歌について考える
誰が一体、歌を作るのか。本当のプロがいるのか。
近頃の歌を聴いて心に残り、いつの間にか口ずさんでいると言う歌は1つもない。僕にとっては現代は、歌は不毛の時代である。
それは何故か
詞の中にも、メロデイの中にも叙情性が感じられないからである。
なぜ叙情性が失われたのか。本来叙情性は心の問題で、物質的即物的なものではない。
ところが現代の歌は目に見えるもの、肉体が小躍りするようなものばかり作られている。確かに心よりは肉体の方がわかりやすい。しかしこれをサポートする年代は限られている。つまりリズムに乗れる若者だけに限定される。今はやりの歌
例えばJ-POPUS に50代、60代のひとが乗っていけるには、よほどの叙情性を持ったスローテンポの曲しかないだろう。そしてこの種の歌は若者には受けないので、まず作り出されることがない。そこで人々は仕方なく、歌と言えば昔覚えた演歌に限るようになっている。
聴き方によってはしっかりしているように見えても、我々中高年の記憶にある2,30代の歌手が、75才や80才になっては、まともに歌えるとは思えない。大抵は音程が下がっているし、ロングトーンで高低がぶれている。昔のアイドルだと思えば、楽しむことも出来ようが純粋に歌を聴こうと思えば、昔のようにパワーがないし、30年、50年と歌い続けるとどんな歌手だってたるみが出てくる。だれてくる。これは避けようがない。 とすれば、中高年が歌える歌を作る必要がある。これは歌業界に求められているように思うのだが、そのような動きは見られない。日本人の心の歌はどこへ流れていくのだろう。
後30年もすれば演歌をなじむ層がなくなるので、日本的な歌は姿を消すことになるのではないだろうか。ロックはリズムが激しいからパワーを貰うこともあるが、これが日本歌謡の主流になるとは思えない。
僕は以上のような考えにたって作曲を考えているから、時代の趨勢とは一線を画すことになる。そこでアクが強く自分の考えを推しだして自己主張をするか、それとも、この考えを放棄して他の新しい立脚点にたって、奇抜は曲作りに走るか。思わないでもないが、究極の所歌は心に帰って行くので、時代がどんなに変わろうとも、抒情歌謡こそが、求められてる歌と言うことになろう。と言うところに結論ガ落ち着く。
誰が一体、歌を作るのか。本当のプロがいるのか。
近頃の歌を聴いて心に残り、いつの間にか口ずさんでいると言う歌は1つもない。僕にとっては現代は、歌は不毛の時代である。
それは何故か
詞の中にも、メロデイの中にも叙情性が感じられないからである。
なぜ叙情性が失われたのか。本来叙情性は心の問題で、物質的即物的なものではない。
ところが現代の歌は目に見えるもの、肉体が小躍りするようなものばかり作られている。確かに心よりは肉体の方がわかりやすい。しかしこれをサポートする年代は限られている。つまりリズムに乗れる若者だけに限定される。今はやりの歌
例えばJ-POPUS に50代、60代のひとが乗っていけるには、よほどの叙情性を持ったスローテンポの曲しかないだろう。そしてこの種の歌は若者には受けないので、まず作り出されることがない。そこで人々は仕方なく、歌と言えば昔覚えた演歌に限るようになっている。
聴き方によってはしっかりしているように見えても、我々中高年の記憶にある2,30代の歌手が、75才や80才になっては、まともに歌えるとは思えない。大抵は音程が下がっているし、ロングトーンで高低がぶれている。昔のアイドルだと思えば、楽しむことも出来ようが純粋に歌を聴こうと思えば、昔のようにパワーがないし、30年、50年と歌い続けるとどんな歌手だってたるみが出てくる。だれてくる。これは避けようがない。 とすれば、中高年が歌える歌を作る必要がある。これは歌業界に求められているように思うのだが、そのような動きは見られない。日本人の心の歌はどこへ流れていくのだろう。
後30年もすれば演歌をなじむ層がなくなるので、日本的な歌は姿を消すことになるのではないだろうか。ロックはリズムが激しいからパワーを貰うこともあるが、これが日本歌謡の主流になるとは思えない。
僕は以上のような考えにたって作曲を考えているから、時代の趨勢とは一線を画すことになる。そこでアクが強く自分の考えを推しだして自己主張をするか、それとも、この考えを放棄して他の新しい立脚点にたって、奇抜は曲作りに走るか。思わないでもないが、究極の所歌は心に帰って行くので、時代がどんなに変わろうとも、抒情歌謡こそが、求められてる歌と言うことになろう。と言うところに結論ガ落ち着く。