2014/06/01 「三位一体の神」Ⅱコリント十三章11~13節
ウェストミンスター小教理問答6
先週は、神様はただおひとりだけだ、という事をお話ししました。
問5 ひとりより多(おお)くの神々(かみがみ)がいますか。
答 ただひとりしかおられません。生(い)きた、まことの神(かみ)です。
それに続く、今日の問6は、その神様が、父・子・聖霊、という三つのお方でもあられる、ということを教えてくれます。
問6 神性の内には、いくつの位格がありますか。
答 神性の内には、三つの位格、すなわち、父と子と聖霊があります。そしてこれら三つの位格は、実体において同一、力と栄光において同等の、ひとりの神です。
これを、「三位一体」と言います。でも、これは人間の理解を超えた事なので、全部分かるのは無理な話なので、大事なことだけを覚えることにしましょう。
神のひとり子イエス様は、父なる神様とは別のお方です。でも、イエス様もまた、神と呼ばれています。
「神よ。あなたの王座は世々限りなく(詩篇四五6)」「力ある神(イザヤ九6)」
「ことばは神であった。(ヨハネ一1)」
「私の主。私の神(同二〇28)」
そして、神だけの属性である永遠もイエス様に帰されますし、
すべてのものは、この方によって造られた。(ヨハネ一3)
とも言われています。そして、神様以外の者が受けることは許されない、礼拝をも捧げられたのです。ですから、イエス様もまた、神様だと聖書はハッキリ教えています。
同じように、聖霊もまた、神と呼ばれます。そして、
御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる(Ⅰコリント二10)
と言われるように神の属性をお持ちです。そして、聖霊に対する冒涜は許されないとイエス様が仰ったのも、聖霊が神様でなければ考えられません。ですから、聖霊もまた神であられて、「聖霊様」とか「御聖霊」、せめて「聖霊なる神様」とお呼びすべき方なのです。
このように、父なる神様は言うまでもないとして、子なるイエス様も神、聖霊様も神、でもそれがお互いに変身するとか入れ替わるとかでもない。また、段階があるわけでもない。だけれども、神はおひとり。この不思議な聖書の教えを考えていく時、教会は何百年も掛けて考えながら、行き着いたところが、「三位一体」という言葉です。つまり、神は唯一であり、かつ、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三者がおられて、それはそれぞれに等しく、また完全に神であられる。そのように表現するしかないのだ、という結論に至ったわけです。
これは難しく考えても分からないのですが、でも、神様は、父と子と聖霊との交わりを永遠に持っておられる、ということは、胸が躍るような真理でもあるのです。
神は愛です。(Ⅰヨハネ四16)
と聖書は言います。永遠の神様は永遠に愛です。世界や私たち人間をお造りになる前から愛です。中には、愛なる神様は、愛する相手が欲しくて人間をお造りになったのだ、と考える人もいますが、それは違います。それなら、神様は世界をお造りになる前は不完全であったことになってしまいます。そんな「寂しがり屋の神」は神ではありません。では、世界をお造りになる前から、神が愛であったというなら、誰を愛しておられたのでしょうか。愛は、違う人格を愛することです。ですから、それは、神が三位一体であられて、父と子と御聖霊とが、互いに愛し合われていた、愛において一つであられた、そこに神の本質があられた、と考えて初めて、神は愛です、という言葉が意味をなすのですね。神は永遠に愛し合い、喜び合っておられました。そして、世界をお造りになるにも、その互いの愛、喜びが溢れて、その聖なる愛を現す作品としてお造りになりました。そこにもまた、父なる神が計画を立てて主導し、子なるイエス様がその言葉によって創造を実行なさり、聖霊なる神様が被造物に届かれた、という役割分担があったと聖書から分かります。そういう、神様の三位一体の交わり、協力によって、世界は生みだされたのです。
愛なる神様は、私たち人間を、そのような栄光を現す者としてお造りになりました。私たちが、神様を愛し、互いに愛し合いなさい、と言われているのは、神様ご自身が三位一体の愛で結ばれているお方であって、その愛の栄光を現すために、私たちが造られているからです。先ほど読んだ、Ⅱコリント十三章でも、こう言われていました。
11…平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
12聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。…
平和、口づけ、互いの挨拶、他にも沢山の言葉で、私たちが愛し合い、助け合い、交わりを育てるようにと聖書は勧めています。そして、それに続いて、
13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
という、大切な祝福が告げられます。
仲良くしたくても、なかなかそうは出来ないこともあります。神様から離れてしまった私たちには罪があって、自己中心ですから、愛から遠く離れています。自分さえよければいいとか、仲良く出来る友達とだけ過ごしていれば良いとか思ってしまいます。そういう勝手な私たちのために、神様は救いの御計画を立てて下さいました。イエス様がそれに従ってこの世に来られ、十字架に死んで、よみがえってくださいました。その救いの御業を聖霊が私たちに届けて下さいました。その救いは、私たちの罪が赦されるだけでなく、私たちが本来の神様からの使命、互いに愛し合う者として生きるようにしてくださる救いです。本当にお互いを大事にして、違いも受け入れて行く事は、とても難しいこと、無理なことです。でも、三位一体の神様は、私たちをそのような愛に生きることを教え、一歩一歩教えて下さるのです。三位一体の神様は、永遠に愛し合っておられて、その素晴らしさを現すために、私たちを作って下さったのです。何と素晴らしいことでしょうか!
モーセの遺言説教である、申命記の一章を、続けて聞きました。奴隷として過ごしていたエジプトを、神様の力強い奇蹟によって脱出させて戴いた後、シナイ山で契約の言葉を与えられました。その中身を、モーセは申命記の五章から、もう一度なぞっていくのですが、今はそれよりも先に、シナイ山を出発してからのことを思い出させています。カナンの地の手前、カデシュ・バルネアまで来た時でした。20節21節で、モーセは、主が約束され、もう渡してくださったこの地を、上っていって占領するよう命じます。
21…恐れてはならない。おののいてはならない。
と、励まします。けれども、民は、その前にスパイを送ろうと持ちかけます。これはこれで妙案でした。モーセもこれは良いと思って、十二部族から一人ずつの代表を選ばせて、カナンの地に送り込みます。そして、彼らは果物を担(かつ)いで、帰って来て言うのです。
25…「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」
ここまでは良かったのです。ナゼか、ここからオカシくなります。
26しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。
その土地はいいんだが、そこにいる敵が悪い、と並べ立てていきます。それも、言うに事欠いて、言い出しで何を口走っているのでしょうか。
27…「主は私たちを憎んでおられるので、…」
そこまで言うか、と唖然とします。モーセもそうだったのでしょうか。言い返します。
29…「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。
30あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。
主はエジプトで、十の災いを下されて、葦の海では海の中に道を造られて、人が到底及ばない御力をイスラエルのために振るわれることを示して下さいました。また、
31また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。
その後の荒野での歩みでも、水や食糧を下さって、敵からも守ってくださって、ここまで導いてくださいました。それは、実に、親心に満ちたものでした。なのに、です。
32このようなことによっても、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。
33主は、あなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。
今この時も、夜は火の柱、昼は雲の柱が民の先頭に立って、主が先立って行かれることをまざまざと示していました。そして、目の前に良い地を見ていたのです。なのに、この地を与えると約束して、ここまで導いてくださった主に祈ることもせず、あろうことか、
主は私たちを憎んでおられる
と言い出している始末です。
けれども、ここにこそ、モーセがこのエピソードを最初に語っている理由があるのではないでしょうか。シナイ山での契約の言葉こそが本題なのに、それを五章から思い出させるのが、申命記の本論なのですが、今はそれを後回しにして、わざわざシナイ山の出来事の後から始めるのです。いくら主の言葉、御心を教えられても、恵みを体験して素晴らしい御業を目にしてきても、それが信仰を裏付けるのではありませんでした。これほどまでの経験の真っ最中にありながら、民はまだあーだこーだと言って恥じません。足りないのは主の御業でもその数でもそれまでの年数でもなくて、ただ、受け手の人間の問題です。では何が問題なのでしょう。モーセはここで、
30あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主…
33主は、…道中あなたがたの先に立って行かれ…。
と繰り返しています 。そして、それゆえに、私たちもまた、恐れたりおののいたりしない。勇気を出して、主の御心に従って、困難に見えるけれども、なさねばならないことに、踏み出していく。それが、この時のイスラエルの民に欠けていたことだったのです。
主はいつでも民の先に立っておられます。後ろから大声で応援しているだけとか、「勇気を出さない失敗するぞ」とイライラされるのでもありません。私たちの歩みを先立って、力強く切り開いてくださる。一日一日、宿営する場所を探し、やがては約束の地に入れてくださるのです。そして、それは私たちもまた、他のものを恐れたりおののいたり、あれこれと否定的な理由を並べたりするのを止めて、勇敢に歩み出して、戦いに踏み出すよう、成長させる告白なのですね。主が先立ってくださるから、私たちは任せて、何もしなくていいんだ、ではない。主は、私たちが恐れや怠惰から解放されて、主の御心に従うことを願っておられます。それもまた、人が愛するわが子に当然教えるような励ましです。
主が私たちの先に立って進んでくださっている。だから、私たちも、何も恐れたりせず、踏み出すよう招かれている。このことが踏まえられていなければ、いくら沢山の奇蹟を体験してきても、また、目の前に豊かに広がる恵みを見ていても、今ここで御言葉に従うことは「別問題」になってしまいます。御言葉の素晴らしい約束を褒めたり感心しながらも、そこに立ちはだかる存在があれば、そちらの方が強く大きく見えてしまいます。主が先立ってくださるのだから大丈夫、というどころか、難しいのに恐れずに立ち上がれだなんて言われる主は、私たちを憎んでおられるに違いない、とまで思ってしまうのです。
勇気というもう一つの武器を、自分には重すぎる荷物を持て、と言われているのではありません。恐れや不安、疑いや孤独といった重荷を主のもとにまず下ろさせていただくのです。主の偉大さ、力強さ、親としての慈愛。私たちに対する測り知れない御計画と栄光。この真理を知って、それ以外の何ものも恐れるに足らず、と気付くのです。
闇雲な無茶をせよというのではありません。私たちがそれぞれの所で導かれている歩みにおいて、その時々に必要なこと、家族を愛するとか人間関係で悩まされるとか、デボーションを続けるとか礼拝に行く。そういう主の招きに、私たちが逃げ腰にならず、勇気をいただいて小さな一歩を踏み出すかどうか。実はそれが私たちの人生を大きく決定づけるのです。私たちのために十字架にかかりよみがえられた主が、今も私たちの先に立っておられるとの信仰を、いつも励まされたい。喜んで一歩を踏み出す者でありたいと願います。
「臆病の霊ではなく力と愛と慎みとの霊を下さった主よ 。主イエス・キリストが私共を、あなた様を信じない罪を赦してくださるだけでなく、希望と大胆なほどの勇気をもって、御言葉に生きる者としてくださいますように。お約束通りに導いて、私共を新しくしてくださると、信じて、一歩を踏み出すこと。それぞれの日常においてそうあらせてください」
文末脚注
1 このフレーズは、 先に進まれる 先に進まれる 一章 30 、33 節だけでなく 、九 章3節、三一 章3節、8節でも繰り返され る、申命記のテーマでもあります。 る、申命記のテーマでもあります。
2 Ⅱテモ一 8
2014/05/25 「ただひとりの神」出エジプト記二〇章1-7節
ウェストミンスター小教理問答5
先週は、神様とはどんな方ですか、という学びをしました。
問4 神(かみ)とは、どんなかたですか。
答 神(かみ)は霊(れい)であられ、その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)です。
それに続いて、今日の箇所は、その神様は、ただおひとりですか、と問うています。
問5 ひとりより多(おお)くの神々(かみがみ)がいますか。
答 ただひとりしかおられません。生(い)きた、まことの神(かみ)です。
神はただおひとりである。これは、聖書が教えている根本的な教理です。
主こそ神であり、ほかに神はない。(Ⅰ列王八60)
なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけです。(Ⅰコリント八5-6)
わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ四四6)
そして、今開いた、出エジプト記二〇章1節以下でも、
2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
と言われています。このとき、神である主が、イスラエルの民を、奴隷とされていたエジプトの国から力強く導き出してくださったのです。その真の生ける神の力強い御業に与って、彼らは、神の民として歩み出した所でした。今この時は、シナイ山の周りに集まっていたのですが、山は煙って、雷と稲妻と光り続け、大きな角笛の音が鳴り響いていました。そうした光景を舞台とされて、神である主が語られた契約の言葉が、この二〇章です。そしてその最初に、主は、ご自身の救いのみわざを宣言された上で、
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
と仰ったのです。それを考えると、改めてこんな事を言われなくても良かったのではないでしょうか。他に神々はいない。神である主だけが禍(わざわい)をエジプトに下し、葦の海を分けたり、様々な奇蹟をなさったりして、今も山を震わせておられるのです。その神以外に、神はいないなんて、もう言われるまでもないことではないでしょうか。
確かに彼らが出て来たエジプトには、神々と呼ばれる沢山の偶像がありました。太陽を神としたり、月も女神として崇めたりしていました。でも、そんなものは偶像で、何にも出来なかったのです。真の神は、エジプトの神々などものともしない、圧倒的な方でした。
けれども、そこから救い出されたイスラエルの民もまた、この後すぐに、真の神様ならぬものを拝みだしてしまうのです。金の子牛を造ってお祭りをしだします。約束のカナンの地に入ってからは、それまでそこに住んでいた住民たちの宗教を取り入れて、礼拝をし始めてしまうのですね。何度も何度も、神様ならぬものを勝手に神として祭り上げてしまう。それが、今の私たち人間の姿なのだ、と思います。別の言い方をすると、真の神様を本当に大いなるお方として恐れ、この方だけを礼拝し、信頼するよりも、神様を小さく考え、信じ切れずに疑って、引き下ろしてしまうのです。だから偶像を造るのです。
世界をお造りになったのは、この唯一真の神様だけです。私たちを生かして、守ってくださるのも、聖書を通して、本当に私たちに必要なことを教え、導いてくださるのも、この神様だけです。そして、私たちを救い、すべての罪を赦して、神の子としてくださるのも、このお方だけです。私たちを限りなくお恵みくださって、幸いを与えてくださるのもこの方以外にありません。けれども、私たちがその神様を信頼するよりも、お金を信頼しているとしたら、お金が神様になっていることになります。神様の言葉よりも、人が言うことや、人から笑われたり褒められたりすることの方が大事になっているとしたら、人を神にしているのです。占いとか迷信とか幽霊とかお祓い、魔除けみたいなことを気にしてしまうのも、神様以外のものを神として恐れていることになるでしょう。学校の成績や、仕事の成功と出世、ステキな恋愛や結婚や子どもが人生の中心や一番の幸せになっているとしたら、真の神よりもそちらを神にしていることになります。
だから、神様は聖書の中で繰り返して、ご自分だけが神であることを教えられます。他に神はいないと仰います。いくら人間が、神や宗教を考え出そうとした所で、神を作り出したり、天国が増えたり、真理がいくつもあるわけではありません。真の神はただおひとりです。それが永遠の真理です。世界中の人が否定したり違うことを言ったりしても、ただひとり真の神様だけがおられる事実は変わりません。人が偽りの神様を礼拝して、拝んで、いいことがあったとしても、それは、いもしない偽物の神様がしてくれたのではなく、真の神様に感謝すべきことです。全ての人にいのちを与え、雨を降らせ、太陽を上らせているのは、世界をお造りになった神様です。そして、神様は私たちにいのちを下さるだけでなく、偽物の神様や、お金でも名誉でも喜びでも、神様ではないものから、私たちを自由にしてくださる方です。私たちを本当に幸せにすることが出来ないものに、心を奪われて、縋ってしまって、折角の人生を無駄にすることを悲しまれ、私たちがご自身だけを神として恐れるようにと、力強く人生に働きかけてくださるのです。
イエス様は、真の神様です。永遠に生きておられて、私たちを今日も生かし、御言葉によって導き、慰め、語りかけ、どんなに私たちが神様を小さく考え、罪を犯し、失敗したとしても、それら全てを完全にご存じの上で、変わらず真実に、真剣に、私たちを守り、治め、育ててくださいます。こんな素晴らしい真の神様を、偶像やいつかは無くなるもの、決して私たちを守ってはくれないものと取り違えたりしないようにしましょう。大いなる神様を小さく考えて、自分が中心になってしまうのでなく、神様を中心として、神を神として、自分はこの神様に生かされて、神様のために生きることをいつも思い出しましょう。
創世記の最後四分の一は、このヨセフの生涯を辿る内容になっています。後に、エジプトの大臣になるヨセフは、兄たちの憎しみを買って奴隷として売り飛ばされ、侍従長の家で仕えていました。しかし、折角ご主人の信頼を得たのに、その妻のしつこい誘いを断った結果、無実の罪を着せられて、その家の監獄にぶち込まれていました 。けれども、そこでも主がヨセフとともにいてくださって、ヨセフは監獄の長の信任を得て、囚人たちの管理をするようになったのでした。今日の話の後、四一章1節には、
それから二年の後、
とあります。ヨセフ30歳、ともあります 。そうすると、今日の5節の時点でヨセフは28歳ぐらい。奴隷として売られたのは17歳の話でしたから 、10年余り。故郷を離れて、言葉も文化も違うエジプトで奴隷として働かされた挙げ句、濡れ衣を着せられて監獄に入り、もう十年。でもヨセフはそこでも忠実に働き続けていました。
ヨセフの話をご存じの方は、もうじきヨセフは監獄から出て、人生の大転換を迎えるのだ、と思って読むでしょう。また、献酌官長がヨセフの事をパロに話すのを忘れた、という23節に、じれったいような、やりきれないような思いを持ちたくなります。けれども、ヨセフにはそんな未来が待っているとは分かりませんでした。まだまだ先なのか、どんな展開があるのか、まったく分かりません。14節を見る限り、まずはこの家から出られたら、という願いが精一杯だったのでしょう。10年、主がともにいてくださって、監獄で、任された仕事をしてきました。そして、今ここに新しく二人の廷臣たちが拘留されてきて、ヨセフが世話をすることになった、それだけだったのではないでしょうか。ヨセフが彼らのことを気に掛けていた心遣いは、6節7節から窺えます。
6朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。
7それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。
囚人なんですから、苛ついたり不機嫌になったりなんて珍しくはなかったでしょう。苛ついて、ふて腐れてる方が普通だったはずです。でも、ヨセフのこの言葉は、彼が普段から囚人仲間の表情や心境を気遣い、少しでも明るく過ごせるようにと気を配っていたことを伺わせます 。それにはヨセフ自身が、先の見えない監獄生活でも、苛(いら)つかず、表情や心を曇らせずに過ごしていたはずです。そうしたヨセフの無心の積み重ねが、今ここで二人の廷臣からの信頼になり、夢の解き明かしに繋がっていくのでした。
勿論、そのヨセフの思い自体、ここまで主がヨセフとともにおられて、支えてくださった思いであり、主によって鍛えられて、社会人として揉(も)まれて、成長してきた証しです。夢の解き明かしの最後に自分のことを話してくれるよう頼む時も、
15実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。
と言うに留めています。兄たちに売られて、とか、ここの侍従長の奥様が、などと複雑な事情を洗いざらいぶちまけたら、かえって警戒されて、話が進まなくなることを考えたのでしょう。余計なことは言わず、無難な表現にした所に、ヨセフの機転が窺えます。17歳の時、兄たちの前で、恨みを買うのは目に見えている言い方で、自分の見た夢をベラベラと喋ったヨセフは、世間の裏を歩いて、賢明さを身につけていました。
ですから、もう一人の廷臣、調理官長が自分の夢を話した時、その残酷な解き明かしをも率直に告げています。媚(こ)びたり、顔色をうかがったりせず、ストレートです。パロに罪を犯した結果が簡単に恩赦になるものではありません。まして、神がその夢を調理官長に見させられた以上は、率直にその意味を告げなければならない、と心得ていたのでしょう。そして、実際、三日目に、献酌官長はヨセフが解き明かした通りに復職してパロの手に酌を献げ、調理官長もヨセフが解き明かした通りに木に吊されたのでした。
23ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
この最後の言葉は、思い出さず、忘れてしまった、と諄(くど)く強調しています。いかにも意外、という風に印象づけます。献酌官長としては、パロの恩赦を、「実は夢で見て、ヘブル人の若者が解き明かしてくれた」などと言おうものなら逆鱗(げきりん)に触れかねない、と言い出しかねたのかも知れません。でも、確かに二年後、パロは自分が夢を見たからこそ、ヨセフの話に耳を貸せるのです。だとすると、この23節が「思い出さず忘れてしまった」と繰り返すのは、献酌官長を責める以上に、そこにも神が働いておられたと言うことです。献酌官長が思い出さないでくれて良かった。忘れてくれたこともまた、主の摂理だった。その時は分からなくても、御計画の中にあった。そう言いたいのだと思います 。
人は忘れたり、罪を犯したり、薄情だったりします。糠喜びしてガッカリすることは尽きません。でもそれは、主までも私たちを忘れてしまわれた、という証拠ではありません。人が忘れても、主は私たちを覚えておられる。人は思い出さない、いや思い出したとしても余計な先回りをして却って足を引っ張ることだってある。でも、主は私たちを覚えていてくださり、私たちの最善をなしておられる 。遠回りのようでも、忘れたように思えても、実はもっと大きな最善を用意しておられる、との約束を信じさせられます。
いいえ、主は私たちを覚えておられるだけではなく、人の夢にまで御心をお示しになるほど私たちの思いの奥深く、深層心理にまで関わられるお方で す 。ただ私たちの名誉挽回やドラマティックな人生の筋書きを用意される、なんてことではなく、私たちを深く深く取り扱われ、十年、二十年、一生を掛けて、私たちを鍛えられるお方です。甘えた坊ちゃんだったヨセフが無実を確信しながらも牢獄で、よい顔色を保ちながら仕え、他者を世話し、気遣って、でも決してご機嫌をうかがって真理を曲げることはせず、誠実に、賢明に、そして神に栄光を帰しながら語っている姿に、自分を重ねたいと思うのです。
神に罪を犯していた私たちは、いつか必ず神の前に呼び出されて木に吊(つる)されるしかなかった者でした。でも私の代わりに、主イエスはご自身が十字架に吊(つる)されてくださいました。その尊い尊い慈しみによって、主は私たちの全生涯に、心の底にまで関わり、私たちを取り扱い、厳しいようでも最善の人生を過ごさせ、人と関わらせておられます。その意味が今は見えなくても、これから先、いつどうなるかが分からず、待たされても忘れられても、置かれたその場で、目の前の人に誠実に関わりたい。自分や他人の足りなさも主の御手の中にあることに平安を戴いて、よい顔色をいただいて歩む者でありたい、と願います。
「私たちを決して忘れたまわぬ主よ。あなた様の奇しい御計画の中、この人生を与えられています。ヨセフに託した約束を自分のものとさせていただき、私共の心の奥深くまでも取り扱われる主の御声に聞かせて戴きたく願います。失望や挫折を通しても、恵みを施してくださるあなた様を一層見上げて、待ち望み、心も顔も輝かせていただけますように」?
文末脚注
1. 4節「侍従長」とは、三七36で「パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った」とあったとおり、ポティファルのことです。
2. 創世記四一46、参照。
3. 創世記三七2、参照。
4. F・B・マイヤー、小畑進『きょうの力』(いのちのことば社、32ページ)より。
5. この時忘れていたならなおさら、二年後にはもうサッパリ忘れている可能性だってあったのに、二年後に思い出したことが奇蹟です!
6. 14節のヨセフの言葉「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください」は、新改訳欄外注にもあるように、ルカ二三42にある、主イエスの隣で十字架にかけられていた強盗の一人の台詞とかぶります。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。小畑進『創世記講録』(いのちのことば社、2003年)706ページ参照。
7. 勿論、今は、夢による啓示ではなく、聖書が私たちに与えられた啓示です。夢を神様からのメッセージかもしれない、と深読みする必要はありません。しかし、昔も今も、夢が人間の心の奥深く、無意識のレベルにまで関わっていることは変わらないのです。しかも現在の心理学では、夢を思い出すこと自体が難しく、そこにもまた心理的な(無意識の)操作が入って、正確に思い出す事自体まれであることが分かっています。
2014/05/18 出エジプト記三章13-15「わたしは『わたしはある』という者である」
ウェストミンスター小教理問答4
今日から「人が神について何を信じなければならないか」という内容に入って行きます。
問4 神(かみ)とは、どんなかたですか。
答 神(かみ)は霊(れい)であられ、その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)です。
神は霊であられる、というのは、神様は見えるカラダをお持ちではない、ということです。神様が目には見えないから信じない、という人には、神は霊だから見えないのがアタリマエなんだよ、と答えたらいいのです。見えるもの全てをお造りになったのが神様です。やがて必ずこの見える世界は終わりを迎えます。そして、新しい永遠の世界が始まります。その時、私たちは、永遠のカラダを戴きます。そうしたら、私たちも新しい目で、神様を見ることになります。でも、今のこのカラダは弱すぎて、神様を見るだけの力がないのです。ですから、私たちは、神様を、今、目には見えないけれども、見える世界の全てをお造りになったお方として、恐れ、礼拝し、お従いしましょう。
そして、この見える世界は、神様の作品として、神様がどんなお方であるか、を映し出しています。特に、私たち人間は、世界を造られた神様が、その最後に、神様ご自身に似た者として造られた、「神のかたち」ですから、神様を映し出して生きるのですね。今日の答では、「存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)」とありますが、私たちが存在していること、他の動物よりも知恵や理性、そして力があることなどは、神様の形に作られている証拠なのです。また、「聖」ということでは、神様はレビ記19章2節でこう仰っています。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」。ペテロもこの言葉を第一の手紙1章15-16節で引用しています。これは言い換えると、本当に純粋な愛を持ちなさい、自分の損得とか、見返りとか、評判とかそんなことは全く気にしないで、惜しみなく生きることです。神様はそういうお方です。だから私たちを愛して下さるし、また、私たちから嫌われても文句言われても、気にせずに、私たちもまた自己中心を捨てて生きるようになるよう、一歩一歩導くことでよしとされるのですね。
義、善、真実、も同じようなことです。正しさ、善さ、そして真実であられる。でも、その後の言葉がすごいですね。
その存在(そんざい)、知恵(ちえ)、力(ちから)、聖(せい)、義(ぎ)、善(ぜん)、真実(しんじつ)において、無限(むげん)、永遠(えいえん)、不変(ふへん)の方(かた)
無限(限りがない、限界がない)。永遠(時間よりも大きなお方である)。不変(変わったり、止めたりは決してしない)。これが、この七つの言葉につくのです。つまり、その存在において無限・永遠・不変、その知恵において無限・永遠・不変、その力において無限・永遠・不変、その聖において無限・永遠・不変、その義において無限・永遠・不変、その善において無限・永遠・不変、その真実において無限・永遠・不変、ということです。私たちはどうでしょうか? 有限ですし、時間の中で生きていますし、変わってしまいますね。どれ一つとっても、神様とは違います。神様の栄光を現すとは言っても、私たちは造られた小さなものに過ぎません。ほんのちっぽけな鏡のようです。それだけでなく、自分たちに限界があるから、神様のことも小さく考えてしまいます。いくら神様でも、こんなことは分からないんではないか。神様もそろそろ飽きたり変わったり匙を投げたいんじゃないだろうか。神様も忙しくて、私のことは忘れてないだろうか。今起きているこれは、神様が善なるお方だったら、絶対に起きるはずがない。そんなふうに考えてしまいやすいのです。だからここで「無限、永遠、不変」と言い切っているのはとても大切なことです。
さて、今日の出エジプト記の箇所は、モーセが八〇歳の時、初めて、神様の声を聴いた時の箇所です。燃えやすい、大きくもない柴の木に炎が燃えていて、いつまでも燃え尽きない、不思議な光景を見ながら、モーセは主の語りかけを聞きました。そして、モーセは神様の名前を尋ねたのです。神様とはいろいろあるけれど、何という名前の神様かと聞かれたら、何と答えたらよいですか、と聞いたのです。そして、神様は言われました。
わたしは、『わたしはある』という者である。
そんなことを言える人間はいません。今はいるけれども、気がついたら生きていたのであって、いないときもありました。また、ずっとここにいたいと思っても、いつかは死ななければなりません。そして、自分の顔かたちや性格、人生を好きなように決めることも出来ません。でも神様は、永遠に存在しておられ、誰からも消されたり変えられたりすることはないのです。でも、その大きな神様はこうも仰いました。
…わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた、…あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。
私たち人間とは全く違う大いなるこの神様は、モーセに近づいてくださいました。消えそうだけれど消えない、小さな柴の中の炎を通して語りかけられました。そして、モーセをお遣わしになり、イスラエルの民に、「わたしは、あなたがたの父祖の神となった神だ」と名乗られたのです。
神様は、私たちの言葉で表現しきれるお方ではないし、私たちの頭で理解し尽くせる程、スケールの小さな方でもありません。ここでも不十分ながらも精一杯こう言い表しているに過ぎません。でもその神が、私たちに深く深く関わって、私たちのことを知っておられ、私たちに最善をなされ、私たちを聖なる正しい者としようと語りかけ、導いていてくださいます。その最たる証しが、御子イエス様でした。人となって、私たちと同じようになり、十字架の死までも引き受けてくださった。そして、よみがえって、私たちに、ご自分を信じて従うよう招いてくださっています。
イエス様が下さる人生は、この無限・永遠・不変の神様に支えられながら、この神様の素晴らしさを繰り返して思い知らされる人生です。どんなことがあっても、変わらない真実な神様に立ち帰って、ますます神様を賛美するようになる、本当に素晴らしい人生です。