テロ事件のあったタージ・グランド・パレス
その時僕は必死になって列車に遅れないようにインド人のバスガイドと打ち合わせをしていた。インドでは僕ら日本人が立ち止まると何処からともなく乞食が周りに集まってくる。その中の一人。西洋中世の魔法使いみたいな格好をした老婆の乞食がうるさく僕につきまとった。お恵みを受けなければ今日の食事にもありつけないという事情でもあるのだろうか。 片方の目は白濁していた。長いマントのようなぼろを身にまとい彼女はしつこく手を出した。僕は自分のことで精いっぱいで乞食の相手する余裕はない。無視したが執拗に手を出して物乞いをする。ただでさえ気が立っていらいらしているところに、こんな邪魔が入って僕は切れて爆発した。乞食はそれでも何事もなかったような顔をして、食いついてくる。もう逃げる他はなかった。 夜行バスに乗ってから僕はあの乞食のことを考えた。こちらが余裕のある時ならまだしも、顔をひきつらせて、ばたばたしているときによくもまあ物乞いが出来たものだと感心した。僕は今乗っているこのバスに間に合うかどうかが大問題で、これに間に合わないと、ボンベイで1泊する羽目になる。それがいやだから38時間も掛けてカルカッタからここまでやってきたのに、そして今そのバスに間に合うか、合わないかの瀬戸際なのに。 よりによって、どうして僕につきまとうのか。もらえるか、もらえないかは与える人の自由である。与えてくれそうな雰囲気を作らないともらえないことは自明の理だ。だのにどうしてあんなにしつこくつきまとうのか、僕はあきれてものがいえなかった。 アウランガバードでこの話をしたら、僕以上に乞食はもらうことに一生懸命だったんだよと誰かが言ったが、その通りだ、と僕は思った。そうだ。乞食も今日生きる事に精いっぱいなんで、人の事情を斟酌する余裕はなかったのかも知れない。だけどいくら一生懸命になっても、それでルピーにありつけるわけではない。やはり考えて行動すべきだ。其れが僕の結論だった。