全てを運んでいます。私たちは今ここで、その将来に向けて、希望を持ちます。神は私たちに、戦いや厳しさやなすべきことを十分に語ります。甘い見通しや、無責任な生き方をきっちり警告されます。それでも、その先に新しい天と地がある、あなたがたを新しくすると語り、希望を呼び覚ますのです。希望こそ、神の約束を信じるキリスト者のしるしです。

Ⅰコリント13:13こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 「はじめての教理問答」は、世界を造られた神から始まって、最後に新しい世界を造る神で結びます。今ここが楽園になることを願うのではなく、将来の完成に希望を置きながら、その時にも残る価値のある、信仰と希望と愛を持つよう励ましてくれるのです。

 

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はじめての教理問答147~149 イザヤ書65章17~25節「新しい天と新しい地」

2019-10-01 16:06:09 | はじめての教理問答

2019/9/29 イザヤ書65章17~25節「新しい天と新しい地」はじめての教理問答147~149

 今日と来週で、「はじめての教理問答」は終わります。最後に扱うのは、世界の最後のことです。聖書は、神がこの世界を造った、天地創造のことから書き始め、最後にこの世界が終わって、新しい天と新しい地をお始めになることで結ばれるのです。そして、その時に、今まで生きて死んだ人が全てよみがえることを語ります。死んで、からだは葬られて、魂が神と共に、あるいは神から切り離された場所に行くことを前回お話ししましたけれども、それで終わりではなく、最後にもう一度体を持つ、というのです。

問147 死んだものの体はもう一度よみがえりますか?

答 はい。終末の日によみがえり、あるものは永遠のいのちを受け、残りのものは永遠の死に罰せられます。

問148 神さまは終末の日、不信者をどうしますか?

答 神さまは不信者を裁き、サタンとその手下たちとともに、永遠の刑罰として火の海に投げこみます。

問149 神さまは終末の日、信徒をどうしますか?

答 神さまは信徒たちに、新しい天と新しい地において、神さまといっしょに住む家を与えます。

 神は、死者全員にもう一度体を与える。とても不思議なことです。信じがたい話です。そんな信じがたい話を、聖書は語っています。最後だけではありません。最初から、神が世界を創造して、人間を作って、体を与えたというのも、この世界にずっと関わってきた、というのもビックリするような話です。

 何よりも、神の御子キリストが、二千年前にこの世界に来て、人間となって、体を持ち、それも赤ちゃんの体で生まれて、成長し、最後は十字架で体を磔にされて、殺された、と語るのです。そして、その三日目に、キリストは体をもってよみがえりました。今もキリストは、体を持つ方として、天にいるのです。そのどれもが信じがたい話です。それぐらい、神はこの世界に手を掛けています。私たちの体も、この世界も、神がいなければ、存在しない特別な作品です。だからこそ、その私たちが死んで終わりであるはずがない。神が私たちを造られたのは、死では終わらない、その先にも続いている目的があるのです。それが、死んだ者も、最後にはみんなよみがえって、永遠に入る、という告白につながるのです。

 その時、ある者は永遠のいのちを受け、残りの者は永遠の死に罰せられます。神は人を本来、永遠の命を持つように作られたのです。しかし、最初のアダムが神に背いた時、人は命の神様から離れて、死んでしまいました。生きてはいても、心が死に、神との交わりを失った暗い状態になりました。それは、神の怒りを受けて、滅ぼされてもしかたのない反逆です。罪の行き着く所は死です。けれども神はそんな人間にも働き続けてくださいます。私たちがもう一度、神に立ち帰って、神が下さったいのちを大事にして、この世界で祝福を受けるよう、働き続けてくださっています。でも、それを受け入れない人、神を信じることも、人を大切にすることも拒み続けて、自分さえ良ければいい、という生き方をする人もいます。先週見たような、金持ちのまま死んで、ちっとも悪びれることがない、という生き方も出来るのです。そのような人は、最後の日に復活しても神には来ようとしない。神の国に入ることは嫌がるのです。

 ここではこう言われます。

問148 神さまは終末の日、不信者をどうしますか?

答 神さまは不信者を裁き、サタンとその手下たちとともに、永遠の刑罰として火の海に投げこみます。

 最後まで自分勝手な生き方、人を踏みつけ、自分が神のように思い上がって生きる人が「逃げがち」することは決してないのです。今は好き放題のまま逃げおおせたり、うまいことやって人生を終わる人もいるように見えて、正義なんてないかのように思えたりするかもしれませんが、聖書は明言します。最後には、正しい裁きがあるのです。逃げ得をする人は決していないのです。勿論、私たちも自分の罪を悔い改めないなら、こんな最後になったでしょう。神は、そうならないように、今、私たちに呼びかけてくださっています。神に立ち帰り、主イエスの贖いを信頼する心を下さる。そういう神の招きに預かっているのなら、将来に対しても、希望を持つことが出来ます。

問149 神さまは終末の日、信徒をどうしますか?

答 神さまは信徒たちに、新しい天と新しい地において、神さまといっしょに住む家を与えます。

 神は、新しい天と新しい地において、神と一緒に住む家を下さる。なんと大きな恵みでしょうね。そういう祝福を下さることが、神のご計画です。先に読んだイザヤ書も、将来にある素晴らしい喜びを語っていました。楽しみ、喜び、という言葉が繰り返されていました。泣き声も叫び声も聞かれない、とありました。百歳で死ぬとかいう言葉は文字通りには受け取らなくていいのかな、と思います。数日しか生きられない赤ちゃんとか、寿命を全うしない老人とか、無駄に労するという言葉で、辛い思い出を思い出す人もいるかもしれません。この言葉はそうした引きつるような痛みをも丁寧に汲み取りながら、そういう悲しみが起きることをもう恐れない将来が来ると語ります。今までの悲しみや苦しみを思い出さなくなるほどの、大きな慰めがあると語ります。また、

21彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。

とありました。働かなくて良い楽園ではないのです。手足を使って家を建て、畑を作り、収穫をして食べる、そういう将来を語ります。仕事や農業も、今は色んな悩みや問題が付き物ですが、神が語る将来は、皆が喜んで働き、耕し、食べたり楽しんだりする永遠が始まる、というのです。体だって、今は悩みになりますね。病気をしたり、人と比べたり、いつまでも若くないことで悩んだりします。眠くなり、お腹が空き、運動神経がもっとあればいいのに、と悲しくなりします。だから、ギリシャ世界では、体を「魂の牢獄」と考えました。体や物質は価値がなく、永遠に続くのは見えない魂や精神だけの世界だ、と考えていました。けれども、天地を作られた神は、私たちの体も、目に見えるもの一つ一つも、すべて価値あるものとしてお造りになりました。今はまだ回復途中で、私たちは問題がない世界など、想像もつきません。でも、この世界の造り主である神は、永遠の世界、永遠の祝福を用意して、私たちをよみがえらせてくださいます。

 その神の約束を信頼して、神に立ち帰って、私たちの歩みをお委ねしましょう。イエスに従って、祈りつつ、御言葉の道を生きていきましょう。死で別れる時があって、体が葬られるお別れで本当に悲しい思いをする時も、その悲しみが終わりなのではなくて、神が終わりの日に私たちをよみがえらせてくださる約束に心を向けましょう。

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はじめての教理問答144~146 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」

2019-09-22 15:29:04 | はじめての教理問答

2019/9/22 ルカ伝16章19~31節「死ぬとどうなる?」はじめての教理問答144~146

 今日はまず、主イエスがお話になった一つの物語を聞きましょう。聞いた相手は、お金持ちたち。イエスのお話しを聞いても、彼らは心を動かそうとしませんでした。このお金持ちの人たちも、自分たちが贅沢をしたりお金を沢山儲けたりすることばかりを考えて、貧しい人やお腹を空かした人のことは心に留めていませんでした。自分たちは、聖書を学び、正しい生活をしているのだから、神に祝福をもらう権利が当然あると思っていたのでしょう。イエスはそのような人たちに対して、ズバリと語ったのです。

ルカ16:19ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。21彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

 贅沢に遊び暮らした金持ち、腹を空かせた貧しい病人。二人はどうなったでしょう。

22しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

 金持ちも死にました。立派なお墓だったでしょうね。贅沢に遊び暮らして、大きなお墓に葬られた金持ち。羨ましいぐらい幸せな人生にも思えますね。でも、イエスはこの金持ちは、アブラハムの懐ではなく、「よみにいった」とお話しするのです。

23金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

 「よみ」とは死者の行く場所です。それがどんな場所かは、よく分かりません。ここで言われているのは、金持ちはよみにいて、アブラハムとは遠く離れた所に見えた、という事です。アブラハムは聖書の最初に出て来る人のひとりです。金持ちにもラザロにもご先祖です。でも、金持ちはアブラハムの側ではなく、よみに行ました。金持ちの生き方は、アブラハムとはまるきり違ったのです。アブラハムはラザロを懐に抱いていました。わが子のように慰め、抱き寄せています。しかし、金持ちはラザロを気にもかけずに自分の贅沢な暮らしを楽しんでいました。懐どころか、食べ物の残りを恵むことさえしなかったのです。彼の生き方は、ラザロを抱き寄せているアブラハムとはまるきり違いました。だから死んだ後の場所も、アブラハムからは遠かったのです。

24金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

 金持ちは、アブラハムに、ラザロを送るように言います。炎の中で苦しくてたまらない、水を一滴持って来させてくれ、と言います。これにアブラハムは答えます。

25するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。26そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

 アブラハムは金持ちに、自分の生き方とラザロの対照的な生き方とを思い出させます。金持ちが選び、好んできた生き方は、聖書の示す道とは逆でした。その結果には越えようがない大きな隔たりがあります。光と闇、水と油以上に、本質的に相容れないのです。

27金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。28私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

 この金持ちは、自分の間違いを最後まで認めません。ラザロがよみがえって私の家族に教えに行かせよ、と今でもラザロを見くびって、命令する立場にいると思っています。自分が苦しい目に遭っているのは、もっとちゃんと教えられていなかったせいだ、と最後まで言い張るのです。「ラザロよ、悪かった。ごめんなさい。アブラハムよ、私の生き方はこんな場所に来てもしかたがなかった」とは言いません。「あなたの所に行きたい」とも言わないし、ただこの熱さや苦しみの文句を言うだけです。もしラザロを寄越したら、その手を握ってよみに引きずり込むつもりじゃないかと思ってしまいます。

 神は聖書を通して、私たちに語っています。神が私たちとともにおられ、私たちもお互いにともにいる生き方を教えています。聖書だけでなく、貧しい人、困っている人を通して、またその人達を大事にして共に生きようとしている人たちの姿を通して、私たちにともにいるよう、語っています。アブラハムや聖書の多くの物語が、私たちに与えられている、向きを変えて神を信じ、互いに助け合えという、生きた招きです。でも、そうした神の「ともにある」招きを拒んで、自分たちの楽しみだけのために生きて人生を終わるなら、その願いの通り、神から遠く離れたよみに行くことになるのです。

問144 信徒は死ぬとどうなりますか?

答 わたしたちの体はちりにかえり、魂は主ととともに永遠にあります。

問145 不信者は死ぬとどうなりますか?

答 その体はちりにかえりますが、魂は地獄に落ちます。

問146 地獄とはなんですか?

答 神さまを信じないものが、神さまから切りはなされ、おのれの罪のゆえに苦しむ恐ろしい場所です。

 死後、主とともにいます。幸せな天国というより、何より

「主とともにいる」

 これが聖書の語るゴールであり、慰めです。この世界を造られた神、恵みに富み、貧しい人をも愛される主とともにいる。私たちも本当にこの神と一緒にいたいと願い、一緒にいればいるほど、神の素晴らしさを永遠に喜ぶ。そういうゴールを聖書は語るのです。

 反対に、地獄とかよみとは、何よりも

「神様から切り離され」

ている場所です。火や苦しみという表現はあっても、何より、神から切り離されている場所です。それは神の罰ではありません。神は人間とともにいたいのです。人間が、神を拒んで、神に背を向けたのです。人は神と共にいることも、神が愛する全ての人をも拒んで、自分さえ良ければ良い、という生き方を選ぶようになっています。最後はよみで孤独に苦しむとしても、それでも神に立ち帰って、悔い改めようとは思えない。それが、人間の姿です。

 神は、そういう人間である私たちの中に、神を信じる心を下さいます。神とともにいたい、そして、人とつながり、助け合い、出来る事をして、ともに生きていく世界に行きたい、という思いを下さるのです。神から切り離され、苦しみ、恨み続ける終わり方はしたくない、そういう思いも神からの贈り物です。そんな神を信じる心をいただいているなら、死んで体は葬られても、終わりではありません。神は私たちを迎え入れ、アブラハムがラザロを受け入れたように、私たちは神の元に受け入れていただくのです。

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はじめての教理問答141~143 ヨハネ黙示録1章4~8節「キリストは今どこに?」

2019-09-15 15:08:17 | はじめての教理問答

2019/9/15 ヨハネ黙示録1章4~8節「キリストは今どこに?」はじめての教理問答141~143

 キリストは、今どこに?いるのでしょう。この質問に皆さんは何と答えますか。今日学ぶのはキリストは、どこにおられるのか、です。教会に来ていない多くの方は、こう思うでしょう。「イエス・キリストは、偉い人だったけれど、最後は十字架に死んだんだから、どこかのお墓に葬られているんでしょう?」

 そこで、ここでもこう言います。

問141 キリストは十字架ののちに、墓にとどまりましたか?

答 いいえ。キリストの体は、死から三日目に墓からよみがえりました。

 これだけでも、ビックリですね。キリストは、十字架に死んで葬られたけれど、三日目に墓からよみがえった。今、キリストのお墓を探しても世界中どこにも見つけることは出来ない。とんでもない話ですが、キリストは死んで三日目に復活した。本当に体でよみがえって、弟子たちとも出会ったのです。それは、教会にとっての原点の信仰告白です。そして、それは、キリストだけの超自然的な出来事というだけではありません。私たちの命も、神が創造された、この世界の神秘です。「普通、命は死んだらお終い」なのではありません。命は、神が作られた、奇跡です。キリストがよみがえったのは、私たちも死んだらおしまい、ではなく、私たちもよみがえるという証しです。私たちはキリストの復活を思う時に、私たちも死んで墓に葬られても、そこに留まるのではなく、最後にはよみがえらされる、という希望でもあるのです。いずれにしても、キリストの体が葬られたお墓は、世界のどこにもありません。キリストはよみがえったのです。

 ではよみがえったキリストは、今どこにいるのでしょうか?

問142 キリストはいま、どこにいますか?

答 天にあって御国をおさめ、わたしたちのために取りなしています。

 キリストは、よみがえった後、天に上りました。聖書には、イエスが「神の右の座に着き」という言葉が繰り返して出て来ます。「神の右の座」があるなら「左の座もあるのか?」と思いたくなりますが、「神の右の座」とは神に一番近い地位、神に次ぐ立場のことです。神の王子がつく場所です。キリストは、今、天におられて、神の国を治めています。キリストが天におられるとは、私たちから遠く離れているということではなく、キリストは天の御座で、世界を治めて、私たちのすべてに関わっている、ということです。イエスは私たちと「ともにいてくださる」という聖書の言葉もあります。キリストがおられるのは天の、神の右の座です。しかし、そこから私たちを力強く治めている王ですから、「私とともにおられる」とさえ言うことが出来るのです。

 ですからキリストは今、天におられて、全てを治めています。そして、私たちとともにいてくださいます。ここには「私たちのために執り成しています」と書かれています。「執り成す」。私たちと神様との間に立って、私たちを結び合わせてくださっています。私たちが罪を犯して、神の義に適わないことをしても、キリストが私たちを受け止めて、神との関係を支えてくださり、神は私たちを受け入れてくださるのです。私たちが祈る時、私たちの小さな祈りも、キリストが執り成して、神に私たちの祈りを届けてくださいます。キリストは、私たちと神との間を完全に取り持ってくださるのです。

ヘブル7:25…イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

 執り成しをしてくださっている。それは、本当に有り難い、私たちにとっての希望です。ただ、天で治めているだけでなく、私たちのために、神との間に立って、神に近づかせてくださるのです。ですから、私たちは今ここで、キリストの御支配を信じます。キリストの名前によって祈ります。私たちには分からないことは沢山ありますが、そのすべてを治めておられるイエスを信頼して、祈り、歩んで行くのです。

 では、キリストが天で私たちを治めている、ということで終わりなのでしょうか?

問143 キリストはふたたび来ますか?

答 はい。終末の日に、世を裁くために来ます。

 キリストは、もう一度この世界に来られます。かつて、二千年前にこの世界にお生まれになったイエスは、今、天におられて、やがて再び、この世界に来られるのです。そして、その時に世界を裁くのです。この事については、また来週、詳しくお話しします。今日は、この事だけを覚えましょう。キリストは、もう一度、この世界においでになる。今私たちがキリストを信じるのは、この世界の現実については諦めて、キリストに希望だけを置いている負け惜しみではありません。今ある色々な悪や問題に、神は何もしてくれないまま、悪い人は逃げおおせることは決して出来ません。神は、すべてを裁いて、明るみに出すのです。その事を信じながら、恐れ慎んで、生きていくのです。

 今読んだ黙示録の言葉にも、重ねてこのような言い方が出て来ました。

ヨハネの黙示録1:4…今おられ、昔おられ、やがて来られる方…

 ヨハネの黙示録では、この事を何度も繰り返しています。ヨハネの黙示録は、キリスト教会にとって、ローマ帝国からの攻撃がとても強くなっていった時期に書かれました。教会にも、冷たさや人間関係のもつれや、パワハラやゆるみが入ってきていました。そういう中、黙示録は、キリストが今もおられ、昔おられ、そして、やがて来られるお方だと何度も繰り返し語るのです。私たちがキリストを信じるのは、日曜日だけの礼拝の事ではありません。昔、キリストが語った素晴らしい教えを忘れずに生きていきましょう、ではありません。今、キリストが天におられることに目を仰いで、祈りながら生きていく、それだけでもありません。キリストは、墓にはおられずよみがえって、今も天におられます。天で神の右の座に着いて、私たちのために執り成してくださっています。そして、必ず再び世界に来て、すべてを裁いて、新しい国を始めるのです。

 どうでしょう。そう信じる事は、私たちの生き方のどれほど頼もしい土台ではありませんか。将来にキリストが再び来る日が、すべてが白日の下に晒される日が来ると信じて今を生きていけることは、そういう将来があると知って進んで行くことは、生きることをどれほど喜びに変えるでしょうか。キリスト教信仰は、たんなる教えや、今の慰めや、日曜日だけの平安ではありません。むしろ、私たちの毎日の生活の全てが、イエスの執り成しに対して信頼し、やがて来られるイエスへの希望によって新しくされることなのです。

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はじめての教理問答137~140 Ⅰコリント11章23~26節「食卓への招待」

2019-09-08 20:49:16 | はじめての教理問答

2019/9/8 Ⅰコリント11章23~26節「食卓への招待」はじめての教理問答137~140

 教会の大事にする儀式、「聖礼典」についてお話ししています。先週まで、「洗礼式」についてお話しして来ました。今日は「聖餐式」についてお話しします。

問137 聖餐式では、どのようなしるしが用いられますか? 

答 パンを食べぶどう酒を飲み、イエスさまの苦しみと死を思いおこすというしるしが用いられます。

問138 パンはなにを表しますか? 

答 わたしたちの罪のために犠牲となったキリストの肉を表します。

問139 ぶどう酒はなにを表しますか? 

答 わたしたちの罪のために流されたキリストの血を表します。

 聖餐式は、パンとブドウ酒をいただくことを通して、イエス・キリストが苦しみを受けて死なれたことを思い起こすのです。先に読まれたⅠコリント11章の通りです。

Ⅰコリント11:23主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 イエスは、十字架にかかる前の晩、食事の席でパンを裂き「これはあなたがたのためのわたしのからだです」と言われ、ぶどう酒の入った杯も取って「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われて、これからも弟子たちがイエスの死を覚えながら、パンを裂いて食べ、杯を分けて飲むようにと命じたのです。

 この絵をみて分かるように、パンと言っても、お煎餅みたいです。当時は今のようにフワフワなパンはありませんし、ましてこの時のお祭りでは、膨らまないまま焼く「種なしパン」でした。そして、それをイエスは手で裂いて、一人一人に違う形のパンを渡したのです。でもそれが、イエスの死を表しました。まもなくイエスは十字架にかかります。釘や槍でイエスの体は傷つけられました。それ以上に、イエスはご自分のいのちを私たちに与えてくださったのです。一つのパンを裂いて分けるように、イエスはご自分を私たちに与えてくださいました。イエスは私たちに命を下さいます。今私たちが生きているのも、神の御業ですし、神は私たちに、ただ生きるだけでなく、豊かな命を下さる方です。いいえ、神ご自身の命によって、私たちを生かしてくださるのです。イエスが私たちを愛して、ご自身の命を与えてくださいました。私たちが罪の報いとして死に向かって進んでいたのを、イエスは私たちのために自らが死ぬことによって、引き受けてくださいました。パンは、イエスが私たちのために死んでくださった十字架の記念です。また、私たちが本当にイエスからいのちを戴けることを、パンを取って食べて味わうことで実体験させて戴くのです。そして、自分一人だけではなく、私たちがお互いに、一つのパンを分け合う仲間、イエスという一人のお方の救いに与る、一つの仲間であることを覚えるのです。その事を覚えさせたくて、イエスは聖餐式を定めてくださいました。尊い御自身を、薄っぺらいパンに託して、これがわたしのからだだ、わたしを覚えて、これを行いなさい、と言われたのです。

 もう一つは葡萄酒の杯でした。私たちの教会では、ぶどう酒(ワイン)ではなく、葡萄ジュースを使います。イエスの時代、ワインは水代わりの薄いものでした。水をそのまま飲む方がお腹を壊すので、ぶどう酒で殺菌したものを使っていたのだそうです。ですからイエスが「わたしの血による新しい契約です」と仰ったのも、今のような酔っ払うお酒ではないし、高級なワインで盛り上がったのでもありません。ところが、教会ではワインはイエスの血を表す恭しいものなのだから、と高級な葡萄酒を造る技術を開発して、どんどんアルコールの強いお酒が造られるようになっていきました。一方で、葡萄はすぐに発酵してしまうので「葡萄はワインにしかならない」とずっと考えられていました。でも礼拝には子どももいます。お酒に弱い人、アルコール依存症の方もいます。そういう人にはワインは困ります。「アルコールなしの葡萄の飲み物も出来ないか。教会で、アルコールの入らないワインで聖餐式が出来ないか」と考え出されたのが、アメリカでウェルチさんが造った葡萄ジュースなのだそうです。ですから、私たちの教会でも、安心して葡萄ジュースを使って、聖餐式をしています。

 ワインかジュースか、よりも大事なのは、一つの杯です。イエスは杯を指して「この杯は、わたしの血による新しい契約です」と言われました。イエスが私たちのために血を流されたのは、私たちに新しい契約を下さるためでした。それは、主にあって一つとされるつながりです。イエスが主の食卓に私たちを招かれ、一つのパンを食べ、一つの杯をのみ、一つの食卓を囲む。それこそ、主が覚えさせてくださる新しい契約なのです。

 もともと主の聖餐式は、一つの杯を回し飲みしていました。今でも、一つの杯から回し飲みしている教会もあります。次の人に回す前に、自分ののんだ所を布で拭いています。でも、それでも嫌だという人も多くなって、今は小さな器に分けています。それはそれで無理は出来ないのですが、本当は一つの杯を分け合い、一つのパンを分け、一つの食卓に着く。自分だけでなく、あの人もこの人も、苦手な人も言葉が通じない人も、皆がイエスの食卓に一緒に招かれて、神との交わりに入れられている。その大きな恵みの契約に入れられていることを覚えるのが、主の食卓を囲む聖餐式なのです。

問140 聖餐式にあずかるのはだれですか? 答 罪を悔い改め、キリストに信頼し、神の子にふさわしい生活を送り、教会において信仰を告白したものです。

 私たちは今まだ、罪を持っています。神の御心に反し、人や自分を傷つける罪の中に生きています。ですから罪を犯さないことは出来ません。神の子にふさわしい生活とは、罪がない立派な生き方ではありません。神の子に相応しい生活とは、悔い改めと信頼です。イエスの前に正直で、罪を正直に認め、お互いにも赦し合い、主の食卓を真ん中において行く生活です。それを覚えるためにも、教会の中心には、主イエスの食卓があります。礼拝とは、この聖餐式が中心にある時間です。イエスの食卓に私たちが一緒に招かれている。パンと杯がなくても、聖書を通し、賛美や説教を通して、有り難い恵みを一緒に戴くのです。そうして神を賛美して、命を戴き、派遣されて行くのです。

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