大雨が降り続いている
北海道のあちこちで河川の増水や土砂災害の恐れ
今
携帯電話から
避難準備情報が流がれてきた
わが家は河川から離れておりマンションの4階なので
心配ないが
被害が少ないことをひたすら願っている
異常気象はアメリカの妹の処でも
朝 久しぶりに電話
大雨が続き家に閉じこもっていたが
沢山飛んでくるハチドリにやる
砂糖水作りが忙しいと話していた
大雨が降り続いている
北海道のあちこちで河川の増水や土砂災害の恐れ
今
携帯電話から
避難準備情報が流がれてきた
わが家は河川から離れておりマンションの4階なので
心配ないが
被害が少ないことをひたすら願っている
異常気象はアメリカの妹の処でも
朝 久しぶりに電話
大雨が続き家に閉じこもっていたが
沢山飛んでくるハチドリにやる
砂糖水作りが忙しいと話していた
18日は
71年前樺太(サハリン)から引揚げのため
父を残して母と子供7人豊原を発った
留萠沖で沈んだ小笠原丸に乗る予定だったが 少しの差で乗らず
命を落とさなかったのは 幸運だった
着の身着のまま 碌に食べるものもない 辛い日日が長く続いた
忘れることのできない 引揚げ記念日
北海道に上陸した台風7号も去り
気を引き締めて詩吟も活動開始である
男の孫の誕生日でもある
プレゼントすることもなく しばらく会っていないが
社会人としてきちんと生きて行ってほしい
戦争に行くことなんてない時代が続くように祈っている
ヤクシマギボシ
毎年今頃旧宅の庭に咲いていた
お盆の16日
藪入りと言って昔は奉公人たちのの休日だった
仕事もほとんどが休みだった
病気にはお盆休みはない
予約した病院に行くと患者さんで溢れていた
私もその一人だが もっと悪そうな人が多い
少し自分を慰める
午後は鍼治療の予定
暑さが続くと痛みもひどくなる
美しい映像を見て気分を晴らす
長岡の美しい花火大会
敗戦記念日でお盆の中日である
終戦記念日とは言いたくない
戦争に負けた日
1945年8月15日
豊原も暑い日だった
正午から天皇の玉音放送があるとの知らせ
学校をさぼって防空壕の中で聞いた
雑音がひどく訳が分からなかったが
大人たちは「戦争に負けたんだ
皆殺しにされるかもしれない」と語っていた
不安と恐怖で
お盆どころではなかった
今日は
戦没者を追悼する日である
戦争でなくなった全ての人々
戦死した夫の長兄 特攻隊で戦死した従兄たちに
祈りを捧げる
毎年お盆に顔を出す姪夫婦が一年振りに来訪
夫の妹であった母親を早く亡くし
今年の3月長い間入院していた父親も亡くなる
夫を頼りにして慕ってくれる
スーパーのご馳走を並べただけだったが
長女も交え楽しい団欒だった
話題の一つに樺太(サハリン)の話しがあった
敗戦時のこと
夫も樺太に10年間住んでいた
夫の妹である姪の母親の幼かった頃のこと
はじめて知る話しが 心に響いたようだった
バレーボールをしている 二女の孫は今日から
七大学の交流戦が 東京である
学生最後の試合なので 二女夫婦も観戦に出かけた
今月末には孫も来る予定
ジジ ババ楽しみにしている
物心ついた時から軍国主義だった
父は 昭和12年(私が4歳の時)招集され支那(中国)に出征し
帰還したのは3年後だった
戦争体験を語ることはなかったが
日本が加害者だった戦争である
天皇陛下を現人神(あらひとがみ)と奉り
学校では毎朝宮城(皇居)の方角へ向かって礼拝をする
校庭の一角には必ず奉安殿があり
中には天皇。皇后のご真影と
教育勅語が収められていた
前を通るときは必ず最敬礼する決まりになっていた
守らないとビンタが飛ぶ
教育勅語は必ず暗唱させられた
教師も絶対であり体罰はザラであった
私は女姓の担任だったのでないが
姉は何かにつけて標的にされ
頬っぺたが腫れるほど殴られて帰ってきたことがある
男子生徒は軍事教練などで
随分体罰を受けていた
自由にものが言えない暗い時代だった
ユジノサハリンスクの博物館に残されていた
奉安殿
今日も暑く夏バテである
こんなことをしていたらビンタをはられただろう
昭和20年8月
女学校一年生(現在の中学1年生)だった私は
樺太の豊原市に(現在サハリン ユジノサハリンスク)
一家8人で暮らしていた
8月9日ソ連が参戦しますます緊迫してきた
樺太は孤立の恐れがあり 自給自足の生活だったが
お米はとれない
食事は野菜が沢山は入った雑炊が多く 盛きりでお代わりはない
いつもお腹を空かせていた
お米の配給は僅かで家の周りや空き地、道路脇も
何処の家でもジャガイモや野菜などを植えていた
それでも一家8人のお腹を満たすのには足りず
母はクマの出るような田舎にも畑を借りて毎日通っていた
学校でも畑の開墾や防空壕掘りで授業はない
お腹が空くので 非常袋に入っている
炒った大豆をつい食べてしまうが
すぐ下痢をする 痩せこけて小さかった
(防空頭巾と非常袋(防災袋とは違う)はいつも持ち歩いていた)
お腹いっぱい食べたい いつも思い お米のご飯を食べるのが夢だった
戦後71年
戦争を知っている人間が少なくなり
きなぐさい世の中になってきた
戦争は国民を不幸にするだけです
ロスケタンポポ(コーリンタンポポ)
カラフトマンテマ
女学校の址は大学になっており校内の草むらに咲いていた
ホルムスク(旧 真岡)へ行く途中の草むらに僅か咲いていたハマナス
ジャコウアオイはホルムスクの神社あとに
2012年7月末
サハリンを再訪したとき
草むらに咲いていた花々
あの頃は花を愛でる余裕は誰もなかった
オリンピックもたけなわ
テレビに釘づけになっている
と言っても実況放送は
ハラハラドキドキが耐えられず観る勇気がない
結果を知ってから観る
男子体操の個人総合で
内村選手が大逆転の金メタル
柔道も二つ金メタル
何処へも出かけず家事も手抜きで
テレビ観戦中
過去の山の写真から
昨年亡くなった友が写したチベットの山
写した場所が標高4000m位の高所
憧れのマッターホルン
4度目のスイスではじめて快晴
朝焼けも観ることができた
ネパール ナガルコットのホテルからのヒマラヤの山々
昨年秋の大雪山 就実の丘から
今日の 大雪は雲の中