自殺3万人: 12 01 12
2011年もまた自殺者が3万人を越した。実に悲しい現実である。何時の時代でも、自らの力で人生の難関をのりこえる事が出来ず、この世を去って行くというのは、何としても避けたいことである。
しかもこの3万人という数字は14年間も続いているのである。
日本社会は毎年3万人が自殺しなくてはならないような、不幸な社会構造になっているのであろうか。
僕の考えでは高度成長を遂げた日本は、物は何でも自由に手に入り、物質文明は確かに人々の生活を潤したが、その反面精神的なものはやせ細っていったのでは無かろうか。物質には満足しているが、精神的には不満の塊が心の底にあって、人生に夢や希望をみいだせない、失望社会に身を置いているような気がする。
そしてこのような社会病理現象を生み出した悪い条件の一端というのは、個々人の孤立化という点にあろう。核家族化して人間関係が希薄になり、人は自分の孤独感を誰に打ち明けて、問題解決のよすがとしようとしているのか。家族関係が希薄になり、ましてやコミュニテイが崩壊した状態は、絶海の孤島にひとりで暮らすに等しい。
人間は人間の中でしか生きられない。つまり絆を太くして生きるという基本原則が破壊されては生きていけないのである。
いまこの3万人という数字を考えて見ると、東北大震災のあの死者も3万人以下であった。古い話だが、日清戦争 13,619人 満州事変17,176人の合計に匹敵する数字である。戦死者とほぼ同数とは驚くべ喜数字である。
3万人という数字は非常に多い数字である。私は今この数字を0に出来たらと言っているのでは無い。複雑多岐にわたる人生で窮通打開の道無く自殺の誘惑に駆られることは、何人も経験するところであろう。
だが大多数の人はこの誘惑を乗り越えて人生を全うしているのである。
精神的な問題で悩み苦しみ命を絶っていく実情を見るとき、宗教は一体
何をして人を救おうとしているのか。現代の仏教のあり方にははなはだ疑問を感じる。釈迦は葬式をするために、言い換えれば死者のために教えを説いたわけでは無い。彼の教えは生きていく為の教えである。にもかかわらず、現在の現在の仏教が生きている人間の救済機関となっているか。?
仏教は生きている人間を救わずして、一体何をしているのだろうか。
救済の無いところに何故を金払う必要があるのだろうか。?疑問に思う
寺離れは起こるべくして起こっている。
2011年もまた自殺者が3万人を越した。実に悲しい現実である。何時の時代でも、自らの力で人生の難関をのりこえる事が出来ず、この世を去って行くというのは、何としても避けたいことである。
しかもこの3万人という数字は14年間も続いているのである。
日本社会は毎年3万人が自殺しなくてはならないような、不幸な社会構造になっているのであろうか。
僕の考えでは高度成長を遂げた日本は、物は何でも自由に手に入り、物質文明は確かに人々の生活を潤したが、その反面精神的なものはやせ細っていったのでは無かろうか。物質には満足しているが、精神的には不満の塊が心の底にあって、人生に夢や希望をみいだせない、失望社会に身を置いているような気がする。
そしてこのような社会病理現象を生み出した悪い条件の一端というのは、個々人の孤立化という点にあろう。核家族化して人間関係が希薄になり、人は自分の孤独感を誰に打ち明けて、問題解決のよすがとしようとしているのか。家族関係が希薄になり、ましてやコミュニテイが崩壊した状態は、絶海の孤島にひとりで暮らすに等しい。
人間は人間の中でしか生きられない。つまり絆を太くして生きるという基本原則が破壊されては生きていけないのである。
いまこの3万人という数字を考えて見ると、東北大震災のあの死者も3万人以下であった。古い話だが、日清戦争 13,619人 満州事変17,176人の合計に匹敵する数字である。戦死者とほぼ同数とは驚くべ喜数字である。
3万人という数字は非常に多い数字である。私は今この数字を0に出来たらと言っているのでは無い。複雑多岐にわたる人生で窮通打開の道無く自殺の誘惑に駆られることは、何人も経験するところであろう。
だが大多数の人はこの誘惑を乗り越えて人生を全うしているのである。
精神的な問題で悩み苦しみ命を絶っていく実情を見るとき、宗教は一体
何をして人を救おうとしているのか。現代の仏教のあり方にははなはだ疑問を感じる。釈迦は葬式をするために、言い換えれば死者のために教えを説いたわけでは無い。彼の教えは生きていく為の教えである。にもかかわらず、現在の現在の仏教が生きている人間の救済機関となっているか。?
仏教は生きている人間を救わずして、一体何をしているのだろうか。
救済の無いところに何故を金払う必要があるのだろうか。?疑問に思う
寺離れは起こるべくして起こっている。