日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

中央塔から3

2013年07月19日 | Weblog
中央塔から3

ベトナムは完全に中国文化圏であるということを、ベトナムにへ行って確認した。ところがアンコールワットは、ヒンズー教と佛教が混在している。これは2つともインドから、伝わってきたものだ。明らかに、カンボジアには、インド文明の風が吹いている。ベトナムとは大して距離も離れていないのに、大きく違う。

 深くつき合ったわけではない。が、カンボジア人を見ていると、穏やかで親切な人が多い。それにつけても、こんなに良い人たちを2百万人近くも殺害するとは、何を考えていたのか。やったことは鬼畜以上のことだ。そこには狂気はあっても、人間としての正義感とか人類愛とか、国民の安寧に寄与する考えは微塵も感じられない。
 あの程度のレベルの男に社会改造や国家改造なんてとんでもない話だ。この大犯罪人ポルポトをサポートした世界の良識も疑う。
これは八つ当たりではない。大国や国連のエゴや非力さ加減を問うているのである。
 腹立たしいということを通り越して、人間の愚かしさ、バカさ加減にあ然とする。と同時に悪魔的な人間に支配された時の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたし、また人間が持つ残虐性を知って文字通り言葉を喪う。
人間の肉体を持った悪魔に違いない。ぼくはそう断じた。ポルポトの奴、あんな楽な死に方をして。一体これでも神は公平というのか。思わず神に八つ当たりの矛先を向けてしまった。

 アンコール・ワットが作られてから、どれほど多くの人がここを訪れただろうか。
 長年にわたる参詣者の延べ人数など、正確に測るよしもないが、第一回廊の敷居をまたぐ所の石がすり減っているのを見ると、そこから想像して、読み取れる人数の多さに圧倒される。世界各地から、ここを訪れる人たちの足跡によって、或いは幾世紀にも渡って地元の人達が踏みしめた事によって、石段の角がすり減ってなくなっている。さらに石によっては黒光りしているものもある。人々の足跡がこの敷石の角を削り丸くして、角をとったのである。アンコール・ワットは石がすり減るほど、人々をここに引きつけて、呼びこんだ。国内は勿論のこと、外国からも大勢の人を呼びつけたのだ。
その中の1人が僕だ。僕が来たのではない。アンコール・ワットが呼んでくれたのだ。僕がここに今いるという事は勿論自分の意志も働いているが、それ以上にアンコール・ワットの魅力と意志で、僕はここへ呼び寄せられたのだと思う。

アンコール・ワットは、何かを考え、何かを感じるところである。 見学するところではない。何がヒラメクのか。何が聞こえるのか。何が見えるのか。何か思い浮かぶのか。アンコールワットの境内にいてぼくは、心にひらめくものをうまく掴みだそうとして神経を集中した。
アンコールの叫びを、アンコールの主張をキャッチしたい。それはいったい何なのか。宗教を内包する芸術であると同時に、それは純粋に宗教でもある。寺院建築とは宗教と直接関係があるものだ。
 宗教というものは人間の命に直接かかわり合いを持つ。生か死か。それが声なき声として、語られているのである。禅問答みたいに、ワットが出した公案に、僕がどういう答えを出すかだ。
アンコール・ワットを作った人たち、作ろうと計画した人たち。
作業に従事した人達よ。あなたたちの思いの一端を語ってほしい。

 カンボジャにある寺院遺跡の階段は、なべて急峻なものが多い。
アンコール・ワットの階段もその例外ではない。そこでここを訪れる観光客のために、傾斜の緩い階段が別に取り付けられている。
僕はその観光客用でない急な階段を上った。
 どんな場合でも、どんなものでもそうなのだが、僕は物事の原点や原初を理解したいので、後になって手を加えたものを、出来る限り省き、避けて、そしてまず生のままの原点にふれるように心がけている。そして、全体像を把握することにしている。今回もアンコール・ワットの全体像をつかむために最上階まで、昇ったわけだ。鳥瞰図と同時に、そこから聞こえる諸人の声、祈り、希望、喜びや苦しみや、これを作る苦労などの叫び声を聞こうと思ったのである。
 しばらく沈黙の時が流れた。ワットは直接には何も語ってくれなかった。だがしかし、これで終わりと言うことではないだろう。
おそらく終生、心の内にあるアンコール・ワットは、ある日突然に、なにかを語りかけてくれるだろう。いや無言のうちに、なにかを示唆してくれるかもしれない。すくなくとも僕の心にアンコール・ワットが輝いている間は。
 
 中央塔の最上階に、吹く風は爽快感を私に与えながら、右腕を通って、左腕にぬけていく。裸になって身に心に、この風を受けとめて日本に持って帰ることにした。また僕はできるだけアンコール・ワットの古びた石の上に座るようにした。
いや寝そべることにした。
地中から響いてくる声、悠久のかなたから聞こえてくる声を心で受け止めたかったのである。

 空から、やわらかい雨が降ってきた。きっと、甘露の法雨なのだろう。アンコール・ワットにあるものは、何もかにもが優しい。僕はここにじっとたたずみながらアンコール・ワットを満喫した。
誰がそうするのか、なにがそうするのかが、わからないが、胸に迫りくるものがあって時々、言葉をなくしてしまう。何を学べ、何を悟れというのか。僕は頂上階に仰向けに寝ころびながら、こんな事を思い続けた。
  
つづく

中央塔から2

2013年07月18日 | Weblog

中央塔から2

昼寝をするだって?お釈迦様だって座って鎮座ましますのに。己は寝ころぶなんて! 厚かましいことを、ようも考えるものだ。そんなことを考えてる暇があるのなら、壁面のデバターの数でも数えてみてはどうだ。
僕はこういう思いに駆られて降りることにした。

 ここまで登ってきたが、降りる石段は怖い。階段が急すぎる。登ってくるときは後ろを見ないが、降りるときは前向きにならざるを得ない。僕は一つ一つの石段を、丸で何か捜し物でもしているのかと思われるほど、慎重にゆっくり降りた。どうも危ない気がしたので、途中からは後ろ向きになって降りた。人が見てたらお笑いものだろう。だが転落してけがでもしたら、お笑いものどころではなくなる。こんな時こそ、人は慎重でなくてはならないと自分に言い聞かせながら足を運んだ。

時計を見ると3時を過ぎている。
西正門を入って一直線に通ってきて、この中央塔のてっぺん迄のぼって、降りて正門まで戻るまでには4時間かかった。それで何が分かったかというと、心の中に取り込んだワットの姿をのぞいては、中央塔のてっぺんから回りの様子を見渡して、近郊のアウトラインがつかめた程度である。一番記憶に残ったのは、塔の最上階は眺望がとてもよいという印象である。
 360度全開と言うわけにはいかないが、プノン・バケンの石造遺跡もかすかながら、ジャングルの木々の間に見え隠れする。西側から遥か前方で光っているのはきっと西メボンの水面だろう。南側からは僧院が見え、茶黄色の衣まとった僧が一人二人と姿を現して、生活の一端を覗かせていた。中央塔から見ると、石畳の参道を歩く人々の姿は、豆粒のように小さい。それほどまでにこの石造建築物は高さもさることながら、スケールも大きい。西側はまっすぐに延びた石畳がかなり小さく見える。

 これだけ大きいスケールの寺院を作るだけの財力とは。今のカンボジアの国力だけでは、到底このような、大きな建造物は作れそうにもない。
アンコール・ワットを作る、当時のカンボジアの支配権が及ぶというところは、
インドシナ半島の大部分だったことだろう。カンボジャは勿論、タイも、ラオスも、ミャンマー、もベトナムもその一部或いは大部分がアンコール王朝の支配権の及ぶところだったのだろう。
「栄枯盛衰世の習い」と言うが、それはひとり人の一生にとどまらず国家の盛衰にも及ぶものなのだとつくづく思った。
 
 時がたてばどんなに栄えた国でも必ず衰退に向かい、その姿を変えるというのは歴史の物語るところである。
そして今を花よと栄えるところはいいが、単に遺跡だけしか残っていないというのは哀れを誘う。今僕が見ている此の壮大な石造建築物は国際協力で修理や補修を加えて、保存がなされているが、当初完成したときの壮麗さは、いかばかりかと思うと胸の詰まる想いがする。
どのようにイメージを描くのも、それは個人の自由だが、各人が描くイメージはバラエテイに富みすぎはしないか。というのはここがけた外れに大きいからである。どこかで往時の姿の一部を忠実に再現して、後は各人がご自由に、というプレゼンスがほしかった。

暑かった熱帯の真昼の太陽も、夕方近くになると光が弱くなり、その分吹く風は涼しく気持ちがいい。
もうしばらくすると、太陽は沈む。その時アンコール・ワットはどんな姿を見せてくれるのだろうか。そして漆黒の闇に包まれたときのシルエットは。
 いや朝まだき、東の空がぼーっと薄赤く染まるとき、この寺はどんな姿を見せ、どんな雰囲気を辺りに醸し出すのだろうか。
興味はつきなかったが、いかんせん疲れた。これらのことはまた後日と言うことにして、今日はこれまでにしよう。

 僕はあんちゃん(兄ちゃん)が運転するバイクの後ろの座席にまたがって、定宿に向かった。
その日は薄曇りで、太陽は直接ささないが、かなり熱く、すぐ汗ばんでしまう。
境内では牛がゆっくり草をはんでいるし、農夫は草を刈っている。午前11時アンコールワットの1番高い中央塔の上に登った。そこでメモを取る。

確かに建築美という観点から眺めてみると、間違いなく壮大な造形芸術である。
しかしこの建築の中身に盛られたものは何であろうかというと、それは宗教である。ヒンズー教であり、仏教である。

アンコール・ワット寺院がつくられるために使われた、ばく大な石(それは紛れもなく財力なのだが)を見ながら、創建当時の姿に思いをはせた。
 
 僕は今1000年余り昔の石畳の上に立ち、そのぬくもりを感じながら、地面に生えてた、青々とした草を眺めている。
あまりにも風が気持ちいいので、直接肌に風を受けたくなって、シャツを抜いだ。
風のそよぎ、自然の恵みを感じながら、長袖を着ているなんて、もったいないじゃないか。
 アンコール・ワットに吹くさわやかな風を、体中て受け止めないとアンコール・ワットは味わえないとさえ思った。これはアンコール・ワットが僕にくれたプレゼントだ。
 
 



アンコールワット中央塔から1

2013年07月17日 | Weblog
アンコールワット中央塔から1



その日は薄曇りで、太陽は直接ささないが、かなり熱く、すぐ汗ばんでしまう。
境内では牛がゆっくり草をはんでいるし、農夫は草を刈っている。午前11時アンコールワットの1番高い中央塔の上に登った。そこでメモを取る。

確かに建築美という観点から眺めてみると、間違いなく壮大な造形芸術である。
しかしこの建築の中身に盛られたものは何であろうかというと、それは宗教である。ヒンズー教であり、仏教である。

アンコール・ワット寺院がつくられるために使われた、ばく大な石(それは紛れもなく財力なのだが)を見ながら、創建当時の姿に思いをはせた。
 
 僕は今1000年余り昔の石畳の上に立ち、そのぬくもりを感じながら、地面に生えてた、青々とした草を眺めている。
あまりにも風が気持ちいいので、直接肌に風を受けたくなって、シャツを抜いだ。
風のそよぎ、自然の恵みを感じながら、長袖を着ているなんて、もったいないじゃないか。
 アンコール・ワットに吹くさわやかな風を、体中て受け止めないとアンコール・ワットは味わえないとさえ思った。これはアンコール・ワットが僕にくれたプレゼントだ。
 
 ベトナムは完全に中国文化圏であるということを、ベトナムにへ行って確認した。ところがアンコールワットは、ヒンズー教と佛教が混在している。これは2つともインドから、伝わってきたものだ。明らかに、カンボジアには、インド文明の風が吹いている。ベトナムとは大して距離も離れていないのに、大きく違う。

 深くつき合ったわけではない。が、カンボジア人を見ていると、穏やかで親切な人が多い。それにつけても、こんなに良い人たちを2百万人近くも殺害するとは、何を考えていたのか。やったことは鬼畜以上のことだ。そこには狂気はあっても、人間としての正義感とか人類愛とか、国民の安寧に寄与する考えは微塵も感じられない。
 あの程度のレベルの男に社会改造や国家改造なんてとんでもない話だ。この大犯罪人ポルポトをサポートした世界の良識も疑う。
これは八つ当たりではない。大国や国連のエゴや非力さ加減を問うているのである。
 腹立たしいということを通り越して、人間の愚かしさ、バカさ加減にあ然とする。と同時に悪魔的な人間に支配された時の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたし、また人間が持つ残虐性を知って文字通り言葉を喪う。
人間の肉体を持った悪魔に違いない。ぼくはそう断じた。ポルポトの奴、あんな楽な死に方をして。一体これでも神は公平というのか。思わず神に八つ当たりの矛先を向けてしまった。

 アンコール・ワットが作られてから、どれほど多くの人がここを訪れただろうか。
 長年にわたる参詣者の延べ人数など、正確に測るよしもないが、第一回廊の敷居をまたぐ所の石がすり減っているのを見ると、そこから想像して、読み取れる人数の多さに圧倒される。世界各地から、ここを訪れる人たちの足跡によって、或いは幾世紀にも渡って地元の人達が踏みしめた事によって、石段の角がすり減ってなくなっている。さらに石によっては黒光りしているものもある。人々の足跡がこの敷石の角を削り丸くして、角をとったのである。アンコール・ワットは石がすり減るほど、人々をここに引きつけて、呼びこんだ。国内は勿論のこと、外国からも大勢の人を呼びつけたのだ。
その中の1人が僕だ。僕が来たのではない。アンコール・ワットが呼んでくれたのだ。僕がここに今いるという事は勿論自分の意志も働いているが、それ以上にアンコール・ワットの魅力と意志で、僕はここへ呼び寄せられたのだと思う。

アンコール・ワットは、何かを考え、何かを感じるところである。 見学するところではない。何がヒラメクのか。何が聞こえるのか。何が見えるのか。何か思い浮かぶのか。アンコールワットの境内にいてぼくは、心にひらめくものをうまく掴みだそうとして神経を集中した。
アンコールの叫びを、アンコールの主張をキャッチしたい。それはいったい何なのか。宗教を内包する芸術であると同時に、それは純粋に宗教でもある。寺院建築とは宗教と直接関係があるものだ。
 宗教というものは人間の命に直接かかわり合いを持つ。生か死か。それが声なき声として、語られているのである。禅問答みたいに、ワットが出した公案に、僕がどういう答えを出すかだ。
アンコール・ワットを作った人たち、作ろうと計画した人たち。
作業に従事した人達よ。あなたたちの思いの一端を語ってほしい。

 カンボジャにある寺院遺跡の階段は、なべて急峻なものが多い。
アンコール・ワットの階段もその例外ではない。そこでここを訪れる観光客のために、傾斜の緩い階段が別に取り付けられている。
僕はその観光客用でない急な階段を上った。
 どんな場合でも、どんなものでもそうなのだが、僕は物事の原点や原初を理解したいので、後になって手を加えたものを、出来る限り省き、避けて、そしてまず生のままの原点にふれるように心がけている。そして、全体像を把握することにしている。今回もアンコール・ワットの全体像をつかむために最上階まで、昇ったわけだ。鳥瞰図と同時に、そこから聞こえる諸人の声、祈り、希望、喜びや苦しみや、これを作る苦労などの叫び声を聞こうと思ったのである。
 しばらく沈黙の時が流れた。ワットは直接には何も語ってくれなかった。だがしかし、これで終わりと言うことではないだろう。
おそらく終生、心の内にあるアンコール・ワットは、ある日突然に、なにかを語りかけてくれるだろう。いや無言のうちに、なにかを示唆してくれるかもしれない。すくなくとも僕の心にアンコール・ワットが輝いている間は。
 
 中央塔の最上階に、吹く風は爽快感を私に与えながら、右腕を通って、左腕にぬけていく。裸になって身に心に、この風を受けとめて日本に持って帰ることにした。また僕はできるだけアンコール・ワットの古びた石の上に座るようにした。
いや寝そべることにした。
地中から響いてくる声、悠久のかなたから聞こえてくる声を心で受け止めたかったのである。

 空から、やわらかい雨が降ってきた。きっと、甘露の法雨なのだろう。アンコール・ワットにあるものは、何もかにもが優しい。僕はここにじっとたたずみながらアンコール・ワットを満喫した。
誰がそうするのか、なにがそうするのかが、わからないが、胸に迫りくるものがあって時々、言葉をなくしてしまう。何を学べ、何を悟れというのか。僕は頂上階に仰向けに寝ころびながら、こんな事を思い続けた。
  
 最上階にはお釈迦様の仏像がたくさんあった。この中央塔の南側に見える建物は、僧院である。カーキ色の衣をまとった僧が時々出入りするのが見受けられた。着衣の色はタイの僧衣とほぼ同じである。
今僕がいるこのアンコールの1番高いところで昼寝をしてみたらどうだろう。あるいは、書き物をしたらどうだろう。現に職人はむしろ敷いて、昼寝している。そこには、何の屈託もない。ただ眠いから寝ているまでだという、実に単純素朴で素直な答えしかないのだ。

 世界遺産の建築物で昼寝するか。なんと贅沢なことを考えるものだろう。だからこそやってみたいのだが。回廊にむしろを敷いてその上に仰向けになって、天井を見ながら思う存分、空想に耽ったらどんなに楽しいことだろう。そして一方ではここまで来て、考えたことがこれだけだというならば、なんとチャチな子供じみたことだろうか。我ながらその幼稚さにもあきれた。
アンコールワット中央棟から


その日は薄曇りで、太陽は直接ささないが、かなり熱く、すぐ汗ばんでしまう。
境内では牛がゆっくり草をはんでいるし、農夫は草を刈っている。午前11時アンコールワットの1番高い中央塔の上に登った。そこでメモを取る。

確かに建築美という観点から眺めてみると、間違いなく壮大な造形芸術である。
しかしこの建築の中身に盛られたものは何であろうかというと、それは宗教である。ヒンズー教であり、仏教である。

アンコール・ワット寺院がつくられるために使われた、ばく大な石(それは紛れもなく財力なのだが)を見ながら、創建当時の姿に思いをはせた。
 
 僕は今1000年余り昔の石畳の上に立ち、そのぬくもりを感じながら、地面に生えてた、青々とした草を眺めている。
あまりにも風が気持ちいいので、直接肌に風を受けたくなって、シャツを抜いだ。
風のそよぎ、自然の恵みを感じながら、長袖を着ているなんて、もったいないじゃないか。
 アンコール・ワットに吹くさわやかな風を、体中て受け止めないとアンコール・ワットは味わえないとさえ思った。これはアンコール・ワットが僕にくれたプレゼントだ。
 
 ベトナムは完全に中国文化圏であるということを、ベトナムにへ行って確認した。ところがアンコールワットは、ヒンズー教と佛教が混在している。これは2つともインドから、伝わってきたものだ。明らかに、カンボジアには、インド文明の風が吹いている。ベトナムとは大して距離も離れていないのに、大きく違う。

 深くつき合ったわけではない。が、カンボジア人を見ていると、穏やかで親切な人が多い。それにつけても、こんなに良い人たちを2百万人近くも殺害するとは、何を考えていたのか。やったことは鬼畜以上のことだ。そこには狂気はあっても、人間としての正義感とか人類愛とか、国民の安寧に寄与する考えは微塵も感じられない。
 あの程度のレベルの男に社会改造や国家改造なんてとんでもない話だ。この大犯罪人ポルポトをサポートした世界の良識も疑う。
これは八つ当たりではない。大国や国連のエゴや非力さ加減を問うているのである。
 腹立たしいということを通り越して、人間の愚かしさ、バカさ加減にあ然とする。と同時に悪魔的な人間に支配された時の恐ろしさを、まざまざと見せつけられたし、また人間が持つ残虐性を知って文字通り言葉を喪う。
人間の肉体を持った悪魔に違いない。ぼくはそう断じた。ポルポトの奴、あんな楽な死に方をして。一体これでも神は公平というのか。思わず神に八つ当たりの矛先を向けてしまった。

 アンコール・ワットが作られてから、どれほど多くの人がここを訪れただろうか。
 長年にわたる参詣者の延べ人数など、正確に測るよしもないが、第一回廊の敷居をまたぐ所の石がすり減っているのを見ると、そこから想像して、読み取れる人数の多さに圧倒される。世界各地から、ここを訪れる人たちの足跡によって、或いは幾世紀にも渡って地元の人達が踏みしめた事によって、石段の角がすり減ってなくなっている。さらに石によっては黒光りしているものもある。人々の足跡がこの敷石の角を削り丸くして、角をとったのである。アンコール・ワットは石がすり減るほど、人々をここに引きつけて、呼びこんだ。国内は勿論のこと、外国からも大勢の人を呼びつけたのだ。
その中の1人が僕だ。僕が来たのではない。アンコール・ワットが呼んでくれたのだ。僕がここに今いるという事は勿論自分の意志も働いているが、それ以上にアンコール・ワットの魅力と意志で、僕はここへ呼び寄せられたのだと思う。

アンコール・ワットは、何かを考え、何かを感じるところである。 見学するところではない。何がヒラメクのか。何が聞こえるのか。何が見えるのか。何か思い浮かぶのか。アンコールワットの境内にいてぼくは、心にひらめくものをうまく掴みだそうとして神経を集中した。
アンコールの叫びを、アンコールの主張をキャッチしたい。それはいったい何なのか。宗教を内包する芸術であると同時に、それは純粋に宗教でもある。寺院建築とは宗教と直接関係があるものだ。
 宗教というものは人間の命に直接かかわり合いを持つ。生か死か。それが声なき声として、語られているのである。禅問答みたいに、ワットが出した公案に、僕がどういう答えを出すかだ。
アンコール・ワットを作った人たち、作ろうと計画した人たち。
作業に従事した人達よ。あなたたちの思いの一端を語ってほしい。

 カンボジャにある寺院遺跡の階段は、なべて急峻なものが多い。
アンコール・ワットの階段もその例外ではない。そこでここを訪れる観光客のために、傾斜の緩い階段が別に取り付けられている。
僕はその観光客用でない急な階段を上った。
 どんな場合でも、どんなものでもそうなのだが、僕は物事の原点や原初を理解したいので、後になって手を加えたものを、出来る限り省き、避けて、そしてまず生のままの原点にふれるように心がけている。そして、全体像を把握することにしている。今回もアンコール・ワットの全体像をつかむために最上階まで、昇ったわけだ。鳥瞰図と同時に、そこから聞こえる諸人の声、祈り、希望、喜びや苦しみや、これを作る苦労などの叫び声を聞こうと思ったのである。
 しばらく沈黙の時が流れた。ワットは直接には何も語ってくれなかった。だがしかし、これで終わりと言うことではないだろう。
おそらく終生、心の内にあるアンコール・ワットは、ある日突然に、なにかを語りかけてくれるだろう。いや無言のうちに、なにかを示唆してくれるかもしれない。すくなくとも僕の心にアンコール・ワットが輝いている間は。
 
 中央塔の最上階に、吹く風は爽快感を私に与えながら、右腕を通って、左腕にぬけていく。裸になって身に心に、この風を受けとめて日本に持って帰ることにした。また僕はできるだけアンコール・ワットの古びた石の上に座るようにした。
いや寝そべることにした。
地中から響いてくる声、悠久のかなたから聞こえてくる声を心で受け止めたかったのである。

 空から、やわらかい雨が降ってきた。きっと、甘露の法雨なのだろう。アンコール・ワットにあるものは、何もかにもが優しい。僕はここにじっとたたずみながらアンコール・ワットを満喫した。
誰がそうするのか、なにがそうするのかが、わからないが、胸に迫りくるものがあって時々、言葉をなくしてしまう。何を学べ、何を悟れというのか。僕は頂上階に仰向けに寝ころびながら、こんな事を思い続けた。
  
 最上階にはお釈迦様の仏像がたくさんあった。この中央塔の南側に見える建物は、僧院である。カーキ色の衣をまとった僧が時々出入りするのが見受けられた。着衣の色はタイの僧衣とほぼ同じである。
今僕がいるこのアンコールの1番高いところで昼寝をしてみたらどうだろう。あるいは、書き物をしたらどうだろう。現に職人はむしろ敷いて、昼寝している。そこには、何の屈託もない。ただ眠いから寝ているまでだという、実に単純素朴で素直な答えしかないのだ。

 世界遺産の建築物で昼寝するか。なんと贅沢なことを考えるものだろう。だからこそやってみたいのだが。回廊にむしろを敷いてその上に仰向けになって、天井を見ながら思う存分、空想に耽ったらどんなに楽しいことだろう。そして一方ではここまで来て、考えたことがこれだけだというならば、なんとチャチな子供じみたことだろうか。我ながらその幼稚さにもあきれた。

選挙

2013年07月16日 | Weblog

選挙

今度の選挙ばかりは先が読める。自民党完勝間違いなし。民主党はいくつのこれるか。社民共産党が伸びるとは考えにくい。三極のみんなの党、や維新はどこまでのびるやら。自民公明の過半数は目の前だ。
ここで悔やまれるのは維新だ。どうして橋下は言わずもがなのことを強弁したのだろう。彼が自説を強く言えば言うほど、人は去って行く
如何に理論的に正しくとも人間はそれだけでは説得できない。選挙なんて考え抜いて投票しようという人は数少なく、ワッと言うムードにながされて投票するケースもおおい。慰安婦問題は多分女性の感情的反発を招いたことだろう。僕は今回の選挙をそう見てる

421号室

2013年07月15日 | Weblog


421号室

     
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話しで、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。その列車が
8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。
飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。
そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。 、表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。


 
以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。
421号室

カテゴリー
     
話はバンコクの中央駅の西の、ごみごみした所にあるkホテルの421号室のことである。ここのホテルで殺人事件があったらしいという噂が流れたことがある。
 なんでも金を持ち逃げした犯人が見つかって、ここにつれてこられて、リンチを受け死亡したという話しで、それから3ヶ月ほど、此の部屋は開かずの部屋だったとか。

 彼はソウルから乗り込んできて、飛行機の中では、僕のひとつ前の席に座った。
日本人のよしみで、気安く、お互いに話を交わしたが、彼はドンムアン空港に着くなり、そのまま夜行列車に乗って、ノンカイ迄行くそうである。ノンカイからは川を渡ってラオスに入る。その列車が
8時にバンコク空港駅・ドンムアン、出発するのだという。わずか30分ほどしか時間がないのだけれど、トライしてみると張り切っている。
飛行機は7時40分に空港に着いた。大急ぎで、彼と僕は入管のところまで走った。手続きを待っている間に彼は次のような話をした。

 「最近kホテルに泊まったが、噂によると、このホテルで殺人事件があったらしい。なんでも、金を持ち逃げした奴が捕まって、このホテルに連れてこられ、421号室でリンチを受け、殺害されたらしい。
そうとは知らずに彼は、その部屋に泊まった。別段異常も何も感じなかったけれども、あとでそのうわさを聞いて、ぞっとした。
 やはり、値段が安いだけのホテルを探すのは問題がある。小さくとも信頼がおける、なじみの安宿をバンコク市内で探して、決める必要がある。」
と言うような意味のことを彼はいった。これには僕も同感だった。いくらバックパッカーだといっても、何が何でも、安ければいいというものではない。 、表ざたになって事件になるよりは、闇に葬り去られることの方が多いのかもしれない。
 
つまり、そのような、無法で危険な部分も影として、この大都会は、その中に内蔵しているのである。めったに表面上に浮かんでこない事件なのかもしれないが、ひとり旅の僕は気を付けなくてはと心を引き締めた。しかし具体的にはなんの手だてもなかった。

実はその噂のホテルには、僕は何も知らずに、泊まったことがあった。何か異様な感じがして、目が覚めた。部屋は明かりを消しているので真っ暗だが、見れば廊下の蛍光灯の光が真っ暗な部屋に漏れてくるのであるが、ドアの隙間から漏れてくる明かりが波を打つと言うのか揺れているのである。


 
以前僕は窓もない囚人部屋のような、ゲストハウスに泊まったことがある。
 普通の所は200バーツほどしているのに、そこはたった70バーツだった。その日はあいにく、どのゲストハウスも満員で、仕方なく、泊まらざるを得なかったのだ。
 結論から先に言えば、そこはダニの巣のような所だった。あちこちかまれて、方々の体で逃げ出した経験がある。あれ以来僕は清潔第一にして宿を探している。例えば毎日必ず掃除はされていて、シーツは洗濯されたものかどうか、風通しはよく、ベッドのシーツは色柄模様や、色つきのものでなく、真っ白な病院のベッドのようなものかどうかなど、チエックポイントにしている。

ところがその部屋で、もしくはそのホテルで殺人事件や自殺があったかどうか、チエックを入れると言う事までは、今まで気が付かなかった。
ホテルで、人が死ぬということはたまにはあることだ。病気の場合もあるし、自殺することもある。
 日本ではよく、ラブホテルが殺人の現場になっている。痴情や物取りのあげくの犯罪である。

熱中症

2013年07月12日 | Weblog
熱中症

昨日は山梨で39度まで気温が上がつた。大変な暑さだ。

僕はインドのナーランダで42度を体感した。
まず日差しが痛い。
水を飲むとすぐ汗になって吹き出す。
木陰に入ると暑さはずっと安らぐ。 日差しには熱が含まれているのであろう。

ところで
今日も、高齢者が熱中症に掛かってなくなったいる 。いつものことだ。
救急搬送は4桁の数字に上っている。

熱中症は避けようと思えば避けることができる。だから熱中症対策を講じることが大切だ

35度の中で運動会をするような学校の行事編成には全く知恵というものが働いていない。熱中症の危険があるのに、なぜそのような時期を選んで行事をしなくてはならないのか。そこの意味がわからない。

熱中症はこちらで予防をする以外に手当ては無い。
とすれば個人も組織(学校)も知恵の出しどころでは無いのか
こんな簡単な事は考えれば誰でもわかる。


アンコールワットのデバターは

2013年07月11日 | Weblog
アンコールワットのデバターは、

背丈が1メーターくらいの女神像である。
実在の女官がモデルだったらしい。女は彫像として残った。男は彫像としては何ものこらなかった。彫刻師である職人たちはたくましく生きて、あっさり去っていった。回廊や楼門の壁などに、残されたのはおびただしい数のデバター像である。

ガイドブックにはプノンバケンと書いてあるが現地の人はプノンバカイという。ぼくにはそう聞こえた。
アンコールワットの前の道をバイタクで五分も走れば道の左側に小高い丘が現れる。
それがこの地方の3聖山の 1つ、プノンバカイなのである。
夕日がきれいだという評判で、大勢の人がこの丘に上って、遥かかなたに沈む夕日の美しさを見ようと待ち構えているのだ。
ところがこの日は、あいにく、雲がかかり美しいはずのサンセットはついに、見えず仕舞だった。丘の上は宮殿か寺院の跡らしく、石造りの遺構が残っていた。

 さあ帰ろう。僕はこれを見納めとばかりに遺構を1周して帰り道に着いた。なんと言っても今日見学した中ではアンコールワットは圧巻であった。女神であるデバターの数が多いこと。数ある中には見るデバターあり触るデバターあり祈るものありで彫刻に詳しくない僕にとっては所詮女にしか見えない。
女なら見るより触る方がいいに決まっている。何とかが顔を出し始める。
女性を見るというのであれば、ます顔である。それからボデー・ラインや色の白さなどに目を向けるだろう。ところが触るとなれば、まず男は(女でもよい)女の体のどこをさわるか。それは多分乳房が焦点になろう。なぜであろうか。乳房すべての命をはぐくむ母性の象徴だからである。

 三体のデバターの合計、六つのオッパイは黒光りしている。誰かが、先鞭を付けその後をみんなで、なぞっているのである。どこの国でも男ならやっぱり触るところは同じか。僕はそう思った。あたりをさっと見渡したが誰もいない。
これを幸いに僕もしっかり触った。

 熱帯の太陽に間接的に、てらされてほの温かい。しかし直射日光でないのでやはり石の冷たさは、残る。ところが不思議なことに彫像であるにもかかわらずこの女神の、乳房が人の肌の、ように温かく感じられる。変だなあと思っていたらデバターの顔が、誰かさんの顔と二重写しになっている。
ええっ? ぼくは驚いて、しっかり気を入れて見つめると間違いなく誰かさんの顔だ。彼女の微笑が、そのまま目の前にある。そして、僕の右手は柔らかい乳房を愛撫している。彼女はじっと、ぼくのなすがままに身をゆだねているし、息遣いが伝わってくる。乳房に、触れた手には脈拍が伝わってくる。確かに、人肌のぬくもりである。僕はしばらく目をつぶって彼女の体の感触を味わった。

 人の声がしたので、はっとして、現実世界から遠のいていた意識を取り戻して目を開けてみると、誰さんはもうそこにはいなかった。 一重の像が二重になりまた一重になった。
じっと見つめていると、誰かさんの体は飛天のようにデバターから離れていった。そしてそこに残ったのは紛れもなくアンコールワットの数あるデバターの姿だけだった。でも、触れている乳房は、生温かい。 
おお! これは、これは。
僕はやっと正気に戻った。アンコールワットのデバターは誰かさんそのものだったのである。






大韓航空機にて3

2013年07月10日 | Weblog


飛行機のこの狭い空間の中で、においを問題にしてどうなるというのだ。ここは上等の客が乗るところだ。もっと上品にしろ。がたがた言うなら下に降りて、エコノミーに行ったらどうだ。喉元まで、日本語がでかかったが、韓国語や英語では言い方が分らないので、ただ黙る他はなかった。実にはがゆいに思いをしたが、それは仕方がなかった。

 視線を感じて振り向くと、オバハンはちょっと笑みを浮かべたような顔をして、こちらを向いて英語で話しかけてきた。聞きたくもないと思ったが、英語だったら少しは話が通じるので、いやいやながら、相手をした。彼女が言うには、
「韓国からカナダに移住して、もう4、50年にもなる。5歳の時だからやっと物事が分かる・物心がつきはじめたころで、移民の私はろくすっぽ、教育を受けないで、ただがむしゃらに働いた。そのおかげで母国は非常に経済状態が悪いが、こうして何十年ぶりかで里帰りもできる。いつもはエコノミークラスで、こんな上等の席に座ったことがないうえに、自分はこのようなランクの所では、どのように振る舞えばよいのか分からないので、ふさわしい振る舞いができなくて悲しい。だからめったに、こういうところには乗らない。
 ところが、今韓国は経済的に大変だということで、それじゃこの機会に少しでもお役に立てばと思い、今日はこのクラスにした。直行便だったら早いし、安いことは分かっているが、ちょっと旅行もできる身分になったので、バンコク見物をして、韓国に帰るのだ」。と彼女は言う。
隣の席の僕には気配りができていないが、この人は異国で頑張って一旗あげて、今故郷に錦を飾ろうとしているのだ。教育も受けずに生活基盤のない異国で、生きることは生易しいことではないが、彼女はどんな苦労したのか知らないが、彼女なりの成功をおさめて、今故郷に錦を飾ろうとしているのだ。
僕は彼女の無礼も忘れて、彼女の身の上話に耳を傾けた。

 礼儀作法も知らない。教養もない。しかし生活面では成功している。おそらく欠食したこともあっただろう。しかし歯を食いしばって、努力に努力を重ねてここまでやってきたのだ。ここまでなるには、おそらく大変な思いをしたことだろう。

僕は問わず語らず足らずで、彼女が先ほどからクチにする英語の会話の流ちょうさ関心を持っていた。なるほど。
さっきから英語を聞いているが、非常になめらかで、上手だ。僕はしばし彼女が450年間の間にカナダで身につけた英語の美しい発音に聞き惚れていた。

 「あなたの靴じゃないかしら」
突然彼女は話題を変えた。僕ははっとした。先ほどから、それとなく、悪臭の源を心の中で、いろいろ探していたが、思いあたるのは、靴下と靴以外には考えられない。シャワーは、浴びたが、靴までは洗っていない。そうかもしれない。悪臭とか、臭いとか。彼女が言った臭いの発生源は僕の靴かもしれない。
そして事実。彼女が指摘したとおり、悪臭の源は僕の靴であった。
さっきのちょっとした身の上話で、心が通じ合っていたので、僕はこれが源かもしれないと率直に認めた。彼女は原因が分かったので、それ以上どうして欲しいとは言わなかった。たた僕の方は、ちょっと気恥ずかしい気持ちになった。しかし、怒りの感情はどこかへ霧散していた。会話によってお互いに多少とも、心が通いあったので、僕は再び元の気分を取り戻して上等席に、座って偉くなったような気になった。
気分はちょっとしたことで、ころころ変わる。僕は気分屋だな。そう呟いて、苦笑をしたが、僕はそれはそれで良いと思った。
なんの悪戯かしらないが、頂上の気分から一転して谷底へ、そしてまた頂上へ。人間は感情の動物だというが、実にその通りで、今回の旅で、それを思い知らされた。と同時に、これは自分の頭の中だけの揺れで、もし実際にこの飛行機がダッチロールを繰り返したら、どうなることか。僕の頭の中のように揺れていたら、地獄を見ることだろうなと恐ろしい気もした。
 ビジネスクラスの席で、僕の気分は先ほどからダッチロールを繰り返していた。それで良かったのだ。これが機体のダッチロールだったら、おそらく生きた心地はしなかったことだろう。


大韓航空機にて2

2013年07月09日 | Weblog

大韓航空機にて2

先方がよいというから、この席についたまでの話で、それ以上のことは詮索する必要は何もないのに、席に着くや否や、僕は何故こうしてビジネスクラスに、乗せてもらえるのか。その理由を考え始めた。

 エコノミークラスが、オーバーブッキングになり、溢れたエコノミー乗客を何人か選んで、この席にしたのかもしれない。その際この幸運の中に、僕がいたのかも。
韓国は今、海外渡航自粛で、ビジネスクラスの乗客は偶然にも、誰もいなかったので、スカイパス利用者に融通したのか。それとも、僕はバスの会員として、すでにマイレージで、2万マイルほどたまっている。これをベースに特別サービスをしてくれたのかもしれない。
理由はともかくも、格安キップで6時間もこんな扱いをうけるのは初めてで、非常に気分がよい。自分の無邪気さがよみがえったような気がした。
ああ良かった。たまにはこんなことがあっても良い。僕は先ほどからのくしゃくしゃした気分をすっかり忘れて、ルンルン気分になった。

 座席に座って、荷物の整理をしているときは、空席だった隣の席に、50歳ぐらいの見るからに、品のない韓国人女性が座った。彼女は席に着くなり、座席の前のフットレストの近くに置いてある僕の荷物を足でさし示し、早く楽片付けるようにと目で合図した。僕はむっとしたが、こちらの荷物が相手の感情を害しているのだからと思い、急いで窓側に移した。

 失礼な奴だ。僕はフカみたいに太った礼儀知らずのこのオバハンは一体何者か、オサトがしりたくなった。
真っ赤な口紅と同じものを足の指にぬっている。マニキュアも家庭婦人のそれではなく、その風体からして、一見しただけで、おミズ系統の女だと思った。本来ならこのビジネスクラスに似合わない無教養な人間ではないのか?。
あつかましい。およそ気配りの気の字もみせず、人の迷惑も考えずに言いたい事を言い、やりたいようにやる。それが開き直って恥も外聞も、失った、どあつかましい女だと僕の眼には映るのだ。せっかくビジネスクラスの座席に座ってルンルン気分になったのに、いやな奴がきたもんだ。僕は、不運を嘆いた。するとまた先ほどの忘れたはずの不愉快な気分がよみがえってきた。

 何を思ったのか、彼女は僕の不機嫌を無視して、急に英語がしゃべれるが、と英語で聞いてきた。
「すみませんが、」そのくらいの前置きができないのか。またいらついた。もともと僕はこの女に好感を持っていない。そこでぶっきらぼうに少しだけと言ってやった。
 
 彼女は、急に「変な匂いがしませんか。臭くないですか」という。
予想外の質問で、ちょっとびっくりしたが、僕は特別匂いも感じなかったので、「はあ?」 と意味不明の愛想のない返事をした。
それにしても、いったいこの女は、自分のことを何様とだと思っているのだ。お前中心にこの世の中が回っているんじゃないんだ。そう。少しは考えて、ものいったらどうだ。僕は心の中でそう怒った。

ところで臭いにおい?。僕はこの席に着いてから、異臭を感じたことはないし、まさか上等の席に悪臭を放つものなど置かれているはずもない。また自分としても、昨夜は宿で何回もシャワーを浴びたから、汗臭くわないはずだ。自分自らが臭いものを持って載ってるんじゃないのか?。
 
 そういえば、韓国人は、ニンニクを常食とするから、ある種の体臭を出していることがある。
僕が初めてソウルへ行ったときに、駅に着いて2階に上がった途端、名状し難いある種の、強烈なにおいに圧倒されたことがある。
体臭は日本人はないはずだ。何をいちゃもんつけているんだ。第一印象が悪いものだから、ちょっとしたことが癪のたねになる。ムキになりすぎていると思うが、それでも腹の虫は収まらない。折角ビジネスクラスに、乗せてもらって、ルンルン気分だと言うのに。これじゃ台無しじゃないか。このばばあ。
急に怒りがこみ上げてきて爆発しそうになったが、僕は言葉を飲み込んだ。
 
 しばらくするとやホステスが飲み物をサービスし始めた。オバハンはホステスをつかまえて、臭い臭いと、においのことを連発している。
ホステスも当惑した顔をしながら、あいまいな返事をしている。彼女は二人の乗客を怒らせないようにうまく質問に答えているが、腹の中では困っているのが、僕には手に取るようにわかった。
オバハンはそんなあいまいな返事で、納得するような女ではないが、前からサービスを終えたワゴンが来たので、ホステスはそのまま後へとひっこんでしまった。

つづく

大韓航空機にて2

2013年07月09日 | Weblog

大韓航空機にて2

先方がよいというから、この席についたまでの話で、それ以上のことは詮索する必要は何もないのに、席に着くや否や、僕は何故こうしてビジネスクラスに、乗せてもらえるのか。その理由を考え始めた。

 エコノミークラスが、オーバーブッキングになり、溢れたエコノミー乗客を何人か選んで、この席にしたのかもしれない。その際この幸運の中に、僕がいたのかも。
韓国は今、海外渡航自粛で、ビジネスクラスの乗客は偶然にも、誰もいなかったので、スカイパス利用者に融通したのか。それとも、僕はバスの会員として、すでにマイレージで、2万マイルほどたまっている。これをベースに特別サービスをしてくれたのかもしれない。
理由はともかくも、格安キップで6時間もこんな扱いをうけるのは初めてで、非常に気分がよい。自分の無邪気さがよみがえったような気がした。
ああ良かった。たまにはこんなことがあっても良い。僕は先ほどからのくしゃくしゃした気分をすっかり忘れて、ルンルン気分になった。

 座席に座って、荷物の整理をしているときは、空席だった隣の席に、50歳ぐらいの見るからに、品のない韓国人女性が座った。彼女は席に着くなり、座席の前のフットレストの近くに置いてある僕の荷物を足でさし示し、早く楽片付けるようにと目で合図した。僕はむっとしたが、こちらの荷物が相手の感情を害しているのだからと思い、急いで窓側に移した。

 失礼な奴だ。僕はフカみたいに太った礼儀知らずのこのオバハンは一体何者か、オサトがしりたくなった。
真っ赤な口紅と同じものを足の指にぬっている。マニキュアも家庭婦人のそれではなく、その風体からして、一見しただけで、おミズ系統の女だと思った。本来ならこのビジネスクラスに似合わない無教養な人間ではないのか?。
あつかましい。およそ気配りの気の字もみせず、人の迷惑も考えずに言いたい事を言い、やりたいようにやる。それが開き直って恥も外聞も、失った、どあつかましい女だと僕の眼には映るのだ。せっかくビジネスクラスの座席に座ってルンルン気分になったのに、いやな奴がきたもんだ。僕は、不運を嘆いた。するとまた先ほどの忘れたはずの不愉快な気分がよみがえってきた。

 何を思ったのか、彼女は僕の不機嫌を無視して、急に英語がしゃべれるが、と英語で聞いてきた。
「すみませんが、」そのくらいの前置きができないのか。またいらついた。もともと僕はこの女に好感を持っていない。そこでぶっきらぼうに少しだけと言ってやった。
 
 彼女は、急に「変な匂いがしませんか。臭くないですか」という。
予想外の質問で、ちょっとびっくりしたが、僕は特別匂いも感じなかったので、「はあ?」 と意味不明の愛想のない返事をした。
それにしても、いったいこの女は、自分のことを何様とだと思っているのだ。お前中心にこの世の中が回っているんじゃないんだ。そう。少しは考えて、ものいったらどうだ。僕は心の中でそう怒った。

ところで臭いにおい?。僕はこの席に着いてから、異臭を感じたことはないし、まさか上等の席に悪臭を放つものなど置かれているはずもない。また自分としても、昨夜は宿で何回もシャワーを浴びたから、汗臭くわないはずだ。自分自らが臭いものを持って載ってるんじゃないのか?。
 
 そういえば、韓国人は、ニンニクを常食とするから、ある種の体臭を出していることがある。
僕が初めてソウルへ行ったときに、駅に着いて2階に上がった途端、名状し難いある種の、強烈なにおいに圧倒されたことがある。
体臭は日本人はないはずだ。何をいちゃもんつけているんだ。第一印象が悪いものだから、ちょっとしたことが癪のたねになる。ムキになりすぎていると思うが、それでも腹の虫は収まらない。折角ビジネスクラスに、乗せてもらって、ルンルン気分だと言うのに。これじゃ台無しじゃないか。このばばあ。
急に怒りがこみ上げてきて爆発しそうになったが、僕は言葉を飲み込んだ。
 
 しばらくするとやホステスが飲み物をサービスし始めた。オバハンはホステスをつかまえて、臭い臭いと、においのことを連発している。
ホステスも当惑した顔をしながら、あいまいな返事をしている。彼女は二人の乗客を怒らせないようにうまく質問に答えているが、腹の中では困っているのが、僕には手に取るようにわかった。
オバハンはそんなあいまいな返事で、納得するような女ではないが、前からサービスを終えたワゴンが来たので、ホステスはそのまま後へとひっこんでしまった。

つづく

大韓航空機にて1

2013年07月08日 | Weblog
 大韓航空機にて1

韓国という国が好きなわけではないのだが、僕は大韓航空機は好きである。もちろん、メンバーになっている。
チェックインしたのは11時半過ぎ。さっそく例のスカイパスを見て、うち込まれたマイル数を確認した。

 やれやれ、これで帰れる。明日の朝はソウルだ。窮屈な座席で6時間近く辛抱しなくてはならない旅。だが、これは格安チケットだから、辛抱しなくてはならない。当然のことだ。

安堵感も手伝って、疲労が押し寄せてきた。しかし、今から自分の座席に着くまでが、ひと仕事である。いつものことだが、今日も自分の席に着くまでは、安心できない。僕は頭の中でそんなことを考えていた。

 日本人に比べると、どうも、韓国人は乗り降りのマナーが悪いようだ。いよいよ飛行機に乗るという段になると、並んでいても平気で、列に割り込むし、後がつかえていても、立ち止まって通せんぼ状態を作る。
後ろの人は、イライラしながら彼が前に進むのを待っているが、それでも平気である。
これがなければ、大韓航空はもっと快適なんだがなぁ。安いから仕方がないが。僕は我慢がまんと自分に言い聞かせた。

座席に向かって、乗客が我れ先にと殺到しだすと、僕も負けずに、行儀もエチケットもあるもんかとばかりに、強引にヒトをかきわけて座席番号の方へ進んだ。
いつものように、チケットの半ぴらに書かれた座席表を見て、ホステスが指示した方へ重い荷物を持って、人をかきわけながら進んだ。

探していた番号をやっと見つけて、やれやれと思ったのも束の間、アルファベットの記号が違う。 あれ、??違うじゃんか。
 入り口では確かに、23番と案内された。が、来てみれば記号が違う。
中に入ってくる人の列に逆らって、僕はその場に立ち止まってしまった。案内をしているスチュワーデスに、座席表を示しながら、イライラして、座席が違うじゃないかと声を荒げだ。そしたら、
「それは2階です。入り口の方に戻って2階に、おあがりください」という。
何? 人を押しのけてまで、ここまでやってきたのに。逆方向すなわち人の流れに逆らって、入り口に行きなさいだと。何たることだ。
僕ははいってくる乗客にぶっつかって、露骨に嫌な顔をされながら、入口へと人をかきわけて進んだ。

 おかしい。確かに2階はビジネスクラスで、エコノミーではないはずだと思ったが、今まで2階などに、上ったことがないので、ひょっとしたら2階にも、エコノミー席があるのかもしれないと思い、2階に上ったものの、エコノミークラスの座席は見当たらなかった。
やっぱり思ったとおりだった。やれやれ、また間違ったか。何度間違って案内すれば気がすむんだ。
僕は乗務員だったら誰でも良い。捕まえて、声をあげてしっかり案内せいと怒りたくなった。重い荷物を持ったまま。また下に送りなければならないと思っただけでもいやになる。

 幅がゆったりした座席には、フットレストも付いている。座席の広さも、エコノミークラスのそれに比べて1倍半は、ゆうにある。体を伸ばすと、床屋の椅子のように、楽な姿勢で寝る体勢だってとれる。数えてみると、30数座席。
 ダメもとで、僕は近くにいた、らスチュワーデスを捕まえて、僕の座席はどこかと、とぼけてきいた。
「1番後ろの窓側です。どうぞお掛けください」と彼女は案内した。
「いや、違います。僕の席はエコノミーですよ。」
僕は内心、お前さんまた嘘をつくのか、と反発した。
「本日はこの座席で結構です。お掛けください」。
「本当ですか。重ねていうが、僕の席はエコノミーで、この座席ではないはずです」が、
「いいえ、今日は特別サービスなんです。遠慮なくお座りください」。
一体これはどういう風の吹き回しだ。僕は信じられない。そう思ったが、黙ってしまった。だが、いわれたままに指定の座席に腰をおろした。

 一生に一度くらいは、ビジネスクラスやファーストクラスに乗ってみたいと思っていたが、僕の予定では、いよいよこれで海外旅行もおしまいだという、最後の日にでも、乗ってみるつもりでいた。ところが、思いがけなくも、今日、今着席して味わうことができることになったのだ。

 このことで、僕の心の中はがらりと変わった。気分が良くなったのである。イライラと、とげとげしい気持ちは、霧散した。
あははー、なんと単純な奴なんだ。この俺れは。
僕は自分の軽さに苦笑した。
つづく

84才

2013年07月07日 | Weblog
84才

「大学病院に行くバスはこれにのればいいのですか。
いつもはタクシーを使うのでバスで行くのは久しぶりで、どれがいいのかよく判りません 。やれやれです。
終点の一つ手前で降りて、一五分ほど歩くのですよ。あるかないとあしが弱るし、歩けばしんどいし、どっちもどっちですわ。
私84才で未亡人ですねん。一人暮らしです。六〇坪の家で。
売ろうと思っても売れません。買うときには十倍の倍率だったのに。」

「オクサン。とても84才には見えませんよ。モットお若いと思っていました。頭もしっかりしてはるし」

「これにはコツがありますね。誰もばあさんというてくれないから、ばあさんにならんのですわ。息子が二人いて東京と大阪に住んでいるが、今50代で働き盛り、私の家には年一回来ればいい方です。子供が来ないから孫も来ない。だから誰もばあさんとは言わない。このように話し相手もいないし、今日こうして話をするのは初めてですよ。ご近所と言っても百坪ののお屋敷ばかりで 声を掛け合うようなご近所さんもいません。賢い人はこの屋敷を売って便利の良いマンションを買ってはります。うちもそうしようと思うけど家の買い手が見つかりません。難儀してますよ。

「オクサン草取りが大変でしょう」

「年になると身体に応えるから草抜きはしません。だから生え放題です。子育ての自分はこの家が誇りだったけど、今は重荷になってます。
このまえ病院に行ったら、こんな程度では来るなとといわれましてね。今日は町へ出てきたら、バスの乗り場も判らない始末。長生きはしたいけどこれではねえ」

僕は早くバスが目的地に到着しないかなばかり思っている。
バスに同乗したという縁によって、長々と聞きもしない話をされて少々嫌気がして来た。

考えてると人ごとではない。吾もいつかこのように生きている事をかこつ時代がやって来る。年代順に行けば家内が残るようになるが、こういうパターンだろうなと思いながら、毒にも薬にもならん受け答えをしていた。

機上で乾杯4 

2013年07月06日 | Weblog
機上で乾杯4 
 
翌朝7時過ぎに彼女は若い男の子をつれて空港にやってきた。やれやれこれで二人とも帰れる。顔を見て安心、ほっとした。送ってきた大学生によれば、今日は早朝からタクシーがストをやっているとのことだ。それならどうしてここまで来れたのかと聞いたら、スト破りのタクシを雇ってここまで来たという話。ストをしていると本来はここまで来れないはず。だのに彼女はいま僕の目の前にいる。僕はつくづく感心した。途中で何もなかったのかと付き添い学生に聞いたら、やばいことがあったという。僕は一瞬青ざめた。もしあの学生が付き添ってくれていなかったら果たして初めての海外経験で、スト破りを決行出来たかどうか。
ほほー!!!。感心する前に驚きの感嘆詞がでた。またもや彼女は守られている。これは単なる偶然やラッキーが重なったとは思えない。
思い返せば派遣官員との出会いがあり、僕との出会いでエスコートを手に入れ、
さらに付き添いの大学生を見つけて、彼に付き添ってここまで送ってもらい、極めつけはスト破りタクシーを雇ってチエックインタイムにちゃんと間にあっているではないか。

 チケットだってないと断られても不思議ではないし、旅慣れた僕がいることによって、初めての人にとっては、ややこしいインドの出国手続きや、タイでの入国手続きがどれほどスムーズになる。更に早朝大学生に付き添ってもらいストやぶりタクシーで、タクシーのストライキを突破しているのである。恐らく神の助けが働いてすべてが上手く事が進んだのだろう。僕はこの世に神様はいると思った。
 
 飛行機は定刻通りに離陸した。インドはぐんぐん遠くなっていく。1時間ほどしたら軽食が出た。僕たちは顔を見合わせてコーラで乾杯をした。それは何よりも、昨日から今日へ掛けての彼女のラッキーにたいしてだった。僕は心からこのことを祝福した。

 しかしそれだけではない。今回僕も無傷だった。前回のような目には一度も会わなかった。前回よりも一週間も長い日にちであったが、いたって健康で風邪はもちろんの事、下痢の一つもしなかった。勿論恐怖を感じたことは一度もない。
途中気をつけていなければやられたであろう事は何回かあったが、それもうまくすりぬけたし、だまされはしなかった。確かに神経はぴりぴりさせていてつかれたが、それが原因でどうかなった訳でもない。これも乾杯ものである


最後に今日は僕の満60歳の誕生日だったのである。僕の乾杯にはこんな意味が込められていた。我々は顔を見合わせてにっこりほほえんだが、それは心の底からくる安堵と、祝福のほほ笑みだった。
いまになって考えてみると彼女の身に起こったことは事は、僕に人生の何かを見せてくれてるようだった。早い話が彼女との出会いがなかったら僕がこんな文章を書くこともなかったろうに。
 こんな人生芝居を見せてくれるのは一体誰だろうか。
僕はこの宇宙の中に壮大な演出者がいて、我々は自立的に動いているようだが、その実、この演出家の指図に従っているのかもしれない。そんなことを感じたインドの旅ではあった。

終わり

機上で乾杯3

2013年07月05日 | Weblog
機上で乾杯3


               3
彼女はとみれば、あいかわらずのほほーんと構えている。僕はあきれる前にこんな性格に生まれついた彼女が羨ましかった。恐らく枕が変わって寝付かれないと言うことはないだろう。僕なんかこのインドの旅では常に緊張しているので、神経がたって寝付きの悪いことが多く、毎晩睡眠導入剤を用いているというのに。
人さまざまだ。

 僕が空港のオフイスでチケットを手配するように言った事が効を奏して新米派遣君は、上手く買えた、とにこにこしながら連絡してくれた。僕は彼女を促してすぐ代金を払い、チケットを手にするようにいった。オフイスにいった彼とにこやかな顔をしながらロビーに戻ってきた彼女に、これで帰れるのだから、明日は時間に遅れないように、と注意して、この幸運を喜んだ。

 チケットを見るとそれは僕と同じ飛行機じゃないか、よかった。これで間違いなく日本にも帰れる。僕はほっとした。なんと運のいい子だ。仲間は先に帰り、たった一人で見知らぬ外国で1日遅れて帰ることに、内心は不安いっぱいだろうと僕は推測したが、彼女は表面は相変わらず,のほほーんとしていた。
 
 考えてみればチケットを手配してとってくれた人がいた。明日乗る飛行機にはエスコートしてくれるおじさんもいる。これで万全の筈だ。もし乗れないと言う事態になったら、この子の面倒はもう誰も見きれない。とにかくついている子だ。僕はそのラッキーさに感心した。

 ともかくもハッピーなかたちで事態は進んでいるが、考えてみれば、ここダムダム空港では前回僕はひどい目に遭っていたのである。両替では金をだまし取られ、タクシーでは約束と違った所でつれていかれ、わずか30分ほどの間に2回も胃が真っ赤になるような苦汁を飲まされた所なのだ。僕の感覚からすれば、今回のように助っ人がいないで彼女一人で、あの態度で事を進めていたら、たちまちにしてここにいる悪党の餌食にされてしまう。男の僕でさえかなり恐ろしい思いをしたのだから、旅慣れない女一人ではどんな罠が仕掛けられるかしれたものではない。僕にいわせれば虎の檻にほりこまれた子羊みたいなものである。危険きわまりない。
しかし彼女にはそのことが判っていない。僕があなたはラッキーだと言ってもラッキーの表面的な意味しか判らない。恐らく僕が経験したような深刻な事態は想像だにしないだろうから、きっと理解出来ないに違いない。僕自身はあつものに懲りてなますを吹くきらいがないでもないが、そう思った。

 僕はチケットが手に入った段階で、今晩はここで一緒に泊まろうと誘いたかった。僕だって明日の便には絶対に乗らないとチケットが無駄になるので20時間も前にここで待機しているのである。
 その理由はインドでは何が起こるかしれたものではない、また何が起こっても不思議ではないというインド観であった。早目はやめに手を打っておかないとこちらの計画通りには事が運ばないと思っていた。

 僕はそうらいいとしても、恐らく彼女は耐えられないだろうと思ったからである。でも一応泊まるかどうか声は掛けてみた。彼女は派遣館員の車で街迄行き一晩て車に乗せた。
僕は夜明かし覚悟だがそのことが気になって、1時間おきに目が覚めた。遅れませんように。それは祈りにも似た気持ちだ泊まって明日になったらここへ来るという。僕は5時起きしてすぐタクシーに乗ってここに来るように、決して寝過ごしてはいけない、と何回も釘をいう自分の心つもりを詳しく話さなかった。というのは一口で20時間と言うがどれほどそれは気の遠くなるような退屈な時間であるか。よしんば彼女とここで夜明かしをするにしても話すことはない。2、3時間も話せば話はつきるしその後は黙るしかない退屈が待っている。

つづく

機上で乾杯2

2013年07月04日 | Weblog
機上で乾杯2



僕は気が気でないのでよけいな事ながら、彼女たちに今までの経緯を聞かせて欲しい、そして僕に出来ることがあったら何か役に立ちたいと申し出た。そうしたら先ほどから一番落ち着いて、ばたばたしなかった子がよろしくお願いしますと言った。どの人がなくした人なのか、と聞いたら、「自分です」という。それでは先ほどから走り回っていた子たちはチケットをなくしたこの子のためにばたばたしていたわけだ。僕は驚いて彼女の顔を見た。

ひとこと小言を言いたかったけれど、ここで何を言うよりもまず真っ先にしなくてはならないことがあると思いなをして、言葉を飲み込んだ。即ち今日、明日中に乗れるチケットを手に入れることだ。僕はそのことを彼女に言った。そしてすぐ手配するようにアドバイスしたが、なにせ初めての海外旅行での出来事で、知恵が回らないだけでなく、どうしたらよいかさっぱり判らない風情である。当然だろう。これが僕だったら、やはり同じようにたちすくんだだろう。

ところが人にはツキと言うものがある。ちょうどこのとき領事館関係者が空港に来ていた。初めての面識で直接は知らないのに、この人が親切にも彼女の相談に乗ってくれた。彼は彼女が乗るはずだった飛行機にマラリヤ患者を乗せるべく、その仕事で空港に来ていたのだ。

 その患者と言えば、僕は今朝がたサダルの街で同席した人だった。灰色の顔をした女がひょっこり僕の前に現れた。僕はセキを詰めて、「狭いけれども良かったら、座りませんか」と彼女に声を掛けたのだった。彼女は何を思ったのか急に、
「私マラリヤにやられたの」と言いながら僕の横に腰を掛けた。
マラリヤがどんな病気か詳しく知らないが、伝染病の1つだと思い、僕は警戒して入れ替わるようにして席を立ったのだ。

 その女を所定の飛行機に乗せてから彼は仕事から解放され、真剣にこちらの相談にも乗ってくれるようになった。所で彼の話では、カルカッタは初めての赴任で地理はもちろんの事、街の様子がまだよくわからないという。それでも分からないなりに彼が協力姿勢を示してくれたことは、心の中では大きな支えになった。何をどうして良いか判らない彼女にかわって、とにかく明日の飛行機に乗れるようにチケットをとって欲しいと彼に頼んだが、彼が言うにはチケットは空港ではなくて、街に行かないと手に入れられないのではないかと言うことである。今日今から街へ直行しても4時になるのに明日8時のチエックインのチケットが手に入るとも思えない。
僕は無駄かもしれないが、航空会社のカウンターで何とか手にはいるよう頼んでみては?。もしそれが駄目なら街の旅行代理店に行くが、せめて明日の便の予約だけでもしておかないと、乗れなくなるおそれがある、と彼に言った。
彼も同感で、すぐ何らかの手配をしてみると言うことだった。
 
 さて僕はと言えば余程自分が動き回った方が納得できたし、安心もできた。しかし全く善意で困っている彼女を助けようと懸命になっている彼を差し置いて、手だしすることは、はばかられた。
それにしても、彼女はついている。ラッキーガールだ。確かに日本人が困っているのを座して見るに忍びない。だが、そうかといって、彼女と縁もゆかりもない人が、彼女のために何かをしなくてはならないと言う理由もない。冷たいようだが僕はそうも思った。、今のところ自分のことは何も心配ないような状態でいるからこそ彼女のことも心配してあげられる。つまり余裕があるのだ。それにしても海外の空港で、もし今回と同じようなケースが起こったら果たして、領事館に派遣されている彼のような人に巡り会うことが出来るだろうか。いやこんな事は滅多にないことだ。何処から考えてもやっぱり彼女はラッキーなんだ。きっとご先祖さんが善行を積んでその報いがいまこんな形で子孫に返ってきているのだろう。
僕はこんな事まで考えた。