聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

2017-08-27 21:02:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/27 ハ信仰問答85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

 先週「鍵の務め」という事をお話ししました。今読んだマタイ18章18節にも

「つなぐ・解く」

という言葉が出て来ましたが、神は教会に天国の鍵を繋いだり解いたりする働きを与えられました。これを「鍵の務め」と言います。しかし前回お話ししたように、それは教会に特別な権威があるかのように誤解されやすいことです。ハイデルベルグ信仰問答ではそうは教えません。教会が、聖書からイエス・キリストの福音を伝える事、それが言わば鍵の務めなのだ、というのです。そしてもう一つ「キリスト教的戒規」というものが神の国の鍵の役目を果たす、ということが、今日の問85です。

問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら、非キリスト教的教えまたは行いをなし、幾度かの兄弟としての忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは閉め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 「戒規」とは耳慣れない語です。戒める規則と書きます。ここに書かれているように、

「非キリスト教的教えまたは行いをなし」

という人を戒める規則です。キリスト者と言われながら、イエス・キリストの教えや聖書の大切な教理を否定する。あるいは、その生活での行いで犯罪に手を染めるとか不道徳な生き方をする。そういうハッキリした罪をする人を戒めるための手続きが「戒規」です。そこには三段階あることも分かります。分かりやすくしてみましょう。

 まず、兄弟として、つまり二人だけで話をします。それでダメなら、もう一人と一緒に注意します。その前に噂話を広めたり、見て見ぬふりをしたりはしません。ちゃんと忠告しましょう、と言う事です。しかし、それでもその人が

「その過ちまたは不道徳を離れない」

なら教会に(役員・小会に)通告します。自分では解決できなかったのですから、教会にお任せして手離すのです。そして、小会が何とかしてその人と話して説得しても従わないかもしれません。その場合は

「聖礼典の停止」

をもってキリストの会衆から閉め出されます。それでもまだ悔い改めようとしないなら、最後には

「除籍」

という措置を取ります。そういう手続きがあるのです。

 けれども、戒規というより私たちの日本長老教会は「矯正的訓練」という言い方をするようにしています。確かに、教理や生活での間違いは戒める必要があります。けれども大事なのは戒めて、最後には除籍する、ということではないのです。間違いを正しつつ、それを通して人が回復することですね。元々の言葉は「訓練discipline」なのです。弟子にすることであって、排除ではないのです。今日読んだマタイの18章も、15節から20節の「矯正的訓練」の手続きの前後に、回復や大切な言葉が沢山ちりばめられています。この後にも赦しについての例え話が語られています。一つだけ紹介しましょう。

14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 どんな小さな人も滅びないことが天の父の御心です。過ちや不道徳の中で滅びてはならないから真剣に注意をするのです。そして、その注意の仕方でも頭ごなしに責めたり脅したり対決の姿勢は取らないのです。その人を、滅んではならない大切な人と思うからこそ注意するのであって、もしも帰ってくるなら受け入れられるのですね。

 …しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 どの段階でも「真実な悔い改め」を約束し、示すなら、再びキリストに結ばれ、教会の一員として受け入れられる。その赦しと回復があるのです。勿論、それは口先だけの反省かもしれません。深い問題がある場合、本当の回復のためにはケアや時間が必要でしょう。何でもすぐに赦して、なかったようなふりをする、ということではありません。その人が本当に間違いを間違いとして理解して、変わっていくようサポートするのです。でもその根っこには、赦しの恵みがあります。その事を現す事として、再び聖晩餐に受け入れて、一緒にパンと杯を頂く食卓を囲むのです。

 同じパンを食べ、杯を一緒に飲む事で、交わりの回復を示すのです。この食卓を囲む私たちは、だれも間違いなく生きる事が出来る人などいません。ひょっとすると、堂々と間違った教えを持ち込んだり、責められなければならないような生活を始めたりするかもしれない、弱い者です。だからこそ、友人同士、信徒同士で注意したりされたりすることも必要です。教会の役員によって譴責を受ける事も必要です。それでものらりくらりと逃げ、頑なに心を閉ざすかもしれません。その時に、主の聖晩餐に与れない、という罰でやっと目が覚めてほしい。そうしてやっと恥じ入って、非を認める時、交わりに受け入れられるのです。

「本当に赦されたのだろうか、責められるんじゃないだろうか。」

 そう思う私たちが、一緒に主の聖晩餐を頂く時、深い実感と感動をもって、私たちは赦しと交わりの回復を信じさせていただけるのです。この回復にこそ、「戒規」「矯正的訓練」の目的があります。

 私たち日本長老教会は「訓練規定」を持っています。教会の訓練について具体的に教えています。この中で、悔い改めた場合の陪餐停止は想定していません。しかし、教会の中には、悔い改めても何ヶ月か陪餐停止にする所もあります。他にもこの鍵の務めを誤解したり乱用したりしてきた事実は教会の歴史を見ると沢山見受けられます。だからこそ、正しい鍵の理解をしたいと思います。

 私たちは、間違いやすいものですから、教会の交わりを通して、教え合う事を必要としています。教会の交わりを必要としています。そして、その交わりを壊すような間違いも犯すものです。実際、教会に集まっている一人一人がそうした弱さを抱えているものです。でも、キリストの十字架の恵みによって、その私たちにも天国の鍵が開かれたのです。その恵みを受け止めて、私たちが受け入れ合う時、教会の交わりそのものが、キリストの赦しを味わわせ、見える形で天の鍵が開かれたことを示すような役割を果たすのです。責めて、追い出すための鍵ではありません。ますます主の恵みと赦しを味わい、分かち合うための戒規なのです。

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「エゼキエル書 建て直す神」エゼキエル書36章22-38節

2017-08-27 20:55:54 | 一書説教

2017/8/27 「エゼキエル書 建て直す神」エゼキエル書36章22-38節

 「みことばの光」の通読カレンダーでは今週からエゼキエル書を3ヶ月かけて読む事になっています。今日はエゼキエル書をお話しします。週報のコラムに載せたイラストはエゼキエル書に多く出て来る幻から、一章の獣と車輪の描写、三七章の一面の骨が生き返る幻、そして、最後の四〇章以降は新しい神殿が詳細に描かれる。その代表的な三つの幻を載せたものです。

1.エゼキエルの時代

 エゼキエルは紀元前六世紀の人です。ちょうど、イスラエルの歴史が「バビロン捕囚」という大きな曲がり角を曲がった時代です。神に背いて、南北に分裂したイスラエル民族が、四百年、背き続け、悪い道に走って行きました。北王国がまず滅ぼされ、その後もなお神から離れて悪い道も改めようとしない南王国も、バビロン帝国軍に包囲されて、三度にわたって主な住民がバビロンに連れて行かれました。この「捕囚」とエルサレムの陥落によって、イスラエルの民は国家としては一端終わらせられる[1]。その七十年後に、捕囚の地から帰還した民によって再建が始まりますが、エゼキエル書はそれより前、今将に国家が滅びようとしている、そういう時代です。もっと正確には、このエゼキエル自身が二回目の捕囚でバビロンに連れて行かれた中にいました。ですから、エゼキエルはエルサレムやイスラエルの地ではなく、エルサレムから八百km離れたバビロンで預言活動をしたのです。

 エゼキエル書は、一-三章でエゼキエルの召命と語られるメッセージの基本線が示されます。四章からは厳しい言葉が続きます。人々の問題、罪、道徳的な悪を指摘し、悔い改めを迫り、裁きが明言されます。四-十一章では罪と裁きの幻が託されます。特に八章以下では、エルサレム神殿で儀式的な礼拝が行われている裏で、みんなが異教の儀式も行っているというショッキングな描写がされます。そして、そのような神殿から神の栄光は離れ去っていきます。その後、十二-二四章では裁きの確実さが強くこれでもかとばかりに語られます。二五-三二章では、イスラエルの裁きに関わる周辺の諸外国に対する裁きが詳しく語られます。ここまでの内容は絶望的な状況をハッキリ浮き出します。しかし、続く三三章以降は一転して希望のメッセージです。神が民を回復してくださること、将来には新しい神殿が建てられ、国家が再建されることがとても具体的に、リアルに描写されます。絶望と希望という分かりやすい構造です。

 エゼキエルは祭司の家系に生まれた人でした。本来ならばエルサレム神殿で生贄を捧げたり儀式に携わったりして生涯仕えていたはずです。しかし、エルサレムからバビロンに移され、その神殿も形ばかりで、神が禁じた異教の宗教を持ち込んでいる事実を直視させられました。そして神から託された言葉や幻を語り、彼自身の行動や人生を通して、人に対するメッセージとなった。人に神を示し、心から神に向かわせる、ある意味では祭司の神髄を果たしたのです。

2.建て直す神

 エゼキエルが指摘した当時の風潮があります。バビロン捕囚の後、エルサレムに残った人々が「自分たちは大丈夫だ。バビロンはまもなく引き上げて自分たちは助かるに違いない。なんと言っても神殿がここにあるのだから」という、変な自信でした。エルサレムにいるのだから大丈夫、ここまで助かったのも神は私たちを大目に見て下さる証拠だ、と自惚れたのです。またバビロンにいる人々も、エルサレムが陥落する事はないだろう、早く帰りたいと考えていました。エゼキエルはそういう思い込みにハッキリ「ノー」と預言します。神は私たちの全てを見ておられて、罪を怒り、悔い改めることを望まれる。バビロン侵略は避けられない。場所や過去にしがみついて変な自信を持つのは止め、神の正しい裁きを受け入れよ。危機を免れるための悔い改めではなく、現実の危機を受け入れて、主の前に心から謙る悔い改めを迫るのです。

 そしてそのような裁きを踏まえた上で、後半は希望が語られます。主は民の罪を怒り、裁かれるだけではありません。その先にある希望、再建を語られるのです。エルサレム神殿の影の腐敗を糾弾されるだけでなく、新しい神殿のビジョンを通して、確かなご計画がある事を約束されました。神は、建て直す神、再建なさる神です。その「希望」の部分にたくさんあるメッセージから、三六章の「新しい心」を与えるという部分を今日は読みました。主はここで、民をすべての国々から集め、清い水を振りかけ、すべての汚れから清める。偶像の汚れから清めて新しい心を与える、と仰るのです。そうする事によって、神はご自身の名の聖なることを示すと仰います。

「わたしが主であることを知ろう」

と23節で言われています。

 その新しい心は、特別に高尚で聖人君子みたいな心ではありません。もっと素直で、恵みに潤された心です。25節には

「すべての汚れ…偶像の汚れから」

清めるとあるように、神ならぬものを神として虚しく追い求める生き方を止める心です[2]。26節には

「石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」。

 石の心、頑固で強情張りな生き方から、柔らかい肉の心、素直で温かく、無理のない心になるのです。もう一つ、31節32節には自分たちの悪を認め、恥じる心ともあります。これも新しい心の特徴です。

「はずかしめを受けよ」

とはひどい気もします。しかしむしろ新しい心は、自分の非をちゃんと見つめ認めて、恥じる事が出来る心です。自分の行いそのものの恥を引き受けます。石の心は過ちを認めず、責任を逃れ、恥を隠そうとします。新しい心はもっと素直です。逃げる事なく恥を弁え、ちゃんと罪を悲しめる心です。

3.「主であることを知る」

 ただしそういう新しい心になれと命じるのではないのです。新しい心は主の約束です。人の信仰が条件ではない宣言です。主の一方的な恵みによる新しい幸いが来る。そういう将来像が語られるのです。エゼキエル書は、主の厳しい裁きとともに、驚くような再建の約束を宣言しています。人の心も新しくされ、骨を蘇らせ、神殿も再建される。そして、それこそ主の主たるゆえんなのです。主は

「悪者の死を喜ばない。彼が悔い改めて生きる事を喜ぶ」

方です。[3]

 エゼキエル書には

「彼らは、わたしが主であることを知ろう」

という言い方が繰り返し出て来ます。この三六章でも三回[4]、全体では60回以上です[5]。これは、主が大いなるお方ですべてを見ておられ、どんな悪をも裁かれ、人間のように限界や不公平がないことを味わい知る、という場合にも使われます。でもそれだけではありません。人間には絶望しかない、もうどうしようもないと諦めるような所に、善い事を始められる。人が想像もしない善い事をなさることを通して、人は

「わたしが主であることを知ろう」

と主は仰るのです。私たちに新しい心を下さる。故郷から遠いバビロンで、新しい歩みが始まる。神殿が再建される。そういう新しいことを力強くなさることで、神はご自身が人間とは違う主だと知らせて下さる、というのです。

 「恵みとは、神にしか出来ないことを神がしてくださるということ」

という一文を読んで、いい定義だなぁと胸が熱くなりました[6]。私たちは神の恵みや全能や正義を信じているはずです。しかしどこかでそれを人間的に小さく考えます。真面目すぎて「神の恵みは大きいとしても私たちの信仰や努力が足りないから十分に恵みに与れない」と思い込みます。自分たちの常識の中で、神の御業も限界があるように思いがちです。しかしそんな小さな神ではなく、神は建て直し、生かし、神でなければ出来ないことをなさるのです。罪を罪として見据えさせつつ、その先には想像を絶する祝福をお語りになります。そういう神だと私たちも知らされるのだと宣言されています。神は全知全能になった人間のような方ではありません。人とは全く違う主です。だからこそ信じるに値し、その新しい心を今欲しいと願わされるのです。石の心や神ならぬものなんか捨てて、神を仰ぐのです。現実から目を逸らさず、腹を括った生き方が出来るのです。神に信頼し、祈り、御言葉に励まされよう、エゼキエル書はそう思わせてくれます[7]

「エゼキエル書の慰めに感謝します。御子イエス・キリストの御生涯により更に豊かに驚くべき御業をなしてくださいました。どうぞその約束によって私たちを導き、柔らかな新しい心を求めさせてください。恵みと希望を分かち合って歩ませてください。その旅路である今ここでも、どうぞ私たちの思いを超えた御業を現し、あなたが主であると心から告白させてください」



[1] 伝統的な理解では、王国の南北分裂が紀元前九三〇年、北イスラエル王国の滅亡が前七二二年、北王国のバビロン捕囚が三度にわたり、前六〇五年、五九七年、五八六年です。第一回でダニエルたちが、第二回でエゼキエルたちがバビロンに移され、最後の第三回でエルサレムが陥落します。
前597年 エゼキエルのバビロン捕囚
前593年 エゼキエル、預言者に
前586年 ユダ陥落、エルサレム破壊 エゼキエルの妻、死ぬ(二四16、18)
前571年 エゼキエルの働き終了(二二年間)二九17
前538年 帰還

[2] 神ではないものに自分を救い、幸せにしてくれと求めるのは無理な話です。そういう空回りから、現実の神、生ける大いなる本当の神を神として生きるようになるのです。

[3] エゼキエル書十八23、三三11

[4] 11節、23節、38節。

[5] 六7、13、14、七4、9、27、十一10、12、15、16、十二20、十三9、14、21、23、十四8、十五7、十六62、(十七21)、二〇38、42、44、二二16、二三49、二四24、27、二五5、7、11、17、二六6、二八22、23、24、26、二九6、9、16、21、三〇8、19、25、26、三二15、三三29、三四27、(30)、三五4、三五9、三五15、三六11、23、38、三七6、13、(14)、28、三八23、三九6、(7)、22、28。63回。

[6] 豊田信行。(「恵みによって救われ、恵みによって生きる 大阪府三島郡島本町 ニューライフキリスト教会」『舟の右側』、2017年7月号11頁より) 「恵みの一般的な理解は、「受けるに値しない者に与えられるもの」だが、教会でよく言われる定義は限定的、受動的だとして、「神にしかできないことを神にしていただく」という理解に立つ。神にしかできない業=恵みであり、恵みに対して能動的な態度だ。「今日の教会では、救いの教義の中に神の恵みが押し込められていて、本来の、神にしかできない業としての恵みという視点が大きく欠落しているように思います。聖書が本当に言っている恵みと、これまで教会の中で聞いてきた恵みが違うというか、そのスケールが違う。神にしかできないことに信頼したとき、人は怠惰になるどころか、燃やされますよね。」」

[7] エゼキエル書一章に描かれる幻はそれだけでは不思議で理解不能なのですけれど、その力、全てを見抜く目、御心を行う一致などはエゼキエル書全体の希望や、主が主であるということに通じていくのです。

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問83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

2017-08-20 15:26:40 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/20 ハ信仰問答83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

 マタイの16章には主イエスが、ペテロに

「天国の鍵」

を上げると言う言葉がありました。そこから教会は長い間、ペテロを描くときには鍵を持たせてきました。

 鍵を持っていれば、ペテロだと分かるというわけです。そして、ペテロの後継者であるローマの教皇もこの権威を継承してきて、天国の門を与っている。ある人を破門にしたり、天国に入れて上げたり、その権威を教会が委ねられている、という考え方をしてきました。私もいつからか誤解して、イタリアのバチカンに行けば、天国の鍵が見られるらしい、と思い込んでいた時があります。しかし、そういう鍵がある、という事ではありません。また、教会に誰かを天国に入れたり閉め出したりする権威がある、という考えも間違っていると分かりました。今日の問83はそのような誤解を背景にしています。

問83 鍵の務めとは何ですか。

答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。この二つによって、天国は信仰者たちには開かれ、不信仰者たちには閉ざされるのです。

 マタイの16章を読んで教会や教皇には天国の鍵の務めが与えられている、と考えて、それが一人歩きしていました。ここでハッキリと教会の

「鍵の務め」

とは福音の説教と戒規の事ですよ、それを通して教会は天国の門を開き、不信仰者には閉ざすのですよ、と教えるのです。福音を語る事、聖礼典に与らせたり陪餐を停止したりする事が「鍵の務め」です。それとは別に教会に「鍵の務め」なる権威が与えられるわけではないのです。この事を解説して、次の84では「福音の説教」、85で「戒規」を説明します。

問84 聖なる福音の説教によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度ごとに、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに神によってまことに赦されるということです。しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。そのような福音の証言によって神は両者をこの世と来たるべき世においてさばこうとなさるのです。

 福音の説教は、キリストの福音を受け入れる時、どんな罪もすべて、キリストの功績のゆえに本当に赦されることを約束します。それが

「天国の門を開く」

という鍵です。しかし、不信仰な者や偽善者たちには、

「回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が彼らに留まる」

というのです。これが

「天国の門を閉じる」

鍵だということです。要するにキリストの福音そのままですね。言わばキリストの十字架こそが天国の鍵です。キリストが私たちのために十字架に死んで復活された事実こそ、天国の鍵です。それとは別に何かの鍵があるのではありません。キリストを信じたのに、教会が「あいつは生意気だから、反抗的だから、入れて上げません」と閉め出すことは出来ません。福音が天国を開いたのです。十字架が、閉まっていた神の国へのアクセスとなったのです。そして、今地上で福音を聴き、信じるなら、やがて死んだ後、神の国に本当に入れられるのです。あの世に行ってみたら違っているかも、と心配しなくてよいのです。

 そうです。「鍵の務め」は閉め出すための権威ではありません。元々、神の国は誰も入れなかったのです。誰も自分のために神の国を開く事は出来ません。人が神に背いて以来、天の御国に帰る道は塞がれたのです。ですから人間が考える神の国は、どれも門は大抵閉まっています。条件があって入りづらい門です。人間にとって、神の国への道はもう断たれていました。いいえ、それどころか、神の国に帰りたいとさえ思わず、神を侮り、神を嘲笑う人さえ多いのです。それは、神の怒りと永遠の刑罰を選ぶような生き方です。ここに

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まる」

とあります。

「留まる」

とは元々

「神の御怒りと永遠の刑罰」

があった、ということです。それが神から離れた人間の姿です。しかし、神はそれをよしとされずに、一方的な憐れみを注いでくださいました。人に命を与え、太陽や雨を与え、食べる物も大事な家族や、全ての善い物を下さいました。何より、神の子イエス・キリスト御自身が、私たちの所に来て下さり、神との関係の回復を与えてくださったのです。

 このホルマン・ハントの「世の光」という絵は、キリストが戸を叩いている絵です。このキリストは、さっきの絵や多くの人間の描く雲の上の豪華な門の前に立ってはいません。そういう人間が考える世界から飛び出してこられ、人の所に来られた方です。そして、人の門を叩いて、開けてくれるよう優しく語りかけて下さるイエスです。天国の門とは私たちから遠くの門の事ではありません。イエス・キリスト御自身が私たちのところに来て下さいましたので、私たちが心を開いてキリストを受け入れるなら、神の国の王であるキリストをお迎えするのです。今ここで、神の国が始まるのです。しかし、そのような約束を聞いてさえ、キリストを受け入れようとせず、回心しない限り、当然それは神の御怒りと永遠の刑罰に留まって、自滅するしかないのです。

 ここでは

「不信仰な者や偽善者たち」

に対する証言として

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が留まる」

とあります。福音を聞いた事がないまま死んだ人がどうなるのかは論じていません。福音を信じる機会が無かったとしても信じなかった者は皆滅びる、と断定する事は行き過ぎです。どんな人にも主は働きかけ、招いておられるはずです。あらゆる方法で、罪を悔い改めた生き方をするよう呼びかけておられるでしょう。その最もハッキリした呼びかけが、イエス・キリストの福音です。他のどんな約束よりも、人に希望を与え、恵みを確証させ、正しく真っ直ぐ生きる生き方を励ましてくれる力強い福音です。それを宣べ伝えるのが教会の

「鍵の務め」

です。もしも教会が福音ではなく、「自分たちだけが特別で罪赦され、天国に行けるのだ、信じない人はみんな永遠に滅びるのだ」と上から目線で断定するならば、それは「鍵の務め」の完全な誤解です。そんな歪んだ教えには反発を抱く方が健全です。福音ならざる説教は、天国の門とは無関係です。そうした人間の、あらゆる傲慢や偽善や恵みならざる生き方から悔い改めなさい。そんな滅びに留まる生き方から、イエスを受け入れて生きなさい。そう宣言して、キリストの恵みを証しするのが「鍵の務め」という福音の説教なのです。

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使徒の働き6章1-7節「毎日の配給のこと」

2017-08-20 15:21:56 | 使徒の働き

2017/8/20 使徒の働き6章1-7節「毎日の配給のこと」

 「共同体の理想を愛する者は共同体を破壊する。共同体のメンバーを愛する者は共同体を建て上げる」

 この、私が胸に刻んでいる、ボンヘファーの言葉を今日の聖書箇所にも想います。

1.配給の不公平という問題

 ここで起きたのは

「ギリシャ語を使うユダヤ人」

「ヘブル語を使うユダヤ人」

に対して苦情を申し立てた事件でした。教会は始まったばかりで、エルサレムにいたユダヤ人で構成されていました。しかし、エルサレムにいたユダヤ人と行っても、一枚岩ではありません。ローマの各地に散らされて住んでいたユダヤ人も多く、ヘブル語は使えず、忘れて、現地の言葉と、共通語のギリシャ語で生きて行けたのです。その人々もエルサレムに巡礼に来ましたし、老後はエルサレム神殿のそばで死にたいと帰ってくることもありました[1]。特にご主人を亡くした女性たちが、今よりももっと生活の手段がなくて、言葉の不自由を承知でエルサレムに帰ることもありました。それが

「ギリシャ語を使うユダヤ人」

です。その中には、使徒たちの教えに触れて、イエスをキリストとして信じた人々が多くいたのでしょう。彼らは彼らで、ギリシャ語でのコミュニティを作り、ヘブル語を使えるキリスト者と共存していたのです。

 教会の中に貧しい人も多くいて、その必要を満たすため、献金が捧げられていました。四章の最後にそのことが書かれていましたが、そこには

「ひとりも乏しい者がなかった」

とありますが、更に人が増えて、祝福ではありつつ、問題も起こってきたのです。言葉や文化の違いは小さくありません。意思の疎通が出来ず、配給がちゃんと行き渡らなかったのです。そこで、使徒たちがとった対応は2節以下に書かれる通りです。

「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選び、この仕事に当たらせる」

 そうして、使徒たちはその配給を彼らに委ねて、

「祈りと御言葉の奉仕に励むことにします」

 祈りと御言葉の奉仕とが配給の公平さにかかずらって疎かになってはならない。だからといって、もう毎日の配給は問題になるからしない、ではない。教会はこの箇所を「最初の執事の選出」として読む事がよくあります。それは、祈りと御言葉の奉仕とに励む面と、困っている人を助ける働きの両方が教会の要であるからです。

 しかしこの箇所から教会の組織や制度について考える前に、もっと大事なことを感じるのです。それはこの「苦情」が出るまで使徒たちが食卓のことに仕えていた、という姿勢です。

2.使徒たちの姿勢を考える

 なにしろ最後に信者の数が報告されたのは四章4節で

「男の数が五千人」

という大規模でした。それでも使徒たちは献金を管理し、貧しい人たちに配給していました。その後更に弟子たちが増えて、とうとう不公平が出ざるを得なくなったのですから、どれほどの大所帯になっていたのでしょうか。もうとっくに面倒な配給は人に任せて、使徒たちは教えたりイエスの証しをしたりすることに専念していても良かったのではないでしょうか。しかし使徒たちは毎日の配給を、自分たちのなすべき務めとしていました。もっと正確には、その必要を抱えた一人一人を大切にしていました。てんてこ舞いで、不公平になっている実感はあったでしょう。言葉は通じず、文化や習慣や常識も通じないとしても、使徒たちは配給を続け、仕えていました。貧しい信徒らの足を洗うような奉仕も続けていました。使徒たちは決して最初から

「もっぱら祈りと御言葉の奉仕に励む」

とは思いもせず、毎日の配給の雑事に喜んで携わっていたのです。

 それでいて配給の問題で苦情が出たとき、彼らの対応は現実的です。自分たちの対応がマズかった、愛がなかった、もっと頑張ろう、と無理もしませんでした。逆に「こんなにやっているのに失礼な」と憤るとか、「イエスの使徒に向かって苦情だなんて身の程知らずだ」と上から目線でもありません。勿論、七人の選出の後に祈るように、この提案の前にも祈ったでしょうが[2]、この問題そのものを「祈りが足りない」「信仰で乗り越えよう」とすり替えません。現実的に、自分たちの限界を認めて、責任を分担し、配給がなおざりにならないよう体制を整える対策を取りました。そういう柔軟な発想が出来たのも、使徒たちが主イエスの愛を継承して、仕えていたからです。自分たちの教会の理想や活動の成功ではなく、目の前の人を優先したからです。だからこそ、苦情が言える雰囲気があり、必要な世話が行き届いていないと分かったら、素直に自分の限界を認めて、柔軟に対応できたのです。後のパウロはエペソ教会に対して、

二〇34あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いてきました。

35このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエス御自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

と言います。御言葉が教えるのは、キリスト教を信じることとか、伝道や証しの仕方ではありません。主イエス御自身が仕え、私たちにも仕え合う生き方を示されました。毎日の配給を、神御自身が下さり、私たちを蔑まずに身も魂も生き返らせてくださるのです。その神の恵みに応えて、神の養いを届ける生き方に至らせるのが「御言葉」です。やがて教会が長老や執事といった組織を作るのもこの使命を果たすためです。決して組織優先でもないし、組織があれば教会なのでもありません。御言葉の働きと執事の慈善の働きの両方が教会だからなのです。[3]

3.祭司たちも

 7節の最後に

「そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った」

とあります。祭司たちと言えば、先の四章五章では、弟子たちを捕らえ、脅したり迫害したりした側です[4]。使徒たちを黙らせよう、復活など教えられては困る、と言っていた祭司が、大挙して信仰に入るという不思議が起こりました。これは、使徒たちが祈りと御言葉の奉仕も、毎日の食卓のことも、両者をバランス良く前進させて、この苦情をプラスに変えたからでしょう。御言葉を教えるだけでなく、御言葉のとおりに、弱者が大切にされ、ギリシャ語を話すやもめたちの苦情にさえ真摯に当たって、助け合っている姿が祭司たちの入信にも繋がったのです。祭司は大きな神殿で立派な祭服を着、聖書の規定に従った儀式を司っていました。しかし、門前の物乞いにも、言葉が通じない貧しい寡婦たちにも関係のない、無力で無慈悲な働きでした。彼らは初代教会の惜しみない実践に、イエスが真に生きておられると認めて、大挙してやってきたのです。[5]

 キリスト教会のこうした活動が、やがてヨーロッパ社会全体の福祉の考えのベースになり、今日の福祉国家というあり方に展開していきました。逆に言えば、この当時はそうしたものが殆どない中で教会が救済に当たったのです。現在とは事情がいろいろ違います。同じ事を今の教会もしなければというのは本末転倒です。むしろ教会は地域に仕え、福祉の仕事や家族の介護をしている人を福音によって励まします。またそういう働きを税金や寄付や出来る形で支援するよう勧める。

「エンパワーメント」

です。教会の理想や宣伝が優先して、ただでさえ地域の仕事で忙しい皆さんに、更に教会の奉仕という重荷を負わせるのではないのです。教会という組織のために奉仕を求めるのは教会ではありません。キリストは私たちに仕えてくださいました。日毎の糧も与え、言葉や文化の違い、様々な問題にも傷つきながら、それでも私たちを尊んでくださった、本当の祭司であられます。この方の教会は、単なる教勢拡大や活動の成功を追い求めません。この地域で、それぞれの生活で関わる一人一人を大事にし、祝福し、その必要に仕えます。でも無理はしません。自分一人で全部やろうともしません。時には人に委ねることも厭いません。そういう毎日の食事や雑用や苦情に、キリストの福音は関わっていて、励ましや知恵がいただけます。そのために教会があり、長老や執事という役職があるのです。

「主が私たちに毎日の食事を与えて、体も心も養いたもう恵みを感謝します。あなた様の深い憐れみによって、社会で仕え人と関わり働く一人一人を支え励まして下さい。その苦情に応え、その業を通して御栄えを証ししてください。主の恵みによって力づけ、送り出す教会としてください。そのためにどのような組織や形が出来るのか、どうぞ知恵を与え、整えてください」



[1] 旧約聖書の終わりにイスラエルはいったん国家としては解散させられました。そうして国を追われたユダヤ人は地中海やペルシャ中に散らばっていました。そして、ユダヤ人というアイデンティティや宗教を持ちつつも、生活の拠点はその地になじんで、ヘブル語よりも現地の言葉を話すようになって、ヘブル語は使えなくなっていったのです。そして、当時の「世界共通語」とも言えるギリシャ語(正確には、古典ギリシャ語でも現代のギリシャ語でもない、コイネーギリシャ語と呼ばれる簡略化した文法のギリシャ語です。)はどの国の人々も理解できた、そういう時代です。

[2] 「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」という発言自体、使徒も教会も、祈りと御言葉の奉仕との重要性を認識していたことを前提にしています。

[3] 今日の六章の出来事は、初代教会の弟子たち(キリスト者、信者)の数が増えるに従って起きてきた問題と、それに対する使徒たちの対応が書かれています。人数が増えるのは喜ばしいことですが、やはりそこには面倒や新たな問題も起きてくるものです。それは教会も変わりません。しかしその対応の仕方から、私たちは教えられ、励まされる。そういう箇所です。

[4] 四1にはハッキリと「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、2この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、3彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。…」とありました。

[5] この拡大が殉教になり、エルサレム教会の拡散になる。「積極的に伝道しなかった」と批判する理解もある。しかし、主は伝道を命じたのではなく、聖霊が証人とする、と約束されたのだから、これで良かったのだ。この共同体が証しとなり、祭司さえ惹き付け、迫害になり、それさえ拡散になる。それが、聖霊のなさった方法。伝道は方法論ではなく、結果である。

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問82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

2017-08-13 18:23:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/13 ハ信仰問答82「弱さと不信仰は違う」イザヤ書一章11-20節

 

 教会の案内に「どなたでもお入りください」と書いてある事があります。それを見て、本当に誰でも勝手に入ってくると、やっぱり対応に困ってしまうことになります。違う宗教を持ち込んだり、商売を始めたい人、ただ逃避したい人が来たりしたら、お帰りいただいたほうがお互いのためかもしれません。勿論、そういう人が、教会でイエス・キリストと出会い、違う宗教からキリストに興味を持つかも知れませんし、自分の人生を新しく見つめ直すこともあるでしょう。ですから、「教会はイエス・キリストを信じる場所です。神を礼拝し、聖書の話を聴きたい方ならどなたでも」と言った方が誤解はありません。ただ「どなたでも」ではない、というのは閉め出すためではなく、聖書を通して、本当に招いてくださっているイエスを大事にするのが教会ですよ、と踏まえた上で「どなたでも」だ、という事です。それは、この福音を表す主の聖晩餐にも言える事です。聖餐は、誰もが与れるわけではありません。そしてそれ自体が福音です。

問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。

答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリスト教会はキリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す責任があります。

 信仰告白が他の神々でもいいとか、聖書の教えに反した事を信じているとか、生活において不信仰や背信、ハッキリした不道徳や犯罪や不正を行っている人も、聖晩餐に与れるのですか。いいえ、そういう人はダメです。主の聖晩餐、即ち、主イエス・キリストが私たちをご自分の食卓に招いて、御自身のいのちに与らせてくださる儀式は、だれもが招かれています。全ての人が、イエスの救いに与って、罪の赦しを戴き、新しい人生を歩み出す事が約束されています。でも、その事を信じようともせず、イエスに背いた生き方をしたいと思っている確信犯まで、パンを食べ、杯を頂けるのではない、という事です。なぜならそれは、イエスがご自分の十字架の死によって立てて下さった

「神の契約」

を侮辱することだからです。罪が赦されて、新しい歩みを下さるという約束を踏みにじる人にまで、イエスは大目に見て下さると考えるのは、根本的な勘違いです。

 ただ前回の問81でも見たように、罪が少しでもあればダメだとか、信仰に誤解や疑いが混じっていれば不適切だ、ということではありません。私たちは自己を嫌悪するような罪を持っています。未だに

「残る弱さ」

があります。間違いや愛のなさ、自分の中に悲しいほど闇や弱さがあるのです。その弱さもイエスは覆って下さるという慰めがあります。そうした

「残る弱さ」

を通して、私たちはますますイエスにすがりつかずにはおれません。罪や弱さがあるからこそ、赦しと憐れみを求めて、私たちはイエスに依り頼み、主の聖晩餐に来て、恵みに与るのです。

 ここで言う

「不信仰」

とは、

「残る弱さ」

そのものではありません。イエスの元に行こうとしない頑なな態度です。赦されたくない、変わりたくないと、頑固に心を閉ざし、神の契約を侮辱する態度です。それは赦されたいとさえ思っていないのですから、神は赦す事が出来ないのです。それでも傲慢にもいいとこ取りだけの祝福をもらうために、主の聖晩餐に来続けるなら、それは自らに裁きを招く事です。

「悔い改めない者や偽善者は「自分自身に対するさばきを飲み食いしている」」

のです。誰も見ていないところで罪を握りしめたまま主の聖晩餐にあずかってさえそうです。そして、それが公に生活や信仰告白に現れている場合はもっと有害です。それは本人だけでなく、周りにも悪影響を及ぼします。周りも誘惑に負けて、神の契約を軽視するようになり、やがては神の御怒りを招くでしょう。ですから、教会はそのような人を聖晩餐から閉め出します。

 ここに、

「キリスト教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで鍵の務めによって閉め出す」

とあります。人々を招かれたキリスト御自身が、不信仰者や背信者に対する定めを命じておられました。決して、キリストは愛のお方なのに、教会が後から敷居を高くして、排除するようになったのが陪餐の制限ではないのです。先に読んだイザヤ書一章の言葉を思い出しましょう。

16洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。

17善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」■

18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

19もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

20しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。

 悪を除け、悪事を止め、善をなすために、来なさい、と仰いました。罪がどんなに真っ赤でも、雪のように白くする、羊の毛のようにする。善い物を食べることが出来る。それが主の招きでした。しかし、そのような主の招きに背いて、自分の道を進むなら、それは自滅しかありません。主が怒って罰するというよりも、主は救いと新しい歩みを約束して下さっているのに、それを拒む以上、救いそのものを拒絶するのです。

 私たちの中には、どんなに愛され救いを差し出されても、その恵みにさえ便乗して、神の契約を侮辱する歪んだ傾向がある。それは厳粛に弁えるべき罪の事実です。そのような場合に聖餐が取り上げられるのは冷たい仕打ちや愛のなさではありません。それは気づくためです。

「生活を正す」

ための愛です。聖餐を禁じられることで私たちはハッとさせられます。見える形で、自分の選んでいる愚かな過ち、でも致命的な危うさに気づかされるのです。そして、そこで私たちが悔い改めて、自分の生活を変えることを願うなら、主の食卓に迎え入れられるのです。

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