黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

麦畑の連想・・・昭和20年樺太

2017年07月18日 | 思い出

昭和20年(1945年)

豊原市(現サハリン州ユジノサハリンスク)

女学校に入学した(今の中学)

勉強したのは4月だけ 

雪が融けると校庭にタコツボ堀りをした(一人用の防空壕)

 

学校から1里くらい(3.75km)離れた

北豊原の原野の開墾作業がはじまった

 

授業があるのは雨の日だけ

 

防空頭巾と非常食袋を肩にがけ モンペ姿 で通った

 

各学年 

松 竹 梅 蘭 菊 の5クラスが

 1年生から4年生まで1団体(200人くらい) 

 5団体がそれぞれ1町歩位(約1ヘクタール)の

原野の木を伐り根を掘りおこす

2年生以上は泊りがけで

ニシン場や援農へ行った後

残った1年生だけで開墾をした

戦局が悪化しているのは何となくわかるが

 誰も口に出すことはない

話したらたらスパイとひっぱって行かれる

 

ソビエトが参戦したら 陸の孤島となる 

 

食料は自給自足しなければならない 

 

子供心に不安を持ちながら働いた 

 

早生まれで体も小さいし作業も遅かった

 

開墾した所に小さな穴を掘り

 

肥料もなしで麦やジャガイモを植えた

(樺太はお米が取れない)

 

麦の芽が出た時は嬉しかった

 

やせ細った麦が

やっと穂を出しはじめた頃に 敗戦になった

 

その後の麦畑はどうなったろうか 

穂が出そろい実ったろうか

 

70年以上経っても

苦労して植えた麦のことを思い出す

この思い出は

 

私達だけ特別苦労した話ではない 

夫は樺太師範の学生だったが

私達よりもっと奥の原野を開墾したそうである

 

戦時中の国民の当り前のできごとである

 

樺太庁豊原高等女学校 校舎

麦秋の赤い麦

 

麦と豆畑

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする