日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

バンガロールのこじき

2009年05月14日 | Weblog

                                            バンガロール駅

 

ワイシャツネクタイ姿 一見は紳士風。バンガロール・バスセンターでイスに腰掛けてバスを待っていた時、隣の席に座って話しかけてきた。何処から来たか、職業は何か、等など。インドでよく受ける定番の質問。それを聞いてどうするんだ。お前に何の関係があるんだ。インドと日本では同じ業種でも評価は全然違うじゃないか。たとえば洗濯屋。インドでは身分の低い人の職業らしいが、日本ではそんなことはない。洗濯と言っても日本では皆機械が作業をしてその管理と仕上がりの検査くらいしか人手を掛けない。そレに比べてインドでは初めから終わりまで作業はすべて人手に頼っている。 そんな状態で比較してみて何になるのか。比較することが自体が間違っている。僕は訳の分からないこんな質問に答えたくなかった。うるさく同じ質問を繰り返すので、プロフエッサーだと言ってやった。はぐらかされたと思ったのか、それともいよいよ本題に入ろうと言うのか、「実はこの駅でついさっきスリにあってハイデラバードへ行くのに金がない。ついては500ルピほど貸してくれないのか、」ときた。これも定番で、僕はいつもやられているのと同じ手口だと直感した。そこで「君はこのことを、どうしてインド人に頼まないのか、インド人にいって金を借りたらどうだ。通りすがりの外国人に金を借りるように申し込むなんて紳士のする事ではない。恥ずかしいことだ。」とはき捨てるようにいってやった。彼はすぐ席をたって逃げるようにして場所をかえて姿をくらませた。それなりの身なりはしていたが、彼の根性たるやまさしく乞食のそれである。          


出てくるのを待ち受けている乞食

2009年05月13日 | Weblog

 

カルカッタのサダルストリートのレストランで、僕は食事をしていた。入り口に近かったので、通りにいる乞食と目があってしまった。それからというもの彼女は僕の事をずっと監視している。捕まりそうで食事が終わっても出るに出られない。乞食とは辛抱比べが始まるばかりで、時間はどんどん過ぎて行く。意を決して僕は出ることにした。が、この乞食を煙に巻く方策は何もない。僕は走って強行突破しようとした。ところが運悪く乞食が腕をつかんだ瞬間滑って転んだ。何やら大声でののしりながら、立ち上がって逃げるように走り出した。 息切れがしてたちとまったとき、僕は自分が情けなくなり自己嫌悪に陥った。わずか、ほんのわずかのルピーを与えるだけでこんな思いはしないですんだのである。なぜ僅かな金をけちるのか。乞食だって人間ではないか。何故虫けらのように忌み嫌うのか。いつも命の共生を考えているではないか。今自分は日頃考えていることとは全く逆の事をしているのではないか、何故もっと優しく接することが出来ないのか、次から次から自分を責める考えが襲いかかる。それにしてもこれは政府の仕事だ。個人がセンチメンタルに救済したところが焼け石に水。システムとして考えないとどうにもならんしそれは政治が解決する事だ。

 

世界には狂気がまかり通っている。インドの乞食しかり、カンボジャのポルポトの虐殺、ユーゴーの民族浄化問題しかり。 ああ、もういやになった。


カルカッタの乞食

2009年05月12日 | Weblog

                                                カルカッタの市中

 

 

カルカッタの繁華街、チョロンギーでのことである。露店の出ている通りの前で粗末なサリーを体に巻き付け、やせ細って棒切れのようになった子供の足を、むき出しにして道ばたで寝ている、いや倒れている母子の乞食を踏みそうになった。よく見ると多分この親子は死んでいるのではなかろうかと思えるほどやせこけていた。母親はともかくも子供は動きもしないし、むずかる様子もない。 おお可哀想に。お前はなんでこんな所へ生まれてきたのだ、ええっ。もう手遅れではないのか。僕はこんな事をつぶやきながらそこを通り過ごした。しかし、いかにせん、この乞食親子を見てそのまま通り過ぎることはできなかった。通りすぎた道を引き返してアルミのお鉢に5ルピーを入れてきた。母親も死の寸前か、何の反応もしなかった。多分今頃は母子ともにこの世には居ないことだろう。 それにつけても一体インドと言う国は、片一方で核実験をしているくせに、自国の民の飢えの問題を放置している。核実験に使う金があったら社会の底辺にいる人たちの救済にもっと手をかしたらどうだ。僕は完全に怒っていた。

 

乞食について思うこと

 

インド人にもらえ、何故日本人にまとわりつくのか。きっとお前達は日本人は割に簡単にお恵みをするから、つまり簡単に金をくれる金持ちだからそこからもらおうとするんだろう。どうしてこんなに乞食が多いのかこの国は。一体何が狂っているのだ。宗教か、政治か、教育か、経済か、何に原因があろうとも、国民を飢えからすくことが政府の第一の仕事である。 老人、身体障害者、子供連れの若い母親、一人で生きるのも大変ななのに年若くして子供を生み育てられないから乞食に身を落とす。なんたる知恵のなさだ。子供を生ませた男よ。責任をとれ養うこともできないような状況で子供を作り母子を乞食にするような男は男の名に値しない。自分の無責任ぶりをはっきり自覚せよ。  暑さと言葉の違いから来るストレスから僕はインドに行くと何がなくても気がいらだつ。共生の精神を忘れたり放棄したりしているわけでは決してない。ところが次の考え方だけはどうしても容認出来ない。  デリーでの話である。僕に物乞いをした乞食は言った。「お前は俺に金を布施することによって善行を積んだことになる。俺はお前に徳を積ませてやるのだ。礼は言わなくて良いがルピーをくれるのはそんな意味があるのだ。すなはち布施をさせて善行を積ませてやっているのだからルピーをくれるのは当たり前だと言うのだ。これを聞いたときこの国には救いようがない民がいると思った。  政府の仕事はミサイルや核実験どころでは無いはず。カルカッタに着くや否や、僕はそう思った。それより先にすることがある。まず国民を、特に底辺でうごめいている人たちをどうするのか、それが根本問題じゃないか。切って捨てるというなら世界から非難を浴びよう。それだけではなく、インドが国連の場でどんなに良い事を言ってみてもまともには取り上げてもらえないだろう。                 コメント(2) 自分が生まれてこの方、物乞いしている日本の乞食を見たことが無い。国情の違いとは言え、毎日の食べ物に事欠く程つらいものは無いと思われます。乞食も、乞食になりたくて生まれてきた訳では無いだろうに、運命とは言え辛く悲しいものを感じます。これも現実にあってる世界、かたや、冬ソナおばさんも現実の世界、何か考えさせられますね。 経済的な発展途上国ではこんな有様ですが、生まれてくれば人は平等に生きる権利が保障されなければなりません。それは国の最低限の機能であり責務であると思います。それにしても女に子供生ませて母子共に捨てる男って最低です。乞食の姿の奥にあるものを眺めるとき泣けてきます


王宮夜景その2

2009年05月10日 | Weblog

                       チャオプラヤの対岸から臨む王宮

 

ぼつぼつ帰ろうか。  

 

僕は王宮前から1番の数字が書かれたバスに乗った。これだと乗り換えなしで、一本のバスで宿まで直行で帰れる。バンコクはバスが発達した大都会である。それだけにバスを使いこなせば便利なのだが、なにせ、タイの言葉の読み書きは言うに及ばず、会話もまったく出来ないので、日本では笑い話にしかならないような、バスの乗り方しか出来なくて、いつもまごまごしている。  一本のバスで宿まで帰れるというのは、ぼくにとってはこの上なくありがたいことだ。だから夜の王宮を満喫できるわけで、これがどのバスに乗ったら帰れるのかわからないならば、夜の王宮見物なんて、不安が先だってで出来たもんじゃない。大都会の夜に迷子だ、なんて思っただけで、ぞっとする。  心おきなく今夜見物できたのは、昼の間にこのあたりを何回もうろうろしたからである。バスに乗り降りして、このあたりの地理を、つぶさに頭に叩き込んでいるからだ。  日本に居るときと違って、時間がゆったりすぎていくから、こんなことが出来るんだ。ユックリズムも、たまにはいいものだと、自分に言い聞かせた。  熱帯のタイは昼間の暑さはきついが、日が落ちて2,3時間もすると、ほんとにしのぎやすい時間がやってくる。これはぼくにとってはまさにゴールデンタイムである。  この時とばかりに、書き物をするのだが、体調がおかしくない限り、快調に筆は進む。つかれてフアンをつけたまま寝てしまったことがあるが、夜中には寒くなって目が覚め、シャツを一枚重ね着してしたこともある。やはり日が暮れて10時過ぎごろまでが一番しのぎやすい。  近頃はタイでも冷房がはやりだして、冷房バスはもちろんのこと、デパートなど、人の多く集まるところは、たいてい冷房が効いている。暑い街中を汗をたらたら流して歩いていると、冷房の効いたところは、ほっとする。  しかし長い時間冷房ビルに入っていると、体がだるくなって気分が悪くなってくる。それに日本と違って、バンコクの冷房はよく効いているので、それだけに僕にとっては長居は禁物だ。やはり天然がいい。  朝と夕に訪れるあの快適な温度。あれが文字通りゴールデンタイムなのだ。「やっぱり自然が体にいいのだな。」独り言が口をついて出た。今夜はすでにゴールデンタイムは過ぎている。少したてば肌寒くなるかもしれない。1枚余計にきてベッドに横たわった。 月もない暗闇の中に幻想的に浮かび上がって、川面でゆらぐ気品あるワットアルンの妖しいまでの、あのあでやかな姿が、目について日中の疲れがあるにもかかわらず、僕は寝付きが悪かった。


リタイアリンクルーム

2009年05月09日 | Weblog

                                                              カルカッタ(コルカタ)大学

 

 

インド大陸の中心から見るとカルカッタは北東にあたる。日本では北東を鬼門といって人は避ける。インドの鬼門にあたるのがカルカッタである この鬼門は私がいつもインドへ入国するときに利用する所である。バンコク空港を経由してインドに行くには最も入りやすいインドの入り口である。 ところが僕が初めてインドへ行った時の最初の玄関口になったカルカッタはすこぶる印象の悪いものであった。前回の経験によるとこのカルカッタだけはろくなことがなかった。両替ではだまされいるは、タクシーに乗れば途中でほっぽりに出されるは、カルカッタではろくなことがなかった。インドにたいして持っていた尊敬の念は一辺に吹っ飛んだ。 お釈迦さまの出た立派な国民からなる国だと尊敬の念を抱いていたのに。僕の持っていた憧れは音をたててくずれさった。それもわずか30分たらずの間に。そういうわけで,あれ以降、インドを旅するときには,僕はまず第一に厳重に自分をガードをしなくてはならぬと緊張する。 ニューデリーには朝6時についた。早朝だったのでコンノートプレスまで歩いた。僕はここからお目当てのホテルへ電話をしたら、空室はあるという。これでまずは安心した。 そこで、大通りからは少し入ったコンノートプレスの旅行代理店に行き、ホテルもチケットも一緒に頼んだほうが便利で安あがりだと思い、この代理店を通じて先程のホテルに電話をかけてもらったら満室だという。 ものの1分もたっていないのに満室になるとはおかしい。そこで僕は電話を代わり、たった今空室があるといってじゃないかと抗議した。ところがフルの一点張りでらちがあかない。これはおかしい。何かがおかしいと僕は疑念を持った。つまり業者とホテルは後ろで結託しいるのでは?という思いが頭をかすめたのである。 案の定代理店はあのホテルは満員だから、こちらでホテルを紹介するという。さきほどのホテルでは1泊200ルピー、ところがこの業者の紹介しようとしているホテルは600ルピーだ。仕方がないから僕はしぶしぶこのホテルに泊まることにした。そうは決めたものの後味はすこぶる悪かった。 ホテルにつくと、そこには僕と同じようなケースで送り込まれた日本人の先客があった。お互いに話をすればするほどワンパターンのやり口でだまされているのがわかった。銭金の問題ではなくて、これは悔しかった。なにも旅行代理店に頼むんじゃなかった。ホテルぐらい自分で予約すれば済む。ただそれだけのことをしなかったばかりに、自分に腹が立った。 「畜生。」彼らの罠にひっかけられた。これは悔しかった。金よりもなによりも、だまそうという根性に対して、又だまされた悔しさに腹が立った。散々インドの悪口を言って、日本人同士慰めあったが腹立ちは容易には消えなかった。カルカッタで2つ、ニュデリーで1つ、いやな思いが僕の心に暗い影を落とした。 ダムダム空港のリタイヤリングルーム  朝の出発が早いのでリタイヤリングルームを使わせてほしいと僕はエアポートのサービスマスターに行ったら、それなら国内線空港へ行けという。10キロのバッグと10キロのリュックを背負い500メートルほど離れている国内線空港へ行ったら、係りとおぼしき職員が出てきて一応の説明はした。しかし妙にアウトサイドという言葉が耳についた。煎じ詰めて言えば、空港近くにはゲストハウスがやすくてたくさんあるからそちらの方を案内をしようというのである。 僕はとりあわないでとにかくリタイヤリングルームだと頑張った。そうしたら、係りのところへ案内するからここで待っていろ、といって姿を消した。しばらくしたら 先ほどの男は2人連れでやってきて「この人が係りだ」という。 僕は先ほどと同じ説明をして、リタイアリングルームを使わせてほしいと言った。彼は黙ったまま腕組みをして考えていたが、「パスポート」といった。僕は腹巻からパスポートを出して彼に渡した。彼は腕を組んだままそのパスポートを見ていたが、インドのビザのページを見て「1カ月もインド国内を旅していたのだから、宿はこの近くのゲストハウスを紹介する」という。 なんだ。これじゃあリタイアーリングの担当者ではなくて、どこだか知らないがゲストハウスのボンビキじゃないか。僕は腹の中でむっとした。その手口はニューデリーで旅行代理店が紹したホテル紹介のシステムに実によく似ている。紹介料をせしめるあのやり口だ。こんな奴にやられてたまるものか。僕はゲストハウスの件については一切受け答えをせず、この空港の宿泊施設を利用したいの一点張りで、他のことには耳をかさなかった。 2人の間にはしばらく険悪な沈黙が流れた。 僕は改めて「何とかしてほしい。ゲストハウスはノー・サンキュウ」だといった。彼は「それじゃ仕方がない。他を探してくれて」と吐き捨てるように言った。  最悪の場合空港ロビーで徹夜しても良いと腹を決めていたので、「おまえなんかにたのむか。馬鹿もん。」と捨て台詞をはいてオフイスを出た。 僕は国際線空港の方へ歩いていった。そうしたら今僕の相手をしていた職員が走るようにして僕の後を追いかけてきた。 600ルピーの宿賃を500ルピーするという。僕はいらないと断った。彼はなんとかゲストハウスに泊まるように僕を説得してくる。僕は意地になって反対した。それでもなお彼は食い下がってくる。 「分かった。それじゃ空港までの送迎のタクシー代はサービスする。それでどうか。」僕はやはり断った。「あなたは私の親切な申し出を断っているが、それでは一体今夜どこで泊まるつもりなのか。」と半ば脅しを含めて言ってきた。僕は空港ロビーで一夜を明かす覚悟を決めていたので「国際線の空港ロビーで夜更かしでもするよ。」と笑いながら答えた。「なに?国際線のロビーで夜明しすると?。それはできないよ。カルカッタでは夜明かしなんかしてみろ。すぐさま荷物はなくなるよ。あるいは悪い奴に脅されて金品を巻き上げられるのがオチだ。」と又脅迫めいたことを言う。「ご親切にありがとう。とにかくここで泊まるよ。カルカッタ空港でね。」僕は顔色を変えることもなくそう答えた。 いやな奴らだ。空港職員なら日本で言う公務員じゃないか。品位やプライドのかけらもないじゃないか。前回インドに来た時に僕はインドでは何が起こるか分からないということを強く感じた。せっかくスケジュール通りに、ここまでやってきたのに、チケット通りの飛行機に乗れないで、バンコクから関西空港までのチケットまでパーにするのは、我慢のならないことであった。 仕方がない。今夜はロビーで徹夜しよう。僕は一時間おきに目がさめたがうつらうつらして夜明かしをした。物も盗まれなかったし、悪い奴に脅かされもしなかった。それにしてもだ。日本ではまずこう言う手のだましはしない。同国人だからということもあろうが,戦後の混乱期を除いてこのような公務員はいないと思う。 貧しい国民性なのか,それとも価値観や風習が違い生活の仕方がまるで違うからこんなことになるのだろうか。東南アジアを一人旅してもインドのような思いをしたところはどこにもない。たとえば貧しさだけを問題にするならば、ネパールの方がはるかに貧しいと思うが、カトマンズではこんな思いをしたことがない。貧しいからやることなすことみな貧しいというのは当たらない。 やはり国民性か。だとすれば、例え釈迦のような大聖人が出なくても、礼節をわきまえた日本のほうが、はるかに優れている。僕は自画自賛した。とはいえ僕は本当のインドを知らない。どこか地方の村に行きそこで村人と交流をしたときにはホントのインド人を知ることになるだろう。 象に触った盲目の人が象とは丸い柱のようなものだと言ったのは全体像を言い当ててはいないものの、彼が触った範囲でまるい柱というのは当たっている。と同様に私が接触したインド人、たとえばリキシャワーラー、鉄道マン、旅行代理店、レストランのインド人を信用しないでうさんくさい輩と見るのも当たっていると思う。


介護制度のありかたについて思う

2009年05月08日 | Weblog
介護制度のありかたについて思う

今も昔も同じように、老人の介護は必要であったはずである

今は核家族で、邪魔になる?老人の介護はすべて老人介護施設の方へ送られるようになっているようだ。

歴史的にみると昔はどうか。少なくとも戦前までは、大家族主義で、核家族主義では無かった。老人は、次の若い世代によって支えられ、農作業を手伝い、健康な老人は孫のおもりをした。例え病に倒れても家族の中で支えられていた。

今は、核家族主義が、幅をきかせて、老人といえば、うばすてに近い感覚で、老人ホームへ送り込む。これでは、世代間の人間的な感覚は立ち消えになってしまう。

子供世代は、親世代を老人ホームに入れ、亡くなれば、葬式をすましてそれで終わりという、人間関係が出来上がっている。
これがはたして望ましい人間関係であろうか。
道徳的な臭いがするかもしれないが、これでは若い世代に自分を育ててくれた親世代に対する感謝の気持ちというものは無いのであろうか。

感謝の気持ちが無いのは異常であり、感謝の気持ちがあるのが正常である。こういうことは人間間世代間の基本的ルールとして社会的に定着していても何もおかしくない。

それどころか、人倫的感覚から見ると、そうあるのが当然である。
介護世代になると子が親を見捨てる感覚の方が、社会的風潮だとしても、それは人倫に反することである。

なぜこういうことになったのか。結局のところ、自分の主張や利益を最大限尊重して、それを妨げるものを排除するという自己中心主義の産物だと思う。全体の風潮がおかしいのである。
こういう風潮が行き着く先は戦前では考えられなかったような親殺し、子殺しにつながって行くのである。



確かに若い世代から見れば、老人は、動作も鈍く、病気がちで、やっかいものに、なる存在ではある。

しかし、その老人によって、次世代ば育てられたのである。つまり、人間的な感覚は、世代間で、つながれていたのである。

若い人たちの世話にならない。これは老人の1種の自己プライドだけど、それで自分の見繕いができるならば、まだしも、己一人をもち兼ねている状態になってからも、そのプライドは捨てられないのは、現実無視もはなはだしい。

本来人間が生きて行くということは、それほど自由なことであろうか。どこかに不自由を背負って、世代間、仲良く暮らす大家族制度は、決して、人倫に反するものではない。邪魔ものではない。それどころか、農作業に置いて、あるいは、健康な祖父母は、孫と同居することによって知らず知らずのうちに、オトナの知恵を若い孫達に教え込んで行く、つまりしつけ教育に大いに役立つということだ。
それは今まで生きてきた大人の知恵の伝承出来ることになる。

こういう感覚を現代の世情に合わないアナクロリズムというならば、僕は、アナクロが正論だと思う。

そこで提案

要介護老人を家族で、引受るならば、国から、介護手当をその家庭に、支給したらどうだろう。それは若い世代の家計を助けることにもなり、介護労働者の増加を防ぎ、新たに作る介護施設不要となって、国家予算にもプラスになるだろう。

現に、私の家では、脳こうそくを倒れた老人の世話を17年間、自宅で介護した。介護費用は、兄弟姉妹が、それぞれ負担した。

持ち回りでどこかの家に負担がかからないように病人を東京、大阪と、転々させたこともある。当番制で2年に1回だったら、病人の親を同居させて、介護できる。

もちろん、さざ波クラスのトラブルは、あったけれども、輪番制で、なんとか
17年間をしのいだ。

その介護に当たるのは、どうしても一家の主婦である。その主婦の労苦に報いるために、そこの家族に、10万円の金を毎月渡したわけである。
嫁さんたちは姑の世話することを、心の底ではどれほどいやがったことであろうか。しかしながら、自分が、外でアルバイトをしなくても、それに見合う分だけの現金収入が確実にあるわけだから、不平不満もある程度抑えることができたらしい。

確かに、介護施設に、入れることによって、寿命が伸びる。ということがあるかもしれない。しかし、介護を必要とする。人間というのは、本来、すでに人間としての機能を失っているわけだから、介護を要する人の命をわずかばかり延命させたからと言って、誰にとってメリットがあるのか。もし、その心配があるというならば、訪問介護で、そこをしのぐ。事が出来ると思う。

巷間でささやかれているように、現状通りに推移するならば、これからますます要介護老人が増え、介護関係の施設や労働者が、間違いなく増えてくる。その見通しについて、政府は、外国人の介護者を雇うようなことを考えている。

こういうことを考える前に、今一度、古き良き時代の大家族制度に、ついて、その原理原則を現代の世相に、マッチさせること。あるいは修正することを真剣に検討すべきではないか。
昔のように自然に死んでいくのが望ましい死に方ではあるまいか。

























未完成交響楽

2009年05月07日 | Weblog
未完成交響楽

「わが恋が、終わる事のないがごとく、この曲が終わることなし」

1x2=2  2x2=4から黒板に、2/4の曲が生まれ、

質屋の娘が投げてよこしたゲーテの詩集の中にある
「野バラ」が、算数の授業の真っ最中に、黒板の上で作曲されて行く。

作曲は、作曲家の中に潜り込んだ、神が彼の魂をゆり動かして、なされるもので、音楽理論や楽器によってのみなされるものではない。ということの証明である。


楽器主として、ピアノは、作曲する際に音の確認のために補助的に使われるものであって、ピアノが、弾けなければ作曲できないと言うのは主客転倒の話である。

私にも、教壇に立ち、黒板に字を書いている真っ最中にメロディーが頭の中でなり始めて、あわてて胸のポケットに忍ばせている五線紙に書きとめた経験がある。

神は、洋の東西を問わず、特定の人に、時間空間を越えてメロディーをお与えになる。

私は神に祈りたい。シューベルトやチャイコフスキーやフオスターに、与えたもうた、美しいメロディーを私にも与えたまえと。

御題 旅

2009年05月06日 | Weblog


御題  旅 

を作曲した。感無量である。

日本に天皇制が生まれてこのかた、外国人によって、この本土・大八洲が支配を受けたり、占領されたりということはかってなかったことだ。

明治維新をやりとげ、近代国家の体裁を整え始めてから、日本は侵略戦争を始めるようになった。

そして昭和に入り、中国大陸を侵略するために、戦いを起こし、近隣諸国に多大の迷惑をかけて、結局は、米英相手に開戦し、敗戦し占領され、日本開闢以来、外国人による支配を受けた。

日本の頂点に立つ天皇様の思いは一体どんなものであったろう。

しかし、時間を経て、日本は開闢以来の発展をとげ、世界経済のリーダー役までになった。

そのような未曾有の経験をされた天皇様が祖先のふるさと・大和路を旅されたときに詠まれた短歌がこのときの御題旅なのである。

天皇陛下の心の中に去来したもろもろの想念は如何ばかりなものであったろうか。
その胸中を詠まれた天皇陛下の心中の思いを私が想像してみた。とても言葉には成らない。天皇様の思いを重ねて、二重映しにして作曲してみた。

普通は、思いは言葉となって表現されるが、あまりにも複雑な思いが、重なる場合、言葉では表現できない。おそらく、色とか、音でしか表せないのではないか。 弦楽4重奏曲に編曲して御一家で楽しんでいただければこのうえない幸せである。

寺谷一紀の京Let’s ワイド ラジオ

2009年05月05日 | Weblog
寺谷一紀の京Let’s ワイド ラジオ

に久々に出演した。テーマが京都にまつわる寺社の話とそれに関する作曲作品を紹介するすることになった。
京都の歌は沢山作曲しているが、自分としてはリスナーに紹介したい作品を選んだ。
それは嵯峨野にある常寂光寺の境内にある「女の碑」につて作曲したときの僕の思いを解説した。


これで僕の思いのタケを作曲出来るのか。不安はあったがとにかく作曲してみた。

女の碑の会様

お便りありがたく拝見しました。皆さんの熱気みたいなものが伝わってきて、圧倒されそうになりました。
人数の多い、少ないではありません。
人の心です。想いです
皆様のお気持ちは、すがすがしいです。
私が動くことが、皆様にとって何かの役に立つならば、こんなにうれしいことはありません。

「女の碑」作曲しましたので、お届けします。

「女ひとり生き、ここに平和を希う。」   
              市川房枝

 初めて見たとき、曲になるかなと思いました。たった一八文字に込められた皆様の思い、生活実感や感慨に、思いをめぐらすとき、私は二つの側面を思い浮べました。
人間として女性の誰もが望み、誰もがあこがれる結婚。その相手になる年頃の男性が戦争で、多くは戦死して、絶対数が不足している為に結婚できなかった人たちの、悔しい気持ちや、心情を察するに、私にはいろいろな想いが過ぎります。
 一つは深い悲しみの霧に包まれて、泣いている心。そして時の経過とともに、沈潜した悲しみに代わって、浮上してきた、あきらめの気持ち。
さらに透明度を増した、やすらぎみたいなもの、いや、灰色を青空色にかえていった心境の変化。もっと突き詰めて言えば、アクが抜けて純化された魂の世界に住むことを願う気持ち。
前者は悲しみを表す単調。後者はどこまでも澄み切った宇宙の色長調で、両者の間に、18小節を取り、心境の変化のプロセスを表しました。
色にたとえると、真っ暗が、徐々に灰色になり、さらに白になっていくみたいなものです。
私の心で表現するならば、悲しみに、涙で濡れた頬に、泣いた後のさわやかな気分が、込み上げてくる。このすがすがしさです。

本当に生きるということは、大変なことなんですね。でも、命が尽き果てるまで、私たちはこの世で生きなければ、仕方がないのです。
 だから私は、今を境を精一杯生きなければ嘘だ、と思うのです。私よりもさらに、苦しい環境を生き抜いてこられた皆様に心から、拍手を送りたいと思います。どうか力を合わせて楽しい日々を続けてください。とりあえず、ソロで入れておきます。

あれから、また考えました。会員の中には、寂しくて、当時は御法度だった不倫をして、その時の気持ちを赤裸々に綴った手記を書いておられる方があったが、それを読み、我が身に置き換えて、考えてみると、実感がひしひしと伝わってきました。

 大正末から、昭和一桁生まれの人たちの、苦しみが容易に想像できて、何ともいえない気持ちになりました。
      男は戦争にとられて、この世の地獄を見て、なくなっていき、      銃後を守ると、いうスローガンの下に、結果的には、結婚相      手を失い、生涯独身を強いられた、気の毒な状況下に置か      れたあなたたち、女性。
あなたたちが生きる権利の一部として、不倫をしたとしても、何ら責められる理由はない。それが倫理にかなっていないとしても、人情の自然でしょう。
 社会道徳とは、相容れないものだろうが、
僕の意見としては、この種の不倫は、自然なこととして、受け入れます。いや秘密をもちながら命を燃やして、不倫した人にたいしては、責めるどころか拍手を送りたい気持ちです。
 
 命の華といえる、青春時代の男女の味わいを、戦争という異常な出来事のために、奪われたのだから、戦争が終わった段階で、それぞれの青春を取り戻すべく、不倫を重ねても、その方が人間らしくて、よいように思います。
 今の時代ならともかく、戦前の古い女性道徳教育を受けられた人たちは、そう易々と、自由奔放に、恋愛や不倫に走ることには、大きなためらいがあったことでしょう。多分大半の女性は、泣く泣く、自分の想いを抑え込んで、苦しい想いに涙して、生きてこられたのでは、ありますまいか。
 結婚をしたくない人が、結婚しないのは納得ずくのことです。しかし結婚したくても、相手の男性が大半戦場へ送られている状況下では、どうしようもありません。泣く泣く自分を抑え込むか、跳ね上がるか、しか解決方法はない。
そういう状況下での不倫でしょ。たとえ世の常識がいかにあろうとも、また女性教育がいかにっあたものにせよ、しないよりはしたほうが人間らしく思います。
 
不倫をしていても、それは一時の麻薬みたいなもので、その場限りの楽しみだけで、その裏には、深い悲しみが待っている。あなたは帰る家庭がある。私は家に帰っても、ひとりぼっちで、寂しさは余計に体に応える。
本には体験談として書かれていたが、不自然な男女関係は、いずれにせよ、芯から心を温めるまでには、至らないのですね。
時代というのか、運が悪いというのか、人生どうしようもない、ど壺にはまった気の毒な世代です。心から同情いたします。僕もあと10年早く生まれていたら、皆さんと同じ運命をたどったことだろうと思います。
戦争は非情です。残酷です。むごいです。無法で正義も、真もありません。
国民をこんな状況に導いたり、引きずったりした戦争責任者は当然国民に対して、責任を負わなければなりません。

言葉で以上のような理屈を、どんなに唱えても、失われた青春と人生は、取り戻しようがありません。こんな手紙を書いてみても、皆様の心を芯から温めることは出来ないでしょう。だから書くのはもう止めます。
どうか心をしっかり持ち、似た境遇の人達と、仲良くお暮らしください。ご健勝を陰ながら、祈っています。

女の碑文に作曲して
              圭史

 十三仏さん

2009年05月04日 | Weblog

               十三仏さん



予防策が取れても、だからといって、脳血栓や脳こうそくを完全に、防ぐことができるかというと、現代医学の力では、完全に予防できるという保証は何もない。

一夜にして、体の自由を奪われてしまう恐ろしいこれらの病気にかかったが最後、
どのようにもがいても、持って生まれた体の自由は再び戻ってはこない。

リハビリによってある程度の機能回復はできるが、それも、看護家族の状況や、困難を克服する本人の意志の力にも大きく、依存するがゆえに、おのずと限界がある。


夏が過ぎ去ろうとしている9月の中旬、13日の未明を境にして、
母は持って生まれた体の自由を完全に失ってしまった。
脳血栓で血管を詰まらせて、脳こうそくになり、運動神経がやられてしまったのである。

いつもなら5時過ぎに起きて、朝食の準備をする母が、この朝に限って起きてこないので、熟睡しているものと思いこんだぼくは、8時過ぎまで、起こさないでほっておいた。しかし、いくら待っても、起きてこないので、母の部屋の襖を開けたのだが、母の姿を見て、びっくり仰天した。

口から舌をだらりと出したままで、右手右足を使って起きあがろうと、母は懸命にもがいていた。

左手はだらりとぶらさがったままの感じである。私は声もなく、その場に立ちすくんでしまった。

「医者 医者 はやく医者を」。私は電話口へ走った。
すぐかかりつけの病院に電話をしたら、救急車で病院に来るように、との指示があり、私は母を背負うような思いで病院へ駆け込んだ。

医者は顔を見るなり、「右が、やられたなぁ」と言い、左手の脈をとり、すぐ病室へ入れるように、看護婦に指示した。

それから約3カ月。私は病院へ泊り込みながら、職場へ通った。

精神的にも肉体的にも限界に達したとき、医者はもうこれ以上、身体機能の回復は望めないから、自宅へ連れて帰って、自宅療養をした方が良いと私にアドバイスをした。

高い差額ベッド代を支払って、入院していても、もうどうにも回復の見込みのない母をそのままにしておくのも無駄なことのように思えて、私は母を自宅で連れて帰って、自宅療養させようと決心した。

見ているだけでは、話に聞いているだけでは、絶対に分からないのが、こういうたちの病気の看病の苦労である。

何とか私の力で元通りの体に回復させようと張り切って、がんばってきたが、それは、夢のまた夢になってしまった。しかし、私はあきらめがしなかった。左手の小指、一本の機能回復に望みをかけて、神仏にすがってでも何とか直したいと強く念願した。医学の力もこれまでと、はっきり引導を渡されてしまったので、これ以上の機能回復を現代医学に期待しても無理だと観念し、私は半信半疑ながら、神仏に、頼らざるを得ない心境になっていた。
ある日
「それなら君。十三仏さんをしたらどうや」と友人は私に言った。

「十三仏さん。それは一体なんや。神さまか。仏様か。十三仏さんということで仏さんに何をするんや」
私は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「十三仏さんというのは、13の仏様に、供養してものを頼むのや。
母が脳こうそくを起こして、左手足が完全に麻痺して、使い物にならないのです。十三仏さん。供養するので何とか助けてほしいのです。信仰心の薄い私ではありますが、母になりかわってお願いします。」と、おわびしながら人に見られないように、おにぎりを13個作り折り箱に入れて、四つ辻に置いて、十三仏さんに、お願いして帰ってくるんだよ。ただし、供えてからは絶対に後ろを振り向いたらダメだ。」

「ところで、おにぎりを折り箱に入れて、13個供えて、供養の足りなかったことを、おわびして、十三仏さんを拝んだら、一体どうなるんだ。手足が動くとでもいうのかい。」
「手足が動くか、どうか。それは知らないが、お前もお母さんも楽になることは間違いないよ。たとえば、寿命がなかったら、そのままスーッとを迎えがきて、お前もお母さんも楽になるよ。もし、寿命があったら、せめて下の始末は、自分でできるようになる。」

「何? お迎えが来て楽になるだって。お前。それは死ぬということじゃないか。そんなこと、この俺の一存でできるわけがないよ。君は他人だから、そんな事を、いとも簡単に、言えるが、母の命がかかってくることを、そんな簡単に、決心できないよ。お迎えに来てもらうくらいなら、手足が不自由で、寝たきりでも、僕が世話をするほうがよほどましだ。」
「それはそうだ。お前の納得いくようにしたら良いだろう。ひょっとするとこの種の病気は、神経の方に回るかもしれないからな」
「脅かすなよ。そうでなくても、毎日毎日、看病看病で、こちらは、まいって、いるのだからなぁ」

友人の忠告も素直に受け取る事ができず、私はひがんで受け取って、まがって解釈し、イライラは顔つきに現れる。

「先ほどの話に戻すけど、その十三仏さんとやらをしたら、本当に良くなるんだろうね。兄弟と相談して、それも考えてみるよ。」
私は心の内で、これは困ったなと、困惑しながら場合によっては、十三仏さんをしてもよいと思った。




先ほどから、窓の外をたびたびのぞいている。12時を過ぎたころから、車もめっきり少なくなり人影はほとんどない。
そろそろいくか。
私は重くなる心に、親指ほどの大きさににぎったおにぎりを13個セロハンのおり箱につめて、旧街道の四つ辻に立った。

時刻は、午前1時を過ぎている。もう車も、犬さえも通らない文字どおり、夜の静寂と、闇ばかりの世界である。旧街道であるために、道に沿って人家は、たってはいるが、今は軒下も下がるという、ウシミツドキ時。人も家も眠っている。

足音をたてないように忍び足で、私は四つ辻の北西の隅に、13個のおにぎりを詰めたおり箱を音もなく供えて、心の中でこう祈った。

13仏さま 。

観音菩薩様 勢至菩薩様 お不動さま 地蔵さま 阿弥陀如来さま
お釈迦様 。弥勒菩薩様 薬師如来さま 、大日如来さま 、虚空蔵菩薩様 
文殊菩薩様 、普賢菩薩様 アシュク如来さま


お見通しのごとく、母も私も難渋しております。十三仏さんに供養して、お力添えをえることによって、なんとか救われたいと思う一心で、この夜の闇の中で、お願いしております。
聞くところによると、十三仏さんに供養すると、お迎えにこられるかもしれないということですが、それだけはどうかなしにしてください。まだこの世で、何の役割も果たしていない私ですから、せめて私がそれなりの人物になって、社会の役に立っている姿を母に見せたいのです。それからあとに母を見送るならば、私は後悔が少ないのです。
母も、わが腹を痛めて産んだ子が、社会の役に立っている姿を見たら安心して、彼岸を目指すことができるでしょう。
虫の良いお願いをすれば、母は私がひとかどの人物になるまで、どうしてもこの世にいてもらわなければなりませんので。あの世に連れて行かずに、この世で、たとえ1寸でも楽になるように、お願いいたします。

そしてもし、願いを叶えていただいたとしても、それに味をしめて、2度3度お願いするようなことは慎みます。一生一度のお願いのことゆえ、何卒叶えて頂きとう存じます。お粗末ですが、これは母から十三仏さんに、お供えしたものでございます。どうかお召し上がりください。そしてこの功徳を持って何卒宜しくお願い申しあげます。

人や車が通るのを気にしないから、口早に心で唱えて、私がまっしぐらに家を目指して、早足で歩いた。決して後ろを振り向くな、との忠告を厳守するために、私は、両手を顔に、あてて後ろを振り返ることが、できないようにしながら家へたどり着いた。

決して人に、十三仏さんにご供養していう姿を見られないようにという言葉が、不安となって、まとわりついたが、とにかく、友人が教えてくれたとおり十三仏さんをした。

寿命があったのだろうか。私の願いが聞き届けられたのだろうか。母は、年齢を重ねて、老衰は自然進行しているとはいうものの、寝たきりではあるが、あれ以来、10年間、大した病気もせず、床に伏せっている。
来年は80歳になる。こういう案配で、私は十三仏さんに、今では心から感謝している。



































               十三仏さん



予防策が取れても、だからといって、脳血栓や脳こうそくを完全に、防ぐことができるかというと、現代医学の力では、完全に予防できるという保証は何もない。

一夜にして、体の自由を奪われてしまう恐ろしいこれらの病気にかかったが最後、
どのようにもがいても、持って生まれた体の自由は再び戻ってはこない。

リハビリによってある程度の機能回復はできるが、それも、看護家族の状況や、困難を克服する本人の意志の力にも大きく、依存するがゆえに、おのずと限界がある。


夏が過ぎ去ろうとしている9月の中旬、13日の未明を境にして、
母は持って生まれた体の自由を完全に失ってしまった。
脳血栓で血管を詰まらせて、脳こうそくになり、運動神経がやられてしまったのである。

いつもなら5時過ぎに起きて、朝食の準備をする母が、この朝に限って起きてこないので、熟睡しているものと思いこんだぼくは、8時過ぎまで、起こさないでほっておいた。しかし、いくら待っても、起きてこないので、母の部屋の襖を開けたのだが、母の姿を見て、びっくり仰天した。

口から舌をだらりと出したままで、右手右足を使って起きあがろうと、母は懸命にもがいていた。

左手はだらりとぶらさがったままの感じである。私は声もなく、その場に立ちすくんでしまった。

「医者 医者 はやく医者を」。私は電話口へ走った。
すぐかかりつけの病院に電話をしたら、救急車で病院に来るように、との指示があり、私は母を背負うような思いで病院へ駆け込んだ。

医者は顔を見るなり、「右が、やられたなぁ」と言い、左手の脈をとり、すぐ病室へ入れるように、看護婦に指示した。

それから約3カ月。私は病院へ泊り込みながら、職場へ通った。

精神的にも肉体的にも限界に達したとき、医者はもうこれ以上、身体機能の回復は望めないから、自宅へ連れて帰って、自宅療養をした方が良いと私にアドバイスをした。

高い差額ベッド代を支払って、入院していても、もうどうにも回復の見込みのない母をそのままにしておくのも無駄なことのように思えて、私は母を自宅で連れて帰って、自宅療養させようと決心した。

見ているだけでは、話に聞いているだけでは、絶対に分からないのが、こういうたちの病気の看病の苦労である。

何とか私の力で元通りの体に回復させようと張り切って、がんばってきたが、それは、夢のまた夢になってしまった。しかし、私はあきらめがしなかった。左手の小指、一本の機能回復に望みをかけて、神仏にすがってでも何とか直したいと強く念願した。医学の力もこれまでと、はっきり引導を渡されてしまったので、これ以上の機能回復を現代医学に期待しても無理だと観念し、私は半信半疑ながら、神仏に、頼らざるを得ない心境になっていた。
ある日
「それなら君。十三仏さんをしたらどうや」と友人は私に言った。

「十三仏さん。それは一体なんや。神さまか。仏様か。十三仏さんということで仏さんに何をするんや」
私は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「十三仏さんというのは、13の仏様に、供養してものを頼むのや。
母が脳こうそくを起こして、左手足が完全に麻痺して、使い物にならないのです。十三仏さん。供養するので何とか助けてほしいのです。信仰心の薄い私ではありますが、母になりかわってお願いします。」と、おわびしながら人に見られないように、おにぎりを13個作り折り箱に入れて、四つ辻に置いて、十三仏さんに、お願いして帰ってくるんだよ。ただし、供えてからは絶対に後ろを振り向いたらダメだ。」

「ところで、おにぎりを折り箱に入れて、13個供えて、供養の足りなかったことを、おわびして、十三仏さんを拝んだら、一体どうなるんだ。手足が動くとでもいうのかい。」
「手足が動くか、どうか。それは知らないが、お前もお母さんも楽になることは間違いないよ。たとえば、寿命がなかったら、そのままスーッとを迎えがきて、お前もお母さんも楽になるよ。もし、寿命があったら、せめて下の始末は、自分でできるようになる。」

「何? お迎えが来て楽になるだって。お前。それは死ぬということじゃないか。そんなこと、この俺の一存でできるわけがないよ。君は他人だから、そんな事を、いとも簡単に、言えるが、母の命がかかってくることを、そんな簡単に、決心できないよ。お迎えに来てもらうくらいなら、手足が不自由で、寝たきりでも、僕が世話をするほうがよほどましだ。」
「それはそうだ。お前の納得いくようにしたら良いだろう。ひょっとするとこの種の病気は、神経の方に回るかもしれないからな」
「脅かすなよ。そうでなくても、毎日毎日、看病看病で、こちらは、まいって、いるのだからなぁ」

友人の忠告も素直に受け取る事ができず、私はひがんで受け取って、まがって解釈し、イライラは顔つきに現れる。

「先ほどの話に戻すけど、その十三仏さんとやらをしたら、本当に良くなるんだろうね。兄弟と相談して、それも考えてみるよ。」
私は心の内で、これは困ったなと、困惑しながら場合によっては、十三仏さんをしてもよいと思った。




先ほどから、窓の外をたびたびのぞいている。12時を過ぎたころから、車もめっきり少なくなり人影はほとんどない。
そろそろいくか。
私は重くなる心に、親指ほどの大きさににぎったおにぎりを13個セロハンのおり箱につめて、旧街道の四つ辻に立った。

時刻は、午前1時を過ぎている。もう車も、犬さえも通らない文字どおり、夜の静寂と、闇ばかりの世界である。旧街道であるために、道に沿って人家は、たってはいるが、今は軒下も下がるという、ウシミツドキ時。人も家も眠っている。

足音をたてないように忍び足で、私は四つ辻の北西の隅に、13個のおにぎりを詰めたおり箱を音もなく供えて、心の中でこう祈った。

13仏さま 。

観音菩薩様 勢至菩薩様 お不動さま 地蔵さま 阿弥陀如来さま
お釈迦様 。弥勒菩薩様 薬師如来さま 、大日如来さま 、虚空蔵菩薩様 
文殊菩薩様 、普賢菩薩様 アシュク如来さま


お見通しのごとく、母も私も難渋しております。十三仏さんに供養して、お力添えをえることによって、なんとか救われたいと思う一心で、この夜の闇の中で、お願いしております。
聞くところによると、十三仏さんに供養すると、お迎えにこられるかもしれないということですが、それだけはどうかなしにしてください。まだこの世で、何の役割も果たしていない私ですから、せめて私がそれなりの人物になって、社会の役に立っている姿を母に見せたいのです。それからあとに母を見送るならば、私は後悔が少ないのです。
母も、わが腹を痛めて産んだ子が、社会の役に立っている姿を見たら安心して、彼岸を目指すことができるでしょう。
虫の良いお願いをすれば、母は私がひとかどの人物になるまで、どうしてもこの世にいてもらわなければなりませんので。あの世に連れて行かずに、この世で、たとえ1寸でも楽になるように、お願いいたします。

そしてもし、願いを叶えていただいたとしても、それに味をしめて、2度3度お願いするようなことは慎みます。一生一度のお願いのことゆえ、何卒叶えて頂きとう存じます。お粗末ですが、これは母から十三仏さんに、お供えしたものでございます。どうかお召し上がりください。そしてこの功徳を持って何卒宜しくお願い申しあげます。

人や車が通るのを気にしないから、口早に心で唱えて、私がまっしぐらに家を目指して、早足で歩いた。決して後ろを振り向くな、との忠告を厳守するために、私は、両手を顔に、あてて後ろを振り返ることが、できないようにしながら家へたどり着いた。

決して人に、十三仏さんにご供養していう姿を見られないようにという言葉が、不安となって、まとわりついたが、とにかく、友人が教えてくれたとおり十三仏さんをした。

寿命があったのだろうか。私の願いが聞き届けられたのだろうか。母は、年齢を重ねて、老衰は自然進行しているとはいうものの、寝たきりではあるが、あれ以来、10年間、大した病気もせず、床に伏せっている。
来年は80歳になる。こういう案配で、私は十三仏さんに、今では心から感謝している。



































夫婦、この異なるもの

2009年05月03日 | Weblog
夫婦、この異なるもの

石段に腰掛けて先ほどから私は巡礼者の行動を眺めていた。団体さんが多い。
もともと「つれもていこら」の国である。多いのは当たり前だと納得した。
石段杖を頼りに上ってきた1組の老夫婦があった顔に刻まれたしわから推察する
と70年の風雪に耐えてきた婆さんと爺さんだ。
「ようお参りですなぁ。お揃いで。いかがですか。」
「いや、いろいろありました。本当にいろいろあったがここまでやってきた。お
互いに支え合わないと、立ちゆかなくなる歳でやっと2人で身を寄せ合っているがそれでも心はてんでばらばらのことを思っている。人生ってこんなものと違い
ますか。夫婦は百景だから、人さまざまの夫婦をスタイルがあるのは当然で」
「ところでどうして88カ所巡りをされるのですか。」
「さあ、私らにはようわかりません。ある時、私が四国巡りでもするかと日ごろ
考えてもいないことを口走ったら連れ合いが、それもええなーと言うもんで。
そういうことでなんとなくというのが本当です。今から願うというものも特別に
ないし、ここまで来るのに誰かの世話になったというわけでもない。ほんとになんとなくです」
「それでは願かけでもなければお礼まいりでもないというわけですねえ。」
「はあ?お礼参り?誰に?お大師さんにですか?いえいえ、わしらは信仰をもっとらんきに別にお礼参りすることはないと思います。」
「なるほどそういうお参りも有るんですねぇ。ずいぶん力の抜けたお参りですね。いろんな人がいろんな思いを抱いてお四国さんを歩かれいるわけでみなさん自分の好きなように巡礼なさるのですね。いい事じゃないですか。」
私は意気込んでここまでやってきたのでちょっと拍子抜けしたが、考えてみれば百人百様、万人万様のお参りスタイルがあってもいいわけで、この夫婦に出会い肩の力がすうと抜けた。ひょっとしたらお大師さんがこの夫婦の口を借りて、私に何らかの暗示を示されたものと受け止めた。
四国巡礼には理屈はいらないのである。ただ黙々と歩けばいい。ただ黙々と自分の心の中を見ればいい。そしていつも陰のように同行するお大師さんとひたすら会話すればよい。私は自分の足下をしっかり見つめて四国をめぐろうと思う。

ホリエモン的劇場型茶番劇          

2009年05月02日 | Weblog
      ホリエモン的劇場型茶番劇          
          その2

現今重要な経営ファクターとは何か。
基本的には、従業員の生活保障とか、働きがいのある職場の提供。そしてそれが社会的に大きく貢献していく。もちろん、株主の配当も十分行う等々であるが、その中でもとりわけ大切なのは、人間である。決して資本の論理だけで経営ができるものではない。経営者従業員が力を合わせて一丸となって、経営目標に向かって邁進するところに業績の向上は望めるのである。

こういう経営上のファクターを検討してみると、
堀江氏は、資本の論理を最優先にして、自社も買収先の日本放送の従業員についても、どう考えているのか、なおざりにしているのではないか。そのような印象を受けた。今頃になって買収の相手先の従業員様と言ったり、取引様と「様付け」をしてみても、一旦土足で他人の家に上がってしまうと、相手から警戒され、信用されることはまずないだろう。言い方を変えれば、相手の横面を一発食らわせておいて、仲良くしようと握手を求めるようなものである。食らわされた人間が相手のことを良く思うだろうか。

急に「様付け」で呼んだり、手のひらを返したようなことを言われると、大人の感覚では気持ちが悪いだけである。

 企業合併は、株数を多く持った方が勝ちというものではない。
合併会社は、そこに働く人々の意思疎通が図られてこそ、事業として、立ちゆくが、これがそう簡単なことではなく、至難の業なのでである。ましてや今回のように、占領軍が、進駐してくるような印象を与えては、絶対にマイナスである。

 彼は今、そのことに気がついたのか、あるいはアドバイスをもらったのが。日本放送の従業員には、とってつけたような言葉として「様」を使いだした。彼は言葉の上で、従業員を大切なパートナーとして、考えているようなふりをする。
「詰め将棋で穴熊をきめこんでいる」と相手に対して言った人間が、今更普通のように「様 」を つけるなんてそれだけでも反感がわいてくるという人間の心理や気持ちがわからないのだろうか。もしそうだったら、それは未熟者という一言だ。
 
 表現を変えれば土足で家へ上がったともいわれているし、また一発パンチを食らわせておいて、仲良くしましょうと握手の手を差し出す厚顔無恥は誰に通用するというのだろうか。
それは大人の従業員に対する最大の侮辱である。
そのことに気がついているのだろうか。気がついてないなら馬鹿と言われても仕方がない未熟者で、取るに足りない人物である。未熟者が大人の世界に入ってきて、茶番劇を演じているだけの事である。

法に触れない時間外取引をしたことは確かに違法とはいえないが、法に触れなければ、何でもありきの精神はいただけない。
この世は法律だけで運営されているわけではない。義理人情に始まって踏襲された慣習、伝統、日本的土壌など諸々の条件が複雑に絡み合ってなり立っている社会を、一挙には変えられない。
 一挙に替えようと思うならば、それは革命である。時間を掛けながら替えていく革新はあり得ても、現在の日本で革命が起こるか。あり得ない話である。結局未熟者の目立ちたがり茶番劇に終わるだろう。
そして、果たして、この茶番劇のご利益は何だろう。

近頃にない知能ゲームを展開して、ライブドアーと堀江という青年実業家の存在を世間に大きくアピールしただけで、バブル崩壊後の沈滞したムードに浸っている国民の耳目を集めて、はらはらどきどきの劇場型茶番をみて観客は楽しんだことぐらいだ。

観客席に一言

人皆それぞれの意見や見方があろうが、観客席にいる僕はホリエモンに対して厳しい見方をとっている。茶番を演じてみっともないとさえ思う。大人だったら黙って上手にやるべきだ。
 若いのだから多少の失敗は許されるし、また法の不備をついたのだからと言うけれど、こういう形で是認されてしまい、適法だと言われると、すんなりとは受け入れがたいし、感心はしない。ましてや賛成はできない。
 
 世代間ギャップだと言われてはいるが、僕はそうは思わない。
肝心なことが経営者の世代によって経営の基本原則が異なるとは思えない。沈滞ムードの現在の社会に一石投じたのは間違いないが、これを、企業買収のために使う手段とする前に、経済界や行政に警鐘をならしてやる方が、よほど自己ピーアールになるし、彼の評価も上がったことだろう。
 
時間外取引は間違いなく違法ではないが、法の不備を突いて買収を仕掛けたという不快感を与える結果を招いている。これが不信感の一端になっているのである。いわゆる大人の知恵が不足している。
その一言に尽きるようだ。

すべて物事には、功罪相半ばするという見方がある。そしてまた今回の事例でも、それは人様ざまな見方と意見があろう。ただしその見方の正当性は常に現実に実行されての結果によって検証されなければ、観客席の無責任発言として葬られてしまうだけだ。
単に知的なお遊びに終わってしまう。時間と労力が空しい。

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ホリエモン的劇場型茶番劇その1

2009年05月01日 | Weblog
ホリエモン的劇場型茶番劇その1

朝日新聞の窓 論説委員室から


プロテスタンテイズムの倫理と資本主義

マックスウエーバーによると

「精神のない専門人 心情のない享楽人

この無の者は、人間性のかって達したことのない段階にまですでに上り詰めたと自惚れるだろう。」

ライブのドアや村上ファンドやアメリカ ウオール街のどん欲

時代の最先端にいると自惚れていたに違いない。彼らが、血道を上げたのは、ただのマネーゲームだった。

彼らは、資本主義の特徴である合理化の流れが金ではなく、もっと人間的な目標をみいだせうるかどうかにかかっているよう。

、と主張している。そこでぼくの考えを付け加えてみたい

ホリエモン的劇場型茶番劇その1

 今までの経緯はこうである。
ライブドアが、フジサケイ系グループの日本放送の株を大量に、時間外取引で取得して買収攻勢をかけた。日本放送を企業買収し、さらにフジテレビを企業買収することを目指して、株の買い集めを図っている。

フジテレビは、攻勢をしかけられて、防戦に終始した印象を与えた。
防衛策の一環として出した、新株発行の法的な是非は、裁判所で、一審二審とも差し止めを決定された。フジの言い分は、否定されたのだ。
 これでライブドアに、フジの経営は大きく影響を受けると誰しも思った。しかしそのとき、孫グループの一員が出てきた。

 ソフトバンクインベストメントの北尾氏が突如として乗り出してきて、テレビ会見をしたのである。
その模様を見ていると、彼は一癖もふた癖もありそうな、個性的な男だと誰しも思ったことだろう。話していることから判断すると、堀江氏とは違って、大分「大人」であり共感はできる。たとえば中国古典のを引用して、「仁」の心がなければ企業買収はうまくいかないから、やめた方がいいと言う。共感を覚えるセリフだ。
しかしそれは嘘偽りのない彼の経営哲学ではあろうが、はたしてどこまで信用できるご仁か。見極めはついていない。
資本の論理はそういう哲学を許さないことだっていくらもある。
そのとき彼はきっと「仁」の使い分けをすることだろう。問題はそこにある。
情勢が時々刻々変化する経済界にあって、スローガンを掲げるのはよいが、果してそれが、必ず実行されるかどうかを考えてみると眉につばを塗りたくなる。
仁の精神を経営哲学の根本に据えるというのは心の内に秘めて、口に出す前に実行、実践で示せばいいのであって、得々としゃべるのをきくと、やはりそれが真意だとしても、素直には受け取れないのは、やっかみや、ひが目であろうか。
 ましてや野村證券を引っ張っていた田淵社長が世の指弾を受けて引退したので、自分も野村を退社したというのであれば、次元の低い話である。

話を元に戻すと ライブドアー社の社長だとは言うものの、とても大企業を率いていく器量を持った人間だとは思われない。こういう人間をトップに抱いたとき従業員はどういう気持ちで仕事をするであろうか。
 日本放送は従業員のほとんどが今回の買収に反対しているし、出演者は彼が乗り込んできた段階で出演拒否を表明している。

旗色が悪くなり、風向きが悪くなってきたら、途中から広報担当と称する女性を前面に出してきた。
これでいよいよ茶番の色合いが濃くなってきた。
この男、誇りも恥も知らないらしい。所詮タレント性を売り物にする腰軽男という感じが否めない。信念があるなら最後まで己が出てきて、すべてにおいて堂々と受けて立つのが、責任のある男のすることだ。
これが「詰め将棋でいうなら、穴熊だ」と相手に言った人間のすることか。報道陣からの穴熊を決め込んだのは、相手を穴熊だと言った本人ではないのか。

 報じられるところによると、この種の買収劇、すなわちインターネットと既存のテレビ、放送関連メデイアとの融合を目指した買収劇は、アメリカではインターネット関係のAOLと既存の放送関連メデイアのタイムワーナーの買収劇があったが、両者の従業員の人間関係がうまくいかず、ことごとく対立して、
合併提携の買収劇が、失敗に終わって大損をしたという過去の事例があるらしい。
企業合併における体質の違いは、事業運営上の障害となることを如実に示した。また日本ではソフトバンクのソンは、過去にTV朝日買収劇に失敗している。
インターネットと他の放送メデイアとの融合や業務提携はそれが将来のこの業界のあり方だとしても、現時点では相当の山や谷を超えなければできないようである。そこには巧妙な作戦が要求されている。株を過半数買い占めたから買収は成功したと言うほど簡単なものではない。 

話は代わるが、
 ここでちょっと気になることがある。
確かに表面的には、フジにとっては、救い主が現れたような気になったことだろう。いわゆるホワイトナイトの出現である。
これがクセモノで、場合によったら、ホワイトナイトにもなるだろうし、
ライブドアに変わって、フジサンケイグループを業務提携という名のもとに、ソングループの中に取り込んでしまう恐れは十分にある。
この参入のタイミングは絶妙である。資本の論理で動くものが、表面的な正義感だけを振りかざし、いい格好をして漁夫の利を占める恐れは十分にある。要警戒である。
かれこれ2ヶ月間の動きを概述すれば、この辺が今までの動きである。

 北尾氏の話は、彼の言うこととは裏腹に、腹の底が見えすいているような気がする。衣の下に、甲が見えている。そんな感じを与える男である。
僕が思うに、この動きは、孫と十分話し合いがなされ、打ち合わせの上でのことである。それを彼はあうんの呼吸といった。以心伝心ともいった。それを連想させるにもかかわらず、彼は口では、関係のないようなことをいう。この辺から不信感が生まれている。経験を通して、大人は裏読みにたけている。 
 現実を多方面から思いを巡らせ検討する大人の目は、彼の言動の裏表を見分ける力がある。
曰く、M&Aは、日本でいちばん数多く手がけ、自分が最も精通していると公言した。それにとどまらず、評論家は、何もわかっていないとも発言もした。これは黙っておくべき言葉である。こういうところはライブの大将と一脈通じるものがある。
人間中心主義の経営をしきりに主張するが、果たしてどうか。
と疑問符を付けるのは僕一人だろうか。巧言令色少なし仁だ。
こういうことであるから、喋る人間に、表面的にはともかくも、お主ハートがあるなーと冷やかしの半畳を入れたくなる。
でも、心の奥底は、資本の論理で動く人間に違いない。でないと現在の彼の立場はないはずである。というのは、彼もまた今まで資本の論理で動いてきた人間だからである。
 野村証券出身らしいが、おそらく野村では出番がなくて、異端児扱いされていたのではないであろうか。次期社長と言うよいしょもあったらしいが、果たしてその器か。
そういう中で、孫との出会いであり、ソフトバンク、グループの一員に、なったというのが真相だろう。