カルカッタの市中
カルカッタの繁華街、チョロンギーでのことである。露店の出ている通りの前で粗末なサリーを体に巻き付け、やせ細って棒切れのようになった子供の足を、むき出しにして道ばたで寝ている、いや倒れている母子の乞食を踏みそうになった。よく見ると多分この親子は死んでいるのではなかろうかと思えるほどやせこけていた。母親はともかくも子供は動きもしないし、むずかる様子もない。 おお可哀想に。お前はなんでこんな所へ生まれてきたのだ、ええっ。もう手遅れではないのか。僕はこんな事をつぶやきながらそこを通り過ごした。しかし、いかにせん、この乞食親子を見てそのまま通り過ぎることはできなかった。通りすぎた道を引き返してアルミのお鉢に5ルピーを入れてきた。母親も死の寸前か、何の反応もしなかった。多分今頃は母子ともにこの世には居ないことだろう。 それにつけても一体インドと言う国は、片一方で核実験をしているくせに、自国の民の飢えの問題を放置している。核実験に使う金があったら社会の底辺にいる人たちの救済にもっと手をかしたらどうだ。僕は完全に怒っていた。
乞食について思うこと
インド人にもらえ、何故日本人にまとわりつくのか。きっとお前達は日本人は割に簡単にお恵みをするから、つまり簡単に金をくれる金持ちだからそこからもらおうとするんだろう。どうしてこんなに乞食が多いのかこの国は。一体何が狂っているのだ。宗教か、政治か、教育か、経済か、何に原因があろうとも、国民を飢えからすくことが政府の第一の仕事である。 老人、身体障害者、子供連れの若い母親、一人で生きるのも大変ななのに年若くして子供を生み育てられないから乞食に身を落とす。なんたる知恵のなさだ。子供を生ませた男よ。責任をとれ養うこともできないような状況で子供を作り母子を乞食にするような男は男の名に値しない。自分の無責任ぶりをはっきり自覚せよ。 暑さと言葉の違いから来るストレスから僕はインドに行くと何がなくても気がいらだつ。共生の精神を忘れたり放棄したりしているわけでは決してない。ところが次の考え方だけはどうしても容認出来ない。 デリーでの話である。僕に物乞いをした乞食は言った。「お前は俺に金を布施することによって善行を積んだことになる。俺はお前に徳を積ませてやるのだ。礼は言わなくて良いがルピーをくれるのはそんな意味があるのだ。すなはち布施をさせて善行を積ませてやっているのだからルピーをくれるのは当たり前だと言うのだ。これを聞いたときこの国には救いようがない民がいると思った。 政府の仕事はミサイルや核実験どころでは無いはず。カルカッタに着くや否や、僕はそう思った。それより先にすることがある。まず国民を、特に底辺でうごめいている人たちをどうするのか、それが根本問題じゃないか。切って捨てるというなら世界から非難を浴びよう。それだけではなく、インドが国連の場でどんなに良い事を言ってみてもまともには取り上げてもらえないだろう。 コメント(2) 自分が生まれてこの方、物乞いしている日本の乞食を見たことが無い。国情の違いとは言え、毎日の食べ物に事欠く程つらいものは無いと思われます。乞食も、乞食になりたくて生まれてきた訳では無いだろうに、運命とは言え辛く悲しいものを感じます。これも現実にあってる世界、かたや、冬ソナおばさんも現実の世界、何か考えさせられますね。 経済的な発展途上国ではこんな有様ですが、生まれてくれば人は平等に生きる権利が保障されなければなりません。それは国の最低限の機能であり責務であると思います。それにしても女に子供生ませて母子共に捨てる男って最低です。乞食の姿の奥にあるものを眺めるとき泣けてきます