日々雑感

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ホリエモン的劇場型茶番劇          

2009年05月02日 | Weblog
      ホリエモン的劇場型茶番劇          
          その2

現今重要な経営ファクターとは何か。
基本的には、従業員の生活保障とか、働きがいのある職場の提供。そしてそれが社会的に大きく貢献していく。もちろん、株主の配当も十分行う等々であるが、その中でもとりわけ大切なのは、人間である。決して資本の論理だけで経営ができるものではない。経営者従業員が力を合わせて一丸となって、経営目標に向かって邁進するところに業績の向上は望めるのである。

こういう経営上のファクターを検討してみると、
堀江氏は、資本の論理を最優先にして、自社も買収先の日本放送の従業員についても、どう考えているのか、なおざりにしているのではないか。そのような印象を受けた。今頃になって買収の相手先の従業員様と言ったり、取引様と「様付け」をしてみても、一旦土足で他人の家に上がってしまうと、相手から警戒され、信用されることはまずないだろう。言い方を変えれば、相手の横面を一発食らわせておいて、仲良くしようと握手を求めるようなものである。食らわされた人間が相手のことを良く思うだろうか。

急に「様付け」で呼んだり、手のひらを返したようなことを言われると、大人の感覚では気持ちが悪いだけである。

 企業合併は、株数を多く持った方が勝ちというものではない。
合併会社は、そこに働く人々の意思疎通が図られてこそ、事業として、立ちゆくが、これがそう簡単なことではなく、至難の業なのでである。ましてや今回のように、占領軍が、進駐してくるような印象を与えては、絶対にマイナスである。

 彼は今、そのことに気がついたのか、あるいはアドバイスをもらったのが。日本放送の従業員には、とってつけたような言葉として「様」を使いだした。彼は言葉の上で、従業員を大切なパートナーとして、考えているようなふりをする。
「詰め将棋で穴熊をきめこんでいる」と相手に対して言った人間が、今更普通のように「様 」を つけるなんてそれだけでも反感がわいてくるという人間の心理や気持ちがわからないのだろうか。もしそうだったら、それは未熟者という一言だ。
 
 表現を変えれば土足で家へ上がったともいわれているし、また一発パンチを食らわせておいて、仲良くしましょうと握手の手を差し出す厚顔無恥は誰に通用するというのだろうか。
それは大人の従業員に対する最大の侮辱である。
そのことに気がついているのだろうか。気がついてないなら馬鹿と言われても仕方がない未熟者で、取るに足りない人物である。未熟者が大人の世界に入ってきて、茶番劇を演じているだけの事である。

法に触れない時間外取引をしたことは確かに違法とはいえないが、法に触れなければ、何でもありきの精神はいただけない。
この世は法律だけで運営されているわけではない。義理人情に始まって踏襲された慣習、伝統、日本的土壌など諸々の条件が複雑に絡み合ってなり立っている社会を、一挙には変えられない。
 一挙に替えようと思うならば、それは革命である。時間を掛けながら替えていく革新はあり得ても、現在の日本で革命が起こるか。あり得ない話である。結局未熟者の目立ちたがり茶番劇に終わるだろう。
そして、果たして、この茶番劇のご利益は何だろう。

近頃にない知能ゲームを展開して、ライブドアーと堀江という青年実業家の存在を世間に大きくアピールしただけで、バブル崩壊後の沈滞したムードに浸っている国民の耳目を集めて、はらはらどきどきの劇場型茶番をみて観客は楽しんだことぐらいだ。

観客席に一言

人皆それぞれの意見や見方があろうが、観客席にいる僕はホリエモンに対して厳しい見方をとっている。茶番を演じてみっともないとさえ思う。大人だったら黙って上手にやるべきだ。
 若いのだから多少の失敗は許されるし、また法の不備をついたのだからと言うけれど、こういう形で是認されてしまい、適法だと言われると、すんなりとは受け入れがたいし、感心はしない。ましてや賛成はできない。
 
 世代間ギャップだと言われてはいるが、僕はそうは思わない。
肝心なことが経営者の世代によって経営の基本原則が異なるとは思えない。沈滞ムードの現在の社会に一石投じたのは間違いないが、これを、企業買収のために使う手段とする前に、経済界や行政に警鐘をならしてやる方が、よほど自己ピーアールになるし、彼の評価も上がったことだろう。
 
時間外取引は間違いなく違法ではないが、法の不備を突いて買収を仕掛けたという不快感を与える結果を招いている。これが不信感の一端になっているのである。いわゆる大人の知恵が不足している。
その一言に尽きるようだ。

すべて物事には、功罪相半ばするという見方がある。そしてまた今回の事例でも、それは人様ざまな見方と意見があろう。ただしその見方の正当性は常に現実に実行されての結果によって検証されなければ、観客席の無責任発言として葬られてしまうだけだ。
単に知的なお遊びに終わってしまう。時間と労力が空しい。

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