2018/7/1 ハ信仰問答129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節
今日でハイデルベルグ信仰問答の最後になります。「主の祈り」の最後の「アーメン」の話です。祈りの最後「アーメン」と言います。そう言わなければならない訳ではありませんが「アーメン」と付け加えます。「アーメン」は「これで終わりです」という意味でしょうか? お祈りの最後の挨拶とか、「いいね!」だと思っている人もいました。そして、キリスト教といえば「ああ、アーメンか」と言われて、ちょっとカチンときた経験もあるかも知れません。しかし、このハイデルベルグ信仰問答も、アーメンで結ぶのです。それはキリスト者にとって、アーメンが一番相応しいから、と言うようです。
問129 「アーメン」という言葉は何を意味していますか。
答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めているとわたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
アーメンとは「真実です・本当です・確実です」という意味です。嘘ではありません、心からの願いです、という意味だとも言えます。そうすると、祈りの最後にアーメンと言うのは、今まで祈ってきた事が本当です、私の心からの願いです、という意味かと思いそうになります。けれども、ここではそうは言いません。むしろ、
「これらのことを神に願い求めていると私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」
と言います。私たち祈る者たちの真実さのアーメンではなくて、神さまご自身の真実さを指して、アーメンというのです。神が真実であられます、そういう意味でも、最後の言葉
「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」
とセットになっている
「アーメン」
です。「あなたのものだからです、本当に」なのです。
聖書には「アーメン」という言葉が何カ所にも出て来ます。そして、イエスが何度も仰っているのです。新約聖書はヘブル語でなく、ギリシャ語で書かれているのですが、ヘブル語のアーメンが、旧約聖書の何倍も多く出て来ます。そして、その多くがイエスの言葉でした。日本語の聖書では「まことにまことに」と訳されていますが、イエスが繰り返して仰ったのが、本当に、という言葉での念押しでした。弟子たちに何度も「まことにあなたがたに言います」とゆっくり、力強く、丁寧に仰ったのです。
そこで、後に沢山の手紙を書いたパウロは、イエスの事を真実な方と呼びます。
Ⅱコリント一20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
神の約束が、イエスにおいて事実になった。イエスは、本当に神の約束そのもので、その言葉には何一つ偽りがなかった。だから、私たちが「アーメン」というのは、神に栄光を帰することです。神が真実な方でいらっしゃることを告白する賛美なのです。今読みましたⅠコリントの一章ではこのような言い方をしていました。
Ⅰコリント一8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
9神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
神は真実です。神は真実です。この真実な主が、私たちをイエス・キリストとの交わりに入れて下さって、最後まで堅く保って、終わりの日にも責められる事がない者としてくださる。それは、私たちが真実であれば、という私たちの真実さ次第、私たちの信仰さえあれば、という事ではなく、神が真実なお方だから、なのです。黙示録にも
黙示録三14また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる-。
イエスの名前が「アーメンである方」と言われています。イエスは、神の約束をすべて果たしてくださいました。口先で「まことにまことに言います」アーメン、アーメンと繰り返しただけでなく、ご自身が主の約束を本当にしてくださいました。
人間が大切な手紙を書いた最後に、自分の署名をしたり、印鑑を押したりするのは、この内容が本当に嘘偽りないことを誓います、という意味ですね。誓約です。ここで偽りがあると、「公文書偽造罪」という罪に問われる場合があります。私たちが祈りの最後に「アーメン」というのは、これとは違います。私たちの側の嘘偽りなさを誓うのではありません。私たちの願い以上に、イエス・キリストが真実であられます。神が王であられます。だから、そのイエスの真実にお任せして、私の祈りや願いも、生き方や人生、私そのものもあなたにお捧げしますと祈るのです。そして、神が私たちの願いを聞いてくださる。私の側の問題や不十分さを責めて、公文書偽造罪を正されるのではないかと恐れなくて良いのです。この私の祈りも、イエス・キリストのゆえに聞いて戴ける。
主の祈りは祈りの土台です。御名が聖とされますように、御国が来ますように、御心が天でのように地で行われますように、日毎の糧を与えてください、負い目をお赦しください、試みに遭わせず悪からお救いください、と祈りました。その祈りを授けてくださったイエスご自身が真実な方、アーメンのお方です。本当にそうなるのです。御名が聖とされ、御国が来る。皆にパンが与えられ、罪が赦され、互いにも赦し合い、悪から救い出されるゴールなのです。聖書の約束は、すべて確実に成就します。私たちがそれを信じられなくても、私たちが神の約束を十分理解できていないとしても、老人になって忘れたり何も覚えていなくなったりしたとしても、イエスは神の約束を果たしてくださる。この世界の歩みも、この宇宙そのものも、神の約束の完成に向かっています。
人の言葉は変わります。人の言葉を信じて騙された経験があるでしょうか。親切そうな言葉や強い言葉が流行しては消えていくうちに、私たちは神の言葉もどこかで疑ってしまいます。けれども、そういう私たちの体験には収まりきらないほど、神の言葉は真実では。神は決して私たちを裏切りません。神の素晴らしい約束は今も変わりなく、やがて完全に現されます。そして私たちもそこに確実に入れられる。そういう約束を神は下さっています。アーメンは、祈りの結びだけではありません。私たちの人生の最後にも、この世界の歴史が終わる時にも、神は真実であられた、アーメンと言う日が来ます。神の真実がすべてを新しくする日が必ず来ます。その事を信じる告白でもあるのです。