父ちゃん亡き後の寂しさは未だ癒えず。だが日々は淡々と過ぎ行く。毎日の仕事は精神を磨耗させる。ソロでの音楽活動を始めたはいいが、
その毎日の騒がしさに通り過ぎる。音楽を思考はしている。具体化するには実態として時間が必要だ。それはすなわち睡眠時間を削れと言う事なのかもしれない。それとは裏腹に日々は俺に力強く「睡眠欲」をキチンと提供する。季節のせいかもしれない。日が昇っている日中にそれは来る。磨耗以外に何もない仕事中であるからか。本当に眠くてしょうがないのだ。
父ちゃん亡き後、間もなくZAKIとサシ呑みした。その時彼は「父親を看取るってどんな感じなのか興味がある」と言い、俺は自身で経験した事、思った事全てを語った。主にこのブログに書いた事だ。その時、「田口ランディって読みます?看取りについて書いた本があるんです。」と話を聞いて気になっていた。が、その本を読む前に親父を看取る事についてブログに書きたかった。絶対影響受けるなとその時思ったからだ。目を閉じれば日々の騒がしさに紛れ、その本に出会う事は無かったかもしれないが、なぜか俺はその本の事が気になってしょうがなかった。
で、おととい笹塚図書館で出会った。向井秀徳氏との絡みについてずいぶん前に書いたが、人やら本やら音楽やら何やらとの出会いは偶然ではなくやはり必然であるようだ。その本は「パピヨン」って本だった。何ページか読んで田口ランディが女である事に気付いた。内容は彼女の父が癌になり看取るっちゅう話だが、「看取り」について研究した精神科医の話と平行して展開する。俺はその精神科医にグーと引き寄せられた。
彼女の名前はエリザベス・キューブラー・ロスだ。何千人と末期患者の死に際を看取って現在のホスピス医療のきっかけをつくった人物だ。
文章の中に彼女の著書を引用した文言がちょいちょい出てくるのだが、それが俺自身経験し、感じた事と一致しすぎて鳥肌が何度もたった。
細かい内容は省略するが俺が父ちゃんの死を目の当たりにして出した答えは「人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間は立ち会うべき。なぜならばこの世の人間全てが必ず経験する当たり前の事だからだ」である。当たり前を見て、聞いて、触れて、感じて、己の存在不確かさを知り、生きるとは何ぞやっちゅう謎が解ける。出産には立ち会っていないのが残念だが、どちらも経験した人間に聞けば必ず「立ち会うべき」「親の死に目には会うべき」と口を揃えて言うはずだ。そこには事実と真実がある。キューブラーの言葉もこれと同じだった。
ココロの耳を澄まし、アンテナを張っていれば自身に必要な情報やら人は向こうからやって来る。
今回、俺はそれを確信した。
確信した理由は今日、キューブラーのドキュメントがユーチューブにあったので観ていた。
彼女が亡くなったのが8月24日午後8時10分。
父ちゃんが亡くなったのが8月24日午後8時15分。
コレは何かのメッセージが含まれているのだと思った。点と点がバシっと繋がった。
日々、こんな事の繰り返しである。これぐらいにしとこう。何か上手く書けん。
まあとにかく、偶然の一致ってのは無い。そこには何か自分にとって必要なものの象徴が隠れているって事だ。
終わり。
その毎日の騒がしさに通り過ぎる。音楽を思考はしている。具体化するには実態として時間が必要だ。それはすなわち睡眠時間を削れと言う事なのかもしれない。それとは裏腹に日々は俺に力強く「睡眠欲」をキチンと提供する。季節のせいかもしれない。日が昇っている日中にそれは来る。磨耗以外に何もない仕事中であるからか。本当に眠くてしょうがないのだ。
父ちゃん亡き後、間もなくZAKIとサシ呑みした。その時彼は「父親を看取るってどんな感じなのか興味がある」と言い、俺は自身で経験した事、思った事全てを語った。主にこのブログに書いた事だ。その時、「田口ランディって読みます?看取りについて書いた本があるんです。」と話を聞いて気になっていた。が、その本を読む前に親父を看取る事についてブログに書きたかった。絶対影響受けるなとその時思ったからだ。目を閉じれば日々の騒がしさに紛れ、その本に出会う事は無かったかもしれないが、なぜか俺はその本の事が気になってしょうがなかった。
で、おととい笹塚図書館で出会った。向井秀徳氏との絡みについてずいぶん前に書いたが、人やら本やら音楽やら何やらとの出会いは偶然ではなくやはり必然であるようだ。その本は「パピヨン」って本だった。何ページか読んで田口ランディが女である事に気付いた。内容は彼女の父が癌になり看取るっちゅう話だが、「看取り」について研究した精神科医の話と平行して展開する。俺はその精神科医にグーと引き寄せられた。
彼女の名前はエリザベス・キューブラー・ロスだ。何千人と末期患者の死に際を看取って現在のホスピス医療のきっかけをつくった人物だ。
文章の中に彼女の著書を引用した文言がちょいちょい出てくるのだが、それが俺自身経験し、感じた事と一致しすぎて鳥肌が何度もたった。
細かい内容は省略するが俺が父ちゃんの死を目の当たりにして出した答えは「人間が生まれる瞬間と死ぬ瞬間は立ち会うべき。なぜならばこの世の人間全てが必ず経験する当たり前の事だからだ」である。当たり前を見て、聞いて、触れて、感じて、己の存在不確かさを知り、生きるとは何ぞやっちゅう謎が解ける。出産には立ち会っていないのが残念だが、どちらも経験した人間に聞けば必ず「立ち会うべき」「親の死に目には会うべき」と口を揃えて言うはずだ。そこには事実と真実がある。キューブラーの言葉もこれと同じだった。
ココロの耳を澄まし、アンテナを張っていれば自身に必要な情報やら人は向こうからやって来る。
今回、俺はそれを確信した。
確信した理由は今日、キューブラーのドキュメントがユーチューブにあったので観ていた。
彼女が亡くなったのが8月24日午後8時10分。
父ちゃんが亡くなったのが8月24日午後8時15分。
コレは何かのメッセージが含まれているのだと思った。点と点がバシっと繋がった。
日々、こんな事の繰り返しである。これぐらいにしとこう。何か上手く書けん。
まあとにかく、偶然の一致ってのは無い。そこには何か自分にとって必要なものの象徴が隠れているって事だ。
終わり。