日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

素晴らしいの一言につきる

2011年07月18日 | Weblog
素晴らしいの一言につきる

終盤、もう駄目かと思ったとき、沢主将がヘッデイングと見えたが実は足だった。見事に同点に持ち込んだ。その後はゴールキパーの素晴らしい活躍でアメリカに点を与えず、熊谷 紗希、弱冠20才の彼女がゴールを決めて勝敗が決まった。瞬間は感動で涙を流した。
言葉にはならない。涙だけが全てを物語る。

沢主将は夢は見るものではなくて、実現するものだと言った。
僕にとってコノフレーズはどれほど力強いものであったか。
ともすれば挫けそうになる僕に大きいカツを入れてくれた。目の前で夢を実現して見せてくれた。これほど確かな物はない。
それも個人戦じゃなくて集団戦で。

彼女たちの世界一は震災以降に暗雲が立ちこめていた日本に大きなインパクトを与えた。特に東北で頑張っている被災者にとっては力強い メッセージとなって
活力と同時に希望を与えてくれた。

努力する日本人の姿は美しい。それを見逃さずにヤーパンからニッポンに変わって観客のドイツ人も応援したという。

ダイブ古くなるが、WBCの時9回裏2アウトで誰もが韓国に負けると思ったときにイチローが出て逆転して、世界一に輝いた。その時の感激がよみがえったような気がした。これは尋常のことではない。一郎は第一の発声で「今日は神様がおりてきた」と言ったが、その謙虚な態度に非常に感動した。

なでしこジャパンは明日成田に凱旋するそうな。
沢さんはどんな言葉で今回の快挙を語ってくっるだろうか。楽しみだ。。

原発のコスト

2011年07月17日 | Weblog
原発のコスト

自然エネルギーは原発より高いとされている。が、僕には本当のところが判らない。
電力会社の計算には 経常コストの中に核燃料後処理費用は含まれているのだろうか。この辺の所を曖昧にしてスタートしているので、おそらく別計算になると思う。また事故費用の見積もりなんて、実際に起こってみないと判らないことだけど、ある程度までは折り込み済みなのであろうか。

1,この度の福島事故の損害や補償費用をコストに加えると、いくらになるのだろうか。
2,廃炉にかかるまでのコストはいくらなのであろうか。
3,六ヶ所村の再処理費用は経常コストに含まれているのだろうか。

序でながら
神奈川県知事が提唱する、ソーラーローンシステムを全国展開して卒原発を実現できないものであろうか。
新規に何かをやる場合には必ず反対意見が出るものだ。それはそれでよいが、反対の時は必ず具体的提案が伴わなければ、だだっ子の愚痴になっていまう。

アンコールワットのデバターは誰かさんそのもの

2011年07月16日 | Weblog



アンコールワットのデバターは、背丈が1メーターくらいの女神像である。   右写真
実在の女官がモデルだったらしい。女は彫像として残った。男は彫像としては何ものこらなかった。彫刻師である職人たちはたくましく生きて、あっさり去っていった。回廊や楼門の壁などに、残されたのはおびただしい数のデバター像である。

ガイドブックにはプノンバケンと書いてあるが現地の人はプノンバカイという。ぼくにはそう聞こえた。
アンコールワットの前の道をバイタクで五分も走れば道の左側に小高い丘が現れる。
それがこの地方の3聖山の 1つ、プノンバカイなのである。
夕日がきれいだという評判で、大勢の人がこの丘に上って、遥かかなたに沈む夕日の美しさを見ようと待ち構えているのだ。
ところがこの日は、あいにく、雲がかかり美しいはずのサンセットはついに、見えず仕舞だった。丘の上は宮殿か寺院の跡らしく、石造りの遺構が残っていた。

 さあ帰ろう。僕はこれを見納めとばかりに遺構を1周して帰り道に着いた。なんと言っても今日見学した中ではアンコールワットは圧巻であった。女神であるデバターの数が多いこと。数ある中には見るデバターあり触るデバターあり祈るものありで彫刻に詳しくない僕にとっては所詮女にしか見えない。
女なら見るより触る方がいいに決まっている。何とかが顔を出し始める。
女性を見るというのであれば、ます顔である。それからボデー・ラインや色の白さなどに目を向けるだろう。ところが触るとなれば、まず男は(女でもよい)女の体のどこをさわるか。それは多分乳房が焦点になろう。なぜであろうか。乳房すべての命をはぐくむ母性の象徴だからである。

 三体のデバターの合計、六つのオッパイは黒光りしている。誰かが、先鞭を付けその後をみんなで、なぞっているのである。どこの国でも男ならやっぱり触るところは同じか。僕はそう思った。あたりをさっと見渡したが誰もいない。
これを幸いに僕もしっかり触った。

 熱帯の太陽に間接的に、てらされてほの温かい。しかし直射日光でないのでやはり石の冷たさは、残る。ところが不思議なことに彫像であるにもかかわらずこの女神の、乳房が人の肌の、ように温かく感じられる。変だなあと思っていたらデバターの顔が、誰かさんの顔と二重写しになっている。
ええっ? ぼくは驚いて、しっかり気を入れて見つめると間違いなく誰かさんの顔だ。彼女の微笑が、そのまま目の前にある。そして、僕の右手は柔らかい乳房を愛撫している。彼女はじっと、ぼくのなすがままに身をゆだねているし、息遣いが伝わってくる。乳房に、触れた手には脈拍が伝わってくる。確かに、人肌のぬくもりである。僕はしばらく目をつぶって彼女の体の感触を味わった。

 人の声がしたので、はっとして、現実世界から遠のいていた意識を取り戻して目を開けてみると、誰さんはもうそこにはいなかった。 一重の像が二重になりまた一重になった。
じっと見つめていると、誰かさんの体は飛天のようにデバターから離れていった。そしてそこに残ったのは紛れもなくアンコールワットの数あるデバターの姿だけだった。でも、触れている乳房は、生温かい。 
おお! これは、これは。
僕はやっと正気に戻った。アンコールワットのデバターは誰かさんそのものだったのである。





光市母子殺人事件 橋本氏無罪

2011年07月15日 | Weblog
光市母子殺人事件 橋本氏無罪

母子殺人を犯した少年は死刑になって当然だと思う。命乞いをする母親と幼い子供を殺した上に強姦したという、天人共に許すことが出来ない事件だ。普通の世間常識を持っている人なら、怒りに震えたことだろう。
何よりも許せなかったのは弁護の仕方である。
重大事件を起こした犯人を、ドラエモンを小道具にして弁護に利用したことが、
人々の怒りに火を付けた。殺人という重大事件に対して、もっとまじめな筋道を立てて弁護するのが常識というものだ。ドラエモンを登場させて犯人を弁護すること自体が目に余る弁護活動だ。被害者の夫は誠に理路整然と人間としての尊厳を保ちながら、この裁判に臨んでいた。彼によってどれほど命の尊さに気づかせて貰ったことか。それだけに被害者の人権侵害にも当たるようなふざけた、納得のいかない弁護態度は橋下弁護士の懲戒請求の話を聞くまでは、もって行きようのない怒りを、内心でどう処理して良いのか、いらいらは募るばかりであった。 それは僕ひとりの思いではなかった。大勢の人が弁護団に対して懲戒請求したのである。あのような説得力のない常識外れのばかげたストーリーを誰がまともに受け入れようか。こんな程度の弁護士が弁護士として成り立つこと自体がおかしい。このようなふざけた人物からは弁護士資格を取り上げるべきだ。弁護士会。しっかりせよ。
K大学の心理学者と共に作り上げた話らしいが、僕はこの学者は人間のくずだと思っている。この程度の輩が大学教授?ええっ?ばかこくんじゃねえよ。
彼を雇っている大学は気の毒に思えたし、このレベルの倫理観しかない人間がどうして、教壇に立てるのか不思議でならない。教師である前に常識あるまっとうな人間でないと、人間教育など出来るわけがない。

それにつけても思うことがある。マスコミのバカは自分が偉いと勘違いしている。己の程度もわきまえずに。なんて高慢ちきな輩の集団か。ややもすればマスコミに引きずられそうになる大衆ばかりではないのだぞ。常に斜めに構えて批判的な態度をとっている人間が大勢いることを知っておくべきだ。
天人共に許さないあの悪魔のような人間に裁判で死刑が決まってスットした気分になった。母子を殺された夫たる旦那さんは、もしこれが罪にならない場合は自分の手によって犯人を殺すと断言していたが、それが無法であるとしても、僕は断固彼を支持する。
正義が橋下弁護士側にあった事は喜ぶべき事柄ではない。常識の世界から見ると当然のことに過ぎないのだから。

脱原発独走に困惑について

2011年07月14日 | Weblog
脱原発独走に困惑について

政界 民主党
1,時間軸が曖昧
2,具体性がなくやめる人が言っても説得力がない
3,党内議論がない
4,社民党 英断だ 。自民党だったら言えないことだ

1,2,3の理由でを示せない民主党とは己達のおかれている立場が判っているのかと反論したい。どの理由も取るに足りない反対意見である。それよりも
総理の示した案をよりサポートするように何故努力しないのか。
管総理が駄目なのじゃなくて、こんな程度の事しか言えない民主党員はお粗末そのものだ。だから駄目党の烙印を押されるのだ。少しも前向きでないレベルの低さ。今何が求められているのか判って発言しているのか。
福島党首の行っていることの方がよほど前向きだ。


産業界  不満と困惑
1,経済成長に原発は欠かせない
2,どのように電力を確保するのか
3,脱原発で製造業は日本にいられなくなる
4,エネルギー政策は国の根幹に関わる問題。方向を誤れば禍根を残す

産業界が経済的な観点からものを言うのは判るが、その発想には国民の安全という視点が欠落している。現段階の福島事故の状況からして日本にとって何が重要か判っているのか。原子力利用は国民の安全が保証されることが担保されて始めて言えることだ。その保証がないままの原子力は魔物以外の何者でもない。
原子力は安価だという先入観でものを言っていると思うが、事故処理経費、や燃料の後処理費用を原価に盛込まれたコスト計算がなされているのか。
さらに国民の不安を考えるとき、原子力は相当高額なコストになるはずだ。
原子力は低コストだなんて神話に過ぎない。嘘だと思うなら、現状のコストに福島の事故処理経費や使用済み燃料の処理費加えて再計算すると、ものすごく高価なものになるはずだ。
今まで作られた神話のコストは信じるべきでないし、一日も早く安価な代替エネルギーの開発に着手すべきじゃないのか。それが経済界にとっても最も重要な筈だ。余りにも近視眼過ぎる。

自治体 福井県西川知事
1,政府の統一見解かどうか不明
2,原発は将来的にも重要

原発最多県の知事にしては、発言が軽い。福井県はそれで良いのかも知れないが、万一事故が起こったら少なくとも近畿圏は全滅することを考えると、原発が重要だなんて発言は出来ないはずだ。日本国民の80%近くの人が原発をなくそうとしているときに、民意に反したこういう意見は空気を読めていない、独断的な発言だ。福井原発は近畿地方とリンクしていることを決して忘れてはならない。
事故が起こらないという保証があれば、原発の利用も可能であるが、原子力は究極において現在の人間力では制御できない事実を謙虚に受け止めて貰いたい。原子力の怖さが判っていないのじゃないか。

卒原発

2011年07月13日 | Weblog
卒原発

滋賀県の嘉田知事提案の卒原発は現状に即して現実的なものだと思うので賛成する。
脱原発というと原発を明日からでも、やめるような印象受けるが、卒原発の卒は卒業してと言う響きがあるから現実的な印象を受ける。
今回の福島事故を見ていると、人間が制御仕切れていない原子力を、このまま使うのは安全上の問題から、これを他のエネルギーに転換していくことは重要なことである。

本来なら一刻も早く止めることが望ましいが、これに変わるエネルギー源が見あたらない以上、即座に止めてしまうと電力不足で経済が立ちゆかなくなるような気がするので、10年くらいの間にエネルギ政策を転換して再生可能エネルギーの利用実現に向かって方向転換していくことが大切だ。

原発がある限り、事故の危険性は伴うわけだから一刻も早く、原子力発電から遠ざかることが望ましい。福井県の知事は卒原発に県の経済事情を絡ませて異論を唱えたが、国民の安全という観点からすると、経済など小さい問題である。大体原発に頼りに金を得ようとする考えは、もう通用しない。九電の説明会でも命か金かと言う切り口で命の優先が最重要だと認識されたわけだから、地域の経済事情で原発の存廃を考えて、決めるのは、許されない。

嘉田知事の言うように卒は卒業という意味だから、即座にと言うイメージは全くない。卒業には時間がかかるのである。ただその時間内に天災人災を含めて再び福島のような事故が起こらないことを祈るのみである。

NHK討論原子力について

2011年07月12日 | Weblog
NHK討論原子力について

9日夜9時から10時過ぎまで行われた、討論会の感想を書いてみる。
現時点では詰まるところ、原子力のコントロールが人間の力で出来るか否かと言うことにつきるだろう。
安全基準が11日に示されるそうだ。これが国の安全基準だろうが、これだけ不安が広がったら、国の言うように安全基準が示されても、国民の多くは安心はしないだろう。
この基準を示した後は地方自治体で決めてほしいと海江田氏は逃げをうった。(と僕は見ている)

原子力利用賛成派は将来的には制御できるという 。反対派は制御不可能だという。現段階でどちらが現実的か。答えは明白である。

制御可能ならば、未だに福島の事故が終息しないのは何故か。少なくとも現段階では制御不可能なのだろう。僕は以前この状態を、人間の力で制御できない猛獣が福島で暴れまくっているとかいた。今もそうだと思っている。

後30年もすれば制御できる力を人間は持つかも知れないが、現段階ではその力はない。それも30年経てば確実に制御できるという事が実現する、現実になるという保証は何もない。

今ではやはり反対派の言うことが現実的だと思う。つまりどこまで行っても安全に対して不安が残るのである。

70分余りの時間だったが、我を忘れてこの番組の参加者になった。吉永さんのまとめ方が僕には一番ぴったり来た。彼女の意見や見方が現段階の僕の判断である。

テポドンでも大丈夫

2011年07月11日 | Weblog
テポドンでも大丈夫

関西電力株主総会で想定外(僕は想定外とは思わない。そこまで用心して原発の稼動を考えなくてはならないと思っているが)の質問が飛び出した。
「北朝鮮が原発にテポドンを発射したらどうなるか」
副社長は原子炉に着弾しても堅固な格納容器を持っています」と答弁した。
その答弁に対して下記のような書き込みがあった。

原子炉は堅牢な格納容器を持っている」「テポドンでも大丈夫」と答えたのは、関電の豊松秀己常務取締役・・・この程度の知識・認識で原発運営企業の役員か??電源と配管が吹っ飛んでどうやって冷却するの??燃料プールが崩壊したらどうなるの??安全なら関電本社は原発併設しろ!!!
僕はこの発言は国民感情を言い表していると思った。指摘とおりだ。

次に九電のメール問題に対して
「九電の中村明・上席執行役員談:どうこうしろと言った事実はございません」・・・即刻辞任すべきだろう。どんな根拠があってこんな発言をしたのか、事実があったということは嘘つき・国民をだまそうとした・・・それ以外に何があるのか。
という書き込みがあった。

両方とも国民を安心させようとしてついた、うそとごまかしだが、これが現在の電力会社の共通体質だと思う。隠蔽体質、ごまかし、うそ、彼らが今まで国民を欺いてきた常套手段である。これらを駆使して国民に原発は安全だと思わせた。ところがふたを開けてみるとそれは御伽噺で現実の安全とは程遠いものであったことが、今回の福島事故で証明された。それにもかかわらず、責任者が見え透いたうそをつく。余程程度が悪い話じゃないか。
こんな答弁誰が信用すると思うのか。
狼少年と同じでうそばかりついてるから、国民の想いとはどんどんずれていく。ということはますます信用がなくなる。すなわち自分で自分の首を絞めているのである。もうここらで目を覚ましたらどうだ。
ついでにいっておこう
北朝鮮という国の行動はわれわれの常識では測りきれないものがある。だから不気味なのだ。最悪は「ミサイルの飛来」も想定しておかなければと僕は思う。いったん事が起きれば、この御伽噺のような話題も現実味を帯びるだろう。
そこまで想定はしてなかったではすまないのである。直撃を受けたら日本は消滅しかねない。僕はこれを真剣に考えたことがある。
できるのかできないのかはしらないが、原発周辺に強力で高度な電波で覆い、直撃しようとするミサイルを2,300m着弾地点をずらすということで危機回避はできないものであろうか・そういう研究はされているのだろうか。秘密にされているのかどうか知らないが、対策はここまで考えておく必要があると思う。

再開条件の検討が始まった

2011年07月09日 | Weblog
再開条件の検討が始まった

のど元過ぎれば熱さ忘れる。それはないでしょう。今回の福島事故に関しては自民公明両党は許認可の責任があるはずです。それを踏まえて発言しているのか。もしそうだったら、責任を負うためにも与党以上の前向き提案があってしかるべきだ。だのに現実は政局に持ち込み、総理の首を取ることばかりに専念して被災者は置き去りにされているように思えてならない。目下の急務は被災者救済だ。そのための法案を通して復興に向けて動き出すことだ。

原発再開についてはごたごたがあったが、官房長官と原子力両大臣を加えて安全基準の見直し(僕は元々基準なんてないと思っていたから、見直しじゃなくて策定だと思っている) を早急にして再開条件を整えるのは賛成だ。
保安院、安全委員会は実に頼りないと思わないでもないが、これに頼る他はない現状だ。次は想定外と言うことは絶対に許されない事を強く要望しておく。

それにつけても思うのは、電力会社の体質だ。九電の今回のやり方は国民をバカにしている。こういう感覚でいるから、事故を起こすのだ。手前らだけの利益にきゅうきゅうとして、どこに今回の大事故に対する反省や責任感があるのかと言いたい。
九電は自ら墓穴を掘った。隠蔽体質を証明して見せた。嘘とごまかしである。
社長が責任を取って辞めるという。やめるのは自由だけど、それで国民に対して責任を取ったなどとは毛頭思えない。九電のみならず電力会社は全てこの体質を
もっていると思うのが、至当だろう。
最初に提案したように体質を変えるには解体そして新体制しかない。改善などと言っている内は一向に改まらないだろう。そのことを九電は今回のメール事件で露呈した。俺はもう騙されないぞ。

原発再開の新基準

2011年07月08日 | Weblog
原発再開の新基準

僕は海江田氏の原子炉再稼働には、安全に対してどのような哲学が込められているのか、報道を通じて考えてきた。彼の安全宣言は「安全神話」の延長線上にある安全としてしか考えられなかった。担当大臣であれば福島の事故を見てもっと具体的に新基準を作るべきだった。総理が指摘するまでもなく、今回の大事故を再び発生させないために、もっとシビアな条件を付けても当然だったと思っている。経済界のどんな圧力を受けたのか知らないが、再開の基準や根拠も曖昧のままに、再開要請したしたところに問題がある。それは以前僕が指摘したとおりである。

今回のストレステスト問題は確かに出し方の後先に問題がある。順序が逆だ。
佐賀県知事が「何故今なのか」という疑問を呈するのは尤もだが、順序の後先よりも、ベストの基準の下で再開することの方が優先されるべきじゃないのか。
国民に中味を知らされていない(その分納得がいかない)安全基準でOKを出す方が間違っている。最低限度安全委員会が基準を作りそれを国民が納得して再開OKとすべきじゃないのか。

そう言うプロセスを踏んで国民に安心感を与え再開するのが筋道だ。 国民のためを思うならば、その任に当たる大臣として、現状で考えられる最高の新基準を作ってから大臣を辞めてこそ、歴史の評価に耐えるのだ。メンツの問題がやめるきっかけになるのかどうか知らないが、総理の指摘したことは、本来は担当大臣として自分が言い出さなければならないことだった、と不明ををわびて貰いたいくらいだ。順序は別にして、今回の再開新基準は多分多くの国民が求めていたことだと思う。安全基準の中味を国民に明示することなく再開というのはどう考えてもおかしい。

今回の再開については佐賀県知事の判断に委ねられる部分が大きかったが彼が総理の真意を聞きたいと言った事は評価する。
しかし今回の福島事故を見て、立地町と県とで決められる問題だと考えればそれは大きな間違いである。そのことは放射能汚染の広がりを見れば一目瞭然だ。隣接する県や周辺市町村が一様に慎重論つまり現状での再開は反対だと言っているのだ。住民の不安を考えれば当然のことだ。

再開を了承した玄海町の町長の判断は僕はおかしいと論じた。言っちゃ悪いけど、1町長の安全確認で安全が保証されるような問題か。まだ新基準も示されていないのに。はしごを外されたというのは、本来の安全概念に立ち返って考えるとき、これは本人にはお気の毒だが当然のことだと思う。今はメンツにこだわるべきではなく、どうして速く安全基準を決め、実行するかと言うことが最優先すべき事だと僕は考える。福島の本日の現状を見ているとつくづくそう思う。

僕は現状を見る限り、日本には安全基準なるものが、未だに存在しないと思っている。
だから外国がストレステストをやれば、思いついたように、問題提起する。
福島事故を検証してみれば、そこには貴重な教訓があるはずだし、どこが悪くてどこが良かったのか、丁寧に検証すれば、そこには現実に即した暫定基準が生まれそうに思う。とりあえずそれを再開基準の最低条件として、さらに安全基準をグレードアップして、福島事故が再度起こらないようにすることが何よりも大切な事だ。天災であれ、人災であれ、同じような事故を再度起こしたら、今の日本は吹っ飛んでしまうだろう。確実に世界の小国になってしまうだろう。誰も助けてはくれない。自戒を含めて、日本は日本人が守らなければ。もっと真剣にしっかり考えなくては駄目だ。

バブル崩壊のこの20年、

2011年07月07日 | Weblog
バブル崩壊のこの20年、


日本はずっと停滞したままだ。経済も社会の空気も何とかして変えないとこの沈滞ムードを吹き払うことは出来ない。

現状維持からは何も生まれない。ますます負のスパイラルという地獄へひき込まれてしまうだけだ 。だれかが何とかしなくちゃ。

政治家を見渡しても経済界のリーダーをみまわしても、頼もしい人物は見つからない。日本国民はハイレベルの集団だと思うが、発展を望むならば、行動を起こして何かを変えていかなければ、現状打破にはならない。

強いて言えば大阪府知事の大阪都構想かも知れない。小物は色々引かれ者の小唄を唄っているが、対抗するような腹案があるわけでないし、話にならない。

20年間も沈滞すれば国民の間にもかなりストレス もたまっていようが、高齢化時代にはそれを打破しようとする、意欲も力もないのが現状である。

1000兆円の借金を抱え込んで、子や孫につけを払わせるような、大変な失敗をした結果が、今目の前にある。高齢者の自己資産総計が1400兆円あるという資産があるが、じゃここ30年の間に彼らが死ぬならばその金が国家に戻り、健全財政にもどれるかというと、その保証は何もない。

いったいどうするつもりなんだろう。借金は必ず払わなくてならない時期が来る。そんなことを考えると暗然とした気分になる。
今になれば自民党のバカな政治家共に運命を託したのが、間違いの元だった。日本国民のために政治をするという人間はいないのか。そう言う人物が現れるのはまだ先だというのか。

近頃つくづくこんな心配をして、じゅくちたる思いをしている。

気になること

2011年07月06日 | Weblog
気になること

玄海原発の再開に町長が賛成した。彼は九電からの説明を聞いて、その安全性を自分の目で確かめたという。この町長が言うことは、レベルが低すぎて話にならないと思っている。国においてすらまだ安全基準が定まっていないのに、
己の目で確かめたからとは、いったいどういう意味なのか理解が出来ない。どこが安全なのか。電力会社の言うことを信じて、お先棒を担いでいるだけじゃないか。
こんな感覚で住民を守るとは。無知も甚だしい。無責任そのものである。

原発関連で生活をしている人達にとっては死活問題で、再開を期待することは十分理解できるが、がしかし、僕には原発の安全性が確保されたとは思えない。
福島ではまだ低温冷却さえ完全に確立したわけではない。
今回の事故の検証もされていないし、安全宣言もされていない。

海江田は何を根拠に再開要請したのだろうか。こんないい加減な人物に原子力を任せておいて良いのが。不安になる。
鍵を握るのは佐賀県の知事であるが、首相との会談の結果で決めるとのこと。その首相は面会に難色を示しているという。

事故予防対策が完成するのは、2,3年先だと言われている。やはり再開はそれまで待った方が良くはないだろうか。
今回で判った事だが、いったん事故が起こると、どれほどの損害が出るのか。
それは早期再開で得られる利益とは比べものにならない。

電力会社も完全な安全策を施さないうちに再開し、運悪く事故が起こったら会社ごと吹っ飛ぶ事を自覚すべきである。事故の時は国家が何とかしてくれると甘い幻想を抱くべきではない。再開の前に金をかけてでも、火力水力など原子力以外の発電設備について総点検して、余力を生み出すことを考えたがよい。
周辺自治体が慎重論を唱えるのは当然のことである。今回の事故の広がりからして周辺自治体の同意がなくて、玄海町と知事だけで再開の判断をするというシステムがおかしい。

松本復興大臣の不適切発言について

2011年07月05日 | Weblog
松本復興大臣の不適切発言について

お前はいったい何様のつもりでいるのだ。

家を失った被災者の気持ちも知らないで」「大臣とは、そんなに偉いのか」。
宮城、岩手両県知事に対する松本龍復興担当相の態度や発言を巡り、両県内では4日、一斉に反発する声が上がった。

両県庁にも苦情電話やメールが殺到し、松本氏は復興担当相就任後初の両県訪問で、いきなり被災者の感情を逆なでした形だ。
宮城県庁には同日午後5時までに「宮城県とともに抗議すべきだ」といった電話など18件が寄せられたという。

誰が聞いても救いようのない発言だ。東北の都市もよく知らないなんて、自分の不勉強をさらけ出して、恥ずかしいとも思わないのか。言って良いことと悪いことの判別がついていない馬鹿者だ。こんな輩を復興医大臣に選んだ管も管だ。
これで被災者との間に大きな溝を作ったのだから、信頼関係は大きく崩れた。
県国共同作業はスムーズには行くまい。とすれば即刻彼を首にして復興相を入れ替えて立て直さないと。

最後の発言「コフレコで。書いたらその社は終わりですからね。」本人は脅しを懸けているつもりだろうが、この辺に彼の愚かさがでている。
マスコミにむかって書いたら終わりだなんて発言は、書いてくれと言わんばかりのことを言っているのに気がついていない。だからこいつはバカだというのだ。
。こういう輩が国家のリーダーになっているところに、無理がある。やはり民主党では駄目だという印象を強くした。

ただ松本氏が「弟みたいなもの」という宮古市の山本正徳市長は会見で「頑張れ、頑張れということだろう。あまり言葉にとらわれずに(受け止めたほうがいい)。気にしていない」と理解を示した。

身びいきもいい加減にしろ。あの発言を聞いてきみのようなうけとめをする被災者がどこにいる。政治は民意に基づかないと、事を前に進めることは出来ないことをよく認識しておけ。

愚痴

2011年07月03日 | Weblog
愚痴

思うようにならない人生。夢も希望も見いだせない人生。
死んだ方がましじゃないかと時々思う 。

死んだ方がましだというのは、死の世界にはいった方がと言う意味だったら、
死後の世界を知っていなくてはならぬ。

死後の世界がどんなにか平安に満ち、少なくとも現世よりも安楽が保証されるのなら良い。

しかし死後の世界は、生きている限り味わうことが出来ないから、中味は判らない。
極楽が待ち受けているのか。地獄が大きな口を開いて待ち受け、地獄の火が燃えさかっているのか判らない。両方あるとすれば、そのどちらに自分が行くのか判らない。

そんな訳の分からんことを口にすること自体がおかしい話だが、人は苦しくなると、頭の中に「死んだ方がまし」と言うフレーズ思い浮かべる。
そうおもうのは自由であるが、本来、軽々しく死んだ方がましだなんていうセリフは言わない方が良い。

再度赤ちゃんポストに思う

2011年07月02日 | Weblog
再度赤ちゃんポストに思う

赤ちゃんポストは本来なら消される命を救おうと、熊本にある慈恵病院が1998年から始めた乳児遺棄事件を防ぐために設けた施設である。
当事この命の扱いについては賛否両論があって、当時の総理大臣をしていた
阿倍氏はこの設置に反対した。こういう施設を設けると遺棄事件が続発するという意見だったように思う。

このとき僕は一国の総理の生命に対する畏敬の念の薄さや無知に驚いた。要するに彼は生命というものに目を向けないで、遺棄事件に目を奪われていたのだろう。
何と哲学のない人間がこの国をリードしていく事よと腹が立った。生命の誕生にはそれぞれ事情がある。
日本人の生命の誕生は年間120万~30万人くらいらしいが、そのうち陽の目を見るのは100万そこそこで、後は闇に葬られる事を何かの書物で読んだ記憶があるので、一つの命も社会の責任において育て育まなくてなはらないと強く感ていた

僕みたいな一介の庶民でも、生命の畏敬の念を何としても守らなくてはならないと考えていたので、赤ちゃんポストが設立されたことに対しては、ほっと安心したものだ。
だからその後の赤ちゃんポストで、どういう事が起こるのか関心を持ってきたが、阿倍氏が言っていたような悪弊は生まれなかった。実績という点からは、彼に見通しは完全に間違いを犯したのだ。
数ははっきり把握してないが、一旦はポストに捨てたものの育てられる環境になったのだろう、両親が子供を引き取りに来たケースもあるらしい。もしこのポストがなかったらこの世に存在しない命である。その数が例え少なくとも、この世に命が誕生して育っている事実を見るとき、僕は人間としてこれを喜ぶ。
子供の誕生には全てが受け入れ体制が出来ているとは限らない。命の誕生には諸々の事情というものがある。

人々はいろいろな事情を抱えているから、その当時は育てられないと言うこともあろう。がしかしこのような施設があるおかげでまた、心ある病院関係者の努力と相まって命は育っているのである。これこそ命の共生を地でいっているのである。そしてそれは生命の畏敬の具現化、実現化である。子供の命は大人が守るのが基本である。そしていったん生まれた命は社会的に守られなくてはならない。

今回関西にも赤ちゃんポストを設けようとする運動が兵庫県の女性支援グループが動き出したと昨日の朝日新聞は伝えている。僕は素直に喜んだ。
そしてこれまでの関係者のご努力に感謝したい。この世で命ほど大切なものはないからだ。

そう言う運動や啓発活動、教育などによって、救われて育てられる命は今後もいくつも出てくるだろう。阿倍氏が言ったような赤ちゃんポスト反対論ではなくて、生まれ出てくる命を社会全体で支える体制が急がれる。決してポスト設置による悪弊のみが生まれないことを心から願う。