介護制度のありかたについて思う
今も昔も同じように、老人の介護は必要であったはずである
今は核家族で、邪魔になる?老人の介護はすべて老人介護施設の方へ送られるようになっているようだ。
歴史的にみると昔はどうか。少なくとも戦前までは、大家族主義で、核家族主義では無かった。老人は、次の若い世代によって支えられ、農作業を手伝い、健康な老人は孫のおもりをした。例え病に倒れても家族の中で支えられていた。
今は、核家族主義が、幅をきかせて、老人といえば、うばすてに近い感覚で、老人ホームへ送り込む。これでは、世代間の人間的な感覚は立ち消えになってしまう。
子供世代は、親世代を老人ホームに入れ、亡くなれば、葬式をすましてそれで終わりという、人間関係が出来上がっている。
これがはたして望ましい人間関係であろうか。
道徳的な臭いがするかもしれないが、これでは若い世代に自分を育ててくれた親世代に対する感謝の気持ちというものは無いのであろうか。
感謝の気持ちが無いのは異常であり、感謝の気持ちがあるのが正常である。こういうことは人間間世代間の基本的ルールとして社会的に定着していても何もおかしくない。
それどころか、人倫的感覚から見ると、そうあるのが当然である。
介護世代になると子が親を見捨てる感覚の方が、社会的風潮だとしても、それは人倫に反することである。
なぜこういうことになったのか。結局のところ、自分の主張や利益を最大限尊重して、それを妨げるものを排除するという自己中心主義の産物だと思う。全体の風潮がおかしいのである。
こういう風潮が行き着く先は戦前では考えられなかったような親殺し、子殺しにつながって行くのである。
確かに若い世代から見れば、老人は、動作も鈍く、病気がちで、やっかいものに、なる存在ではある。
しかし、その老人によって、次世代ば育てられたのである。つまり、人間的な感覚は、世代間で、つながれていたのである。
若い人たちの世話にならない。これは老人の1種の自己プライドだけど、それで自分の見繕いができるならば、まだしも、己一人をもち兼ねている状態になってからも、そのプライドは捨てられないのは、現実無視もはなはだしい。
本来人間が生きて行くということは、それほど自由なことであろうか。どこかに不自由を背負って、世代間、仲良く暮らす大家族制度は、決して、人倫に反するものではない。邪魔ものではない。それどころか、農作業に置いて、あるいは、健康な祖父母は、孫と同居することによって知らず知らずのうちに、オトナの知恵を若い孫達に教え込んで行く、つまりしつけ教育に大いに役立つということだ。
それは今まで生きてきた大人の知恵の伝承出来ることになる。
こういう感覚を現代の世情に合わないアナクロリズムというならば、僕は、アナクロが正論だと思う。
そこで提案
要介護老人を家族で、引受るならば、国から、介護手当をその家庭に、支給したらどうだろう。それは若い世代の家計を助けることにもなり、介護労働者の増加を防ぎ、新たに作る介護施設不要となって、国家予算にもプラスになるだろう。
現に、私の家では、脳こうそくを倒れた老人の世話を17年間、自宅で介護した。介護費用は、兄弟姉妹が、それぞれ負担した。
持ち回りでどこかの家に負担がかからないように病人を東京、大阪と、転々させたこともある。当番制で2年に1回だったら、病人の親を同居させて、介護できる。
もちろん、さざ波クラスのトラブルは、あったけれども、輪番制で、なんとか
17年間をしのいだ。
その介護に当たるのは、どうしても一家の主婦である。その主婦の労苦に報いるために、そこの家族に、10万円の金を毎月渡したわけである。
嫁さんたちは姑の世話することを、心の底ではどれほどいやがったことであろうか。しかしながら、自分が、外でアルバイトをしなくても、それに見合う分だけの現金収入が確実にあるわけだから、不平不満もある程度抑えることができたらしい。
確かに、介護施設に、入れることによって、寿命が伸びる。ということがあるかもしれない。しかし、介護を必要とする。人間というのは、本来、すでに人間としての機能を失っているわけだから、介護を要する人の命をわずかばかり延命させたからと言って、誰にとってメリットがあるのか。もし、その心配があるというならば、訪問介護で、そこをしのぐ。事が出来ると思う。
巷間でささやかれているように、現状通りに推移するならば、これからますます要介護老人が増え、介護関係の施設や労働者が、間違いなく増えてくる。その見通しについて、政府は、外国人の介護者を雇うようなことを考えている。
こういうことを考える前に、今一度、古き良き時代の大家族制度に、ついて、その原理原則を現代の世相に、マッチさせること。あるいは修正することを真剣に検討すべきではないか。
昔のように自然に死んでいくのが望ましい死に方ではあるまいか。
今も昔も同じように、老人の介護は必要であったはずである
今は核家族で、邪魔になる?老人の介護はすべて老人介護施設の方へ送られるようになっているようだ。
歴史的にみると昔はどうか。少なくとも戦前までは、大家族主義で、核家族主義では無かった。老人は、次の若い世代によって支えられ、農作業を手伝い、健康な老人は孫のおもりをした。例え病に倒れても家族の中で支えられていた。
今は、核家族主義が、幅をきかせて、老人といえば、うばすてに近い感覚で、老人ホームへ送り込む。これでは、世代間の人間的な感覚は立ち消えになってしまう。
子供世代は、親世代を老人ホームに入れ、亡くなれば、葬式をすましてそれで終わりという、人間関係が出来上がっている。
これがはたして望ましい人間関係であろうか。
道徳的な臭いがするかもしれないが、これでは若い世代に自分を育ててくれた親世代に対する感謝の気持ちというものは無いのであろうか。
感謝の気持ちが無いのは異常であり、感謝の気持ちがあるのが正常である。こういうことは人間間世代間の基本的ルールとして社会的に定着していても何もおかしくない。
それどころか、人倫的感覚から見ると、そうあるのが当然である。
介護世代になると子が親を見捨てる感覚の方が、社会的風潮だとしても、それは人倫に反することである。
なぜこういうことになったのか。結局のところ、自分の主張や利益を最大限尊重して、それを妨げるものを排除するという自己中心主義の産物だと思う。全体の風潮がおかしいのである。
こういう風潮が行き着く先は戦前では考えられなかったような親殺し、子殺しにつながって行くのである。
確かに若い世代から見れば、老人は、動作も鈍く、病気がちで、やっかいものに、なる存在ではある。
しかし、その老人によって、次世代ば育てられたのである。つまり、人間的な感覚は、世代間で、つながれていたのである。
若い人たちの世話にならない。これは老人の1種の自己プライドだけど、それで自分の見繕いができるならば、まだしも、己一人をもち兼ねている状態になってからも、そのプライドは捨てられないのは、現実無視もはなはだしい。
本来人間が生きて行くということは、それほど自由なことであろうか。どこかに不自由を背負って、世代間、仲良く暮らす大家族制度は、決して、人倫に反するものではない。邪魔ものではない。それどころか、農作業に置いて、あるいは、健康な祖父母は、孫と同居することによって知らず知らずのうちに、オトナの知恵を若い孫達に教え込んで行く、つまりしつけ教育に大いに役立つということだ。
それは今まで生きてきた大人の知恵の伝承出来ることになる。
こういう感覚を現代の世情に合わないアナクロリズムというならば、僕は、アナクロが正論だと思う。
そこで提案
要介護老人を家族で、引受るならば、国から、介護手当をその家庭に、支給したらどうだろう。それは若い世代の家計を助けることにもなり、介護労働者の増加を防ぎ、新たに作る介護施設不要となって、国家予算にもプラスになるだろう。
現に、私の家では、脳こうそくを倒れた老人の世話を17年間、自宅で介護した。介護費用は、兄弟姉妹が、それぞれ負担した。
持ち回りでどこかの家に負担がかからないように病人を東京、大阪と、転々させたこともある。当番制で2年に1回だったら、病人の親を同居させて、介護できる。
もちろん、さざ波クラスのトラブルは、あったけれども、輪番制で、なんとか
17年間をしのいだ。
その介護に当たるのは、どうしても一家の主婦である。その主婦の労苦に報いるために、そこの家族に、10万円の金を毎月渡したわけである。
嫁さんたちは姑の世話することを、心の底ではどれほどいやがったことであろうか。しかしながら、自分が、外でアルバイトをしなくても、それに見合う分だけの現金収入が確実にあるわけだから、不平不満もある程度抑えることができたらしい。
確かに、介護施設に、入れることによって、寿命が伸びる。ということがあるかもしれない。しかし、介護を必要とする。人間というのは、本来、すでに人間としての機能を失っているわけだから、介護を要する人の命をわずかばかり延命させたからと言って、誰にとってメリットがあるのか。もし、その心配があるというならば、訪問介護で、そこをしのぐ。事が出来ると思う。
巷間でささやかれているように、現状通りに推移するならば、これからますます要介護老人が増え、介護関係の施設や労働者が、間違いなく増えてくる。その見通しについて、政府は、外国人の介護者を雇うようなことを考えている。
こういうことを考える前に、今一度、古き良き時代の大家族制度に、ついて、その原理原則を現代の世相に、マッチさせること。あるいは修正することを真剣に検討すべきではないか。
昔のように自然に死んでいくのが望ましい死に方ではあるまいか。