アンコールワットのデバターは、背丈が1メーターくらいの女神像である。 右写真
実在の女官がモデルだったらしい。女は彫像として残った。男は彫像としては何ものこらなかった。彫刻師である職人たちはたくましく生きて、あっさり去っていった。回廊や楼門の壁などに、残されたのはおびただしい数のデバター像である。
ガイドブックにはプノンバケンと書いてあるが現地の人はプノンバカイという。ぼくにはそう聞こえた。
アンコールワットの前の道をバイタクで五分も走れば道の左側に小高い丘が現れる。
それがこの地方の3聖山の 1つ、プノンバカイなのである。
夕日がきれいだという評判で、大勢の人がこの丘に上って、遥かかなたに沈む夕日の美しさを見ようと待ち構えているのだ。
ところがこの日は、あいにく、雲がかかり美しいはずのサンセットはついに、見えず仕舞だった。丘の上は宮殿か寺院の跡らしく、石造りの遺構が残っていた。
さあ帰ろう。僕はこれを見納めとばかりに遺構を1周して帰り道に着いた。なんと言っても今日見学した中ではアンコールワットは圧巻であった。女神であるデバターの数が多いこと。数ある中には見るデバターあり触るデバターあり祈るものありで彫刻に詳しくない僕にとっては所詮女にしか見えない。
女なら見るより触る方がいいに決まっている。何とかが顔を出し始める。
女性を見るというのであれば、ます顔である。それからボデー・ラインや色の白さなどに目を向けるだろう。ところが触るとなれば、まず男は(女でもよい)女の体のどこをさわるか。それは多分乳房が焦点になろう。なぜであろうか。乳房すべての命をはぐくむ母性の象徴だからである。
三体のデバターの合計、六つのオッパイは黒光りしている。誰かが、先鞭を付けその後をみんなで、なぞっているのである。どこの国でも男ならやっぱり触るところは同じか。僕はそう思った。あたりをさっと見渡したが誰もいない。
これを幸いに僕もしっかり触った。
熱帯の太陽に間接的に、てらされてほの温かい。しかし直射日光でないのでやはり石の冷たさは、残る。ところが不思議なことに彫像であるにもかかわらずこの女神の、乳房が人の肌の、ように温かく感じられる。変だなあと思っていたらデバターの顔が、誰かさんの顔と二重写しになっている。
ええっ? ぼくは驚いて、しっかり気を入れて見つめると間違いなく誰かさんの顔だ。彼女の微笑が、そのまま目の前にある。そして、僕の右手は柔らかい乳房を愛撫している。彼女はじっと、ぼくのなすがままに身をゆだねているし、息遣いが伝わってくる。乳房に、触れた手には脈拍が伝わってくる。確かに、人肌のぬくもりである。僕はしばらく目をつぶって彼女の体の感触を味わった。
人の声がしたので、はっとして、現実世界から遠のいていた意識を取り戻して目を開けてみると、誰さんはもうそこにはいなかった。 一重の像が二重になりまた一重になった。
じっと見つめていると、誰かさんの体は飛天のようにデバターから離れていった。そしてそこに残ったのは紛れもなくアンコールワットの数あるデバターの姿だけだった。でも、触れている乳房は、生温かい。
おお! これは、これは。
僕はやっと正気に戻った。アンコールワットのデバターは誰かさんそのものだったのである。